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検索対象: 世界の大思想2 アリストテレス
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1. 世界の大思想2 アリストテレス

378 明らかにするところの意味をもたない音声であって、〔たと だからである。 えば、アンフイやペリなどがそれである。あるいは結合詞は 話は意味をもった合成的な音声である。その若干の種類の 意味をもたない音声であるが、多くの音声から一つの意味をものは、それだけで単独になにかを意味する ( なぜなら、す もった音声ができるのをさまたげもしなければ、つくり出し べての文が動詞と名詞とからできてはいないからである。た ( 四 ) もしない〕、話〔文〕の最後か中間に置かれる本性をもって相とえば、人間の定義のように、動詞なしでも文でありうる。 だが、つねに一つの意味のある部分をもっていなければなら 名詞は、時間を伴わない、意味をもった合成的な音声であない ) 。たとえば、「クレオンは歩いている」におけるクレオ って、そのどの部分もそれだけで単独に意味のあるものでは ンがそれである。二重の意味で文は一つである。すなわち、 ない。なぜなら、複合的な名詞においては、それだけで単独それは一つのことを意味するものであるか、あるいは多くの こよって一つのことを意 文からできているけれども、接続詞冫 に意味をもったものとしてわれわれは用いないからである。 たとえば、「テオドロスーという名詞において「ドロスーは味するものであるか、いすれかである。たとえば、『イリア ス』は接続詞によって一つであるが、人間の定義は一つのも なにも意味しないようなものである。 のを意味することによって一つなのである。 動詞は、時間を伴う意味をもった合成的な音声であって、 そのどの部分もそれだけではなにも意味しない。それは、ち ようど名詞におけると同様である。なぜなら「人間」とか 第二一章 「白さ」とかは「いっーを意味しないが、「歩く」とか「歩い てしまった」とかは現在の時を、他方は過ぎ去ってしまった 名詞の種類は、一方では、単純である。「単純」とわたし 時を〔動詞の意味と〕同時に示すからである。 が言うのは、意味のないものによってできているもののこと トウトウ 格は名詞あるいは動詞にかかわる。その一つは「これの」 である。たとえば、地がそれである。しかし、他方では、一一 トウトイ あるいは「これに」またはこういったすべてのものによって重である。その一つは有意味なものと無意味なものからでき 関係を指す。他のものは、たとえば、人々とか、ひとりの人加ている。 ( ただし名詞において有意味なものと無意味なもの 間のように、「一だけ」あるいは「多によって」数を指す、 とからできているのではない。 ) 他方のものは有意味なもの また他のものは、たとえば、質問とか命令に応じて、話し手からできている。さらに三重や四重や多重の名詞もあるであ の言い方によってなにかを指すのである。なぜなら、「彼は ろう。たとえば、マッサリア人たちにおける多くの固有名詞、 歩いたか」とか「歩けーとかは以上の種類によ 0 た動詞の格すなわち、 ( ルモカイコクサントスがそれである。 * * 〔空

2. 世界の大思想2 アリストテレス

活動が、そのことがらの性質に応じて、そのようなふうの人たのであり、したがって彼ら自ら好んでかかる人間となった わけであって、だがいったんかかる人間となった以上はそう 間を作り上げるのだからである。このことは特定の競技とか いう人間でなくなることはもはや彼らに可能ではないのであ 行動のために準備をしているひとびとについて見ても明らか であろう。その間彼らは絶えすその活動を続けているのである。 る 随意的であるのは単に魂のもろもろの悪徳のみではなく、 。それゆえ、それそれの性質の活動から、その性質に間 応ずるところの「状態」が生ずる、ということを知らないの身体のそれもまた、或るひとびとの場合にあっては随意的で は、全く鈍い人間の証左である。さらにまた、不正を働きなあり、われわれは、だから、その場合彼らを非難する。すな がら不正な人間にならないことを欲し、放埒な行為をしながわち、生来の醜いひとびとならば何びともこれを非難しない ら放埓な人間にならないことを欲するのは無理であろう。 が、体育の不足とか不注意とかに基づくところの醜いひとび もし、これに反して、それをなせば不正な人間となるであとに対してはわれわれはこれを非難する。虚弱や不具につい ろうごとき行為を、そのことを知らすにではなしになすならても同様であって、本性的な或いは病気や負傷に基づくとこ ば、そのひとはみすからすき好んで不正な人間となるものとろの盲人ならば、これを非難するひとはなく、むしろこれを いわなくてはならない。もっとも、 いったんそうなったひと憐むであろうが、大酒とかその他の放埓に基づくところの盲 子 , し、刀、し が、欲するならば、不正な人間であることをやめて正しい人人に対しては、誰もがこれを非難するに相違よ、。、 間になれるだろうというのではない。病人もまたそんなふうて、身体に関するもろもろの悪しき状態のうち、われわれの にして健康になることはできないのであって、いま仮りに、無責任に基づくものは非難され、そうでないものは非難されな 抑制的な生活をして医者のいうことを肯かずに自ら好んで病 、。然りとすれば魂の場合にあってもまた、そのいろいろの。 非難される悪徳はわれわれの責任に基づくものでなくてはな 気になるひとがあるとする。この場合、それまでは、病気し ないことが彼にとって可能であったのであるが、いったん健らない。 しったん 康を棄てた後はもはやそうはゆかない。ちょうど、、 だが、もしかして、ひとはいうかも知れない 「あらゆ 石を投げたならば自分ではそれを取り戻すことができないご るひとびとは善に見えるところのものを追求するのである 。だが、それにもかかわらず、それを投げるという 、カ しかしこの見えかたに対してはひとびとはどうする力も ことは彼の自由に属しているのである。端初が彼においてあない。各人がそもそもいかなるふうの人間であるか、それに るのだから。これと同じように、不正なひとや放埓なひとに加応じて目的もまた各人にとってそれそれ異なって見えてくる しても、最初はそんなふうのひととならないことも可能だっ のである。もし各人は自分自身の状態に対して何らかの責任 1114b

3. 世界の大思想2 アリストテレス

に大きな非連に遭遇するひとにも、幸福は見出だされうるこ に沈んだ人間にとっての」という限定を付するのでないかぎ とになるだろうからである。もし、それゆえ、これでは充分 しいと考えられるところの諸快楽のうち、 でなく、むしろわれわれは、前述のごとく、幸福は何らかの鈊 しかしながら、 いかなる快楽、どの快楽が人間の快楽であるというべきであ「活動」だとなすべきであるならば、しかもいま、活動には " 「必要な活動、すなわち他のことがらのゆえに望ましい活動」 ろうか。 もあるし、また「即自的に望ましい活動」もあるとするなら おそらくこれは「活動」の考察に基づいて明らかとなるこ ば、明らかに、幸福は、「即自的に望ましい活動」に属する とがらであろう。「活動」に「快楽」は随うのであるから。 のであり、「それ以外のことがらのゆえに望ましい活動」に 要するところ、完璧な至福なひとの活動が一つであるにせ は属しないとしなくてはならない。けだし、幸福は何ものを よ、幾つかあるにせよ、かかるひとの活動を究極的に完璧た らしめるごとき快楽こそが厳密な意味において人間の快楽でも欠如しない自足的なものである。だが、「即自的に望まし い活動」とは、そこからは活動そのもの以外に求められてい あるといわるべきなのであって、爾余の快楽は第一一義的ない るものの全くないような活動でなくてはならないのである。 しは第何義的かのそれにすぎない。「活動」の場合がやはり 卓越性に即してのもろもろの働きこそは、まさしくかかる性 そうであるごとく 質の活動であると考えられる。すなわち、うるわしきすぐれ Ⅵた働きを行なうということは、それ自身のゆえに望ましいこ 章 第六章 とがらに属している。 第 だが、遊びの快適なものもまた、そういう性質を有してい 巻 もろもろの徳ないしは卓越性、親愛、快楽に関する叙述は釦 終った。残された仕事は幸福に関する概説である。われわれると考えられる。すなわち、ひとびとがかかる遊びを望むの はそれ以外のことがらのゆえではない。実際、遊びのために 学は幸福ということをもって人事百般の究極目的となしたので 。その際、幸福に関する既述のことがらを要身体や財産を顧みなくなるにおよんでは、そこから利益を獲 倫あったから ス るよりも、むしろ害悪を受けるほうが多くなるくらいなので 約するならば、そのことによって、われわれの論議はそれだ ある。そして、世上幸福だとされているひとびとのあいだに加 「け簡略となるであろう。 ( 三四 ) も、こうした時間つぶしに逃避している者が多い。僭主のも われわれは幸福は「状態」ではないといった。けだし、も とではかかる時間つぶしの達者な人間が好評を博する所以で しそれが「状態」であるとしたならば、生涯眠ってばかりい て単なる植物の生活を営んでいるにすぎないひととか、非常ある。つまり、かかる人間は僭主の求めている遊びの快適な 221 ( 三王 )

4. 世界の大思想2 アリストテレス

あるわけである。事実、時としては、すでに受けた恩誼を返ひとびとに固有な適当なものが配されるのでなくてはならな すということが公平でないことすらある。もし、こちらのよ ひとびとは現にまたそうしていると見られる。例えば婚 き人間であることを相手かたは知っておればこそこちらによ 姻には同族が招かれる。けだし族は、またしたがって族に関 くしているのに反して、それに対するこちらからの返酬は、 しての営みは、彼らに共同的だからである。葬儀にも、この加 こちらがあしき人間と見做しているところのひとに対してな同じ理由によって、誰よりも同族が列席しなくてはならない されなくてはならない、というごとき場合には 。すなわと考えられているのである。親に対してはその扶養のために ち、金を貸してくれたひとに報ゆるに金を貸すことをもって他の何びとに対してよりも助力すべきであると考えられるで すべきでないことさえ、時としてはあるのである。例えば、 あろう。われわれは親に扶養を負っているのであるし、また 相手かたは回収できることを予想しつつ、事実よくあるとこ 自己の存在の因を成すひとびとのためこのことに助力すると ろの人間に貸したのであるに反して、こちらにしてみれは相 いうことは自分のためにするよりもうるわしいからという意 手かたのようなあしき人間から回収しうる期待は持てない、 味において 。また親に対しては、神々に対してと同じく、 し、カ といったような場合。だからして、もし真にその通りである間その上尊敬をも払わなくてはならない。それもしかし、 とすれば、こういった相手からの要求は公平ではないのであなる尊敬をもというわけではない。すなわち、父親への尊敬 るし、またもし実際はそういう人間なのではなく、ただ世間 と母親への尊敬とでは同じであってはならないし、さらにま でそう思われているにすぎないのだとしても、かような相手たそれは、智者への尊敬や将軍への尊敬であってもならない の要求に応じないからといって不都合だとは考えられないで 父親には父親にふさわしき尊敬が、同じくまた母親には母親 ( 一四 ) あろう。こういうわけだから、しばしば述べられたように、 にふさわしき尊敬が与えらるべきである。また、すべて年 情念や行為に関するもろもろの論議の厳密さというものは、 長者に対しては、起立するとか、いい席を与えるとか、その その対象のそれと程度を同じくするものなのである。 他そういうことによって、やはり彼らの年歯に応する尊敬が かくして、あらゆるひとびとに同じものを配してはならな与えらるべきであろう。親しい仲間や兄弟に対してはという いということ、そして父親にといえどもすべてを配してはな と、彼らに与えらるべきものは「言辞の忌憚なさ」ならびに らないということは、見るにかたくない。あたかも、ゼウスに 「あらゆるものの共同」ということである。あらゆる同族や もすべてが儀牲として捧げられるわけではないように 同地区民や同国民などに対してもまた、それぞれ適当なもの そして、親でも兄弟でも親しい仲間でも恩人でも、それぞれを配するように、そうして近親性ならびに卓越性または役立 異なったものが配与さるべきだとすれば、これらそれぞれのちの程度に応じてそれぞれ相手かたに属する固有なものを塩 ( 一五 ) 、 0

5. 世界の大思想2 アリストテレス

〔つまり憐れみはそれに値いしないひとについて起ぎるし、 他方、恐れはわれわれと同じようなひとについて起きるから 第一三章 である、〕したがって、その結果は、憐れなことでも恐べ きことでもないだろうからである。 物語の筋を構成するにあたって、目ざすべきことや注意す そこで、これらの中間の状況にあるひとの場合が残ってい べきこと、また、悲劇の効果はなにからくるかを、いままで る。すなわち、徳や正義冫 こおいてわれわれよりそれほど卓越 述べてきたことにひきつづき、言わなければならないであろ してもいないひとで、しかも悪徳や邪悪のためではなくて、 なにかの過失で不幸へと変転したひとがこういったひとであ ところで、最も美しい悲劇の構成は単純ではなくて、複雑 りうる。そして、このひとは大きな評判や幸運のうちにあっ でなければならないし、また恐ろしいことや憐れむべきこと たものたちのひとり、たとえば、オイデイプスやテュエステ の模倣できるものであるべきだから ( というのは、これがこ スや、こうした家柄から出た著名な男たちが、そうである。 うした模倣に固有なものであるから ) 、まず明らかなことは したがって、すぐれた物語の筋は、あるひとたちの言うよ 立派な人間たちが幸運から不運に変転するところを見せるべ うに、二重なものであるよりも、むしろ、単純なものでなけ きではないということである。なぜなら、このことは恐ろし いことでも憐れなことでもなく、いやな気持にさせるからでればならない。つまり不運から幸運へと変転するのではなく て、反対に幸連から不連に変転する。しかもそれは邪悪によ ある。また邪悪な人間たちが不運から幸運に変化するように るのではなく、大きな過失によるのでなければならない。そ あらわしてもいけないのである。なぜなら、これはすべての うちで最も悲劇的でない、すなわち、これは必要とする特質れはいまのべたような人物のなにか、大きな過失か、もしく フィラントローポン は劣悪なものよりも、むしろ、たいへん善良なひとの過失か をなにももっていない、人情 ( 人間愛 ) に訴えもしなけれ でなければならない。 ( 現に、舞台のうえで起きる出来事も、 ば、憐れなことでも恐ろしいことでもないからである。また 極悪な男たちが幸運から不運に陥るところを見せるべきでもそれの証左である。すなわちはじめのころ詩人たちは、たま たまぶつかった筋を取り上げて、作りなおしたのであるが、 ない。なぜなら、こうした構成は人情に訴えるものをもちう 劇はわずかの家族をめぐって、構成 るかも知れないが、憐れなことでも恐ろしいことでもないか今日では、最も美しい悲ー されている。たとえばアルクマイオンやオイデイプスやオレ らである。というのは、一方の憐れみは不当な不幸に陥った ( 四 ) ステスやメレアグロスやテュエステスやテレフォスやそのほ ひとに対して起きることであるし、他方の恐れはわれわれと ( 五 ) 同じようなひとが不幸に陥った場合に起きることである、 か恐ろしいことに出合ったり、あるいは恐ろしいことをした

6. 世界の大思想2 アリストテレス

いものとの区別があるが、他の器官によっては、それが全くを介して行なわれる。水を加えたのは、水のなかにいるもの も匂いを感ずるように思われるからである。そして、血をも 3 ないという事実がその証拠である。けだし肉の剛い人たちは つものも、血をもたぬものも、空気のなかにあるものについ 思考能力の点で素質が悪いが、肉の柔かい人たちは素質がよ てと同様であると思われる。なぜなら、これらのもののうち いのである。 味には甘いのと苦いのがあるように、匂いもまたそうであの若干のものは、匂いに導かれて遠くから食物のほうへ向う る。しかしあるものは、匂いと味を類比的に平行してもってからである。それゆえにまた、すべてのものは同じ仕方で匂 いをかぐかどうか、問題があるように見える。すなわち、人 いる。たとえばあるものは甘い匂いと甘い味をもっている 間は気息を吸うことによって匂いをかぐが、空気を吐いたり が、他のものは反対になっているということである。同じよ うに匂いは、刺すようなものもあれば、引き締めるようなも押えたりするときは匂いをかがない。それは遠くにあっても のもあれば、鋭いものもあれば、油つ。ほいものもある。しか近くにあっても変りはない。また鼻孔のなかにおかれても、 し、すでに述べたように、匂いは、味と同じように、あまり匂いをかぐことはない。また、感覚器官そのものにじかにお かれたものが感覚されないことは、すべてのもの↑動物 ) はっきりと区別されないものであるから、事象が類似してい に共通である。しかし、空気を吸わないならば感覚しないと るので比喩的にそれそれ名称を得ているのである。たとえ いうことは、人間に特有なものである。これは、やってみれ ば、甘さ↑甘い匂い ) はサフランや蜜の匂いだと言われ、 ば明らかになる。したがって、血をもたないものは、空気を 他方には、つーんと刺すような匂いは、たちじゃこうそう や、そうした種類のものの匂いだと言われる。他のものにつ吸わないのであるから、上述の感覚とはなにか別の感覚をも っことができるのであろう。しかし、かれらが匂いを感じる いても同様である。聴覚やおのおのの感覚のように、聞こえ のだとすれば、それは不可能である〔と言わねばならない〕。 るものと聞こえないものにかかわるものがあり、見えるもの なぜなら、匂いを出すものは、それが悪い匂いであれ、よい と見えないものにかかわるものがあるが、それと同じよう 匂いであれ、それの感覚は嗅覚であるからである。さらにま に、嗅覚は匂いを出すものと出さないものにかかわる。匂い た、強い匂い、たとえばアスハルトや硫黄や、そういったも のないものは、全く匂いをもっことができないものであるこ のによって、人間と同様、かれらの感覚も明らかに破壊され とから、そう言われる場合と、少し、また僅かしか匂いをも る。そこで、匂いをかぐことは必ずあるけれども、空気を吸 たないので、そう言われる場合がある。味のないものも同じ ように一一「ロわれる。 いながらではない。そして人間においては、この感覚器官 匂いを嗅ぐことも、中間にあるもの、たとえば空気とか水は、他の動物のそれと異なるように思われる。眼が、硬い眼

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425 解説 は、それ以来今日まで思想史上に多大の影響を及ぼしている 実践 ) と、三作ること ( Po s 一 s 。生産・作 ) とに。そし て、この区別に応じ、こうした知能のいすれを主要目的とすものであり、今日なおその区別とその相互関係は重要な問題 であるが、ここに注意すべきは、もともとこの区別が、自ら るかによって、あらゆる学間技術を、一観照的・理論的な 学問、すなわち「理論学」 (theörétikéepisteme) または「理は労働しないで他の労働の結果を享楽する支配者階級、有閖 論哲学」 (theö. philosophia) と、一一行為的・実践的な学 貴族、上流社会の人々にありがちな発想に由来するものだと すなわち「実践学」 (praktiké epistémé) または「人間 いうことである。これは。ヒタゴラスや。フラトンにもみえたも のする事柄についての哲学」 ()é peri ta anthröpeia philo- のであるが、この発想によってアリストテレスは、人間知能 sophia) と、三制作的な技術 ( p 。 ( 一言 techné) とに大別の所産についても、作る技術よりも行なう実践学を、だが実 践学よりも見る的・知る的な学問Ⅱ理論学を、より多く優れ ところで、この区別、ことに「理論」と「実践」との区別 たもの・高尚なもの・自由市民に適わしいものと考えた。そ してその理由は、一般に人間が手段よりも目的 を・完成を尊ぶもの、手段は目的のための手段で あって、大事なのは目的だ、というにあった。こ テロス テレオロギー の終り ( 目的・完成 ) を重視する考えーー目的観 は、アリストテレスの考え方の基調とも言わ テオーリア のごれるもので、この目的観からも、理論が、したが テオーリア 本紀 写世って理論学が、最優位におかれた。見ること ( 例 巻川 えば観劇 ) は、他のなにごとのためにでもなく見 第かることそのことが終りであり目的である。そのよ 【学世うに理論学での知ること・研究することは、他の , 象 9 = 《気 ( なにかのためにではなく、ただ知らんがために知 るのであり、知ることそのことが目的である。だ から、これこそは、他のために働く職人や奴隷と はことなる自山人 ( 自山市民 ) に最も適わしい働 きーー働かない働きーーであるとアリストテレス 。・を第ををみ第イをヤ ~ - 、・みをつみ , 5 ーを 3 を区 - 、み、オを テロス

8. 世界の大思想2 アリストテレス

ることが各人にとって好ましくあるごとく、同じ程度に、ま るべきであろうか、それとも、ちょうど客を待つに「多客な たはそれに近い程度において、友の存在することもまた好ま るでもなく無客なるでもなく」といわれているのが至言だと しくなくてはならない。だが、自己の存在することが好まし考えられるように、親愛の場合にもやはり、無友にもあらず一 くあるのは自己が善き人間であることを知覚するというのに さりとてまた過度に多友でもないのがいいのであろうか。 基づいていたのであり、かかる知覚が即自的に快適だったの 功用を目的とする友のあいだでは、このことばはびったり である。してみれば、ひとは親しきひとについてもその存在とまで適合すると考えられるであろう。けだし、多くのひと していることを知覚することを要する。しかるにこのことが びとのためにこちらから尽すのは骨が折れるし、われわれの 可能となるのは、相手と生を共にするということ、すなわ生涯はそれをなすのに充分ではないからである。それゆえ自 ち、談論や思考を共にするということにおいてである。これ分自身の生涯に対して充分である以上の友は、余計であり、わ が、実際、「生を共にする」ということの人間の場合におけれわれのうるわしく生きることに対してかえって阻害的であ る意味なのであって、牧獣の場合のごとくに、同じ場所に棲る。だからそれは全く不必要である。快楽を目的としての友 息しているというだけにはとどまらないと考えられなくては も、ちょうど食物における薬味のごとく、少しあれば足りる。 ならない。かくして、至福なひとにあっては自己の存在して だが、人間の卓越性に基づく友人の場合はどうであろう いるということがーーそれは本性的な善であり快であるがゆ か。われわれはできるだけ多人数のそういう友をつくるべき釦 えに 即自的に好ましいことであるならば、そして友の存であろうか。それとも親愛の範囲にやはり何らかの適度が存 在することも彼にとってこれとほとんど同様であるとするな するのであろうか。ちょうど国家の場合におけるごとくに らば、友もまた好ましいものに属しなくてはならない。だ 。というのは、十人からでも国家は生れえないし、また十 が、彼にと 0 て好ましくあるところのものは彼において現存万人もおればもはや国家ではなくなるからである。勿論その していることが必要であり、でなければ彼はその点において適当な数というものは、おもうに或る一つにかぎるというわ 欠けるところがあることとなるであろう。してみれば、ひと けではなく、或る定まった限界の中間全体にわたるのではあ は幸福であるためには、よき友たるひとびとを要するであろろうがーー。友の数についても、要するにやはり、こうした 意味での一定の限界があるのであって、ひとが生を共にす ること ( このことが親愛における最高の特性であると考えら 第一〇章 ( 四二 ) れた ) のできる相手の数の最大限が、おもうに、それであろ う。多数のひとびとと生を共にすること、すなわち、自己を では、われわれはできるだけ多くの親しいひとびとをつく加 ( 四 0 ) ( 四一 )

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227 いるのも、おもうに、適切である。 「外的なものをほど印 がそこに存しているかぎりにおいて至福なのであるが、人間 以外の諸動物はいずれも全然観照的な活動に参与しないがゆほどにしか給せられていないでも、最もうるわしき ( ソロン ( 五 0 ) えに幸福を有しない。かくして、観照の働きの及ぶ範囲に幸の意味での ) を行ない、節制的に生涯を送ったひと」 福もまた及ぶわけであり、しかも「観照する」ということが実際、ほどほどのものを所有しておれば、まさになすべきと ころをなしうるのである。アナクサゴラスもまた、幸福なひ より多く見出だされるほど、「幸福である」こともまた著し 釦ととは富者や覇者であるとは考えなかったらしい。彼は、幸 、。付帯的にではなく、観照の働きそれ自身に即して 福なひとが世人の眼には何だか異様な人間として映ったとし ( 観照は即自的に尊貴な働きなのであるから。 ) してみれば、 ても自分は驚かないだろうといっている。けだし、世人は外 幸福とは何らかの観照の働きでなくてはならない。 もとより、人間である以上、外的な好条件をも要するであⅨ的なことがらにしか気づかないで、それによって判断するの だからである。かくして、これらの智者の見解も、われわれ ろう。われわれの本性は、観照的な活動という目的のために の論議と一致しているようである。 自足的ではなく、やはり肉体も健康でなくてはならないし、 食物やその他の世話も与えられていることを要するのであ 勿論こういったことがらも或る程度まで信頼されていい。 る。そうかといって、しかし、外的なもろもろの善なくして だが、実践的な領域に属することがらの真否の判断はやはり は至福たりえないのならば、幸福であるためにはいろいろ大もろもろの「実際」とかわれわれの生活とかに基づかなくて はならない。オオ よぜよら、これらのうちに真否に対する決定的 章がかりなものを要するであろう、などと考うべきではないの なるものが存しているのだからである。上述のことがらも、夘 第である。な。せなら、自足は過剰に存せず、行為もまた然りな だから、「実際」とかわれわれの生活とかの上に適用して考 巻のであって、たとえ水陸を併せ統べなくとも、うるわしきこ とがらをなすことはできる。すなわち、ほどほどのものから察されることを要するのであって、もし「実際」に調和する ならば受け容れていいし、もし背馳するならば単なる「言論」 学してもひとは徳に即して行為することができるはずであり、 に過ぎないと考えていいのである。 ( このことは容易に観取されうる。というのは、よろしきこ とがらをなすことにおいて私人は覇者に劣ってはいず、かえ ( また、理性に即する活動を行ない、理性を愛育するところ マ ってまさっていると考えられるからである。 ) その程度のもの のひとは、最も善き在りかたのひとたるとともに、また最も があれば充分である。徳に即して活動しているひとの生活は 「神に愛さるべき」ひとでもあるように思われる。なぜなら、 それで充分幸福でありうるだろう。 もしひとびとに考えられているように神々の人事に対する心 ソロンが幸福なひとを描いて、次のようなひとだとなして遣いが行なわれているのであるならば、神々は最善なそうし ( 五ニ ) ( 五こ

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たすことにその善とそのよさがあるごとく、人間についても かくして人間の機能は、「ことわり」に即しての、ないしは プシュケー またーー何らか「人間の機能」なるものが存在するかぎり 「ことわり」を欠いていないところの、魂の活動であるとす これと同様なことがいえると考えられるからである。と るならば、そうしてまた、これこれのものの機能とすぐれた ころで、大工や織匠には何らかそれぞれの機能とか働きとか これこれのものの機能とは同類の機能であるということを認 があるが、人間にあってはそのようなものは存在せず、人間は めるならばーー例えば琴弾きの機能はすぐれた琴弾きの機能 無機能的に造られているのであろうか。そうであるよりは、に同じく、その他いかなる場合について見てもすっかりこれ むしろ、眠や手や足や総じて身体の各部分について何らかそと同様であり、ただ、性能の優秀ということが後者の機能には れぞれの機能が見られるごとく、それと同じように人間につ付加されるのであって、すなわち、琴弾きの機能は琴を弾する いても、かかるすべての機能以外に、人間の機能ということ 、も にあり、すぐれた琴弾きのそれはよく弾ずるにある。 のできる何らかの機能を考えうるのではあるまいか。ではそし以上のごとくであるとするならば、〔人間の機能は或る性 。したしいかなる機能であるだろう。 質の生、すなわち魂の「ことわり」を伴う活動とか働きとか 生きているということは植物にも共通な機能であると見ら にほかならず、すぐれた人間の機能はかかる活動とか働きと れる。ここで求められているのは、しかるに、人間に特有の かをうるわしく行なうということに存するのであって、すべ 機能である。それゆえ、食養摂取とか成育とかの意味におけていかなることがらもかかる固有の卓越性に基づいて遂行さ る生は除外されなくてはならぬ。次には感覚的な或る生が問 れるときによく達成されるのである。もしかくのごとくであ 題になるであろうが、これも馬や牛やその他あらゆる動物に るとするならば、〕「人間の善」とは、人間の卓越性に即して 共通の機能であると見られる。かくして残るところのもの の、またもしその卓越性が幾つかあるときは最も善き最も究 は、魂の有理的な (= 「ことわり」を持った ) 部分の働きとい 極的な卓越性に即しての魂の活動であることとなる。 った、そうした生のほかこよよ 冫ーオい。ただし、有理的な部分と のみならずまた、それは究極の生涯においてでなくてはな ことわり いうのは、理に対して従順なものという意味のものと、みずらない。というのは、一羽の燕が、また或る一朝夕が春をも ことわり から理を有し知性的に認識するところのものという意味のちきたすのではなく、それと同じように、至福なひと・幸福 ものを含む。また、有理的な生といっても、それは二様の意 なひとをつくるものは一朝夕や短時日ではないのである。 味を持っているが、われわれの意味するのは活動という意味 以上をもって「善」の素描としたい。最初に輪郭を造ってⅦ におけるそれであるといわなくてはならない。事実、そのほ然る後に細部を描くことが、けだし、必要だからである。輪 うが言葉のより厳密な意味における生であると考えられる。 郭がよくできていさえすればそのものに手を加えこれを精緻 ( 三四 ) ( 三五 ) ( 三三 ) 1098a アレテ