短時間に生産させるもろもろの方法によって、必要労働が短に・あるいはまた同職組合親方の職人として・労働した手工 縮される。絶対的剰余価値の生産では労働日の長さだけが中業者が、今では賃労働者として資本家の直接的統制のもとに 心問題である。相対的剰余価値の生産は、労働の技術的諸過現われるということーーだけで充分だとすれば、他方では、 すでに明らかになったように、相対的剰余価値の生産のため 程、および社会的成群を、すっかり変革する。 だから、相対的剰余価値の生産は一つの独自的・資本制的の方法は、同時に、絶対的剰余価値の生産のための方法であ な生産様式を内蔵するのであって、この生産様式は、その方る。それどころか、労働日の無制限な延長が大工業固有の産 法・手段および条件そのものとともに、最初には、資本のも物として現われた。総じて独自的・資本制的な生産様式は、 それが一生産部門全体を征服するや否や、ましてすべての決 とへの労働の形式的従属の基礎上で、自然発生的に成立し、 発達させられる。形式的なそれに代わって、資本のもとへの定的な生産諸部門を征服するや否や、相対的剰余価値の生産 のための単なる手段ではなくなる。それは今や、生産過程の 労働の現実的従属があらわれる。 一般的な・社会的に支配的な・形態となる。それが相対的剰 剰余労働が直接的強制によって生産者から汲み出されもせ ず、資本のもとへの生産者の形式的従属も生じていないよう余価値の生産のための特殊的方法として作用するのは、もは な中間諸形態については、それらを指摘するだけで充分であや、第一には、従来は形式的にのみ資本に従属していた諸産 業をそれが襲うかぎりにおいて、つまり、それの普及宣伝に 値る。資本はここでは、まだ、労働過程を直接には征服してい 余ない。祖先伝来の経営様式で手工業や農耕をいとなむ自立的おいてにすぎない。第二には、すでにその手に帰した諸産業 的生産者たちのかたわらに、高利貸または商人が、彼らを寄生が生産方法の変化によって絶えす変革されるかぎりにおいて 相虫的に搾りとる高利資本または商業資本が、現われる。社会にすぎない。 特定の見地からすれば、絶対的剰余価値と相対的剰余価値 ょにおけるこうした搾取形態の優勢は資本制的生産様式を排除 的するのであるが、他面、こうした搾取形態は、中世後期におとの区別は、総じて幻想的なものに見える。相対的剰余価値 絶けるごとく、資本制的生産様式への過渡を形成しうる。最後も絶対的である。けだしそれは、労働者そのものの生存に必 章に、近代的家内労働の実例を見ればわかるように、特定の中要な労働時間をこえる労働日の絶対的延長を条件とするから み、う - 」ノ 一間諸形態が、ま 0 たく変化した相貌をも「てだとはいえ、大である。絶対的剰余価値も相対的である。けだしそれは、必 第 要労働時間を労働日中の一部分に制限することを可能ならし 工業の背後のところどころに再生産される。 める労働生産性の発展を条件とするからである。だが、剰余 絶対的剰余価値の生産のためには、資本のもとへの労働の たんに形式的な従属ーーたとえば、以前には自分自身のため価値の運動に注目するならば、この同一性の仮象は消減す
まる蛮行をもって、また、最も賤しむべき・最も不浄な・最結合された・社会的な・労働の生産手段としての使用による も陋劣で腹黒い・激情の衝動のもとで遂行される。みずからすべての生産手段の節約が、世界市場の網へのすべての国塒 働いてえた・いわば個々独立の労働個人と彼の労働諸条件との編人が、したが 0 てまた、資本制的体制の国際的性格が、 の癒着にもとづく・私的所有は、他人の・しかし形式的には発展する。この転化過程のあらゆる利益を横奪し独占する大 資本家の数のたえざる減少につれて、貧困・抑圧・隷属・頽・ 自由な・労働の搾取にもとづく資本制的私的所有によって、 廃・搾取の程度が増大するが、しかしまた、たえず膨脹する、 駆逐される。 ところの、そして資本制的生産過程そのものの機構によって ・ : われわれは、 = 三「われわれはまったく新しい社会状態のもとにある。 訓練され結合され組織されるところの、労働者階級の叛逆も あらゆる種類の所有を、あらゆる種類の労働から分離しようとしている。」 ( シスモンデイ「経済学新原理」、第二巻、四三四頁。 ) またそれのもとで 増大する。資本独占は、それとともに 開花した生産様式の桎梏となる。生産手段の集中と労働・ この転化過程が旧社会を、深さおよび広さからみて充分に の社会化は、それらの資本制的外被と調和しえなくなる時点・ 分解させてしまえば、労働者がプロレタリアに転化し、彼ら に到達する。この外被は粉砕される。資本制的私有財産の葬・ の労働条件が資本に転化してしまえば、資本制的生産様式が 自分の脚で立っことになれば、ここに、労働のいっそうの社鐘が鳴る。収奪者たちが収奪される。 資本制的生産様式から発生する資本制的取得様式は、した 会化、および、土地その他の生産手段の社会的に利用される がって資本制的な私的所有は、自分の労働を基礎とする個人 生産手段つまり共同的生産手段へのいっそうの転化、したが 的な私的所有の第一の否定である。だが、資本制的生産は、 積って私的所有者のいっそうの収奪が、新たな形態をとる。 的まや収奪されるべきものは、もはや自営的労働者でなく、多自然過程の必然性をもって、それじしんの否定を生みだす。 源 これは否定の否定である。この否定は、私的所有を再建する くの労働者を搾取しつつある資本家である。 る しかも資本主義時代に達成されたもの こうした収奪は、資本制的生産そのものの内在的諸法則のわけではないが、 ゅ わ 作用によ 0 て、諸資本の集中によって、なしとげられる。一すなわち協業や、土地の・および労働そのものによって生産 された生産手段の・共有ーーを基礎とする個人的所有を生み 章人ずつの資本家が、多くの資本家をうちほろぼす。こうした 一一集中、または、少数の資本家による多数の資本家の収奪とあ 第 個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有の資本制的な い並んで、ますます増大する規模での労働過程の協業的形態 私的所有への転化は、もちろん、事実上すでに社会的生産経 が、科学の意識的な技術的応用が、土地の計画的な利用が、 営にもとづく資本制的所有の社会的所有への転化よりも、比 共同的にのみ使用されうる労働手段への労働手段の転化が、 ( 二五一 )
要な労働に算入されるであろう。 すでに見たように、剰余価値率はつぎの諸範式で表わされ 労働の生産力が増大すればするほど労働日は短縮されうる のであり、また、労働日が短縮されればされるほど労働の強 ま m ーまー》ミ自 度は増大しうる。社会的に考察すれば、労働の生産性は労働 の節約によっても増大する。労働の節約は、生産手段の節約 初めの一一つの範式が価値と価値との比率として表示するも を含むばかりでなく、あらゆる無用な労働を避けることをものを、第三の範式は、これらの価値が生産される時間と時間 含む。資本制的生産様式は、各個の事業内では節約を強要すとの比率として表示する。相互に補足しあうこれらの範式は るが、その無政府的な競争制度は、社会的な生産手段および概念的に厳密なものである。だからひとは、古典派経済学に 労働力の無際限きわまる浪費、ならびに、今日では不可欠だおいては、これらの範式が事実的には仕上げられているが、 とはいえ絶対的に余計な無数の機能を生みだす。 意識的には仕上げられていないことを見いだす。それどころ 労働の強度と生産力が与えられておれば、労働がすべての か、古典派経済学ではわれわれは、つぎのような派生的な諸 作業能力ある社会成員のあいだに均等に配分されればされる範式に出あう、 ほど、ある社会層が労働の自然的必要をまぬがれて他の社会 当ロ鼾まーおき 層に転嫁することができなくなればなるほど、社会的労働日 のうち物質的生産に必要な部分がそれだけ短縮され、かくし このばあいには、一個同一の比率が、こもごも、労働時間 て、個人の自由な精神的および社会的活動のために獲得されの形態、労働時間がそれで自らを体化する価値の形態、これ る時間部分がそれだけ増加する。労働日短縮のための絶対的らの価値がそこに実存する生産物の形態、で表現されてい 限界は、この面からみれば労働の一般化である。資本主義社る。もちろん、生産物の価値というのは、たんに労働日の価 会では、一階級のための自由な時間が、大衆のす・ヘての生活値生産物のことであって、生産物価値の不変部分は除外され 時間の労働時間への転化によって生みだされる。 ているものと想定される。 これらすべての範式においては、労働の現実の搾取度また は剰余価値率が間違って表現されている。労働日は一一一時間 第一六章剰余価値率を表わす様々な範式 だとしよう。その他の仮定は従来の例のとおりだとすれば、 このばあいには労働の現実の搾取度がつぎのような比率で表 示される、 る、
程の現存形態を最終決定的なものとは見なさず、またかかる本の転変する搾取慾のために予備として保有され自由に利用 されうる窮乏した労働者人口という奇怪事に置換えるに、転 オい。だから近代的工業の技術的基礎は ものとしては取扱わよ 革命的である、 すべての従来の生産様式の技術的基礎は変する労働需要のための人間の絶対的利用可能性をもってす ( 三 0 六 ) 本質的に保守的であったが。近代的工業は、機械・化学的処ることをーーすなわち、ある社会的細目機能の単なる担い手 置・その他の方法によって、生産の技術的基礎とともに、労 たる部分個人に置換えるに、その者にとっては様々な社会的 諸機能があい交代する活動様式であるような全体的に発達し 働者の機能および労働過程の社会的結合をたえす変革する。 かくしてそれはまた、社会内分業をたえず変革し、一生産部 た個人をもってすることを、死活問題たらしめる。大工業の・ 門から他の生産部門へ、多量の資本および労働者をたえまな基礎上で自然発生的に発達したこの変革過程の一契機は、エ く移動させる。したがって、大工業の本性は、労働の転変・ 芸学校および農学校であり、もう一つの契機は、労働者の子 機能の流動・労働者の全面的可動性・を条件づける。他面、 供が技術学および様々な生産用具の実際的取扱いにかんする 大工業は、その資本制的形態において、旧式分業をその骨化 若干の授業を受ける「職業学校」である。資本からやっと奪 した分立性とともに再生産する。すでに見たように、 この絶った最初の譲歩としての工場立法は、初等教育を工場的労働 対的な矛盾は、労働者の生活状態のあらゆる静止・固定・確と結びつけるにすぎぬとすれば、労働者階級による不可避的川 実・を止揚するのであって、労働者の手から、労働手段とと な政権獲得によって、技術学的なーー理論的および実践的な ( 三 0 物 ) もに絶えず生活手段をうち落し、彼の部分機能とともに彼じ 教育が労働者学校において然るべき席を獲得するであろ しんを過剰ならしめようとする。またこの矛盾は、労働者階 うということは、うたがう余地がない。資本制的生産形態お 級のたえまない儀牲祭・労働力の際限もない浪費・社会的無 よびこれに照応する労働者の経済的諸関係が、こうした変革・ 工政府性の破壊作用・において、荒れまわる。これは消極的側的酵げおよびその目的たる旧式分業の止揚と絶対的に矛盾す と面である。しかるに、労働の転変がいまや圧倒的自然法則と るということも、うたがう余地がない。だが、一つの歴史的生 いたるところで障碍にぶつかる自然法則の盲目的・ 産形態の諸矛盾の発展は、その生産形態の解体と新形成との ( 三 0 八 ) 章破壊的作用をもってーーーのみ行なわれるとすれば、大工業は 唯一の歴史的通路である。「本分を守れ ! 」という手工業的 一自己の破局そのものによ「て、つぎのこと、すなわち、労働思慮のこの絶頂は、時計師ワットが蒸気機関を発明し、理髪 第の転変したがって労働者のできるかぎりの多面性を一般的な 師アークライトが経糸織機を発明し、宝石細工師フルトンが ( 三 0 九 ) 的社会的生産法則として承認し、この法則の正常的実現に諸関汽船を発明した瞬間から、おそろしい痴愚となった。 三品「スコットランド高地の一一、三の地方では : : : 統計的報告によれば、多 係を適合させることを、死活間題たらしめる。大工業は、資
用する資本の単なる作用である。彼らの諸機能の連絡と生産労働者群そのものを直接的かっ継続的に監督する機能を、ふ 的全体としての彼らの統一とは、彼らの外部に、彼らをよせたたび、特殊な種類の賃労働者にゆすり渡す。軍隊が将校と 集めて締めくくっている資本のうちに、ある。だから、彼ら下士官を必要とするのと同じように、同じ資本の指揮のもと の諸労働の連絡は、観念的には資本家の計画として、実践的で協力する労働者大衆は、労働過程のあいだ資本の名で指揮 には資本家の権威として、彼らの行為を自己の目的に従属さする産業将校 ( 支配人、マネージャー ) と、産業下士官 ( 職 長、 foremen, overlookers, contremaitres) を必断ズとする。 せる他人の意志の力として、彼らに対応する。 = 0 「利潤は : : : 事業の唯一の目的である。」 ( ・ヴァンダリント「貨幣万 監督労働が彼らの排他的機能に固定化する。独立農民または 自立的手工業者の生産様式を奴隷制にもとづく植栽地経営と = 一イギリスの一卑俗新聞ーーー一八六六年六月三日付の「スペクテーター」 比較するにあたり、経済学者は、この監督労働を生産上の空 の報道によれば、「マンチェスター針金製造会社」で資本家と労働者た ( 二一 ) ちとのあいだの一種の組合制度が採用されてから、「第一の結果は浪費の突費に計算する。ところが彼は、資本制的生産様式を考察する 然の減少であった。けだし、労働者たちは、企業家の財産を浪費する以上に にあたっては、共同的労働過程の本性から生するかぎりでの 彼らじしんの財産を浪費しようとは考えないし、しかも浪費は、おそらく悪 指導という機能を、この過程の資本制的したがって敵対的な 質の負債に次いで、事業の欠損の最大の源泉だからである。」同じ新聞は、 ロッチテールの協同組合の実験の根本欠陥として、つぎのような発見をして 性格によって必要とされるかぎりでの同じ機能と、同一視す 「その実験により、労働者たちの団体は店・工場・およびほとん る。資本家は、産業的指導者であるがゆえに資本家であるの どすべての形態の産業をうまく管理することができ、また、労働者の状態を ではなく、資本家であるがゆえに産業的司令官となる。生産 ひじように改善したが、だが ! しかしそれは資本家たちのための明白な席 を残さなかった、ということが分かった」と。なんと恐ろしいことよ ! における司令が資本のつきものとなるのは、あたかも、封建 だから資本家の指導は、内容からみればーー一面では生産時代に戦争および裁判における司令が土地所有のつきもので ( 二二 ) 物の生産のための社会的過程であり他面では資本の増過程あったのと同じである。 一 = ケアンズ教授は「労働の監督」を北米の南部諸州における奴隷的生産 であるという、指導されるべき生産過程そのものの二者闘争 の主要性格として叙述したのち、つづけていう、 「 ( 北部の ) 自作農は、 性のゆえに 一一者闘争的だとすれば、形式からみれば専制 彼の土地の全生産物をわがものとするので、努力のための他の刺戟を要しな 的である。大規模な協業の発展につれて、この専制支配がそ い。監督はここでは全く無用である。」 ( ケアンズ「奴隷力」、四八、四九頁。 ) 一三総じて様々な生産様式の特徴的・社会的区別にたいする明察によって卓 の独自な諸形態を展開する。資本家は、ほんらいの意味での ジェームズ・ステュアートはいう、 「工業的大企業が小経 越するサ 1 資本制的生産がやっと開始されるための最小限の大いさに彼 営を破減させるのは、それが奴隷労働の単純さに近づくということのためで の資本が達するや否や、さしあたり手労働から免れるのであ ないとすれば、何故であろうか ? 」と。 ( 「経済学原理」、ロンドン、一七六 るが、それと同じように、彼はいまや、個々の労働者および 七年、第一巻、一六七、一六八頁。 )
から資本制的経営への移行にさいし、こうした蓄積を想定せ揮すゑそれぞれの蓄積があらたな蓄積の手段となゑそれ ねばならなかった。それは本源的蓄積と名づけられうる。けは、資本として機能する富の分量の増加につれて、個々の資 だしそれは、独自的・資本制的生産の歴史的成果ではなく、 本家の手におけるこうした富の集積を、したがって大規模生 その歴史的基礎だからである。いかにしてこうした蓄積その産および独自的・資本制的生産方法の基礎を、拡大する。社 ものが生するかは、ここではまだ研究の必要がない。それが会的資本の増加は、多数の個別的資本の増加において行なわ 出発点をなすということだけで、充分である。ところが、これる。他のすべての事情を同等不変と前提すれば、個別的資 の基礎上で成長するところの、労働の社会的生産力を増加さ本は、 その資 またそれとともに生産手段の集積は、 せるすべての方法は、同時に、それがまた蓄積の形成要素で本が社会的総資本の可除部分をなすのに比例して増加する。 ある剰余価値または剰余生産物の生産を増加させる方法であ同時に、原資本から枝条が分離して、新たな自立的資本とし る。だからその方法は、同時に、資本による資本の生産の方て機能する。その際にはなかんすく、資本家の家族間での財 法であり、あるいは資本の加速的蓄積の方法である。剰余価産分割が大きい役割を演すゑだから、資本の蓄積につれて 値の資本への継続的再転化は、生産過程に入りこむ資本の大資本家の数も多かれ少なかれ増加する。直接に蓄積にもとづ いさの増加としてあらわれる。この増加はまた、生産の規模 く・またはむしろ蓄積と同一物たる・この種の集積は、つぎ 個々の資 拡大の、それに伴なう労働生産力増加の方法の、および剰余の二つの点によって特徴づけられる。第一に、 価値の加速的生産の、基礎となる。だから、特定程度の資本本家たちの手における社会的生産手段の漸増的集積は、ほか 蓄積が独自的・資本制的生産様式の条件として現われるとすの事情が同等不変ならば、社会的富の増加度によって制限さ れば、この後者は反作用的に、資本の加速的蓄積を生ぜしめれている。第二に、 ーー社会的資本のうち各特殊的生産部面 る。したがって、資本の蓄積とともに独自的・資本制的生産に定着する部分は、独立して相互に竸争する商品生産者とし 様式が発展し、また独自的・資本制的生産様式とともに資本て対立しあっている多数の資本家たちのあいだに配分されて の蓄積が発展する。この二つの経済的要因は、相互に与えあ 、る。だから、蓄積およびそれに伴なう集積が多くの点に分 う刺戟に複比例して資本の技術的構成における変動を生みだ散されているばかりではなく、機能資本の増大が、新資本の すのであって、この変動により、可変的成分が、不変的成分形成と旧資本の分裂とによって阻跿されている。だから蓄積 にくらべてだんだん小さくなる。 は、一方では生産手段の・および労働にたいする指揮の・慚 それそれの個別的資本は、大なり小なりの生産手段の集積増的集積としてあらわれるとすれば、他方では多数の個別的 であって、その大小に応じて、大なり小なりの労働者軍を指 資本の相互的反撥としてあらわれる。 はんばっ えだき
のとなったかを示しはするが、価値または貨幣の本性をなん る。だが、これらの商品は、市場にくる前に、すでに、その・ ら変化させない。 年の総生産物ーーすなわち、個別的諸資本の総額または社会 そこで、一一〇〇〇ポンドという新追加額を資本に転化する的総資本がその年のうちに転形されてゆく、そして各個別的 ためには、紡績業者は、他のすべての事情が同等不変なら資本家はそのうちの一可除部分を所有するにすぎない、あら ば、その五分の四を棉花などの購入に投下し、五分の一を新ゆる種類の対象の総量ーーのうちに存在していた。市場での たな紡績労働者の雇入れに投下するはずであって、これらの経過は、年生産の個々の成分の転態をなしとげ、それらを一 労働者は、紡績業者によって彼に投下されただけの価値あ者の手から他者の手に移すだけであって、総年生産を増加さ る生活手段を市場で見いだすであろう。それから、二〇〇〇せることも、生産された対象の本性を変化させることも、で ポンドの新資本が紡績工場で機能して、それがまた四〇〇ポ きない。だから、年々の総生産物がいかに使用されうるか ンドの剰余価値を生むのである。 は、それ自身の構成に依存するのであって、けっして流通に 資本価値は最初には貨幣形態で投下された。これに反して依存するのではない。 剰余価値は、初めから、総生産物の一定部分の価値として実 さしあたり、年生産は、その年のうちに消費される物象的 存する。総生産物が販売されて貨幣に転形されると、資本価な資本諸成分を填補すべき、いっさいの対象 ( 使用価値 ) を 値はその最初の形態をふたたび獲得するのであるが、剰余価提供せねばならない。 この控除後に残るのは、剰余価値を含 . 値の方はその最初の定在様式を変更する。だが、この瞬間か んでいる純生産物または剰余生産物である。では、この剰余・ ら、資本価値と剰余価値とはともに貨幣額であって、それら生産物は何から成りたっか ? 資本家階級の慾望や熱望の充 の資本への再転化はまったく同じ様式で行なわれる。資本家足に予定された物、つまり、彼らの消費元本に入りこむ物で・ はそれらを、同じように、諸商品ーー彼をして、彼の財貨のあろうか ? それだけだとすれば、剰余価値は残らず使いは たされるであろう。そして単純再生産しか行なわれないであ 製造を新たに・しかも今度は拡大した規模で・開始すること を得させる諸商品 の購入に支出する。だが、これらの商ろう。 品を購入するためには、彼はそれを市場で見いださねばなら 蓄積するためには、剰余生産物の一部分を資本に転化せね ばならない。だが、奇蹟を行なうのでなければ、資本に転化 彼じしんの糸が流通するのは、彼が、じぶんの年生産物をされうるものは、労働過程で使用されうる物、すなわち生産 市場にもち出すからに他ならぬのであって、これは、他のす手段と、ほかには、労働者の生活を維持させる物、すなわち べての資本家が彼らの商品について行なうところと同じであ生活手段だけである。したがって、年々の剰余労働の一部分
「資本は混乱と紛擾を避ける = 五 0 「クオータリ・レヴューにいわく、 この生産様式は、奴隷制・農奴制碑およびその他の従属諸閃 ものであり、内気な性質のものである』と。これはきわめて真ではあるが、 係の内部にも実存する。だが、それが繁栄し、その全精力を けっして完全な真理ではない。自然が空虚を恐れる〔とかって言われた〕ご 発揮し、適当な古典的形態をとるのは、労働者が自分じしん とく、資本は、利潤の欠如または甚だしい僅少を恐れる。相当の利潤があれ ば資本は勇敢となる。一割の利潤が確実ならば、何所にでも資本が充用され の使用する労働条件のーー農民ならば彼が耕耘する畑の、手 る。二割あれば資本は活となる。五割あれば積極的に冒険的となる。一〇工業者ならば彼が老巧者として取扱う用具のーー自由な私有 割あれば、あらゆる人間の法律を蹂躙する。三〇割あれば、断頭台の危険を 者たる場合だけである。 おかしても資本が冒険しないような犯罪はない。混乱と紛擾が利潤をもたら 密貿易と奴 すならば、資本は両者を鼓舞するであろう。これの証明は、 この生産様式は、土地その他の生産手段の分散を内蔵す 隷貿易である。」 (e ・・ダンニング「労働組合とストライキ」、三六頁。 ) る。それは、生産手段の集中を排除するのと同じように、同 じ生産過程の内部における協業や分業、自然にたいする社会 的な支配や調整、社会的生産諸力の自由な発展、をも排除す 第七節資本制的蓄積の歴史的傾向 る。それは、生産および社会の狭隘な自然発生的限界とのみ 資本の本源的蓄積、すなわち資本の史的創生記とは、どう調和しうる。この生産様式をも永遠化させようとするのは、 いうことになるか ? それは、奴隷と農奴の賃労働者への直ペクールが正当にいうように、「一般的平凡事を訓令する」 接的転化、したがって単なる形態変換でないかぎりは、直接ものであろう。特定の高度に達すれば、この生産様式は、そ 的生産者の収奪、すなわち、自分の労働にもとづく私的所有れじしんの破壊の物質的手段を生みだす。この瞬間から、こ しつこく の生産様式を桎梏と感する諸力や情熱が、社会の胎内で動き、 の解消を意味するにすぎない。 社会的・集団的な所有の対立物としての私的所有は、労働だす。この生産様式は破壊されねばならぬし、また、破壊さ 手段と労働の外的諸条件とが私人に属する場合にのみ存立すれる。その破壊、個人的で分散的な生産手段の社会的に集中 る。だが、この私人が労働者であるか非労働者であるかに応された生産手段への転化、したがって多数者による小量的所 じて、私的所有も異なる性格をもつ。一見したところ私的所有の少数者による大量的所有への転化、したがって広汎な人 有がしめす無限にさまざまな色合いは、この両極端のあいだ民大衆からの土地や生活手段や労働用具の収奪、ーー人民大 に横たわるもろもろの中間状態を反映するにすぎない。 衆のこの怖るべき、かっ非道な収奪こそは、資本の前史をな 労働者が自分の生産手段を私有することは小経営の基礎です。この収奪は一連の暴力的方法を包括するのであって、わ あって、小経営は、社会的生産のーーおよび労働者じしんのれわれは、そのうちの劃期的なものだけを資本の本源的蓄積 自由な個性のーーー発展のための必要条件である。たしかに、 の方法として吟味した。直接的生産者の収奪は、無慈悲きわ
会においては資本家に移ったのであって、そのことは、彼が 個々別々の資本家として登場するか、株式会社のばあいのよ うに結合資本家として登場するかには、係わりがない。 一三・ジョーンズ「講義案」、七七、七八頁。ロンドンその他のヨーロッ ・ハの首都における古代アッシリア、エジプトなどの蒐集物を見れば、かの協 業的労働過程が眼にうかぶ。 人類文化の初期にーー狩猟民族のもとで、またはおそらく インド的共同体の農業において・ーー支配的に見いだされるよ うな労働過程における協業は、一方では生産諸条件の共有に もとづき、他方では、個々の個人がーーあたかも個々の蜜蜂 まだ種族また がその巣から離れていないのと同じように は共同体の臍帯から離れていないということにもとづく 9 こ の二つのことは、こうした協業を資本制的協業から区別づけ る。古代世界、中世、および近代的植民地における、大規模 な協業の散在的充用は、直接的な支配Ⅱおよび隷属諸関係に たいていは奴隷制に もとづく。これに反し〔協業の〕 資本制的形態は、そもそもから、じぶんの労働力を資本に売 る自山な賃労働者を前提とする。だがそれは、歴史的には、 農民経営および独立の手工業経営ーーこれが同職組合形態を 有するか否かをとわずーーに対立して発展する。それらに対 立して、資本制的協業が協業の特殊的な歴史的形態として現 われるのではなく、協業そのものが、資本制的生産過程に独 自な・これを独特なものとして区別づける・歴史的形態とし て現われるのである。 一三ランゲはその著「市民法の理論』で、狩猟を協業の最初の形態だとい 、人間狩り ( 戦争 ) を狩猟の最初の諸形態の一つだといっているが、これ ( 二三 ) はおそらく誤りではないであろう。 一一四小農民経営と独立の手工業経営とは、いずれも、一部的には封建的生産 様式の土台をなし、一部的にはその解体後に資本制的経営とあい並んで現わ れるものであるが、それらは同時に、本源的・東洋的な共同所有が解体した 後の、その奴隷がまだ生産を真実に征服しない前の、最盛期における古典 的共同体の経済的基礎をなす。 協業によって展開される労働の社会的生産力が、資本の生 産力として現われるのと同じように、協業そのものは、個々 別々の独立労働者あるいは小親方の生産過程に対立する資本 制的生産過程の独自的形態として現われる。それは、現実的 労働過程が資本に従属することによってこうむる最初の変化 である。この変化は自然発生的に生する。その前提たる、同 じ労働過程における比較的多数の賃労働者の同時的就業は、 資本制的生産の出発点をなす。この出発点は、資本そのもの の定在と一致する。だから、資本的生産様式が、一方では 労働過程の社会的過程への転化のための歴史的必然として現 われるとすれば、他方では、労働過程のこの社会的形態は、 労働過程の生産力を高めることによってこの過科をより有利 に利用するための、資本によって用いられる一方法として現 われる。 これまでに考察された単純な姿態においては、協業は、比 較的に大規模な生産と一致するが、資本制的生産様式の特殊 的発展時代の固定的・特徴的な形態をなすものではない。そ れがほぼこうしたものとして現われるのは、たかだか、まだ 手工業的なマニ = ファクチュア初期においてであり、また、 マニュファクチュア時代に照応するものであって同時に使用 ( 二五 )
例においては、分子式への CH2 の単なる量的追加によって、つねに、質的 ものにたいするーー・・指揮にまで発展した。人格化された資本 に異なる物体が形成される。これらの重要な事実の確認にたいするローラン たる資本家は、労働者がその仕事を秩序正しく、しかるべき およびジェラールのーーーマルクスによって過大評価されたーーー・関与について は、 0 ップ「化学の発展」、ミン〈ン、一八七三年、七〇九および七一六強度をもっておこなうように、見張りをする。 頁、ならびに、ショルレンマー「有機化学の発生および発達」、ロンドン、 資本はさらに、労働者階級をして余儀なく、彼らじしんの ・エンゲルス。 一八七九年、五四頁、を参照せよ。 狭い範囲の生活慾望が命ずるよりも多くの労働をおこなわせ 個々の貨幣所有者または商品所有者が資本家になりあがる四 3 るところの、一つの強制関係にまで発展した。そして、他人 ために自由にせねばならぬ価値額の最小限は、資本制的生産の勤勉の生産者として、剰余労働の汲出者および労働力の搾 の発展段階が異なれば変化し、また与えられた発展段階にあ取者として、資本は、精力・無節度・および効果の点で、す っても生産部面が異なれば、それらの部面の特殊的な技術的べての従来の・直接的強制労働にもとづく・生産制度をしの 諸条件に応じて異なる。特定の生産部面は、すでに資本制的 いでいる。 生産の初期においてさえ、個々の個人の手にはまだ現存しな 資本は、さしあたり労働をば、歴史的に現存する技術的諸 いような資本の最小限を必要とする。このことは、一部的に 条件をもって、自己に従属させる。だから資本は、直接的に は、コルべール時代のフランスでのように、また現代にいた は生産様式を変化させない。だから、これまでに考察した形 るまでの多くのドイツ諸邦でのように、 こうした私人にたい 態での・労働日の単純な延長による・剰余価値の生産は、生 する国家補助金を誘発し、一部的には、特定の産業ーおよび産様式そのもののいかなる変化にも係わりなく現われた。そ ( ニ 0 六 ) 商業部門の経営のための法律上の独占権を有する会社ーー近れは、時代おくれの製パン業においても、近代的な木綿紡績 業におけると同じように効果的であった。 分代的株式会社の先駆者ーーーの形成を誘発する。 と ニ実この種の社団をマルチン・ルターは「独占会社」と名づける。 率 生産過程を労働過程の見地のもとで考察すれば、労働者 の 値 は、資本としての生産手段に関係したのではなく、彼の合目 われわれは、資本家と賃労働者との関係が生産過程の経過的的な生産的活動の単なる手段および材料としての生産手段 なめしがわぎよう 中にこうむった変化の詳細には立入らす、したがってまた、 に関係したのである。たとえば鞣皮業では、彼は獣皮をた ここでは 九資本そのもののさらに進んだ規定にも立入らない。 んなる労働対象として取扱う。彼は資本家の獣皮をなめすの 第 ただ、二、三の要点だけを強調しておこう。 ではない。生産過程を価値増殖過程の見地のもとで考察した 生産過程の内部において、資本は、労働にたいするーーすときには、趣きが異なる。生産手段はただちに他人の労働の なわち、みずからを実証しつつある労働力または労働者その吸収のための手段に転化した。もはや労働者が生産手段を使