生産者 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想20 マルクス 資本論3
391件見つかりました。

1. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

経済的な条件のもとでーー生産する点にあるということ、こ在を前提する。だから、資本家が彼のもって機能すべき資本 のことは、つぎのような対立、すなわち、利子は資本家が資の所有者であれば、彼は、利潤または剰余価値の全部を収得 本家としての何らの機能も果たさず単なる資本所有者にすぎする。彼がそうするか、一部分を法律上の所有者としての第 なくても彼に帰属するが、これに反して企業者利得は機能資三者に支払わねばならぬかは、労働者にとっては全くどうで 本家ーーたとえ彼が自分のもって機能すべき資本の非所有者もよい。かくして、一一種の資本家のあいだでの利潤の分割理 であってもーーに帰属するという対立によって、完全に忘れ由が、知らぬまに、分割されるべき利潤の、後にどう分割さ られる。利潤つまり剰余価値が分裂する両部分の対立的形態れるかはともあれ資本としての資本が再生産過程から引きだ によって、この両部分は剰余価値の部分にすぎぬこと、およす剰余価値の、実存理由に転化する。利子は企業者利得に。 び、剰余価値の分割は剰余価値の本性、その起源、およびそ企業者利得は利子に・というふうに、両者はたがいに対立し あうが労働には対立しないということから、企業者利得プラ の実存条件をなんら変化させえないことが、忘れられる。 再生産過程では、機能資本家は、賃労働者にたいして他人ス利子、すなわち利潤は、さらに剰余価値は、何にもとづく の所有としての資本を代表し、貨幣資本家は、機能資本家に か ? ということになる。利潤・剰余価値・の両部分の対立 だが利潤は、利潤のこの分割が行なわれる以 よって代表されたものとして労働の搾取に参加する。労働者的形態にだ , にたいする生産手段の代表者としてのみ、能動的資本家は、 蔔に、この分割が問題となりうる以前に、生産されるのであ 労働者を自分のために労働させるーーまたは、生産手段を資る。 本として機能させるーーーことができるということ、このこと 利子生み資本は、貸付貨幣が現実に資本に転化されて、利 得 不は、再生産過程における資本の機能が再生産過程の外部での子を一部分とする或る超過分が生産されるかぎりでのみ、利 子生み資本たる実をしめす。だがこのことは、利子生み資本 業単なる資本所有に対立することによって忘れられる。 と事実上、利潤すなわち剰余価値の両部分が利子および企業には生産過程から独立して利子を生む属性がそなわってい 仔 者利得としてとる形態では、労働にたいする何らの関係も表る、ということを止揚しない。労働力も、それが労働過程で 章現されていない。というのは、この関係は、労働と利潤また実証され実現されるばあいにのみ、その価値創造力を実証す 一 ~ はむしろ剰余価値ーー右の両部分の総和・全体・統一としてる。だがこのことは、労働力が即自的・潜勢的に、能力とし 第 のーーとのあいだにのみ実存するからである。利潤が分割さて、価値を創造する活動であり、かかるものとして、過程か ら初めて生ずるのではなくむしろ過程に前提されているとい れる比率、および、そのもとでこの分割が行なわれる相異な る権利名義は、既成のものとしての利潤を前提し、利潤の定うことを、排除しない。労働力は、価値を創造する能力とし

2. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

312 的形態における対象化された労働、ーー・・現実的生産過程で生ださないで、資本が怠惰な所有として実存するにすぎぬよう 産手段の姿態をとる価値が、自立する力として生きた労働力な規定性に対立する資本の機能から導きだす。この対立は、 に対立し、不払労働を取得するための手段だということ、お彼が借受資本をもって操作するばあい、したがって利子と企 よび、この価値は他人の所有として労働者に対立するがゆえ業者利得とが一一人の相異なる人物に帰属すみばあいには、直 にこうしたカであるということ、の表現にほかならない。だ接に現存する対立として現象する。企業者利得は、再生産過 が他面、利子の形態では、賃労働にたいするこの対立が消減程における資本の機能から、したがって機能資本家が産業資 している。というのは、利子生み資本は、利子生み資本とし本および商業資本のこうした機能を媒介する諸操作・活動・ ては、賃労働を対立物とするのではなく、機能資本を対立物の結果として、発生する。だが、機能資本の代表者たること とするからである。貸付資本家は、貸付資本家としては、直は、利子生み資本を代表することのような空職ではない。資 接には、再生産過程で現実に機能している資本家に対立する本制的生産の基礎上では、資本家は生産過程ならびに流通過 が、賃労働者ーー・・・これは、ほかならぬ資本制的生産の基礎上程を指揮する。生産的労働の搾取は、資本家がこれをみずか では生産手段を収奪されているーー・・には対立しない。利子生ら行なうか、自分の名前で他人に行なわせるかをとわず、努 み資本は、機能としての資本に対立する所有としての資本で力を要する。だから、彼の企業者利得は、彼にとっては、利 ある。だが資本は、それが機能しないかぎりでは、労働を搾子に対立して、資本所有から独立するものとして、むしろ非 所有者としてのーーー・・労働者としてのーー彼の機能の成果とし 取せす、労働とは対立しない。 他面、企業者利得は賃労働とは対立せず、利子とのみ対立て、現象する。 する。 したがって、必然的に、彼の頭の中では、つぎのような考 第一に、平均利潤を与えられたものと前提すれば、企業者え、すなわち、彼の企業者利得は、ーー賃労働にたいし何ら 利得の率は、労賃によっては規定されないで利子歩合によっ かの対立をなすものであり、他人の不払労働に他ならぬもの て規定される。その高低は利子歩合に逆比例する。 であるどころか、 むしろそれ自身、労賃であり、監督賃 であり、 wages of superintendence of labo であって、 PIII 「企業者利潤が資本の純利潤によって定まるのであって、後者が前者に よって定まるのではない。」 ( ラムジ 1 「富の分配にかんする一論」、一一一四 この賃銀が普通の賃労働者のそれよりも高いのは、 (l) 、そ 頁。純利潤はラムジーにあっては常に利子に等しい。 ) の労働が複雑労働だからであり、 ( 一 l) 、彼が自分じしんに労 第一一に、機能資本家は企業者利得にたいする自分の要求、 賃を支払うからである、という考えが生する。資本家として つまり企業者利得そのものを、じぶんの資本所有からは導きの彼の機能は、剰余価値すなわち不払労働を・・ーーしかも最も ( 七三 )

3. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

貨幣を生む貨幣・という、こうした自動的物神が純粋に作り われわれがもつのは、資本の没概念的形態、生産諸関係の最 あげられているのであって、資本は、この形態においては、 高度の顯倒および物象化たる利子生み姿態、資本じしんの再 もはや、その成立のなんらの痕跡もおびていない。社会的関生産過程に前提されている資本の単純な姿態である。貨幣ま 係が、物たる貨幣がそれ自身にたいする関係として完成され たは商品が再生産から独立してそれ自身の価値を増殖するこ ている。資本への貨幣の現実的転化のかわりに、 ここでは、 とができるということ、 もっとも著しい形態での資本神 こうした転化の無内容な形態だけが現われる。労働力のばあ秘化。 いと同じように、貨幣の使用価値は、ここでは、価値を 資本を価値または価値創造の自立的源泉として説明しよう 貨幣そのものに含まれているよりも大きな価値をーー・創造すとする俗流経済学にとっては、この形態、すなわち、そこで るという使用価値となる。貨幣としての貨幣が、すでに潜勢は利潤の源泉がもはや認識できない形態、そこでは資本制的 的には自らを増殖する価値であり、また、かかるものとして生産過程の成果が 過程そのものからひき離されてーーー自 貸付けられるのであって、この貸付は、この独自な商品にと立的定在を受けとる形態は、もちろん、おあつらえの見つけ っての販売の形態である。価値を創造し利子をもたらすこと ものである。 が貨幣の属性となるのは、梨の実を結ぶことが梨の樹の属性 貨幣資本において初めて、資本は、商品ーーーみすからを増 であるのと同様である。そして、こうした利子を生な物とし殖するというその素質が、そのときどきの利子歩合で示され て、貨幣の貸手はじぶんの貨幣を売る。それだけでは充分で る固定価格をもっ商品ーーとなった。 よい。現実に機能する資本も、すでに見たように、機能資本 利子生み資本として、しかも、利子生み貨幣資本としての としてでなく資本自体として、貨幣資本として、利子をもたその直接的形態 ( ここでわれわれに関係のない他の利子生み らすというふうに自らを表示する。 資本諸形態は、この形態からふたたび誘導されているのであ このことも、ねじゅがめられる。利子は、利潤ーーーすなわって、これを内蔵する ) において、資本は、主体・売ること ち機能資本家が労働者から搾りとる剰余価値ーーの一部分に のできる物・としての純粋な物神形態ーを受けとる。第 すぎないのに、その利子がいまや逆に、資本の本来的果実・ 一に、資本がたえず貨幣ーーこの貨幣形態においては、資本 本源的なもの・として現象し、利潤の方は、いまや企業者利のすべての規定性が消減し、資本の現実的諸要素が眠にみえ 得の形態に転化して、再生産過程で附加される単なる添加物なくなっているーーとして定在することによって。貨幣こそ および追加物として現象する。ここでは、資本の物神的姿態 は、まさに、そこでは使用価値としての諸商品間の区別が消 が、資本物神という表象が、完成している。ーにおいて減し、したがってまた、これらの商品とその生産諸条件とか

4. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

も、ー・各生産部門に定着された生産手段が容易には一部面き、亜麻や羊毛を紡ぎ・染め・織り、革をなめし、木造家屋 から他部面に移転されえないかぎりは、したがって、相異なを建て・修繕し、道具や器具をつくり、指物や鍛冶をするこ とも稀れではない。したがって、家族または家族集団はだい る生産諸部面間の相互関係が特定の限界内では疎遠な諸国ま たいにおいて自給する。 たは共産主義的諸共同体間のそれのごとくであるかぎりは、 妥当する。」 ( マルクス『資本論』第三巻、一一〇一一ー三頁 さて、こうした家族が他の家族から交換によって入手 〔本巻一五四頁〕。 ) または購買ーーせねばならぬ僅かな物は、ドイツでは、一九 マルクスが第一二部をもういちど推敲するにいたったとすれ世紀の初葉にいたるまで、主として手工業的生産の対象物か ら、つまり、その製法が農民に知られていなかったのでは決 ば、彼は疑いもなくこの章句をさらに著しく詳論したであろ してないが、原料が手に人らないか買った物の方がはるかに う。そのままでは、この章句は、問題点について語るべきこ とのスケッチ的輪廓を与えているにすぎない。だからわれわ優秀または安価だったので農民がみずから生産しなかったよ うな物から、成りたっていた。つまり中世の農民は、じぶん れは、この点にもっと詳しくたち人ろう。 誰でも知っているように、社会の端初では、生産物が生産が交換によってえる物の製造に必要な労働時間を、かなり正 者たちじしんによって消費され、この生産者たちは、多かれ確に知っていた。村の鍛冶屋や車師は農民の鼻さきで働いて いた。また、裁縫師や靴師も、まだ私の少年時代には、わが 少なかれ共産主義的に組織された共同体に自然発生的に組織 されているのであって、右の生産物の超過分を他人と交換すライン地方の農家につぎつぎとたちょって、じぶんの作った ること これによって生産物の商品への転化が生ずる 材料を衣類や靴に仕上げていた。農民も、農民に売った人々 は、後代のことであり、最初には個々の異種族的諸共同体間 も、みすから労働者〔直接的生産者〕であり、交換された財貨 だけで行なわれるが、後には共同体内部でも行なわれるよう は各人の自己生産物であった。これらの生産物の製造に彼ら になって、大なり小なりの家族諸集団への共同体の解体に本は何を充用したか ? 労働であり、労働だけである。道具の 質的に寄与する。だが、この解体後も、交換する家長は依然填補のためにも、原料を作るためにも、その加工のために 、こよ何も支出しなかっ として労働農民であり、じぶんの必要品のほとんど全部を家も、彼らは自分じしんの労働力いがし冫。 族の援助によって自己の囲地で生産するのであって、必需品 た。だから彼らは、彼らのこうした生産物を、他の労働しつ の小部分だけを、自己の超過生産物と交換して外部からえる。 つある生産者の生産物と、それらの生産物に費された労働時 家族は、農耕や牧畜を営むばかりでなく、その生産物を完成 間に比例させて交換する以外に仕方がありえようか ? これ 消費財に仕上げ、時にはなお自ら手日で粉をひき、パンを焼らの生産物に費された労働時間が、交換されるべき大いさの

5. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

破産裁判所での審理によって明らかにされたところでは、こ Ⅱ 1050 。ホンドである。資 であって、 1000 十 ( 1000X ーー ) 20 の監督賃は、概して、この名目上の重役たちによって現実に本としての一〇〇〇ポンドの価値は一〇五〇ポンドである。 なされる監督に逆比例している。 すなわち資本は単純な量ではなく、量的関係であり、みすか らを増殖する価値・ある剰余価値を生産した元金・としての 自分じしんにたいする、元金・与えられた価値・としての関 第二四章利子生み資本の形態における 係である。また、すでに見たように、すべての能動的資本家 資本関係の外面化 にとっては、彼らが自己資本をもって機能するか借受資本を もって機能するかをとわず、資本としての資本は、この直接 にみずからを増殖する価値としてあらわれる。 利子生み資本において、資本関係は、そのもっとも外面的 化 これは、資本の本源的出発点であり、範式 面でもっとも物神的な形態をえる。このばあいに、われわれが ーにおける貨幣が両極ーに整約されたものであって、 のもつのは、 (.5—t 、より多くの貨幣を生みだす貨幣、両極を この (..5 は十」であり、より多くの貨幣を創造する貨幣で 関媒介する過程なしに自らを増殖する価値、である。商人資本 ある。これは、没感性的概括に総括された、資本の本源的で 資ーーにおいては、少なくとも資本制的運動の一般的形 一般的な範式である。これは、生産過程と流通過程との統一 サ態が現存する、といっても、この運動は流通部面内だけにと たる、したがって一定の期間に一定の剰余価値をもたらす、 態 どまり、したが 0 て、利潤はたんなる譲渡利潤として現象す完成した資本である。利子生み資本の形態では、この関係が 形るのであるが。だが、それでも利潤は、社会的関係の生産物直接的に、生産過程と流通過程とに媒介されないで、現象す 本として現われ、たんなる物の生産物としては現われない。商 る。資本が利子の、資本じしんの増殖の、神秘的で自己創造 み人資本の形態といえども、対立する両段階の統一たる一過程者的な源泉として現象する。物 ( 貨幣、商品、価値 ) がいま 孖を、対立する二つの事象たる商品の購買と販売とに分裂するや、単なる物としてすでに資本であ「て、資本はたんなる物 一運動を、あらわす。これが、利子生み資本の形態ーで 章 として現象する。総再生産過程の成果が、物におのずからそ 四は消減している。たとえば、一〇〇〇ポンドが資本家によっ なわる属性として現象する。貨幣を貨幣として支出するか、 第て貸出され、利子歩合を五 % とすれば、一年間の資本として資本として貸付けるかは、貨幣のーーすなわち、いつでも交 の一〇〇〇ポンドの価値は、 C 十 Cz 、 この O は資本であ換されうる形態にある商品のーー所有者しだいである。だか り、は利子歩合、つまりここでは 5 である ら、利子生み資本においては、自分じしんを増殖する価値・ 100 20

6. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

る。 ら成りたっ諸産業資本間の区別が消減している形態である。 かように利子は、物に根をおろすように貨幣資本に根をお 貨幣は、そこでは価値ーーーこのばあいには資本ーーが自立的 交換価値として実存する形態である。資本の再生産過程におろしている ( 資本による剰余価値の生産がこの場合にはそう いては、貨幣形態は一つの消減的形態であり、一つの単なる見える ) ということ、これこそはルターが、高利にたいする 通過的契機である。これに反して貨幣市場では、資本はつね彼の素朴な罵倒においてひどく気にしたものである。利子を にこの貨幣形態で実存する。ーー第二に、資本によって生み要求してもよいのは、一定の期限に返済が行なわれなかった だされた・このばあいにはやはり貨幣の形態での・剰余価値ために、貸手ーー彼の方では支払わねばならない いろと空費がかかる場合、または、彼がたとえば畑を買うこ は、資本そのものに帰属すべきもののように見える。樹木の 生長と同じように、貨幣を生むということ ( トーホス〔生まれとによって得たかもしれぬ利潤が右の理由で彼のものになら ない場合だ、ということを述べたのち、ルターはつづけてい 化たもの、転じて利子、の意味〕 ) が、この貨幣資本としての形態 をとる資本の属性のように見える。 「私がお前にそれ ( 一〇〇グルデン ) を貸したので、私が一方では支 係利子生み資本においては、資本の運動が簡略体に要約され 本ている。媒介過程が省略されており、かくして資本一〇〇〇払いえず他方では買いえないという、かくして両方で損害をこうむら ねばならぬという、損害の賠償として私は利息をえるのであって、こ るが、それ自体は一〇〇〇であるが、特定期間がたてばーーーあ ぶどうしゅ れは、生じた損害と得そこなった利得とをおぎなう二重利子 (duplex おたかも、あなぐらにおける葡萄酒が特定期間後にはその使用 interesse, damni emergentis et lucri cessantis) と - 呼・はれる。 一一〇〇に転化する物として、固 盟価値を改善するように ある男が一〇〇グンデンを貸して損害をこうむったので、その損害に 形 定されている。資本はいまや物であるが、物として資本であ の たいする至当な弁償を要求すると聞くや、彼らはさっそく、一〇〇グ ルデンごとにこうした二重の賠償、すなわち支払上の空費と買いそこ 淋る。貨幣はいまや恋を宿している。それが貸付けられるか、 なった畑との賠償をとるのであって、それはあたかも、その一〇〇グ または再生産過程に投下されれば ( その所有者としての機能 子 ルデンには当然こうした二重の賠償がっきものであるかのごとくであ 資本家にたいし、企業者利得とは別に利子をもたらすかぎり り、かくして一〇〇グルデンあれば、彼らはこれを貸出して、彼らが 章は ) 、それが睡っていても起きていても、家にいても旅して ゞー・カ 2 》 こうむってもいないこうした二重の損失について計算する。 一一いても、昼も夜も、それには利子がつく。かくして利子生み ら、誰からもこうむらない、証明も計算もできない、虚構の損害を隣 第 貨幣資本において ( また、およそ資本は、その価値表現から 人の貨幣によってつぐなう者、ーーそれは高利貸である。こうした損 みれば貨幣資本である、あるいは、いまや貨幣資本の表現た害を、法律家は、真実ならぬ・幻想上で生ずる・利子 (non ve 「 um る意義をもっ ) 、貨幣蓄蔵者の敬虔な願望が実現したのであ sed phantasticum interesse) と呼ぶ。各人が自分で空想する損害。

7. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

302 まざまな段階に関連する動揺は度外視される ) 、均等化が、特ぎりでは、現象するものはそれらの斉一性でなく、それらの 殊的生産諸部面にかんする資本の移入または移出によって媒差異性である。しかるに一般的利潤率そのものは、利潤の最 介される生産の拡大または縮小、すなわち諸産業資本によっ低限界としてのみ現象し、現実的利潤率の経験的な、直接に て市場に投ぜられる商品分量の膨脹または収縮、によって生眼にみえる姿態としては現象しない。 われわれは、利子率と利潤率との右の区別を強調するにさ ずる。こうしてひきおこされる諸商品の平均的市場価格の生 いし、利子歩合の固定をたすける次ぎの一一つの事情を度外視 産価格への均等化によってこそ、特殊的利潤率の一般的また ( 一 ) 、利子生み資本の歴史的先在と、伝統的につ は平均利潤率からの背離が修正されるのである。この過程はする。 けっして、利子生み資本のように、産業資本または商業資本たえられた一般的利子歩合の実存。 ( 一 l) 、世界市場が一国の がかかるものとして買手にたいする商品であるというふうに生産諸条件に係わりなく利子歩合の確立におよぼす影響が、 利潤率におよぼすその影響にくらべて遙かに大きいこと。 この過程が現象するかぎり は現象せず、また現象しえない。 平均利潤は、直接に与えられた事実としては現象しない では、それは、諸商品の市場価格の生産価格への動揺および で、研究によって初めて確立されうべき相対立する諸動揺の 均等化においてのみ現象し、平均利潤の直接的確定としては 現象しない。一般的利潤率は事実上、 ( 一 ) 、総資本によって均等化の最終成果として現象する。利子歩合については異な 生産される剰余価値により、 ( 一 I) 、この剰余価値が総資本のる。利子歩合は、少なくとも地域的なその一般妥当性におい 価値にたいする比率により、および ( 一一 l) 、竸争ーーといってては、日々に固定される事実であり、産業資本および商業資 も、ただそれが、特殊的生産諸部面に投下された諸資本がそ本にとっては、むしろその操作にさいし計算上の前提および れらの相対的大いさに比例して右の剰余価値のうちから同等項目として役だつ事実である。二、三、四、五 % 〔の利子〕を な配当をひき出そうとする運動であるかぎりでの竸争ーーーに生むことが、一〇〇ポンドという各貨幣額の一般的能力とな よって規定されている。だから一般的利潤率は、事実上、そる。気象報告が気圧や温度の状態を正確に示すといっても、 の規定を、需要供給の関係によって直接的かっ無媒介的に規それは、取引所報告が、あれこれの資本についてでなく、貨 定される市場利子率とはまったく異なる・はるかに複雑な諸幣市場にあるー、、・・すなわち総じて貸付可能なーー資本につい て利子歩合の状態を示すほど正確なものではない。 原因から汲みだすのであり、したがって、利子歩合がそうで 貨幣市場では、貸手と借手とだけが対立する。商品は貨幣 あるような、明白な与えられた事実ではない。さまざまな生 という同一形態を有する。資本が特殊的な生産Ⅱまたは流通 産諸部面における特殊的諸利潤率そのものは、多かれ少なか れ不確実なものである。だが、それらの利潤率が現象するか部面に投下されるに応じてとるあらゆる特殊的姿態は、ここ 402

8. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

とへの労働者の従属および剰余価値の生産によってである ) 。働力の搾取過程においてにすぎない。 だが、利子生み資本については事情が異なるのであって 1 だが、この復帰の契機においては媒介は消減している。定在 するものはまたは十」 ( この」 (.-) だけ増加した価値額このことこそ、利子生み資本の独自な性格をなす。じぶんの の実存するのが、貨幣の形態でか、商品の形態でか、生産諸貨幣を利子生み資本として増殖しようとする貨幣所有者は、 要素の形態でかはとわない ) であり、最初に投下された貨幣それを第三者に譲渡し、それを流通に投じ、それを資本とし てーー彼じしんにとってのみならす他人にとっても資本とし 額、。フラス、これをこえる超過分たる実現された剰余価値、 に等しい貨幣額である。そしてまさに、資本が、実現されたてーー商品たらしめる。それは、その譲渡者にと 0 て資本で 資本・増殖された価値・として実存するこの復帰点では、こあるばかりでなく、そもそもから資本として、剰余価値・利 潤・を創造するという使用価値をもっ価値として、第三者に . この復帰点が想像的または現実的に静止点と の形態では して固定されるかぎりはーー資本はけ 0 して流通に入りこま譲渡される。すなわち、運動において自らを維持し、機能し ないのであ 0 て、むしろ、全過程の成果として流通から引上おえた後に最初の支出者 ( ここでは貨幣所有者 ) の手に復帰 げられたように見える。資本がふたたび支出されるばあいにする価値として。だから、ある期間だけ彼から遠ざかる」ー は、それは資本として第一一一者に譲渡されるのではなく、単純その所有者の占有からしばらく機能資本家の占有に移る にすぎず、つまり、支払われてしまうのでも、売渡されるの な商品として第三者に販売されるか、単純な貨幣として第三 でもなく、貸出されるにすぎない。すなわち、一定の期間後 者の商品と取りかえられるのである。資本はその流通過程で に (l) 、その出発点に復帰し、しかも (ll) 、実現された資 は、資本としてでなく、商品または貨幣としてのみ現象する のであ 0 て、この商品または貨幣はここでは対他的にのみ資本としてーー剰余価値を生産するという自己の使用価値を実 , 本の定在である。商品や貨幣がここで資本であるのは、商品現した資本としてーー復帰するという、条件のもとで譲渡さ が貨幣に転形し貨幣が商品に転形するかぎりにおいてではな間れるにすぎない。 資本として貸付けられる商品は、その性状に応じて、固定 く、購買者または販売者にたいするそれらの現実的関連にお いてではなく、たんに、それらの観念的諸連関・ーー資本家自資本または流動資本として貸付けられる。貨幣はどちらの形 身にとっての ( 主観的にみれば ) 、または、再生産過程の諸態でも貸付けられうるのであ 0 て、たとえば、利子とともに . たえす資本の一部も還流するというふうに終身年金の形態で ] ーにおいてにすぎない。 契機としての ( 客観的にみれば ) 資本が資本として実存するのは、現実的運動においてであっ返済されるばあいには、固定資本として貸付けられるのであ て、流通過程においてではなく、ただ、生産過程すなわち労る。ある種の商品は、たとえば家屋、船舶、機械などのよう

9. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

公的場所に横たわっていることもありうるが、それから生す過程ではいかに機能するか ? である。 ) この費用は、商品としての生産物の経済的形態から生す る費用は、商人がそれを投下せねばならぬかぎりは、第三者 る。 によって商人の貸方に記入される。すべてこうしたことは、 ほんらいの卸売商業に見られるのであって、そこでは商人資 産業資本家たちじしんが彼らの諸商品を直接に売りあうた つまり、客観的にいえば諸商品の流通 木が、もっとも純粋に、ほかの諸機能ともっとも少なく混和めに失う労働時間 して、現象する。運送業者や鉄道業者や船舶業者は「商人ー 時間ーーが、これらの商品にまったく何らの価値も附加しな ではない。 ここにわれわれが考察する費用は、購買費と販売 いとすれば、この労働時間は、それが産業資本家でなく商人 この費用は計算、簿 費である。すでに以前に述べたように、 によって負担されることになっても、その性格は変わらない 記、市場取引、通信などに帰着する。これに必要な不変資本ということは明らかである。商品 ( 生産物 ) の貨幣への転 は、事務所、用紙、郵税などからなる。その他の費用は、商形、および、貨幣の商品 ( 生産手段 ) への転形は、産業資本 業的賃労働者の充用に投下される可変資本に帰着する。 ( 発の必要な機能であり、したがって〔産業〕資本家ーー・彼は事 送費、運輸費、関税前払などは、部分的には、商人が商品購実上、人格化された・自己の意識と意志とを与えられた・資 の必要な操作である。だが、これらの 入のさいに投下するもの、したがって彼にとっては購買価格本にほかならない 機能は、価値を増加させるものでも、剰余価値を創造するも に入りこむもの、と見なされうる。 ) これらい 0 さいの費用がかかるのは、商品の使用価値の生のでもない。商人は、これらの操作をなすことによ「ては、 または、流通部面における資本諸機能の媒介を生産的資 産においてではなく、商品の価値の実現においてである。そ れは純粋な流通費である。それは直接的生産過程には入りこ本家が行なわなくなった後につづけることによっては、 これらの操作に要費 まないが、流通過程に入りこみ、したがって再生産の総過程産業資本家にとって代わるにすぎない。 に入りこむ。 する労働時間は、資本の再生産過程における必要な操作に費 この費用のうち、われわれがここで関心をもっ唯一の部分されるのではあるが、なんらの価値も附加しない。商人がこ は、可変資本に投下される部分である。 ( そのほかに研究すれらの操作をしないとすれば ( したがってまた、それに必要 な労働時間を充用しないとすれば ) 、彼は、産業資本の流通 べきは、第一には、必要労働だけが商品の価値に入りこむと いう法則は、流通過程ではいかにして行なわれるか ? であ代理者として資本を充用しないのであり、産業資本家の中絶 した機能を続行しないのであり、したがってまた資本家とし し冫。しかに現象する り、第二には、蓄積は商人資本のばあ、こよ、 か ? であり、第三には、商人資本は社会の現実の総再生産て、じぶんの投下資本に比例して、産業資本家階級によって

10. 世界の大思想20 マルクス 資本論3

した新生産様式はいずれも商品を低廉にする。だから資本家働時間が社会的必要労働時間をこえるからである。一言でい えば、 これは竸争の作用として現象するのだが、ーー・・彼 は、商品を、最初には生産価格以上に、おそらく価値以上に 販売する。彼は、その商品の生産費と、より高い生産費で生らもやはり、不変資本にたいする可変資本の比率を低下させ 産される他の商品の市場価格とのあいだに生ずる差額を、収る新生産様式を採用せねばならない。 得する。彼がそうすることができるのは、この商品を生産す 機械を充用すれば、それによって生産される商品の価格が るために社会的に必要な労働時間の平均が、新生産様式のも 低廉化することになるという事情は、すべて、つねに、〔第一 とで必要な労働時間よりも大きいからである。彼の生産手続には〕個々の商品によって吸収される労働分量の減少に帰着 きは、社会的生産手続きの平均よりも秀れている。だが竸争するが、第二には、個々の商品に入りこむ機械の磨損価値部 は、これを一般化させ、一般的法則にしたがわせる。そこで分の減少に帰着する。機械の磨損が緩慢になればなるほど、 利潤率の低落が生するのであって、 おそらく、ますこのその磨損はますます多くの商品に配分され、その機械はその 生産部面で、やがてのちには他の生産諸部面と平均化する、 再生産期限までにますます多くの生きた労働に代位する。ど ちらのばあいにも、可変資本にくらべての固定的不変資本の この低落は、資本家たちの意志からは全く独立する。 この点についてなお注意すべきは、この同じ法則はつぎの分量および価値が増加する。 ような生産部面、すなわち、その生産物が直接にも間接にも「他のすべての事情が同等ならば、一国民がその利潤から貯 労働者の消費に入りこまず、労働者の生活手段の生産諸条件蓄をする力は、利潤率とともに変動し、利潤率が高いときに つまり、商品の は大きく、利潤率が低いときには小さい。だが、利潤率が低 にも入りこまないような生産部面でも、 低廉化が相対的剰余価値を増加させえす、労働力を低廉化さ落するばあいには、他のすべての事情も同等不変ではない。 イい利潤率は、通黨イギリスでのように人口数に比し せえないような生産部面でも、ーー支配的に行なわれるとい ・ : 高い利潤率は、人口数に比し うことである。 ( 不変資本が低廉化すれば、労働者の搾取がて急速な蓄積をともない、 同等不変でも、これらすべての部門の利潤率がたしかに増大て緩慢な蓄積をともなう。」実例、ポーランド、ロシア、イ ンドなど。 ( リチャード・ジョーンズ『経済学序説』、ロン しうる。 ) 新生産様式が普及しはじめ、かくして、この商品が ドン、一八三三年、五〇頁以下。 ) ジョーンズが、利潤率の より安く生産されうるという証拠が事実上提供されれば、旧 来の生産諸条件のもとで作業する資本家たちは、その生産物低落にもかかわらす蓄積の誘因および可能性の増加すること を充分な生産価格以下で売らねばならない。というのは、こを力説しているのは正しい。それらが増加するのは、第一に の商品の価値が低落したからであり、彼らが生産に要する労は、相対的過剰人口が増大するからである。第二には、労働 295