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検索対象: 世界の大思想2 アリストテレス
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1. 世界の大思想2 アリストテレス

431 解説 が招かないでも見物人が寄ってくるように ) であるとアリス 結合体とし、すべての運動を可能性の現実性への転化とする トテレスは答える。だが、これは。フラトンより以上に超自然 弁証法的思考原則ーーを破って、すべての事物の内にではな く外に、彼岸に、それ自らはいかなる質料も可能性ももたな的で非活動的な形而上学的プラトン主義に舞い戻ったもので い或る不動の動者を認めるところの形而上学者となる。かれある。そして、この超自然的な。フラトン主義が、のちに新プ ラトン派を経て、中世スコラの学僧により不幸にも不朽化さ は、天界の永遠運動の窮極の原動者として、したがってまた 一般に質料の含む形相の可能性を現実化するゆえんの第一のれた。 霊魂論の場合 原因として、それ自らは動きも動かされもしないで、しかも 「プシケー」 (psyché) というのは、「霊魂」と訳されるが、 ただそれが全き現実態としてあるがゆえに他のすべては動か アリストテレスの定義では、広く一般的に、生物 (empsy ・ されるところの「不動の動者」 ( うごかないうごかして ) な ェイドス るものを考え出し、これこそは「神」であるとした。これ chon. 。フシケーをもつもの ) の形相であり、種々の生物がそ いかなる自然的存在ともちがって、それ自らなんらの質れぞれもっている可能性 ( 能力 ) の最初の現実態である。そ ォルガニコン 料ももたない全くの純粋形相であり、なんらの可能性をも余れは、生命を有する有機的な自然物 ( 植物・動物・人間 ) をま さにそうした自然物たらしめるゆえんの形相であり現実態で さない完全な現実態であって、これに適わしい活動は純なる ノエーシス 思惟、しかもこの常に全く現実的な思惟には他に思惟さるべあって、ただに有意識的な生物における意識原理 ( 感覚し欲 求し思惟しなどする心とか精神とか言われるもの ) だけでな き対象はないから、この思惟は、思惟自らを思惟する思惟、 、植物をも含めてのあらゆる生物を産み生かし栄養する生 言わば「思惟の思惟」であり自己思惟である。だが、こうし 命原理 ( 生命力 ) をも意味する。このいずれかの意味でそれ た思惟とか現実態とかいうのは、実はもはや普通の言葉では 活動とも行為とも一一 = 〔えないもの、むしろ全くの非活動的・静止ぞれの生物はプシケー ( 霊魂 ) を有し、したがって一般に生 的な永遠の自己直観である。しかもこの神、すなわちこの永物はその形相としての霊魂とその質料としての肉体との結合・ 遠不動の純粋思惟者が、ただたんに全き現実態としてあると体であり、その形相または現実態としての霊魂が去れば生物 ではなくて死物である。ゆえに、アリストテレスによると、 いうだけで、第一の最高の天球を初めとして世界のすべては、 生物は常にかかる両者 ( 形相なる霊魂と質料なる肉体と ) の それそれその可能性を現実化しつつ運動し生成変化するとい うのである。では、どのようにして動かすかというに、それ結合体として具体的に研究され理解さるべきであった。そし てこの具体的立場から、アリストテレスには、諸種の生物の は、あたかも欲求や思慕の対象が、対象それ自らは動かない で、しかも欲求や思慕の情を起こさせるように ( 例えば桜花うちとくに動物に関して、のちにダーウインをも驚嘆せしめ

2. 世界の大思想2 アリストテレス

が、運動はつねに避けるものの何かであるか、追求するもの 運動を動かすのは、すべてのものに備わっているもの、すな わち、生長力と栄養力であると、思われるであろう。だがしの何かであるからである。しかしまた、何かこういった実践 かし、呼吸や睡眠や覚醒については、のちによく検討しなけ的なものを観照するときも、もはや避けたり追求したりする ことを命令しはしない。たとえば、しばしば何か恐るべきも釦 ればならない。というのは、これらもまた、多くの問題をも 1 ( 四四 ) の、あるいは快いものを思考しはするが、恐れることを命じ っているからである。しかしながら、場所的運動については、 ることはない。心臓は動かされているが、しかし快い場合は 動物を歩行的運動において動かすものは何であるか、検討し ( 四六 ) なければならない。ところで、それが栄養的能力でないこと何か他の部分が動かされているのである。さらにまた、何か は明らかである。なぜなら、この運動はつねに何かのためでを避けたり追求したりすることを、理性が命じ、思考が言い あって、表象と欲求を伴っているからである。つまり、欲求つけるときも、魂は動かされはしない、むしろ欲望に従って したり避けたりするものは、強制以外には動かされないから行動するのである。たとえば、克己心のないものの場合のよ うに。そして一般的には、医術をもっているものが治療を行 である。さらに、植物が動かす力をもつものであったならば、 この運動に対する何か道具となる部分をもったであろう。同なわないことを、われわれは見ているのである。それは知識 こよってわれわれを働かせることのできる じように、感覚能力もまた、運動をおこすものではない。なではなくて、知識冫 ぜなら、感覚をもつけれども静止していて、いろいろの目的何か別の主人があるからである。のみならず欲求もまた、こ によって動かされない動物も多いからである。とここで、もの運動↑場所的運動 ) の女主人ではないのである。なぜなら し自然は何ものも無益に、当もなく作らず、必要なものは何克己心のあるものたちは、欲求し欲望するけれども、欲求の も作り残さないとすれば、 ( 不具なものや未成熟なものにお対象であるものを何も行なわないで、理性に従うからである。 いては別であるが、動物のうちのこうした、動かないものた ちも、完全なものであって損われたものではない。それらに 第一〇章 生長する力があり、盛りと老衰があることはその完全さを示 している ) ーーーしたがって〔自然がのそんだら〕これらは、 しかし、とにかく、この二つは、欲求にせよ理性にせよ、 歩行の道具となる部分をもったであろう。のみならす、思量もしも表象を一種の思惟作用とするならば、明らかに、動か 的部分やいわゆる理性もまた、動かすものではない。なぜなすものである。な。せなら、多くの人たちは知識に背いて、も加 ろもろの表象に従うし、また他の動物たちにも思惟や推理は ら、観照的部分は行動すべきことを何も観照しないし、また、 存しないが、表象は存するからである。したがって、この両 避けるべきことや追求すべきことについても何も言わない

3. 世界の大思想2 アリストテレス

どは、空気が視覚器官を動かすのである。ちょうど蜜蝋のな らである。そして、骨や髪の毛や、肉体のこうした部分によ かの印が限界まで浸透するように。 って、われわれが感覚しないのは、これらが地から出来てい るという、このことによるのである。また、植物がどんな感新 覚ももたないのも、これらが地から出来ているということに 第一三章 よるのである。しかし触覚なしには、どんな他の感覚も成り 立たないのである。だが、この感覚器官は、地だけからも、 動物の肉体は、単一な、つまり、火的なものの元素から出 また、他の元素のどの一つだけからも、出来ているのではな 来ているとか、空気的なものの元素から出来ているとかいっ いのである。 たものではありえないことは明らかである。なぜなら、触覚 そこで、この触覚だけは、これを欠けば、動物は死なねば なしには、他のいかなる感覚ももっことはできないからであ る ( すなわち、魂をもつ物体は、すべて接触によって感覚でならないことは明らかである。なぜなら、動物でないもの は、この感覚をもっことはできないが、また、動物であれば きることは、すでに述べたとおりである ) 。しかし、地以外 の他の元素は、感覚器官になりうるであろう。そして、すべ必ずこの感覚以外の他の感覚をもたねばならない、というこ ての感覚器官が、他のものを介して、つまり、いろいろの媒ともないからである。またこのことから、他の感覚の対象 は、いろいろと過度であっても、動物を破壊しはしない。た 体を通して、感覚することによって、感覚を作り出す。しか し触覚は、事物そのものに触れることによって成り立つのでとえば、色や音や匂いがそうである。ただ、感覚器官を破壊 ある。それゆえまた、触覚の名をもっているわけである。しするだけである ( 付帯的な場合、たとえば、音と同時に押す とか打っとかが生じた場合、を除いては ) 。そして、見られ 昭かもまた、他の感覚器官も、接触によって感覚するのである。 第 るものや匂いのあるものによって、接触すれば破壊する他の ただ、他のものを介してである。しかし触覚だけは、単独に 3 自分だけで感覚すると思われる。このようにして、地以外のものが、動かされるのである ( 味もまた、たまたま同時に身 第 体に触れうるものである限り、この点で身体を破壊する ) 。 どの元素も、動物の肉体とはならないであろう。 マ しかしまた、肉体は、地から出来ているだけではない。な加これに反して、触れられるものが過度であれば、たとえば、 ア ぜなら、触覚は、すべての触れられるものの、いわば中間者熱いものや冷たいものや固いものなどが過度であれば、動物 である、つまり、触覚の器官は、地がもつもろもろの差異そのものの生命を奪うのである。そのわけはこうであゑす を、すべて受け取るばかりではなくて、温かさや冷たさや、 べて感覚されるものが過度であれば、感覚器官をだめにす その他、触れられうるすべてのものを、受け取るのであるか る。したがってまた、触れられるものも触覚をだめにする。 ( 五八 ) ( 五九 )

4. 世界の大思想2 アリストテレス

もあることは明らかである。なぜなら、理性がなにかのため世界全体にとっても、上と下とは同じではない。器官は、そ に働くように、それと同じ仕方で、自然も働くのであり、そしの機能によって、別であるとか同じであるとか言うべきだと てこのなにかが自然の目的であるからである。自然の秩序に したら、動物の頭にあたるものは、植物の根であるわけだか 従えば、魂が、生物においては、こういうもの↑目的 ) でらである ) 。そのうえまた、火と地が相反する方向に動くの ある。なぜなら、自然物体のすべては魂の道具であり、動物を統一するものは何であるか。もしもこれらの運動を妨ける の身体も植物のそれも、魂のためにあるという意味におい ものがなにかないならば、火と地は分散するであろう。しか て、そうであるから。「それのためにといわれるそれ」は二加し、もしもあるとすれば、それは魂である。そしてそれは、 通りである。すなわち「目的となるそれそのもの」と「その栄養をとり、生長することの原因であろう。しかし、ある人 ものの利益のためになにかがなされるそれ」である。しか たちには、火の本性は無条件に、栄養と増大の原因であると し、また、場所的運動が最初に始まるところ↑起動点 ) が 思われている。じじつ、物体のうち、この火だけが栄養をと 魂である。だがこの能力は、すべての生物に備わるのではな り増大することは明らかである。それゆえ、植物においても い。さらに、質的変化も増大も、魂によって存在するのであ動物においても、これが働きをするものであることは理解で る。なぜなら、感覚は一種の性質的変化であると思われる きるであろう。しかしある意味では、これは、絶対的な意味 し、魂にあずからないものはなにも感覚しないからである。 での原因ではなく、副次原因 ( シュナイチオン ) であろう。 また、増大と減少の量的変化についても同じことが言える。 そして、むしろ魂が原因であろう。なぜなら、火の増大は、 なぜなら、栄養をとらなければ、なにものも自然には減少も燃料があるかぎり、無限に続くであろうが、しかし自然に合 章増大もしないし、また生命にあすからないものは、なにもの成されて出来たものにはすべて、大きさにも増大することに 第も栄養をとることはないからである。 も限界と比 ( ロゴス ) があるのであって、これらは、火では しかし、エンペドクレスがつぎの理由をつけ加えて説明し なく、魂に属する、つまり、質料よりも本質規定 ( ロゴス ) に属するからである。 たのは、うまいやり方ではない。すなわち、植物にとって根 栄養的能力と生長的能力は魂の同じ能力である。そこでま = を下方へ伸ばして増大することが起こるのは、地が本性に従 0 てそのように下へと動くからであり、上へ伸ばして増大すず、栄養物について規定しておかねばならない。 というの ることが起こるのは、同様に、火がそのように上へと動くか は、これらの能力は、その働きによって、他のもろもろの能。 ( 一四 ) らであると言うのである。これは、上と下とが、うまく使わ力と区別されるからである。栄養物は反対なものに対する反 れていない。 ( というのは、すべてのものにとっても、また対なものであると思われているが、すべての反対なものがす

5. 世界の大思想2 アリストテレス

た多くの優れた研究 ( 『動物誌』『動物部分論』『動物発生論』 ではなお可能性をあます受動的なものであると認めながら、 など ) があるが、かれの「霊魂論」または「心理学講義」と まさにそれゆえに、 この理性 ( 肉体器官との結合のゆえにな プシケー もいうべき三巻の名著「デ・アニマ』 ( 霊魂について ) は、 お可能的・受動的な思惟能力 ) をして現実に思惟させるゆえ 動物のみでなく植物をも人間をも含めての全生物について、 んの最後の原囚・原動力はなにかと自問して、アリストテレ それらがそれぞれ自らその種族を生殖しそれそれ自ら栄養スは、このわれわれ人間に普通の理性 ( 受動的理性 ) とは別 し、発育し、運動し、感覚し、欲求し、思惟しなどするそれに、質料 ( 肉体器官 ) から全く離れて存する純なる非受動的 ぞれの段階の霊魂の構造・機能・相互関係などを概観したも な理性があるとし、これだけはいかなる質料 ( したがってい ので、言わば生物をとくにその形相の側から研究したもの、 かなる可能性 ) をももたないで常に現実的に思惟しており、 生物の形相論ともみられる。そしてここでもアリストテレス 永遠不死であるとし、、そしてこれが常に現実的にあるがゆえ は、それそれの生物についてその形相または現実態としての に、われわれは思惟しうるのだとした。この非受動的な理 それそれの霊魂 ( 栄養能力・感覚・理性など ) を、それらを性、これが後世「能動的理性」 (intellectus agens) と呼ば 内に含むそれそれの肉体 ( 質料または可能態 ) との不離の連れ、中世から近世初期にかけて霊魂 ( とくにその理性的部 関において、詳細に具体的・発展的にとらえようと努力して分 ) の不死の間題とからんで論議の種となったものである。 いる。こうして、ピタゴラスやプラトンに始まり中世スコラ 目的論的な形而上学瞽アリストテレスとしては、質料のもっ 哲学およびその後にも顕著な霊肉一一元観 ( 霊肉分離の思想 ) 可能性を現実性に転化させる終局の原動力として質料・可能 および霊魂優越視の観念論は、このアリストテレスでは一応性を全くもたない純なる形相、全くの現実態ーーそれ自らは 克服されたかにもみえる。のみならず、事実、近世の経験的全く活動しない完成態ーーを想定せざるをえなかったのであ 心理学の遠い開祖ともみられるものが少なくない。しかる るが、これも結局は、かれの脱却しえなかった超越的に観念 - に、その心理学 ( 霊魂研究 ) の最後のところで、すなわち、 一 = ⅱ的なプラトン主義の痕跡である。 実践哲学の場合ーー 生物のうちの最も発達した動物 ( すなわち人間 ) の霊魂を論 ずるに当たり、人間という動物の霊魂には栄養能力・欲求能 第一哲学でも霊魂論でもそうであったように、実践哲学で カ・感覚能力のほかにとくに人間の肉体のうちでのみみられも、その最後のところは非実践に終っている。かれの倫理学 る形相として理性 ( 思惟能力 ) があるとしたのち、この理性でみると、その出発点においては、かれは人間生活をその現 ・、、だいたいにおいては他の場合と同じく、その質料 ( 感覚実の姿において観察し分析する経験主義者であり現実主義者 し欲求しなどする肉体器官 ) と不離に結合した形相である点であり、のみならずたんに現実を解釈するに止まらないで現

6. 世界の大思想2 アリストテレス

されるものは欲求能力である ( というのは、動かされるもの なければならない。かれらには、接触による感覚しか備わっ は、欲求する限りで動かされ、欲求は一種の運動、つまり現ていないが、かれらには表象作用は備わりうるかどうか、ま 実態にある運動であるから ) 。また、動かされるものは動物た、欲望も備わりうるかどうか。というのは、かれらには明 である。さらに、欲求が道具としてなにかを動かすところのらかに苦痛も快楽もある、そしてもしもそれらがあるならば、 もの、それはすでに物体的なものであるーーそれゆえ、肉体欲望ももっていなければならないからである。しかし、かれ と魂の共同の働きにおいては、この道具について十分、考察加らは表象作用をどのようにもっことができるだろうか。おそ ( 四八 ) しなければならないのである。しかしいまのところ、大要をらく無規定的に、ぼんやりと動かされるように、これらのも 述べるとすれば、道具的に動かすものは、初めと終りとが同のももちはするが、無規定的にぼんやりともっているのであ じであるところにあるーーたとえば、関節がそうである。じろう。 っさい、そこでは、凸ったものと凹んだものが、一方は終り ところで、感覚的表象は、すでに述べたとおり、他の動物 であり他方は初めである ( こういうわけで一方は静止し、他たちにも備わっている。これに対して、熟慮的表象は、思量 方は動くのである ) 。これらは本質規定においては別のもの的能力をもつもの↑人間 ) たちのうちに備わっている ( と であるが、大きさにおいては切り離されないものである。な いうのは、これを行なおうか、あれを行なおうかと熟慮する ぜなら、すべては押すことと引くことによって動かされるか ことは、もう思量の仕事である。そしてそれは、一つの基準に らである。それゆえ、円環におけるように、何かがとどまっ よって計らなければならない より大きいほうを追求するの ( 五 0 ) ていて、そこから運動が始まらねばならないのである。 だから。このようにして、多くの表象のうちから一つの表象 ところで一般的には、すでに述べたように、動物は欲求能を作り出すことができるのである ) 。また、低級な動物たちが 1 力をもっ限り、それによって自己自身を動かすことができる臆断の能力をもたないように思われる理由は、三段論法によ のである。しかし、表象なしには欲求能力はありえないのでる表象をもたないで感覚的表象が動かすということにある。 ある。表象はすべて推理的か感覚的かである。ところで、他こういうわけで、欲求は熟慮的な能力をもたないのである。 の動物たちも、この表作用にはあすかっているのである。釦 ときには、この欲求があの欲求に勝ち、それを動かす。だが ときには、これがあれに勝ち、それを動かすのである。ち ( 五四 ) ようど、竸技において球が△球を > 動かすように、欲求が欲 求に勝ち、動かすのである。これは無抑制が生じたときであ る。しかし、本性上っねに上位の欲求が、よりいっそう支配的 未完成なものについても、何が動かすものであるか検討し ( 四九 ) ( 五一一 ) ( 五一 ) ( 三三 )

7. 世界の大思想2 アリストテレス

と、われわれは言うのである。たとえば、理性、感覚、場所 ような、そのような関係で、魂が肉体の完成態であるかどう かは、明らかでない。魂については、以上のような輪郭で規的運動と静止、さらに栄養における運動や減少や増大がそう である。だから、生長するものはすべて、生きていると思わ 定し、これをもって素描としよう。 れる。なぜなら、それらは明らかに、自らのうちに、そうし た能力と原理をもっており、これを通して、増大と減少を、 第二章 反対の場所において受け取るからである。じっさい、上へは 増大するが、下へはしないというのでなく、同じ様に両方向 本性上は不明であるが、われわれにとって、かなり明らか へ、いや、あらゆる方向へ増大する、栄養を摂り、かっ栄養 な事柄から、確かで、しかも論理 ( ロゴス ) 的にいっそうよく を摂ることができるであろうかぎり、生き続けるものはみ 認識されるものが生するから、魂について、もう一度、このよ な、そうである。しかしこの栄養能力は、他の能力から切り うな道を通ってわれわれの目的に到達するよう努力しなけれ 離されうるが、他の能力は、死すべきものにおいては、これ ばならない。定義を表明する言論は、最も多くの定義が述べ から切り離しえないのである。これは生長するもの 7 植物 ) ているように、単に事実を明らかにするというばかりでなく において明らかである。な、せなら、それらには魂の他の能力 て、原因がそこに備わっていて、それが明らかになるべきで はなにも備わっていないからである。 ある。ところがじっさいは、定義を表明する言論は、あたか ところで、生きることは、生物においては、この原理 ( ” も結論のようなものである。たとえば、正方形を作ることは 何であるか、の問いに対して、長さが不等で角が等しい直角能力 ) によ「て備わ「ているが、動物であることは、ます感 覚によって初めて可能である。なぜなら、動かす場所もかえ 形、つまり四角形を、等辺であるようにすること、と答える ないでも、感覚をもつものを、われわれは動物と言い、たた 場合のようである。こうした定義は、結論を表明する言論で ある。これに対して、正方形を作ることは中間 ( 。比例中項 ) 。生きているとだけは言わないからである。感覚のうちでは、 ます触覚が、すべての動物に備わっている。しかし栄養能力 の発見である、と述べる定義は、事物の原因を述べている。 が触覚や他のすべての感覚から切り離されうるように、触覚 それゆえ、探求の出発点を取り上げるにあたって、魂をも は、他の感覚から切り離されうる ( 植物もあずかるところの っのと、もたぬものが、生きているかどうかということに よ「て分けられる、とわれわれは言うのである。しかし、生魂のこうい「た部分を、われわれは栄養的と言うのである ) 。 だが動物はすべて、明らかに、触覚的な感覚をもっている。ど 。しろいろの意味において言われるから、こ きていることよ、、 れらのうちの一つだけが備わっていても、それを生きているんな原囚でこれら二つのそれぞれが生起してきたか、それは 413b

8. 世界の大思想2 アリストテレス

しかし、動物は必ず感覚をもっている。そして、これをも釦 であって、下位のを動かすのである。このようにして、三つの たなければ何ものも動物ではありえないのである。もしも自 運動 ( フォラ ) によって、このときは動かされるのである。 然が当てもなく、無益には何も作らないとすれば。けだし、 しかし、知識する能力は動かれないで、とどまっている。 一方、すなわち、命題 ( ロゴス ) は普遍的であるが、他方の自然に存在するものはすべて、何かの目的のために備わって ( 五六 ) いる。あるいは、それらに付随したものも、何か目的のため それは、個々のものにかかわる ( すなわち、一方は、こうい に存在するものに、属するであろう。だから、もしも、すべ った人はこういった種類のことを行なうべきであると言い、 他方は、これはこういった種類のものであって、わたしはこ ての歩行する物体においては、感覚をもたないならば、死減 ういった種類の者だ、と言う ) から、たしかに、一般的な臆して、自然の働きである目的に到達しえない、 としたら ( 感 断ではなくて、この個々のものにかかわる臆断が、行為へと覚をもたないとしたら、どうして栄養をとることができよう ( 五七 ) 動かすか、あるいは両者が動かすかである。しかし前者は、 か。定着した生物たちにとっては、そこから発生したところ むしろとどまっているが、後者はそうではないのである。 のもの↑地や水 ) が栄養を与えるものとして存在するので あるが、 しかし生まれたもので、定着していないものの場 合、その肉体が魂と判別する理性をもちながら、感覚はもた 第一二章 よ、、ということはあり、んない のみならず、生成したも のでないのも同然である。生成したものなら、どうして、感 ところで、生き、そして魂をもっ限りのものはすべて、発 覚をもたないことがあろうか。けだし、そのような場合があ 生から死減に至るまで、栄養的魂を必ずもっていなければな 章 らない。なぜなら、生まれたものは増大と盛りと減少〔衰るとしたら、それは物体にと「てであれ、魂にと 0 てであ 減〕をもっていなければならないが、これらは栄養なしにはれ、もたないことがよりよいがためであろう。しかし、じっ 不可能だからである。だとすれば、すべての生長し、減少さいは、そのいずれにおいても、もたないことはないのであ 第 〔衰減〕してゆくもののうちには、栄養能力が存していなける。でなければ、魂が、いっそうよく思惟するということは ないであろうし、物体にとっては、そのことによって、より = ればならない。だが感覚は、すべての動物のうちに存してい いっそう何かが加わるということがないであろう ) なければならないということはない。なぜなら、単一物体し ら、どんな物体も、定着していないものであれば、感覚なし かもたないものはどれも、感覚をもっことはできないし、ま に魂をもっことはないのである。 た、質料なしに形相のみを受け取ることのできないものも、 そうである。 しかしながら、少なくとも感覚をもっているならば、その ( 五五 )

9. 世界の大思想2 アリストテレス

ところがこの触覚によって、動物は定義されたのである。す なわち、触覚なしには動物ではありえないことはすでに示し ( 六 0 ) たところである。こういうわけで、接触されるものが過度で あれば、単に感覚器官 (- 触覚器官 ) を破壊するだけではな 、動物をも破壊するのである。動物としては必ず、この触 覚だけはもたなければならないからである。 動物は他の感覚をももっているが、すでに述べたように、夘 これは、単に存在するためではなくて、よくある↑幸福で ある ) ためなのである。たとえば、視覚をもつのは、空気や 水のなかに、一般的に言えば、透明なもののうちに住んでい て見るためである。また、味覚をもつのは、快いものや苦痛 になるものがあり、それを得たり、避けたりするためであ って、そうすれば、栄養物のうちにある性質を感覚し、欲望 し、そして動かされることになるからである。また、聴覚を もつのは、動物がなにか信号が与えられるためである。

10. 世界の大思想2 アリストテレス

輛 一四ー三〇 ( 二一ー二七 ) 、同第三章四二五一二ー二七、同四 二八二二ー二五参照。 三四 ( 三三一頁 ) 甘さは苦さに対して、温かさが冷たさに対するよ 、くつかの属性は一つの主体 うな比例関係をもっている。また、し に属する。 三五 ( 三三一頁 ) がに対するように、 O は e< に対するであろ 三六 ( 三三一一頁 ) 「気象論」三八五二三、「ニコマコス倫理学」第 四巻第三章一一二三六、本巻第四章四二九一〇以下を参照。 老 ( 三三一一頁 ) 思惟の対象と同じである、との意。本巻第五章四 三〇三ー五、同第八章四三一二二参照。 三 ( ( 三三一一頁 ) 同じようなことが「記憶について」四五〇七に のべられているが、ここで約東されたことが検討された個所は見 当らない。 三九 ( 三三一一頁 ) 「道具の道具 , とは多くの道具を制作し、使用す るための道具の意。「動物部分論」六八七一八以下参照。「形相 の形相ーは形相を理解するための形相の意。 四 0 ( 三三三頁 ) 最初の、とは「抽象度の最も低い」ことを指す。 四一 ( 三三三頁 ) 本巻第三章四二七一七ー一九参照。 四 = ( 三三三頁 ) 栄養的部分 ( 能力 ) については第二巻第四章で、 感覚的部分 ( 能力 ) については第二巻第五章ー第三巻第二章にお いて、表象的部分 ( 能力 ) については第三巻第三章四二七一四 ー四二九九において述べられた。 四三 ( 三三三頁 ) プラトン「国家」四三四二ー四四一 O 三参照。 四四 ( 三三四頁 ) 呼吸については、『呼吸について」四七〇六ー四 八〇三〇、睡眠と覚醒については、「睡眠と覚醒について」「夢 について」「夢による予言について」において論せられるべく、 県留された。 ( 三三四頁 ) 「無益に : : : 」は、働き、機能がないのに、器官を つくらないこと。「必要なものは : ・」は働かせる必要があれば、 自然は働き、機能も器官もっくること。 四六 ( 三三四頁 ) 生殖力をもっ部分 (tagennetika moria) やロ中に 唾液が生することなどが考えられるであろう ( ロス ) 。 岩 ( 三三五頁 ) 「ニコマコス倫理学」第六巻第一一章一一四三 四、第三巻第三章一一一二二三参照。 哭 ( 三三六頁 ) ここ ( 四三三一九ー二一 ) の約東は「動物運動 論」六九八一四ー七、七 0 二二 l—=l 一において果たさ れる。 究 ( 三三六頁 ) すべての有機体の運動、つまり、腕や前腕あるい は脚や脚の下部分の運動は押したり引っぱったりして行なわれ る。 吾 ( 三三六頁 ) すべての運動において、動かないで動かす ( 運動 を起こす ) 部分がなければならない。この部分は心臓である。 「動物部分論」六六五一〇参照。身体と心臓の関係は円周と中 心の関係に比せられる。 三 ( 三三六頁 ) 思量的表象は計画をふくみ、感覚的表象は感覚に 直接びきつづいて起こるもの。 至 ( 三三六頁 ) 下等な動物を指す。 吾一 ( 三一一一六頁 ) 前章四三三二九ー三〇参照。 吾 ( 三三六頁 ) 一人の競技者の球が他の競技者の球にぶつつかり 打ち勝っ場合。 芸 ( 三三七頁 ) 三つの運動とは、二つの欲求がわれわれを動かす 場合、さらにこの二つのものの結合によって結果した複合的な運 動をさす。 契 ( 三三七頁 ) 実践的な三段論法において、一方は大前提であり、 他方は小前提である。