116 運輸によって商品に追加される価値の絶対的大いさは、ほ 大きな役割を演ずる。既成商品としての既成生産物の、一つ の自立的な生産場所から、他のそれーー前者と空間的に離れかの事情が同等不変ならば、運輸業の生産力に逆比例し、運 たーーへの移行は、ただ、より大きな規模で同じ現象を呈す搬されるべき距離に正比例する。 運輸費がーーその他の事情は不変としてーーー商品の価格に る。一つの生産場所から他の生産場所への生産物の運輸につ づいて、さらに、生産部面から消費部面への既成生産物の運追加する相対的価値部分は、商品の容積と重量とに正比例す る。だが、修正的事情がたくさんある。たとえば、財貨の相 輸が行なわれる。生産物がこの運動を完了したとき、それは ぜいじゃくせい 対的な脆弱性・減亡性・破裂性に応じて、運輸は大なり小な はじめて消費のための既成品である。 りの予防策を、したがって、労働および労働手段の大なり小 労働の生産性と労働の価値創造とが逆比例するということ は、以前に明らかにされたように、商品生産の一般的法則でなりの支出を、必要とする。この点で大鉄道業者たちは、妄 ある。この法則は、他のあらゆる産業に妥当するのと同じよ想的な種類作成につき、植物学者や動物学者よりも大きな天 うに、運輸業にも妥当する。与えられた距離だけ商品を運輸才を示す。たとえばイギリスの鉄道における貨物の分類は、 するに要する労働ーー死んだ労働および生きた労働ーーの分数巻の書を充たしており、一般原則的には、貨物の種々雑多 量が小さくなればなるほど、労働の生産力はそれだけ大きく な自然的属性を、いちいち運輸上の弱点にし、免れようのな い騙取の口実にしようとする意向にもとづいている。「ガラ なり、逆の場合にはこの逆である。 ( 一定容積の一箱 ) あたり ス これは以前には一クレート 穴リカ 1 ドが引用するセイの見るところでは、商業が運輸費によって生産 いまや、産業的進歩とガラス税 物を高価にするーーまたはその価値を高めるー・ということは、商業の恩恵 一一ポンドに値した である。セイはいう、 「商業のおかげでわれわれは、商品を原産地で手廃止とによって二ポンドにしか値しないが、その運輸費は、 に入れ、それを他の消費地に運輸することができる。だからわれわれは、商 以前と同じように高く、水上運輸では以前よりも高い。以前 業によって、原産地における商品の価格と、消費地におけるそれとの全差額 ーミンカム だけ、商品の価値を増加させることができる」と。リカードはつけ加えてい 冫鉛細工用のガラスおよびガラス製品がノ 「なるほど。だがどうして、追加価値がそれに与えられるか ? 生 から五〇マイル以内では、トンあたり一〇シリングで運搬さ 産費のうえに、第一には運輸費を追加し、第二には商人の資本投下額にたい れた。いまでは運賃が、財貨の脆弱性による危険を口実にし する利潤を追加することによってである。この商品の価値が増加するのは、 それが消費者によって買われる前に、より多くの労働がその生産および運輸 て、三倍に引きあげられている。だが、現実に毀れたものを に費されたという、他の各商品の価値を増加させるのと同じ理由によってに弁償しないのが鉄道経営者である。」さらに、運輸費が財貨 他ならない。これを、商業の利益の一つだといってはならない」と。 ( リカー に追加する相対的価値部分は財貨の価値に逆比例するという ト「経済学原理」、第三版、ロンドン、一八二一年、三〇九、三一〇頁〔岩 ことが、大鉄道業者にとっては、財貨の価値に正比例して課 波文庫版、上、二八一ー二頁〕。 ) ( 一九 )
してーー、、機能しうるか、という問題をふくむ。つまりわれわ投下されている資本のことをいっているのであって、後段で 十へ、、 れは、このばあいには、分析の現実的対象から、すなわち、 カように投下された資本は固定資本と流動資本とに分か さまざまな要素への生産資本の分割はーーそれらの要素のされる ! という。だから、この方式での資本の投下は、資本 まざまな投下部面のことは別としてーー・それらの要素の回転を固定資本たらしめることも、流動資本たらしめることもで にいかに作用するかという問題から、すでにひじように遠ざきない。 かっている。 それとも彼は、商品を生産してその商品を利潤をもって販 ス ・スミスはすぐっづけていう、 「第一に、資本は、 売するために充用された資本は、それが商品に転形されたの ス 財を生みだし、加工し、または、リ 不潤をえて再び売る目的でちに販売され、その販売によって、第一には販売者の所有か と財を買うために、使用されうる」と。 << ・スミスがここでわら購買者の所有にうつり、第二には商品としての現物形態か 義れわれに語るのは、資本は農業・製造業・および商業に充用ら貨幣形態に転態されねばならぬのであり、したがってその 農されうるということに他ならない。つまり、彼はただ、資本資本は、所有者の手にとどまるか、ーー彼にとってーー同じ 重 のさまざまな投下部面のことをいっているのであり、商業で形態にとどまるあいだは、彼に無用である、ということをい っ おうとしたのであるか ? だが、そうだとすれば、事態はっ 笋のように、資本が直接的生産過程に合体されていない ぎのことに帰着する、ーー生産過程に属する形態たる生産資 まり生産資本としては機能しないーー投下部面のこともいっ ん しまや、流通過 ているのだ。かようにして彼はすでに、重農主義者が生産資本の形態で以前に機能した同じ資本価値は、、 本の区別と回転におよぼすその影響とを叙述する基礎そのも程に属する形態たる商品資本および貨幣資本として機能する 動のを放棄している。それどころか彼は、生産過程および価値のであり、したがって、もはや、固定資本でも流動資本でも 形成過程における生産資本の差異ーーーこの差異そのものはさ ない。そしてこのことは、原料と補助材料つまり流動資本に 鮴らに、生産資本の回転および再生産における差異を生みだすよ「て附加される価値要素にも、労働手段の消耗つまり固定 定 だけが取扱われる一問題において、例としてすぐ商人資資本によって附加される価値要素にも、同じように当てはま る。それではわれわれは、固定資本と流動資本との区別には 章本をあげているのだ。 「この仕方で投下される資本は、 一歩も近づかない。 一彼はつづけていう、 第 その使用者の手にとどまるか、同じ姿態をもちつづけるあい 40 、りこ、 「商人の財は、彼がそれを売って貨幣を得るまでは、 5 だは、その使用者に収入も利潤ももたらさないーと。この仕彼に収人も利潤ももたらさないのであり、また貨幣も同じように、そ 方で投下される資本 ! だが、スミスは、農業に、産業に、 れがふたたび財と交換されるまでは、彼に何ももたらさない。彼の資
じゅういっ 池が充溢するばあいには、商品在荷が流通停滞の結果として させねばならぬであろう、 一つは商品の生産者として、 個々膨脹することは、貨幣流通が停滞すれば蓄蔵貨幣が増大する Ⅱもう一つは商人として。商品そのものにとっては、 の商品として考察するか、社会的資本の構成部分として考察のと全く同じである。このばあい、この停滞が産業資本家の するかをとわす、ーー在荷形成の費用が生産者の肩にかかる貯蔵所で生するか商人の倉庫で生するかは、どうでもよい こうしたばあい、商品在荷は、中断されない販売の条件では か、から N までの一系列の商人の肩にかかるかということ なく、商品が売れないことの結果である。費用は同じである によっては、事態はちっとも変わらない。 が、それはいまや純粋に形態からーーすなわち、商品を貨幣 商品在荷が、在荷ーーこれは、与えられた社会的生産段階 では、商品在荷として実存しないとすれば、生産在荷 ( 潜在に転形する必要から、および、この姿態変換の困難から 生ずるのであるから、商品の価値には入りこまないで、価値 的生産元本 ) としてか消費元本 ( 消費手段の予備 ) として、 実存するはずーーの商品形態に他ならぬかぎりでは、在荷の実現における控除・価値損失をなす。在荷の正常形態と異常 維持に要する費用、つまり在荷形成の費用、すなわち、それ形態とは、形態上では区別されず、いずれも流通停滞である に費される対象化された労働または生きた労働は、社会的生から、これらの現象は混同されうるし、いわんや生産当事者 産元本なり社会的消費元本なりの維持費の転化したものに他そのものを欺きうる。というのは、生産者にとっては、商人 ならない。 この費用から生ずる商品価値の増大は、この費用の手に渡った自分の商品の流通過程が停滞しても、自分の資 本の流通過程は流動しうるからである。生産および消費の範 を相異なる諸商品の上に按分比例的に配分するのであるが、 それはけだし、この費用は、商品の種類が異なれば異なるか囲が膨脹すれば、ほかの事情が同等不変ならば、商品在荷の らである。在荷形成の費用は、社会的富の一実存条件ではあ範囲が膨脹する。商品在荷は同じ速さで更新され吸収される るが、社会的富からの控除であることに変わりはない。 が、その範囲が増大する。だから、流通停滞によって膨脹す 商品在荷が、商品流通の条件であり》商品流通において必る商品在荷の範囲が、再生産過程の拡大の徴候だと誤認され 然的に発生した形態ですらあるかぎりにおいて、つまり、貨うる、ーー信用制度の発展によって現実的運動が神秘化され うるばあいには殊にそうである。 幣準備の形成が貨幣流通の条件であるのとまったく同じよう に、この外観的停滞が流動そのものの形態であるかぎりにお 在荷形成の費用は、 ( 一 ) 、生産物分量の量的減少から ( た ただそのかぎりにおいてのみ、この停滞は正常的とえば穀粉在荷のばあい ) 、 ( 一 I) 、質の悪化から、 ( 一一 I) 、在荷 である。しかるに、流通貯水池に滞留している商品が、後か の維持に要する対象化された労働および生きた労働から、な ら追いかけてくる生産の波に席をゆずらず、そのために貯水りたつ。 あんぶん 142
が個人的慾望を充たすために投じたその同じ貨幣片ではな的支出が、彼の事業の規模・およびこの事業に通常または正 く、それと同等額 ( または同等部分 ) の現金である。 常的に照応する剰余価値収入の大いさ・に釣合っているか否 実際においては、これは一一重の仕方で行なわれる、ーー事かを調査する。 業が当年度内にはじめて開始されたのであれば、資本家は相 だが、資本家階級全体についていえば、彼らは自己の剰余 当期間、うまくいって数か月たたなければ、事業収入そのも価値の実現のために ( または彼らの不変Ⅱおよび可変資本の のから自分の個人的消費のために貨幣を支出することはでき流通のためにも ) 貨幣をみずから流通に投ぜざるをえないと ない。だからといって、彼は一瞬間もじぶんの消費をやめな いう命題は、逆説的でないばかりでなく、全機構の必然的条 い。彼は、これから獲得すべき剰余価値をあてにして自分に件として現象する。というわけは、この場合にはただ二つの仍 貨幣を前払するのであるが ( 自分のポケットからか、信用に 階級、すなわち、自分の労働力しか自由にしない労働者階級 より他人のポケットからかということは、ここでは全くどう と、社会的生産手段ならびに貨幣を独占している資本家階級 でもよい ) 、かくして、後に実現されるべき剰余価値を実現としか存在しないからである。商品に含まれる剰余価値の実 するための流通媒介物を前払することにもなる。ところが、 現に必要な貨幣をまず労働者階級が自分の資カから投下する 事業がすでに以前から規則正しく進行しているならば、支払とでもいえば、それこそ逆説であろう。ところで、個々の資 や収入が年度内のさまざまな時期に配分されている。だが、 本家がこの投下をなすのは、つねにただ、彼が購買者として 資本家の消費というものは絶えず続けられるのであって、こ 行動するーーすなわち消費手段の購入に貨幣を支出するか、 れは先取りされ、通常の収入または見積り収入にたいする特または、自分の生産資本の要素たる労働力なり生産手段なり 定比率にしたがって大いさを算定される。販売される商品の の購入に貨幣を投下するーーという形態においてに他ならな 、。彼は、つねに貨幣を等価とひきかえにしか手放さない。 産各部分とともに、年々収得すべき剰余価値の一部分も実現さ 再れる。だが、もし全一年間に、生産された商品のうち、それ彼は、商品を流通に投するのと同じ仕方でしか貨幣を流通に に含まれる不変的および可変的資本価値を填補するに必要な投じない。彼は、どちらの場合にも、それらの流通の出発占 として行動する。 章だけしか売れないとすれば、または価格が下落して、年商品 現実の経過は、つぎの二つの事情によって曖昧にされる、 一一生産物ぜんぶを売ってもそれに含まれる投下資本価値しか実 第 現されないとすれば、将来の剰余価値をあてにして支出され (l) 、産業資本の流通過程において、商業資本 ( その 貯た貨幣の先取り的性格が明瞭に現われるであろう。わが資本最初の形態はつねに貨幣である、というわけは、商人として 家が破産すれば、その債権者や裁判所は、彼の先取りした私の商人は「生産物」または「商品」を作らないからである )
1 一 2 % 、小麦価格にたいする利子費三 % 、倉敷料二 % 、選別および運搬質一 - て在荷を形成することを必要とする。同様に、生産資本は労 % 、引渡し作業費 1 一 2 % 、合計七 % 、すなわち、小麦価格をクオーターあた 働力の購入を包括するのであって、貨幣形態は、このばあい り五〇シリングとすれば、三シリング六ペンスだという。 (8 ・コーベト「諸 には、労働者がその大部分を市場で見いださねばならぬ生活 個人の富の原因および様式の研究」、ロンドン、一八四一年。 ) リヴァプール 手段の価値形態にほかならない。本節の進むにつれて、この の商人が鉄道委員会でおこなった陳述によれば、一八六五年の穀物貯蔵の ( 純 ) 空費が、毎月、クオーターあたり二べンス、すなわち、トンあたり九 点にもっと詳しくたち入ろう。ここでは、この点はすでに明 ないし一〇ペンスであった。 ( 「勅命鉄道委員会」、一八六七年、証言記録、 らかなものとする。もしわれわれが、みずからを商品生産物 一九頁。第三三一号。 ) に転形していまや販売または貨幣に再転形されねばならぬよ だから、商品資本・したがって商品在荷・としての形態で うな、つまり、いまや商品資本として市場で機能するような 過程的資本価値の立場にたつならば、商品資本が在荷を形成の資本の定在は、生産部面に属しないがゆえに流通費に算入 するような状態は、目的にかなわない不本意な市場滞留であされる費用を生ぜしめる。この流通費が、第一節であげられ る。売れるのが早ければ早いほど、生産過程はそれだけ円滑た流通費と区別される点は、前者は特定の範囲内で商品の価 である。形態転化ーでの滞留は、資本の循環中で行なわ値に入りこみ、したがって商品を高価にするということであ る。いずれにしても、商品在荷の維持および保管に役だっ資 れねばならぬ現実的質料変換、ならびに、生産資本としての 資本のその後の機能を妨げる。他面、にとっては、商本および労働力は、直接的生産過程から引上げられている。 品が市場にたえず現存すること、すなわち商品在荷は、再生他面、ここで充用される資本ーー労働力は資本の成分として 産過程のーーーまた、新資本または追加資本の投下のーー・円滑算人されるーーは、社会的生産物のうちから填補されねばな らない。だから、その投下は、労働の生産力の減少と同じよ のための条件として現象する。 商品在荷としての商品資本の市場滞留は、建物すなわち商うに作用するのであり、したがって、一定の有用的効果を獲 費 品倉庫を、つまり不変資本の投下を必要とし、また、商品の得するに要する資本の分量が増大する。これは空費である。 ところで、商品在荷の形成によって条件づけられる流通費 倉入れのための労働力の支払を必要とする。そのうえ、商品 流 は傷みやすいものであり、また、有害な自然的影響をこうむが、商品形態から貨幣形態への、現存価値の転形時間だけか 六る。それを防ぐためには、追加資本が、一部分は労働手段すら、つまり、生産過程の一定の社会的形態だけから ( 生産物 第 が商品として生産され、したがってまた貨幣への転形を通過 なわち対象的形態に、一部分は労働力に、投下されねばなら せねばならぬということからだけ ) 生するかぎりでは、この オし 。ーベトは、一八四一年に九か月間の小麦貯蔵費を計算して、量の損失費用は、第一節にあげた流通費とまったく同じ性格である。
412 いるのであって、この関係は、その自然のままの順序としてというのは、資本主義のもとでは、商業資本や貸付資本のよ うな範疇の本質と運動諸形態とはモディファイされて、産業 あらわれるもの、または歴史的発展の系列に照応するものと は、ちょうど反対である。ここで問題なのは、経済的諸関係資本の運動に全面的に従属するからである。商業資本はいま が種々さまざまの社会諸形態の継起のうちに歴史的にしめるやたんなる商業資本ではなく、商品取扱資本となるのであ 関係ではない。ましてや、 ( 歴史の運動のぼやけた表象である。 以上の例は、論理的なものと歴史的なものとの統一、した る ) 『理念における』 9 ルードン ) それらの序列が問題なの ではない。問題なのは、近代ブルジョア社会の内部でのそれが「てまた経済学的諸範疇の論理的な考察の仕方を単純に理 解してはならないことを証明する。このような誤りは、『資 らの仕組である」 ( 『経済学批判」、国民文庫版三〇六頁 ) 。 マルクスのこの重要な指摘を二、三の例によ 0 てみてみよ本論』の構造を深く研究することによ 0 てのみさけることが できるのである。 剰余価値のような、資本主義的生産様式の主要かっ決定的 四 な諸範疇をあらかじめ分析しないで、労賃、その諸形態、資 本の蓄積、資本主義的蓄積の一般法則の本質を研究すること くりかえし述べてきたように、マルクスの経済学説は、 ができるであろうか。もちろん、できない。マルクスが、主 要な範疇としての剰余価値をまず研究し、そのつぎに資本主『資本論」全三巻をすべて研究せすしては、マルクスが「資 義社会の他の諸範疇の考察にうつっているのはまさにこのた本論』全三巻にわたって分析している経済学的諸範疇の発展 の弁証法を研究せすしては、とうてい理解することはできな めである。 い。以下、この命題を一連の実例によってみてみよう。 もう一つの例をとってみよう。商業資本と貸付資本 ( 高利 「資本論』第一巻第一章では、資本の出発点としての商品、 資本の形態での ) とは、資本主義的生産様式よりもずっと前 ・フルジョア社会の原基的な細胞形態ーー・そこには、ブルジ日 に、産業資本の発生と発展よりもずっと前に存在していた。 ア的生産様式のすべての主要な矛盾が潜在的に、かくされた それらはすでに奴隷制社会および封建社会の条件下で機能し ていた。にもかかわらす、マルクスは「資本論」で、ます産形態でふくまれているーーとしての商品が研究されている。 この章では、商品生産の経済的諸関係が一般的形態で分析さ 業資本を研究しており、そして産業資本とその種々の形態の 運動の分析にもとづいてはじめて、商業資本と貸付資本の考れ、商品は商品生産者の労働の結果として考察されている。 しかし「資本論」のその後の分析では、商品は、資本の研究 察にうつっている。そして、このことは当然のことである。
113 第ハ章流通費 通過程そのものの事情によって販売が妨げられて彼の商品がその大いさは、さらに、中位の販売よりも、または中位の需 在荷を形成するのかということは、事態の本質をなんら変化要の大いさよりも、大きくなければならない。でなければ、 それ以上の余分な需要が充たされえないであろう。他面、在 させえないように見える。だが、自由意志的な在荷形成を、 非自由意志的なそれから区別するものが何であるかを知るこ荷はたえず分解されるから、たえず更新されねばならない。 とは、この問題を解決するために有用である。非自由意志的この更新は、窮極においては、生産・商品の供給・からのみ な在荷形成は、商品生産者の意識に係わりなく彼の意志を妨生じうる。この供給が外国からくるかどうかによっては、事 この更新は、商品の再生産に要する期間に 態は変わらない。 または、これと同じもので 害する流通停滞から生する、 ある。自由意志的な在荷形成を特徴づけるものは何か ? 販依存する。この期間中は、商品在荷が充分になければならな 。商品在荷が、その本源的生産者の手にとどまらないで、 売者はあいかわらず、商品をできるだけ早く売りはなそうと する。彼はたえす生産物を商品として売りにだす。彼が生産卸売商人から小売商人にいたる様々な貯蔵所を通過するとい 物を販売から引上げたとすれば、それは、商品在荷の可能的うことは、現象を変化させるだけであって、事態そのものを 要素を形成するにとどまり、その有効的要素を形成しないで変化させない。社会的に考察すれば、商品が生産的または個 あろう。商品としての商品は、彼にとってはつねにその交換人的消費に入りこんでしまわないかぎり、資本の一部分はあ いかわらず商品在荷の形態にある。生産者じしんは、直接に 価値の担い手たるにとどまるが、それがかかるものとして作 用しうるのは、それが商品形態を脱却して貨幣形態をとるこ生産によって左右されないために、また、恒常的な顧客範囲 を確保するために、じぶんの在庫状態を平均需要に照応させ とによってのみであり、またそれ以後においてのみである。 商品在荷は、与えられた期間中、需要の大いさにとって充ておこうとする。生産期間に照応して購買期限が形成され、 分であるためには、特定の大いさをもたねばならない。そのまた商品が、同種類の新品によって填補されうるまで長かれ さい、購買者の範囲のたえざる拡大が勘定に入れられる。た短かれの時間にわたって在荷を形成する。この在荷形成によ とえば一日のまにあうためには、市場にある商品のほかの部ってのみ、流通過程のーーしたがって、流通過程を包含する 分が流動して貨幣に転形されているときに、一部分がたえす再生産過程のーー恒常性および連続性が確保される。 がまだ市場にあるのに、ーがの生産者にとって完 ~ 商品形態でとどまらねばならない。ほかの部分が流動すると きに停滞する部分は、在荷そのものの大いさが減少すればた了したばあいがありうる、ということが想いだされねばなら えす減少して、ついにはすっかり売れてしまう。だからこのない。生産者じしんが自分じしんの商品を窮極的消費者に売 ってしまうまで貯蔵しようとすれば、彼は一一重の資本を運動 場合には、商品停滞は商品販売の必要条件だと考えられる。
環が、きわめて相異なる社会的生産様式ーーこれが同時に商形態としてのみ実存し、産業資本に合体されている。とはい 品生産たるかぎりではーーの商品流通と交錯する。商品が奴え、その商品を填補するにはその再生産が必要だということ に変わりはなく、そのかぎりでは、資本制的生産様式は、そ 隷制にもとづく生産の生産物であるか、農民 ( 中国人、イン ドのライオット ) または共同体 ( 蘭領東インド ) または国営の発展段階のそとに横たわる生産諸様式によって制約されて いる。だが、資本制的生産様式の傾向は、あらゆる生産をで 生産 ( 往時のロシア史に現われる農奴制にもとづくそれのご とき ) または半未開の狩猟民族などの生産物であるかをとわきるだけ商品生産に転化させることである。そのためにとる ず、それらは商品および貨幣として、産業資本が自らをそれ重要手段は、まさに、あらゆる生産をかように資本制的生産 で表示する貨幣および商品に対応して、産業資本の循環にも様式の流通過程にひき入れることである。そして、発展した 入りこめば、商品資本によって担われる剰余価値ーーーこれが商品生産そのものは資本制的商品生産である。産業資本の侵 収入として支出されるかぎりーーの循環にも入りこむ。つま入は、いたるところでこの転化を促進するのであるが、それ り、商品資本の両流通部門に入りこむ。それらが出てくる生とともに、あらゆる直接的生産者の賃労働者への転化を促進 産過程の性格はどうでもよい。商品としてそれらは市場で機する。 ( 一 l) 、産業資本の流通過程に入りこむ商品 ( 可変資本が、 能し、商品としてそれらは産業資本の循環・ならびにそれに よって担われる剰余価値の流通・に入りこむ。かくして、産労働者に支払われたのち、労働力の再生産のために転態され 業資本の流通過程を特色づけるものは、商品の由来の全面的るべき必要生活手段もこれに属する ) は、その由来、それを 性格であり、世界市場としての市場の定在である。外来の商生な生産過程の社会的形態がどうあろうとも、産業資本その 姿品についていえることは、外来の貨幣についてもいえる。商ものにたいしては、すでに商品資本の形態・商品取扱資本ま たは商人資本の形態・で対応する。だが、この資本は、その っ品資本が外来貨幣にたいし商品としてのみ機能するのと同じ のように、外来貨幣は商品資本にたいし貨幣としてのみ機能す本性上、あらゆる生産様式の商品を包括する。 資本制的生産様式は、大規模な生産を前提するのと同じよ 過る。貨幣はここでは世界貨幣として機能する。 循 うに、必然的に、大規模な販売をも前提する。つまり、個々 だが、ここで二つのことを注意しておかねばならない。 章 ( 一 ) 、商品 ( 羸 ) は、ー羸という行為が終れば商品たるの消費者でなく商人にたいする販売を前提する。この消費者 第ことをやめて、生産資本としての機能形態をとる産業資本そのものが生産的消費者であり産業資本家であるかぎりは、 つまり、一生産部門の産業資本がほかの部門に生産手段を提 の定在様式の一つとなる。だが、それとともに、その商品の 由来は消えうせている。その商品はもはや、産業資本の実存嫺供するかぎりは、ほかの多くの産業資本家にたいする一産業・
支配的なものとしての資本制的生産様式の基礎上では、さや : ・では、終結極およびは流通過程の直接的成果で らに、販売者の手にあるすべての商品は商品資本でなければある。だからここでは、終結においてのみ、他人の手にある ならない。それは商人の手ではひきつづき商品資本である、 ( 一方のばあい ) および ( 他方のばあい ) が前提されて あるいは、まだ商品資本でなかったとしても商人の手では商 いる。循環が両極間で行なわれるかぎりでは、一方のばあい 品資本となる。あるいはまた、それは、本源的商品資本を填のも、他方のばあいのも、ーー他人の貨幣としてのの これらの 補したーーしたがってこれに別の定在形態を与えたにすぎぬ定在も、他人の生産過程としてのの定在も、 商品、たとえば輸入品でなければならない。 循環の前提としては現象しない。・ : はこれに反し、他人 生産資本を構成する商品要素たる << および羸は、の定の手にある他人の諸商品としての ( Ⅱ << 十 ) を前提とす 在形態としては、それらがよせ集められる様々な商品市場でるのであって、これらの商品は、開始部たる流通過程によっ て循環過程にひき入れられて生産資本に転形され、この生産 のそれと同じ姿態はとらない。それらはいまや合一されてお 資本の機能の成果として、いまやがふたたび循環の終結形 り、その結合によって生産資本として機能しうるのである。 この形態Ⅲでのみ、循環そのものの内部でがの前提と態となる。 ところで、まさに・ : という循環が、そのコースの内部 して現象するということは、出発点が商品形態での資本であ ることに由来する。循環は、 ( 剰余価値の附加によって増で、 ()< 十羸) という形態での他の産業資本を前提とす る ( そして羸は、さまざまな種類の他の資本、たとえば、わ 大していると否とをとわず資本価値として機能するかぎり ) がその生産要素をなす諸商品に転態されることによって開始れわれのばあいでは機械・石炭・油などを包括する ) がゆえ される。だがこの転態は、全流通過程ーー ( 日十 ) にこそ、この循環そのものはつぎのことを要求する。という 環を包括し、この過程の成果である。だからここではが両極のは、この循環を、一般的な循環形態、すなわち、そのもと で各個の産業資本が ( それが最初に投資されたばあいを除け のに立つが、この第二の極ーーこれはその形態をーによ って外部の商品市場から受けとるーーは循環の最終極ではな ば ) 考察されうる社会的形態として考察するばかりでなく、 したがって、すべての個別的産業資本に共通な運動形態とし 、流通過程を包括する循環の最初の一一段階の最終極たるに て考察するばかりでなく、同時に、個別的諸資本の総和・つ 章すぎない。その成果はであって、こんどは、これの機能た まり資本家階級の総資本・の運動形態ーーそこでは各個別的 第る生産過程が始まる。生産過程の成果として初めて、 から流通過程の成果としてではなく、 が循環の終結と産業資本の運動が、他の部分運動とからみあい、他の部分運 して、端初極と同じ形態で現象する。これに反し、・動によって制約される、一つの部分運動としてのみ現象する
もたねばならぬのであり、これによって彼らは、自分の生産産の考察のさいには見られないという単なる事情は、問題が 資本の一部を一時的に商品形態で横たえておいても、彼らの独自の一現象ーー諸要素—の ( 再生産にかんする ) 違った組 生産過程を続行することができるのである。彼らは、前提に 合せ、すなわち、それなくしては総じて拡大された規模での よれば、商人としての業務全体を生産業務と兼営する。だか再生産が行なわれえないような変化した組合せにのみ起因す ら、彼らは、再生産過程の個々の機能がさまざまな種類の資る一現象ーーーにあることを証明する。 本家たちのあいだで自立化すれば商人の手にあるべき追加的 貨幣資本をも、自由にしなければならない、と。 第三節蓄積の表式的叙述 これについては、つぎのように反駁すべきである。 ( l) 、 こうした在荷形成およびその必要は—ならびにⅡのすべての さてわれわれは、再生産を、つぎの表式によって考察しょ 資本家に見られる。単なる商品販売者として考察すれば、彼う。 らのあいだの区別は、彼らは相異なる種類の商品を売るとい I ) 4000C 十 1000 v 十 1000m Ⅱ 6000 うことだけである。商品Ⅱでの在荷は、商品での先だっ在 (I) 1500C 十 376 v 十 376m Ⅱ 2252 荷を内蔵する。この在荷を一方で無視するならば、他方でも ます気づくのは、年々の社会的生産物の総額 H8252 が、最 無視せねばならない。これを両側で考慮に入れるならば、問 初の表式〔二九九頁〕ーーそこではそれは 9000 であった 題は少しも変化しない。 ( 一 l) 、Ⅱの側での今年度は翌年度の おけるよりも小さいことである。はるかに大きい総額を仮定 ための商品在荷をもって終るのと同じように、その同じⅡの しても、たとえば一〇倍にしても、さしつかえない。最初の 側での今年度は、前年度から持ちこされた商品在荷をもって表式におけるよりも小さい総額をえらんだのは、けだし、拡 始まった。だから、年々の再生産の分析にさいしては、 大された規模での再生産 ( これはここでは、より大きい資本 その最も抽象的な表現に還元すれば、 どちらの場合にも投下をもって経営される生産とのみ解される ) は、生産物の 商品在荷を消去せねばならない。われわれは、今年度にその絶対的大いさとは関係がないことを、ーー商品分量を与えら 全生産をーーしたがって今年度が商品在荷として翌年度にまれたものとすれば、与えられた生産物のさまざまな要素の組 わすものもーーゆだねることにより、他方ではまた、今年度合せの差異または機能規定の差異を前提するにすぎず、した が前年度から受けついだ商品在荷を今年度から引きさるので がって、価値量からみればさしあたり単純再生産に他ならぬ あり、かようにして事実上、一平均年度の総生産物を分析の ことを、 明瞭にするためである。単純再生産の与えられ 対象とするのである。 ( 三 ) 、回避すべきこの困難が単純再生た諸要素の、量ではなく質的規定が変化するのであって、こ 512