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検索対象: 世界の大思想2 アリストテレス
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1. 世界の大思想2 アリストテレス

活をではなくして他の何ものかの生活を選ぶのであっては、 も、倫理的性状の卓越性に対して、また後者は思應に対して おかしいことになるであろう。 密接な連関を有している。すなわち、思慮の端初は倫理的卓 ( 日六 ) そうして、以前にいったことがいまの場合にも適合するで越性に基づいており、倫理的卓越性における「ただしさ」は あろう。すなわち、それそれのものに本性的に固有なもの思慮に基づく。だが倫理的卓越性は情念とも不可分の関係に が、それぞれのものにとって最も善く、そして最も快適なのあり、したがって複合者にかかわる卓越性である。このよう である。ところで人間に固有なのは、理性に即しての生活に な複合者の卓越性は人間的な性質の卓越性にほかならない。 ほかならない。人間とは彼のうちにおける他のいかなる部分 かくて、このようなもろもろの卓越性に即しての生活も人間 よりもこのものであるのだから したがって、この生活的な性質のものであり、かかる幸福もまた然りである。 が、また最も幸福な生活たるのでなくてはならない。 だが、理性の卓越性は、かような複合者についての卓越性 ではなくして、分離的な性格を持った卓越性である。 ( ここ Ⅷでは、すなわち、これだけいっておくことにする。精密を期 第八章 することは予定された仕事以上に出ることになるから。 ) ま ( 四八 ) た、それは外的な給備をあまり必要とせず、ないしは、倫理 これに比しては、その他の卓越性に即しての生活は、第二 義的なものでしかない。けだし、ここでは卓越性に即しての的卓越性の場合ほどにはこれを必要としないと考えられるで 章もろもろの活動は、単にもつばら人間的な性質のものにすぎあろう。なぜかというに、もとより、必須な事物については 第ないのだからである。なぜかというに、正しいことがらとか、両者いずれの場合にあっても必要があり、それも同等の必要 巻勇敢なことがらとか、その他もろもろの卓越性ないしは徳に があるといえよう。 ( 政治家のほうが、肉体とかおよそそれ 即してのことがらをわれわれがお互いに対して行なうのは、 に関する問題についてより多く腐心するのは事実であるが 学契約とか、役務とか、その他さまざまの行為において、なら 。 ) この点、両者の間に逕庭を認めがたい。だが両者の 倫びにもろもろの情念において、各自に適当せるところを守るそれぞれ特有の活動への関係においては、外的な給備を要す ス ことによってであるが、行為や情念は、しかしながら、すべ ると要しないとの大きな差異が見出だされるであろう。すな = て人間的なことがらであると見られる。その或るものはわれわち、寛厚なひとは霓厚な行為を行なうために、また正しい われの肉体に起囚するとも考えられ、倫理的性状の卓越性のひとだと、反対給付のために、いずれも財貨を要するであろ % 情念に対するけじめが明らかでないと考えられるような場合うし、 ( けだし、願望はそれだけでは外にあらわれようのない さえ決して少なくはないのである。また、思慮という卓越性ものだからであって、正しからぬひとびとも、正しい行為を ( 四七 )

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ることもできないのであって、その他、およそ何らか一定の 本性を有しているいかなるものもそれと異なった仕方に習慣 。これら倫理的卓越性ないしは徳 づけられることはできない は、だから、本性的に生れてくるわけでもなく、さりとてま た、本性に背いて生ずるのでもなく、かえって、われわれは 本性的にこれらの卓越性を受けいれるべくできているのであ って、習慣づけによってこのようなわれわれが完成されると きにこういった卓越性がわれわれのものとなるのである。 第一章 さらに、およそ本性的にわれわれに与えられることがらの かくして卓越性には一一通りが区別され、知性的卓越性場合にあ 0 ては、われわれはあらかじめまずそうい 0 た活動 に対する可能性を賦与され、そうして後にいたってその活動 と倫理的卓越性とがすなわちそれであるが、知性的卓越性は その発生をも成長をも大部分教示に負うものであり、まさしを現実化するのである。このことは感覚について見るならば くこのゆえに経験と歳月とに俟っ必要があるのである。これ明らかであろう。われわれは、すなわち、幾度も見るとか聞 に対して、倫理的卓越性は習慣づけに基づいて生ずる。習くとかすることによ 0 て感覚を獲得したのではなく、かえ 0 慣・習慣づけ ( = トス ) という言葉から少しく転化した倫理て逆に、所有しているがゆえにこれを使用したのである。使釦 ートス」的 ) という名称を得ている用することによ 0 て所有するにいた 0 たのではない。倫理的 的 ( エーテイケー日「エ な卓越性ないしは徳の場合にあっては、これに反して、まず 所以である。 かかる活動を行なうことによってわれわれはその徳を獲得す このことからして、もろもろの倫理的卓越性ないしは徳と る。それは、もろもろの技術の場合に似ている。というの いうものは、決して本性的に、おのずからわれわれのうちに 0 は、この場合にあっては、「それをなしうるためにはすでに 生じてくるものでないことは明らかであろう。けだし、本性 2 習得していることが必要であるところのもの」をわれわれが 的におのすから然るものはおよそいかなるものといえども、 それとは別の仕方に習慣づけられるということはありえな習得するのも、われわれがやはり、それを自らなすことによ い。たとえば本性的に落下するものである石が、たとえ千万ってなのである。例えばひとは建築することによって大工と新 度上方へ投げられたからとて、上昇するように習慣づけられなり、琴を弾することによ 0 て琴弾きとなる。それと同じよ ることはできないし、また火が下降するように習慣づけられうに、われわれはもろもろの正しい行為をなすことによって エーテイケー・アレテー 第二巻

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られる。すなわち彼に従えば、快楽が善に属するにもかかわのであってみれば、われわれは卓越性について考察を行なう らず称賛されないということは、それが称賛さるべきものよ必要があるであろう。この考察によってわれわれは幸福に閃 りもより善きものであることを示しているのであり、神とかする認識を進めうるだろうからである。また、卓越性につい 「善」とかもまさにこのような性質を有している。なぜなら、 ての特に労苦したひとであってこそ初めて真の政治家である むしろこれらのものヘ他のものが関係づけられて称賛される と考えられる。彼の欲するところは国民をして善き人間たら のであるから しめ法律に耳を傾ける人間たらしめることにあるはずだか 「称賛ーは、詳しくいえば、もつばら卓越性にかかわるものら。 ( そういう実例としてわれわれは、クレータやスパルタ であり ( すなわちうるわしき働きを行なう傾向が卓越性に基の立法者ーーなおほかにもそういうひとびとが存在したなら 、刀、カ ばそれらも加えてーーを持っている。 ) もし政治には、 づいているがゆえに卓越性は称賛される ) 、「顕彰ーはこれと る課題が属しているとするならば、卓越性の何たるかを探究 は別に、成果ーー肉体的たると精神的たるとを問わずーーに ( 五八 ) かかわる。こうした問題を精細に取扱うことは、しかし、おすることは明らかにわれわれの最初からの意図に沿うもので もうに、「顕彰ーということの研究をしたことのあるひとびあろう。 われわれの考察すべき卓越性は、しかしながら、明らかに とにとってよりふさわしいであろう。いまのわれわれの場 合は、以上述べたところからして、幸福は尊敬さるべきもの・ % 人間的卓越性である。われわれの求めていた善も人間的善で 究極的なものに属することが明らかとなったのである。 あり、われわれの求めていた幸福も人間的幸福であったのた ( 五九 ) から 。われわれが人間の卓越性として解するものは、し 以上のことはまた、幸福がわれわれの働きの端初であるこ 第 とからも確かめられるように見える。というのは、あらゆる かるに、身体の卓越性ではなくして魂の卓越性である。そし 巻 ひとびとは幸福のために爾余のあらゆる働きをなすのであるて幸福もわれわれはこれを魂の活動と解する。然りとすれ 第 が、われわれは、あらゆる善の端初たりその因たるものは、 ば、政治家・政治学者 ( ポリティコス ) は何らかの程度におい 学 理何らか尊敬さるべきもの、神的なものでなくてはならないとて魂に関することがらを知っていることが必要であることは ス考えるからである。 明らかである。それはちょうど、眼や身体全体の医療を行な四 マ おうとするひとの場合と一般であり、それも政治が医療より も、より尊く、より善きものであるだけ、一層われわれの場 第一三章 合における必要は大きい。医者でもたしなみのあるひとは身 だが、幸福とは究極的な卓越性に即しての魂の或る活動な体に関する知識のために腐心しているのである。かくして、 ( 六 0 )

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124 うな事象」にかかわるものである。つまり、類の異なったこ も過少であってもならない、それは中であるべきであってた だしきことわりに則っていなくてはならない」ーーと。だれら両者に対しては、魂の諸部分にあってもまた、これらそ 、つこう何もわかったれぞれに対応するごとき本性を有するところの、それぞれ類加 が、これだけのことをもってしては、し ことにならない。例えば、 いかなる薬を病体に投ずべきかとの異なったものが見出だされる。事象と魂との間に知識の成 いうことは、「およそ医学とか医学者の命ずるところのもの立するのは両者の間における何らかの類同性とか近親性に基 づくのであるから 。これらのうち、前者を「認識的部 を」といわれただけではわからないであろう。だからして、 魂のもろもろの「状態」に関しても、この、誤りならぬこと分」、後者を「勘考的部分」と呼んでおこう。けだし、「思量 がらが述べられるにとどまるべきではなく、さらに、「ただする」ということと「勘考する」ということは同一である しきことわり」とは何であるか、またこれの規矩をなすものが、何びとといえども「それ以外の仕方ではあることのでき ないような性質の事象」に関して思量しはしないからであ は何であるかが規定されることを要する。 われわれは魂のもろもろの卓越性を区別し、その或るものⅡる。したがって勘考的部分は魂の有理的な部分のうち、一つ トス の特殊な部分を形成している。 は「倫理的性状」の卓越性であるし、またその或るものは ディアノイア われわれは、かくて、これら各部分の最善の「状態」とは 「知性」の卓越性であるといった。「倫理的性状の」「倫理 いかなる「状態」であるかを把握しなくてはならない。けだ 的な」もろもろの卓越性すなわち徳に関しては、われわれの 叙述は終った。残りのもろもろの卓越性に関しては、われわし、最善の「状態」がそれぞれの部分の卓越性にほかならな 。そして卓越性は、そのもの固有の機能への関連において れはまず、魂についての次のような叙述をもって序説とした 成立する。 さきに、魂には二つの部分が、すなわち有理的な部分と無 第二章 理的な部分とが存するといわれた。だがいま、有理的な部分 に関して、同様にして、一つの区分がなされなくてはならな 。すなわち、有理的な部分に次のような二つがあることを ところで、われわれの魂のうちには三つの機能が存在して アレーティア われわれの論議の基礎に置きたいのである。一つは、およそわれわれの実践ならびに真理認識を主宰している。感覚・理 性・欲求がそれである。 「その端初がそれ以外の仕方においてはあることのできない これらのうち、感覚はいかなる実践の端初ともならない。 ようなもろもろの事象」を考察するための部分であり、他の このことは、獣類は感覚を持ってはいるが実践にあずからな 一つは、「それ以外の仕方においてあることの可能であるよ ( む ) ( 四 ) ( 八 ) プラクンス

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属するか 第一三章人間の「機能」の区分。それに基づいて人間の「卓越性」の分類。 ーー知性的卓越性と倫理的卓越性 第二巻 倫理的卓越性 ( 徳 ) についての概説 第一章倫理的な卓越性乃至は徳は本性的に与えられているのではなく、行 為を習慣化することによって生ずる : 第一一章では如何なる仕方で行為すべきか。一般に過超と不足とを避けなく てはならない : 第三章快楽と苦痛が徳に対して有する重要性 : ・ 第四章徳を生ぜしめるにいたるもろもろの行為と、徳に即しての行為とは、 同じ意味において善き行為であるのではない : 第五章徳とは何か。それは ( 情念でも能力でもなく ) 「状態」である・ 第六章では如何なる「状態」であるか。それは「中」を選択すべき「状態」 である : ・ 第七章右の定義の例示・ : 第八章両極端は「中」に反対的たるとともに、また相互の間においても反 対的である 第九章「中」を得んがための若干の実際的な助言 : 第三巻 つづき ( 第一ー五章 )

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要であると思われている。しかるに、卓越性に即してのもろ もろの活動のうちでも、最も快適なのは、誰しも同意するご とく、智 ( ソフィア ) に即しての活動なのである。現に哲学 第七章 ( フイロソフィアⅡ愛智 ) は純粋性と不動性とにおける驚嘆 すべき快楽を含んでいると考えられている。だが、智を求め だが幸福とは、卓越性に即しての活動であるとするなら る営みよりも、智を働かせる営みのほうが一層快適であるの ば、当然それは、最高の卓越性に即しての活動でなくてはな が至当であろう。また、いわゆる自足性の最も多分に存する らぬ。最高の卓越性とは、しかるに、「われわれのうちにお のは観照的な性質の活動に関してでなくてはならないク言 ける最善の部分」の卓越性でなくてはならない。それゆえ、 これが或いは理性 ( ヌース ) と呼ばれるにせよ、或いは何ら生に必須なもろもろの事物は智あるひとも正しいひとも爾 か他の名称で呼ばれるにせよ、いずれにしても「その本性上余のいかなるひとびともこれを要することは事実である。だ釦 がこのような事物に事欠かない場合、正しいひとならば、や 支配指導する位置にあり、うるわしき神的なことがらについ はり、正しい行為をなすべき相手のひとびとやそれを共にす て思念しうるーーーそれ自身が神的であることによってにして べきひとびとを要するし、節制的なひととか勇敢なひととか も、またはわれわれのうちに存する最も神的なるものである その他それそれもこれと同様であるのに反して、智あるひと ことによってにしてもーー・と考えられるところのもの」 は、たとえ自分だけでいても、観照的な活動を行なうことが 章このものの、その固有の卓越性に即しての活動が、究極的な 第幸福でなくてはならない。それが観照 ( テオーリア ) というできるのであり、智あるひとであればあるほど、ますます然 りである。その働きを共にするひとびとを有しているならば 活動であることは既に述べられた。 ( 四ニ ) 第 このことは既述のところに合致するのみならす、ことがらおもうに一層いいであろうが、それでもやはり、かかる活動 学の真にも合致していると考えられるであろう。なぜかというを行なっているひとは、最も自足的たることを失わない。ま 理 この活動はわれわれの最高の活動である。理性はわれわた、この活動のみはそれ自身のゆえに愛されると考えられるル ス であろう。まことに、 れのうちに存するもののうち最高のものであり、理性のかか加 この活動からは観照を行なうという活 マ わるところのものは知識されるものの最高のも 4 なのである動それ自身以外の何ものも生じないが、これに反して、実践 から 。さらにまた、それは最も連続的でありうる。すな的な諸活動からは、われわれは多かれ少なかれその活動それ わち、観照的な働きはいかなることがらをなすよりも連続的自身以外に得るところがあるのである。また、幸福は閑 に行なうことが可能である。また、幸福には快楽の混在が必 ( スコレー ) に存すると考えられる。けだしわれわれは、閑 る Ⅶ

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は、均等性ということの上に立っている。というのは、双方Ⅷ愛自身の間にも、いろいろ相違がある。すなわち、親の子に から同じものが得られ、お互いに同じものを相手かたが得る 対するそれと、支配者の被支配者に対するそれとでは同じで ことを願うのであるか、さもなくばお互いに異なったものをない。また、それのみでなく、父親の息子に対するのと息子 公平な仕方で交換するのだからである。例えば実利に換える 1 の父親に対するのとでは、そして、夫の妻に対するのと妻の 夫に対するのとでは同じではない。すなわちこれら各当事者 に快楽をもってするというふうに。 ( ただし、これら実利や快楽のための親愛は充分な意味におの卓越性や機能も異なり、彼らが相手を親愛する所以のもの もそれぞれ異なっているのであって、したがってまた、彼ら いての親愛でもなく、比較的永続しがたいものであること は、既に述べたところである。それらは、一つのものへの類それぞれの愛情や親愛も異なっているのである。双方は、だ加 ( ニ七 ) から、相手かたからそれそれ同じものを得るわけでもないし、 似性のゆえにと非類似性のゆえにとで、親愛であるともまた 親愛でないとも考えられる。すなわち、「卓越性に即してのまた同じものを求むべきでもない。もし、両親に対して子は 自分の生みの親たるひとびとに当然尽すべきところのものを 親愛」への類似という観点からは親愛であると見られーーな ぜならこれらの親愛は、一つは快を他の一つは有用を含んで尽し、親はまた子に対してその尽すべきを尽すならば、この いるが、快および有用ということは「卓越性に即しての親ような両者の間における親愛は、持続性もあり立派な親愛と 愛」にも属しているのであるから また、「卓越性に即 なるであろう。けだし、優越の上に成立するこのようなすべ しての親愛」は讒謗によって害われす、固定的であるのに反ての親愛においては愛情もまた比例的たることを要するので して、これらの種類の親愛は容易に変易するし、その他またあって、換言すれば、相手かたよりすぐれたひとは、自分が 多くの点において異なるがゆえに、かの親愛への非類似とい加 相手かたを愛するよりも以上に相手かたによって愛されるの う観点からいえば、親愛ではないとも見られる。 ) が当然であり、より多く実利を与える位置にあるひととかそ の他そういったひとびともそれぞれ同様である。すなわち、 ( ニ八 ) ひとがその価値に応じて愛されるとき、そこに或る意味にお 第七章 ける均等性が成立するのである。この均等ということこそ : 、だから、やはり親愛の特徴であると考えられる。 だがこれらとは別種の親愛が、すなわち、一方的な優越の だが、均等といっても、「正」の場合と親愛の場合とでは、Ⅸ 上に立っ親愛がある。例えば、父親の息子に対する、また総 じて年長者の年少者に対する親愛や、夫の妻に対する、また同様でないと見られる。なぜかというに、「正」の場合にお あらゆる支配者の被支配者に対する親愛など。このような親ける均等とは、第一義的には価値に応じてのそれであり、量 ( 二五 )

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ヘクシス ( 四つ ) 的な善には属しないことになるからである。 加るとするのとその使用にあるとするのとの差異、状態と解す また、われわれの規定に対しては、幸福なひととはよく生るのとその活動と解するのとの差異は、おもうに僅少では きているひと、よくやっているひとを意味する、という考え ない。というのは、卓越性という「状態」はそれが存在して % も適合する。幸福はよき生、よき働きというほどのものとし いながら少しも善を結果しないことも可能であるがーー例え 1 て規定されたのだからである。 ば眠っている場合とかその他何らかの仕方でひとがそれを働 かせなかった場合のごとき・ーー、活動はこれに反してそうい のみならず、幸福について求められることがらは、ことご以 とくわれわれの規定したところのうちに含まれていると見ら ったふうではありえないものだからである。すなわち、卓越 れるであろう。 性に基づくところの活動が存在する場合にあっては、ひとは すなわち、或るひとびとは幸福とは卓越性ないしは徳でな働いていることが必要であり、それもよく働いていることが くてはならないと考え、或るひとびとは思慮を、他のひとび必要であるだろう。あたかも、オリュム。ヒアにおいて勝利の とは何らかの智慧を「幸福」と考えるのであり、さらに或る冠を戴くのは最も体格の見事なひとびととか最も力の強いひ とびとではなくしてそこで竸技を行なうひとびと ( そのうち ひとびとは、これらにまたはこれらのいずれかに快楽が伴い ないしは快楽が欠けていないのを「幸福」だと考えており、 の或るひとが勝つのだから ) であると同じように、人生にお 他のひとびとは外的な好条件 ( エウエテーリア ) というものけるうるわしき善の達成者となるのはその能力をただしい仕 をさえこれに付け加えている。これらの見解は或いは古来の方で働かせるところのひとびとなのである。 また彼らの生活はそれ自身に基づいて快適である。すなわ 大多数のひとびとの、或いは少数の名だたるひとびとの見解 であって、前者にしても後者にしても、こういったひとびとち、快を楽しむということは魂のうちにおける善に属するの であるが、ひとがそれぞれ何々好きと呼ばれるその愛好の対 の見解が全体的に誤っているとは考えられないのであって、 むしろ、少なくとも或る点においては、もしくは大部分の点象となるものがそのひとにとって快適である。例えば馬好ぎ においてさえも、これらの見解はただしい見解だと考えるのなひとにとっては馬が、芝居好きのひとにとっては観劇が快 適であり、それと同様に、正しい行為は正義を愛するひとに 1 が妥当であろう。 とって、また総じて卓越性に基づく働きは卓越性を愛するひ ところで、卓越性が、もしくは或る卓越性が、幸高こま、 とにとって快適である。多くのひとびとの場合にあっては種 ならないと主張するひとびとに対してわれわれの規定は適合 している。卓越性に基づくところの活動は卓越性に属するも種の快適なものが互いに相剋するのであるが、それはこれら のなのだからである。ただ、最高善を解してそれは所有にあが本性的に快適なものではないことに基づいている。だが、 ( 四二 ) エネルゲイア ( 四一 )

9. 世界の大思想2 アリストテレス

て知あるひとびとによる尊敬を欲しているひとびとは、自己あるように思われる。したがって、お互いの間にこのことが に関する自分免許の評価を根底づけることを希っているので価値に即して行なわれているひとびとは持続性のある友であ 1 あって、その悦びは、したがって、「これらのひとびとの判 り、彼らの親愛は持続性を帯びている。均等ならぬひとびと 定を信頼することによって安んじて善き人間になっておられさえも友たりうるのは、何よりもかかる仕方においてであ る」というところに存するからである。 る。けだし彼らは、かくして均等化されるわけだからであ る。 これに反して、愛されることをひとびとが悦ぶのは、愛さ れるということそれ自身のゆえでなくてはならない。尊敬さ 愛情は均等性と類似性ーー殊に人間的な卓越性において類 れるということよりも愛されることのほうがよりよきことで似的であるようなひとびとの類似性ーーの上に立つものであ あり、親愛が即自的に好ましいことがらであると考えられる る。けだし、このようなひとびとは、その人となりに基づい て持続性のあるひとびとなるがゆえに、お互いに対しても終 べき所以もそこに存する。 だが、親愛は、実は、愛されることによりも、むしろ愛す始変ることがないのであり、あしきことがらを相手から要望 ることに存するのだと考えられる。愛することを悦びとしてすることもなければ、そういうことがらを相手かたに施すこ ともなく、むしろそれを妨げるたちのひとびとだからであ いるところの母親たちがその証左である。或る母親たちは、 すなわち、自分の子供を人手に渡して養ってもらうことがある。事実、自らも過ちを犯さす親しきひとびとにも犯させな いのが善きひとびとの特徴である。あしきひとびとの間にお るのであるが、彼らは自分はその事情を知っているから子供 彼ら いては、これに反して、安定ということは存在しない。 を愛してはいても、それに対して子供から愛をもって報いら れるということはーーもし両方ともが可能でない場合にはは自分自身とすら絶えず類似的ではない。もっともしばらく 求めないのであって、ただ子供たちがしあわせにやっての間ならば、お互いのあしき人間たることを悦んで交友とな いるのを見ればそれだけでもって母親にとっては充分である っていることもあるのだが。有用なひとびとや快適なひとび らしく、たとえ子供たちのほうでは、事情を知らないから、 とは、これに較べれば、まだしも長いあいだ親愛を持続す 母親に対して当然尽すべきいかなることをも尽さないにしてる。すなわち快楽とか実利とかをお互いに与えあっているあ も、母親自身は彼らをやはり愛しているのである。 親愛はむしろ愛するということに存するのであってみれ互いに正反対のひとびとの間に生れる親愛ーー例えば貧し ば、そうして「友を愛するひとびと」は称賛されるのであっ きひとの富めるひとに対する、また無学なひとの知あるひと てみれば、親愛的なひとびとの卓越性は愛するということに に対する親愛ーーは、有用のための親愛であることが最も多

10. 世界の大思想2 アリストテレス

本性上反理的な或るものが見られる。すなわち、ちょうど身な認識を持っ ) という場合におけるがごとき意味とは異な ( 六七 ) 体の麻痺した部分は、ひとがこれを右へ動かそうと欲してもる。無理的な部分が有理的な部分によって何らかの仕方にお いて説得されるという事実の存在は、戒告とかその他あらゆ 反対に左にそれて行く、まさにそれと同じことが魂の場合に る叱責の、また勧請の効果が、これを示している。 おいても生ずるのであって、無抑制的なひとびとの衝動は だがもし、かかる部分もやはり「ことわり」を持ってい。 「ことわり」と反対の方向に赴く。身体においてはそれて行 る、有理的である、というべきであるならば、有理的な部分 1 くのが眠に見えるのに反して、魂の場合にあってはそれが見 もまた、広義のそれを二通りに、すなわち、すぐれた意味に えないにすぎない。おもうに、しかし、それが見えないこと ことわり・ ことわり とはかかわりなく、われわれの魂のうちには、理に背き反抗おける有理的な部分、換言すれば自らのうちに理を有する するところの反理的な或るものが存在すると考えなくてはな部分と、何らかいわば父親のいうところに従うというごとき らぬ。 ( この部分が区別されるのはいかなる意味においてで意味におけるそれとに分たれるであろう。 ( 六五 ) 卓越性も、魂の以上のような区分に基づいて区別される。 あっても差しあたり一向差支えない。 ) それでいて、他面、 ことわり - すなわち、われわれは、卓越性のうち若干のものを「知性的 この部分は上述のごとく理を分有してもいるとみられる。 ことわり 少なくとも抑制的なひとのこの部分は理に従順なのであな卓越性」と呼び、若干のものを「倫理的な卓越性ーと呼 り、おもうに節制的なひとや勇敢なひとのそれは、なおそぶ。智慧とか「ものわかり」とか思慮とかは知性的な卓越性 れ以上に従順である。いかなることがらについてもそれは に、寛厚とか節制とかは倫理的な卓越性に属するのである。 ( 六八 ) 章ことわり 理に唱和するからである。 事実、われわれは或るひとの「倫理的性状ー「倫理性ー ( エー トス ) について語る場合、智者だとかわかりがいいとかはい かくして無理的な部分も一一様のものを含むといえる。すな ことわり・ わち、植物的な部分はいかなる意味においても理を分有し釦わない。そして穏和であるとか節繝的であるとかいう。だが ないが、欲情的な部分ないしは一般に欲求的な部分は、これわれわれが称賛するのはそれのみではなく、例えば智慧ある ことわり ひとをも、彼のこの「状態ーに即して称賛する。だが称賛さ 理に反して、それが理に聴きこれに従うかぎり、或る意味に ことわり ことわり 幻おいて理を分有する。したがってここにいう理を分有するべき「状態」は、われわれはこれを卓越性と呼んでいるの るというのは、父親や親しきひとびとの「ことわり」を分有である。 三する ( Ⅱ彼らのことばに従う、彼らのいうところをききわけ る ) という場合におけると同じような意味であり、数学的対 象についての「ことわり」を有する 7 それについて知性的 アレテ