のうちに存するところのことがらは、これをなすこともこれる。さらにいわんや知識の結果を恪遵することにいたっては をなさないことも彼の自由に属しているからである。 ) それもっと困難である。けだしかかる場合、予期されるのはおお ゆえ、かかる行為は随意的である。本来的に無条件的な仕方むね苦痛なことがら、強制されるところは醜悪なことがらだ からであり、さればこそ、強制に屈したか否かに従って、彼 でいえば、おそらくは不随意的であるかも知れないが らに称賛が、或いは非難が与えられるのである。 しオし力なる行為をもそのもの自身と加 けだし、誰しもこう、つこ、、 。いかなる性質のもの 強要によることがらとは、それでま、 しては選ばないに相違ないからである。 ただし、非常なうるわしきことがらに対する代償として何となすべきであろうか。それは、無条件的な仕方でいうなら ば、行為の因が外部に存し、行為するところのひとが少しも らか醜悪な行為または苦痛的な行為をあえてするのであるな らば、ときとしては、このような行為が称賛されることもあそれにあずかっていないような場合であろう。ただ、ことが る。 ( そういった条件の欠けている場合にはむろん非難されら自体としては不随意的な性質のものであるにかかわらす、 る。うるわしきことがらのためにではなく、ないしは、それ与えられた場面においてまた一定のことがらの代りとしては 好ましくあり、その端初が行為するところのひとのうちに存 ほどでもないことがらのために醜悪な行為をあえてするとい うのは劣悪なひとの証左なのである。 ) また或る場合、もしするといったようなことがらは、即自的には不随意的であり ながら、与えられた場面においてまた一定のことがらの代り 人間の本性を超えたそうしていかなる人間も耐ええないよう としては随意的である。どちらかといえば、しかし、それは なことがらを免れるために、なすべからざるをなしたという カカる行為は称賛されないまでも、かえつやはり随意的であると思われる。というのは、行為なるもの ような場合には、、、 は個別的なもろもろの場面において成立するのであるが、個 て同情を寄せられることがある。しかしながら、或ることが 別的な場面についていえば、ここではそれが随意的なのだか らにいたっては、おもうに、強されてもなすべきではない らである。いかなる行為の代りにいかなる行為を選ぶべきで のであって、最も怖るべき事態に直面した場合には、ひとは むしろ死を選ぶべきであろう。エウリビデスのアルクマイオあるかは容易に答えることができない。個別的なもろもろの ンの場合についていっても、彼に対して母殺しを強制した事状況の間には多くの差異が存するのである。 もしひとが、快適なことがらやうるわしきことがらも強要間 情というのはばかばかしいことにすぎないと見られる。 だがいかなることがらの代りにいかなるものを採るべき的である ( それは外にあってわれわれを強要するがゆえに ) であるか、いかなることのためにいかなることをむしろあえ 0 などというならば、このひとにとってはすべてが強要による てすべきであるかを判定することは、ときとして困難であものだということになってくる。 ( これらを目的としてあら
おけるような場合は、よりよいものである。 ような推論をしたらしいからである。すなわち、姉がいけに 第二は詩人によってつくられたものであって、それだけま えにされたが、それと同じようにかれの身のうえにもいけに た技術的でないものである。たとえば、オレステスが「イフ えにされることが起こるだろうと推論したらしいからであ ( 一 0 ) イゲネイア」において、オレステスだと認知される場合である。またテオデクトスの「テ = デウス」においてもそうであ る。なぜなら、彼女は手紙によってかれと知ったが、オレスる。テュデウスは「息子を見出そうとして入ってきたが、自 テス自身は物語の筋がのそむことではなくて、詩人がのそむ分もいま殺される」と〔言った〕からである。また「ピネイ ( 一 0 ) ことをしゃべっているからである。だから、これは、前述の ダイ』における場合もそうである。というのは、〔女たちは〕 あやまりになにか近いものである。な、せなら、なにかを彼女その場所をみて、「この場所で自分たちは死ななければなら に手渡すことも、できただろうからである。またソフォクレ ないように、運命づけられている、なぜなら、そこに、子供のと ( 七 ) スの『テレウス』における海鴉の声もそうである。 き捨てられたから」と言って、かの女らの運命を推論したか らである。しかしまた、他人 ( ー観客 ) の誤謬推理から合成さ 第三は記億による認知の場合である。すなわち、これは、 れた一種の認知がある。たとえば、『使者をよそおうオデュ なにかを見ながら感づくことによるのである。ちょうどディ ッセウス』における場合が、そうである。すなわち、〔オデュ カイオゲネスの『キュプロス人たち』における場合がそれで ッセウス〕は弓を張れるが、他の者は誰も張れないというの あるをすなわち父テラモンを描いた絵をみて〔テウクロスが〕 は詩人のつくりごとであって、しかもこれが前提である ( た わっと泣き出し〔露見し〕たからである。またアルキノスの 物語〔『オデュッセイア」第八巻五二一行以下〕における場とえオデュッセウスは〔この乞食の〕見たこともない弓を知 るだろうと〔ベネロべが〕言ったにしても ) 、しかるにこのこ 合もそうである。すなわち〔オデュッセウスが〕キタラをき きながら、思い出して涙を流した、そのことからかれらが誰と ( Ⅱ弓を張ること ) を通してオデュッセウスは自分をあらわ であるか気づかれたからである。 すもののごとくでありながら、しかも別の仕方 ( ー知ること ) で自分をあらわすように、作ったことは誤謬推理である。 第四は推理による認知である。たとえば、『コエフォロイ』 ( 一六八行以下 ) におけるような場合である。すなわち、似〔第五に〕しかし、すべてのうちで最上の認知は事件そのも のから結果するものであって、衝撃はもっともらしいことが たひとがやってきた、しかしオレステス以外に似たひとはい らから、生じるものである。たとえば、ソフォクレスの「オ ない、だからこのひと、オレステスが来たのだというように。 ( 九 ) イディ。フス」や『イフィゲネイア』における場合が、それで 為またソフィストのポリ、イドスが『イフィゲネイア』につし て示した発見もそうである、なぜなら、オレステスはつぎのある。なぜなら、手紙を出そうと欲したことは、ありそうな
216 神殿の建造ということは究極的な意味を持つが ( なぜならそ究極的であり、それぞれ種的に異なっているように思われ れは計画されたところに対して欠けるものを持たないからで る。「いずれからいずれへ」ということがその種を構成する ある ) 、これに反して、基石とか三条竪筋装飾の製作は のであるからーー。快楽の場合はこれに反して、それの形相 どちらも単なる部分の繝作であるからーー非究極的である。 。いかなる時間においてみても究極的である。明らかにそれ かくしてそこには種的な差異が含まれているのであって、どゆえ、運動と快楽とは互いに異なったものであり、快楽は全 れだけの短時間についても、「種的に究極的な運動」がとり体的なもの・究極的なものに属するといえよう。そしてこの 上げられうるというわけではなく、種的な究極的完成を有すことは、「運動の行なわれるのは時間にまたないかぎり不可 る運動はーーもしあるとすればーー全運動の総時間にまたな 能であるのに反して、快楽するということは一定の時間にま くてはならない。また、歩行その他についてもこれと同様で つを要しない」ということからしても容認されるに相違な ある。というのは、「フォラ」↑場所運動 ) とは或るところ 。けだし、瞬間的な「今」において行なわれうるところの から或るところへという運動であり、かような運動こも、ろ 冫しことがらは一つの全体だからである。 いろ種的な差異がーー例えば飛翔・歩行・躍進・等がーー存 また、このことからして、快楽についてその運動とか生成 するが、それのみならず歩行ということそれ自身のうちに とかが存在すると考えるのは妥当でないということも明らか も、同様の種的な差異が存するのであって、すなわち、「或となる。すなわち、運動するとか生成するとかいうことはあ るところから或るところまで」といっても、竸技場の端から らゆるものについていわれるのではなく、それは可分的なも 端までの場合とその一部分だけをとった場合とでは、そして のについてはいわれても、全体的なものについてはいわれな 或る部分におけると他の部分におけるとでは同じではないの い。例えば、見るということについてみても、「点」とか であり、この線分をすぎるということとあちらの線分をすぎ「一ーとかについてみても、ひとしくそこには生成もなけれ るということとは同じではない。なぜならひとは単に線分をば運動もないのであり、快楽の場合もこれと同様である。快 すぎるわけではなくして、場所においてあるところの線分を楽はすなわち一つの全体なのである。 ( 二五 ) すぎるのであるが、この線分とあの線分とはそれぞれ異なっ 1 すべての感覚の活動は可感的なるものを対象として行なわⅣ た場所においてあるのだからである。厳密を期しての運動論れるのであり、その活動が究極的に完璧な仕方で行なわれる は他においてなされた。だがともかくも運動の場合にあって のは、すぐれた在りかたにおける感覚が、感覚に属する最も は、いすれの時間についてみても必す究極的だというわけでうるわしいものを対象として活動する場合なのであるから、 はなく、多数から成る部分的な運動は、それ自身としては非 ( 事実、究極的に完璧な活動と考えられるものはこのような ( 二 0 )
283 デ・アニマ第 1 巻第 3 章 であろう。そしてこのことに付随して、生物のうちで死んた いものとか三ベキュスのものとかの場合のようにではない。 これらのものもまた動かされはするが、それは付帯的にであものが蘇生するということもありうるであろう。また、付帯 ・る。なぜならそれは、それらが備わっている、それ、つまり的な連動においては、他のものによって動かされることがで きるであろう。なぜなら動物は強制によって自分の場所から 物体が動かされることによってであるから。だから、それら加 にはまた場所もない。しかし、本性上、運動にあずかる以押し出されるのであろうから。しかし本質のうちに、自分自 上、魂には場所があるであろう。さらに、本性上、動かされ身によって動かされることが備わっているものは、付帯的に るのであれば、強制的にも動かされるであろう。また、強制動かされる場合を除いては、他のものによって動かされるべ 的に動かされるならば、本性によっても動かされるであろ きでない。それはちょうど、それ自身だけで、あるいはそれ う。静止についても同様の仕方である。本性上動かされてゆ自身のために善いものが、他のものによって、あるいは他の くところ、そこでは、本性上静止もする。同様に強繝的に動もののために、善いことはありえないようにである。しかし 一ラが叫力されるとすれば、とくに感覚的な事 かされてゆくところ、そこでは、強倒的に止まりもする。もその場合には、、、」、 っとも、魂にはどんな強制的な運動と静止があるであろうか物〔対象〕によって動かされるといえるであろう。そればか は、想像で作りあげようとしても、説明を与えることは容易りでなく、魂自身が自らをとにかく動かすにしても、魂自身も ではない。さらにまた、上方へ動かされるようであれば、 また動かされうるであろう。したがって、運動はすべて、動 かされる限りで動いているものが、そのものの位置から外へ それは火であろう。下方へであれば、地であろう。というの は、これらの運動はこれらの物体に属するからである。同じ移されること ( ェクスタシス ) であるから、付帯的に自分自 理屈は、中間にあるものについてもいえる。さらに魂は身体身を動かすのではなくて、その運動が、魂の本性に属し、そ を明らかに動かすとみえるから、魂が動かされると同じそれれ自身によるのであるならば、魂もその本性から外へ出るこ らの運動によって動かすのは道理である。しかし、もしそう とになるであろう。しかしまた、若干の人たちは魂はそれが であるならば、ひるがえって、身体が動かされると同じその備わっている物体を、魂が動かされるように、動かすと主張 連動によって魂も動かされるということも、真実である。身鉐する。たとえばデモクリトスが喜劇の教師フィリッポスとほ 体は場所的連動によって動かされる。したがって魂もまた、 ぼ同じようなことをいう場合のように。というのは、ダイダ 身体によって、全体的にであれ、部分的にであれ、場所をか ロスは木製のアフロディテーに、溶解した銀を流しこんでそ えながら転移する。そしてこのことが可能であるならば、肉れを動くもの ( Ⅱ像 ) にしたというが、デモクリトスも同じよ加 体から外へ出て行ったにしても再び入ってくることもできる うなことをいっている。すなわち不可分の球体は、決して止 ( 二五 ) ( 一一七 )
性質のものにかかわるのであろうか。それはその最大なるも らが勇敢さを発揮するのは、防禦が可能であるかさもなくば のにかかわるのではないだろうか。勇敢なひとほど恐ろしきうるわしい最期を遂げるかといったような場面においてなの に耐えうるひとはないのだからーー・。最も恐ろしいものとであるが、いまのような破局にあ「てはこのどちらの可能性 は、しかるに、死である。けだし、死は極限であり、死人に も与えられていない。 とってはもはや善も悪もおよそ一切がないのだ、とされるか らである。だがまた、あらゆる場合における死というもの 第七章 に、勇敢なひとはかかわるのだ、とも考えられないであろ う。例えば海難においての死、または病気による死のごと 何が恐ろしいかはあらゆるひとびとにとって同じではな き。然らばいかなる場合における死であるか。それは最もう釦 い。だが或ることがらの恐ろしさは、超人間的ともいえる。 るわしき場合における死ではないだろうか。このような死このようなものは、だから、少なくとも正気を失 0 ていない は、しかるに、戦いにおけるそれである。けだしそれは、最 かぎり、あらゆるひとにとって恐ろしい。また、恐ろしさが も重大な最もうるわしい危局に際しての死だからである。わ超人間的とまでゆかないことがらにも、その大いさや程度に れわれの諸国家や君主制の諸国家における表彰の仕方もこの いろいろある。 ( 平気なことがらの場合も同様である。 ) 勇敢加 ことを如実に示している。 なひととは、人間的な意味での怯まないひとである。彼は、 かくして、厳密な意味において勇敢なひとと呼ばるべき 章 だから、かような超人間的ならぬ恐ろしいことがらをも恐れ 7 は、うるわしき死に関して、そして、およそ忽ちのうちに死はするであろう。ただ、彼は然るべき仕方において、またこ を招来するごときことがらに関して、恐れるところのないひとわりの命ずるところに従「て、「うるわしさ」のためにそ 巻 3 とである。かかることがらの最たるものは、しかるに、戦い れを耐えるであろう。事実、これこそが徳の目的とするとこ の場合にほかならない。 ろなのである。これらのことがらを恐れるにもいろいろの程 学 勿論、勇敢なひとは海難においても、 . 病気に際しても、恐度においてすることが可能なのであり、のみならずさらに、 スれを知らぬひとでないわけではない。その場合、勇敢なひと 1 恐ろしくないことがらをも恐ろしいことがらであるかのよう 「、は船乗りとは行きかたを異にしている。すなわち、彼らは救に恐れることも可能である。過ちは、恐れてはならないこと = 助に望みを断ってしまって、このような死にかたをすること がらを恐れるとか、然るべき仕方においてでなしに恐れると に憤慨するのである。専門の船乗りならばこんな場合でも自 か、然るべきでないときに恐れるとか等に存するのであり、 己の経験のゆえに楽観的であるのだが 。同時にまた、彼平気なことがらに関してもこれに準する。
らが数のイデアというものを措定しなかったのもまさにこの みても、食養におけるそれについては医学が、体育の場合に アガトン 理由に基づく。ところが善ということは、本質の場合におおけるそれについては体育学が存在するのである。 また、例えば「人間そのもの」においても個々の人間にお いても、質の場合においても、関係の場合においても語られ るのであるが、「それ自身独立的に有るところのもの」すなわ いても、その定義はいすれも同一の「人間」の定義であると一 ち実体は、その本性上関係よりは先のものでなくてはならなすれば、彼らのいうところの「ものそのもの」なるものがそ 加もそも何を意味しうるかが問題であろう。というのは「人間 い。な、せなら、後者は「有」のひこばえともいうべきもの、 そのもの」も個々の人間も、人間であるという点に関するか 「有」の付帯性のごときものなのであるから。してみれば、 ぎり全く区別を有しないはずであり、もし然りとすれば「善 かかるすべてに共通なイデアはありえないはすである。 さらにまた、「善」ということは「有、る ( オン ) というのそのもの」も個々の善も、善であるという点に関するかぎり と同じだけの多くの仕方で語られるがゆえに、 ( すなわち本やはり区別を有しないだろうからである。その場合、「善そ のもの」は、永遠的なものであるがゆえにそれはよりすぐれ 質にあっては例えば神や理性が、質にあってはもろもろの卓 て善なのだ、というような議論も「通用しないであろう。永 越性が、量にあっては適度が、関係にあっては有用というこ 久的な白は旦タに減びる白に比してより白い、などというこ とが、時間にあっては好機が、場所にあっては適住地とかそ の他そういったものが、いずれも善と呼ばれる、 ) 善はこれとはないのである。 。ヒュタゴラス学派のひとびとは一を善の系列のうちに置く らすべてに共通な単一的な或る普遍でありえないことは明ら ことによって、これよりも首肯するに足ることを善について かである。なぜなら、もしそうであるならば、それはかかる カテーゴリア すべての範疇において語られることなく、単に一つの範疇語っているように見える。そしてスペウシッポスも彼らに従 っていると考えられる。 において語られるはずであろうから。 ( 二七 ) だがこのことについては別の論にろう。いま述べたこと さらにまた、単一なイデアに属するものに関してはやはり がらに対して、しかしながら、ここに一つの異議が現われ また単一な学問が成立する以上、あらゆる善に関しても何ら る。すなわち、イデア論者たちの所説はあらゆる善にかかわ かの単一な学問が存すべきはずであろう。しかるに実際に カテーゴリア は、ただ一つの範疇のもとに属する善についてさえ多くのるのでなく、「即自的に追求され愛されるところのもの」が 学問が存在している。例えば、好機についてみてさえも、戦一つの形相に帰せられるのであり、これに反して「これら即 争の場合におけるそれについては統帥学が、病気の場合のそ自的に善であるところのものをもちきたしたり何らかの仕方 でそれを保全したり、あるいはそれの反対的なものを妨げる れについては医学があるのであり、適度ということについて ( 二三 ) ( 二五 )
割されるものだが、 場所的に、また数的には、分割されない 7 器官 ) によって、独立した別々のもの 7 対象 ) を、判 ものだからである。それとも、このことは不可能であるか。 別できないことは明らかである。しかしまた、独立した別々 の時において、判別することができないことも以下のことか不可分の同じものは可能的に相反するものでありうるツ、し かしその本質においてでなく、働かされることにおいて分割 ら明らかである。すなわち、善いものと悪いものは別である されうるものである。そして同時に白と黒であることはでき と同じものが言うように、これとあれとが別のものであると 言うときもそうである ( このときは付帯的ではない。付帯的ない。したがって、それら相反するものの形相を受け入れる これは、感覚と思惟がそうした感覚物の形 と言うのは、たとえば、善いものと悪いものは別であるとわこともできない。 たしがいま言いはするが、「いま別である」と言っているの相を受け入れるものであるとする場合である。しかし、ある ではない。そのような場合であるが、しかし同じものはいまひとたちが点と呼んでいるものの場合は、不可能ではない。加 も言い、また、それがいま別であるとも言っているのであ一であって二であるという、その点においては、不可分なも る ) 。したがって感覚されるものと、それを言うのとは同時のでもあり可分なものでもあるということはある。したが って、不可分である限り、判別するものは一つであり、同時 である。このようにして、切りはなされないもの↑能力 ) に一つとして働いている。だが、可分なものである限り、同 ( アコーリスタ ) は分割されないときに存在しているのであ じ点を、同時に、一一度使うのである。ところで、限界を一一度 る。 しかしまた、同じものが分割されないものである限り、相使う場合は、それを二つの別々に切り離され独立したものに 反する運動において、同時に、つまり不可分な時間におい分ける。つまり限界は、切り離され独立したものとして二つ 章 て、動かされることはできない。じっさい、もしも甘いものなのである。だが他方、一つとして使うときは、限界は一つ 第 であるならば、そのように感覚なり思惟なりを動かすし、苦であり、また、そう設定するのも同時なのである。そこで、 巻 いかなる原理によって、生物が感覚能力をもつものであると いものは反対の仕方で動かすし、白いものは別の仕方で動か 第 すのである。それでは、判別するもの↑共通感覚 ) は数にわれわれは主張するか、その原理については、以上のような 仕方で規定されたとしよう。 = おいて同時に不可分であり、切り離されないものであるが、 ( 八 ) ア 他方、その本質においては切り離されてあるのか。たしかに、 ある意味では、分割されるものが二つの分割されてあるもの 第三章 ↑感覚物 ) について感覚する。だが他の意味では、分割さ れないものとしてである。なぜなら、その本質においては分 しかし魂を、とくに二つの種差によって人々は定義してい
ることが各人にとって好ましくあるごとく、同じ程度に、ま るべきであろうか、それとも、ちょうど客を待つに「多客な たはそれに近い程度において、友の存在することもまた好ま るでもなく無客なるでもなく」といわれているのが至言だと しくなくてはならない。だが、自己の存在することが好まし考えられるように、親愛の場合にもやはり、無友にもあらず一 くあるのは自己が善き人間であることを知覚するというのに さりとてまた過度に多友でもないのがいいのであろうか。 基づいていたのであり、かかる知覚が即自的に快適だったの 功用を目的とする友のあいだでは、このことばはびったり である。してみれば、ひとは親しきひとについてもその存在とまで適合すると考えられるであろう。けだし、多くのひと していることを知覚することを要する。しかるにこのことが びとのためにこちらから尽すのは骨が折れるし、われわれの 可能となるのは、相手と生を共にするということ、すなわ生涯はそれをなすのに充分ではないからである。それゆえ自 ち、談論や思考を共にするということにおいてである。これ分自身の生涯に対して充分である以上の友は、余計であり、わ が、実際、「生を共にする」ということの人間の場合におけれわれのうるわしく生きることに対してかえって阻害的であ る意味なのであって、牧獣の場合のごとくに、同じ場所に棲る。だからそれは全く不必要である。快楽を目的としての友 息しているというだけにはとどまらないと考えられなくては も、ちょうど食物における薬味のごとく、少しあれば足りる。 ならない。かくして、至福なひとにあっては自己の存在して だが、人間の卓越性に基づく友人の場合はどうであろう いるということがーーそれは本性的な善であり快であるがゆ か。われわれはできるだけ多人数のそういう友をつくるべき釦 えに 即自的に好ましいことであるならば、そして友の存であろうか。それとも親愛の範囲にやはり何らかの適度が存 在することも彼にとってこれとほとんど同様であるとするな するのであろうか。ちょうど国家の場合におけるごとくに らば、友もまた好ましいものに属しなくてはならない。だ 。というのは、十人からでも国家は生れえないし、また十 が、彼にと 0 て好ましくあるところのものは彼において現存万人もおればもはや国家ではなくなるからである。勿論その していることが必要であり、でなければ彼はその点において適当な数というものは、おもうに或る一つにかぎるというわ 欠けるところがあることとなるであろう。してみれば、ひと けではなく、或る定まった限界の中間全体にわたるのではあ は幸福であるためには、よき友たるひとびとを要するであろろうがーー。友の数についても、要するにやはり、こうした 意味での一定の限界があるのであって、ひとが生を共にす ること ( このことが親愛における最高の特性であると考えら 第一〇章 ( 四二 ) れた ) のできる相手の数の最大限が、おもうに、それであろ う。多数のひとびとと生を共にすること、すなわち、自己を では、われわれはできるだけ多くの親しいひとびとをつく加 ( 四 0 ) ( 四一 )
たいがいのひとびとの所見に従えば、かようなことが生ず加その作品がもし生命を与えられたならば彼を愛するであろう るのは、後者は借りているほうだし、前者は借りられている 以上に愛している。そしてこのことはおもうに詩人において ほうであるからにほかならない。ちょうど、貸借の場合にお最も著しい。詩人が自分自身の詩を愛することは非常なもの いて、借りているひとは自分の借りている相手の存在しない であって、その慈しみかたはまるで自分の子供に対するがご 1 ことを願うのに反して、貸したほうのひとは借り手の安全のとくである。施善者の場合もこれに類しているようである。 ために心遣いをしてやったりするが、同じように、善を施しすなわち、よくされたところのものは彼らの作品にあたる。 たひとも、施されたひとから好誼を返してもらいたいものだ彼らは、だから、このものを、作品がその作者を愛する以上 自分 に愛している。そしてこのことの因はこうである。 からその存在していることを願うが、これに反して、相手か たにしてみれば、これに報いることなどはべつに気にもなっ があるということは何びとにとっても望ましく愛すべきこと ていないのだというのである。勿論、エ。ヒカルモスにいわせがらであるが、しかしわれわれがあるのは現実的に ( すなわ ( ニ九 ) れば、かかる言いぶんは「わるくひねって」眺めたものだとち生きており働いていることによって ) でなくてはならない いうことに恐らくはなるであろう。だが人間の本性にはそうのであって、制作者にしてみれば、「彼が現実的にそれであ いうところもあるように思われる。多くのひとびとは忘恩的るところのもの」は、或る意味においては彼の作品にほかな らない。だから彼は、自己のあるということを慈しめばこ であるし、よくするよりもよくされることを希っている。 ことがらの因は、しかしながら、もっと本性的なところにそ、その作品を慈しむのである。このことは本性的であろ デュナミス う。けだし「可能的に彼がそれであるところのもの」を、彼 存在すると考えられなくてはならないのであって、必ずしも 第 エネルゲイア 金を貸したひとの場合に準じて考えらるべきではないであろの作品は現実的に露呈しているのだからである。 巻 同時にまた、施善者にとっては、自己の行為のもたらすと う。なぜかというに、金を貸したひとの場合にあっては愛情 第 ころはうるわしさの性質を帯びており、したがって彼は、こ加 学があるからというわけではないのであって、健在なれという これに反しのものの見出だされる場所に悦びを感ずるのであるが、これ 倫願望も、返金されんがためのものにすぎない。 ス て、よくしてやったひとは、相手のよくされたひとを、親し に反して、受けた側のひとにとっては、それを与えてくれた マ み愛している。たとえそれが、少しも有用ではない、また後ひとにおいていかなるうるわしきものも見出だされないので になっても有用にはならないだろうような人間であったとしあって、せいぜい功益にとどまる。功益は、だが、それほど 。それはまさに、もろもろの制作者の場合における快適な愛すべきものではない。 的ても また、快適であるのは現在についての活動であり、或いは ごとくである。あらゆる制作者は、すなわち、自己の作品を、
意味においてのみ友であるのだからである。快もやはり快のするという現実の「活動」はしていない、しかし親愛的な仕 好きなひとびとにとっては善きものなのであるから こ方で「活動」すればしうるような可能の「状態」にある、と れら疑似的な意味での親愛が、両者一つになっていることは いったふうの場合もある咄実自。紊 ,. 。二三、ー雑よ見愛を無条件的な意間 あまりないのであって、同一のひとびとが有用のゆえになら味で解消せしめるのではなく、ただそれの「活動」を解消せ びに快のゆえに友となることは少ない。実際、付帯的・非本しめるのみなのである。だが、もしその別離が久しきにわた 来的なものがいくつも結合することはあまりないのである。 るならば、それは親愛そのものの忘却をももたらすと考えら 親愛は上述のような種類に分たれており、あしきひとびとⅥれるのであって、さればこそ「会同の足らぬによって親愛の も、快楽のゆえに、または有用のゆえに この方面でもし解消したためしも多く」ともいわれたのである。 お互いに類似的であるならばーー・友となるであろうし、善き 老人にしても気むずかしいひとびとにしても、こうしたひ ひとびとはお互い自身のゆえに、 ( 彼らはすなわち善きひと 1 とびとは親愛には向かないたちであると見られているが、そ びとたることにおいて類似的なひとびとであるから、 ) 友とれというのも、彼らは快楽というものに縁遠いひとびとであ なるであろう。後者が、それゆえ、無条件的・本来的な意味 り、何びとも、しかし、自分に苦痛に感ぜられるようなひと においての友であり、前者は付帯的・非本来的な意味におけや快適ならぬひとと一緒に暮らすことには耐えないものだか る、ないしは後者に類似していることによっての友なのであらである。 ( 事実、苦を避け快を追求するのが何よりも自然 る。 章 の本性であると見られる。 ) 第 相手かたを受け容れはしても、それと日常を共にしないよ うなひとびとは、親愛的というよりはむしろ、好意的なひと 第五章 第 びとに似ている。けだし、日常を共にしているということほ 学 だが、もろもろの徳における場合、ひとびとが善きひとだ ど、親愛的たることを示す明らかな証左は存在しないからで加 倫といわれるのは、その「状態」に即しての場合もあれば、そある。実利は乏しいひとびとの追求するところであるが、日 冫いたっては、至福なひとびともま 「の「活動」に即しての場合もある。同様の区別は親愛につい 常を共にするということこ マ コても見出だされる。けだし、同じく親愛ということをいってた追求するところである。孤独であるということほどかかる も、一方では、日常を共にしつつお互いに相手かたに悦びをひとびとにふさわしからぬことがらはないのだから 感じ善を与えあっている場合もあれば、他方では、睡眠中も互いに一緒に時を過ごすということは、しかしながら、もし そうであるが、また場所的に相手かたから隔たっていて、愛お互いが快適でなく同じことがらに悦びを感じもしないので 173