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検索対象: 世界の大思想2 アリストテレス
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1. 世界の大思想2 アリストテレス

ときこよ、 冫。いかなるものによって ( 例えばいかなる道具を用場合に初めて不随意的だといわれるのであるが、不随意的と しいうるためにはさらに、その行為が苦痛をもたらし後悔を夘 いて ) ・何のために ( 例えば救助のために ) ・いかなる仕方で 伴うことを必要とする。 ( 例え、は静かにまたは激しく ) といったような諸点である。 ところでこれらの諸点をことごとく識っていないなどという「強要」によって、ならびに「無識」のゆえになされるとこⅢ ろのことがらが、不随意的なのであってみれば、およそ、行 ことは狂人でないかぎり誰にも無論ありえないのであって、 為の端初がそのひとのうちに存しており、行為をめぐる個別 また何びとが行為しているのであるかを識らないひとのない ことも明らかである。少なくとも自分自身を識っていないと的な諸点を当人が識っているかぎり、それは随意的な行為で いうことはありえないのだからである。だが、自分のなしつあると考えられるであろう。 すなわち、憤激や欲情に基づく行為が不随意的だといわれ つあることがらをみすから識らないということはありうる。 るごときはおそらく妥当ではないと思われる。なぜなら、も 例えば、いわゆる「語るにおっ」とか、口外を許されないこと がらであったことを識らない ( アイスキ、ロスが密儀に対ししそういった行為が不随意的だとするならば、第一、人間を ( 四 ) 除いてはいかなる動物も随意的に行動しないこととなるし、 てのごとき ) とか、ひとに例えば石弩を単に説明してやろう ま年少の人間も同じく随意的に行動していないということにな と思ったのが手がはずれて石を飛ばしてしまうとか るであろう。のみならず、不随意的だといっても、それで た、メロべのように自分の息子を敵だと思いこむということ ( 五 ) は、欲情や憤激に基づく行為はいかなるものもことごとくが もありうるし、刃のある鎗を先のまるめてあるもののように 思ったり石を軽石だと思うこともありうる。そうして、救助非随意的になされているのだというのか、それともまた、う るわしき行為は随意的になされるのだが、醜悪な行為はしか の目的で飲ませたためにかえって死に至らしめることもあり うる。また、例えば闘技に際して、わずかに触れるつもりでし不随意的になされるのだというのか、いずれの意味なので いて相手に傷害を与えることもありうる。かくして「無知」あろう。もし後者の意味だとすれば、原囚者は同一の人間で 「無識」とは行為をめぐるおよそこれらの諸点にかかわるのあるのにこういった差別をつけることは滑稽にすぎない。だ が、前者の意に解するとしても、われわれが当然欲求しなく であって、これらの諸点のいずれかについて知識を欠いてい たひとが好まざるにそれをなしたと考えられるのであり、そてはならないごときことがらもあるのに、これらを目してや の最もはなはだしいのは最も重要な諸点においてである。最はり不随意的だとなすのは、おもうに、不条理というべきで あろう。われわれは、実際、或ることがらについては当然憤 も重要な諸点とは、行為の相手と目的であると考えられる。 怒しなくてはならないのであるし、或ることがらはまた当然 かくしてこのような意味における「無知」「無識」に基づく ( 七 )

2. 世界の大思想2 アリストテレス

ような場合がそれである。 だが、およそ、種々のもっと大きな害悪に対する恐怖のゆ」 えにとカオしを よ、しょ何らかのうるわしきことがらのために、 やむなく或る行為が行なわれるような場合、 ( 例えば、或る ひとに対して、彼の親や子に対して生殺の権を有する僭主が 何らか醜悪な行為を命するとする。そしてもしこれをなすな らば彼の親や子は救われるであろうが、もしこれをなさない ならば親や子が殺害されるであろうと仮定する。 ) こういっ 第一章 た行為は、不随意的なのかそれとも随意的なのかという疑惑 徳は、かくして、情念ならびに行為にかかわるが、称賛な釦の余地が存するであろう。或る意味でこれに通するような事 態は、嵐の中で投荷を行なう場合にも生ずるのである。この ししは非難の向けられるのはこれら情念や行為が随意的なも のである場合にかぎられており、もしそれが不随意的なもの場合についていえば、本来的には何びとも、すき好んで投荷 であればかえって同情が、また時には憐憫さえもが発せられするわけではない。ただ、自分や爾余のひとびとの生命を救 るのである。してみれば、おもうに、「随意的」と「不随意わんがために、良識あるひとびとは誰しもそれをあえてする というにすぎない 的ーとの別を明らかにするということは、徳に関する考察に このような性質の行為は、だからして、 あたって必要なことがらであり、また立法の任にあたるひと混合的な性質を有してはいる。だが、どちらかといえばこれ はやはり随意的な行為だと思われる。なぜかというに、それ びとにとっても、表彰や懲罰に関連して有用であるに相違な 巻 のなされるそのときにおいてはそれは好ましい行為として選 第 「不随意的ーと考えられるのは、強要によって、もしくは無 ばれているのであり、行為の所期の目的とは、その場にのそ 学 んでのそれを意味する。したがって、随意的というも不随意一 識のゆえに生ずるごときことがらの場合である。 ス いま、強要的とは、その端初が外部から与えられているご的というも、行為のなされるまさにそのときについていわれ 「ときことがらの謂いである。すなわち、その端初が、本人のるのでなくてはならない。彼はしかるにこの場合においては = 行為とか情念とかの少しもあずかる余地のないような性質の みずからすすんでこの行為をなしているのである。 ( かかる ものである場合ーー例えば風によって、或いは決定的な力をもろもろの行為においては、彼の器官的な諸部分を動かす端 有するひとびとによってどこかへつれて行かれる、といった初はやはり彼のうちに存するのであり、しかるに、端初が彼 、 0 第三巻

3. 世界の大思想2 アリストテレス

う。「何びともみずから好んで下等な人間たるはなく、またを出さないようにとか苦痛を感じないようにとか空腹を覚え みすから好まざるに至福なひとたるもない」という言葉があないようにとか、その他そういったことは、決心してみても るが、これは、偽と真を併せ含んでいるように思われる。と無駄なのである。われわれは依然やはりそういう始末に立ち いたるだろうから 。「自己の責任に属しないところの」 いうのは、何びともみずから好ますして至福たるものはな 、 0 しかしながら、人間の劣悪ということは随意的な性質のといったのは、もし無知がそのひとの責任に属すると考えら釦 ことがらなのである。さもなければ、われわれはわれわれのれるような場合には無知ということそれ自身に対してさえも 上述したところとも背馳しなくてはならないのであって、す処罰が行なわれるからである。例えば酔払いには刑罰が倍加 。けだし、その端初は彼において存してい されるごとき なわち、われわれは、人間が行為の端初であり、子の親とい うのと同じ意味で行為の親たるものは人間である、というこ るからである。というのは、彼は酔払わないですませるとい とを否定しなくてはならないこととなる。だがもし、上述のうことに対する決定的な力を有しており、それにもかかわら このようなことがらにして誤りでないと見られるならば、そず彼が酔払ったというところに無知の因が存するのだからで してわれわれの行為はその根元をたどってわれわれのうちな加ある。何らか法律に存することがらでひとびとの知っていな る端初以外の端初へ持ってゆくことができないのであるなら くてはならないそうして知ることの困難ではないようなこと俺 ば、およそその端初がわれわれのうちに存することがらであがらを知らないひとびともまた処罰され、その他およそ、そ 1 るかぎり、やはり、われわれの自由に依存するものであり随れを知らないのは不注意に基づくと考えられるごときことが らにあっても同様である。それはかかる無知を避けることは 意的な性質のものであると考えざるをえない。 ひとびとの自由に属しているのだからという意味においてで こうした立論は私人各自の行動や、さらにはまた立法者た 巻 ある。けだし、注意を払うということに対して、ひとびとは ち自身の行動によって裏付けを与えられているようである。 充分な力を有しているのである。 学なぜかというに、彼らはあしきことを行なうひとびとを 理 しかしながら、おもうに、注意を払わないようにできてい その行為が「強要ーとか「自己の責任に属しないところの無 ス るひとが存在するかもしれない。しかし、ひとびとがかよう 知」とかに基づくのでないかぎりーー懲戒処罰し、うるわし マきことを行なうひとびとを顕彰するのであって、それは、か な人間になる因は、彼ら自身が不注意に生活しているという かる行為をそれぞれ奨励または防遏しようとするところから ところにあるのであり、また、不正な人間や放埓な人間にな 出ている。しかるにわれわれの自由の範囲内に属せす随意的る因は彼ら自身が悪事を働いたり飲酒その他に惑溺している でないようなことがらをなすように奨励するひとはない。熱ということにある。けだし、それぞれのことがらに関しての ( 一九 )

4. 世界の大思想2 アリストテレス

われわれが欲求しなくてはならないところなのである。例えれは随意的だとはいっても、「選択」に即しているとはいわ加 ば健康とか学習とか 。また、不随意的な行為ならば苦痛ないのである。 を感じさせるはすであるが、欲情に基づく行為は、しかる 「選択」とは「欲情」だといい、或いは「憤激」だといい に、快適なのである。のみならず、勘考の上での過失であろ或いは「願望」だといい、或いは「或る種の臆見」だという うと、或いは憤激に基づく過失であろうと、いずれが特に不ひとびとがあるが、こういった見解はいずれもただしい見解 随意的だといったような差別がどこに存するであろうか。過だとは思われない。 失ばこのいずれであっても避くべきものなのであって、無理 というのは、「選択」は無理的な諸動物にも共通的に属す 的なもろもろの情念もやはり人間に属していると考えられ るものではないが、欲情とか憤激は彼らと共通的である。 る。憤激や欲情から生ずる行為も、だから、人間の行なうと のみならず、無抑制的なひとの行為は欲情に基づいて「選 ころにほかならない。したがって、こういった行為を不随意択」に基づかず、抑制的なひとの行為は「選択」に基づいて 的だとするのはおかしい。 欲情に基づかないのである。のみならず、欲情は「選択」に 反対的に対立しうるのであるが、さすれば欲情が欲情に反対・ ( 八 ) Ⅳ的に対立することとなり、かかることはありえない。のみな 第二章 らず、欲情は快ならびに苦にかかわるに反して、「選択」の ( 九 ) かかわるところは快苦には存しない。 以上で随意的と不随意的との区別が明らかにされた。で、 章 プロアイレシス 次には「選択」に関する叙述にうつらなくてはならない。 また憤激はさらに一層遠い。なぜなら、憤激に基づく行為 第 まことに、「選択ーということは徳と最も緊密な関係を有し こそは最も「選択」に即していない行為だと考えられるから ているのであって、われわれが何を選択するかということである。 ートス 第 は、外面にあらわれた行為以上にわれわれの「倫理的性状ー だがまた、願望もーーーはなはだ近いと見られるにかかわら 学 ずーー・やはり「選択」と同じではない。というのは、「選択」夘 舞の判定に役立っと考えられる。 「選択」は「随意的」なものと見られるが、これら両者は同は不可能なことがらにはかかわらないのであって、もし不可 「一ではなく、随意的のほうがより広い範囲にわたる。という能なことがらを「選択」するというひとがあれば痴呆だと考 これに反して願望は不可能なこと = のは、随意的な行動は年少者にも属するし人間以外の諸動物えられるに相違ない 例えば不死ーーにもかかわる。のみならず、願望は全然自分 にも共通的に属するが、「選択」ということはそうはゆかな いからであって、また、ふとした思いっきの行為をもわれわ自身によってなされえないことがらーーー例えば或る俳優とか 1111b

5. 世界の大思想2 アリストテレス

あるひとならば決して口にしないであろうような、また聞く考えられる。 ことをも拒否するであろうような性質のことがらを語るので この情念はあらゆる年齢に調和するのではなく、若年にの ある。野暮なひとこ 冫いた 0 ては、この種の交際には役に立たみ調和する。けだし、この年齢のひとびとは情念によ「て生 ない。彼は少しもそれに寄与するところがなく、あらゆるこ きているため多くの過ちを犯すのであるが、羞恥によってそ とがらに対して腹を立てるのである。休養や遊びは、しかしれが妨げられているのだからして、彼らは羞恥的であること ながら、人生において必須なものと考えられる。 を必要とすると思われる。で、われわれは若年の羞恥的なひ 以上、われわれの述べきた 0 た人生における三つの中庸とびとを称賛するわけではあるが、しかし、年をとったひと ーいずれも何らか談論や行動の共同ということにかかわっ が恥じ入るたちのひとだからといって、誰もこれを称賛はし夘 ている。ただし、その一つは真実性にかかわり、他の二つは ないに相違ない。けだし後者は恥辱の生するごとき行為をそ 快にかかわ 0 ているという点が異なる。そして、快楽に関すもそもなすべきではないと思われるからである。すなわち羞 る中庸のうちの一つは諧謔においてのそれであり、いま一つ恥は、あしき行為について生するものである以上、よきひと はその他生活全般にわたるところのもろもろの交際における に属するものとはいえない。すなわちわれわれはそういう行 それなのである。 為をなしてはならないのである。たとえ、ほんとうにみにく い行為と、世人の臆見によるところのそれとの別があって 第九章 も、このことに全く変りはない。われわれはそのいずれをも なしてはならないのであって、つまり恥じ入るなどというこ 羞恥を一つの徳として取扱うということは適切でない。 」加とが生じてはならないのである。何らかのみにくい行為をな れは「状態」であるよりもむしろ一つの情念であるように思すようなそういうひとであるということは、あしきひとに属 われるからである。現に、だから、羞恥は「不面目に対するする。「何らかみにくい行為をなしたなら恥じ人る」という 一種の恐怖」と定義されているし、またそれは、恐ろしいこ ようなそういった「状態」にあって、このことのゆえに、自 とがらに対する恐怖と相通するところのものを結果する。と分はだからよきひとなのだと考えるのはおかしい。けだし、 いうのは、恥じたひとびとは赤面するし、死を恐れるひとびと羞恥は自己の随意的な行為について生ずるのであり、よきひ は蒼白となるからである。両者は、それゆえ、いずれも何ら とは、然るに、決して随意的にあしき行為をなさないだろう かの意味において肉体的であると見られるのであり、このこ からである。羞恥は仮一一一一口的にはよきものであるかもしれな とは、しかるに、「状態」よりもむしろ「情念」に属すると というのは、羞恥的なひととは、もしそういう行為をな 、 0

6. 世界の大思想2 アリストテレス

ねばならない。そこで、もしも敵が敵を〔殺す〕場合は、そたとえば、アステ、ダマスの子アルクメオンとか『傷ついた の行動においても、意図においても、なんらそれは憐れを作人オデ = ッセウス』におけるテレゴノスがそれである ) 。な パトス るものではない。〔殺すという〕受難の場そのものにおいて お、これら以外に〔第一二に〕、無知のゆえになにか治癒しが は別である。またどちらでもないものの場合も、同じであたいことをやろうとするものが、行なおうとするまえに、そ る。しかし肉親のあいだで、これらの受難が起きるとき、た加れに気づく場合がある。そしてこれら〔三つの場合〕以外に とえば、兄弟が兄弟を、あるいは息子が親を、あるいは母が は、他の仕方はありえない。なぜなら、行為をやったか、そ 息子を、あるいは息子が母を、殺すとか殺そうと意図するとれともやらなかったか、また知っていたか、それとも知らな か、もしくはなにか他のこういうことをやる場合にはーーそかったか、いずれかでなければならないからである。 れらの場合がここに求められるべきものなのである。 これらのうち、知りながらやろうとして、しかもやらなか ところで伝承の物語の筋を、すっかり解体してしまうこと った場合は、最も拙劣である。なぜなら、それはけがらわ はできない。わたしの言うのは、たとえば、クリタイムネしい気持をおこさせるばかりでなく、悲劇的でもないからで ストラがオレステスによって殺されたことや、エリフュレがある。じっさい、これは。 ( トスを伴わないからである。まさ アルクメオンによって殺されたことであるが、しかし、詩人にこのゆえに、詩人は誰もこれと同じような仕方で詩作しは 自身は創意工夫をして伝承の物語をうまく利用すべきであしない ときにないわけでないが。たとえば、『アンテイゴ る。「うまく」とはどういうことをわれわれが意味している ネ』において、ハイモンがクレオンを殺しそこねたのがそれ である。やってしまった場合は、悲劇として、第二に拙劣な か、もうすこしはっきり言おう。すなわち、昔の詩人たちが したように、知っていて、つまりそれと気づきながら、行為が ものである。だが知らずにやって、しかもやったあとで気づ なされることがありうる。エウリ。ヒデスがメディアをしてそ くのは、それだけよいのである。そこにはけがらわしい気持 の子供たちを殺すように作ったのがそれである。△気づいてがつけ加わっていないだけでなく、認知が衝撃的でもあるか らである。しかし、この最後のものが最もよいものである。 いて行為しないこともありうる。 > しかし、行為はしたが、 それも知らないで、恐ろしいことをやってしまい、それからわたしの言うのは、たとえば、『クレスフォンテス』にお て、メロべが息子を殺そうと図るが、殺さないで、むしろ あとになって肉親であることに気づくこともありうる。ソフ オクレスがオイディ。フスをして、そのように行為させている〔息子だと〕気づくような場合、また「イフィゲネイア』に おいて、姉が弟に気づく場合、また『ヘルレ』において、息 のがそれである ( このオイディ。フスの行為は劇の外にあるが、 子が母を欺こうと図りながら〔母だと〕気づく場合などであ これに対して、悲劇自身のうちに含まれている場合もある。 1454a

7. 世界の大思想2 アリストテレス

433 解説 実の生活を指導し改善するを本旨とする真に実践的・行動的じアリストテレスの倫理学のうちにあった。けだし実践学一 な倫理学の提唱者でさえあるが、しかもその終点において般 ( 倫理学を含む国家学 ) がその対象をただ客観的に見るだ は、自然の観察は理論的傍観であり、言うところの「現実けでなく変えるものと考えられたのは、さきにも言ったよう に、その対象 ( 人間のする事柄 ) が理論学の対象 ( 主として 態」が実は非活動的な純粋理性の自己思惟・自己直観であっ たように、人間生活の最高目的は、実は現実の行動の世界自然界の事象 ) のように人間の考えやカでは変えることので ー政治の世界、生産の世界ーから離れて静かに自然の世きない必然的なものではなくて「他でもありうる」 ( 変化的・・ テオーリア 界・真理の世界を傍観する学究者流の理論的生活 ( 観照の生偶然的な ) 事柄であると思われたからであるが、この場合、 活、 vita contemplativa) にあった。アリストテレスでは、 自然学を主内容とする理論学を優位におくアリストテレスで その理論学と区別された実践学は、「人間のする事柄につい は、実践学はまさにその対象の偶然的で変動的なことのゆえ エーテイケー ポリティ ての哲学」とも呼ばれて、具体的には「倫理学」と「政治に、そこでは理論学においてのような厳密性・真理性は期待 ポリテイケー 学」とを含む「国家学」であった。というのは、実践・行為さるべきでなくてただ蓋然的な結論で満足すべきだとされ (praxis) は人間のすることであり、そして人間らしい人間 た。そこからして、一方では、記述的・実証的な人間観察や はーーギリシャ人アリストテレスによるとーーポリス ( 都市国家制度の調査などには優れた仕事をのこしながら、しかも 国家 ) をなして生活する市民 ( ポリテース ) たるにあった。 人間の行為には特有の原理原則は認められず見落とされて、 ところで、こうした市民 ( すなわち国民 ) としての人間の行無原則的・妥協的・折衷的な中庸道徳と中産階級向きの国家・ 為に関する学を「国家学」 (politike) と呼んで、これを理論理想が結果したとともに、他方では、実践と技術との卑下か 学としないで実践学としたゆえんは、これがその対象をただ ら、職人・農民・奴隷のする生産労働はもちろん、商工業者 たんにその有るままに知るだけの学ではなくて、さらにそのや軍人や政治家の実践生活も、すべては数学者・自然学者・ リス ポリテース テオーリア 対象たる国家とその市民たちの行動を規定し、指導し、改善第一哲学者のするような理論研究 ( 観照 ) の生活のための下 する実践的な学、すなわちその対象を変革するところの学で働きにすぎないとする全く非実践的・非生産的な生活を理想 あらねばならないと考えたからである。この点では、その後とする「実践」学、逃避独善の個人主義倫理学が芽ざした。 の実践学、ことに倫理学が、今日でもなお一般に人間の現実これは、やがて前第三世紀以降、十九世紀に至るまで、人間 生活 ( その社会や政治 ) に対して無為無能なものとして非難に関する哲学 ( 実践の学 ) から政治学 ( 或いは国家学 ) が消 エーテイケー ポリテース エートス されているのに比し、敬服に価する。だが、不幸にして、こ えて、倫理学のみが、ポリスの民 ( 市民 ) としての善い性格 のように倫理学の非難されるに至る最初の芽がまさにこの同を作る学 ( これがアリストテレス倫理学の本意であった ) と

8. 世界の大思想2 アリストテレス

といったような。 の山羊であるべきであり二匹の羊であってはならないとか、 契約的なそして功益的な「正」は、もろもろの量衡に類似 さらにおよそ個々のことがらについて立法のなされているこ ( 五九 ) とがら ( 例えばブラシダスに犠牲を捧げるということ ) やしている。なぜかというに、酒や穀物の量衡はいたるところ ( 六 0 ) において等しくはなく、卸売するところでは大きいし、小売 「政令」的な性質のことがらはこれに属する。一部のひとび とには、しかるに、もろもろの「正」はすべてそういった性するところでは小さい。これと同じように、もろもろの本性 質を帯びているものだと考えられてしる。けだし、本性によ的ならぬ人間的な「正」はいたるところにおいて同一ではな いのである。もろもろの国制でさえもその例外ではないくら るものは不動でありいたるところにおいて同一の妥当性を有 しかしそれでいて、最善の国はあらゆる所 いだから している ( ちょうど、火はここにおいてもベルシアにおいて において本性に即して単に一つしかない。 も、ものを焼くといったふうに ) のであるが、もろもろの それぞれの「正しいことがら」とか法的な規定とかは個別 「正しい」ことがらというものは動くものであることをわれ われは見るからである。だが、動くといっても、それは、そに対して一般者的な関係に立っている。なぜかというに、わ んなに無条件的な仕方において動くのではなく、ただ或る仕れわれのなすところは多であるに反して、これらのそれそれ は一なのである。それは、これらが一般的なものであること 方においてそうであるにとどまる。神々のもとにおいては、 に基づいている。 おもうこ、、、 冫し力なる意味においてもこうしったことはないで ディカイオ アディ アデイケーマ 「不正行為」と「不正なことがら」とは異なり、「正義的行 あろう。。こが、 ナわれわれのもとにおいては、勿論本性による ディカイオン 第ところの或るものも存在していながら、しかもすべてが生成為」と「正しいことがら」とは異なる。すなわち、或ること 巻運動的なのである。しかし、だからといって、本性によるもが「不正なことがら」であるのは本性的にないしは制令によ相 ってであるが、この同じことがらがなされたときにおいて初 第のと本性によるのでないものとの区別がないわけではない。 アデイケーマ 学「それ以外の仕方においてもありうることがら」のうちいかめてそれは「不正行為」となるのであり、その前にあって は、それはいまだ「不正行為」ではなく、単に「不正なこと いかなる性質のも 第なる性質のものが本性によるものであり、 ディカイオーマ がら」たるにすぎない。「正義行為」の場合もこれに準する。 「のがそうではなくして人為的であり契約によるものであるか いずれも同じく生成運動的でありながらーー・ということ ( もっとも、汎通的な称呼としてはむしろ「ディカイオ。フラ は明らかなことがらといえる。こうした同じ区別は他の場合グマ」がほんとうなのであって、「ディカイオーマーは不正 行為を整正すべき行為を意味している。 ) にも適合するであろう。例えば本性的には右手のほうが強い これら法的規定のそれそれについて、それらの各種がいか 何びとといえども両手利きとなりうるにかかわらす

9. 世界の大思想2 アリストテレス

いひととなるには正しい行為を常になしていることを要する行為をなすひとが一定の「状態」にあることによ 0 てこれら し、また節制的なひととなるには常に節制的な行為をなして の行為をなしているということが必要なのであって、すなわ いることを要するというのは、 いかなる意味であろうか。けち、第一には知識の上に立って、次にはこの行為を選択する だし、ひとびとが正しい行為をなし節制的な行為をなすなら加 それもこの行為それ自身のゆえに選択するーーことによ ヘクレス ば彼らはすでに正しいひとであり節制的なひとであるだろう って、また第三には安定的な不可変的な自己の「状態」に基 からである。ちょうど、文法にかなったことを語り音楽的な づいて行為していることが必要である。これらは、「知って ことのできるひとはすでに文法や音楽を心得たひとであるだ いる」という条項のみを除いては、学芸を具えているという加 ろうように ことの条件としては数えられることのないものであるが、徳 だが、学芸の場合においてさえ、実はそういえないのでは の所有のための条件としては、これに反して、知っていると ないだろうか。なぜかというに、ひとが何ごとか文法にかな いうことは全くないしは少ししか意義を持たず、かえってそ ったことを語っても、偶然によることもあるし、他のひとのれ以外の条件が少なからぬ、いな絶対的な重要性を持ってい 指示に基づいていることもありうる。それゆえ、或るひとが る。そしてこれらの条件は、正しい行為とか節制的な行為と かの頻繁な繰返しに基づいてはじめて満たされるものなので 文法を心得たひとであるといえるのは、彼が何ごとか文法に かなったことがらを、文法を心得た人間として語る場合であある る。文法を心得た人間としてというのは、「彼自身のうちに かくて或る行為が正しいとか節繝的であるとかいわれるの 章 存在する文法学的認識に即して」ということである。 は、それが正しいひととか節制的なひととかが行なうであろ 第 さらに、学芸の場合と徳の場合とでは、そもそも同一に律うような性質の行為である場合であり、また、正しいひとと するわけにはゆかないのである。なぜかというに、学芸によ か節制的なひととかは単にかかる行為を行なうひとの謂いで って生ずるところのことがらはそれの「よさ」をそれ自身の はなくして、正しいひとや節制的なひとの行なうような仕方 学 理うちに持っている。それゆえ、この場合にあっては一定の性においてかかる行為を行なうひとの謂いにほかならない。 ス質を持った結果が生じたならばそれでもって充分である。徳 かくして、正しい行為を行なうことによって正しいひとは マ に即して生するところの行為の場合にあっては、これに反し生れ、節制的な行為を行なうことによって節制的なひとが生加 = て、なされた行為が一定の性質を持っているだけでは、正しれるということは妥当である。かかる行為をなさないでは、 い行為がなされるとか節制的な行為がなされるとはいえない いかなるひともよくなるべき機会すらないであろう。 のであって、かくいし 、うるためにはその上になお、これらの しかし、実際はかかる行為をなさないで論議冫、 こ逃避し、そ

10. 世界の大思想2 アリストテレス

未来についての期待であり、或いは過去についての記憶であ るが、そのうち最も快適なのは活動の場合であり、それは同 第八章 じくまた、最も愛すべきものでもある。善をなしたほうのひ とにとっては彼の行為の成果は変らない、 ( なぜなら行為の また、われわれは誰よりも自己を愛すべきであるか、また うるわしさは時を経て存続するからである、 ) だがそれを受 は何びとか他のものをより多く愛すべきであるか、というこ けたほうのひとにとってはその功益は過ぎ去ってゆくのであ とも間題となる。 る。 ひとびとは「自己を最も多く愛するひとびとーを非難し、 また、もろもろのうるわしきことがらの記憶は夬適である 醜悪だという意味を含ませて自愛的なひとびとと呼んでい が、有用であったという記憶は、全く快適でないか、なし る。そして、あしきひとはすべてを自己のために行なうもの はそれほど快適ではない 。もっとも待望の場合はこの反対で であるが、それもあしきひとであればあるほど一層それがは あるかも知れないが なはだしいのであるが ( だからしてかかるひとに対しては のみならす、愛するのは能動に、愛されるということは受加「彼は何ごとをなすにも自己を忘れない」などという苦情が 動に比すべきであるが、行動のより積極的な側にこそ、愛情 提出される ) 、これに反して、よきひととはすべてをうるわ とか、その他親愛を特徴づけるごとき種々の事態が帰属する しさのためになすひとであり、それもよきひとびとであれば のである。 あるほどそれだけ一層、うるわしさのゆえに、また友のため さらにまた、誰しも労苦して取得したものをより多く慈し と考えられている。 に行為し自己の利害を間わない、 む。例えば、財貨にしても、自分で稼いだひとは貰ったひとに だが、この論議には実際が適合しない点があり、またそれ 比してより多くそれを慈しむのである。しかるに、よくされにはわけがなくはない。すなわち、ひとは「最も真の意味に るということは労苦せずして可能であるが、よくするというおける親愛なるひと」をこそ最も愛すべきであるといわれて ことは厄介な仕事であると考えられるのである。 ( 母親のほ いるのであるが、或るひとにとっての「最も真の意味におけ うが子供への愛情においてまさっているのもこのゆえである親愛なるひと」とは、彼のために彼にとっての善をーーた る。けだし、子供の出生はより多く母親にとっての負担だか とえ誰ひとりとしてそのことを知らなくともーーー願ってくれ らであり、のみならず、子供が自分の子供であることをより るところのひとにほかならない。しかるにかかる事態が見出 よく知っているのも母親である。 ) こういったことは施善者だされ、したがってまた「親愛なひと」の規定であるところ の爾余のもろもろの特性が見出だされるのは、自己に対する の場合にも特性的なことがらであると考えられるであろう。