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検索対象: 世界の大思想18 マルクス 資本論1
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1. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

は、もはや、それらの自然的形態とそれらの転化された形態 逆に、商品をその価値以下で購買することが購買者の特権 だと想定しよう。このばあいには、購買者がふたたび販売者・・ とのあいだの・商品と貨幣とのあいだの・区別があるだけで ある。そうしたわけで、商品所有者たちは、販売者すなわちとなるということを想いだすことは、ちっとも必要でない。 商品所有者として、および、購買者すなわち貨幣所有者とし彼は購買者となる前に販売者であった。彼はすでに、購買者、 として一〇 % の得をする前に、販売者として一〇 % の損をし て、区別されるだけである。 ( 二五 ) ている。万事はやはり元のままである。 いま、何らかの説明できない特権によって、販売者が商品 童「現実に二四リーヴルの価値ある或る分量の生産物を一八リーヴルで売 をその価値以上でーーーそれが一〇〇に値するばあいに一一〇 ることを余儀なくされるならば、ひとは、この同じ貨幣額を購買に用いれば、、 で、すなわち一〇 % の名目的な価格引上げをもってー・ー・阪売 二四リーヴルで受けとるのと同じだけのものを一八リーヴルで受けとるであ・ することを許されたとしよう。すると販売者は、一〇の剰余 ろう。」 ( ル・トローヌ「社会的利益について」、八九七頁。 ) 価値を取りたてる朝だが彼は、販売者だった後に購買者とな だから、剰余価値の形成、したがってまた貨幣の資本への る。ある第三の商品所有者が、いまや販売者として彼に出あ転化は、販売者たちが商品をその価値以上に販売するといラ そしてまたもや、商品を一〇 % だけ高く販売する特権に ことによっても、また、購買者たちが商品をその価値以下で あずかる。さきの男は、購買者として一〇だけ損をするため購買するということによっても、説明されえない。 に、販売者として一〇だけ儲けたわけである。この全体の帰 実「だから、いかなる販売者も、ほかの販売者たちの商品にたいしても恒 常的により高く支払うことを承認しないでは、自分の商品の価格を恒常的に 着するところは、じつは、すべての商品所有者が彼らの商品 引上げることはできない。また同じ理由によって、いかなる消費者も、自分 を相互に一〇 % だけ価値以上に販売しあうということであっ の販売する物の価格をも同じように引下げることを承認しないでは、自分の て、これは、あたかも彼らが商品をその価値で販売したのと 購買する物にたいし恒常的により安く支払うことはできない。」 ( メルシェ・ ド・ラ・リヴィエール「自然的および本質的秩序」、五五五頁。 ) へぜんぜん同じである。商品のこうした一般的な名目上の価格 無縁な諸関係を密輸入して、たとえばトレンズ大佐ととも呷 資引上げは、商品の価値がたとえば金でのかわりに銀で評価さ に、「有効需要とは、直接的交換によってであれ間接的交換に 幣れるばあいと同じ結果を生ずる朝商品の貨幣名すなわち価格 貨 よってであれ、商品とひきかえに、その生産に要費するより は膨脹するであろうが、商品の価値比率は不変であろう。 章 も大きい、すべての資本成分中の特定部分〔に相当する価格〕 四 品「生産物の名目的価値の増大によっては : : : 販売者たちは富裕とはなら 第 : ・けだし、ちょうど彼らが販売者として儲けるだけのものを、彼らを支払うべき、消費者たちの能力および傾向 ( ! ) である」 は購買者の資格において支出するから。」 ( 「諸国民の富にかんする主要原理」、 などと語ることによっては、問題は、けっして簡単化されな ロンドン、一七九七年、六六頁。 ) 。流通においては、生産者と消費者は、販売者と購買者と

2. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

116 がインドで造幣されたー (=) 支払手段 以上で考察された商品流通の直接的形態においては、同じ 一方の極に 大いさの価値がつねに二重に現存していた、 は商品、その対極には貨幣。だから商品所有者たちは、相互 的に現存する諸等価の代表者として接触したにすぎない。と ころが、商品流通の発展につれて、商品の譲渡をその価格の 実現から時間的に分離させる諸関係が発展する。ここでは、 これらの関係の最も簡単なものを示唆すればよい。ある商品 種類は、その生産のために比較的ながい時間を要するが、他 の商品種類は、比較的みじかい時間しか要しない。商品が異 なれば、その生産の季節が異なることがある。ある商品は、 その市場所在地で生みだされるが、他の商品は、遠方の市場 へ旅しなければならない。だから、ある商品所有者は、他の ・商品所有者が購買者として登場する前に、販売者として登場 することがありうる。同じ人々のあいだで同じ取引がたえず くりかえされる場合には、商品の販売の条件が、その商品の 生産の条件によって規制される。他方、特定種類の商品、た とえば家の利用は、一定の期間ぎめで販売される。その期限 がすぎた後に、はじめて購買者は、その商品の使用価値を現 実に受けとったのである。だから彼は、その商品を、その支 払をする前に購買する。一方の商品所有者は現存する商品を 販売するが、他方は、貨幣のたんなる代表者として、あるい は将来の貨幣の代表者として、購買する。販売者は債権者と なり、購買者は債務者となる。このばあいには、商品の姿態 変換、あるいは、商品の価値形態の展開が変化するので、貨 幣もまた別の機能を受けとる。それは支払手段となる。 突ルターは、購買手段としての貨幣と支払手段としての貨幣とを区別して いる。「私が一方では支払いえず他方では買いえないという : : : 損害の賠仗 として、私は利息をえる。」 ( マルチン・ルター「高利を攻撃すべく僧侶に与 う」、ヴィテンベルヒ、一五四〇年。 ) 債権者または債務者という役柄は、ここでは、単純な商品 流通から発生する。単純な商品流通上の形態変化が、販売者 と購買者とに、これらの新たな刻印をおす。だから、それら は、さしあたり、販売者および購買者という役割と同じよう に、暫時的な・かっ同じ流通当事者たちによって交互的に演 ぜられる・役割である。だが、この対立は、いまや、元来あ まり気もちのよくないもののように見え、また、より大なる 結品化をきたしうるものである。だが、この二つの役柄は商 品流通から独立しても登場しうる。たとえば、古代世界の階 級闘争は主として債権者と債務者との闘争の形態で行なわれ たのであって、ローマにおいては平民債務者の没落をもって 終り、この債務者は奴隷にされた 9 中世においては、闘争は 封建的債務者の没落をもって終り、この債務者は、じぶんの 政治的力をその経済的土台とともに失った。とはいえ貨幣形 態は、 というのは、債権者と債務者との関係は貨幣関係 ここでは、より深く根ざしている の形態をとるのだが、 経済的な生活諸条件の敵対を反映しているにすぎない・ 卆一八世紀初頭のイギリスの商人たちのあいだの債務者債権者関係につい ては 「このイギリスでは、商人たちのあいだに、他のいかなる社会にお いても、また他のいかなる国においても見られないような、残忍の精神が支 ( 九セ ) ( 九六 )

3. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

してのみ対立しあう。生産者にとっての剰余価値は消費者が交換をまたないで、無償で、任意の法的および暴力的権源に一 商品を価値以上に支払うことから生ずるという主張は、商品 もとづいて、商品所有者たちそのものから、たえすこの階級 . 所有者は販売者として価値以上に販売する特権を有するとい のところへ流れてゆかねばならない。 こうした階級に商品を う単純な命題を仮装させるだけである。販売者は商品をみず価値以上に売ることは、無償で手放された貨幣の一部分をふ ( 二九 ) から生産したのであるか、さもなければ商品の生産者を代表たたびだまして取戻すことに他ならない。たとえば小アジア するのであるが、購買者もやはり、彼の貨幣で表示されてい の諸都市は、年々、貨幣の貢納を古代ローマに支払った。こ る商品をみずから生産したのであるか、さもなければその商の貨幣をもってローマは、商品をかの諸都市から買い、しか 品の生産者を代表する。かくして、生産者が生産者に対立すもそれを価値以上に買った。小アジア人たちは、商業という る。彼らを区別するものは、一方は購買し他方は販売すると方法で、征服者たちから貢納の一部分をふたたび詐取するこ いうことである。商品所有者は生産者という名のもとでは商とによって、ローマ人たちを捲きあげた。だが、それにもか 品をその価値以上に販売し、消費者という名のもとでは商品 かわらず、まきあげられた者はやはり小アジア人たちであっ を価値以上に支払うということは、われわれを一歩も前進さ た。彼らの商品は、あいかわらず彼らじしんの貨幣で彼らに . ( ニ ^ ) せない。 支払われた。こんなことは、けっして致富または剰余価値形【 毛・トレンズ「富の生産にかんする一論」、ロンドン、一八二一年、三四成の方法ではない。 九頁。 ニ九「ある人が需要を欠くばあいに、マルサス氏はその人にたいして、その ~ 天「利潤は消費者によって支払われるという考えは、たしかに極めて不合 人の財を買わせるために誰か他人に支払ってやれと勧告するであろうか ? 」 理である。消費者とは誰であるか ? 」 (t ・ラムジー「富の分配にかんする と、憤激した一リカード学徒はマルサスーー彼はその弟子の坊主チャルマズ 一論」、エディン・ハラ、一八三六年、一八三頁。 ) と同じように、たんなる購買者または消費者からなる階級を経済的に讃美し だから、剰余価値は名目的な価格引上げから生ずるとか、 ているーーーに質問している。「最近マルサス氏によって主張された需要の本・ 商品を価値以上に販売すべき販売者の特権から生ずるとかい 性および消費の必要にかんする諸原理の研究」、ロンドン、一八二一年、 五頁を見よ。 う幻想の徹底的主張者たちは、販売することなしに購買する ばかりの、したがってまた生産することなしに消費するばか だから、われわれは、そこでは販売者が購買者であり購買 りの、一階級を想定するのである。こうした階級の実存は、 者が販売者であるような、商品交換の限界内にたちとどまう われわれがこれまでに到達した立場・単純流通の立場・から う。われわれの当惑は、ひょっとすると、諸人物を人格化さ しては、まだ説明されえないものである。だが、われわれはれた範疇としてのみ把えて個人的に把えなかったことに由米 予断しよう。こうした階級がたえず購買するための貨幣は、 するのかもしれない。

4. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

内におしこめる。ここで、経済学的弁護論の大業の一つにたする。そして、これをさえ弁護論者は、失職労働者たちを産 ち帰っておこう。新機械の採用または旧機械の拡張によって業予備軍中に縛りつける過渡期中の彼らの窮乏・苦悩・およ 可変資本の一部分が不変資本に転化される場合には、資本をび起こりうべき減亡・にたいする補償だというのだ ! 労働 「墲綷」し、またまさにそうすることによって労働者を「遊にたいする需要は資本の増加と同一でなく、労働の供給は労 離」させるこの処置を、経済学的弁護論者は、その逆に、そ働者階級の増加と同一でなく、つまり、相互に独立する二つ さいころ れは労働者のために資本を遊離させるものと解する、という のカ能が相互に作用しあうのではない。骰子はいかさまだ。 ことが想いだされる。ひとは、今にして初めて、弁護論者の資本は同時に両面的に作用する。資本の蓄積が一方では労働 厚顔無恥を充分に評価することができる。遊離されるのは、 にたいする需要を増加するとすれば、他方では労働者の「遊 直接に機械によって駆逐される労働者ばかりでなく、彼らの離」によってその供給を増加するのであるが、それと同時 補充員、および、旧来の基礎上での普通の事業拡張のばあい に、失業者の圧迫は、就業者をしてより多くの労働を流動さ に規則正しく吸収される追加隊も、そうである。彼らは今やせることを余儀なくさせ、かくして或る程度では、労働供給 すべて「遊離」されているのであって、機能しようとする新を労働者供給から独立させる。この基礎上での労働の需要供 たな各資本は彼らを自由に処分することができる。この資本給の法則の運動は、資本の専制支配を完成する。だから、労 によって吸収されるのが彼らであろうと他の労働者であろう 働者たちがより多く労働し、より多く他人の富を生産し、彼晒 却と、機械が市場に投げつけたのと同数の労働者を市場から救らの労働の生産力が増加すればするほど、資本の増殖手段と 般うためにこの資本がちょうど充分であるかぎりは、一般的労しての彼らの機能すらも彼らにとってはますます覚東なくな の働需要にたいする影響はゼロであろう。この資本がより少数るのは何故か、という秘密を彼らが察知するや否や、彼らじ 蓄の労働者を就業させるならば、過剰労働者の数が増加する。 しんのあいだの竸争の強度がまったく相対的過剰人口の圧迫 的 それがより多数の労働者を就業させるならば、一般的労働需 制 に依存することを彼らが発見するや否や、したがって、彼ら が、彼らの階級にたいするかの資本制的生産の自然法則の破 資要が、「遊離労働者ーをこえる就業者の超過分だけ増加する。 章だから、投資口を求める追加的諸資本がもともと一般的労働壊的諸結果を粉砕または徴弱にするために、労働組合などに しすれにしても、機械によっ よって就業者と失業者とのあいだの計画的協力を組織しよう 一一需要に与えたであろう飛躍は、 : 第 て街頭に投げだされた労働者でたりるかぎりでは中和されてとするや否や、ーー資本、したがってその追従屋たる経済学 いゑつまり、資本制的生産の機構は、資本の絶対的増加が者は、「永遠的」でいわば「神聖な」需要供給法則の侵害に どな 繝 一般的労働需要の照応的増大を伴なうことのないように配慮ついて呶鳴りたてる。けだし、就業者と失業者とのあいだの

5. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

る。かくして、一商品の最後の姿態変換は、同時に、ほかの売者としての彼には他の一購買者が、購買者としての彼には 一商品の最初の姿態変換である。わが亜麻織物業者にとって他の一販売者が、対立する。同じ商品が二つの逆の転形をつ は、彼の商品の生涯は、彼が一一ポンドを再転形した・ハイブル ぎつぎに通過して、商品から貨幣となり、また貨幣から商品 をもって終結する。ところで、・ ( イブル販売者は、亜麻織物となるのと同じように、同じ商品所有者が販売者と購買者と 業者から受けとった二ポンドを火酒に転態する。 の役割をとりかえる。だから、それらは、なんら固定的な役 ( 亜麻布ー貨幣ー・ ( イ・フル ) の最後の段階たる t—3 は、同柄ではなく、商品流通の内部でたえず出演者をとりかえる役 時に、 C( イプルー貨幣ー火酒 ) の最初の段階た柄である。 るーである。商品生産者は、一面的な生産物だけを提供 一商品の総体的姿態変換は、それの最も簡単な形態におい するので、しばしばそれを比較的多量に販売するが、他方で ても、四つの極と三人の登場人物とを内蔵している。まず商 は、その多面的な慾望に余儀なくされて、実現された価格ま 品にたいし、それの価値姿態としての貨幣が対応するのであ たは受けとった貨幣額を、たえす多数の購買に分裂させる。 るが、この価値姿態は、かなたの他人のポケットにおいて、 だから、一つの販売が、相異なる諸商品の数多くの購買にな 物象的・感覚的な現実性をもっている。かくして、その商品 ってゆく。かくして、一つの商品の最後の姿態変換は、他の所有者にたいしては、一人の貨幣所有者が対応する。さて、 諸商品の最初の姿態変換の総和をなす。 商品が貨幣に転形するや否や、その貨幣は商品の暫時的な等 さて、一商品、たとえば亜麻布の総体的姿態変換を考察す価形態となるのであって、この等価形態の使用価値または内 るならば、われわれは、さしあたり、それが二つのあい対立容は、こなたの他の諸商品体のうちに実存する。第一の商品 し相互に補いあう運動、すなわちーとーとから成り 転形の終点として、その貨幣は同時に、第二のそれの出発点 たっことに気がつく。商品のこの二つのあい対立する転形である。かくして、第一幕の販売者が第一一幕では購買者とな 商 はは、その商品所有者の二つのあい対立する社会的手続きにお るのであり、そこでは彼にたいし、ある第一二の商品所有者が まいてみずからを成就し、かっ、その商品所有者の二つのあい 販売者として対応する。 貨対立する経済的役柄においてみすからを反射する。彼は、販 七一「だから四つの極点と三人の契約者とがあり、そのうちの一人は二度か かりあいになる。」 ( ル・トローヌ「社会的利益について」、九〇八頁。 ) 章売の代理者としては販売者となり、購買の代理者としては購 商品の姿態変換上のこの二つの逆な運動段階は、一つの循 第買者となる。ところが、商品のどの転形においても商品の両 形態たる商品形態と貨幣形態とはあい対立する両極にのみ同環ーー商品形態、商品形態の脱却、商品形態への復帰ーーを 時に実存するのと同じように、同じ商品所有者にたいし、販なす。もちろん、商品そのものはここでは対立的に規定され ( 七一 )

6. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

れがとうてい消費しきれないほど多くの工場主を製造するであろう。 かくして資本制的生産過程は、それ自身の進行によって、 ・ : ポッター氏は、一年か二年か三年で綿業が復活するかのように語労働力と労働条件との分離を再生産する。かくすることによ り、労働者の移住を奨励したり許可したりしないことをわれわれに要 ってそれは、労働者の搾取条件を再生産し、永遠化する。そ 求する ! 労働者が移住を欲するのは当然だと彼はいう。だが、彼の れは、たえず労働者をして生きるために労働力を売ることを 考えでは、国民は、七〇万の扶養者をつれたこの五〇万の労働者を、 余儀なくさせ、たえず資本家をして致富のために労働力を買 彼らの要求にもかかわらす綿業地方に閉じこめ、その必然の結果とし きしゃ うことを得させる。資本家と労働者とを、購買者および販売 て、彼らの不満を暴力で弾圧し、彼らを喜捨で養っておかねばならぬ、 すべては、綿業主がいっか彼らをふたたび必要とするかもしれぬ者として商品市場で対応させあうものは、もはや偶然ではな 。後者をたえす自分の労働力の売手として商品市場に投げ というチャンスを当てにしてーー・というのである。「この労働力」を、 かえし、彼じしんの生産物をたえす前者の購買手段に転化さ 石炭や鉄や棉花のように取扱おうとする人々の手から救うために、こ ( 一五 ) の国の偉大なる輿論が何事かをなさねばならぬ時が到来した」と。 せるということは、過程そのものの筋書きである。事実上、 毫「タイムズ」紙、一八六三年三月二四日付。 労働者は、彼がじぶんを資本家に売るまえに資本に属してい る。彼の経済的隷属は、彼の自己販売の周期的更新や、彼の この『タイムズ』の論説は、機智の戯れにすぎなかった。 「偉大なる輿論」は事実上、工場労働者たちは工場の動産的個人的雇主の変化や、労働の市場価格の動揺やによって、媒 附属物だというポッター説と同じであった。彼らの移住は阻介されると同時に隠蔽されている。 止された。彼らは、綿業地方の「道徳的救貧院」に閉じこめ 宅「労働者は生きるために生計手段を要求し、雇主は儲けるために労働を 要求した。」 ( シスモンデイ「経済学新原理」、九一頁。 ) られた。そして相変わらす「ランカシャーの綿業主たちの強 穴この隷属の素朴で粗野な一形態がダラム州に実存する。ダラム州は、諸 み」をなしている。 関係が農耕日雇労働者にたいする借地農業者の争うべからざる所有権を保証 していない少数の州の一つである。農耕日雇労働者は鉱山業にもっくことが 一六イギリス議会は、移住のためには一文の支出も決議しないで、ただ、都 でぎる。したがって借地農業者は、常例に反して、ここでは、労働者向きの 市当局をして労働者たちを生死の間に維持することーーすなわち、標準賃銀 小屋のある地所だけを借地する。小屋の家賃は労賃の一部をなす。この小屋 を支払わないで彼らを搾取することーーーを得させる条例を決議しただけであ ぎゅうえき は hind's houses ( 「作男の家しと呼ばれる。それは、特定の封建的義務の る。これに反し、三年後に牛疫が発生したとき、イギリス議会は乱暴にも議 もとで、すなわち bondage ( 「隷属倒しと呼ばれていて、労働者にたいし 会的作法さえ破って、百万長者地主・ーーーそれから借地する農業者たちは、そ 例えば彼が他所ではたらく時間だけ娘などをさし出す義務をおわせる契約の うでなくても肉価騰貴によって損失を免れたーーーの損失を補償するために、 もとで、労働者に賃貸される。労働者じしんは bonds ・ man すなわち隷農と たちまちにして数百万の支出を決議した。一八六六年の議会開会に当っての 呼ばれる。この関係はまた、労働者の個人的消費が資本のための消費または 土地所有者たちの、けもののような叫びは、牝牛サ・ハーラを崇拝するために しかも、つぎのような全く新たな 生産的消費であることを示している、 はヒンヅー教徒たるを要せず、牡牛に転身するためにはジュ・ヒタ 1 たるを要 側面から。「この隷農の糞尿さえも、勘定だかい支配者の副収入に数えられ しない、ということを証明した。 ( 一七 ) ( 一八 ) ( 一九 )

7. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

および、工場のさまざまな部門のあいだへの諸労働者団 自動装置の斉一で継続的な運動に適合させることを学ぶため といっても、彼らは編制された諸群を形成してはいない の、早くからの修業を必要とする。全機械装置そのものが、 の配分であるが、そこでは彼らは、並列する同種の諸道具機多様な・同時に作用する・結合された・諸機械の一体系をな について労働するのであり、つまり、彼らのあいだでは単純すかぎりでは、全機械装置にもとづく協業も、さまざまな種 マニュファクチュアにおける類の機械のあいだへの様々な種類の労働者群の配分を必要と 協業が行なわれるにすぎない。 編制された群が、主労働者と少数助手との関連によって置換する。しかるに機械経営は、同じ労働者を同じ職分にたえず えられている。本質的区分は、現実に道具機につかされてい 従わせることによってこの配分をマニュファクチュア的に固 かまた る労働者 ( そのうえに、発動機の見張りまたは罐焚きをする定化させる、という必要を止揚する。工場の全運動が、労働 者からでなく機械から出発するのであるから、労働過程の中 若干の労働者が加わる ) と、この機械労働者の単なる手伝い 〈ほとんどもつばら児童 ) との区分である。多かれ少なかれす断なしに、たえざる人員交代が行なわれうる。一八四八ー一 べての「フィ ーダー」 ( 機械に労働材料を給するにすぎぬ者 ) 八五〇年のイギリスの工場主たちの叛逆中に実行されたリレ ー制度は、この点について最も適切な証拠を提供するい最後 は、この手伝いに数えられる。これらの主要部類のほかに、 技師・機械工・指物工などのような、全機械の統御およびそに、機械による労働が若いときに習得される速さも、特殊的 の絶えざる修繕に従事している、数的にはとるに足りない人労働者部類をもつばら機械労働者に仕立てる必要をなくす 員がいる。これは高級な 一部は科学的教養のある、一部る。ところで、単なる手伝いの勤務は、工場では、一部は機 は手工業的なーー労働者部類であって、工場労働者の範囲外械によって置換えられうるものであり、一部は、まったく簡 に属し、工場労働者に附属させられているにすぎない。 この単なために、この苦役に服する人物はいつでもすぐ交代させ ることができる。 分業は純粋に技術的である。 一公一ユーアはこのことを認める。彼は、労働者は「必要なばあいには」支 一 ^ 一イギリスの工場立法は、本文で最後にあげた労働者を、明らかに非工 配人の意志によって一機械から他の機械に移されうるとし 、い、そして得意げ 場労働者として、工場立法の適用範囲から除外しているが、他方、議会によ に叫んでいう、 「こうした交代は、労働を分割して一方の労働者には留 って公けにされた「報告」では、やはり明らかに、技師や機械工などばかり 針の頭をつくる仕事をさせ、他方の労働者にはその尖きを研ぐ仕事をさせる でなく、工場支配人・事務員・小使・倉庫番・荷造り人など、要するに、エ はんらゆう という、旧来の慣例とは明らかに矛盾する」と。〔「マニュファクチュアの哲 場主自身をのぞくすべての人々を工場労働者の範疇に含めているのであっ 学」、一三頁。〕彼はむしろ、何故にこの「旧来の慣例」が、自動的工場では て、これは、統計的欺瞞の意図ー・・ーこの意図はほかの点でもなお詳細に証明 「必要なばあい」にかぎって廃されるかを、問題とすべきであったろう・ されうるであろうーーーを示すものとして、特徴的である。 天三せつばつまれば、たとえばアメリカの南北戦争中のように、工場労働 機械によるすべての労働は、労働者が自分じしんの運動を 者が例外的に・フルジョアにより、道路工事のような極めて荒っぽい労働に使 二八二 ) ( 一八四 )

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352 と仮定しよう。このことは、街頭に投出された壁紙製造工に五〇人の解雇された壁紙労働者の労働によって増殖された資 たいする補償となりえようか ? 機械の製作は、せいぜい 本であった。したがってこの資本は、五〇人がお暇をもらえ 機械の使用によって駆逐されるよりも少数の労働者を就業さ ば仕事がなくなるのであって、前述の五〇人がそれを再び生 せるにすぎない。解雇された壁紙製造工の労賃だけを表わし産的に消費しうる新たな「投資ロ」が見いだされるまでは落 た一五〇〇ポンドという金額は、いまや、機械の姿態におい 付くところがない。だから、おそかれ早かれ、資本と労働者 て、 (l) 、機械の生産に必要な生産手段の価値、 (ll) 、機械とは再会せねばならぬのであって、その場合には補償が行な を製作する機械工の労賃、 (lll) 、その「雇主」の手に帰するわれるのだ。だから、機械によって駆逐された労働者の苦悩 剰余価値、を表わす。さらに機械は、ひとたび出来あがった は、この世の富と同じように一時的なものである。 ならば、その死後まで更新される必要がない。だから、機械 一五〇〇ポンドだけの生活手段が解雇された労働者たちに 工の追加数をひきつづき就業させるためには、壁紙工場主が対立したのは、けっして資本としてではない。資本として彼 あい次いで労働者を機械によって駆逐せねばならない 9 らに対立したのは、今では機械に転形されている一五〇〇ポ じつは、かの弁護論者たちも、この種の資本遊離のことをンドであった。もっと詳しく考察すれば、かの一五〇〇ポン いっているのではない。彼らは、遊離された労働者たちの生 ドは、解雇された五〇人の労働者によって一年間に生産され 活手段のことをいっているのだ。たとえば前例において、機た壁紙の一部分を代表したにすぎぬのであ 0 て、これを彼ら 械は、五〇人の労働者を遊離させることによって「自由に利 は、現物でではなく貨幣形態で、その雇主から賃銀として 用されうるもの」たらしめるばかりでなく、同時に、一五〇受けとったのである。彼らは一五〇〇ポンドに転形された壁 〇ポンドの価値ある生活手段との彼らの関連を止揚するので紙をも 0 て、同じ額の生活手段を買 0 た。したがってこの生 あり、かくしてこの生活手段を「遊離させる」のだというこ活手段は、彼らにと「ては、資本としてでなく商品として実 とは、否認されえない。 つまり、機械は労働者を生活手段か存したのであり、また彼らじしんは、これらの商品にとって ら遊離させるという簡単であって目新しくもない事実が、経は、賃労働者としてでなく購買者として実存したのである。 済学的には、機械は生活手段を労働者のために遊離させる、 機械が彼らを購買手段から「遊離」させたという事情は、彼 あるいは労働者を使用するための資本に転化させる、という らを購買者から非購買者に転化させる。したがって、かの商 ことになる。かように、ものごとは言いかた一つである。悪 品にたいする需要が減少する。それだけのことだ。この需要 いことでも名のつけ方で胡麻化せる。 減少が他の方面からの需要増加によって補償されなければ、 この説によれば、一五〇〇ポンドの価値ある生活手段は、 これらの商品の市場価格が下落する。こうしたことが比較的

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150 らか変わ「ているように思われる。さきの貨幣所有者は資本第三篇絶対的剰余価値の生産 家として先にたち、労働力所有者は彼の労働者としてその後 につづく 前者は、意味ありげに作り笑いをしながら、 業務一途に。後者は、あたかも自分じしんの皮を売渡してし まって、いまやなめし皮にされること以外には何も期待でき ない者のように、おずおずと渋々ながら。 いちず 第一節労働過程 労働力の使用は労働そのものである。労働力の購買者は、 その販売者を労働させることによって労働力を消費する。労 働力の販売者は、労働することによって、顕勢的に、自らを 実証しつつある労働力・労働者・となるのであって、それ以 前には、潜勢的にそうであったにすぎない。自分の労働を商 品において表示するためには、彼は、何よりもます、それを 使用価値・ーー・何らかの種類の慾望の充足に役だつ物象ーーに おいて表示しなければならない。だから、資本家が労働者に 作らせるものは、ある特殊的使用価値、ある一定の財貨であ る。使用価値または財の生産は、それが資本家のために資本 第五章労働過程と価値増殖過程

10. 世界の大思想18 マルクス 資本論1

しほんぬし 一三だからオーギュスト・コントとその学派は、彼らが資本主の永遠的必 のものが資本に属する以前に労働者によっては展開されない 然性を証明したのと同じ仕方で、封建的領主の永遠的必然性を証明すること から、資本が生れながらにもっ生産力として、資本の内在的 もできたであろう。 生産力として、現象する。 労働者は、じぶんの労働力の販売者として資本家と取引す 単純協業の効果は、古代のアジア人、エジ。フト人、エトル るあいだは、じぶんの労働力の所有者であり、また彼は、じ リア人などの巨大工事にひじようによく現われる。「過去の ぶんの所有するもの、じぶんの個人的・個別的労働力を、販時代のことだが、これらのアジア国家は、その行政費および 売しうるにすぎない 。この関係は、資本家が一個の労働力で軍事費を支弁した後になお余分の生活手段をもっていて、そ ごうしゃ なく一〇〇個の労働力を買うこと、あるいは、一人の労働者れを、豪奢な工事や有用な工事に支出することができた。こ とでなく一〇〇人のたがいに独立する労働者と契約を結ぶこれらの国家がほとんどすべての非農耕人口の労働力のうえに とによっては、けっして変化しない。彼は一〇〇人の労働者ふるった指揮と、前述の余分にたいする国王や僧侶の排他的 を、協業させることなしに使用することもできる。だから資自由処分とは、彼らが国中に設けたかの巨大な記念物の建設 ・ : 巨大な像や尨大なものを 本家は、一〇〇個の自立する労働力の価値の支払はするが、 のための手段を彼らに与えた。・ それらの物が運搬されたことは驚歎 一〇〇人の結合労働力の支払はしない。独立の人格として動かすに当っては、 ほとんど人間の労働だけが惜しげなく に値するのだが、 は、労働者たちは、同じ資本と関係するが相互には関係しな い個々別々の人である。彼らの協業はやっと労働過程で始ま充用された。労働者の数と、彼らの骨おりの集中だけで充分 きんごらゆう るのであるが、労働過程では、彼らがすでに自分じしんのもであった。たとえば、われわれは、なるほど個々の珊瑚虫は さんごしよう のではなくなっている。労働過程にはいるとともに、彼らは微小で貧弱で軽蔑すべきものだとはいえ、巨大な珊瑚礁が大 業資本に合体されている。協業者としては、活動的有機体の手洋の深部から隆起して島となり陸地となるのを見る。アジア 足としては、彼らじしんが資本の特殊的実存様式たるにすぎの一王国の非農耕労働者たちは、彼らの個人的な肉体的骨お り以外には工事に寄与すべきほとんど何ももたないが、彼ら 協ない。だから、社会的労働者としての労働者が展開する生産 章力は、資本の生産力である。労働の社会的生産力は、労働者の数は彼らのカであ 0 て、この大衆を指揮する権力がかの巨卸 一たちが一定の諸条件のもとに置かれるや否や無報酬でみすか大工事を生ぜしめたのである。こうした事業を可能にしたの 第 は、労働者たちの生活するための収入が一人または少数者の らを展開するのであり、そして資本は労働者たちをこうした ( 二三 ) 諸条件のもとに置くのである。労働の社会的生産力は、資本手に集中されていたことであった」。アジアおよびエジプト にとっては何も要費しないから、また他面、労働者の労働その国王やエトルリアの神政者などのこうした権力は、近代社