成分 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想19 マルクス 資本論2
200件見つかりました。

1. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

314 本を貨幣形態で所有する。そのほかに—は、個人的消費のたをへて貨幣に転形されるのであるが、この貨幣は、—にとっ ては、資本価値の何らの成分も表わさないで、消費手段だけ めに 1000 ポンドを、それ自身の商品生産物で支出した。すな わち、 1000 ポンドの価値額の生産手段を売ってえた貨幣を支に支出される貨幣化された剰余価値を表わす。 流通ー : ・ : ・ーにおいて、一方の資本家の第一行 出した。 他方、貨幣形態で実存する可変資本が転態されるべき現物為 (-) ーは、他方の資本家の最終行為ー ( またはその一 形態ーーすなわち労働力ーーは、消費によって維持され再生部分 ) である。を生産資本に転態させるこのが、の売 産されて、この労働力の所有者が生きようとすれば売らねば手 ( つまりこのを貨幣に転態する者 ) にとって不変資本成・ ならぬ唯一の商品としてふたたび現存する。だから、賃労働分を表わすか、可変資本成分を表わすか、剰余価値を表わす かは、商品流通そのものにとっては全くどうでもよい 者と資本家との関係も再生産されている。 部門—について、その商品生産物中の十という成分に ( 一 l) 、Ⅱの不変資本は現物で填補され、同じⅡが流通に投 かんしていえば、この部門は、投げいれたよりも多くの貨幣 じた 500 ポンドはⅡに復帰した。 ( 1 ) 労働者—にとっては、流通はーー、すなわち、を流通からひき出す。第一に、—へ 1000 ポンドの可変資本が ( 2 ) ( 労働力 ) ー ( 可変資本—の貨幣形態 1000 ポンド ) ー ( 1000 復帰する。第一一に、—は ( 前述の第四転態をみよ ) 、 500 ポン ドで生産手段を売ってその剰余価値の半分を貨幣化し、つい ポンドだけの必要生活手段 ) という単純流通であって、この 1000 ポンドは、その同じ価値額だけ、商品ーー生活手段 で ( 第六転態 ) ふたたび 500 ポンドで、その剰余価値ののこ り半分たる生産 ) ま扠を売るのであり、かくして、全剰余価値 の形態で実存する不変資本Ⅱを貨幣化する。 資本家Ⅱにとっては、過程ーは、彼らの商品生産物の が貨幣形態で流通から引上げられた。だから、あい次いで 一部分の貨幣形態への転形であって、この貨幣形態から、そ ( 一 ) 、可変資本が貨幣に再転形されるもの 1000 ポンド、 ( 一 I) 、・ れは生産資本の諸成分にーーすなわち彼らに必要な生産手段剰余価値の半分が貨幣化されるもの 500 ポンド、 (lll) 、剰余・ つまり、 価値の残り半分が貨幣化されるもの 500 ポンド、 の一部分にーー再転形される。 合計 1000V 十 1000m Ⅱ 2000 ポンドが貨幣化される。—は (— 資本家Ⅱが生産手段の他の部分を購入するための ( 500 の再生産を媒介するところの、のちに考察すべき諸転態を ポンド ) の投下では、のうちまだ商品形態 ( 消費手段 ) で実存する部分の貨幣形態が先取りされている。Ⅱがで買度外視する ) 1000 ポンドしか流通に投じなかったのに、その 一一倍だけを流通から引上げた。もちろん、貨幣化された ((5 って—のが売られるーという行為では、貨幣 ( Ⅱ ) が 生産資本の一部分に転形され、 (—) がーという行為に転形された ) は、この貨幣が消費手段に費消されること ( 3 )

2. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

過するのであり、したがって、生産資本のこれらの要素がた働力に投下される価値部分と、固定資本を形成しない生産手 段に投下される価値部分ーーは、それらに共通なこの回転上 えず現物で更新される。 の性格によって、流動資本として固定資本に対立する。 生産資本のうち、労働力に投下される可変的成分について すでに見たように、労働力の使用代として資本家が労働者 いえば労働力は一定の期間ぎめで購買される。資本家がそ れを購買して生産過程に合体させたならば、それは、彼の資に支払う貨幣は、事実上、労働者の必要生活手段の一般的等 本の一成分を、しかもその可変的成分をなす。それは、毎日価形態に他ならない。そのかぎりでは、可変資本は質料的に ある時間だけ作用して、その日価値の全部ばかりでなく余分は生活手段から成りたつ。だが、ここに回転を考察するばあ いには形態が問題である。資本家が買うのは、労働者の生活 の剰余価値ーーこれはここではさしあたり度外視される をも生産物に附加する。労働力が、たとえば一週間ぎめで購手段ではなく、労働力そのものである。彼の資本の可変部分 買されて作用しおえると、その購買が、慣習的な期限ごとにをなすのは、労働者の生活手段ではなく、活動的労働力であ たえず更新されねばならない。連続的生産の循環を中断させる。資本家が労働過程で生産的に消費するのは、労働者の労 ないためには、労働力の価値の等価ーーー労働力が機能中に生働力そのものであって、生活手段ではない。じぶんの労働力 産物に附加して、生産物の流通とともに貨幣に転形されるも代として受けとる貨幣を生活手段に転態して、これを労働力 に再転形し、じぶんの生活を維持するのは労働者じしんであ のーーーが、たえす貨幣から労働力に再転形され、たえすその 諸形態の完全な循環をえがかねばならない、すなわち回転し って、そのことは、たとえば、資本家が貨幣とひきかえに売 る商品の剰余価値の一部分を自分じしんのための生活手段に なければならない。 だから生産資本価値のうち、労働力に投下される部分は、 転態するーーだからといって、彼の商品の買手は生活手段を 全部的に生産物に移行し ( ここではつねに剰余価値を度外視もって資本家に支払うのだという人はなかろうーーのとまっ する ) 、生産物とともに、流通部面に属する一一つの姿態変換たく同じである。賃銀の一部分が生活手段・現物・で労働者 をえがくのであって、このたえざる更新により、つねに生産に支払われるばあいでさえも、それは今日では二次的取引で 過程に合体されている。だから労働力は、価値形成にかんしある。彼は労働力を一定の価格で売るのであって、右のばあ ては、不変資本のうち固定資本を形成しない成分とは異なる いには、この価格の一部分を生活手段で受けとることが協定 ふるまいをするとはいえ、その価値のこうした回転方式は、 される。このことは支払の形態を変化させるだけで、彼の現 労働力とこの不変資本部分とに共通であって、固定資本に対実に売るものが労働力であることを変化させはしない。それ 立する。生産資本中のこれらの成分ーー・生産資本のうち、労は二次的取引ーーーすなわち、もはや労働者と資本家とのあい

3. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

かし価値革命についていえば、それが一般的かっ均等に行な 値の分析のばあいのように、個々の資本家はじぶんの資本の 四諸成分をじぶんの商品生産物の販売によ「てます貨幣に転態われるかぎり、そのために年々の総生産物の価値諸成分間の これに反し、価値革命が部分的か し、ついで、商品市場での生産諸要素の再購買によって生産比率はなんら変化しない。 っ不均等に行なわれるかぎり、それは混乱を生するのであっ 資本に再転形しうるという前提では、もはや満足できない。 かの生産諸要素は、物象的なものであるかぎり、それらと交て、この混乱は第一に、元どおりの価値比率からの背離とし 換されそれらによ「て填補される個別的既成生産物と同じよて考察されるかぎりでのみ混乱として理解されうる。ところ うに、社会的資本の一成分をなす。他面、社会的商品生産物が第一一に、年々の生産物価値の一部分が不変資本を・他の部 のうち、労働者が労賃の支出により資本家が剰余価値の支出分が可変資本を・填補する法則が証明されるならば、不変資 によって消費する部分の運動は、総生産物の運動の不可欠な本のであれ可変資本のであれ価値革命は、この法則をなんら 一環をなすばかりでなく、個別的諸資本の運動とからみあ 0 変化させないであろう。それはただ、不変資本または可変資 ており、したが 0 てその経過は、たんにこれを前提するだけ本として機能する諸価値部分間の相対的大いさを変化させる だけであろう。けだし、本源的諸価値のかわりに他の諸価値 では説明されえない。 生産において消費される資本が現われるだろうからである。 直接に当面する問題は、 われわれが資本の価値生産および生産物価値を個別的に考 は、価値からみて、いかにして年々の生産物から填補される か、この填補の運動は資本家による剰余価値の消費および労察するかぎり、商品生産物の現物形態、たとえばそれが機械 か穀物か鏡かということは、分析にとっては全くどうでもよ 働者による労賃の消費といかにからみあうか ? ということ いことであった。それはつねに一例であって、どの任意の生 である。だから、さしあたっての問題は、単純な規模での再 生産である。さらに、諸生産物が価値どおりに交換されると産部門も等しく例解に役だちえた。われわれが問題としたの いうことばかりでなく、生産資本の諸成分には何らの価値革は、どの点でも個別的一資本の過程として現われる直接的生 命も生じないということも想定される。価格が価値から背離産過程そのものであ 0 た。資本の再生産が考察されたかぎり するとしても、この事情は、社会的資本の運動には影響を及では、商品生産物のうち資本価値をあらわす部分は自らを自 ぼしえない。あいかわらす、全体的にみれば同一分量の諸生己の生産諸要素に・したがって生産資本としての自己の姿態 といっても、個々の資本家たちがそに・再転形する機会を流通部面で見いだすものと想定すれば 産物が交換される、 のさい分けあう価値比率は、めいめいの投資額や各自が個々充分だったのであって、それはあたかも、労働者や資本家は に生産した剰余価値の分量にはもはや比例しないのだが。し労賃や剰余価値を支出して買う商品を市場で見いだすものと

4. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

ための貨幣はどちらの側からも現実に流通に投ぜられるのを失分ーーがさしあたり貨幣で填補されるべき他方の固定成分 要しないということは、明瞭である。だから、商品 200 一 m 〔部分 2 〕の年々の磨損分に等しいということ、これである。 と、その等価たる商品 200nC ( ま 1 ) とを、—とⅡとの だから、こうした均衡は、同等不変な規模での再生産の法則 両側で消去すれば、ここに初めて問題が純粋なかたちで現わとして現象することになる。、、、 ししカえれば、生産手段を生産 れる。 する部門—では、それが部門Ⅱの不変資本中の一方では流動 だから、相互に決済される等価値のこの両商品額 ( —およ成分・他方では固定成分・を提供するかぎり、分業の比率は びⅡ ) を除去したあとに残るのは、問題を純粋なかたちで現不変のままたらざるをえないということになる。 われさせる転態の残り、すなわちつぎのものである、 このことを詳しく研究する前に、まず見なければならぬの I ) 200m は、 ( 部分 1 ) の残額がⅡ o ( 部分 2 ) の残額と等しく (I) ( ま 1 ) 素 200C 十 ( ま 2 ) 200C ない場合にはどうなるかということである。前者の方が大き ここでは明らかに、Ⅱの部分 1 は、貨幣 200 で自分の固定 いこともあり、小さいこともありうる。二つの場合をつぎつ 資本の成分 2001m を買い、これによって、Ⅱの部分 1 の固ぎに見よう。 定資本が現物で更新され、価値 200 の剰余価値—が商品形態 第一の場合 ( 生産手段、しかも固定資本の要素 ) から貨幣形態に転形さ I ) 200m れる。この貨幣で—がⅡの部分 2 から消費手段を買うのであ (I) ( ま 1 ) 220C ( 素 ) 十 ( ま 2 ) 200C ( ) って、Ⅱにとっての結果は、部分 1 にとってはその不変資本 このばあいには、Ⅱ o ( 部分 1 ) が 200 ポンドで商品 2001m の一固定的成分が現物で更新され、部分 2 にとっては他の一 を買い、そして—が、同じ貨幣で商品 200n c ( 2 ) 、つ 産成分 ( 固定資本の磨損分を填補するもの ) が貨幣で沈澱する まり貨幣で沈澱すべき固定資本成分を買う。この部分はこう これは、この固定的成分が現物で更新されるまで年々っ して貨幣化されている。だが、貨幣での 2011c ( ま 1 ) は、 単づくーー・、・ということである。 現物での固定資本に再転形されえない。 章 ここでの前提条件は、明らかにつぎのこと、すなわち、不 この不都合は、—の残額を 200 でなく 220 とし、かくし 二変資本Ⅱのうち、その全価値が貨幣に再転形されしたがって て 2000 1 のうち 1800 でなく、 1780 だけが前段の転態によって 第 毎年現物で更新されるべき一方の固定成分 ( 部分 1 ) が、不片づいたとすることによって、除かれるように見える。つま り、この場合にはつぎのようになる、 変資本Ⅱのうち、なお旧来の現物形態で機能しつづけて磨損 分ーーーその作用によって生産された商品に移譲される価値喪 I ) 220m 469

5. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

いのことは、再生産が以前よりも好都合な事情のもとで行な 想定すれば充分だったのと同じである。こうした単に形式的 な叙述の仕方は、社会的総資本およびその生産物価値の考察われるか困難な事情のもとで行なわれるかに帰着するのであ にさいしては、もはや充分でない。生産物価値の一部分が資って、後のばあいの結果は不完全なーー・不充分なーー再生産 本に再転形し、他の一部分が資本家階級ならびに労働者階級でありうる。これらいっさいのことは、再生産のさまざまな の個人的消費に入りこむということは、総資本の結果として要素の量的側面にふれうるのみであって、これらの要素が再 生じた生産物価値そのものの内部での一運動をなすのであっ生産的資本として・または再生産された収入として・総過程 て、この運動は、価値填補であるばかりでなく質料填補であで演ずる役割にはふれえない。 四三第八稿より。 り、したがって、社会的生産物の価値諸成分間の相互的比率 によってと同様に、その使用価値、その質料的姿態によって も制約されている。 第二節社会的生産の二部門 ( 四三 ) 同等不変な規模での単純再生産なるものはーー一方では、 主として第二稿より。表式は第八稿より。 蓄積または拡大された規模での再生産がまったく見られない 社会の総生産物したがってまた総生産はつぎの一一大部門に ということは、資本制的基礎上では奇妙な仮定であり、他方 では、生産上の諸関係は、年度が異なれば絶対的には同等不分かれる、 、生産手段。生産的消費に入りこむべき、または少なく 変 ( これが前提されている ) ではない、というかぎりにおい て、 一つの抽象として現象する。その前提は、一定の価とも入りこみうる形態をとる諸商品。 Ⅱ、消費手段。資本家階級および労働者階級の個人的消費 値をもっ社会的資本は前年度と同じように今年度もふたたび に入りこむ形態をとる諸商品。 産同一分量の商品価値を提供し、同一分量の慾望を充たす・ー 生 これらの部門のそれそれにおいて、それに属するさまざま 商品の形態は再生産過程で変化しうるとはいえーーというこ 一方は生 単とである。だが、蓄積が行なわれるかぎりでは、単純再生産な生産部門の全体が一個の大生産部門をなす、 はつねに蓄積の一部分をなし、したが「て向自的に考察され産手段のそれを、他方は消費手段のそれを。両生産部門のそ 章 うるのであり、蓄積の現実的一要因である。使用価値の分量れぞれで充用される総資本は、社会的資本の特殊的大部門を 第 が同等不変でも年生産物の価値は減少しうる。使用価値の分なす。 それぞれの部門において、資本はつぎの二つの成分に分か 量が減少しても価値は同一不変でありうる。価値分量と再生 産された使用価値分量とが同時に減少しうる。これらいっされる、 ( 四四 )

6. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

うのは後日のこともあり、きよう多量の商品を売ったが、こ ちらで多量の商品を買うのは後日のこともあるからである。 だから、この中間期には、流動資本の一部分がたえず貨幣形 態で実存する。これに反して準備金は、機能している資本・ もし = 9•-4 ならば、 ( 2 ) の段階におけるは、マイナ 詳しくいえば貨幣資本・の一成分ではなく、蓄積の前段階に スに等しい。もしならば、 ( 2 ) の段階における ある資本・まだ能動的資本に転化されていない剰余価値・の は、 ()D マイナスよりも大きい。すなわち、が全部的また 一成分である。それはともあれ、資本家が困ったときには、 は部分的に貨幣資本に転化されたのである。 手にある貨幣の一定の機能をぜんぜん問題にしないで、自分 生産資本の循環は、古典派経済学がもって産業資本の循環 の資本の循環過程を進行させるために、手にあるだけのもの過程を考察する形態である。 を充用するということは、まったく自明である。たとえば、 前例では、は 422 ポンド、は 500 ポンドである。 422 ポン ドの資本の一部分が支払Ⅱおよび購買手段の元本・手持ち貨 第三章商品資本の循環 幣・として実存するとしても、この部分は、事情が不変なら ば残らず循環に入りこむものーーしかもそのために充分なも のと勘定されている。ところが、準備金は剰余価値 78 ポンド 商品資本の循環をあらわす一般的範式はつぎのとおりであ の一部分であって、これが、 422 ポンドの価値の資本の循環る。 過程に入りこみうるのは、この循環がなにか変わった事情の 環もとで行なわれる限りにおいてのみである。けだし、これは は、前述の両循環の産物としてばかりでなく、前提とし の蓄積元本の一部分であって、ここでは再生産の規模拡大なし ても現象する。けだし、生産手段そのものの少なくとも一部 資に現われるからである。 分が他の循環中の個別的資本の生産物であるかぎり、一資本 貨幣蓄積元本は、すでに潜在的貨幣資本の定在であり、つ にとってのーが、すでに他の資本にとってのーを含 章まり貨幣の貨幣資本への転化である。 むからである。たとえばわれわれの場合では、石炭・機械な 第単純再生産と拡大された規模での再生産とを包括する生産どは、採炭業者や資本制的機械製造業者などの商品資本であ 資本循環の一般的範式は、つぎのとおりである。 る。さらに、すでに第一章第四節で明らかにされたように、 すでに・ : (...D の最初の反復にさいし、すでに貨幣資本のこの

7. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

明らかなように、ある時期には生産資本と対立する商品資本っては商品資本であり、固定資本ならびに流動資本の価値の として市場に現われるその同じ物が、市場から引きあげられ担い手である。そして、それが固定資本の価値の担い手であ ると、生産資本の流動的または固定的成分として機能しうる るか流動資本の価値の担い手であるかは、それの生産に充用 こともあり、機能しえないこともある。 された資本が全部的に填補されねばならぬか部分的に填補さ 綿紡績業者の生産物たる糸は、彼の資本の商品形態であれねばならぬかにーーその価値を全部的に生産物へ移譲した り、彼にとっては商品資本である。それは、彼の生産資本の か部分的に移譲したかに よって定まる。 成分として、労働材料としても労働手段としても、ふたたび スミスにあっては、第三項では、材料 ( 原料。半製品・補 機能しえない。だが、それを購買する織物業者の手中では、 助材料 ) が、一方では、すでに生産資本に合体された成分と 彼の生産資本にーーその流動的成分の一つとしてーー合体さ しては現われないで、事実上ただ、社会的生産物一般を構成 れる。しかるに紡績業者にとっては、糸は、彼の固定資本なする諸使用価値のーー第一一項および第四項で数えあげられた らびに流動資本の一部分の価値 ( 剰余価値は別として ) の担他の質料的諸成分・諸生活手段・などと並ぶ商品群中の い手である。また機械は、機械製作業者の生産物としては、 特殊的な一種類としてのみ現われる。他方では、材料がたし かに生産資本に合体されたものとして、したがってまた生産 彼の資本の商品形態であり、彼にとっては商品資本である。 そしてこの形態にとどまるかぎりは、それは流動資本でも固者の手にある生産資本の要素として、あげられる。混乱は、 定資本でもない。それを使用する製造業者に販売されたとき材料が一方では生産者の手で ( 「農業者・製造業者などの手 に、それは生産資本の固定的成分となる。たとえば石炭が石で」 ) 機能するものとしてとらえられ、他方では商人の ( 「絹 炭生産に入りこみうるように、生産物がその使用形態からみ布商・反物商・材木商の」 ) 手で。・ーーそこでは、材料はたん て部分的にふたたび生産手段として過程ーーその生産物の出なる商品資本であって生産資本の成分ではないーー機能する てきた過程ーーに入りこみうる場合でさえも、石炭生産物のものとしてとらえられる、という点に示される。 うち、販売に予定された部分そのものは、流動資本でも固定 事実上、・スミスはここで、流動資本の要素を数えあげ るにさいし、生産資本についてのみ妥当する固定資本と流動 資本でもなく、商品資本を表わすのである。 他面、生産物がその使用形態からみて、労働材料としてで資本との区別を、まったく忘れている。彼はむしろ、商品資 あれ労働手段としてであれ、生産資本の何らの要素もまった本と貨幣資本、すなわち、流通資本に属する両資本形態を、 といっても、ただ無意識的にで く形成しえないことがありうる。たとえば何らかの生活手段生産資本と対立させる、 はそうだ。にもかかわらず、その生産物は、その生産者にとあるが。 202

8. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

なおも旧態依然たる使用形態にし されるという差異から、生ずる。だから、固定資本と流動資値が流通するのだが、 ばりつけられていなければならない。 本とに分裂しうるのは生産資本だけである。これに反し、こ うした対立は、産業資本の他の二つの定在様式にとっては、 (lll) 、生産資本の価値のうち、固定資本に投下された部分 は、生産手段のうち固定資本を構成する部分の全機能期間に つまり商品資本にとっても貨幣資本にとっても実存せず、ま た、生産資本にたいする右の両資本の対立としても実存しなわたり、全部が一挙に投下されたのである。だからこの価値 。それは、生産資本にとって、かっ生産資本の内部でのみは、資本家によって一挙に流通に投げいれられる。しかるに 実存する。貨幣資本や商品資本は、いかによく資本として機それは、固定資本が商品に断片的に附加する価値部分の実現 によって、断片的かっ慚次的にのみ再び流通から引上げられ 能し、いかに流動的に流通しようとも、生産資本中の流動的 成分に転形するばあいに初めて、固定資本に対立する流動資る。他面、生産資本の一成分が固定される生産手段そのもの 本となりうる。ところが、この両資本形態は流通部面にとど は、一挙に流通から引上げられて全機能期間にわたり生産過 まるというわけで、・スミスいらいの経済学は、のちに見程に合体されるが、この同じ期間中は、同種の新品による填 るであろうように、誤ってこれらの資本形態を、流動資本と補を要せず、再生産を要しない。それは、長かれ短かれの期 間にわたり、それ自身の更新の要素を流通から引上げること いう範疇のもとに、生産資本中の流動部分と混同した。それ なしに、流通に投げいれられる商品の形成にひきつづき貢献 らは、じつは、生産資本に対立する流通資本 (Zirku1ations ・ kapital) ではあるが、固定資本に対立する流動資本 (zirku ・する。だから、それはまた、この期間中は、資本家の側から 固定資本に支出され の投資の更新を要しない。最後に、 lierendes Kapital) ではない。 た資本価値は、それがそこに実存する生産手段の機能期間中 ( 一 l) 、固定的資本成分の回転は、したがってまたそれに必 に、その諸形態の循環を通過する、といっても質料的にでは 要な回転時間は、流動的資本成分の幾つもの回転をふくむ。 固定資本が一度回転する時間中に、流動資本は幾度も回転すなく、その価値についてのみであり、しかも部分的かっ漸次 る。生産資本の一方の価値成分が固定資本という形態規定性的にのみである。すなわち、固定資本の価値の一部分は、た えず商品の価値部分として流通させられて、貨幣から本源的 を受けとるのは、この価値成分がそこに実存する生産手段は 生産物が仕上げられて生産過程から商品として押出される時現物形態に再転形されることなしに貨幣に転形される。生産 という限りでにすぎない。固定資本手段の現物形態への貨幣のこの再転形は、生産手段の機能期 間中には消耗されない、 間の終りに、生産手段が全部的に消耗したときに、はじめて の価値の一部分は、他の一部分が完成生産物によって流通さ それと同時に流動的資本成分の方は総価行なわれる。 せられる時に、

9. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

スミスの与える例では、彼は「労働用具」を固定資本とし炭・水などのような補助材料も、質料的には生産物に入りこ て規定し、「製品の価格によって利潤をともなって償還されまない。石炭は全部的に消費されて、その価値だけがーー・機 る」労賃および原料ーー補助材料をふくむーーに投下される械などの価値部分が生産物に入りこむのとまったく同じよう 資本部分を、流動資本として規定している。 にーー生産物に入りこむ。最後に、労働者も、機械と同じよ だから、さしあたり、労働過程の相異なる諸成分ーー一方うに、自立的に、生産物たる銅に対立している。彼が労働に では労働力 ( 労働 ) および原料、他方では労働用具ーーから よって生産する価値だけが、いまや銅価値の成分である。だ 出発されるにすぎない。しかるに、それらが資本成分である からこの例では、生産資本のどの成分も、所有者 (master) のは、資本として機能すべきある価値額がそれらに投下されをかえない、 または、どの成分も、さらに流通しはしな ているからである。そのかぎりでは、それらは生産資本 けだし、どの成分も、質料的には生産物に入りこま すなわち、生産過程で機能する資本ーーの質料的要素、定在ないからである。では、このばあい、どこに流動資本が残っ 様式である。では、なぜ、その一部分が固定資本と呼ばれるているか ? ・ << ・スミス独自の定義によれば、銅山業で使用 か ? けだし「資本のある部分は、労働用具に固定されざる される資本全体は固定資本からのみ成りたつであろう。 をえない」からである。だが、ほかの部分も労賃および原料 こんどは、生産物の実体をなす原料や、さらに、 ーー燃料 に固定されている。とはいえ、機械および「労働用具 : : : ま用石炭などのように価値からみてばかりでなく、 ーー肉体的 たは、所有者をかえることーーまたは、さらに流通すること に生産物に入りこむ補助材料をも充用する、ほかの一産業を なしに収入または利潤をもたらすような類似の物 : ・ とって見よう。生産物たとえば糸とともに、その原料たる棉 それゆえに、 こうした資本は、きわめて正当に、固定資本と花も所有者をかえて、生産過程から消費過程に入りこむ。だ 名づけられうる。」 が、棉花が生産資本の要素として機能するあいだは、所有者 たとえば、鉱山業をとって見よう。原料はここでは。せんぜ は、それを売らないで加工し、それから糸をつくる。彼はそ ん使用されない・けだし、労働対象、たとえば銅は、労働にれを手放さない。あるいは、スミスの大間違いでとるに足り よって初めて獲得されるべき自然生産物だからである。のち ない表現をかりれば、彼は「それを手放し、その所有者をか に商品または商品資本として流通するところの、過程の生産え、または流通させることによって」は、なんらの利潤もえ 物たる初めて獲得されるべき銅は、生産資本の要素をなさな よい。彼は、じぶんの機械を流通させないのと同じように、 。生産資本価値のいかなる部分も、それには投下されてい じぶんの材料も流通させない。彼の材料は、紡績機械や工場 ない。他方、生産過程のほかの諸要素、すなわち労働力や石建築物とまったく同じように、生産過程に固定されている。

10. 世界の大思想19 マルクス 資本論2

的に並行する信用業の発展につれて、この貨幣は、蓄蔵貨幣値の一部分 ( 磨損分 ) だけを生産物に移譲するのであって、 としてではなく資本として、とはいえ、その所有者の手では磨損してもひきつづき生産過程で機能する。だからそれは、 長かれ短かれのあいまをおいて現物で填補されればよく、 なくその利用者たる他の資本家たちの手で、機能する。 ずれにしても、流動資本のようにたびたび填補されることを 。この填補の必要、再生産期限は、固定資本の成分 要しない ごとに量的に異なるばかりでなく、すでに見たように、長も 第九章投下資本の総回転。回転循環 ちする多年的な固定資本の一部分は、年々またはもっと短期 間に填補されて旧固定資本に現物で附加されうるが、ほかの すでに見たように、生産資本の固定的成分と流動的成分と性状の固定資本のばあいには、やっとその寿命を終ってから 填補が一挙に行なわれうる。 は、様式を異にし期間を異にして回転するのであり、また、 だから、固定資本のさまざまな部分の特殊的諸回転を、同 同一事業における固定資本の相異なる諸成分も、寿命したが って再生産時間を異にするにつれて、やはり回転期間を異に種の回転形態に還元して、それらを、もはや量的にーー回転 する。 ( 同一事業における流動資本の相異なる諸成分の回転期間からみてー・ーのみ異なるものたらしめることが必要であ における、現実的または外観的差異については、本章末の第る。 この質的同一性は、われわれが・ : ーー連続的生産過程 循六項を見よ。 ) の形態・ーーを出発点とするばあいには、生じない。けだし、 ( 一 ) 、投下資本の総回転は、その資本の相異なる諸成分の 回 のうち、一定の諸要素はたえず現物で填補されねばならぬ 平均回転である。計算方法は後述しよう。期間の差異だけが : 、ほかの諸要素はそうでないからである。しかるに・ : 問題たるかぎりは、もちろん、その平均を出すことほど簡単カ という形態は、回転のこの同一性を与える。たとえば、ある 本なことはない。だが、 資 (ll) 、このばあいには、量的区別ばかりでなく質的区別が機械の価値は一万ポンドで一〇年間もつ、つまり、年々その 下 1 面 = 一〇〇〇ポンドが貨幣に再転形されるとしよう。この 生する。 九生産過程に入りこむ流動資本は、その全価値を生産物に移一〇〇〇ポンドは、一年たつうちに貨幣資本から生産資本お 第 譲するのであり、したがってそれは、生産過程を中断なく進よび商品資本に転形し、そして商品資本から貨幣資本に再転 行させるためには、生産物の販売により、たえず現物で填補形した。この一〇〇〇ポンドは、この形態〔 = ・〕で考察す されねばならない。生産過程に入りこむ固定資本は、その価るばあいの流動資本と同じように、その本源的貨幣形態に復