善 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想2 アリストテレス
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1. 世界の大思想2 アリストテレス

ところのもの」は、これら「即自的に善きもの」のゆえに、 呼ばれるのであろうか。それらは、偶然の暗合によって名称 したがってそれとは異なった意味において善と呼ばれるのを同じくするだけのものとは思えないのである。それは一つ だ、というのがそれである。してみれば善と呼ばれるものに の善から出ているがゆえ、ないしはすべてが一つの善に究極 アナロギア は明らかに二通りある。即自的に善きものと、これらの善きするがゆえであろうか。あるいはむしろ、類比によって然る 。われわれはそこ もののゆえに善くあるところのものと のであろうか。例えば眼の身体におけるは、あたかも理性の で、即自的に善きものを有用なものから区別した上、前者は おもう 魂におけるごとくである、等々といったふうに 果たして単一なイデアに基づいて呼ばれているかどうかを考に、しかし、かかることがらはここでは論ずべぎではあるま 冫いかなる性質のものを 察しよう。「即自的に善きもの」とよ 。その厳密な論議はむしろ他の哲学の分野に属するであろ ( ニ八 ) 指すのであろうか。それはおよそ単独にそれだけでも追求さ う。「善のイデア」についてもこれと同様である。実際、た れるところのもの、例えば思慮するということとか、ものを とえあらゆる善について共通的に述語されるような何らか単 見るということとか、或る快楽とか名誉とかを指すのであろ 一な善があり、すべての善から独立せるそれ自身善なる何も うか。これらはわれわれが何らか他のもののゆえに追求するのかがあるとしても、それは人間の行ないうべき善、獲得し ことはあるにしても、「即自的に善きもの」にやはり属せし うべき善を意味するものでないことは明らかであろう。しか それとも善のイデア加 めらるべきものであるだろうから るにいま求められているのはこうした意味での善にほかなら 以外のいかなるものもかかるものではないというのであろう ないのである。 6 か。もしそうだとするならば形相とは空虚なものであるほか だがおそらくは、ひとは「善そのもの」を知っているほう 第 はない。もし、だが、いま挙げたものも「即自的に善きも が、行ないうべき善、獲得しうべき善のためにいいのではな 巻 の」に属するとするならば、善の定義はこれらすべてにおい いか、なぜならかかるものをいわば範として持っときわれわ 第 て同一のものとして現われることが必要であるだろう。あたれはわれわれにとっての善をもよりよく知ることができ、知 学 理かも雪においても鉛白においても白の定義がそうであるよう っておればそれに到達することもできるであろうから、と考 ス この論議はいくらか首肯するに足るとこ に。しかるに善としての名誉・思慮・快楽に与えられる定義えるかも知れない。 マは、それぞれ区別と差異を有しているのである。してみれろをもっているが、それは然し種々の学問の実際に背いてい = ば、善は単一なイデアに即した共通的な或るものではないのる。というのは、あらゆる学問は何らかの善を目指しその足 らざるところを探求するが、「善そのもの」の知識はこれを である。 しかしながら、それではどうしてかかるものがすべて善と等閑に付しているのであり、しかるにそれほどまでに有力な 1097a

2. 世界の大思想2 アリストテレス

理説は信用を博し、そのゆえに、これを理解するところのひまの論議とは反対の側面からしてもやはり明白である、と彼 とびとを、これに即して生きるべく駆りたてるのであるから は説いた。すなわち、苦痛は万物にとって即自的に避けまほ しきものであり、だからして同じように、それの反対は望ま こういった議論は然しこれだけにして、われわれは快楽に しくなくてはならないとする。また、何よりも望ましいもの 関する諸説の検討に赴くこととする。 とは、「われわれがそれを選ぶのはそれ以外のもののゆえで はなく、またそれ以外のもののためでもないといったような Ⅱもの」でなくてはならない。快楽が、しかるに、かかるもので 第二章 あることは万人の同意するところである。けだし何びとも、 エウドクソスは快楽がすなわち「善」であると考えたひと何のために快楽するのであるかを問いはしないのであって、 このことは快楽が即自的に望ましいものであることを含意し である。理由はこうである。万物はーーことわりを有するも 1 ている。快楽はまた、いかなる善に付加されてもこの善をよ のたると有せざるものたるとを問わずーー快楽を追求してい り望ましいものとなす。例えば、正しい行為をしているとか るのをわれわれは見る。だが、いかなる場合にあっても、望 ( 四 ) ましいものはいいものなのであり、最も望ましいものは最も節制的であるとかいうことに快楽が付加される場合のごと しいものである。万物ことごとくが、それゆえ、同一なものき。だが、善が増大するのは善それ自身によってであるほか 章に向って動くということは、このものが万物にとっての最高 この最後の論議についていえば、これは快楽が善に属する 第善であることを露呈するものなのであって、 ( けだ ) し、それ をぞれのものは、自己にとっての善をーーちょうど食物に対すことを示すとともに、快楽が少しでも他の善以上に善である ことを示してはいないように思われる。なぜなら、他の善と 第る場合においてもそうであるごとくーー発見するものなので 一緒ならば単独によりもより望ましくなるということは、あ 学ある、 ) 万物にとっての善、万物の追求するところのもの、 侃これこそが「善」にほかならない この論議は、論議そらゆる善の場合において然りだからである。。フラトンも、だ れ自身のゆえによりも、より多く彼の倫理的性状の卓越性の から、これに類した論議を用いて、かえって快楽が「善」で マ ゆえに信用を博した。というのは、彼は際立って節制的なひないことを道破しようとしている。すなわち、快適な生活 とであると考えられていたからであり、だからして快楽の友は、思慮を伴うならば、思慮を伴わぬよりも一層望ましい生 として彼がそう言うのではないと考えられ、ほんとうにその活となる。だがこうした他を混えたものがよりすぐれた善で とおりなのだろうと考えられた。だがまた、このことは、、 あるとすれば、快楽は「善」ではない。なぜなら「善」は、釦 211 ( 五 )

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らが数のイデアというものを措定しなかったのもまさにこの みても、食養におけるそれについては医学が、体育の場合に アガトン 理由に基づく。ところが善ということは、本質の場合におおけるそれについては体育学が存在するのである。 また、例えば「人間そのもの」においても個々の人間にお いても、質の場合においても、関係の場合においても語られ るのであるが、「それ自身独立的に有るところのもの」すなわ いても、その定義はいすれも同一の「人間」の定義であると一 ち実体は、その本性上関係よりは先のものでなくてはならなすれば、彼らのいうところの「ものそのもの」なるものがそ 加もそも何を意味しうるかが問題であろう。というのは「人間 い。な、せなら、後者は「有」のひこばえともいうべきもの、 そのもの」も個々の人間も、人間であるという点に関するか 「有」の付帯性のごときものなのであるから。してみれば、 ぎり全く区別を有しないはずであり、もし然りとすれば「善 かかるすべてに共通なイデアはありえないはすである。 さらにまた、「善」ということは「有、る ( オン ) というのそのもの」も個々の善も、善であるという点に関するかぎり と同じだけの多くの仕方で語られるがゆえに、 ( すなわち本やはり区別を有しないだろうからである。その場合、「善そ のもの」は、永遠的なものであるがゆえにそれはよりすぐれ 質にあっては例えば神や理性が、質にあってはもろもろの卓 て善なのだ、というような議論も「通用しないであろう。永 越性が、量にあっては適度が、関係にあっては有用というこ 久的な白は旦タに減びる白に比してより白い、などというこ とが、時間にあっては好機が、場所にあっては適住地とかそ の他そういったものが、いずれも善と呼ばれる、 ) 善はこれとはないのである。 。ヒュタゴラス学派のひとびとは一を善の系列のうちに置く らすべてに共通な単一的な或る普遍でありえないことは明ら ことによって、これよりも首肯するに足ることを善について かである。なぜなら、もしそうであるならば、それはかかる カテーゴリア すべての範疇において語られることなく、単に一つの範疇語っているように見える。そしてスペウシッポスも彼らに従 っていると考えられる。 において語られるはずであろうから。 ( 二七 ) だがこのことについては別の論にろう。いま述べたこと さらにまた、単一なイデアに属するものに関してはやはり がらに対して、しかしながら、ここに一つの異議が現われ また単一な学問が成立する以上、あらゆる善に関しても何ら る。すなわち、イデア論者たちの所説はあらゆる善にかかわ かの単一な学問が存すべきはずであろう。しかるに実際に カテーゴリア は、ただ一つの範疇のもとに属する善についてさえ多くのるのでなく、「即自的に追求され愛されるところのもの」が 学問が存在している。例えば、好機についてみてさえも、戦一つの形相に帰せられるのであり、これに反して「これら即 争の場合におけるそれについては統帥学が、病気の場合のそ自的に善であるところのものをもちきたしたり何らかの仕方 でそれを保全したり、あるいはそれの反対的なものを妨げる れについては医学があるのであり、適度ということについて ( 二三 ) ( 二五 )

4. 世界の大思想2 アリストテレス

幻 2 それにいかなるものが付加されても、それによって望ましさ 諞者たちはエウドクソスの「苦痛が悪ならば快楽は善でなく を加えないはずである。また、これ以外のいかなるものの場てはならない」という主張を認めない。すなわち、悪が悪に 合にあっても、およそ、或る即自的な善を伴うことによって対立することもあるのだし、善悪両者は「善悪いずれでもあ 望ましさを加えるごときものは明らかに「善」ではありえな らぬもの」にも対立しているからーーと。この所論はいけな くはないが、 しかし少なくもいまの問題に適用されるかぎり いことは明らかである 。 ( それでは何がかような「善」 はあたっていない。というのは、もし快苦いずれもが悪であ和 であろうか。それも、われわれのあずかりうるような るならば、両者はともに避けまほしくあるはずであろうし、 というのは、われわれの求めている善はかかる性質のもので またもし善悪いずれでもないものならば、望ましくも避けま なくてはならないのだから。 ) ほしくもないか、オし冫 よ、しまそのいずれでもあるかであろう。 しかしながら、万物の追求するところのものだからといっ てそれが必ずしも「善」とはいえないと主張し、 = ウドクソ事実はしかるに、ひとびとは明らかに苦痛を悪として避け、 スの論議に反対するひとびともあるが、これは意味をなさな快楽を善として選ぶのである。両者は、だから、善と悪とが 対立するのと同じような仕方において対立しているのでなく いことを語っているのではなかろうか。「いかなるものにと てはならぬ。 ってもそうと考えられていることがら」は、事実そうと認め るほかはないのであって、この確信を反駁しようとするひと 第三章 も、到底それ以上に信するに足りるものを提示しえないであ ろう。けだし、もし、もつばら無理性的な存在者がこのもの 1 を追求しているというのならば、こうした駁論も意味をなさ また、快楽は「質」 ( ポイオテース ) に属しないことは事 なくはないであろう。だが、思慮のある存在者もまたこれを実であるが、このゆえに快楽は善に属しない、ということに はならない。実際、卓越性に基づいて活動するということも 、いかにして彼らの反駁に意 追求しているのであってみれば 味が見出だされえようか。おもうに、たとえ劣等な存在者の「質」ではないのだし、幸福ということも「質」ではないの である。 場合にあってさえ、そこには、このもの固有の善を追求して いるところの、この存在者それ自身には尽きないような、或 またひとびとは、善とは限定を有するものであるべきだの るすぐれたものが見出だされるのが実情なのである。 に、快楽は無限定的である、という。そして快楽が無限定的 だとされる論拠は、それが程度の差を容れるからというにあ また、夬楽の反対のものからするエウドクソスの論議につ ( 七 ) る。ところでもし、彼らは、夬楽しているひとに程度の差が いてなされた反駁も妥当でないように思われる。すなわち、

5. 世界の大思想2 アリストテレス

第一巻 総論 第一章あらゆる人間活動は何らかの「善」を追求している。だがもろもろ の「善」の間には従属関係が存する : ・ 第一一章「人間的善」「最高善」を目的とする活動は政治的なそれである。わ れわれの研究も政治学的研究である : ・ 第三章素材のゆるす以上の厳密性を期待すべきではない。聴講者の条件 : : : : ・ズ 第四章最高善が幸福であることは万人の容認せざるをえないところである が、幸福の何たるかについては異論がある 聴講者の条件としてのよき習慣づけの重要性 : ・ 第五章「善」とか幸福とかは、快楽や名誉や富には存しない 第六章「善のイデア」 : ・ 第七章最高善は究極的な意味における目的であり自足的でなくてはならな 。幸福はかかる性質を持っ 幸福とは何か。人間の機能よりする幸福の規定 第八章この規定は幸福に関するひとびとの見解に適合する : ・ 第九章幸福は学習とか習慣づけとかによって獲られるか、または神与のも のであるか : ・ 第一〇章ひとは生存中に幸福なひとといわれうるか・ : 第一一章生きているひとびとの運不運は死者の幸福に影響を与えるか : ・ 第一一一章幸福は「称賛さるべきもの」に属するか、「尊敬さるべきもの」に

6. 世界の大思想2 アリストテレス

きひとにとって、ことがらの本性に基づいて、好ましいもの こそ最も好ましくあり、彼らの生こそはこの上なき至福なも のなのだからである。 ) そしてもし、ひとは見ている場合には たらざるをえないのであると思われる。いったい、本性的な 善がよきひとにとっては善なのであり、それはまた即自的に見ているということを、聞いている場合には聞いているとい 3 ( 三八 ) うことを、歩いている場合には歩いているということを知覚 快適でもあるということはすでに述べたとおりである。とこ ろで、生ということは、動物の場合にあっては知覚の能力にするのであるが、その他いろいろの場合においてもやはりわ よって規定されるし、人間の場合にあっては知覚ないしは思れわれの活動していることを知覚する何ものかが存在するの デュナミス であり、したがってわれわれは知覚しているときには知覚し 考の能力によって規定される。だが可能的な「能力」といえ エネルゲイア ばその実現としての「活動ーにまで至るべきことを予想すているということを、また思考しているときには思考してい るのであって、厳密な意味のものはむしろ「活動ーに存するということを知覚するのであるとするならば、またもし、 る。人間の生ということも、それゆえ、厳密な意味において知覚していることを知覚し、思考していることを知覚すると いうことはわれわれの存在していることを知覚することにほ は知覚しつつあることまた思考しつつあることであるように かならないとするならば、 ( なぜならわれわれ人間にとって 思われる。しかるに、生は、即自的に善にして快適なことが らに属する。なぜなら、それは「限定を有するもの」である加は存在するということは知覚し思考することであったのだか が、限定的ということは善の本性に属しているからである。 ら、 ) またもし、生きていることを知覚するのは即自的に快 章そして本性的な善がよきひとにとっての善なのである。 ( こ適なることがらに属するとするならば、 ( けだし生は本性的 な善であり、善が自己のうちに現存していることを知覚する こからして生は快適なものだと何びとにも思いこまれている 巻のであるが、しかし劣等な頽落した生とか、苦痛のうちにすのは快適だからである、 ) またもし、生は好ましきものであ 、殊に善きひとびとの場合にあってはそれは最も著しい 第ごされる生をも同様に考えてはならないのである。こういっ 彼らの場合にあっては存在するということは善であるの 学た生は、まことに、それに属するところの悪や苦痛と同じ 理 く、無限定的なものである。苦痛に関しては次に説くところみならずまた快適でもあるのであるから ( けだし、彼らは即 倫 ( 三九 ) ス においてもっと明らかになるであろう。 ) いまもし生きてい 自的な善を知覚することにおいて快を感ずるひとびとなので マ ることそれ自身が善であり快であるとするならば、 ( このこある ) ーーとするならば、またもし、よきひとの自己に対す とは、万人が生きることを欲するということから考えてもそる関係はやがてまたその友に対する関係でもあるとするなら 5 うであるらしい。しかもそれはよろしき至福なひとびとにおば、 ( 友は「第二の自己」にほかならないから、 ) もし、かく いて最も著しい。けだし、生活はこれらのひとびとにとってして、すべて以上のごとくだとするならば、自己の存在す 1170b

7. 世界の大思想2 アリストテレス

助カたるべきものをそれぞれの学芸の専門家が誰も知らず、 は家屋が、その他においてはまたそれそれ異なったものが、 すなわち、あらゆる働きや「選択」においての目的であると これを探求すらしないというごときことは考ええないことが ころのものがそれである。あらゆるひとびとはかかるものの らだからである。また、織匠や大工が「善そのもの」を知る ために、その他のことがらを行なっているのである。それゆ ことによって自らの技術に対して何の利益を受けるだろうか え、もしわれわれの行なうおよそいかなる働きの目的ででも ということも、ないしはまたこのイデアを観たひとがどうし和 てそれによって医療や統帥の能力の上に多きを加えるところあるといったような何ものかが存在するならばこのものが、 があるだろうかということも不可解であるだろう。というのまたもし、そういったものが幾つも存在するとすればこれら は、医者が健康を考察する場合にあっても、かかる仕方におのものが、われわれのあらゆる働きの達成すべき「善」であ るはずであろう。 いてするのではなく、かえって人間の健康を、否、おそらく かくして論議は、歩武を進めることによって同じことがら はむしろ、あのひとこのひとの健康を考察するのであると見 に戻って来た。われわれはこれをさらにより明らかにするこ られるからである。彼は各人について医療するのであるから とを試みなくてはならない。 このことについてはこれだけいっておけばいし 目的はかくして幾つも存在すると見られるが、その或るも の ( 例えば富とか、笛や一般に用具類 ) は、われわれはこれ 第七章 をそのもの以外のことがらのゆえに選ぶのであるから、明ら かに、すべての目的が必ずしも究極的な目的であるわけでは そうしておいてわれわれはいま一度、われわれの求めてい る「善」に立ち帰って、それがいったい何であるかを尋ねよない。しかるに最高善は何らか究極的な目的であると見られ る。だから、もし何らか、ただ一つの究極的な目的が存在す るならば、それが所求の「善」であるだろうし、もしまた幾 それそれ領域の異なった実践とか技術とかにおいて、その 善はそれそれ異なったものであると見られる。例えば医療に つかのそういったものが存在するならば、そのうちの最も究 おける善と統帥における善とは異なり、その他の領域にあっ 極的なものがそれでなくてはならない。われわれは、しかる てもこれと同様である。これらそれぞれの領域における善と に、「それ自身として追求に値するところのもの」は「他の は、それでは、何であろうか。それは、そのためにその他のもののゆえに追求に値するごときもの」に比してより究極的 万般のことがらがなされるところのものにほかならない。医であり、また「いかなる場合にも決して他のもののために追 療においては健康が、統帥においては勝利が、建築において加求されることのないもの」は「それ自身としても望ましいが、

8. 世界の大思想2 アリストテレス

「正しいひと」の多義性も示されうるだろうということを述べ ( 四ー五節 ) 、それ以下、「不正なひと」の二義性の分析を通路と して、「正義 , ないしは「正ーの意味の広狭二義の区分にます到 達する ( 本章終り ) 。だが、本巻の正義論の主題は狭義の、すなわ ち「一つの特殊な倫理的阜越性」としての正義であったのだか ら、となして、論議をこの狭義のものに限定する。 ( ただし、本 巻の後段ーー第六章以下ーーになると広義の正義の問題も同一の 視野の中に導人されてきて論議を複雑にしているが。 ) 著名な「配 分的正ー「整正的 ( または匡正的 ) 正」の区分はこの狭義の「正」 についての区分であった。 ( 第二章末節以下。 ) 四 ( 一 8 頁 ) 第一巻注四一を参照。 五 ( 一 8 頁 ) 例えば、医学という学術は健康をも病気をも作り出 すことができる 六 ( 一 00 頁 ) 本巻第九章一一三七一七以下を参照。 七 ( 一 8 頁 ) 健康者において見出だされる「健康」という「状態ー ( ヘクシス ) は健康的な歩みを産み出す。そこからは病人的な歩 きかたは生じないのである。 ^ (100%) 「健康な食物」とか「健康な空気」とかはわれわれ もいっている。そこから類比的に考えればよい。 ( 『形而上学」第 四巻第二章一〇〇三三四ー -c 一を参照。 ) 少し前のところで 「基体」 ( ヒュポケイメノンー sub 」 ec ( um ) といわれたのも、単に 「健康の主体ーすなわち健康な肉体を意味するのみならす、ひろ くかような「健康的なもの」を意味していると解される。 九 ( 一 8 頁 ) 「単に名称のみを同じくして」と訳した homöny- mös ( ラテン訳 aequivoce) は synönymös ( ラテン訳 univæe) に 対立する。前者は「同名異義」、後者は「同名同義ーである。この 両語の対立的な意味についてはアリストテレス「範疇論』第一章 を参一昭 一 0 ( 一 COZ) 「均しき [ または「均等な」と訳した「イソンしと - いう語も、「エラットンーとか「プレイオン」が二様の意味を有・ するに従って、二様の意味を有している。邦語においては両者は 「均しき」と「公平な」というふうに区別するのが普通である。 ( 第二巻注一五を参照。 ) ここでは「イソンーという語がひとにつ いて用いられているのである。それゆえ、この間における原語の 連絡を考慮の外におくならば、「ホ・イソス」は「均等なひとー というよりもむしろ「公平なひと」と訳したほうがわかりいいで あろう。 ( 第九巻第二章一一六五五の場合を参照。 ) 「不均等な ひと」というのも以上に準する。 = ( 一 0 一頁 ) 「無条件的には善である」とは、ここでは、それ 自身においてはの意。「好運とか不運とかに関連のある善」すな わち、外的なもろもろの善は、それ自身においては善であるが、或 る場合或るひとにとっては必すしも善ではない。例えば、財富の 0 ときーー。不正なひとが過多を貪るのはこのような善においてで ある。七行あとの「無条件的に悪しきもの」も、「それ自身にお いては悪しきもの」の意である。 一 = (IOIZ) 「無条件的な意味における善」とは、ここでは、 「相対的ならぬ善」を意味する。よきひとにあっては「自分に善 と見えるところのもの」と「それ自身善であるところのもの」と 一一三二五を参照。 ) かくて彼 が一致しなくてはならない。 ( 一 は「自分にとっての善」を選ぶことによって「真の善」を選ぶこ、 ととなる。 一三 ( 一 0 一頁 ) エウリ。ヒデス「メラニッペ」からの断片。 一四 ( 一 0 一頁 ) テオグニス第一四七行。テオグニス ( 前五四〇年 頃 ) はメガラの詩人。 一五 (IOIIZ) プラトン「国家』三四三 0 において、登場人物ト ラシュマコスの口から語られている。

9. 世界の大思想2 アリストテレス

にするということは何びとにも可能であり、時間こそかかる り、またこれらがうるわしき仕方で規定されることに力を致 仕事についてのすぐれた発見者ないしは協力者であると考えすべきである。なぜなら端初がそれに続くところのことがら られるであろう。種々の学術の進歩の生じたのもそこからで に対して持っ影響は大きいからである。まことに「端初は全 あった。残されたところを補うことは何びとにとっても可能 体の半ば」以上であり、所求のことがらはそれによって光を なのである。 与えられることが多いと考えられる。 とはだが、さきに述べられたところを銘記し、あらゆ 第八章 ることがらにおいて同じように精密性を求めることをせず、 それぞれの場合においてその素材に応じまたその研究に固有 ( 三八 ) な程度においてすることが必要である。大工と幾何学者とで われわれは、しかし、このものの考察にあたって、単に帰 は、それぞれ異なった仕方で直線を求める。前者はすなわち結や前提によって論ずるにとどめるべきでなく、さらにその間 彼の仕事に役立っ程度においてそれを求め、後者はしかるに際、これについてのひとびとの所説をも顧みなくてはならな 真なるものに対してはことがらの実際が唱和するのであ 直線とは何であるか、直線とはいかなる性質を持つものであ るかを尋ねる。けだし幾何学者は真を究明するひとだからでるし、偽なるものに対してはただちにこれが不協和を示して くるのである。 ある。だから、ひとは他の場合においても常にかくのごとき 態度で臨まなくてはならない。副的な仕事が仕事それ自身よ およそ善には三様の区別がある。すなわち、いわゆる外的 りも多くなることを避けるために な善と、魂に関する、および身体に関する善が存在するが、 われわれはまた、一様にあらゆることがらにおいてそれのひとびとは魂に関しての善を目してそれが最もすぐれた意味 における善、他のあらゆるもの以上の善であるとなしてい 因を求むべきではなく、或ることがらにおいては、それの 第 る。魂に関する善として考えられるものは、しかるに、魂の 「であること」がうるわしく示されることで充分であり 学 すなわち根源的な端初についてのごときーー、「であること」働きとか活動とかにほかならない。だから、さきのわれわれ スが最初のもの、端初なのである。もっとも、端初といってもの規定は、まさしくこの古くから存しまた哲学者たちの支持 「その或るものは帰納によって認識されるし、或るものは感覚を有するところの見解から見て妥当でなくてはならない。ま によって、或るものは一定の習慣づけによって到達されると た、何らかの働きとか活動が究極目的であるとする点におい いったふうである。われわれは、それぞれの端初をその場合 てもわれわれの規定はただしい。なぜなら、こんなふうにい におけるそれの本性に応じて獲得することを努むべきであわれた場合、それは魂に関する善に属することになって、外 ( 三七 )

10. 世界の大思想2 アリストテレス

か、またこれらの「状態」は相互にいかなる関係にあるか、 からといって快楽が最高善だということはありえない ( 五四 ) ということが述べられた。 ういう考えも存在している。 いま、 C 快楽は総じて善でないと考えられる根拠は次のご とくである。 (<) すべて、快楽とは「本性への生成過程の 第一一章 ( 五五 ) 知覚されたもの」にほかならない。しかるに、いかなる過程 だが、快楽ならびに苦痛について考究することも、政治をも、その終極目的と類を同じくするものはないのであって、 たとえゞよ、、、 : し力なる造営の作業も家屋そのものと類を同じく 哲学する者の任務に属している。けだし、彼は、究極目的と いうもの つまり、それを考えあわすことによって、はじするものではない。 (æ) 節制的なひとは快楽を避ける。 めてわれわれが何ごとについてもその善なると悪なるとを端 (O) 思慮あるひとの求めるところは無苦痛であって、快適 的に語りうるごとき目的ーーを設定する棟梁の位置にある者ということではない。 (<) 快楽は、われわれが思慮をはた らかせるのに対して障害を成す。それも、われわれがその快 なのだからである。 のみならず、快楽と苦痛の問題の考察は、われわれにとっ楽に悦びを感ずることのはなはだしければはなはだしいだ て不可欠的な意味を持つものに属する。というのは、われわけ、それだけよけいに思慮の障害となる。例えば性的快楽の ごときーー。実際、何びとも快楽の虜となっていては知性を れは、倫理的な卓越とか劣悪とか、すなわち徳とか悪徳とか はたらかせることができない。 ( ) 快楽そのものを産み出 章は、苦痛と快楽にかかわるものであるとなしたのであるし、 世の多くのひとびともまた、幸福とは快楽を含むものだと考すようないかなる技術も存在しない。しかも善はすべて技術 の所産でなくてはならぬ。 (%*) 子供や下等動物が快楽を追 巻えているのであって、さればこそ、 khairein ( Ⅱ快楽する、 うのである。 第悦ぶ ) に基づいて makarios ↑至福なひと ) という言葉も また、Üあらゆる快楽が必ずしもよき快楽ではないという夘 学出てきているのである。 論拠は、快楽には、醜悪な、指弾されるような快楽もある 倫ところで、或るひとびとこよ、、、 冫。し力なる快楽も善ではな ス それ自体としても付帯的な仕方においてもーーと考えし、有害な快楽もあるから、というに存する。実際、快適な ものごとのうちには不健全なものも存在しているのである。 コられている。善と快楽とは同一ではないという理由で また、快楽が最高善ではないという論拠は、快楽は究極 しものもある加 また、 CI 或るひとびとにあっては、央楽にはい、 の目的ではなくして過程なのだから、というにある。 が、多くは、しかし、あしき快楽であると考えられている。 ひとびとの快楽に関する所説は、およそ以上のごとくであ さらにまた、Üたとえあらゆる快楽が善であるとしても、だ ( 五一 ) ( 五 0 ) ( 五ニ ) ( 五三 )