242 そ に、現実に生産的な社会の全労働者たちの年々の生産諸力を、 法者および経済学者の主たる注意は、生産諸力と、その将来の自由な 発展とに向けられるべきであって、従来のように、人目にたっ、たんれらの対象物は、この労働によ 0 て絶えず反復的に生産される生産物 にくらべればとるに足りぬほどかもしれぬとはいえ、ーー - ・支配してい に蓄積された富に向けられるべきではない。、 しわゆる蓄積された富の ほとんど大部分は、たんに名目的なものであって、船舶や家屋や綿製る。大ブリテンとアイルランドの人口は二〇〇〇万人である。男子、 品や土地改良のような現実的対象物からなるのではなく、社会の将来女子、および児童の一人あたりの平均消費はおそらく約二〇ポンドで の年々の生産諸力にたいする単なる請求権ーー不安泰をともなう方策あって、合計約四億ポンドの富が年々消費される労働生産物である。 これらの国の蓄積資本の総額は、見積りによれば一二億ポンド、すな ないし制度によって生みだされ、かっ永遠化された請求権ーーからな る。 ・ : こうした財貨 ( 諸自然物の蓄積または現実的富 ) を、その所わち、年々の労働生産物の三倍をこえす、平等に分割すれば一人あた 有者たらのために富ーー社会の将来の生産諸力がはじめて創造すべき り六〇ポンドの資本である。われわれがここで問題にするのは、多か 富 , ーーを取得するための単なる手段として使用すること、こうした使れ少なかれ正確なこの見積り額の絶対額よりも、むしろその比率であ 用は、暴力を用いることなしに分配の自然法則によってだんだんと彼る。この総資本の利子は、総人口の現在の生計を年々約二か月間維持 らから取上げられるであろう。協同組合的労働の援けによって、こうするに足り、そして、総蓄積資本そのものは ( その買手が見つかるも のとすれば ) 、労働なしでも、総人口の生計をまる三年間維持するに した使用はわすか数年間に彼らから取上げられるであろう。」 ( ウィリ アム・タムスン「富の分配にかんする諸原理の研究』、ロンドン、一八足りるであろう ! この期間の終りには、彼らは家も衣類も食物もな 五〇年、四五三頁。ーーこの書は最初一八二四年に現われた。 ) しに餓死せざるをえないか、あるいはまた、この三年間彼らを維持し てきた人々の奴隷とならぎるをえないであろう。三年が、健康な一世 「分量から見ても作用カから見ても、社会の事実上の蓄積は、人間の 生産諸力にくらべれば、いなむしろ、わすか数年間におけるただ一世代の生活時間たとえば四〇年にたいする比。これは、現実的富の大い さと重要さが、すなわち最富裕国でさえもの蓄積資本が、その国の生 代の人間の普通の消費にくらべても、きわめて僅かなものだというこ とは、ほとんど考慮されす、たいていの人々によっては想像もされな産力にたいする比、人間一世代の生産諸力にたいする比。ーーといって 。その理由は明白であるが、結果はきわめて有害である。年々消費も、それが均等な安泰をともなう賢明な制度のもとでかっ殊に協同組 される富は、その使用につれて消滅する。それが眼前にあるのは一瞬合的労働をもって生産しうるものにたいする比ではなく、それが不安 こそく 間にすぎず、それが享楽され消費されるあいだしか印象を与えない。 泰をともなう不完全で嫌になる姑息手段のもとで現実に絶対的に生産 だが、富のうちでも徐々にしか消費されない部分たる家具や機械や建しているものにたいする比であるー ・ : そして、この一見大な分 物は、われわれの幼時から老年にいたるまでわれわれの眼前にあり、 量の現存資本をーーあるいはむしろ、この資本によって獲得された、 人間の努力の耐久的記念碑である。公共的富のうらのこうした固定的年労働の生産物にたいする指揮および独占をーー・その現在の強制的分 で耐久的で徐々にしか消滅されない部分たる土地や、加工される原料割状態のままで維持し永遠化するためには、憎むべき全機構が、不安 や、加工する道具や、作業中に雨露をしのぐ家屋やを所有することに泰のもたらす背徳・犯罪・および苦悩が、永遠化されねばならない。 よって、これらの対象物の所有者たちは、彼らじしんの利益のため必然的慾望がまず充足されないでは何らの蓄積も行なわれえず、しか
て、このばあいには、五週間の剰余価値が、この五週間に充は年支出のうち上述の部分に等しい部分は、 一年たつう 用される資本にもとづいてではなく、五〇週間に充用されるちに現実に充用され、生産的に消費された可変資本である。 だから、つぎのようにいえる。一年間に回転した可変資本 一〇倍だけのーー資本にもとづいて計算される。 第二に、 五週間という資本の回転期間は一年の一〇と一年間に回転した可変資本とが同等量であり、それらが 分の一にすぎず、したがって一年は、資本五〇〇ポンドが同等な価値増殖条件のもとで充用され、したがって剰余価値 たえす新たに充用されるこうした回転期間を一〇個ふくむ。 率が両資本にとって同一だとすれば、一年間に生産される剰 充用資本は、このばあいには、五週間分の投下資本に一年間 余価値の分量も両資本にとって同一でなければならず、した の回転期間数を乗じたものに等しい。一年間の充用資本は、 がって、充用資本分量は同一だから、年単位で計算された剰 5000 1 翁一三ⅱ艤洋汁 D 500X10 Ⅱ五〇〇〇ポンドである。一年間の投下資本は 余価値率も、それが 10 1 一い巨 b 汁ミ灣暑 ⅱ五〇〇ポンドである。事実上では、五〇〇ポンドがたえず現されるかぎりは、両資本にとって同一でなければならな 新たに充用されるのであるが、どの五週間にもこの五〇〇ポ 、と。または、一般的に表現すれば、回転した両可変資本 ンド以上は投下されない。他方、資本のばあいには、なるの相対的大いさに係わりなく、一年間に生産された両資本の ほど、五週間に充用されるのも、この五週間のために投下さ 剰余価値の率は、そのもとでそれぞれの資本が平均期間 ( た れるのも、五〇〇ポンドにすぎない。だが、回転期間はこのとえば一週間平均または一日平均 ) に働いてきた剰余価値率 ばあいには五〇週間であるから、一年間の充用資本は、毎五 によって規定されている。 週間分のでなく五〇週間分の投下資本に等しい。だが、一年 これは、剰余価値の生産にかんする・および剰余価値率の 剰余価値率は与えら規定にかんする・諸法則から生する唯一の結論である。 転間に生産される剰余価値の分量は、 回 1 回 b 汁暑 れているものとしてーー一年間の充用資本によって定まり、 さて、さらに、 の ( ここでは、すでに述 本 一年間の投下資本によっては定まらない。だから、それは、 べたように可変資本だけを問題とする ) という比率がなにを 資 変 この一度だけ回転する資本五〇〇〇ポンドにとっては、一〇表現するかを、調べてみよう。この割算によって、一年間に 可 章度だけ回転する資本五〇〇ポンドにとってよりも大きくはな投下された資本の回転数がわかる。 1 翁匪ⅱ巨薰 b 汁瀅 580 ま、 F 資本では く、どちらも同じ大いさであるが、それはけだし、一年間に であり、資本では 洋ョ洋汁暑 83 ま、 F 第 1 翁ⅱ回粛 b 汁き 8 、 F 一度だけ回転する資本そのものの大いさが、一年に一〇度だ である。 洋ョ以洋汁暑 5 只るヾ F け回転する資本の一〇倍だからに他ならない。 どちらの比率においても、分子は、投下資本に回転数を乗 では 500X10 を、では 5000X1 を、表わ 一年間に回転した可変資本は、 じたものを、 つまり、年生産物また
す。あるいはまた、年単位で計算された回転時間の逆数を乗働および不払労働 ) を運動させるために、したがってまた同 一分量の剰余価値を一年間に生産するために、の一〇倍の 2 じたものを表わす。の回転時間は 1 面年、その逆数は些 1 年であり、したがって 500X 三一 = 五〇〇〇である。では資本 ( 五〇〇〇ポンド ) を充用したことになる。現実の剰余 5000X ドⅱ五〇〇〇である。分母は、回転した資本に回転数価値率によって表現されるものは、一定期間に充用された可 では 5000X ド。を、では変資本が、同じ期間に生産された剰余価値にたいする比率、 の逆数を乗じたものを、 または、この期間に充用された可変資本が運動させる不払労 5000X ドを、表わす。 一年間に回転した両可変資本によって運動させられたそれ働の分量に他ならない。現実の剰余価値率は、可変資本のう それの労働分量 ( 支払労働と不払労働との合計 ) は、このばち、その期間に充用されないで投下されている部分とは絶対 に関係がなく、したがってまた、一定期間中に投下される資 あいには相等しい。というわけは、回転した両資本そのもの 本部分と、同じ期間中に充用される資本部分とのーー資本が が相等しく、それらの資本の増殖率も相等しいからである。 一年間に回転した可変資本が投下可変資本にたいする比率異なれば回転期間によって修正されて相違をきたすーー比率 とも絶対に関係がない。 は、 ( 一 ) 、投下されるべき資本が、一定の労働期間に充用さ 剰余価値年率は唯一のばあいにのみ、労働の搾取度を表現 れる可変資本にたいする比率をしめす。回転数が << でのよう する現実の剰余価値率と一致するということは、むしろ、す に一〇であり、一年は五〇週間とすれば、回転時間は五週間 でに展開したところから出てくる。その唯一のばあいという である。この五週間のあいだ可変資本が投下されねばならぬ のは、投下資本が一年にただ一度だけ回転するばあい、した のであって、この五週間のあいだ投下される資本は、一週間 に充用される可変資本の五倍でなければならない。すなわちがって、投下資本が一年間に回転した資本と等しいばあい 投下資本 ( ここでは五〇〇ポンド ) の五分の一しか一週間中したがって、一年間に生産された剰余価値の分量がその生産 のため一年間に充用された資本にたいする比率が、一年間に に充用されえない。ところが、回転数が 1 一 1 である資本 では、回転時間は一年Ⅱ五〇週間である。だから、投下資本生産された剰余価値の分量が一年間に投下された資本にたい が毎週の充用資本にたいする比率は 50 】 1 である。のこのする比率と一致し、同一であるばあいである。 に等し 、剰余価値年率は、 比率がのそれと同じだったならば、は毎週、一〇〇ポンド 。しかるに、一年間に生産された剰余価値の分量は、現実 でなく一〇〇〇ポンドを投下せねばならなかったであろう。 (ll) 、は、同一分量の可変資本、したがってまた、剰の剰余価値率に乗するに、その剰余価値の生産に充用された 余価値率を与えられたものとすれば同一分量の労働 ( 支払労可変資本をも「てしたものに等しい。一年間の剰余価値分量
ところで、—で商品生産物の形態で再現する不変資本価値資本制的でなく社会的だとしても、明らかに、部門—のこれ らの生産物は、再生産のために、同じようにたえず生産手段 3 についていえば、その一部分は、それが生産物として出てく るその特殊的生産部面に ( または、その個別的事業経営にさ として—の生産諸部門間に再配分されるのであって、一部分 えも ) ふたたび生産手段として入りこむ、 たとえば、穀は直接、それが生産物として出てきたその生産部面にとどま 物が穀物生産に、石炭が石炭生産に、鉄が機械の形態で鉄の るが、他の部分は他の生産場所へ遠ざけられ、かくして、こ 生産に、等々。 の部門のさまざまな生産場所のあいだをたえす移動するであ ろう。 とはいえ、不変資本価値—を構成する部分諸生産物がその 特殊的または個別的生産部面にふたたび直接に入りこまない かぎりでは、それらは場所をかえるだけである。それらの生 第七節両部門における可変資本と剰余価値 産物は現物形態で部門—の他の生産部面に入りこみ、部門 の他の生産部面の生産物がそれらを現物で填補する。これ だから、年々生産される消費手段の総価値は、一年間に再 は、これらの生産物間の単なる位置変換である。これらの生生産される可変資本価値Ⅱと新たに生産される剰余価値Ⅱ 産物はすべて、—における不変資本をーーただ—の一群での ( すなわちⅡで一年間に生産される価値 ) 、。フラス、一年間に かわりに他の群でーー填補する諸要因として再び入りこむ。 再生産される可変資本価値—と新たに生産される剰余価値— このばあいに—の個々の資本家たちのあいだの交換が行なわ ( すなわち—で一年間に生産される価値 ) 、に等しい だから、単純再生産という前提のもとでは、年々生産され れるかぎりでは、それは不変資本のある現物形態と不変資本 る消費手段の総価値は、年々の価値生産物、すなわち、社会 の他の現物形態との交換であり、ある種類の生産手段と他の 種類の生産手段との交換である。それは、—のさまざまな個的労働によって一年間に生産される全価値に等しく、また等 別的不変資本部分の相互間の交換である。諸生産物は、それしからざるをえない。けだし、単純再生産にあってはこの全 らじしんの生産諸部門における生産手段として直接こ役ここ 冫 / オオ価値が消費されるからである。 ないかぎり、それらじしんの生産場所から他の生産場所へ遠 総社会的労働日はつぎの二部分に分かれる。 ( 一 ) 、必要労 ざけられ、かくして相互に填補しあう。 いいかえれば ( Ⅱで働、ーー・これは一年間に 1500V という価値を創造する。 ( 一 I) 、 剰余価値について生じたのと同じように ) 、 —の各資本剰余労働、 これは 1500m という追加価値または剰余価値 家は、この不変資本 4000 にたいする持分に比例して、自分にを創造する。これらの価値の合計 3000 は、年々生産される消 必要で適当な生産手段をこの商品分量からひき出す。生産が費手段の価値 3000 に等しい。だから、一年間に生産される消
の生産に充用された資本は、投下資本に乗ずるに、その回転も大きいばあいには、はより大きいということになる・ 数ーーこれをわれわれはと名づけようーーをもってしたも 最後に、が 1 より小さいばあい、すなわち、一年間に回 のに等しい。だから、範式 <t はつぎの範式に転化する。 転した資本が投下資本の一部分にすぎず、したがって回転期 法 0 お》言 x 洋ー「洋汁ゴ」・感 x n 、剰余価値年率は、 間が一年よりも長いばあいには、はよりも小さい 洋ー F 洋涬ゴ IQ い。たとえば、資本のばあいによ、】 00 x き oox しばらく、この最後の場合について述べよう。 前例のすべての前提がそのままであって、ただ回転期間が 一〇〇 % である。 n Ⅱ 1 であるばあいにのみ、すなわち、投 下可変資本が一年に一度しか回転せず、つまり一年間に充用五五週間に延長されるとしよう。労働過程は、毎週一〇 0 ポ されたーーまたは回転したーー資本に等しいばあいにのみ、 ンド、したがって回転期間中には五五 0 〇ポンドの可変資本 剰余価値年率は現実の剰余価値率に等しい を必要とし、毎週一〇〇ポンドの剰余価値を生産する。だか 剰余価値年率を、現実の剰余価値率を、投下可変資本らは、前と同じく一〇〇 % である。回転数は、このばあ m 、 V n を、回転数をと名づけるならば、 M 、 いには = 川ⅱである。けだし、回転時間は 1 十 1 面年 である。だから M 、 " m 、 n であって、 M 、Ⅱ m 、であるのは、 日Ⅱ面年だからである。 ( 一年は五 0 週間とする ) 10 10000 、、 10 1000J x 5500 x 10Z11 Ⅱ 1009 X M 、 n Ⅱ 1 、したがって、 M 、Ⅱ m 、 x 1 Ⅱ m 、であるばあいだけ 11 11 11 5500 である。 であり、つまり一〇〇 % よりも小さい。じつは、剰余価値年 さらに、 剰余価値年率は、つねに m 、 n 、すなわち、 率が一〇〇 % ならば、 5500V は一年に 5500m を生産するはす 一回転期間中に消費された可変資本によってその期間中に生であるが、これだけ生産するためにはⅡ面年かかるのだ。 転産された現実の剰余価値率に乗ずるに、一年間のこの可変資 5500V が一年に 5000m しか生産せず、したがって剰余価値年 5 っ 00 m 10 10 の本の回転数をもってしたもの、または ( 同じことだが ) 、一率は 11 Ⅱ 90 凵「よである。 558 v 資年を単位として計算されたその回転時間の逆数をもってした だから乘余イイ 、面直年率、すなわち、一年間に生産された剰余 可ものに、等しいということになる。 ( 可変資本が一年に一〇価値と総投下可変資本 ( 一年間の回転可変資本とは別もの ) 章度回転するならばその回転時間は 1 面年であり、したがっ との比較は、たんに主観的な比較ではなく、資本の現実的連 「てその回転時間の逆数は聖 1 日一〇である。 ) 動そのものがこの対比を生ぜしめるのである。年度末には、 第 さらに、 n 日 1 であるばあいには M 、日 m 、であり、 資本の所有者にとっては、彼の投下可変資本日五〇〇ポン 四Ⅱが 1 より大きいばあい、すなわち、投下資本が一年に一度 ドが還流したほかに、五〇〇〇ポンドの剰余価値がある。彼 以上回転するばあい、または、回転した資本が投下資本より が一年間に充用した資本の分量でなく、周期的に彼の手に還 0
み成りたつ。ところで年賃銀は労働者階級の収入をなし、剰ち、その価値が再現するにすぎない生産手段をも含むのであ 余価値年額は資本家階級の収入をなす。だから両者は ( そし って、この生産手段は、その価値についていえば、その年度 てこの観点は単純再生産の叙述では正しい ) 、年々の消費元 に支出された労働によって生産されたのでも再生産されたの 本の相対的分前をあらわし、この消費元本において実現されでもない。 この混同によって・スミスは、年生産物の不変 る。だから、どこにも、不変資本価値のためのーー生産手段的価値部分を追いだした。この混同そのものは、彼の根本的 形態で機能する資本の再生産のためのーー余地はない。とこ見解におけるもう一つの誤りにもとづく。すなわち彼は、労 ろで、商品価値のうち収入として機能する部分ぜんたいは、 働そのものの二者分裂的性格をーー労働力の支出として価値 社会的消費元本たるべき年々の労働生産物と一致するというを創造するかぎりでの労働と、具体的・有用的労働として使 ことを、 << ・スミスは明白にその著書の緒論で述べていう、 用対象 ( 使用価値 ) を創造するかぎりでの労働とをーー・、区別 「国民一般の収入とは何であったか、または、 : : : 彼ら しない。年々生産される諸商品の総額、つまり年生産物全体 の年々の消費分を供給した元本の本性は何であったか、 は、その年に作用した有用的労働の生産物である。社会的に これを説明することが、最初のこれらの四篇の目的である。」充用された労働が、さまざまな種類の有用的労働の多岐なる 一体系において支出されたということによってのみ、あらゆ ( 一二頁〔岩波文庫新版、—、九四頁〕。 ) そして緒論の冒頭にい 「各国民の年々の労働は、その国民が一年間に消るこれらの商品が定在するのであり、そのことによっての 費するーーそしてつねに、この労働の直接的生産物から・まみ、それらの商品の総価値のうちに、それらを生産するため に消費された生産手段の価値が、新しい現物形態で再現して 知たはこの生産物をも 0 て他の諸国民から購買された諸対象か のら・成りたっーーあらゆる生活手段を各国民に本源的に供給保存されるのである。だから年生産物の総体は、一年間に支 て 出された有用的労働の成果である。だが、年々の生産物価値 する元本である」 ( 一一頁 ) と。 っ についていえば、一部分だけが一年間に創造されたのであっ * スミスの原文では「生活上のあらゆる必要品および便益品」となってい 象 る。ーーー訳者。 て、この部分は、他ならぬその年度中に流動化された労働の 対 総額が自らをそれで表示する年々的価値生産物である。 章さて、スミスの第一の誤りは、彼が年々の生産物価値 だから、いま引用した個所で・スミスが「各国民の年々 一を年々の価値生産物と同等視する点にある。後者は、その一 第年間の労働の生産物にすぎない。前者はそのほかに、年生産の労働は、その国民が一年間に消費する : : : あらゆる生活手 物の生産に消費されたのではあるが前年度および部分的には段を各国民に本源的に供給する元本である」というとき、彼 さらに以前の諸年度に生産されたあらゆる価値要素、すなわは一面的に、単に有用的な労働の立場にたつのであって、こ た、
流する資本の分量が、彼の投下資本の大いさを表現する。資過する全循環ーーその投下から復帰までの時間によって度量 本が年度末に、一部は生産在荷として実存し、一部は商品Ⅱされるーーは資本価値の回転を形成し、この回転の持続は一 または貨幣資本として実存するか否か、また、どんな比率で回転期間を形成する。この期間がすぎ去り、循環が終れば、 資本がこれらの様々な部分に分割されているかは、当面の門 同じ資本価値が同じ循環を新たに開始することができ、した 題には関係がない。資本の所有者にとっては、彼の投下資がってまた、新たに自らを増殖し、剰余価値を生みだすこと 本五〇〇〇ポンドが還流したうえに、五〇〇〇ポンドの剰余ができる。可変資本がのばあいのように一年に一〇度回転 価値がある。資本 0 ( 最後に考察した五五〇〇ポンド ) の所するならば、一年たつうちには、同じ資本投下をもって、一 有者にとっては、一年間に剰余価値五〇〇〇ポンドが生産さ回転期間に照応する剰余価値分量が一〇度生みだされる。 投資の本性は、資本主義社会の立場から明らかにされねば れているが ( 五〇〇〇ポンドが投下されていて、剰余価値率 は一〇〇 % ) 、彼の投下資本は未還流であり、生産された彼ならない。 の剰余価値も同様である。 一年間に一〇度回転する資本 << は、一年間に一〇度投下さ M 、日 m 、 n によって表現されていることは、〔を知るためれる。それは新たな回転期間ごとに新たに投下される。だが には〕一回転期間の充用可変資本に妥当する剰余価値率たる同時に、は、一年間に同じ資本価値五〇〇ポンド以上を投 に乗ずるに、投下可変資本下するのではなく、また事実上、われわれの考察する生産過町 1 回「当い洋汁三当暑 の回転期間または再生産期間の総数、すなわち、投下可変資程のためには五〇〇ポンド以上を自由にしない。この五〇〇 本がその循環を更新する期間の総数をもってすべし、という ポンドが一循環を完了すれば、はそれに、同じ循環を新た ことである。 に開始させる。資本はその本性上、まさに、たえず反復的生 すでに第一部第四章 ( 貨幣の資本への転化 ) で、ついでは産過程で資本として機能することによってのみ、資本性格を 第一部第一一一章 ( 単純再生産 ) で見たように、資本価値は総保持する。また、この資本は、五週間よりも長くは投下され じて投下されるのであって支出されるのではない。というわない。回転が長びけば、これだけでは不充分である。回転が けは、この価値は、その循環のさまざまな段階を通過したの短縮されれば、一部分が過剰となる。五〇〇ポンドの資本一 ち、ふたたび出発点に復帰して、しかも剰余価値だけ増殖さ〇個が投下されるのではなく、五〇〇ポンドの資本一個が継 れるからである。このことは、投下されたものとしての資本起的諸期間に一〇度投下される。だから、剰余価値年率は、 価値を特徴づける。資本価値の出発点から復帰点までにかか 一〇度投下される五〇〇ポンドの資本すなわち五〇〇〇ポン る時間は、それが投下されている時間である。資本価値が通 ドにもとづいてではなく、一度投下される五〇〇ポンドの資
資本 << のばあいとまさに等しい おいてではなく、複雑化され隠蔽された形態 ( 年利潤率の形 一週間ごとに一〇〇ポンドの投下可変資本が一〇〇ポンド 態 ) においてであるが、二〇年代の初めいらいリカード学派 の剰余価値を生みだし、したがって五〇週間では、 50X100 における完全な混乱を生ぜしめた。 ⅱ五〇〇〇ポンドの投下資本が五〇〇〇ポンドの剰余価値を この現象の不可思議は、われわれが外観的にばかりでなく 生みだす。一年間に生産される剰余価値の分量は、前のばあ現実的に、資本と資本とを正確に同じ事情のもとに置い いと同じく五〇〇〇ポンドであるが、剰余価値年率はまったてみれば、ただちに消減する。その同じ事情が生するのは、 く異なる。それは、一年間に生産された剰余価値を投下可変可変資本が資本 << と同じ時間内に、労働力の支払のために き 8 m 資本で割ったものに等しく、 = 一〇〇 % であるが、前 全部的に支出されるばあいだけである。 580 v の資本 << のばあいには一〇〇〇 % であった。 そのばあいには、五〇〇〇ポンドの資本が、五週間に毎 資本 << のばあいにも、資本のばあいにも、毎週一〇〇ポ週一〇〇〇ポンドずつ投下されるのであって、一年間の投下 ンドの可変資本が支出される。価値増殖度または剰余価値率額は五万ポンドとなる。そのばあいには剰余価値は、われわ も同じく一〇〇 % である。可変資本の大いさも同じく一〇〇れの前提のもとでは、同じく五万ポンドである。回転した資 ポンドである。どちらの場合にも、同じ分量の労働力が搾取本五万ポンドを投下資本五〇〇〇ポンドで割れば、回転数Ⅱ 580 m 一〇が出てくる。剰余価値率 ⅱ一〇〇 % に、回転数 され、搾取の大いさおよび程度は同じであり、労働日は等し 508 v 5 ( 00m 10 一〇〇 = 一〇を乗ずれば、剰余価値年率 く、必要労働と剰余労働とに等分されている。一年間に充用 5000 く される可変資本額は、同等な大いさの五〇〇〇ポンドであっ〇 % が出てくる。だから今や、ととの剰余価値年率は等 転て、同じ分量の労働を運動させ、同等な両資本によって運動しく一〇〇〇 % であるが、剰余価値の分量は、では五万ポ させられる労働力から同じ分量の剰余価値五〇〇〇ポンドをンド、では五〇〇〇ポンドである。生産された剰余価値の しまや、投下資本価値ととの比に等しい 資引きだす。にもかかわらず、ととの剰余価値年率には九分量の比は、、 すなわち 5000 " 500 Ⅱ 10 】 1 である。だが、その代わりに資 可〇〇 % の差がある。 章この現象からみれば、たしかに剰余価値率は、可変資本に本は、資本 << の一〇倍だけの労働力を同じ時間に運動させ たのである。 「よって運動させられる労働力の分量および搾取度に依存する ばかりでなく、さらになお、流通過程から生する説明しがた 剰余価値を生みだすのは、労働過程で現実に充用される資 幻い影響にも依存するように見える。またじっさい、この現象本だけであり、また、剰余価値について与えられたいっさい はかように解釈されてきたのであって、こんな純粋な形態に の法則ーーしたがってまた、与えられた率のもとでは剰余価 1
衡することがありうる、 といっても、後者は ( 棉花騰貴 などのような特殊事情を度外視すれば ) 、その範囲からみれ ば、前者によって規定されかっ刺戟されるではあろうが。イ 第一七章剰余価値の流通 ギリスとインドとの貿易差額は、均衡しているように見える か、順逆いずれか一方への微弱な動揺しか示さないかもしれ ない。だがイギリスで恐慌が勃発すれば、売れない木綿商品 すでに見たように、一年間に生みだされる剰余価値の分量 がインドで在庫する ( つまり商品資本から貨幣資本に転形し が同等不変なばあいでさえも、回転期間における差異は剰余 チ′、刀学 / この面からみれば過剰生産だ ) ということ、お価値年率における差異を生みだす。 よび、他方イギリスでは、インド生産物の売れない在荷が横 ところがさらに、剰余価値の資本化すなわち蓄積において たわっているばかりでなく、売れて消費された在荷の一大部必然的に差異が生ずるのであって、そのかぎりではまた 分がまだ全く支払われていないということが、わかる。だか 剰余価値率が同等不変でもーー一年間に生みだされる剰余価 ら、貨幣市場での恐慌として現象するものは、事実上では、 値の分量における差異が生ずる。 生産Ⅱおよび再生産過程そのものにおける異常を表現する。 さて、まず第一にいっておくが、資本〔家〕 ( 前章の例で 第三に、ーー充用された ( 可変および不変 ) 流動資本その の ) は連続的な周期的収入をもち、したがって、事業の始め ものについていえば、回転期間の長さは、それが労働期間の における回転期間をのぞけば、年度間の彼じしんの消費を彼 長さに由来するかぎりは、つぎのような区別を生ぜしめる。 の生産した剰余価値からまかなうのであって、じぶんの元本 通 一年間に幾度も回転が行なわれるばあいには、可変的ま から前払することを要しない。ところがのばあいには、こ のたは不変的流動資本の一要素は、石炭生産や衣服生産などの の前払が行なわれる。彼は、同じ期間内にと同じだけの剰 価ばあいに見られるように、この資本じしんの生産物によって余価値を生産するのではあるが、その剰余価値は実現されて 剰提供されうる。そうでないばあいには、少なくとも年度内に おらず、したがって個人的にも生産的にも消費されえない。 章はそうしたことは行なわれえない。 個人的消費が問題となるかぎりでは、剰余価値が前取りされ る。そのためには元本が前払されねばならない。 第 生産資本のうち分類の困難な一部分、すなわち、固定資本 の修繕や整備に必要な追加資本が、今やまた新たな脚光をあ びて現われる。
〇ポンドの生産とはまったく関係がなく、むしろ、つぎの四一〇分の九はこの剰余価値の生産には使用されなかった にもとづいて計算されたとすれば、こんどは 5000m が 500Y 、 五週間の経過中に初めてだんだんと機能すべきものであり、 したがって、ここでもつばら間題たる最初の五週間の生産にすなわち 5000m の生産において現実に使用された可変資本の との関連において計算される。 一〇分の一だけにもとづいて計算される。けだし 5000m は、 とっては全く実存しない だからこの場合では、ととの剰余価値率の差はまったく五〇週間に生産的に消費された可変資本五〇〇〇ポンドの生 産物であって、ただ一つの五週間という期間中に消費された 問題にならない さて、資本ととの剰余価値年率を比較してみよう。資資本五〇〇ポンドの生産物ではないからである。第一のばあ 580 m 5000 m Ⅱ一〇〇 % であり、資本では いには、五週間に生産された剰余価値が、五〇週間分として 本では 58 v 5000 v 一〇〇〇 % である。だが、剰余価値率相互間の比率は以前と投下された資本、つまり五週間に消費された資本の一〇倍だ BD 汁言 10 であったが、 けの資本にもとづいて計算された。こんどは、五〇週間に生 同じである。以前には 洋暑 AD 言言ー 100 暑 BD 言谷 13 氏 である。しかるに、に 0 産された剰余価値が、五週間分として投下された資本、つま いまや 100 暑 AD 言言翁ー 180 り五〇週間に消費された資本の一〇分の一だけの資本にもと 109 ) 「 ) であり、したがって以前と同じ比率である。 づいて計算される。 てんとう 10009 釟 5000 m だが、問題はいまや顛倒されている。資本の年率 508 v 資本五〇〇ポンドは五週間よりも長くは投下されない。 一〇〇 % は、けっして、剰余価値の生産、および、これに それは五週間の終りには還流していて、一年間には一〇度の 照応する剰余価値率にかんする、われわれの知る諸法則から 回転によって同じ過程を一〇度更新することができる。この の何らの背離もーー背離の仮象すらもーー呈しない。一年間 ことから、つぎの二つのことがいえる。 に 5000V が投下されて生産的に消費されたのであって、それ のばあいに投下される資本は、一週間の生 第一に、 は 5000m を生産した。だから剰余価値率は、右にあげた分数産過程でたえず充用される資本部分の五倍にすぎない。とこ 5000 m 一〇〇 % である。剰余価値年率は現実の剰余価値ろが、五〇週間に一度しか回転せず、したがって五〇週間も 5000 く 率と一致する。だから今度は、前とは異なり、説明されるべ投下されておらねばならぬ資本は、たえず一週間に充用さ れうる資本部分の五〇倍である。だから回転は、一年間の生 き異常を呈するのは資本でなく、資本である。 580 m ⅱ一〇産過程のために投下される資本と、一定の生産期間たとえば このばあい〔資本 << 〕の剰余価値〔年〕率は 500 v 一週間にたえす充用されうる資本との、比率を修正する。そ 〇〇 % である。だが、第一〔一三五頁〕のばあいには、〔資本 そのしてこのことが、われわれに第一のばあいを与えるのであっ の〕五週間の生産物 500m が投下資本五〇〇〇ポンド