家がじぶんの事業の商人的部分全体をみすから営まねばなら とができる。だから、同一商人資本が、一生産部門に投下さ ぬばあいのそれよりも減少するということ。 れた諸資本の相異なる諸回転をつぎつぎに媒介しうるのであ ( 一 l) 、商人がこの事業に専心するがゆえに、生産者にとっ り、かくして商人資本の回転は、一個の産業資本の諸回転と ては、彼の商品がより速く貨幣に転形されるばかりでなく、 同一ではなく、したがって、この一個の産業資本家が準備せ 商品資本そのものが生産者の手でなされるばあいよりも速かねばならなかったであろう貨幣準備に代位するだけではな に姿態変換をなしとげるということ。 一生産部面における商人資本の回転は、もちろん、その (lll) 、商人資本ぜんたいを産業資本との関係において考察 部面の総生産によって制限されている。だがそれは、その部 この回転時 すれば、商人資本の一回転は、一生産部面における幾多の資面の個々の資本の生産の制限または回転時間 本の諸回転を表わしうるばかりでなく、相異なる生産諸部面間が生産時間によって定まるかぎりでは によっては制限 における若干の資本の諸回転をも表わしうるということ。第されていない。は、生産に三か月を要する一商品を提供す 一にあげたのは、たとえば亜麻布取扱業者が、三〇〇〇ポン るとしよう。商人は、この商品をたとえば一か月間に買って ドで一亜麻布生産者の生産物を買っては売ったのち、同一生は売ったのち、ほかの一生産者の同じ生産物を買っては売る 産者が同一分量の商品をふたたび市場に投する前に、ほかの ことができる。または、彼がたとえば一借地農業者の穀物を 一人または幾人かの亜麻布生産者の生産物を買っては売り、 売ったのち、その同じ貨幣で彼は第二の借地農業者の穀物を かくして同一生産部面における相異なる諸資本の諸回転を媒買っては売ることができる、等々。彼の資本の回転は、彼が 介するばあいである。第二にあげたのは、商人が、たとえば与えられた期間、たとえば一年間につぎつぎに買っては売る 亜麻布を売ったのちに今度は絹を買い、かくして他の生産部ことのできる穀物の分量によって制限されており、借地農業・ 一年間っ 者資本の回転は、ーーー流通時間を別とすれば、 面における資本の回転を媒介するばあいである。 づく生産時間によって制限されている。 一般的に注意すべきは、産業資本の回転は、流通時間によ しかるに、同一商人資本の回転は、相異なる生産諸部門の ってのみならず生産時間によっても限される、ということ である。商人資本の回転は、その資本が一定種類の商品だけ諸資本の諸回転をも同じように媒介することができる。 を取扱うかぎりでは、一産業資本の回転によってではなく、 同一商人資本が相異なる諸回転において、相異なる諸商品 同一生産部門のすべての産業資本の回転によって制限されて資本をつぎつぎに貨幣に転形するために役だっかぎりでは、 いる。商人は、 << の亜麻布を買っては売ったのち、がふたつまり諸商品資本をつぎつぎに買っては売るかぎりでは、こ たび商品を市場に投する前に、の亜麻布を買っては売るこ の商人資本が貨幣資本として商品資本にたいして果たす機能
なお個別的に述べる。 ( 四 ) 、より優良な機械による屑の減少。の生産性によって定まるのであって、それは同時に、生産手 一 = 工場建設上の進歩にかんするユーアの所論参照。 段としてのこの商品によって生産される諸商品の低廉の条件 ある与えられた生産期間における機械類および総じて固定であるばかりでなく、この商品を要素とする不変資本の価値 資本の磨損を減少させるものは、すべて、個々の商品を低廉減少、したがって利潤率増加の条件でもある。 にするーーけだし、各個の商品は、磨損費のうち各商品にか 産業の前進的発展から生ずる不変資本のこの種の節約の特 かってくる可除部分を自己の価格中に再生産するからーーば徴は、このばあい、ある産業部門における利潤率の増大は他 かりでなく、この期間の資本投下分を減少させる。修繕労働川の産業部門における労働の生産力の発展のおかげだ、という などは、それが必要となるのに比例して、計算では機械の原ことである。このばあいに資本家が得るものは、やはり、彼 費に算入される。機械の耐久度増大の結果たるこうした労働 じしんが直接に搾取する労働者の生産物ではないとしても社 会的労働の生産物たる利得である。かの生産力の発展が帰着 の減少は、それに応じて機械の価格を減少させる。 こうするところは、結局はつねに、活動させられる労働の社会的 この種のあらゆる節約については、やはりだいたい、 した節約は結合労働者にとってのみ可能であり、往々にして性格であり、社会内の分業であり、精神的労働ことに自然科 はいっそう大規模な作業によって初めて実現されうるという学の発展である。資本家がこのばあいに利用するものは、社 ことが、つまり、こうした節約は労働者のいっそう大きな結会的分業という全制度の利益である。このばあいに、資本家 の充用不変資本の価値を相対的に減少させ、したがって利潤 合を直接に生産過程で必要とするということが、いえる。 ところが他方では、このばあいに、ある生産部門たとえば率を増加させるものは、ほかの労働部門ーー資本家に生産手 における労働の生産力の発展である。 鉄・石炭・機械・の生産や建築術などにおける労働の生産力段を提供する部門ーー の発展が、 これは部分的にはさらに精神的生産、ことに もう一つの利潤率増大は、不変資本を生産する労働の節約 自然科学およびその応用の領域における進歩と関連しうる、 からではなく、不変資本そのものの充用における節約から生 他の産業部門たとえば繊維工業または農耕における生産ずる。労働者の集積および彼らの大規模協業によって、一方 手段の価値したがって費用の減少の条件として現象する。おでは不変資本が節約される。同じ建物、煖房Ⅱおよび燈火設 のすからこうしたことが生する、というのは、生産物として備などの費用は、大規模生産のばあいには、小規模生産のば ある産業部門から出てくる商品が生産手段として他の産業部あいよりも比較的に少ない。同じことは、動力機および作業 門にふたたび入りこむからである。こうした商品の低廉さの機についてもいえる。それらの価値は、絶対的には増加する 大小は、それが生産物として出てくる生産部門における労働 が、生産の累進的拡張とくらべ、可変資本の大いさまたは連
これらの相異なる諸勢力は、ときにはむしろ空間的に並行 の可変資本の相対的減少は、労働者人口の増加にたいし刺戟 して作用し、ときにはむしろ時間的に継起して作用する。周 (StacheI) を与えるが、他方ではたえす人為的過剰人口を創 期的には、相抗争する諸能因の衝突が恐慌となってあらわれ造する。価値からみた資本の蓄積は、使用価値の蓄積をいっ る。恐慌は、つねに、現存する諸矛盾の一時的な暴力的解決そう促進するために利潤率の低落によって緩慢化されるが、 にすぎず、攪乱された均衡を瞬間的に建設する暴力的爆発に他方、使用価値の蓄積はふたたび、価値からみた蓄積を促進 すぎない。 する。 * マルクスの原稿では Stimulus となっている。ーーー編集者。 矛盾は、まったく一般的に表現すれば、つぎの点ーー・すな 資本制的生産は、たえず、これらの内在的制限を克服しょ わち、資本制的生産様式は、価値およびこれに含まれる剰余 価値を度外視し、その内部で資本制的生産が行なわれる社会うとするが、しかしその克服は、それにたいしてこうした制 的諸関係をも度外視して、生産諸力を絶対的に発展させる傾限を新たにより強大な規模でおしつける手段によってのみ行 向をふくむが、他面ではそれは、実存する資本価値の維持おなわれる。 よびその最高度の増殖 ( すなわち、この価値のたえず加速さ 資本制的生産の真の制限は資本そのものである。というの れる増大 ) を目的とする、という点にある。資本制的生産様は、資本とその自己増殖が、生産の出発点および終結点・動 式の独自な性格は、資本価値の最大可能な増殖の手段として機および目的・として現象するということであり、生産は資 の、現存する資本価値にもとづいている。その目的達成の方本のための生産にすぎす、その逆に、生産手段は生産者たち 法は、利潤率の減少、現存資本の価値減少、および、すでに の社会のために生活過程をたえず拡大してゆくための単なる 生産された生産諸力を犠牲としての労働の生産諸力の発展、 手段ではない、ということである。だから、生産者大衆の収 をふくむ。 奪と窮乏化とにもとづく資本価値の維持および増殖がその内 現存資本の周期的な価値減少は、 これは、利潤率の低部でのみ運動しうる諸倒限、 この諸制限は、資本がその 落を阻止し、新資本の形成による資本価値の蓄積を促進する 目的のために充用せねばならぬ生産方法、生産の無制限な増 加・自己目的としての生産・労働の社会的生産諸力の無条件 ための、資本制的生産様式に内在する一手段であるが、 その内部で資本の流通Ⅱおよび再生産過程が行なわれるべき的発展・を志向する生産方法と、たえす矛盾する。手段 与えられた諸関係を攪乱し、したがって、生産過程の突然な社会的生産諸力の無条件的発展ーーが、現存資本の増殖とい 停滞および恐慌をともなう。 う、制限された目的とたえす衝突する。だから、資本制的生 生産諸力の発展にともなって生ずる、不変資本にくらべて産様式は、物質的生産力を発展させ、かっ、これに照応する
ーーを、たえずくりかえす。 あらたに市場に投するに要する期間中に、商人は、さきの三 さて、産業資本の単なる一実存形態としての商品資本にた万エルレを販売することができないとしよう。商人はあらた いする、この商品取扱資本の関係はどうか ? 亜麻布製造業に三万エルレを買うことができない。というのは、彼は未販 者についていえば、彼は、商人の貨幣でじぶんの亜麻布の価売の三万エルレの手持ちがあって、それがまだ彼にとっては 値を実現し、じぶんの商品資本の姿態変換の第一段階ーー・貨貨幣資本に再転形されていないからである。そこで停滞、再 幣への転形ーーー・を遂行したのであって、いまや、ほかの事情生産の中断が生する。なるほど亜麻布生産者は追加貨幣資本 が同等不変ならば、貨幣を〔一方では〕糸・石炭・労賃などにを自由にしていて、さきの三万エルレの販売とは無関係にこ 再転形し、他方では、じぶんの収入を消費するために生活手れを生産資本に転形し、かくして生産過程を続けうるかもし 段などに再転形することができる。つまり、収入の支出は別れよ、。ど、、、 オしオがこの想定は事態をなんら変化させない。さき として、再生産過程を続行することができる。 の三万エルレに投下された資本が考察されるかぎりでは、そ の再生産過程はやはり中断されている。だからここに、商人 だが、亜麻布の生産者たる彼にとっては、亜麻布の貨幣へ の姿態変換たる販売が行なわれたが、亜麻布そのものにとっ の諸操作は、生産者の商品資本を貨幣に転形するために総じ ては、貨幣への姿態変換はまだ行なわれていない。亜麻布は て行なわれねばならぬ諸操作ーー・流通Ⅱおよび再生産過程に あいかわらず、その第一の姿態変換を遂行すべきーー販売さおける商品資本の諸機能を媒介する諸操作 しがいの何も れるべきーー使命をもっ商品資本として市場にある。この亜のでもないことが、事実上、手にとるように明らかとなる。 麻布については、所有者の人物変換いがいには何もおこらな独立の商人のかわりに、生産者のたんなる事務員がもつばら かった。亜麻布じしんの使命からみれば、その過程上の位置この販売にーーそのうえ購入にもーー・・・従事するものとすれ からみれば、亜麻布はあいかわらず商品資本であり、販売さ ば、この関連は一瞬間も隠蔽されないであろう。 れるべき商品である。ただ、それは前には生産者の手にあっ だから商品取扱資本は、まったく、貨幣への転形過程を通 たが、いまや商人の手にあるだけである。亜麻布を販売する過すべき、市場で商品資本としての機能をはたすべき、生産 亜麻布の姿態変換の第一段階を媒介するーー・機能は、以者の商品資本いがいの何ものでもなく、ただこの機能がいま 前には、亜麻布を生産する機能をはたした後になお生産者がや、生産者の附随的操作としてでなく、資本家の特殊部類た はたすべき機能であったが、いまや生産者のかわりに商人に る商品取扱業者の専門的操作として現象し、特殊的投資の事 業として自立化される、というだけのことである。 よって引受けられ、商人の特殊事業に転化されている。 亜麻布生産者が、三〇〇〇ポンドの価値ある三万エルレを とにかく、このことは、商品取扱資本の流通の独自な形態
る者 ) になろうとし、または少なくとも出来るだけうまく切川分ーーの実存を内蔵するが、また他方では、生産者としての 1 りぬけようとしうるのであって、このばあいには各人は、隣生産者たちのあいだで形成される需要供給を理解するために 人のことなどはーー自分のなすことは自分だけでなく仲間全は、資本制的生産過程の総姿容への洞察が必要である。 資本制的生産にあっては、商品形態で流通に投げいれられ 体に影響するにもかかわらすーーーどうなろうとお構いなしで ある。 た価値量のかわりに、他の形態ーー・・・貨幣の形態なり他の商品 の形態なりーーーでの同等な価値量をひき出すことだけが問題 * 初版では「市場価格」。マルクスの原稿にもとづいて訂正。ーー・・編集者。 ではない。さらに、生産に投下された資本について、どんな 三 = 「一階級の各員が、全体の利得または所有物中のある与えられた分前ま たは可除部分よりも多くを得ることができないとすれば、彼らは利得を増加 生産部門で充用されているかをとわず同じ大いさの他の各資 するためにすぐ団結するであろう。」 ( 需要供給の関係が許しさえすれば、そ 本のばあいと同じーーまたはその資本じしんの大いさに比例 うする。 ) 「これは独占である。だが、総額を減少させる方法によってではあ したーー剰余価値または利潤をひき出すことが問題である。 るが、自分の分前の絶対額をとにかく増加させうると各員が考えるばあいに は、彼はしばしばそうするであろう。これは竸争である。」 ( 「需要の本性 : ・ だから、少なくとも最低限として、平均利潤をもたらす価格 にかんする諸原理の研究」、ロンドン、一八二一年、一〇五頁。 ) すなわち生産価格で商品を売ることが問題である。資本はこ 需要供給は価値の市場価値への転形を内蔵する。そして、 の形態において、一つの社会的勢力ーーこれにおける各資本 需要供給が資本制的基礎上で行なわれるかぎりでは、商品が家の持分は社会的総資本中の彼の持分に比例するーーとして 資本の生産物であるかぎりでは、需要供給は資本制的生産過の自意識をえる。 程を、したがって、商品の単なる売買とはまったく異なる錯 第一に、資本制的生産は、一定の使用価値にたいしては、 雑した諸関係を、内蔵する。これらの関係にあって問題なの総じてその生産する商品の特殊性にたいしては、絶対的に無 は、商品の価値の価格への形式的転化、たんなる形態変化で関心である。どの生産部門でも、資本制的生産にとっては、 はない。問題なのは、市場価値からの、さらにまた生産価格 剰余価値を生産すること、すなわち、労働の生産物において からの、市場価格の一定の量的背離である。単純な売買にあ一定分量の不払労働を取得すること、だけが問題である。そ っては、商品生産者としての商品生産者たちが出あえば充分れと同じように、資本に従属する賃労働は、その本性上、資 である。需要供給は、さらに分析してみれば、さまざまな階本の慾望に応じて転化されて、一生産部面から他の生産部面 級および階級部分ーーそのあいだで社会の総収入が分配されに投。せられねばならぬという、その労働の独自な性格にたい て収入として消費されるような、つまり、収入によって形成しては無関心である。 される需要を形成するような、さまざまな階級および階級部 第一一に、事実上、一生産部面はいまや他の生産部面と同じ
ちのこの混乱こそは、竸争戦のとりことなってその諸現象をによっても規定されているから、そしてこの配分はたえず変 ちっとも洞察しない実際的資本家が、仮象をとおしてこの過動するから、このことも、一般的利潤率の変動の恒常的な一 程の内的本質および内的姿態を認識することが全くできない 原因ーーといっても、やはり、この運動の非中断性および全 はすであることを、最もよく明らかにする。 面性によって大部分がふたたび自らを麻痺させる一原因であ 利潤率の増大および低落にかんして第一篇で展開されたする。 初版では「中断性」。あきらかに誤植である。マルクスの原稿では「恒 べての法則は、事実上っぎのような一一重の意義をもつ。 常性」となっている。ーー編集者。 ( 一 ) 、一方では、これらの法則は一般的利潤率の法則であ る。展開された仕方で利潤率を増大または低落させる幾多の (ll) 、各部面内では、その部面の利潤率の上昇的または低 相異なる原因のもとでは、一般的利潤率は毎日のように変動落的動揺が一般的利潤率に影響するための・したがってまた するはすだと考えるべきであろう。だが、一生産部面におけ局部的意義以上のものをえるための・時間を獲得するにたる る連動は他の生産部面における運動を止揚するはすであり、 ほど固定化する前に、その利潤率が長かれ短かれの期間にわ 諸影響は交錯し、麻痺させあう。諸動揺がけつきよく、どのたって動揺する余地がある。だから、こうした空間的および 方向に志向するかは後に研究するであろう。だが、それらは時間的限界の内部では、本巻第一篇で展開された利潤率の諸 緩慢である。個々の生産部面における諸動揺の突然性、多面法則がやはり妥当する。 . 性、および相異なる持続により、その一部分は時間的につぎ 資本の各部分は均等に利潤を生むというーー・・剰余価値の利 つぎと相殺されて、価格騰貴には価格下落が、価格下落には 潤への最初の転形についてのーー理論的見解は、一つの実際 価格騰貴がつづき、したがって諸動揺は局部的すなわち特殊的事実を表現する。産業資本の構成がどうあろうとも、すな 的生産部面に限られたものとしてとどまり、最後に、相異なわち、産業資本の運動させるものが四分の一の死んだ労働と る局部的諸動揺はたがいに中和しあう。各特殊的生産部面内四分の三の生きた労働であるか、四分の三の死んだ労働と四 では変動が生じ、一般的利潤からの諸背離が生するが、この分の一の生きた労働であるかをとわす、すなわち、産業資本 ・諸背離は、一面では一定期間内に相殺され、したがって一般が一方のばあいには他方のばあいの三倍だけの剰余労働を吸 的利潤率には反作用せす、また他面では、他の同時的な局部収 ( または剰余価値を生産 ) するか否かをとわす、ーー労働 的諸動揺によって止揚されるから、やはり一般的利潤率には の搾取度を同等とし、また個別的な諸差別 ( これらはどっち 反作用しない。一般的利潤率は、各部面における平均利潤率みち消減する、というわけは、われわれは、どちらのばあい によってのみならす、相異なる特殊的部面への総資本の配分にも全生産部面の平均構成だけを念頭におくのだから ) を度
ようなものである。各生産部面が同じ利潤を生ずる。また各迅速にできればできるほど、ますます迅速に行なわれる。第 生産部面は、その生産する商品が何らかの種類の社会的慾望一項の前提をなすのは次ぎのものである。社会の内部におけ を充たさないならば、目的のないものであろう。 る完全な商業的自由、および、自然的な独占いがいの、すな ところで、諸商品がその価値どおりに販売されるならば、 わち、資本制的生産様式そのものから生するすべての独占の すでに展開したように、相異なる生産諸部面では、そこに投排除。さらに、自由にされうる社会的資本の無組織的大量を、 下される資本集団の有機的構成が異なるに応じて、甚だしく個々の資本家たちに対立して集積する信用制度の発展。最後 に、資本家の支配下へのさまざまな生産部面の従属。この後 相異なる利潤率が成立する。ところが資本は、利潤率のひく い部面から去って、たかい利潤を生する他の部面に移る。こ者は、資本制的に搾取されるすべての生産部面にとっての価 うしたたえざる移出入により、一言でいえば、相異なる部面値の生産価格への転形が問題だと仮定されたばあい、すでに 場 と間への資本の配分ーー利潤率が一方では低落し他方では上昇前提中に含まれている。だが、この均等化そのものは、資本 価するに応じて行なわれるーーーによって、相異なる生産諸部面制的に経営されていない多数の大量的な生産部面 ( たとえば 小農民による農耕 ) が資本制的経営間に介在し、またこれと 市における平均利潤が同一になるような、したがって価値が生 産価格に転化するような、需要供給間の比率が生ずる。あるつながりあうばあいには、大きな障碍にでくわす。最後に、 飃与えられた国民的社会における資本制的発展が高度であれば人口の大きな密度。ーー第一一項の前提をなすのは次ぎのもの あるほど、すなわち、その国の事情が資本制的生産様式に適である。労働者が一生産部面から他の生産部面へ、または、 合していればいるほど、右の均等化が資本のために多かれ少一生産地から他の生産地へ移動することを妨げるあらゆる法 般なかれ達成される。資本制的生産の進展につれてその諸条件律の廃止。じぶんの労働の内容にたいする労働者の無関心。 も発展するのであって、資本制的生産は、その内部で生産過あらゆる生産部面における労働の、簡単労働への可能なかぎ る 程が行なわれる社会的諸前提の全体を、自己の独自的性格おりの還元。労働者たちの間でのあらゆる職業的偏見の根絶。 に 争 最後に、かっ特に、資本制的生産様式のもとへの労働者の従 よび自己の内在的諸法則に従属させる。 これは、 ( 一 ) 、資属。この点にかんする詳しい説明は競争にかんする特殊研究 章たえざる不均等のたえざる均等化、 に属する。 一本が可動的であればあるほど、すなわち、資本を一部面およ 第 び一場所から他の部面および他の場所へ移すことが容易にで 上述したところによって明らかなことであるが、各個の資 8 きればできるほど、 ( 一 l) 、労働力を一部面から他の部面へ、本家も、各特殊的生産部面のすべての資本家の総体も、総資 また、ある地域的生産点から他の地域的生産点へ移すことが本による総労働者階級の搾取およびこの搾取の度合に、一般
とができる。同様に、固定資本の諸要素の価値も多かれ少な た作業方法・あらたな組合せ・の充用によって自分の総生産 かれ減少する。そのうえ、一定の前提された価格諸関係は再物の個別的価値を一般的価値以上に高めるべき刺戟、すなわ 生産過程の条件をなし、したがって再生産過程は一般的な価ち、一定分量の労働の生産力を高め、不変資本にたいする可 変資本の比率を低下させ、かくして労働者を遊離させるべき 格下落によって停滞と混乱におちいる、という事情がある。 この攪乱および停滞は、資本の発展と同時に生ずる・かの前 刺戟、要するに人為的過剰人口を創造すべき剌戟を与えたで 提された価格諸関係にもとづく・支払手段としての貨幣の機あろう。さらに、不変資本そのものの諸要素の価値減少は、 利潤率の増大をふくむ一要素であろう。可変資本にくらべて 能を麻痺させ、一定期限っきの諸支払義務の連鎖を所々方々 で中断させるのであるが、この攪乱および停滞は、資本と同の充用不変資本の分量は増加したであろうが、この不変資本 量の価値は減少したかもしれない。生じた生産停滞は、その 時に発展する信用制度のこうして生ずる崩壊によってさらに 激化され、かくして、激烈で急激な恐慌、突然の強大な価値後の生産拡大ーー・資本制的な限界内でのーーを準備したであ ろう。 減少、および、再生産過程の現実の停滞および攪乱を生。せし め、したがって再生産の現実的減少を生ぜしめる。 こうして、循環があらたに通過されるであろう。機能停滞 * 初版では「顛覆」。マルクスの原稿にもとづいて訂正。ーー・編集者。 によって価値減少をきたした資本の一部分は、その旧価値を だが同時に、ほかの諸能因も作用したであろう。生産停滞ふたたび獲得するであろう。とにかく、拡大された生産諸条 は労働者階級の一部を遊休させ、したがって就業部分を、平件をもって、拡大された市場をもって、増大された生産力を 均以下へさえもの労賃の下落に甘んぜざるをえない状態におもって、同じ欠陥だらけの循環がふたたび行なわれるであろ くであろうが、この操作は、資本にとっては、平均賃銀のも だが、こうした極端な前提のもとでさえも、資本の絶対的 とで相対的または絶対的剰余価値が増大したばあいとまった 過剰生産は、絶対的過剰生産一般ではなく、生産手段の絶村 く同じ作用をする。繁栄期は労働者間の結婚をさかんにし、 子女のひどい死亡を減少させたであろうが、こうした事情は的過剰生産ではない。それが生産手段の過剰生産であるの 人口の現実的増加を含みうるとはいえーー・・現実に労働すは、生産手段が資本として機能すべきーーしたがって、その る人口の増加を含まないけれども、資本にたいする労働者の分量膨脹につれて膨脹する価値に比例してこの価値の増殖を 関係においては、まったく、現実に機能しつつある労働者の含むべき、追加価値を生みだすべきーーかぎりにおいてにす 数が増加したかのように作用する。他面、価格下落と競争戦ぎない。 とは、各資本家にたいし、あらたな機械・あらたな改良され だが、それにもかかわらず、これは過剰生産であろう。と
りこむ。彼の生産過程は継続され、中断されないで続行されて、再生産の規模が縮小されねばならぬであろう。そんなこ る。彼にとっては、商品の貨幣への転形がおこなわれた。こ とにはならないで、生産者はいまや、彼の資本のより大きな が、亜麻布そのものにとっては、すでに見たように、転形は部分をたえす本来の生産過程に充用し、より僅かな部分を貨 まだ行なわれていない。亜麻布はまだ、窮極的には貨幣に再幣準備として充用することができる。 転形されておらす、まだ、使用価値として消費にーー生産的 だが、そのかわりに今や、社会的資本のほかの一部分が、 消費にであれ個人的消費にであれーー入りこんでいない。亜商人資本の形態でたえす流通部面内に見いだされる。この部・ 麻布取扱業者がいまや市場で、亜麻布生産者がそこで最初に分は、つねに、商品を買っては売るためにのみ充用されてい る。かくして、この資本を所有する人物が変わっただけのよ 代表していたその同じ商轟資本を代表する。亜麻布生産者に とっては姿態変換過程が短縮されたが、しかしそれは、商人うに見える。 の手で続行されることになるだけである。 もし商人が、三〇〇〇ポンドで亜麻布をーーふたたび売る つもりでーー・・買うかわりに、 もし亜麻布生産者が、彼の亜麻布が現実に商品でなくなる この三〇〇〇ポンドをみすから まで、それが最後の買手ーー生産的または個人的消費者ーー 生産的に充用するならば、社会の生産的資本は増加するであ の手に移るまで待たねばならぬとすれば、彼の再生産過程は ろう。そのばあいには確かに、亜麻布生産者はじぶんの資本 のより大きな部分を貨幣準備として確保せねばならぬのであ 中断されるであろう。または、それを中断させないために は、彼はじぶんの操作を縮小して、彼の亜麻布のより僅かの って、そのことは、いま産業資本家に転化した商人も同様で 部分を糸・石炭・労働などにーー要するに生産資本の諸要素ある。他方、もし商人が商人としてとどまるならば、生産者 は販売時間を節約して、この時間を生産過程の監督に充用で にーー転形し、より大きな部分を貨幣準備として手もとに留 きるが、商人の方は、じぶんの全時間を販売に使わねばなら 保し、そうすることによって、彼の資本の一部分が商品とし て市場にあるあいだ他の一部分が生産過程を続行しうるよう に、したがって、後者が商品として市場にあらわれる時には 商人資本が必要な比率を超過しなければ、つぎのことが認一 前者が貨幣形態で還流するように、しなければならない。彼められうる。 の資本のこうした分割は、商人の介入によっては免れない。 ( 一 ) 、分業の結果として、もつばら売買に従事する資本 だが、商人の介入がなければ、流通資本のうち貨幣準備の形 ( 商品を購入するための貨幣のほかに、商人的事業をいとな 態で現存する部分が、つねに、生産資本の形態で就業する部むために必要な労働や、商人の不変資本たる倉庫や、運輸な 分との比率においてより大でなければならず、それに応じ どに投ぜられねばならぬ貨幣もこれに属する ) は、産業資本
124 らである。だが他面では、また「多くの工場主は彼らの雇傭する労働れるあらゆる変容・資本家たち相互間のあらゆる相互的な蹣 者の住む家屋の所有者であ「て、少なくとも彼らの若干は、無条件的着および騙取・さらにあらゆる好都合な市場選択・を度外視 に、滞納家賃の一部分を後に支払わせようと当てにしている」からで すれば、原料が安いか安くないかーー原料購入の専門知識が ある。 ( 九六頁。 ) 多いか少ないか によって、充用される機械が生産的で合 ーナル・オスポーン氏は一八六四年一〇月二二日に、じぶんの国 目的的で低廉であるかどうかによって、生産過程のさまざま 会選挙民たちにたいする演説でいわく、 ランカシャーの労働者は な段階の全仕組みが完全であるかないか、材料の浪費がなく 古代哲学者 ( ストア派 ) のようにふるまった、と。羊のようにではな なっているかどうか、指導・監督が簡単かっ有効であるかど うか、等々によって、利潤率が甚だしく相違しうるというこ と、これである。要するに、一定の可変資本にとっての剰余・ 価値は与えられたものとしても、この同じ剰余価値が、多く 第七章補遣 の利潤率となって現われるか僅かの利潤率となって現われる 、刀 、したがって、多量の利潤を提供するか少量の利潤を提供 . 本編で想定するように、それぞれの特殊的生産部面で取得するかは、資本家じしんなり、彼の助監督および事務員なり の、個人的才器に依存することが甚だしい。一〇〇〇ポンド される利潤の分量は、その部面に投下された総資本の生みだ の労賃の産物である一〇〇〇ポンドという同じ剰余価値が、 す剰余価値の総額に等しいとしても、それでも、ブルジョア は、利潤が、剰余価値すなわち不払の剰余労働と同一なもの事業では九〇〇〇ポンド、他の事業では一万一〇〇〇ポ ンドの不変資本に関係するとしよう。のばあいには、 p 、リ だとは解しないであろう。しかも、それはつぎの理由からで 1000 1000 日 1096 であり、のばあいには、 p 、日 Ⅱ 8 ミ 96 ある。 10000 12000 ( l) 、流通の過程では、ブルジョアは生産過程を忘れる。 である。総資本がではでよりも相対的に多くの利潤を生 商品の価値の実現ーー商品の剰余価値の実現をふくむ みだすのであるが、それはけだし、どちらのばあいにも投下 が、彼にとっては、この剰余価値の作出たる意義をもつ。 可変資本は一〇〇〇ポンドであり、またこれから得られる剩 ( 原稿に空白があるのは、マルクスがこの点を詳しく展開す余価値も一〇〇〇ポンドであり、つまり、どちらの場合にも るつもりだったことを示唆する。 ・エンゲルス。 ) 同等数の労働者の同等な大いさの搾取が行なわれるにもかか (ll) 、労働の搾取度を同一と前提すれば、つぎのことはすわらす、では利潤率がでよりも高いからである。同等な でに明らかである。というのは、信用制度によってもたらさ労働搾取のもとでの同一分量の剰余価値の表示のこうした