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検索対象: 世界の大思想19 マルクス 資本論2
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1. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

資本価値との区別を固定資本と流動資本との区別から明白に社会的再生産をもふくみ、したがって、個人的消費と同じよ うに生産的消費をもふくむ。それはまた、資本家階級と労働 分離しなかったからである。 ジョン・ステ = アート・ミルも、例の勿体ぶりようで、・者階級との再生産 ( すなわち維持 ) をふくみ、したがってま た総生産過程の資本制的性格の再生産をもふくむ。 スミスからその後続者に伝えられた教説を再生産している。 当第二稿より。 スミスの思想的混乱は今日まで存続し、彼のド われわれが分析しなければならぬのは、あきらかに、 グマは経済学の正統派的信条をなしている。 ()5 ー・ : ・ : という流通の型であ 0 て、しかもここ では、消費が必然的に一つの役割を演ずる。けだし、出発点 たるⅡ十という商品資本は、不変および可変資本価値 第二〇章単純再生産 ならびに剰余価値をふくむからである。したがって商品資本 の運動は、生産的消費と同じように個人的消費をもふくむ。 ー・ : p-q ・ : ーおよび・ : ーー・ : という循環の ばあいには、資本の運動が出発点および終点である。なるほ 第一節問題の提起 ど、これには消費もふくまれている、というのは、商品たる 社会的資本、つまり総資本ーー・個別的諸資本は総資本の断生産物は販売されねばならぬからである。だが、この販売が 片をなすにすぎず、これらの断片の運動は、その個別的連動行なわれたものと前提すれば、その後、この商品がどうなる これに反 かは、個別的資本の運動にとってはどうでもよい であると同時に、総資本の運動の不可欠な環でもあるーーの し、 : ・という運動では、まさに、この総生産物の各価 産年々の機能をその成果において考察してみれば、すなわち、 しカ値部分はどうなるかが証明されねばならぬということから、 再社会が一年間に提供する商品生産物を考察してみれば、、、 にして社会的資本の再生産過程が行なわれるか、いかなる性社会的再生産の諸条件が認識されうるのである。総再生産過 章格がこの再生産過程を個別的資本の再生産過程から区別する程は、ここでは、資本そのものの再生産過程を包含するのと 一一か、またいかなる性格が両者に共通するか、ということが明同じ程度に、流通によ「て媒介される消費過程をもふくむ。 第 しかも再生産過程は、われわれの当面の目的のためには、 らかとなるに違いない。年生産物は、社会的生産物のうち、 消費元本に帰属して労働者と資本家によ 0 て消費される諸部の個々の成分の価値填補ならびに質料填補の立場から考察 分をふくむのと同じように、資本を填補する諸部分すなわちすべきである。われわれは、いまや、個々の資本の生産物価 395

2. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

ような運動ーーとして考察するということ、これである。たの要素として役だつべき生産物部分のーー全体運動として自 とえば一国の年々の総商品生産物を考察して、運動ーー総商らを告示する、唯一の循環である。収入としての剰余価値の 品生産物の一部分がすべての個別的事業における生産資本を支出がこの循環に含まれるかぎりでは、個人的消費も含まれ ている。だがこの後者は、さらにまた、出発点たる商品は 填補し、他の一部分がさまざまな階級の個人的消費に入りこ む運動ーーを分析するならば、われわれは・ : を、社会的何らかの使用財貨として実存するということによっても含ま 資本・ならびにこれによって生みだされる剰余価値または剰れているのであるが、資本制的に生産された各財貨は、使用 余生産物・の運動形態として考察するのである。社会的資本形態からみて生産的消費むきであろうと、個人的消費むきで が個別的諸資本 ( 諸株式資本、または国家資本ーー・政府が生あろうと、双方むきであろうと、いずれにしても商品資本で 産的賃労働を鉱山・鉄道などに充用し、産業資本家として機ある。 : ・は、価値側面を、全過程の目的としての投下資 本価値の増殖を、指示するにすぎない。・ (p-) は、同 能するかぎりではーーーを含む ) の総和に等しいということ、 および、社会的資本の総運動が個別的諸資本の諸運動の代数等不変または増大した生産資本の大いさ ( 蓄積 ) をもってす る、再生産過程としての資本の生産過程を指示する。・ 的総和に等しいということは、けっしてつぎのことを排除し ない。すなわちこの〔個別的諸資本の〕運動は、単独な個別的は、すでにその端初極において、資本制的商品生産の姿態と 資本の運動としては、社会的資本の総運動の一部分という観して自らを告示するのであって、最初から生産的および個人 点のもとで・つまり社会的資本の他の諸部分の諸運動との関的消費をふくむ。生産的消費は、またこれに含まれる価値増 連において・考察されるばあいにこの同じ運動が呈するのと殖は、その運動の分枝としてのみ現象する。最後に、は何 は異なる諸現象を呈するということ、および、この〔社会的資らかの生産過程にはふたたび入りえない使用形態でも実存し 本の総〕運動は同時に諸問題ーーその解決は個々の個別的資うるのであるから、生産物諸部分で表現されるのさまざま な価値成分は、・ : が、社会的総資本の運動形態たる意義 本の循環の考察にさいして前提されねばならぬのであって、 こうした考察から得られるのではない を解決するというをもっか個別的産業資本の自立的運動たる意義をもっかに応 こと、これである。 じて異なる地位を占めねばならぬ、ということは最初から明 らかである。これらすべての独自性において、この循環は、 ・ : は、そこでは本源的投下資本価値が運動開始極の一 部をなすにすぎず、また、運動が最初から産業資本のーー生それが単なる個別的資本の孤立的循環以上のものであること 産資本を填補する生産物部分の、ならびに、剰余生産物を形を示す。 成して平均的には一部分が収入として支出され一部分が蓄積 ・ : という姿では、商品資本、すなわち資本制的に生産

3. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

る、ということである。資本関係としてのがここでは出発産物の配分ならびに各個別的商品資本にとっての生産物の特 点であり、かかるものとして、全循環のうえに決定的に影響殊的配分が、この形態では資本の循環に包含されている。 ・ : では、新たな循環に入りこむの大いさに応じて、 する。けだし、は、資本価値の循環と同じく剰余価値の循 循環の可能的拡大が含まれている。 環をすでに第一段階に含んでいるのであって、剰余価値は、 ・ : p-«では、が、同じ価値をもってーーおそらくより小 各個の循環においてではなくとも平均においては、一部は収 さい価値をもってすらーー新たな循環を開始し、しかもなお 入として支出されてーーⅣという流通を通過し、他の一 拡大された規模での再生産を表わすことがありうる。たとえ 部は資本蓄積の要素として機能せねばならぬからである。 ば、諸商品要素が労働生産性の増大の結果として低廉になる ・ : という形態では、総商品生産物の消費が、資本循環 そのものの正常的進行の条件として前提されている。総個人ばあいには、そうである。逆に、反対のばあい、たとえば生 的消費は、労働者の個人的消費と、蓄積されない剰余生産物産諸要素が騰貴するばあいには、価値からみて増大した生産 資本が、質料的に縮小された規模での再生産を表わすことが 部分の個人的消費とを包括する。だから、全体的にみた 個人的消費としての、および、生産的消費としてのーー消費ありうる。同じことは : ・についてもいえる。 ・ : では、商品形態での資本が、生産の前提になってい が、条件としての循環に入りこむ。生産的消費は ( これは 事実上、労働者の個人的消費をふくむ、けだし労働力は、特る。それは、この循環の内部で、第二のにおいて、ふたた び前提として帰ってくる。このがまだ生産または再生産さ 定の限界内では労働者の個人的消費の不断の生産物であるか ら ) 各個別的資本そのものによって行なわれる。個人的消費れていないならば、循環が阻止されている。このは、大部 よ 個別的資本家の生存に必要なもの以外はーーー社会的行分が、他の産業資本のとして再生産されねばならない。 の循環では、が、運動の出発点・通過点・終結点として実 環為として内蔵されているにすぎす、個別的資本家の行為とし 存し、したがってつねに存在する。それは再生産過程の恒常 のては内蔵されていない。 形態—およびⅡでは、総運動が、投下資本価値の運動とし的条件である。 商てあらわれる。形態Ⅲでは、増殖された資本が、総商品生産 : ・は、もう一つの契機によっても、形態—およびⅡか ら区別される。資本が循環過程を開始する形態は、それを終 章物の姿で出発点をなし、みずから運動する資本・商品資本・ 第の形態をとる。この商品資本が貨幣に転形されたのちに初め結する形態でもあり、したがって、資本が同じ循環を新たに て、この運動が資本運動と収入運動とに分岐する。一方では開始する端初形態で再現するということは、三つの循環のす 個人的消費元本への、他方では再生産元本への、社会的総生べてに共通である。端初形態たる、、は、つねに、資

4. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

る。ここでは、労働者階級は購買者として登場し、資本家は 生産過程が流通過程の媒介として現象し、他方の形態では、 流通過程が直接的生産過程の媒介として現象する。直接的生労働者〈の商品販売者として登場する。 商品資本の流通は剰余価値の流通をふくみ、したがって、 産過程のたえざる更新、すなわち、生産資本としての資本の たえざる再現は、どちらの場合にも、流通過程における資本資本家の個人的消費・剰余価値の消費・を媒介する売買をも の諸転形によって条件づけられている。他面、生産過程のたふくむ。 だから、社会的資本への総括においてーっまりその全体 えざる更新は、資本が流通部面でたえず新たになしとげる諸 転形の、資本の貨幣資本および商品資本としての交互的出現性においてーー見た個別的諸資本の循環は、資本の流通ばか りでなく、一般的な商品流通をも包括する。この後者は、簡 の、条件である。 ところで、各個の資本が社会的総資本中の自立的な・いわ単にいえば、つぎの二つの成分からのみ成りたちうる、 ば個別的生命を与えられた・断片をなすにすぎないのは、各 ( 一 ) 、資本の独自な循環、および ( 一 l) 、個人的消費に入りこ 個の資本家が資本家階級の個別的要素をなすにすぎないのとむ諸商品、つまり、労働者が賃銀を支出し、資本家が剰余価 同じである。社会的資本の運動は、この資本の自立的諸断片値 ( またはその一部分 ) を支出して買う諸商品の循環。なる ほど資本の循環は、剰余価値が商品資本の部分をなすかぎり の運動、すなわち、個別的諸資本の回転の全体から成りた つ。個々の商品の姿態変換が商品世界の姿態変換系列ーー商では、剰余価値の流通をも包括し、また、労働力への可変資 品流通ーーの一環であるのと同様に、個別的資本の姿態変本の転形すなわち労賃の支払をも包括する。だが、諸商品へ のこの剰余価値および労賃の支出は資本流通上の何らの環も 換、その回転は、社会的資本の循環における一環である。 ただし、少なくとも労賃の支出は資本流通 この総過程は、生産的消費 ( 直接的生産過程 ) ならびにこ形成しない、 れを媒介する形態諸転化 ( 質料的に見れば諸交換 ) をふくむの条件なのであるが。 第一部では、資本制的生産過程が、個別的経過ならびに再 のと同じように、個人的消費ならびにこれを媒介する形態諸 ーー剰余価値の生産、および資 転化または諸交換をふくむ。それは一方では、労働力への可生産過程として分析された、 変資本の転態を、したがって資本制的生産過程への労働力の本そのものの生産。資本が流通部面内でなしとげる形態Ⅱお 合体を、ふくむ。ここでは、労働者は自分の商品たる労働力よび質料変換は、そこでは詳しく立入らないで想定された。 つまり資本家は、一方では生産物をその価値で販売し、他方で の販売者として登場し、資本家はその購買者として登場する。 は、過程を新たに開始または間断なく続行するための物象的 しかるに他方では、商品の販売のうちには、労働者階級によ 生産手段を、流通部面内で見いだすものと想定された。第一 る商品の購買が、つまり彼らの個人的消費が、ふくまれてい

5. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

された総生産物の運動は、個別的資本の自立的循環の前提と程の要素のうち、商品要素に係わりのないものを見のがすこ して現象するのと同じように、他方では、後者によって条件とになる。 づけられるものとしても現象する。だから、この姿がそれの ・ : では総生産物 ( 総価値 ) が出発点であるから、つぎ 独自性においてとらえられるならば、およびと のこと、すなわち、生産性が同等不変であっても拡大された いう姿態変換が、一面では資本の姿態変換における機能的に 規模での再生産が行なわれうるのは ( 対外商業を度外視すれ 規定された段落であり、他面では一般的商品流通の環である ば ) 、剰余生産物中の資本化されるべき部分のうちに追加的 ということだけで満足していては、もはや不充分である。個生産資本の質料的要素がすでに含まれている場合に限るとい 別的一資本の姿態諸変換の、他の個別的諸資本の姿態諸変換うこと、 つまり、ある年の生産が次年度の生産の前提と との、および総生産物のうち個人的消費に予定された部分と して役だっかぎりでは、または、こうしたことが同一年度に の、からみあいを明らかにすることが必要となる。だからわおける単純再生産過程と同時に生じうるかぎりでは、剰余生 れわれは、個別的産業資本の分析にさいしては、主として最産物が追加資本として機能しうるような形態でただちに生産 初の両形態を基礎とする。 されるということは、ここ〔・ : 〕では明らかである。生産 個々の個別的資本の形態として・ : という循環が現われ性の増加は資本質料を増加させうるだけであって、その価値 るのは、たとえば、収穫から収穫までの計算がおこなわれるを高めはしない。しかしそれは、かようにして価値増殖のた 農業においてである。姿態Ⅱでは播種が、姿態Ⅲでは収穫めの追加的材料を形成する。 が、出発点である、 あるいは重農主義者がいうように、 ・ : はケネーの経済表の基礎をなすのであって、彼が、 姿前者では avances ( 投資 ) が、後者では reprices ( 回収 ) が、 ・ ( 重商主義が孤立させて固持した形態 ) に対立するこ つ出発点である。資本価値の運動は、Ⅲでは最初から一般的生の形態をえらんで、 : ・ A.* をえらばなかったということは、 の産物量の運動の部分としてのみ現象するのであるが、—およ偉大で正確な腕前を示すものである。 過びⅡでは、の運動は、単独の一資本の運動における一契機 循をなすにすぎない。 章姿態Ⅲでは、市場にある諸商品が、生産ーおよび再生産過 第四章循環過程の三つの姿 第程のたえざる前提をなす。だから、この姿態を固定させるな らば、生産過程のすべての要素が商品流通に由来し、商品だ けから成りたつように見える。この一面的な把握は、生産過 をもって総流通過程を代表させるならば、三つの姿態が

6. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

頁〕でいう、 「どの社会でも、各商品の価格は、け。きよく、こ者のための収人の三源泉たる、労賃、利潤および地代に分解 れら三つの部分 ( 労賃、利潤、地代 ) のどれか一 0 、または三 0 の全した後、なんと彼は、まわり途をして、第四の要素、すなわ 部に分解されるのであって、どの進歩した社会でも、これら三つの部 ち資本という要素を密輸入せねばならない。 この密輸人は、 分はすべて、多かれ少なかれ、ほとんど大部分の商品の価格中に成分 総収入と純収入とを区別することによって行なわれる、 として人りこむ」と。あるいはまた、六三頁〔同上、一九六頁〕でさ 「ある大国の全住民の総収人は、彼らの土地および労働の年産物ぜん らにいうところでは、「賃銀、利潤および地代はあらゆる収入ならび たいを包含し、純収入は、第一には彼らの固定資本の・第二には彼ら にあらゆる交換価値の三つの根源である」と。われわれは後になお、 の流動資本の・維持費を控除したのち、なお彼らの手に残って自由に 「諸商品の価格の諸成分」または「あらゆる交換価値の諸成分」にか できる部分を、 しいかえれば、彼らがその資本をくいこむことな んする << ・スミスのこの学説を詳しく研究するであろう。 ↓ 0 , らに く彼らの消費在荷にくりいれうる部分、すなわち、彼らの生計や使益 いわく、「このことは、個別的にみた各個の商品について妥当するの や娯楽に支出しうる部分を、包含する。彼らの現実の富も、彼らの総 であるから、各国の土地および労働の年生産物全体を構成するあらゆ 収入にではなく、彼らの純収入に比例する」と。 ( 前掲書、一九〇頁 る商品の総体にも妥当しなければならない。 この年生産物の総価格ま 〔岩波文庫新版、Ⅱ、二五一頁〕。 ) たは総交換価値は、同じ三部分に分解されねばならす、その国のさま これについての注意、 ぎまな住民のあいだに、彼らの労働の賃銀として、あるいは彼らの資 本の利潤として、あるいは彼らの土地所有の地代として分配されねば ( 一 ) 、・スミスがここではっきり取扱っているのは、単 ならない」と。 ( 第二篇第二章、一九〇頁〔岩波文庫新版、Ⅱ、二四 純再生産だけであって、拡大された規模での再生産または蓄 九ー五〇頁〕。 ) 積ではない。彼は、機能資本の維持のための支出について語 lll< 「ほとんど大部分の商品の価格」という文句について読者が思い違いを っているだけである。「純」収入は、社会なり個別的資本家 しないように、・スミスじしんがこの言葉をどう説明するかを、つぎに示 なりの年生産物のうち、「消費元本ーに入りこみうる部分に そう。たとえば、海魚の価格中には、地代は入りこまないで、労賃と利潤と めのう が入りこむだけであり、瑪瑙の価格中には労賃が入りこなだけである。すな等しいが、この一兀本の範囲は、機能資本にくいこんではなら わち、「スコットランドの若干の地方では、貧乏人たちが、瑪瑙の名前で知 ない。だから、個人的ならびに社会的生産物の価値の一部分 られている色とりどりの小石を海浜で集めることを仕事にしている。彫石業 は、労賃こも、利潤または地代にも分解しないで、資本に分 者がその代価として彼らに支払う価格は、彼らの労賃だけから成りたつ。と いうのは、地代も利潤も、その価格中のいかなる部分をも構成しないからで解する。 ある。」〔岩波文庫新版、 一九五頁。〕 ( 一 l) 、・スミスは、 gross revenue と net revenue 、す ・スミスは、かように、個別的に見たあらゆる商品の価なわち、総収入と純収入との区別づけという言葉の遊戯によ 格、ならびに「各国の土地および労働の年生産物 : : : の総価って、彼じしんの理論から逃避する。個別的資本家も、全資 格または総交換価値ーを、賃労働者、資本家および土地所有本家階級またはいわゆる国民も、生産中に消費された資本の ( 三八 )

7. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

つぎのように表わされうる、 たえす回転する輪にあっては、各点が出発点であると同時 に復帰点である。回転を中絶させるならば、どの出発点も復 帰点ではない。かくして、すでに見たように、それぞれの特 三つの形態のすべてを総括すれば、過程の前提がすべて過殊的循環が他のそれを ( 含蓄的に ) 前提するばかりでなく、 程の成果として、過程そのものによって生産された前提としある形態での循環の反復が他の形態での循環のコースを含ん て、現象する。各契機が、出発点、通過点、および復帰点とでいる。かくして全区別は、単なる形式的区別として、ある して現象する。総過程が、生産過程と流通過程との統一とし いはまた、単なる主観的な・観察者にとってのみ存立する・ てあらわれる。生産過程が流通過程の媒介者となり、流通過区別として、現われる。 程が生産過程の媒介者となる。 これらの循環のそれそれが相異なる個別的産業資本のとる すべて三つの循環に共通なものは、ーー規定的目的として特殊的運動形態と見なされるかぎりでは、この差異もつねに の、推進的動機としての、価値の増殖である。—では、これ個別的差異としてのみ実存する。だが現実には、どの個別的 が形態に表現されている。形態Ⅱは、、すなわち、価値増産業資本も、同時に三つの形態のすべてをとる。資本の三姿 殖過程そのものをもって始まる。Ⅲでは、運動が同等不変な 態の再生産形態たるこの三循環が、連続的にあい並んで行な 規模で反復される場合でさえも、循環が、増殖された価値をわれる。たとえば、現に商品資本として機能している資本価 もって始まり、新たに増殖された価値をもって終る。 値の一部分は貨幣資本に転形するが、それと同時に、他の一 ーが購買者にとってはーであり、ーが販売者部分は新たな商品資本として生産過程から流通に入りこむ。 にとってはーであるかぎりでは、資本の流通は普通の商かくして・ : という循環形態がたえず描かれるのであり、 品姿態変換を表わすにすぎぬのであって、商品の姿態変換の他の両形態も同様である。どの形態・どの段階にある資本の ところで ( 第一部第三章第一一節 ) 展開された流通貨幣の分量再生産も連続的であるのは、これらの形態の姿態変換や三段 にかんする諸法則が当てはまる。だが、この形式的側面に拘 % 階を通しての継起的経過が連続的であるのと同様である。だ 泥しないで、さまざまな個別的諸資本の姿態変換の現実的関からここでは、総循環はその三形態の現実的統一である。 連、つまり事実上、社会的総資本の再生産過程の部分諸運動 われわれの考察では、資本価値は、その総価値量が残らず としての個別的諸資本の循環の関連を考察するならば、この貨幣資本・または生産資本・または商品資本・として登場す 関連は、貨幣と商品との単なる形態変換からは説明されえな るものと想定された。たとえば 422 ポンドを、最初には全部

8. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

からである。想いおこされるのは、鏡の作用ー・ーすなわち、人が正し この 600 が貨幣に転形される。この貨幣のうち、ふたたび、 い観点に立てば対象がは 0 きりと正しい釣合でうつり、また人があま 400C は不変資本の現物形態に転態され、 100V は労働力に転 りに近くか遠くに立てばいっさいがばんやりとゆがんで現われるとい 態されるのであって、総剰余価値が蓄積されるばあいには、 う、かの鏡の作用である」と。 ( 二四二、二四三頁。 ) その他に 100m が、生産資本の現物的諸要素への転態によっ これこそは、ひとりよがりの・フルジョア的愚昧というもの て追加的不変資本に転形される。ここではつぎのことが想定 されている、 ( 一 ) 、与えられた技術的条件のもとでは、 機能的不変資本の拡張のためにも、新たな産業的事業の創設 のためにも、この額で充分であること。だが、この過程が生 第二一章蓄積と拡大再生産 じうる前に、つまり現実的蓄積たる生産拡大が始まりうる前 に、剰余価値の貨幣への転形、および、この貨幣のはなはだ 長期にわたる積立てが必要なこともありうる。 ( 一 l) 、つぎの 毛以下、終りまで第八稿。 蓄積が個々の資本家にとっていかにして行なわれるかは、 前提は、事実上すでに前もって拡大された規模での生産が始 第一部で明らかにされた。商品資本の貨幣化によって、剰余まっているということである。けだし、この貨幣 ( 貨幣で積 価値をあらわす剰余生産物も貨幣化される。こうして貨幣に立てられた剰余価値 ) を生産資本の諸要素に転形しうるため 転形されたこの剰余価値を、資本家は自分の生産資本の追加 には、これらの要素が商品として市場で買われうるものでな 的現物要素に再転形する。つぎの生産循環では、増大されたければならぬからである。このばあい、それらの要素が既成 生資本が増大された生産物を提供する。ところで、個別的資本商品としては買われないで注文によって作られても、なんら 、大のばあいに現われることは年々の総再生産でも現われざるを区別はない。それらが支払われるのは、それらが出来てから りえないのであって、それはたとえば、単純再生産の考察にさ後のことであり、いずれにしても、それらについての拡大さ いして見たように、消耗された固定成分が、ーーー個別的資本れた規模での現実的再生産がーー従来の正常的生産の拡張が 章のばあいにーー貨幣で継起的に沈澱して積立てられるという すでに生じた後のことである。それらは潜勢的には 一一ことが、年々の社会的再生産でも現われるのとまったく同じすなわちその諸要素においてはーー定在しなければならなか である。 った。というのは、それらの生産が現実に生ずるためには、 ある個別的資本が 400 c 十 100 v であって年剰余価値が 100 ただ注文という衝動、すなわち商品定在に先行する商品購買 であるならば、商品生産物は 400C 十 100V 十 100m である。 と、その先取り販売とを要しただけだからである。このばあ ( 五も )

9. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

174 一一週間、投下されている。 の生産に長い連結的な期間を必要とする労働生産物におよぼ 回転速度ーーまたは、同じ資本価値がふたたび新たな労働す影響とは、ひどく相違する。前者のばあいには、今日は一 Ⅱまたは価値増殖過程で役だちうる前に個別資本が投下され定分量の糸や石炭などの生産が行なわれたが、明日は糸や石 ねばならぬ時間的長さーーの差異は、ここではつぎの事情か炭などの新生産がちっとも行なわれない。ところが、船、建 ら生ずる。 物、鉄道などのばあいには、趣きが異なる。労働が中断され るばかりでなく、連結的生産行為が中断される。作業が続行 機関車または何らかの機械の製作に一〇〇労働日を要する ものと仮定しよう。紡績業または機械製作業ではたらく労働されなければ、すでにその生産に消費された生産手段と労働 は、無駄に支出されたことになる。作業が再開されても、す 者についていえば、この一〇〇労働日は、等しく非連続的な ( 個々別々の ) 大いさをなすのであって、想定によれば、継でにその間にはつねに毀損が生じている。 起的・個別的な一〇〇個の一〇時間労働過程から成りたつ。 生産物が成熟するまでに日々固定資本によって交付される だが、生産物たる機械についていえば、この一〇〇労働日は価値部分は、労働期間の全持続中に層をなして累積する。そ 連続的な大いさを、一〇〇〇労働時間からなる一労働日を、 して、この点にまた、固定資本と流動資本との区別の実際的 ただ一個の連結的生産行為を、なす。程度の差こそあれ多数重要さが現われる。固定資本は、長期間にわたり生産過程に の連結的労働日の継起によって形成されるこうした一労働日投下されているのであって、おそらく数年にわたるこの期間 を、私は一労働期間と名づける。労働日というときには、わが経過するまでは更新の必要がない。蒸気機関が、その価値 れわれは、労働者が毎日じぶんの労働力を支出しなければなを、個々別々の労働過程の生産物たる糸に日々断片的に交付 らぬーー毎日はたらかねばならぬーー労働時間の長さを意味するか、それとも、連続的生産行為の生産物たる一台の機関 する。ところが労働期間というときには、一定の事業部門で車に三か月間にわたって交付するかという事情は、蒸気機関 完成生産物を提供するために必要な連結的労働日の数を意味の購入に必要な資本の投下をぜんぜん変化させない。蒸気機 する。各労働日の生産物は、このばあいには部分生産物 関の価値は、一方のばあいには少量すっ、たとえば毎週還流 日々仕上げられていって、長かれ短かれの労働期間の終りに し、他方のばあいにはより大量的に、たとえば三か月ごとに やっと完成姿態を受けとり、完成使用価値となる部分生産物還流する。だが、 とちらの場合にも、蒸気機関の更新はおそ にすぎない。 らく一一〇年後にはじめて行なわれよう。蒸気機関の価値が、 だから、たとえば恐慌による社会的生産過程の中断・攪乱生産物の販売によって断片的に還流するに要する各個の期間 が、個々別々のものである労働生産物におよぼす影響と、そが、蒸気機関それじしんの生存期間よりも短いかぎりは、そ

10. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

既成商品の販売に要する時間は、一個同一の事業部門でも、 個々の資本家ごとに甚だしく異なりうるのであり、したがっ て、相異なる生産部門に投下されている資本分量にとっての 第一四章流通時間 みならす、じつは同一生産部面に投下された総資本の自立的 断片たるにすぎぬ相異なる自立的資本にとっても、甚だしく さまざまな事業部門に投下されたさまざまな資本の流通期異なりうる。他の事情が同等不変ならば、同じ個別的資本に とっての販売期間が、市場諸関係の一般的動揺につれて、ま 間を相違させ、したがってまた、資本が投下されておらねば たは、特殊的事業部門における市場諸関係の動揺につれて、 ならぬ時間を相違させるような、以上で考察したすべての事 情は、固定資本と流動資本との区別や、労働期間における区変動するであろう。ここでは、この点にこれ以上たちとどま 総じて るまい。つぎの簡単な事実だけを確言しておく、 別などと同じく、生産過程そのものの内部で生する。ところ さまざまな事業部門に投下された諸資本の回転期間における が資本の回転時間は、資本の生産時間と流通時間との合計に 等しい。だから、流通時間の長さが異なれば回転時間が異な差異を生みだすいっさいの事情は、それらが個別的に作用す るばあい ( たとえば一資本家が竸争者よりも早く売る機会を り、したがって回転期間の長さが異なるのは自明である。こ のことは、回転を修正する他のすべての事情が同等であってもつばあいや、一資本家が他の資本家にくらべて労働期間を 流通時間だけを異にする、相異なる一一つの資本投下を比較す短縮する多くの方法を充用するばあいなど ) には、その結果 るばあい、または、ある与えられた資本をとって、固定資本として、やはり、同一事業部門に滞留する相異なる個別的資 と流動資本とからの構成や労働期間などを与えられたものと本の回転における差異を生ずるということ、これである。 販売時間を相違させ、したがって、回転時間一般を相違さ し、流通時間だけを仮りに変化させてみるばあいに、もっと 時 せるために絶えす作用する一原因は、商品の販売される市場 も手にとるように明白となる。 流流通時間の一節、しかも、相対的にもっとも決定的な一節の、その生産地からの距離である。資本は、市場に旅する全 時間にわたって、商品資本の状態に縛りつけられる、ーー注 は、販売時間、すなわち、資本が商品資本の状態にある期間 章 文で生産されるばあいには、引渡しの瞬間までそうであり、 一から成りたつ。この期間の相対的大いさに応じて、流通時間 第したがって回転期間一般が、あるいは延長され、あるいは短注文でなく生産されるばあいには、市場に旅する時間のうえ に、なお、商品が市場で売れるまでの時間が加わる。交通ー 縮される。保管費などの結果としても、資本の追加支出が必 要になることがありうる。もともと明らかなことであるが、 および運輸手段の改良は、商品の移動期間を絶対的には短縮