合のうちに存するのである。すなわち、白いものを白くない しては不可分なものである。これらのものにおいても、何か △と言うならば白いもの > と白くないものとを結合したこと不可分なものが備わっているが、それはおそらく、切り離し になる。しかしまた、すべての判断は分割であると言うこと えないものであろう。そして、この何かが時間と長さを一つ もできる。しかしとにかく、クレオンが白くあると言うこと にしているのである。そしてこれは、時間であれ、長さであ ばかりでなく、白くあった、あるいは、あるであろうと言うれ、すべて連続的なもののうちに同じように存在するのであ ことも、虚偽であるか、真実であるのである。そして、個々 る。しかし〔量的にではなく形相↑種 ) において不可分な のものを一つにするもの、これが理性である。 ものを思惟するのは、不可分の時間において、不可分な魂の しかし、「不可分なもの」は、可能態において分割されう部分によってである〕。しかし、すべての分割するもの 7 るものか現実態において分割されているか、いずれか一一通り 線、面 ) 、また、このような仕方で不可分なものは、あたか も欠除 ( ステレーシス ) と同じように明らかにされる。同様 の意味があるから、可分なものを不可分なものとして考える ことは、何ら差し支えがないのである。たとえば、長さを考なことは、他のものにおいても言われる。たとえば、悪とか える場合、 ( 長さは現実態においては不可分であるわけだが ) 黒とかを、どのようにして認識するかを言う場合がそうであ そうである。また、不可分の時間において考えることも、差る。なぜなら、これらのものを認識するのは、何か反対なも の ( Ⅱ善あるいは白 ) によってであるから。しかし、認識する し支えない。というのは、時間は線と同様に、長さにおいて 可分であり不可分であるから。それゆえ、半分の時間のそれ間ものは可能態においてあり、そのうちには一つの反対なもの ( ニル ) ぞれにおいて線のどの部分を思惟したか、言うことはできな が備わっていなければならない。しかし、それに反対なもの い。なぜなら、分割されないならば、可能態においてしか考 が何もない場合は、それはそれ自身を認識する。そしてそれ えることができないからである。しかし、半分のおのおのをは、現実態であり、切り離されうるものである。肯定は、何 別々に思惟するなら、時間をも同時に分割しているのであ かについての何かである。否定もまたそうであるように。そ して、これらはすべて、真であるか偽であるかである。しか る。そのときは、時間を、あたかも長さのように分割してい るのである。しかし、半分の双方から出来ているものとしてし理性は、すべてが真か偽かではなくて、本質についての何 であるかの理性 ( Ⅱ思惟 ) は真である。そしてその思惟は何 一つの長さを思惟するならば、また半分の双方から出来てい る一つの時間においても考えているのである。理性が思惟すかについての何かを言わないのである。むしろ固有なものを る対象や考えるときの時間は、思惟されるものとしてでな視ることは真実であるが、白いものが人間であるか、そうで ないかである場合、それの陳述は、必すしもつねに真ではな 付的に、可分なものである。だが、思惟されるものと ( ニ八 )
割されるものだが、 場所的に、また数的には、分割されない 7 器官 ) によって、独立した別々のもの 7 対象 ) を、判 ものだからである。それとも、このことは不可能であるか。 別できないことは明らかである。しかしまた、独立した別々 の時において、判別することができないことも以下のことか不可分の同じものは可能的に相反するものでありうるツ、し かしその本質においてでなく、働かされることにおいて分割 ら明らかである。すなわち、善いものと悪いものは別である されうるものである。そして同時に白と黒であることはでき と同じものが言うように、これとあれとが別のものであると 言うときもそうである ( このときは付帯的ではない。付帯的ない。したがって、それら相反するものの形相を受け入れる これは、感覚と思惟がそうした感覚物の形 と言うのは、たとえば、善いものと悪いものは別であるとわこともできない。 たしがいま言いはするが、「いま別である」と言っているの相を受け入れるものであるとする場合である。しかし、ある ではない。そのような場合であるが、しかし同じものはいまひとたちが点と呼んでいるものの場合は、不可能ではない。加 も言い、また、それがいま別であるとも言っているのであ一であって二であるという、その点においては、不可分なも る ) 。したがって感覚されるものと、それを言うのとは同時のでもあり可分なものでもあるということはある。したが って、不可分である限り、判別するものは一つであり、同時 である。このようにして、切りはなされないもの↑能力 ) に一つとして働いている。だが、可分なものである限り、同 ( アコーリスタ ) は分割されないときに存在しているのであ じ点を、同時に、一一度使うのである。ところで、限界を一一度 る。 しかしまた、同じものが分割されないものである限り、相使う場合は、それを二つの別々に切り離され独立したものに 反する運動において、同時に、つまり不可分な時間におい分ける。つまり限界は、切り離され独立したものとして二つ 章 て、動かされることはできない。じっさい、もしも甘いものなのである。だが他方、一つとして使うときは、限界は一つ 第 であるならば、そのように感覚なり思惟なりを動かすし、苦であり、また、そう設定するのも同時なのである。そこで、 巻 いかなる原理によって、生物が感覚能力をもつものであると いものは反対の仕方で動かすし、白いものは別の仕方で動か 第 すのである。それでは、判別するもの↑共通感覚 ) は数にわれわれは主張するか、その原理については、以上のような 仕方で規定されたとしよう。 = おいて同時に不可分であり、切り離されないものであるが、 ( 八 ) ア 他方、その本質においては切り離されてあるのか。たしかに、 ある意味では、分割されるものが二つの分割されてあるもの 第三章 ↑感覚物 ) について感覚する。だが他の意味では、分割さ れないものとしてである。なぜなら、その本質においては分 しかし魂を、とくに二つの種差によって人々は定義してい
に、「誤ったことわりを伴うところの制作可能状態」である ( のである ) 、したがってまた「ことわりを伴った行為のでき いずれも「それ以外の仕方においてあることの可能なことが る状態」は、「ことわりを伴った倒作のできる状態」とは異 なる。両者の一が他によって包含されない所以である。行為ら」に関しての は制作ではなく、制作は行為ではない。 ところで、例えば建築術というものは或る技術であるが、 第五章 それはまさしく一つの「ことわりを伴った制作可能状態」な のであって、およそ「ことわりを伴った制作可能状態」なら 思慮 ( フロネーシス ) ということに関しては、、 ぬ技術はなく、技術ならぬかような性質の「状態」はない。 かなるひとびとをわれわれは「思慮あるひと」と呼んでいる してみれば、技術 ( テクネー ) と「真なることわりを伴った加 か、ということを考えれば、われわれはそれの何たるかを把 制作可能状態」とは、同一でなくてはならない。 握しうるであろう。思慮あるひとの特徴は、「自分にとって 技術はすべて、ものを生ぜしめることにかかわる。それはの善きことがらとか功益あることがらに関して立派な仕方で 「あるとあらぬとの可能な、しかもその端初が制作者に存し 思量できる」ことにあると考えられている。それも、部分的 て作品や成果には存しないような事物」の或るものがい力に な仕方で、例えば、どのようなことがらが健康とか体力のた すれば生じうるかという考究と「わざーとにかかわって にしいかというような点に関してではなく、およそ全般的 に、どのようなことがらが「よく生きる」ためにいいかに関 章る。けだし、技術の制作するところは「必然的に生成または 存在するもの」でもなければ「自然的に生成し存在するも してである。その証拠には、もしひとびとが或る特定のすぐ 第 の」でもない。後者はそれ自身のうちに端初を有しているもれた目的ーー技術の領域に属しないところのーーを達成する ために巧みに勘考した場合には、彼らは或る特定のことがら のなのである。 に関して思慮がある、というふうにいわれるのである。だか 学制作と行為とは異なるのであるから、技術は必ずや、制作 にかかわるものとして、行為にはかかわらない。 ら、全般的な意味で思慮のあるひととは全般的な意味で思量 ス に長じたひとのことでなくてはならない。 なお、或る意味で技術と同一のことがらにかかわっている ところで「それ以外の仕方においてあることの不可能なこ コものに偶然がある。アガトンもこの意味で、「技術は偶然を ( ニ五 ) 愛し、偶然は技術を愛しぬ」といっている。 とがら」とか「自分のなしえないことがら」に関しては何び オい。だからいま、学問とは論証的な認識で 幻かくして技術は、上述のごとく、 いわば「真なることわり加とも思量しはしょ を伴った制作可能状態」であり、技術的無能はこれと反対あり、しかるに、その端初が「それ以外の仕方においてある チュケー
こばせているからである。だから、悲劇が取り扱っている体 に価値の高いものなのである。なぜなら、詩作は、よりいっ そう普遍的なものを語るが、歴史は個々のものを語るからで承的な物語を、なんとしても固守するように努力する必要は ないのである。じっさいまた、このことを求めるのは、滑稽・ ある。そしてどんなひとにおいては、どんなことが蓋然的に、 である。なぜなら、著名な名前にしたって少数のひとたちに あるいは必然的に語られ、もしくは行なわれることになるか しか知られていないが、それにもかかわらず、同じ理由によ という点に、「普遍的」ということがあるのである。これが、 って、万人をよろこばせるからである。 固有名詞をつけはするが、詩作の目指すところである。他加 したがって、これらのことから明らかなことは、詩人は、 方、個々のものとは、アルキビアデスがなにを行ない、もし くはなにを受けたかということである。ところで、喜劇にお部文の詩人であるよりもはるかに物語の詩人であるべきであ る。すなわち、模倣によって詩人であるが、しかも行為を模 、てははじめからこのことは明らかになっている。なぜな ら、彼らは、物語の筋を、もっともらしいことどもで組み立倣するから、詩人であるべきだというのである。だから、結 て、このようにしておきながら、任意の固有名詞をいろいろ果的には、生起したことどもを詩作することになるにして と仮につけるからである。そして、これは、イアンボス詩人も、依然、詩人なのである。なぜなら、生起したものの若干則 のものは、生起するのが当然であったし、また可能であった たちが個々のひとたちについて詩作する仕方ともちがう。 しかし、悲劇においては、実在の名前を固守する。そのわような、そうしたものであることを妨げないのであ「て、こ けは、可能なものが、信すべきことだからである。ところの点で筋の作者はそれら生起したことどもの作者であるから である。 で、生起しなかったことどもが可能的であるかどうかは、ま 単純な筋と行為のうちで、挿話的なものは、最悪なもので だわれわれに確信はないが、生起したことどもは、明らかに ある。「挿話的な」筋とわたしが言うのは、その中でつぎつ 可能的なことどもであるとわれわれは確信する。なぜかとい ぎに出てくる挿話 ( 工ペイソディア ) 相互のあいだに蓋然性 えば、不可能なことどもであったら、生起しなかっただろう 9 とわれわれは言うからである。それにもかかわらず、一「三も必然性もないもののことである。こうい 0 た行為は拙劣な 第 、一一登場するけれども、他はっ詩人たちによってつくられるが、それはかれら自身のせいな の悲劇では著名な名前が、一 学 のである。これに反してよい詩人による場合は、役者のせい くられたものである場合もある。また、若干の悲劇では、一 ( 六 ) ( 五 ) である。なぜなら、彼らは、竸演用のものを詩作し、そして、 つもあらわれないことがある。たとえば、アガトンの「アン ( 四 ) 能力以上に筋をひきのばすために、しばしば前後の脈絡を無 トス』がそれである。なぜなら、この劇においては、事件も 名前もっくられたものであるが、それでもなお、観衆をよろ理矢理ねじまげてしまうからである。 1452
3 を現実的に活動させる、お膳立てをするのである。だから、 とと、何かをうけるかたちで起こることは、すでに述べたとお ( 二 C ) 栄養物を欠いては、その能力をもつものも存在しえないのでりである。なぜなら、感覚は一種の質的変化であると思われ ある。すべてのものはその目的から見て命名するのが正しい るからである。ある人たちは、同様のものは同様のものに が、自分自身に似たようなものを生むことが目的であるのだ よって何かをうけると主張している。だが、このことが可能 から、原初の、栄養的な魂は、自らに似たものを生み出す能であるか、不可能であるかは、能動 ( ポイエイン ) と受動 力である、とすべきだろう。養われるものと、栄養を与える ( パスケイン ) についての一般的な論議において述べておい もの ( Ⅱ栄養物 ) と、栄養の働きをするもの、この三つがある 2 ( 一八 ) から、栄養の働きをするものが最初の、原初的な魂であり、 しかしなにゆえに、それらの感覚そのものの感覚が生じな 養われるものがその最初の魂をもつ物体であり、それによっ いのであろうか。また、なにゆえに、他 ( Ⅱ外部 ) のものな て栄養の働きをする、栄養を与えるものが栄養物である。「そしには感覚を生じないのか。火や地やその他の元素が備わっ れによって栄養の働きをするそれ」というのには二通りの意 ていて、それらをそれ自身によって、じかに、あるいはそれ 味がある。ちょうど「それによって梶をとるそれーの場合の らに付随するもの 7 属性 ) によって間接的に、感覚するこ ように、手であることも梶であることもある。一方は動かし とがあるはずであるのに。こういった疑問がある。ここで明 ( 一九 ) また動かされるものであるが、他方は動かされるだけである。 らかなことは、感覚能力は現実態においてあるのではなくて、 すべての栄養物は当然、消化されうるものでなければならな可能態においてのみあり、したが 0 て、感覚されないという いが、熱いものは消化の働きをする。だから魂をもつものは ことである。ちょうど、燃えうるものが、燃やしうるものが 章すべて、熱さをもっている。これで、栄養物とは何であるか、 なければ、それだけでは燃えないのと同じである。でなけれ 第おおよそ、その輪郭を述べたわけである。だがこれについて ば自分自身を燃やしたであろう。そして何ものも、完成態に 巻は、それにふさわしい論議において、後ほどもっとはっきり おいてある火を必要としなかったであろう。われわれは、感 第とさせなければならない。 覚するということを、二通りの意味で言う。 ( すなわち可能 マ 態において聞き、また見るものを、たとえ、たまたま眠って ア いても、聞くとか見るとか言うばかりでなく、同時にまた、 第五章 すでに働いている、現に聞いたり見たりしているものを、聞 くとか見るとか言う ) 。だから感覚も一一通りの意味で、すな 以上のことが規定されたから、これより、すべての感覚に ついて一般的に述べることにしよう。感覚は、動かされるこわち一方は可能態においてあるものとして、他方は現実態に ( ニ一 )
多数のひとびととの間に分割することの不可能であること人のよしみという程度においてならば、機嫌とりではなくほ んとうによきひとたることを失わすして多数のひとびとに対 をいうまでもなく明白である。さらにまた、この相手のひ して友たることが可能であろうが、しかし、人間的卓越性に とびともーーもしその全部がお互いに一緒に暮らすとなると お互いに友であることを要するのであるが、このことは基づいて、また相手の「ひととなり」そのもののゆえにとい うことになると、多数のひとびとに対して友たることは不可 多人数の場合にあっては望みがたい。また、多数のひとびと とともに親身に悦びもするし悩みもするということは実行し能なのであって、少数にしろそういう相手を見出だしえたな加 らば満足すべきである。 こ、。なぜなら、或るひととともに快楽する一方、同時に また他のひととともに悲嘆するということが当然一緒になっ てやって来るだろうからである。 第一一章 それゆえ、おもうに、ひとはむやみに友の多いことを求め ることなく、生を共にするに耐えるほどの人数にとどめるが また、親しきひとびとを要するのは、より多く順境におい しいのである。事実、多数のひとびとに対して親友であるこ てであろうか、それとも逆境においてであろうか。けだし友 とは不可能であると考えられなくてはならない。幾人をも恋は両者いすれにおいても求められている。非境に際しては救 愛することの不可能なのもこの同じ理由に基づいている。け助を要するし、順境に際しては生活を共にすべき相手とか、 よくしてやるべきひとびとを要するから 章だし、恋愛は親愛の過超ともいうべき意味を有するのである それは、必要という点からいえば勿論逆境においてのほう 知が、このことは一人を相手としてこそ可能なのである。緊密 が友を要すること切なるものがある。この場合にあっては有 巻な親愛もまた、かくのごとく少数者を相手とするほかはな 用なひとびとを要する所以である。しかしながら、うるわし いという点からいえば、順境において友を有することのほう 学また、実際についてみても、やはりそうであるらしい。交 がまさっている。その場合よきひとびとの求められる所以も 倫友的な親愛に基づくところの多人数の友なるものは見あたら 。ないのであって、詩に歌われている親愛のごときも必ず一一人ここに存する。けだし、よきひとびとに対して善を施すとか 。のあいだのものである。親しいひとの多いそし・て万人に心や彼らと共に過ごすということのほうが、より好ましいからで すだてするひとびとはーーー同国人のよしみという程度ならばある。 事実、親愛的なひとびとが傍にいてくれるということは、 別であるがーー・何びとの友でもないと考えられるのであっ て、ひとびとは彼らを機嫌とりだとさえいうのである。同国順境においてのみならす逆境においてもそれ自身快適であ ( 四三 )
313 デ・アマ第 2 巻第 10 章 するであろう。しかしその感覚は、水を中間のものとして生 の動物のそれと、異なるようにーーー人間の眼は臉を障壁や、 じたのではなくて、水に混じることによって、ちょうど飲物 あたかも覆いのようにもっている。そしてそれを動かすか、 におけるように、感覚されたのであろう。色は、このように 上に引くかしなければ見ることはできないが、硬い眼はこう したものをなにももっていないで、透明なもののうちに生起混じることによっても、また放出物によっても、見られるの したものをただちに見るーーーだから、匂いをかぐ感覚器官ではない。ところで、〔味覚においては〕中間のものとして も、あるものにおいては、眼と同じように、被われてはいな何ものも存在しない。見られるものは色であるように、味 い。他方、空気を受け入れるものにおいては、被いをもっては、味わわれるものである。しかし、湿り気 ( ヒグロテース ) いて、空気を吸うとき、血管や孔をふくらませ、ひろげて、 なしに。いかなるものも味の感覚を作り出さない。むしろ、 その被いを開くのである。そしてこのため、空気を吸うもの味の感覚を作り出すものは、現実的にあるいは可能的に湿り は水のなかでは匂いを嗅がないのである。なぜなら、空気を気をもっている。たとえば塩のようなものがそれである。そ 吸ったとき匂いをかぐのでなければならないが、このことをれはよく溶けるものであり、また、舌と一緒になって舌の上 水のなかですることは不可能だからである。しかし、匂い で溶けることができるものである。視覚は、見られるものの加 は乾いたものである ( 味が湿ったもののであると同じよう ほかに見えないものも感覚する ( というのは闇は見えない に ) 。匂いを嗅ぐ感覚器官も可能的にこのような乾いたもの が、視覚はこれを判別するから ) 。さらに、全く輝いている である。 ものをも感覚する ( これもまた見られないものであるが、闇 とは別の仕方で感覚する ) 。これと同じように、聴覚もまた 音と沈黙を感覚する。このうち一方は聞こえるものであり、 第一〇章 他方は聞こえないものであるが、また明るいものについての 味わわれるものは一種の触れられるものである。そしてこ視覚と同様に、大きな音も感覚する ( 小さな音が聞こえない ように、大きな音も暴音もある意味では聞こえないものであ れが、中間に異質的な物体があるとそのために感覚されない = 理由である。なぜなら触覚にとってもそうだからである。そるから ) 。しかし、一般に、あるものが、見られないと言わ ( 四四 ) して味を含む物体、すなわち味わわれるもの↑味 ) は湿っれるのは、他の感覚においてもそうだが、不可能なものがそ たものを質料としてもっている。そしてこれは、なにか触れう言われる。だが他方、本性上は見られるものだが、見られ なかったり、よく見えなかったりするものも、そう言われ られるものである。それゆえ、たとえわれわれが水のなかに いるとしても、甘いものが投人されているなら、それを感覚る。たとえば、燕の一種で、足が無いものや果実の一種で、 ( 四一 ) ( 四三 ) ( 四ニ )
213 え、他面、快楽を運動ないしは生成の過程として示すことを あるからといって快楽は善きものではないという判断をくだ すのであるならば、正義とかその他の徳についてもこれと同試みている。 じ論議が適用されることとなるであろう。すなわち、これら だが、まず、快楽が運動だというのも妥当ではないように の徳の場合でも、或る徳を有しているということにおいて、 思われる。なぜかというに、あらゆる運動には遅速というこ またこれらの徳に即して行為しているということにおいて、 とが固有的であり、たとえーー例えば天界の運動におけるご 即自的な意味におけるそれの見出だされない場合に 各人それそれに程度の差が存しているということは、ひとび加とく との明らかに肯定せざるをえないところなのであって、例えあっても、他のものへの相対的な意味においては遅速が見出 ば、ひとびとはより多く正しいひとであったりより多く勇敢だされると考えられる。だが、快楽にあっては、いずれの意 なひとであったりするし、正しい行為をなしたり節制的であ味における遅速も存在しない。速かに快楽に到達するという鵬」 ったりすることにおいてもまた、多い少ないの差が可能であことはーーー速かに怒りを発するというのと同じくーー勿論あ りうるが、速かに快楽しつつあるということは、他のひとへ る。もしまた、快楽それ自身についてそれが無限定的だとい う判断をくだしているのだとするならば、おそらく彼らは誤の相対的な意味においてもありえないのである。速かに歩み った論拠に立つものというべきであろう。同じく快楽といっ つつあるとか増加しつつあるとかすべてそういうようなこと、 ( 八 ) ても、純粋無雑な快楽もあるし混成的な快楽もあるのだから それゆえ、速かに、また徐々に、 ならば可能であるが 快楽へ移ることはできるが、快楽における速かな活動、すな 章 第健康というものも限定を有するものでありながら、多と少わち速かに快楽しつつあるというごときことは不可能なので 巻とを容れるのであるが、快楽もこれと同様であってはいけなある。 ( 九 ) また、いかにして快楽は生成でありえようか。けだし、任 . いであろうか。すなわち、健康といっても、同一の均衡が万 学人において存在するのではなく、また同一のひとにおいてで意のものからして任意のものが生成するわけではない。生成 倫さえ常に或る一つの均衡が存するのではない。ただ、失われである以上は「そこから事物が生成するごときもの」があっ て、このものへまたその解消も行なわれるのであり、快楽も 「てゆきながらも或るところまではそれが保たれるのであっ 「て、そこには多と少という程度の差異が存している。快楽のもし生成だとするならば、「快楽」がそれへの生成であるご とき或るものがあって、このものの壊減過程が「苦痛」にほ . 場合もこれと同様であることが可能なのである。 かならないはずだと考えられる。 ひとびとはまた、「善」は究極的なものたるべきであるが、 さらに、ひとびとは、苦痛は本性的なものの欠乏であり、 運動とか生成とかは然るに非究極的なものにすぎない、と考
ば、葉は、さやの皮であるが、さやは果実の被いである。他ち、もしも眠が生物であったならば、視ることは眠の魂であ ったろう。なぜなら、視ることは、眠の本質規定としての実 方、根はロに比せられる。両者とも栄養を取り入れるから ) 。 そこで、すべての魂において何か共通なものを言うべきであ体であるから ( 限は視ることの質料 ) 。これが去れば、もは加 るとすれば、魂は有機的な自然物体の最初の完成態であろや一一一一口葉だけの限でしかない。それはちょうど、石に刻まれた う。それゆえ、魂と肉体は一つであるかどうか探求すべきでり、画かれたりした眼のようなものである。 はない。それはちょうど、蝋板と刻印が一つであるかどうか そこで、部分に関することを、生物の肉体全体に適用させ 求めたり、総じて、個々のものの質料と、質料がそれのであねばならない。すなわち、感覚の部分としての視力が肉体の るところのそれとは、一つであるかどうか、求めたりしない 部分としての眠に対してもっている類比関係と同じ類比関係 ようなものである。じっさい、一 ( ヘン ) とある ( ェイナイ ) に、感覚全体は、感覚器官をもっかぎりでの身体全体に対し は、多くの意味で使われるが、第一のすぐれた意味においててあるのである。可能的に生きることのできるものは、魂を 言われるものは、完成態である。 失ったものではなく、魂をもっているものである。種子と果 これで一応、魂が何であるかは、一般的に述べられた。す 1 実は、可能態における、こういった物体である。ところで、 なわち定義に応する実体がそれである、としたのである。そ切ること、視ること、と同じように、覚醒も完成態である。 して、これが、一定の性質をもった物体 7 有機体 ) にとっ 他方、視力、つまり、視覚器官の能力 ( デ = ナミス ) と同じ ト・ティ・エーン・エイナイⅡ「何であるかとい ての本質 ( ようなものが魂である。肉体は可能態として、あるものであ うことしである。ちょうどそれは、器官 7 道具 ) の一つ、 る。しかし、瞳と視力が眼であるように、全体の場合にも、 魂と肉体が動物である。 璋たとえば、斧が自然物体である、とした場合のようである。 ところで、魂は肉体から分け離されうる独立したものでな 第なぜなら、斧であることがそれの本質であり、これがその魂 というより、もしも魂が本性上、可分的であるとすれ この魂が切り離されたとするならば、そ であって、かりに、 第 れはもはや言葉だけの斧にしかすぎないであろうからであば、若干の部分は、肉体から切り離されうるものでない、と いうことは、不明なことではない。なぜなら、ある若干の部 = る。しかし現実には、斧は斧である。けだし魂は、こういっ . た〔斧のような〕物体のではなくて、自らのうちに運動と静分そのものに、完成態が属するからである。だがしかし、少 止の端緒 ( アルケー ) をもっている特定の自然物体 7 生物 ) なくとも若干の部分は、分け離されうる独立的なものである ことを何ら妨げない。そのわけは、それらがいかなる肉体の の本質であり、本質規定 ( ロゴス ) である。生物体の部分に おいても、いま述べられたことを観察すべきである。すなわ完成態でもないからである。さらにまた、舟人が船に対する
とを意味するか、検討すべきである。たとえば、「そこで青型となるものは卓越していなければならないのである。 銅の槍はとどめられた」という表現によ「て「これでさまた (ll) 不合理なことは、世人のいうところに照らしてみれば、 げられた」ということが多義的に意味されうるのである 解決できる。このような解決ばかりでなく、ときにはそれは こういう仕方でわれわれは最もよく推測できるであろう。こ不合理ではないと主張することもできる。なぜなら、蓋然的 なことに反して生起することも蓋然的だからである。 れはまさにグラウコンが言っているのとは全く反対のゆき方 (lll) 矛盾的に述べられたことについては、弁証論における である。グラウコンはこう言うところでは、若干の人たちは 反駁と同じように、同じものが同じものに対して、また、同 理由もなくなにか先入見をつくりそして彼ら自身詩人に反対 投票をしたのち、いろいろと推論する。そして彼らには詩人じ仕方〔意味〕でのべられているかどうかを検討すべきで が言ったと思われるものはなんでも、それが彼ら自身の意見ある。したがって、また詩人自身がのべていることに照らし て、あるいは思慮ある人ならそう判断するであろうようなこ に矛盾するものであれば、詩人たちはそれをのべたと言って とに照らして解決すべきである。筋が不合理さや性格の邪悪 非難するのである。イカリオスをめぐる論議はこうした目に 遭っている。なぜなら、彼らはイカリオスはスパルタ人であさに対する批判が正しいのはつぎの場合である。すなわち、 どんな必然性もないのに、不合理なものを用いるときで、ち ると考え、そこでテレマコスがスパルタにきたとき、彼に会 ようどエウリビデスがアイゲウスを用いた場合がそれであ 」せないのはおかしいとするからである。しかし、おそらく る。あるいは、邪悪な性格を用いるときで、ちょうど『オレ はケパレニア人たちが言っているとおりであろう。なぜな ステス』におけるメネラオスの邪悪を用いた場合がそれであ ら、オデュッセウスは彼らの国の婦人と結婚した。そして る。 〔彼女の父の名は〕イカディオスで、イカリオスでないと言 そこで批判は五つの種類のものから来るのである。すなわ っているからである。しかしこの問題はおそらくあやまちに ち不可能なこととして、あるいは不合理なこととして、ある よるものであろう。 いは有害なこととして、あるいは矛盾したこととして、ある 一般的にいって、 ( 一 ) 不可能なことは詩作からみて、あ いは技術における正しさに反するとして、〔これらを理由に るいはよりよいものから見て、あるいは世人の通念からみて して〕批判するのである。他方、その解決は前述の数のもの 許さるべきである。なぜなら、詩作にとっては、可能だが信 のうちから求めらるべきである。そして、その数とは一二で じ難いものよりも、不可能だが信じうるもののほうが択ばる あった。 べきだからである。ゼウクシスが描いたようなものの存在は 不可能だが、 / 彼らはよりよいものだからである。けだし、典 ( 二二 ) ( 一一 0 ) ( 一九 ) ( ニ三 )