加が、一八五〇年から一八五六年までにほとんど三倍となって、年々八六に る。 ( 本巻三一二頁の注一 0 九を見よ ) 。また撚糸紡錘は、もはや ( 一八 達した。 三九年、一八五〇年および一八五六年の「報告」におけるように ) 本来の紡 つぎの一覧表では、これらの各時代における総増加の分析が与えられる・ 錘と混同されてはいない。さらに、羊毛工場については「起毛機」の数が追 一八三八年から一八五 一八五〇年から一八五 加され、一方では黄麻工場および大麻工場と、他方でほ亜麻工場との間に区 〇年までの総増加 ( % ) 六年までの総増加 ( % ) 別が設けられ、最後に、初めて靴下製造業が報告にのせられている。 木綿工場・ : 六木綿工場・ : 一七 0 「一八五六年一〇月三一日の工場検査官報告」、一一頁。 羊毛工場 : ・ : 一三羊毛工場 : ・ ・ 0 ・五 菱同上、一四、一五頁。 ・ : 二〇梳毛工場 : ・ 梳毛工場・ : 四・〇 宅ニ同上、二〇頁。 亜麻工場・ : 六・ 0 「一八五八年一〇月三一日の・ : : ・報告」、九、一〇頁。「一八六〇年四月 絹工場 : ・ 六六・ 0 」 三〇日の : : : 報告」、三〇ー三二頁、参照。 ( 「ニューヨーク・ディリー・トリビューン」、一八五七年四月二八日付、六頁。 ) ーーー編集者。 労働力の搾取が強化されるにつれて、工場主たちの致富が 一八四八ー一八五六年の八年間には、一〇時間労働日の支 いかに増進したかは、すでに次ぎの事情が証明する。イギリ スの木綿工場その他の工場の平均増加率は一八三八年から一配下で、イギリスの工業の進展が偉大なものであ「たが、そ の進展も、一八五六年から一八六一一年にいたる次ぎの六年間 八五〇年までは三一一 % であったが、一八五〇年から一八五六 には、ふたたび遙かに凌駕された。たとえば絹工場では、紡 年までは八六 % となったということ、これである。 錘は、一八五六年には一〇九万三七九九本であったが、一八 * ここには間違いがある。三二および八六という数は、増加率ではなく、 六一一年には一三八万八五四四本となり、織機は、一八五六年 各年度中に新たにできた工場の絶対数である。マルクスはこの記述を「一八 五六年一〇月三一日の工場検査官報告』 ( 一二頁 ) から借用したのであって、 には九一一六〇台であったが、一八六一一年には一万七〇九台と それを「ニュ 1 ヨーク・ディリー・トリビューン」における一八五七年四月 なった。これに反して労働者数は、一八五六年には五万六一 一 0 日付の論文「イギリスの工場制度』に引用していう、 三一人であったが、一八六一一年には五万一一四一一九人となった。 「つぎに掲けるのは、最近の三報告書の資料による工場数である。 つまり、紡錘は一一六・九 % 、織機も一五・六 % 増加したが、 一八三八年 一八五〇年一八五六年 一、八一九一、九 = 三 二、二一〇それと同時に労働者の総数は七 % だけ減少した。梳毛糸工場 一、四九七 一、五〇五 、三一三 で使用された紡錘は、一八五〇年には八七万五八三〇本であ 五 0 一 五二五 四一六 ったが、一八五六年には一三二万四五四九本 ( 五一・二 % の 四一七 三九三 三九二 二七七 四六〇増加 ) となり、一八六二年には一二八万九一七二本 ( 二・七 % の減少 ) となった。だが、撚糸紡錘ーーーこれは、一八五六 四、二一七 四、六〇〇五、一一七 かくして、一八三八年から一八五〇年までは毎年三一一だ 0 た工場の平均増年には算入されているが、一八六一一年には計算にはいってい 木綿工場・ : 羊毛工場・ : 梳毛工場・ : 亜麻工場・ : 絹工場・ :
なわち人間的労働は、価値を形成するが、しかし価値ではな衣はこの側面からのみ、つまり体化された価値・価値体・と 。それは、凝固した状態において、対象的形態において、 〕上衣の現 してのみ、意義をもつ。ボタンをかけた〔 3 価値となる。亜麻布価値を人間的労働の凝結として表現する象にもかかわらず、亜麻布は、上衣のうちに血縁的なうるわ からだまし、 ためには、それは、亜麻布そのものとは物的に異なる・亜麻しい価値魂を認識した。しかし、上衣が亜麻布にあいたいし 布と他の商品とに共通な・一つの「対象性」として表現されて価値を表示する一・」とは、亜麻布にとって同時に価値が上衣 この課題はすでに解決されている。 ねばならない。 の形態をとることなしには不可能である。たとえば、個人 << 亜麻布との価値関係においては、上衣は、それが価値であ が陛下としての個人と関係することは、個人にとって、 るがゆえに、亜麻布と質的に同等なものとして、同じ本性を陛下という資格が同時に個人の肉体的姿態をとるーーした もつ物として、意義をもつ。だから上衣は、ここでは、それがってまた、容貌・毛髪・そのほかなお幾多のものを国王の かわる度ごとに取りかえることなしには、不可能である 9 において価値が現象するところの物として、あるいは、手に つかみうるそれの自然的形態において価値が表示されるとこ かくして、上衣が亜麻布の等価をなすような価値関係にお ろの物として、意義をもつ。さて、もちろん上衣は、上衣商 いては、上衣形態は価値形態として意義をもつ。だから、亜 品の体に、単なる使用価値である。一枚の上衣は、亜麻布の麻布という商品の価値は上衣という商品の体で表現される。 すなわち一商品の価値は他の商品の使用価値で表現される・ 任意のひときれとちょうど同じように、価値を表現しない。 このことは、一枚の上衣は亜麻布にたいする価値関係の内部亜麻布は、使用価値としては上衣と感性的に異なる物である が、価値としては「上衣と同等なもの」であり、したがって ではその外部でよりも多くの意味をもつ、ということを証明 上衣のように見える。かくして亜麻布は、それの自然的形態 するだけであって、それはあたかも、幾多の人間は、金モー ルの上衣を着ているときは、それを脱いだときよりも多くのとは異なる価値形態を受けとる。亜麻布の価値存在が亜麻布 の上衣との同等性において現象することは、あたかも、キリ 品意味をもつのと同じである。 上衣の生産においては、事実上、裁縫業の形態で、人間的スト教徒の羊的本性が、彼の、神の小羊〔との同等性に 商労働力が支出されたのだ。かくして、人間的労働が上衣のうおいて現象するのと同様である。 章ちに堆積されている。この側面からみれば、上衣は「価値の ひとは見る、ーー商品価値の分析がさきにわれわれに語っ ただし、上衣のこうした属性そのもの 第担い手」である、 たいっさいのことは、亜麻布が他の商品たる上衣と交りをむ は、上衣がどんなにすりきれても、その糸目からすいて見えすぶや否や、亜麻布それ自身がこれを語る、ということを 9 るわけではない。そして亜麻布との価値関係においては、上ただ亜麻布は、それのみが精通する言葉たる商品語でそれの
思想をもらす、というだけのことである。人間的労働というを、それじしんの価値表現の材料たらしめる。商品の価値 抽象的属性における労働が、それ自身の価値を形成するとい かように商品の使用価値で表現されることによって、 うことを語るために、亜麻布はいう、 上衣は、それが亜相対的価値の形態をとる。 麻布と同等な意義をもっかぎり、つまり価値であるかぎり、 一 ^ ある意味では、人間も商品と同じことである。人間は、鏡をもって生れ 亜麻布が成りたつのと同じ労働から成りたっている、と。亜 てくるのでもなく、また、吾は吾なりというフイヒテ的哲学者として生れて 麻布の崇高な価値対象性はゴッゴッした亜麻布のからだとは くるのでもないから、人間はまず、ほかの人間という鏡に自分を映してみる・ 人間たるべ 1 テルは、自分と同等なものとしての人間たるパウルに連関する 異なるものだということを語るために、亜麻布はいう、 ことによって、はじめて、人間としての自分じしんに連関する。だが、それ 価値は上衣のように見え、したがって亜麻布そのものは、価 によって、べーテルにとっては、パウル全体がまた、その。ハウル然たる肉体 のままで、人間種族の現象形態として意義をもつ。 値物としては上衣と同等なこと瓜ふたつである、と。ついで に述べておくが、商品語も、〈プライ語〔語という連想 (=) 相対的価値形態の量的規定性 他になお多数の、多かれ少なかれ正確な地方語をもっている。 それの価値が表現されるべき商品は、 : しすれも、与えられ たとえば、ドイツ語の„Wertsein" よりも、むしろ、ロマン た分量の使用対象ーー一五シェッフェルの小麦・一〇〇封度 語の動詞 valere, valer, valoir の方が、商品の商品との のコーヒーなどーーである。この与えられた分量の商品は、 等置が商品それ自身の価値表現であることを、適切に表現一定分量の人間的労働を含んでいる。だから価値形態は、価 する。 paris vaut bien une messe! ( パリはまことに彌撒に値一般ばかりでなく、量的に規定された価値、または価値の 大いさを、表現しなければならない。だから、商品にたい 値する ! ) * その例として、最後のフランス語の一句をあげたのである。この句は、 する商品の・上衣にたいする亜麻布の・価値関係において フランス王アンリ四世が新教から旧教に改宗することによってフランスの王 は、上衣という商品種類が価値体一般として、亜麻布にたい 位につき、パリに乗込んだときの言葉であって、・ハリ ( フランス王位につく し質的に等置されるばかりでなく、一定分量の亜麻布たとえ こと ) は、ミサ ( 旧教に改宗すること ) に値する、という意味である。しか し、そうした意味は本文と無関係であって、この一句は、本文にあげられた ば二〇エルレの亜麻布にたいし、一定分量の価値体または等 valoir ( 値する ) という動詞の用例にすぎない。 価物、たとえば一枚の上衣が等置されるのである。 かくして、価値関係に媒介されて、商品の自然的形態が 「 20H キ「 D 冒勢哥Ⅱ 1 洋トすなわち、一一〇エルレの 商品の価値形態となる。あるいは、商品の体が商品の亜麻布は一枚の上衣に値する」という方程式は、一枚の上衣 ( 一八 ) 価値鏡となる。商品は、価値体としての・人間的労働の物のうちに二〇エルレの亜麻布におけるとちょうど同じだけの 質化としての・商品に連関することによって、使用価値 pa 価値実体が含まれているということ、つまり、双方の商品分 ンド
量が同等量の労働または同等な大いさの労働時間を要費する : 、たとえば、羊毛刈取りの不首尾のために二倍になるなら ということを、前提とする。ところが、一一〇〒ルレの亜麻布ば、 20H ~ て 0 目勢哥Ⅱ 1 鳶 0 トのかわりに、いまや、 または一枚の上衣の生産に必要な労働時間は、織物業または 20F て 0 冒勢Ⅱド 0 トとなる。これに反し、上衣 裁縫業の生産力におけるあらゆる変動につれて変動する。その価値が一一分の一に減少すれば、 20H ~ て 0 目勢哥ⅱ 2 鳶 D こで、こうした変動が価値の大いさの相対的表現におよぼすトとなる。かくして、商品の価値が同等不変なばあい 影響が、もっと詳しく研究されねばならない。 には、商品の相対的な・商品で表現された・価値は、 の価値変動に反比例して減少または増加する。 、亜麻布の価値は変動するが、上衣価値は不変であるば —およびⅡにおけるさまざまなばあいを比較してみると、 あい。亜麻布の生産に必要な労働時間が、たとえば亜麻栽培 まうじようど 地の饒度が減少したために二倍になるならば、亜麻布の価相対的価値の大いさの同じ変動が、まったく反対の原因から 値は二倍となる。 20F て冒哥 =1 洋 0 トのかわり生じうることがわかる。たとえば、 20H キ「 0 目勢哥日 1 鳶 のトからして、 (l) 、亜麻布の価値が一一倍になっても、 に、 20H ~ 「 0 目勢Ⅱ 2 鳶 0 トとなるであろう。とい うわけは、一枚の上衣は、いまや、一一〇エルレの亜麻布の一一上衣の価値が二分の一に減少しても、 20H て 0 冒勢哥Ⅱ 2 分の一だけの労働時間しか含まないからである。これに反し洋 D トという方程式が生じ、また (ll) 、亜麻布の価値 て、亜麻布の生産に必要な労働時間が、たとえば織機が改良が二分の一に低下しても、上衣の価値が一一倍に増加しても、 されたために一一分の一に減少するならば、亜麻布価値は一一分 20F 、「て 0 冒勢哥Ⅱド鳶 0 ト洋という方程式が生ずる。 の一に低下する。したがって今や、 20H キて 0 昌勢Ⅱド洋 Ⅲ、亜麻布および上衣の生産に必要な労働の分量が、同時 0 トとなる。かくして、商品の相対的価値、すなわちに同じ方向および同じ比率で変動するばあい。このばあいに 商品で表現された商品の価値は、商品の価値が同等不は、それらの物の価値がいかに変動しても、従来どおり、 20 品変なばあいには、商品 << の価値に正比例して増加または減少 て 0 昌勢Ⅱ 1 洋 0 トである。それらの物の価値変 動は、それらの物を、価値が不変であった第三の商品と比較 してみれば、ただちに発見される 9 すべての商品の価値が同 一九「価値ーという表現は、ここでは、しばしばすでに以前にところどころ 章 でそうであったように、量的に規定された価値の意味で、すなわち価値の大時に同じ比率で増加または減少するならば、それらの商品の いさの意味で、用いられる。 第 相対的価値は不変であろう。それらの商品の現実的価値変動 は、同じ労働時間内にいまや一般的に以前にくらべて多量ま Ⅱ、亜麻布の価値は不変であるが、上衣価値が変動するば たは少量の商品がもたらされる、ということによってわかる あい。こうした事情のもとで、上衣の生産に必要な労働時間
ている。商品は、その所有者にとっては、出発点では非使用とが相互に相手から買うこともありうるが、こうした特殊な 価値であり、終点では使用価値である。ところで貨幣は、ま連関は、けっして、商品流通の一般的諸関係によって条件づ す、それに商品がみずからを転形する確固たる価値結品としけられてはいない。つまり商品流通にあっては、一方では、 て現象し、それから後に、商品のたんなる等価形態として消商品交換が直接的な生産物交換の個人的および場所的な限界 失する。 をうち破って、人間的労働の質料変換を発展させる。他方で 一つの商品の循環をなす二つの姿態変換は、同時に、他の は、登場人物たちによっては制御されえない・社会的な・自 一一つの商品の逆の部分的姿態変換をなす。同じ商品 ( 亜麻布 ) 然的諸関連の全範囲が発展する。織物業者が亜麻布を売るこ が、それじしんの姿態変換の系列を開始し、そして他の一商とができるのは、農民が小麦をすでに売っているからに他な 品 ( 小麦 ) の総体的姿態変換を完結させる。その商品は、そらず、火酒愛好者がイブルを売ることができるのは、織物 の第一の転形たる販売中に、身ひとつでこの二役を演する。 業者が亜麻布をすでに売っているからに他ならす、酒造業者 これに反し、その商品は、それが宿命的にみすからを転形し があつい水〔火酒〕を売ることができるのは、ほかの人が永遠 さなぎ てゆく金の蛹としては、同時に、ある第一二の商品の第一の姿の命の水〔バイプル〕をすでに売っているからに他ならない、 態変換を終結させる。かくして、それぞれの商品の姿態変換という次第である。 系列がえがく循環は、他の諸商品の諸循環と、解けないよう それゆえに、流通過程はまた、直接的な生産物交換のよう に絡みあっている。その総過程は商品流通として現われる。 に、諸使用価値の位置または持手の変換によって終りとなる 商品流通は、形式的にばかりでなく、本質的にも、直接的ものではない。貨幣は、それが一つの商品の姿態変換系列か な生産物交換から区別されている。ちょっと経過を回顧してら最後的に離脱するがゆえには、消失しない。貨幣は、つね みよ。亜麻織物業者は亜麻布をバイブルと、自分の商品を他に、商品によって空にされた流通上の位置におちつく。たと 人の商品と、無条件的に交換した。だが、この現象は彼にと えば、亜麻布の総体的姿態変換たる、亜麻布ー貨幣ハイプ って真実であるにすぎない。涼しいものより熱いものを好むルにおいては、ます、亜麻布が流通から離脱して貨幣が亜 ・ハイプル販売者は、・ハイブルと交換して亜麻布を得ようとは / イブルが流通から離脱して貨 麻布の位置につき、つぎに、く 考えなかったのであって、そのことは、亜麻織物業者が、小 幣が・ハイフルの位置につく。商品によっての商品の填補は、 麦が彼の亜麻布と交換され等々したことを知らないのと同じ同時に、第三者の手に貨幣商品を附着させる。流通はたえす である。の商品がの商品にとってかわるが、ととが貨幣を発汗する。 彼らの商品を相互に交換するのではない。なるほど、と 七 = 第二版への注。この現象は手にとるように明白であるが、それにもかか
であろう。 Ⅳ、亜麻布および上衣の生産のためにそれぞれ必要な労働 時間が、したがってこれらの物の価値が、同時に、同じ方向 にではあるが等しくない程度で、または反対の方向・等々で、 変動するばあい。あらゆる可能なこうした組合せが一商品の 相対的価値におよぼす影響は、—、Ⅱ、およびⅢのばあいを 応用することによって、簡単にわかる。 かくして、価値の大いさの現実的変動は、それの相対的表 現においては、あるいは相対的価値の大いさにおいては、明 ひとは見た、 確にも余すところなしにも反映されはしない。一商品の相対 一商品 << ( 亜麻布 ) は、それの価値を、 的価値は、その商品の価値が不変であっても変動しうる。一相異なる種類の一商品 ( 上衣 ) の使用価値で表現すること 商品の相対的価値は、その商品の価値が変動しても不変であによって、後者そのものに独自の価値形態を、等価たる形態 りうる。そして最後に、その商品の価値の大いさと、この価を、おしつける。亜麻布商品は、上衣が、それの物体形態と 値の大いさの相対的表現とが同時に変動しても、この二つの異なる価値形態をとることなしに亜麻布と等しいとされるこ ( 二 0 ) とによって、それ自身の価値存在を現出させる。だから亜麻 変動はけっして一致することを要しない。 = 0 第二版への注。価値の大いさとその相対的表現とのあいだのこの不一致布は、事実上、上衣は直接に亜麻布と交換されうるものだと は、俗流経済学によって、いつもの明察をもって利用された。たとえば、 いうことによって、それ自身の価値存在を表現する。したが 「と交換されるが騰貴するがゆえにーーーしかもその間に < に支出さ って、一商品の等価形態とは、その商品の、他の商品との直 れる労働は減少しないのにーーーが下落するということをひとたび認めるな らば、君の一般的価値原則は崩壊する。 ・ : < の価値がにたいし相対的に 接的な交換可能性の形態である。 騰貴するがゆえにの価値が < にたいし相対的に下落するのだということが ある商品種類たとえば上衣が、ある他の商品種類たとえば引 承認されるならば、リカード : 、 カ一商品の価値はその商品に体現された労働 亜麻布の等価として役だち、かくして上衣が、亜麻布と直接 の分量によって常に規定されているという、彼の大命題の共礎とした土台が 破壊されてしまう。けだし、の費用における変動が、と交換されるに に交換されうる形態にあるという特色ある属性を受取るとし たいする関係におけるそれ自身の価値を変動させるばかりでなく、の価値 ても、それによっては、けっして、上衣と亜麻布とが交換さ をもーーの生産に必要とされる労働の分量には何らの変動もおこらなかっ この比率は、亜麻布の価値 れうる比率は与えられていない。 たにもかかわらずーーーの価値にたいし相対的に変動させるとすれば、その ばあいには、ある財貨に支出される労働の分量がその財貨の価値を規倒する の大いさが与えられている場合には、上衣の価値の大いさに ということを断言する学説が崩壊するばかりでなく、ある財貨の生産費がそ の財貨の価値を規制するという学説も崩壞するからである」と。 ( ・プロ 1 ドハースト「経済学論」、ロンドン、一八四二年、一一頁、一四頁。 ) プロードハースト氏はまさに同じように、つぎのようにもいうことができ よう、 まア、川面、坦 0 、川而、などという比をよく見よ。】 0 という 数は不変であるが、それにもかかわらず、それの比例的大いさ、すなわち、 20, 50, 10S という分母にたいするそれの相対的大いさは、たえず減少す る。だから、ある整数、たとえば 10 の大いさは、そに含まれている単位 1 の数によって「規制」されているという大原則は崩壊する、と。 三等価形態
商品との社会的関係においてのみ現象しうるということは、 まったく自明である。われわれは実際、商品の交換価値また は交換関係から出発して、そこに隠されている商品価値の足 跡を発見した。いまや、われわれは、価値のこの現象形態に あらゆる価値形態の秘密は、この簡単な価値形態のうちに たちもどらねばならない。 ひそんでいる。だから、これの分析は本来的な困難を呈す 誰でも、ほかのことは何も知らなくても、商品が、その使る。 用価値の種々雑多な自然的形態ときわめて著しい対照をなす ここでは、二つの相異なる種類の商品、 << ととが、われ 共通な価値形態ーー貨幣形態。ーーをもっということを、知っわれの例では亜麻布と上衣とが、あきらかに二つの相異なる ている。だが、ここで肝要なことは、・フルジョア経済学によ役割を演ずる。亜麻布はそれの価値を上衣で表現し、上衣は ってはかって試みられなかったこと、すなわち、この貨幣形この価値表現の材料に役だっ。第一の商品は能動的役割を演 態の発生史を証明することーーっまり、商品の価値関係に含じ、第一一の商品は受動的役割を演する。第一の商品の価値は まれている価値表現の発展を、それの最も簡単な最も見すぼ相対的価値として表示されている。すなわち、この商品は相 さんらん らしい姿態から、燦爛たる貨幣形態までたどることーーをな対的価値形態にある。第二の商品は等価として機能する。す なぞ しとげることである。それによって、同時に、貨幣の謎も消なわち等価形態にある。 減する。 相対的価値形態と等価形態とは、同じ価値表現の、たがい 最も簡単な価値関係は、あきらかに、ある単一の異なる種に従属しあう・相互に制約しあう・不可分離な・二契機であ 類ー・ーーどんな種類であるかに係わりはない の商品にたい るが、しかも同時に、たがいに排除しあう・または対立させ する、一商品の価値関係である。だから、二つの商品の価値られた・両極端すなわち両極である。それらは、価値表現に 関係は、一商品にとっての最も簡単な価値表現を提供する。 よって相互に連関させられる相異なる二商品のうえに、つね に自らを配分する。たとえば、亜麻布の価値を亜麻布で表現 簡単な・単独な・または偶然的な・価値形態 することはできない。 20F キ「 0 目勢さⅡ 20H ~ 「 D 昌勢哥 は、なんらの価値表現でもない。 x 罅 0 A Ⅱ y 第 0 B すなわち、量の商品は この方程式は、むしろ反対 量の商品に値する。 に、二〇エルレの亜麻布は一一〇エルレの亜麻布、すなわち一 ( 20H て D きⅡ 1 萍 D トすなわち、二 0 エルレの亜麻布定分量の使用対象たる亜麻布いがいの何ものでもないこと は一枚の上衣に値する。 ) を、語っている。だから、亜麻布の価値は、ただ相対的に、 一価値表現の両極、ー・相対的価値形態と 等価形態
すなわち他の商品でのみ、表現されうる。だから、亜麻布の 一商品の簡単な価値表現が一一つの商品の価値関係のうちに 相対的価値形態は、何かある他の商品が亜麻布に対立して等 いかにひそんでいるかを発見するためには、さしあたり、こ 価形態にあるということを、内蔵する。他方、等価としてあの価値関係を、それの量的側面にはまったく係わりなしに考 らわれるこの他の商品は、同時に相対的価値形態にあること察しなければならない。ひとはたいてい、これと正反対のや はできない。それは、それの価値を表現するのではない。そり方をして、価値関係のケちに、一一種類の商品の一定分量が れは、他の商品の価値表現に材料を提供するにすぎない。 それにおいて相互に等しいとされる比率だけを見る。相異な もちろん、 20H ~ 「 0 目勢哥Ⅱ 1 0 トすなわち、一一る諸物の大いさは、それらが同じ単位に還元されたのちに初 〇 = ルレの亜麻布は一枚の上衣に値するという表現は、一めて量的に比較されうるものとなるということを、見のがし 0 十Ⅱ 20H 、「「昌哥すなわち、一枚の上衣は一一〇工 ているのだ。同じ単位の諸表現としてのみ、それらの物の大 ルレの亜麻布に値するという、逆の連関をも含んでいる。し いさは、同名の・したがって較量されうる・大いさである。 かし、上衣の価値を相対的に表現するためには、とにかく、 石 TJ ・ペ ーリーのように、価値形態の分析に従事した少数の経済学者が何 かの方程式を顯倒しなければならぬのであり、そしてそうす らの成果もあげることがでぎなかったのは、第一には、彼らが価値形態と価 値とを混同したからであり、第二には、彼らが実利的市民の卑俗な影響をう るや否や、上衣のかわりに亜麻布が等価となる。だから、同 けて、最初からもつばら量的規定性だけに注目したからである。「量の支配 じ商品は、同じ価値表現においては、同時に双方の形態であ は・ : : ・価値を構成する。」 ( 「貨幣とその価値変動」、ロンドン、一八三七年、 らわれることはできない。 一一頁。著者は r-n ・・ヘ この両形態は、むしろ対極的に排 除しあう。 20H キヾ 0 冒哥Ⅱ 1 鳶 0 ト洋であろうと、ⅱ 20 鳶 D ト さて、一商品が相対的価値形態にあるか、それとも、これであろうと、Ⅱ x 洋 0 ト洋であろうと、すなわち、あ と対立させられた等価形態にあるかということは、もつば る与えられた分量の亜麻布が多くの上衣に値しようと、わす 品ら、価値表現におけるその商品のそのときどきの位置に かの上衣に値しようと、あらゆるこうした比率は、つねに、 すなわちその商品は、それの価値が表現される商品である亜麻布と上衣とは価値の大いさとしては同じ単位の表現であ 商か、それとも、それで価値が表現される商品であるかに り、同じ本性をもつ物であるということを、含んでいる。 章かかっている。 哥Ⅱトということが、方程式の基礎である。 第 しかし、質的に等置されたこの二つの商品は、同じ役割を 一一相対的価値形態 演ずるのではない。亜麻布の価値だけが表現されるのだ。で ( ) 相対的価値形態の内実 はいかにしてか ? 亜麻布が、それの「等価」あるいはそ
な部分が亜麻織物業の形態で支出されたということを証明す もらいもの」どが、彼は贈りものをするために市場にやって 行くのではない。だが仮りに、彼の生産物の使用価値は確か る。その結果は、亜麻織物業者の誰も彼もが、じぶんの個別 だとし、したがってまた、貨幣がその商品によって引きつけ的生産物のために、社会的に必要な労働時間以上の労働時間 られるとしよう。ところが今度は、 どれだけの貨幣が ? を費したのと同じことである。このばあいには、共にくくら という問題が生する。その答は、もちろんすでに、その商品 れ、共に絞られるというわけである。市場にあるいっさいの の価値の大いさの指標たる、その商品の価格によって予報さ亜麻布は一個の取引物品としてのみ意義をもち、その各片は れている。われわれは、商品所有者のおかしかねない純粋に可除的部分としてのみ意義をもつ。また事実上、どの一エル それは、市場でただちに 主観的な誤算は度外視しよう、 レの価値も、じつは、同等な種類の人間的労働の社会的に規 客観的に訂正されるのだ。彼はその生産物に、社会的に必要定された同じ分量の物質化にほかならない。 * マルクス「経済学批判」、ディーツ版、一九五一年、八九頁。ーー訳者。 な平均労働時間だけを支出したはすである。だから、その商 一八七八年一一月二八日付の、「資本論』のロシア語への翻訳者たる 品の価格は、その商品に対象化されている社会的労働の分量 Z ・・ダニエルソンあての手紙で、マルクスは、この最後の文章をつぎの の貨幣称呼にほかならない。ところが、わが亜麻織物業者の ように変更している、 「また事実上、どの一エルレの価値も、じつは、 許可なしに、しかも彼の背後で、古くから確実な根拠をもっ エルレの総分量に支出されている社会的労働分量の一部分の物質化にほかな らない。」ーー編集者。 ていた亜麻織物業の生産諸条件が激変をきたしたとしよう。 昨日は疑いもなく、一エルレの亜麻布の生産のために社会的 かように、商品は貨幣を恋しているが、しかし「まことの に必要な労働時間であったものが、今日はそうでなくなるの恋路はままならぬもの」である。分業の体制において自己の であって、そのことは、貨幣所有者が、わが友のさまざまな 肢体をしめす社会的生産有機体の量的編制は、その質的編制 竸争者たちの値段表からきわめて熱心に立証するところであと同じように、自然発生的・偶然的である。だから、わが商 る。彼には不幸なことだが、世間には織物業者が多いのだ。 品所有者たちは、彼らを独立の私的生産者たらしめる同じ分 最後に、市場にある亜麻布のどの一片も社会的に必要な労働業が、社会的生産過程、およびこの過程における彼らの諸関 係を、彼らじしんから独立のものたらしめるということを、 時間だけを含んでいると仮定しよう。それにもかかわらす、 これらの亜麻布の総額は、過剰に支出された労働時間を含ん 諸人格相互間の独立が全面的な物象的依存の体制によっ て補足されるということを、発見する。 でいることがありうる。市場の胃袋が亜麻布の総量を、一工 分業は、労働生産物を商品に転化させ、そうすることによ ルレにつき二シリングという標準価格で吸収することができ って、労働生産物の貨幣への転化を必然ならしめる。同時に ないならば、そのことは、社会的総労働時間のあまりに大き
形態でなければならぬ、ということが現出する。 れている労働は、それにおいては現実的諸労働のすべての具 亜麻布と同等なものという形態において、いまや、すべて体的形態および有用的属性が捨象される労働として、消極的 の商品が、質的に同等なもの・価値一般・として現象するば に表示されているだけではない。それじしんの積極的な本性 かりでなく、同時に、量的に比較されうる価値の大いさとし が、はっきり現われている。それは、すべての現実的諸労働 て現象する。すべての商品が、それらの商品の価値の大いさ の、人間的労働というそれらに共通な性格への、人間的労働 を、亜麻布という一個同一の材料にうっすがゆえに、これらカの支出への、還元である。 の価値の大いさが相互に反映しあう。たとえば、 10 0 ※ 労働諸生産物を無差別な人間的労働の単なる凝結として表 Ⅱ 20 日 20H て D 冒であり、また、 40 0 凵ー e— 示する一般的な価値形態は、それじしんの構造によって、そ 「 D 昌勢である。ゆえに、 10 瀛 D ※Ⅱ 40 0 凵 れが商品世界の社会的表現であることを示す。かくしてそれ 1 ーである。あるいは、一封度のコーヒーのうちには、 は、商品世界の内部では労働の一般的・人間的性格が労働の 一封度の茶にくらべて、四分の一だけの価値実体・労働・し独自的・社会的性格を形成する、ということを明らかにして か含まれていない。 しる 商品世界の一般的な相対的価値形態は、商品世界から排除 一一相対的価値形態と等価形態との発展関係 された等価商品たる亜麻布に、一般的な等価という性格をお しつける。亜麻布じしんの自然的形態が、この世界の共通な 相対的価値形態の発展程度に、等価形態の発展程度が照応 価値姿態であり、したがって亜麻布は、他のすべての商品とする。しかし、 そしてこれはよく注意すべきことだが、 直接に交換されうるものである。亜麻布の物体形態が、あら ーー・・等価形態の発展は、相対的価値形態の発展の表現であり ゆる人間的労働の眼にみえる化身、すなわち一般的・社会的結果であるにすぎない。 な蛹化として意義をもつ。それと同時に、亜麻布を生産する 、刀 一商品の簡単な・または単独な・相対的価値形態は、ほ、 私的労働たる織物業は、一般的・社会的な形態に、他のすべ の一商品を単独な等価たらしめる。相対的価値開展された ての労働との同等性の形態に、ある。一般的な価値形態を構形態、すなわち、他のすべての商品によっての一商品の価値 成する無数の方程式は、つぎつぎに、亜麻布に実現されてい のこの表現は、それらの商品に、さまざまな種類の特殊的な る労働を、ほかの商品に含まれているそれぞれの労働に等置等価の形態をおしつける。最後に、ある特殊的な商品種類が し、かくすることによって、織物業を、人間的労働一般の一 一般的な等価形態を受けとるのだが、それはけだし、すべて 般的な現象形態たらしめる。かくして、商品価値に対象化さの他の商品が、右の商品種類を、それらの商品の統一的・一 ようか