ぎり、すなわち自立的価値として循環過程をえがくかぎり、 ねては現象しない。 つまり、価値革命が何とかして克服され相殺されるかぎり、 ヘーリーは、資本制的生産様式を特徴づける価値の自立化 である。資本の諸運動は、個々の産業資本家の諸行動ーーすを、ある経済学者たちの幻想だとし、これに反対していう、 なわち彼が、商品Ⅱおよび労働購買者、商品販売者、および 「価値は、同時に現存する諸商品間の一関係である、と 生産的資本家として機能するという、つまり、彼の活動によ いうのは、かかる商品だけが相互に交換されうるのだから」 って循環を媒介するという、仕方での諸行動ーーとして現象と。かくいう彼は、相異なる時期における諸商品価値の比較 する。社会的資本価値が価値革命をこうむれば、彼の個別的 この比較は、各時期における貨幣価値を固定化すれば、 資本はそれに負けて減亡するーーけだし、その資本はこの価同じ種類の商品の生産のために相異なる時期に必要な労働支 値運動の条件を充たしえないからーーということがおこりう出の比較を意味するにすぎない に反対なのである。こう る。価値革命がいっそう激烈となり頻繁となればなるほど、 した反対は、彼の一般的誤解、すなわち、交換価値をもって 自立的価値の自動的な・天然的自然過程の暴力をもって作用価値と同等だとし、価値の形態を価値そのものだとする、つ する・運動が、個々の資本家の予見や打算に対立してますま まり、諸商品価値が能動的に諸交換価値として機能しなくな す有効となり、正常的生産の進行が異常な投機にますます従り従って現実に相互に交換されえなくなれば、諸商品価値は 属し、個別的資本の生存にとっての危険がますます大きくな もはや比較されえないものだとする、彼の一般的誤解から生 る。だから、これらの周期的価値革命は、それが否定するは する。つまり彼は、価値がその循環の相異なる段階ーーこれ ずのものを、ーーすなわち、資本としての価値が経験し、そらの段階はけっして同時的なものでなく継起的なものである の運動によって維持し尖鋭化する自立化を、確証する。 において自己そのものと同一であり自己そのものと比較 過程的資本の姿態諸変換のこの序列は、循環中で生じた資されるかぎりでのみ、価値は資本価値または資本として機能 本価値量の変動と本源的価値との、たえざる比較をふくむ。 するということを、ちっとも気づかないのである。 価値形成的カたる労働力にたいする価値の自立化が、 c.5—< 循環の範式を純粋に考察するためには、諸商品がその価値 ( 労働力の購買 ) という行為において導人され、労働力の搾どおりに販売されると想定するだけでは不充分であって、他 取としての生産過程中で現実化されるとすれば、価値のこの の事情には変化なしに右のことが生ずるものと想定されねば 自立化は、この循環中ーーここでは、貨幣、商品、生産諸要ならない。たとえば・ : という形態について、一定の資本 素は、過程的資本価値の交代的諸形態にすぎず、資本の過去家の生産資本を減価させうるような生産過程内のあらゆる技 の価値量が現在の変動した価値量と比較されるーーでは、重術的革命を度外視し、また、生産資本の価値諸要素の変動が
る、 たとえば土地改良、工場建築物、鎔鉱炉、運河、鉄 能の異なるに応じて、固定資本であったりなかったりする。 家畜は、役畜としては固定資本であるが、肥育家畜として道など。労働手段がその機能すべき生産過程にたえずしばり つけられているということは、このばあいには、同時に、そ は、けつきよくは生産物として流通に入りこむ原料であり、 の感性的実存様式によって条件づけられている。他方では、 つまり、固定資本ではなく流動資本である。 ある生産手段が、反復的な諸労働過程ーーといっても、連ある労働手段は物理的にたえす場所を変更し運動しながら、 たとえば機 結的・連続的であり、したがって一生産期間、すなわち生産しかもたえす生産過程にあることができる、 物を仕上げるために必要な総生産時間を形成する反復的な諸関車、船舶、役畜など。第一のばあいには、不動性が労働手 労働過程ーーに比較的にながく固定しているだけでは、固定段に固定資本たる性格を与えるわけでもなければ、第一一のば 資本とまったく同じように、資本家にとっては長かれ短かれあいには、可動性が労働手段からこの性格を奪うわけでもな い。とはいえ、労働手段が場所的に固定されており、土地に の投資を必要とするが、彼の資本を固定資本たらしめはしな い。たとえば種子は、固定資本でなく、約一年間にわたり生根をおろしているという事情は、固定資本のこの部分にたい 産過程に固定されている原料にすぎない。資本はすべて、生して、諸国民の経済における独自の役割を割りあてる。その 労働手段は外国に送られ、商品として世界市場で流通するこ 産資本として機能するかぎりは生産過程に固定されており、 この固定資本の所有名義は変史されうる。こ したがってまた、生産資本のあらゆる要素は、その質料的姿とができない。 態・その機能・およびその価値の流通様式のいかんをとわすの固定資本は、売買されえ、そのかぎりにおいて観念的に流 生産過程に固定されている。この固定的存在は、生産過程の通しうる。この所有名義は、たとえば株式の形態で外国市場 種類または所期の有用的効果に応じて長短の差こそあれ、固でさえも流通しうる。だが、この種の固定資本の所有者たる ( ニ 0 ) 人物の変換によっては、一国における富の可動的部分にたいⅣ 定資本と流動資本との区別を生ずるものではない。 する、その常置的で物質的に固定された部分の比率は変わら = 0 固定資本と流動資本とを規定することの困難のゆえに、ロレンツ・シュ タイン氏は、この区別は叙述を容易にするためのものにすぎないと考える。 一 = 以上第四稿。ーー以下第二稿。 一般的な労働条件を含めての労働手段の一部分は、ある場 合には、それが労働手段として生産過程に入りこむとき、ま 固定資本の独自な流通によって、独自な回転が生ずる。現 たは生産的機能のために準備されるときに、場所的に固着さ物形態での固定資本が消耗によって失う価値部分は、生産物 せられる、 たとえば機械装置。また、あるばあいには、 の価値部分として流通する。生産物はその流通によって、商 最初から常置的で場所的にしばりつけられた形態で生産され品から貨幣に転形する。だから、生産物によって流通させら
資本価値との区別を固定資本と流動資本との区別から明白に社会的再生産をもふくみ、したがって、個人的消費と同じよ うに生産的消費をもふくむ。それはまた、資本家階級と労働 分離しなかったからである。 ジョン・ステ = アート・ミルも、例の勿体ぶりようで、・者階級との再生産 ( すなわち維持 ) をふくみ、したがってま た総生産過程の資本制的性格の再生産をもふくむ。 スミスからその後続者に伝えられた教説を再生産している。 当第二稿より。 スミスの思想的混乱は今日まで存続し、彼のド われわれが分析しなければならぬのは、あきらかに、 グマは経済学の正統派的信条をなしている。 ()5 ー・ : ・ : という流通の型であ 0 て、しかもここ では、消費が必然的に一つの役割を演ずる。けだし、出発点 たるⅡ十という商品資本は、不変および可変資本価値 第二〇章単純再生産 ならびに剰余価値をふくむからである。したがって商品資本 の運動は、生産的消費と同じように個人的消費をもふくむ。 ー・ : p-q ・ : ーおよび・ : ーー・ : という循環の ばあいには、資本の運動が出発点および終点である。なるほ 第一節問題の提起 ど、これには消費もふくまれている、というのは、商品たる 社会的資本、つまり総資本ーー・個別的諸資本は総資本の断生産物は販売されねばならぬからである。だが、この販売が 片をなすにすぎず、これらの断片の運動は、その個別的連動行なわれたものと前提すれば、その後、この商品がどうなる これに反 かは、個別的資本の運動にとってはどうでもよい であると同時に、総資本の運動の不可欠な環でもあるーーの し、 : ・という運動では、まさに、この総生産物の各価 産年々の機能をその成果において考察してみれば、すなわち、 しカ値部分はどうなるかが証明されねばならぬということから、 再社会が一年間に提供する商品生産物を考察してみれば、、、 にして社会的資本の再生産過程が行なわれるか、いかなる性社会的再生産の諸条件が認識されうるのである。総再生産過 章格がこの再生産過程を個別的資本の再生産過程から区別する程は、ここでは、資本そのものの再生産過程を包含するのと 一一か、またいかなる性格が両者に共通するか、ということが明同じ程度に、流通によ「て媒介される消費過程をもふくむ。 第 しかも再生産過程は、われわれの当面の目的のためには、 らかとなるに違いない。年生産物は、社会的生産物のうち、 消費元本に帰属して労働者と資本家によ 0 て消費される諸部の個々の成分の価値填補ならびに質料填補の立場から考察 分をふくむのと同じように、資本を填補する諸部分すなわちすべきである。われわれは、いまや、個々の資本の生産物価 395
だから、同等不変な規模での再生産にもかかわらず、恐慌また、こうした移動はいずれも一時的な混乱をひきおこすで あろう。しかも第一一に、 ( 労働の長さおよび強度が増すかぎ 生産恐慌ーーが生するであろう。 り ) —は、より多くの価値をⅡのより少ない価値と交換せね 一言でいえば、単純再生産であって諸事情が同等不変、殊 ばならず、かくして生産物の減価が生するであろう。 に労働の生産力・総量・および強度が同等不変なとき、 第二の場合には逆であって、このばあいには、—はその生 死減する ( 更新されるべき ) 固定資本と、旧来の現物形態で このことは、それにたすさわる 作用しつづける ( 磨損填補分だけの価値を生産物に附加する産を縮小せねばならぬか または過剰な にすぎない ) 固定資本とのあいだの不変的比率が前提されな労働者と資本家にとって恐慌を意味する、 であ いならば、 これもまた恐慌を意味する、 あるばあいには、再生産されるべき流動的諸ものを提供するか 成分の分量は同一不変であるが、再生産されるべき固定的諸る。それ自体としては、こうした過剰は害悪ではなくて利益 成分の分量は増大するであろう。だから、総生産が増大しである。だが、資本制的生産においては害悪である。 なければならぬであろう。でなければ、貨幣諸関係を度外視 対外商業は、どちらの場合にも助け船となりえよう、 しても、再生産の不足が生するであろう。 第一の場合には、貨幣形態で保持される商品—を消費手段に 現物で再生産されるべき固定資本Ⅱの比転態するために。第一一の場合には、過剰商品を売りさばくた 他のばあい めに。だが、対外商業は、それが単に諸要素を ( 価値の面か 率的大いさが減少し、したがって、貨幣でのみ填補されるべ らも ) 填補するのでないかぎり、矛盾を拡大された部面に移 き固定資本Ⅱの成分が同じ割合で増加するならば、—によっ て再生産される不変資本Ⅱの流動成分の分量は同一不変であし、矛盾の活動範囲を大きくするにすぎない。 っても、再生産されるべきその固定成分の分量は減少するで 再生産の資本制的形態を別とすれば、事態は、つぎのこと あろう。したがって、総生産—の減少か、さもなければ過剩 すなわち、固定資本 ( ここでは消費手段の生産において ( 前のばあいには不足 ) , ーー貨幣化されえない過剰ーーーかの、機能するそれ ) のうち死減しつつある・したがって現物で填 補されるべき・部分の大いさが年々のように変動する、とい いずれかが生するであろう。 なるほど第一の場合には、同じ労働でも、生産性ーー長さ うことに帰着する。もしそれが、ある年に ( 人間のばあいの または強度ーーを増すことにより、より大きな生産物を提供ように平均死亡率をこえて ) ひじように大きいならば、つぎ することができるから、第一の場合の不足を補うこともできの年にはきっとそれだけ少ない。だからといって、消費手段 よう。だが、こうした変化は、労働および資本を—の一生産の年々の生産に必要な原料・半製品・および補助材料の分量 ま 部門から他のそれへ移動させないでは生じないであろうし、 ほかの事情を不変と前提すればーー減少しない。だか
ある。このばあいには、在荷形成という表象はまったく消減資本制的生産にとっては、資本制的生産を特徴づける労働の・ 生産性における絶えざる変動によっても、価値比率のたえざ する。 ( 一 l) 、 >—c.5Z< という流通では、同じ貨幣が一一度位る変動は固有のものである。生産諸要因の価値変動はのちに 置をかえる。資本家はそれをます販売者として受取り、購買詳論することにして、ここでは言及するにとどめる。生産諸 者として手放す。商品の貨幣形態〈の転形は、商品を貨幣形要素の商品生産物〈の転形ーーのⅣへの転形ーーは生産部 態からふたたび商品形態へ転形するためにのみ役だっ。だか面で行なわれ、Ⅳのへの再転形は流通部面で行なわれる。 ら、資本の貨幣形態、貨幣資本としての資本の定在は、このそれは単純な商品姿態変換によって媒介されている。だが、 その内容は、全体として見た再生産過程の一契機である。 運動では消減的契機たるにすぎない。すなわち貨幣資本は、 —O—-> は、資本の流通形態としては、機能的に規定された 運動が円滑であるかぎりは、購買手段として役だつばあいに は流通手段としてのみ現象し、資本家たちが互に購買しあう質料変換をふくむ。ーーという転態は、さらに、が ばあい、したがって支払差額だけを決済すべきばあいには、 商品定量の生産諸要素に等しいこと、および、これらの生 産要素がその最初の価値比率を相互に固守することを条件と 本来的支払手段として現象する。 (lll) 、貨幣資本が単なる流通手段として役だっか支払手段する。だから、諸商品がその価値どおりに購買されることば かりでなく、それらの商品が循環中に何らの価値変動もこう として役だっかをとわず、貨幣資本の機能は、 << およびに よ 0 てのの填補を、すなわち、生産諸要素によ「ての糸のむらないことも想定されている。そうでなければ、過程は正 生産資本の成果たる商品生産物 ( 収入として消費される常的には行なわれえない。 ()D : ・ ()D では、 c.5 が資本価値の本源的形態であって、この形 べき剰余価値を控除した残り ) のーー填補を、つまり商品と 環しての形態から、この商品の形成諸要素への資本価値の再転態が脱ぎすてられるのは、再び採られるためである。・ ーー・ : では、は、過程内で採られる形態にすぎぬの の形を、媒介するにすぎない。つまりそれは、けつきよく、商 であって、この形態はすでに過程内でふたたび脱ぎすてられ 資品資本の生産資本への再転形を媒介するにすぎない。 る。貨幣形態はここでは、資本の消減的な自立的価値形態と 生循環が正常的に行なわれるためには、がその価値どおり してのみ現象する。資本は、としては貨幣形態をとりたく 章に、そしてその全体が、販売されねばならない。さらにー ようか 第は、他の商品によっての商品の填補を含むばかりでなてたまらず、また (-) としては、ーー資本が貨幣形態に蛹化さ く、同じ価値比率での填補を含む。われわれの仮定はそうでれるや否やーーこの形態を脱ぎすてて再び生産資本の形態に ある。だが事実上では、生産手段の価値は変動する。まさに転態したくてたまらない。資本は、貨幣姿態にとどまるかぎ
れじしんの循環を通過する。資本の一部分ーーといっても絶異なる時期に、不等な分前で、相異なる段階および機能形態 えず変動し、たえず再生産される一部分ーーは、みずからをに配分されている。第二に、生産されるべき商品の性格に応 貨幣に転形する商品資本として実存する。他の一部分は、みじて、つまり、資本が投下されている生産部面の特殊性に応 ずからを生産資本に転形する貨幣資本として。第三の一部分じて、これらの分前の配分が異なりうる。第三に、季節に依 にしんりよう は、みずからを商品資本に転形する生産資本として。三つの存する生産部門では、自然条件によるか ( 農業・鯡漁など ) 、 形態ぜんぶのたえざる現存が、まさにこの三段階を通してのたとえばいわゆる季節労働でのように慣習的事情によるかを 総資本の循環によって媒介されている。 とわず、連続性が多かれ少なかれ中断されうる。過程が最も さらに資本は、全体としては、同時に空間的に並行して、 規則正しく最も斉一的に行なわれるのは、工場および鉱山業 においてである。だが、生産諸部門間のこうした差異は、循 その相異なる諸段階にある。だが各部分は、たえず順次に一 方の段階・一方の機能形態・から他方のそれに移行し、かく環過程の一般的諸形態における何らの差異も生じない。 自己を増殖する価値としての資本は、階級諸関係を、賃労 して順次にすべての段階・すべての機能形態・で機能する。 かくして、諸形態は流動的諸形態であって、これらの形態の働としての労働の定在にもとづく一定の社会的性格を、包含 同時性はそれらの継起によって媒介されている。各形態は他するばかりではない。それは一つの運動であり、相異なる諸 の形態に後続し、またこれに先行するのであって、一方の資段階を通しての一つの循環過程ーーこの過程そのものはさら に循環過程の三種の形態をふくむーーである。だからそれは 本部分のある形態への復帰は、他方の資本部分の他の形態へ の復帰によって条件づけられている。各部分がたえずそれ自運動としてのみ把握されうるのであって、静止物としては把 姿身の循環をえがくのであるが、この形態にあるのは常に資本握されえない。価値の自立化を単なる抽象と見なす人々は、 つ中の他の一部分であって、これらの特殊的循環は総過程の同産業資本の運動がこの顕勢的抽象 (Abstraktion in actu) の時的かっ継起的な契機をなすにすぎない。 であることを忘れている。価値はここでは、相異なる形態、 過三循環の統一においてのみ、上述の中断の代わりに総過程相異なる運動ーーそれらにおいて価値がみずからを維持する 循の連続性が現実化されている。社会的総資本はつねにこの連と同時に増殖し増加するーーを通過する。ここでわれわれが 章続性を有し、この総資本の過程はつねに三循環の統一を有すさしあたり問題とするのは単なる運動形態であるから、資本 第る。 価値がその循環過程でこうむりうる諸革命は顧慮されない。 だが明らかに、あらゆる価値革命にもかかわらず資本制的生 個別的資本にとっては、再生産の連続性が、ときどき多か れ少なかれ中断される。第一に、価値諸分量がしばしば、相産が実存し存続しうるのは、ただ、資本価値が増殖されるか
ような運動ーーとして考察するということ、これである。たの要素として役だつべき生産物部分のーー全体運動として自 とえば一国の年々の総商品生産物を考察して、運動ーー総商らを告示する、唯一の循環である。収入としての剰余価値の 品生産物の一部分がすべての個別的事業における生産資本を支出がこの循環に含まれるかぎりでは、個人的消費も含まれ ている。だがこの後者は、さらにまた、出発点たる商品は 填補し、他の一部分がさまざまな階級の個人的消費に入りこ む運動ーーを分析するならば、われわれは・ : を、社会的何らかの使用財貨として実存するということによっても含ま 資本・ならびにこれによって生みだされる剰余価値または剰れているのであるが、資本制的に生産された各財貨は、使用 余生産物・の運動形態として考察するのである。社会的資本形態からみて生産的消費むきであろうと、個人的消費むきで が個別的諸資本 ( 諸株式資本、または国家資本ーー・政府が生あろうと、双方むきであろうと、いずれにしても商品資本で 産的賃労働を鉱山・鉄道などに充用し、産業資本家として機ある。 : ・は、価値側面を、全過程の目的としての投下資 本価値の増殖を、指示するにすぎない。・ (p-) は、同 能するかぎりではーーーを含む ) の総和に等しいということ、 および、社会的資本の総運動が個別的諸資本の諸運動の代数等不変または増大した生産資本の大いさ ( 蓄積 ) をもってす る、再生産過程としての資本の生産過程を指示する。・ 的総和に等しいということは、けっしてつぎのことを排除し ない。すなわちこの〔個別的諸資本の〕運動は、単独な個別的は、すでにその端初極において、資本制的商品生産の姿態と 資本の運動としては、社会的資本の総運動の一部分という観して自らを告示するのであって、最初から生産的および個人 点のもとで・つまり社会的資本の他の諸部分の諸運動との関的消費をふくむ。生産的消費は、またこれに含まれる価値増 連において・考察されるばあいにこの同じ運動が呈するのと殖は、その運動の分枝としてのみ現象する。最後に、は何 は異なる諸現象を呈するということ、および、この〔社会的資らかの生産過程にはふたたび入りえない使用形態でも実存し 本の総〕運動は同時に諸問題ーーその解決は個々の個別的資うるのであるから、生産物諸部分で表現されるのさまざま な価値成分は、・ : が、社会的総資本の運動形態たる意義 本の循環の考察にさいして前提されねばならぬのであって、 こうした考察から得られるのではない を解決するというをもっか個別的産業資本の自立的運動たる意義をもっかに応 こと、これである。 じて異なる地位を占めねばならぬ、ということは最初から明 らかである。これらすべての独自性において、この循環は、 ・ : は、そこでは本源的投下資本価値が運動開始極の一 部をなすにすぎず、また、運動が最初から産業資本のーー生それが単なる個別的資本の孤立的循環以上のものであること 産資本を填補する生産物部分の、ならびに、剰余生産物を形を示す。 成して平均的には一部分が収入として支出され一部分が蓄積 ・ : という姿では、商品資本、すなわち資本制的に生産
立場からすれば唯一の現実に生産的な投資部面ーーとなす彼土地所有の弁護者たちの、反対論をよびおこした。 きようあ、 の視野の狭隘ざのおかげで、かえって要点をついている。経 ( 三六 ) 済的再生産過程は、その独自的・社会的性格のいかんをとわ 再生産過程の分析における・スミスの退歩は、彼が他方 ず、この領域 ( 農業 ) ではつねに自然的再生産過程とからみでは、ケネーの正しい分析に手をくわえて、たとえば、ケネ あう。自然的再生産過程の手にとるように明白な諸条件は、 ーの「本源的投資ーと「年々的投資」とを、「固定」資本と 経済的再生産過程の諸条件を明瞭にし、流通の妖術のために 「流動」資本とに一般化しているばかりでなく、しばしば、 のみ生する思想的混乱をとりはらう。 すっかり重農主義的誤謬に逆戻りしていることを見れば、ま 学説体系のレッテルが他の財貨のそれと区別される点は、 すます目だってくる。たとえば、借地農業者が他のどの種類 なかんすく、それは買手を欺くばかりでなく、しばしば売手の資本家よりも大きい価値を生産するということを証明する をも欺くということである。ケネーじしん、および彼の直弟ために、彼はいう、 子たちは、彼らの封建的看板を信じていた。今日にいたるま 「いかなる等量の資本も、借地農業者の資本以上に多量の生産的労働 で、わが学者先生たちもそうである。だが事実上、重農主義を運動させはしない。彼の労働僕婢ばかりでなく、彼の役畜も生産的 体系は資本制的生産の最初の体系的把握である。産業資本の労働者である。」 ( 労働僕婢にと。てはうれしいご挨拶 ! ) 「農耕にお いては、人間とあい並んで自然も労働する。そして自然の労働はなん 代表者・ーー借地農業者階級ーーが全経済的運動を指導する。 らの出費も要しないとはいえ、しかもその生産物は、もっとも費用の 農耕が資本制的に経営される。すなわち、資本制的借地農業 かかる労働者の生産物と同じように、価値を有する。農耕上のもっと ほ・つじ、画・つい」 者の企業として大規模に経営され、土地の直接的耕作者は賃 も重要な操作は、自然の豊饒度を増すためによりも、 それもなす 労働者である。生産は使用財貨ばかりでなく、その価値をも のではあるがーーーむしろ、それを導いて人間にもっとも有用な植物を 生みだす。ところで、生産の推進的動機は剰余価値ーーーその生産させるためになされるように見える。茨などの生いしげつた野原 誕生地は生産部面であって流通部面ではない の獲得であも、もっともよく耕作された葡萄園や穀物畑と同じ分量の植物を生す こううん るのは度々のことである。植付や耕耘は、しばしば、自然の能動的豊 る。流通によって媒介される社会的再生産過程の担い手とし 饒度を活気づけるよりもむしろ調整する働きをする。そして、いっさ て現われる三つの階級のうち、「生産的」労働の直接的搾取 いの労働が終っても、なおつねに、自然によってなされるべき多大の 者であり剰余価値の生産者である資本制的借地農業者は、剰 仕事が残っている。だから、農耕で就業させられる労働者と役畜 ( ! ) 余価値のたんなる取得者とは区別される。 は、製造業における労働者のように、彼らじしんの消費ーー・・または彼 重農主義体系の資本制的性格は、すでにこの体系の全盛期らを就業させる資本ー・、に等しい価値とい。しょに、資本家の利潤の にさえ、一方ではランゲおよびマブリの、他方では自由な小 再生産を生ぜしめるばかりでなく、はるかに大きい価値の再生産を生 ( 三七 )
なお、分割できない連続的商品体のばあいには、実際上、 存を、受けとる。どちらの場合にも、ならびには、価値 価値諸成分が観念的にそれぞれ孤立化される。たとえば、大 本源的にはにおいて、商品の価格としてのみ独自な・ ただ観念的な・表現を有する価値ーーの、現実に転化された部分が信用で経営されるロンドンの建築業では、建築請負師 は、家屋の建築がさまざまな段階に達するに応じて、前払を 形態である。 受けとる。これらの段階というのは、いずれも一家屋ではな ーーは単純な商品流通であって、その第一段階ー 、将来できあがるべき一家屋の現実に実存する一成分にす は、商品資本の流通ーに、つまり資本の循環に含まれ ぎない。つまり、その現実性にもかかわらす全家屋の観念的 ている。これに反して、その補足段階ーは、この循環か ら分離された一般的商品流通上の経過として、資本循環の外分数部分にすぎぬのであるが、しかもなお、追加前払にたい にはみ出る。ととのーー・・資本価値と剰余価値とのーー流する担保として役だっためには充分に現実的である。 ( この 通は、がに転形された後に分裂する。だからつぎのよう点については後段、第一二章を見よ。 ) (lll) 、およびではまだ共同的な資本価値と剰余価値と にいえる。 の運動が部分的にのみ分離するか ( したがって剰余価値の一 * マイスナー版ではーとなっている。マルクスの原文にもとづいて訂 正。ーーー編集者。 部分が収入としては支出されないか ) 、または。せんぜん分離 しないならば、資本価値そのものにおいて、その循環の内部 (l) 、 (c 十 (0) によって商品資本が実現さ 一つの変動が生する。前例では、 下ーーーその完了以前に れることにより、ーではまだ共通的で同一商品量によっ て担当されていた資本価値と剰余価値との運動が、分裂しう生産資本の価値は 422 ポンドであった。だから、資本が例え るものとなる。けだし、両者はいまや貨幣額としての自立的ば 480 。ホンドまたは 500 ポンドとしてーを続行するなら ば、資本は、最初の価値よりも 58 ポンドまたは 78 ポンドだけ 環形態を有するからである。 の ( 一 l) 、は資本家の収入として支出されるが、の方は資大きい価値としてその後の循環諸段階を通過する。これは同 資本価値の機能的形態として循環上規定された自己の軌道を続時に、資本の価値構成の変動を伴なうことがありうる。 * この「および」は「の誤りであろう・上段の一五行以下参 生行する、ということによって右の分裂が生するならば、第一 章行為ーは、後続する行為たるーおよびーとの関 第一循環・••c) では流通の第一一段階であって終結段階 第連においては、ーーおよびーーという、一般的 たるーは、この第一一循環では第一一段階であ 0 て商品流通 形態からみればいすれも普通の商品流通に属する系列たる、 の第一段階である。だから、流通が問題たるかぎりでは、 二つの相異なる流通として表示されうるものである。
る、ということである。資本関係としてのがここでは出発産物の配分ならびに各個別的商品資本にとっての生産物の特 点であり、かかるものとして、全循環のうえに決定的に影響殊的配分が、この形態では資本の循環に包含されている。 ・ : では、新たな循環に入りこむの大いさに応じて、 する。けだし、は、資本価値の循環と同じく剰余価値の循 循環の可能的拡大が含まれている。 環をすでに第一段階に含んでいるのであって、剰余価値は、 ・ : p-«では、が、同じ価値をもってーーおそらくより小 各個の循環においてではなくとも平均においては、一部は収 さい価値をもってすらーー新たな循環を開始し、しかもなお 入として支出されてーーⅣという流通を通過し、他の一 拡大された規模での再生産を表わすことがありうる。たとえ 部は資本蓄積の要素として機能せねばならぬからである。 ば、諸商品要素が労働生産性の増大の結果として低廉になる ・ : という形態では、総商品生産物の消費が、資本循環 そのものの正常的進行の条件として前提されている。総個人ばあいには、そうである。逆に、反対のばあい、たとえば生 的消費は、労働者の個人的消費と、蓄積されない剰余生産物産諸要素が騰貴するばあいには、価値からみて増大した生産 資本が、質料的に縮小された規模での再生産を表わすことが 部分の個人的消費とを包括する。だから、全体的にみた 個人的消費としての、および、生産的消費としてのーー消費ありうる。同じことは : ・についてもいえる。 ・ : では、商品形態での資本が、生産の前提になってい が、条件としての循環に入りこむ。生産的消費は ( これは 事実上、労働者の個人的消費をふくむ、けだし労働力は、特る。それは、この循環の内部で、第二のにおいて、ふたた び前提として帰ってくる。このがまだ生産または再生産さ 定の限界内では労働者の個人的消費の不断の生産物であるか ら ) 各個別的資本そのものによって行なわれる。個人的消費れていないならば、循環が阻止されている。このは、大部 よ 個別的資本家の生存に必要なもの以外はーーー社会的行分が、他の産業資本のとして再生産されねばならない。 の循環では、が、運動の出発点・通過点・終結点として実 環為として内蔵されているにすぎす、個別的資本家の行為とし 存し、したがってつねに存在する。それは再生産過程の恒常 のては内蔵されていない。 形態—およびⅡでは、総運動が、投下資本価値の運動とし的条件である。 商てあらわれる。形態Ⅲでは、増殖された資本が、総商品生産 : ・は、もう一つの契機によっても、形態—およびⅡか ら区別される。資本が循環過程を開始する形態は、それを終 章物の姿で出発点をなし、みずから運動する資本・商品資本・ 第の形態をとる。この商品資本が貨幣に転形されたのちに初め結する形態でもあり、したがって、資本が同じ循環を新たに て、この運動が資本運動と収入運動とに分岐する。一方では開始する端初形態で再現するということは、三つの循環のす 個人的消費元本への、他方では再生産元本への、社会的総生べてに共通である。端初形態たる、、は、つねに、資