322 界中の最善の世界を発見しようとする良ぎ善意が、俗流経済学においては、 すなわち、収入および資本という確固たる規定は入りかわり 真理愛および科学的探求慾のあらゆる必然性にとって代わるのである。 つまり、これ あい、その位置をとりかえるという困難、 これはすでに第一一部第三篇で分析した。 らの規定は、個々の資本家の立場からの相対的規定たるにす (ll) 、いかにして労働は、新価値を追加することによって、 ぎず、総生産過程を一見すれば消減するかに見えるという困 旧価値を・ーーこの価値をあらたに生産することなしにーーあ難。たとえば、不変資本を生産する部門—の労働者および資 らたな形態で維持するかという、仕方様式が把握されていな本家の収入は、消費手段を生産する資本家階級Ⅱの不変資本 しこと。 を価値的および質料的に填補する。だからひとは、一者にと CII) 、再生産過程の関連ーー個別的資本の立場からでなくって収入たるものが他者にとっては資本であり、したがって 総資本の立場から考察すれば、この関連がどうあらわれるか これらの規定は商品の価値諸成分の現実的分類とは関係がな が把握されないこと。労賃および剰余価値が実現され、 という考えをもって困難を避けうる。さらに、 したがって、一年間にあらたに追加された全労働の創造した のところ収入の支出の質料的諸要素、つまり消費手段を形成 価値ぜんたいが実現されるべき生産物は、いかにして、そのするはすである諸商品は、一年間に相異なる諸段階、たとえ 不変価値部分を填補し、しかも同時に、諸収入によってのみば毛糸、毛織物という段階を通過する。諸商品は、一方の段 限界づけられる価値に分解されうるかという困難。さらにま階では不変資本の部分を形成し、他方の段階では個人的に消 た、あらたに追加された労働の総額は労賃と剰余価値とにの費され、つまり残らず収入に入りこむ。だからひとは、・ み実現され、この両者の価値の総額において残らず表示されスミスとともに、不変資本は商品価値のうち、総関連では消 るにもかかわらす、生産中に消費された不変資本はいか にし減する仮象的な一要素にすぎぬと考えることができる。さら て、質料的にも価値的にも、あらたな不変資本によって填補にまた、可変資本と収入との交換が生する。労働者はじぶん されうるかという困難。まさに、この点にこそ、再生産の分の労賃をもって、商品のうち、彼の収入を形成する部分を買 析、および再生産上の相異なる諸成分のーーその質料的性格う。かようにして彼は、同時に、資本家のために可変資本の ならびにその価値諸関係からみたーー関係の分析における、 貨幣形態を填補する。最後に、 ーー不変資本を形成する生産 主要な困難が横たわるのである。 物の一部分は、現物で、または交換をとおして、不変資本そ のものの生産者によって填補される。これは、消費者になん ( 四 ) 、ところが、さらに一つの困難がつけ加わるのであっ こ自立の関係もない過程である。このことを見のがすから、消費者 て、この困難は、剰余価値の相異なる諸成分がたがい冫 たちの収入は、全生産物をーーしたがって不変価値部分をも する諸収入の形態で現象すれば、さらにはなはだしくなる。
入の価値、つまり労賃十利潤十地代に等しい これによれば、Ⅱでは、生産者および土地所有者たちによ 部門—では、生産物が、形態上では同じ諸成分からなりた って、 500V 十 500m Ⅱ 1000 が収入として消費され、のこりの つ。だが、ここで収入を形成する部分たる、労賃十利潤十地 2000 は填補される。これは、 1000V 十 1000m Ⅱ 2000 の収入を 代、要するに可変資本部分十剰余価値は、ここでは、この部有する—の労働者・資本家および地代収得者たちによって、 —の諸生産物の現物形態では消費されないで、部門Ⅱの諸消費される。消費されるⅡの生産物が、—の収入として消費 生産物において消費される。だから、部門—の諸収入の価値 され、消費されえない生産物であらわされる—の収入部分が、 は、部門Ⅱの生産物のうち、填補されるべき不変資本Ⅱを形Ⅱの不変資本として消費される。だから、残るのは、—にお 成する部分において消費されねばならない。部門Ⅱの生産物ける 4000C を始末することである。これは、—の自己生産 のうち、その不変資本を填補せねばならぬ部分は、その現物物Ⅱ 6000 、またはむしろ 6000 ー 2000 によって填補される。 形態において、部門—の労働者・資本家および土地所有者に というのは、この 2000 はすでにⅡの不変資本に転形されて よって消費される。彼らはその諸収入をこの生産物Ⅱに支出 いるからである。注意すべきは、もろもろの数字はたしかに する。他方、—の生産物は、その現物形態においては、それ恣意的に仮定されており、したがって、—の収入の価値とⅡ が部門—の収入を代表するかぎりでは、部門Ⅱーーその不変の不変資本の価値との比率も恣意的に見える、ということで 資本をそれ〔部門—の生産物〕が現物で填補するーーーによってある。とはいえ、再生産過程が正常的に、またその他の同等 生産的に消費される。最後に、部門—の消費された不変資本不変な諸事情のもとで、つまり蓄積を度外視して行なわれる め 部分は、まさに労働手段・原料および補助材料などから成り かぎりでは、部門—における労賃・利潤および地代の価値総 析たっこの部門の自己生産物によって填補されるのであって、 額が部門Ⅱの不変資本部分の価値に等しくなければならぬ、 ということは明らかである。さもなければ、部門Ⅱがその不 のその填補は、部分的には—の資本家たち相互間の交換によっ 過て、部分的には、この資本家たちの一部分がじぶんの自己生変資本を填補することもできず、部門—がその収入を、消費 生産物を直接にふたたび生産手段として充用しうるということ されえない形態から消費されうる形態に転態することもでき 章によって、おこなわれる。 四われわれは、単純再生産にかんするさきの表式 ( 第二部第 だから、年々の商品生産物の価値は、ある特殊的投資の商 第 品生産物の価値とまったく同じように、また各個の商品の価 一一〇章第一一節 ) をとってみよう。 I ) 4000C 十 1000V 十 1000mH6000 値と同じように、一一つの価値成分、すなわち、投下不変資本 II ) 2000C 十 500 く十 500m " 3000 の価値を填補する一方の e< と、収入の形態で労賃・利潤およ = 9000
150m ならば、同一分量の生産物の価値は 600 にすぎない。 労働の生産力減少の結果でなく、労働者の食糧を提供する何 だから、同一分量の労働を運動させる投下資本が増加または か農業における労働の生産力減少の結果であり、つまりこの 減少するばあいには、生産物の価値は、その他の事情が同等食糧の昻騰の結果だとすれば、生産物の価値は依然として不 ならば、投下資本の増加または減少が不変資本部分の価値量変であろう。価値 650 は、従来どおり、同じ分量の綿糸にお の変動から生するばあいには、増加または減少する。これに いて自らを表示するであろう。 反して、投下資本の増加または減少が、労働の生産力は同等 以上の展開から、さらに次ぎのことが出てくる。節約など 不変であるのに可変資本部分の価値量の変動から生するばあによる不変資本投下の減少が、労働者の消費に入りこむもの いには、生産物の価値は依然として不変である。不変資本のを生産する生産諸部門で生するならば、このことは、充用労 ばあいには、その価値の増加または減少は、いかなる対立的働そのものの生産性の直接的増加とまったく同じように、労 というのは、労働者の生活手段を 運動によっても相殺されない。可変資本のばあいには、労働 賃の減少を生ぜしめ、 したがって、剰余価値の増大を生。せし の生産性を同等不変と前提すれば、その価値の増加または減低廉にするから、 少は、剰余価値の側の逆の運動ーーというのは、可変資本の めうるであろう。したがって利潤率は、このばあいには二重 価値プラス剰余価値、つまり、生産手段にたいし労働によっ の原因から、すなわち、一方では不変資本の価値が減少する て新たに追加され、生産物において新たに表示される価値が、 がゆえに、他方では剰余価値が増加するがゆえに、増大する 依然として不変であるというふうな運動ーーによって相殺さであろう。われわれは、剰余価値の利潤への転形を考察した れる。 さい、労賃は下落しないで不変のままだと仮定した。という これに反し、可変資本または労賃の価値の増加または減少 のは、かしこではわれわれは、利潤率の動揺を、剰余価値率 が、商品の騰貴または下落のーーーすなわち、この資本投下に の変動とは係わりなしに研究しなければならなかったからで おいて充用される労働の生産性の減少または増加のーー・結果ある。さらに、かしこで展開された諸法則は一般的なもので であるならば、これは生産物の価値に影響する。だが労賃のあって、つぎのような諸投資、すなわち、労働者の消費に入 騰貴または下落は、このばあいには、原因ではなくて結果に りこまないものを生産するような、したがってその生産物の すギ」ない。 価値変動が労賃に影響しないような、諸投資にも妥当する。 これに反して、上例において、同等不変な不変資本Ⅱ 400C のもとで 18V 十 150m から 150V 十 100m への変動つまり可変 だから、新追加労働によって生産手段または不変資本部分 資本の増加が、この特殊的部門たとえば木綿紡績業における に年々あらたに追加される価値の、労賃・利潤および地代と
て、たいていの発展した産業の生産物にあ「ては一般的にそた諸国では農業が加工産業と同じ程度には進歩していないこ 2 うである。 とを表現するであろう。こうした事実は、他のすべての 一定の生産部面における資本が社会的平均資本よりも低位部分的には決定的なーー経済的事情は別として、化学、地質 構成ならば、そのことはさしあたり、この特殊的生産部面に 学、および生理学の、殊にまた農業へのそれらの応用の、発 おける社会的労働の生産力が平均水準よりも低いことを示す展がおくれかっ部分的には全く若いのにくらべて、力学的諸 別個の表現にすぎない。というのは、」 引達された生産力段階 科学の、および殊にそれらの応用の発展が、比較的に早くか は、可変資木部分にたいする不変資本部分の相対的優勢、まっ急速だ「たことからしても、説明されるであろう。とにか たは、ある与えられた資本のうち労賃に投下される成分のた く、農業そのものの進歩は、つねに、可変資本部分にくらべ えざる減少、とな「て現われるからである。逆に、一定の生ての不変資本部分の相対的増大とな「て現われるということ 産部面における資本の構成が平均よりも高位ならば、そのこ は、うたがう余地のない、かっ久しく周知の事実である。一 とは、平均水準よりも高い生産力の発展を表現する。 定の資本制的生産国たとえばイギリスで農業資本の構成が社 本来の芸術的労働は別として、 その考察は事態の本性会的平均資本の構成よりも低位であるかどうかは、統計的に 上われわれの論題から除外されている、 とにかく、相異のみ決定しうる間題であって、その詳細にたち入ることは、 なる生産諸部面がそれらの技術的特殊性に応じて不変資本とわれわれの目的のためには余計である。いすれにしても、こ 可変資本の相異なる比率を必要とすること、および、生きた の前提のもとでのみ農業生産物の価値は生産価格以上であり 労働がある部面ではより多くの席を占め他の部面ではより僅晒うるということ、すなわち、農業における与えられた大いさ かの席を占めねばならぬことは、自明である。たとえば、農の一資本によって生みだされる剰余価値、または、同じこと 業と厳密に区別すべき採取産業では、不変資本の一要素とし だが、それによって運動させられ指揮される剩余労働 ( した ての原料はまったく見られず、補助材料も場合によって重要 がってまた充用される生きた労働一般 ) が、社会的平均構成 な役割を演ずるにすぎない。とはいえ鉱山業では、不変資本の同等量の一資本のばあいよりも大きいということは、理侖 = ニロ の他の部分たる固定資本が重要な役割を演ずる。だが人は、 的に不動である。 このばあいにも、可変資本にくらべての不変資本の相対的増 一 = 九ドイ 、ハ 1 ル、および・ジョーンズ〔「富の分配にかんする一論」、ロン ドン、一八三一年、一三三頁以下〕参照。 大によって発展の進歩を度量しうるであろう。 本来の農業における資本の構成が、社会的平均資本の構成 だから、われわれがここで研究する・そしてこの仮定のも よりも低位だとすれば、そのことは明らかに、生産の発展し とでのみ生じうる・地代形態にとっては、こうした仮定をす ( 一二ル )
りこまねばならない。剰余生産物が減少する。 するとはいえ・・・ーーたえず、消費された不変資本の再生産およ び填補に吸収されていることを見る。だが、そのばあいには 利潤、または総じて剰余価値の、なんらかの形態の資本へ 次ぎのことが見のがされる。 (l) 、この労働の生産物の一価の再転形は、 ーー歴史的に規定された経済的形態を度外視し 値部分は、この新追加労働の生産物でなく、現存した・かっ て、この再転形を新生産手段の単純な形成として考察するな 消費された・不変資本だということ、したがってまた、このらば、 ーー労働者が直接的生活手段を獲得するための労働い 価値部分がみずからを表示する生産物部分は収入には転形し 力いに、生産手段を生産するための労働を充用するような状 ないで、この不変資本の生産手段を現物で填補するというこ 態がやはり存続することを示す。利潤の資本への転形は、超 と。 ( 一 l) 、この新追加労働が現実にみずからを表示する価値過労働の一部分の、新追加生産手段の形成への充用いがいに 部分は、現物では収入としては消耗されないで、不変資本をは何も意味しない。 これが利潤の資本への転形の形態で行な ほかの一部面ーーそこでそれが、収入として消耗されうるよわれるということは、労働者でなく資本家が超過労働を自由 . にすることを意味するにすぎない。 この超過労働が、まず、 うな現物的形態 ( といっても、これの方はやはり新追加労働 のもつばらなる生産物ではない ) に移される。ーーにおいて填それが収入として現象する ( といっても、それは、たとえば 未開人のばあいには、直接に生産手段の生産にむけられる超 補するということ。 再生産が同等不変な規模で行なわれるかぎりは、消費され過労働として現象する ) 段階を通過せねばならぬということ は、この労働、またはこの労働の生産物が非労働者によって た各不変資本要素は、分量および形態をとわず作用能力から みれば、相当する種類の新品によって現物で填補されねばな取得されることを意味するにすぎない。だが、事実上で資本 に転形されるのは、利潤としての利潤ではない。剰余価値の らない。労働の生産力が同一不変ならば、この現物填補は、 資本への転形は、剰余価値および剰余生産物が、資本家によ 旧形態での不変資本が有したのと同じ価値の填補をふくむ。 って、収入として個人的には消費されないことを意味するに だが、よりわすかな労働で同じ質料的要素が再生産されうる ほどに労働の生産力が増加すれば、生産物中のより僅かな価すぎない。だが、現実にかように転形されるものは、価値す 値部分が不変部分をすっかり現物で填補しうる。そのばあい なわち対象化された労働、またはこの価値が直接にみずから には、超過分は新追加資本の形成に役だちうる。または、生を表示する生産物、または、この価値があらかじめ貨幣に転 産物中のより大きな部分に消費手段の形態を与えうる。また形されたのちに交換される相手の生産物、である。利潤が資 は、剰余労働が減少されうる。これに反し、労働の生産力が本に再転形されるばあいでも、利潤というこの規定された剰 減少すれば、生産物中のより大きな部分が旧資本の填補に入余価値形態は新資本の源泉ではない。 このばあいには剰余価
な誤った商品価値分析のもたらす不合理を洞察して、この結論の馬鹿らしさせうる災害や危険にさらされている。 ( だがさらに、不変資 をーー個々の資本家の立場からでなく、一国民の立場からーー・正しく論述し 本は、価値の面からみても、労働の生産力における変動の結 ているが、しかし、彼じしんは「必要価格」の分析では一歩も前進しておら 果として減少しうる。とはいえ、これは、個々の資本家にの ず、この必要価格については、その著「講義」において、循環論法におちい らないでこれを現実的諸要素に分解するのは不可能だと説明している。「年み連関することである。 ) したがって、利潤の一部分、つま 生産物の価値が一方では資本、他方では利潤に分かれること、および、年生 り剰余価値ーーーしたがってまた、新追加労働だけを ( 価値の 産物のこれらの価値部分のそれそれは国民がその資本を維持するため、なら びにその消費元本を更新するために必要とする諸生産物を規則正しく買うで面からみれば ) あらわす剰余生産物ーーの一部分は、保険元 本として役だっ。といっても、この保険元本が保険会社によ あろうことは、明らかである。」 ( 一三四、一三五頁。 ) 「 : : : 彼ら」 ( みずか ら労働する農民家族 ) 「は、じぶんの納屋または物置に住み、じぶんの種粒 って別個の事業として管理されるか否かは、事態の本性を変 や家畜飼料を食い、じぶんの役畜を衣料とし、じぶんの農具で興ずることが 化させない。 これは、収入のうち、収入として消費されもせ できようか ? セイ氏の教えるところによれば、ひとは、これらすべての質 ・ : 一ず、また必ずしも蓄積元本として役だちもしない、唯一の部 問に「しかり」と答えねばならぬであろう。」 ( 一三五、一三六頁。 ) 「・ : 国民の収入は彼らの総生産物に等しいこと、すなわち、総生産物から資本を 分である。これが事実的に蓄積元本として役だっか、それと 控除すべきでないことを認めるならば、ひとはまた、その国民はその将来の も、再生産上の欠損を補うにすぎぬかは、偶然に依存する。 収入をいささかも害することなく、年生産物の全価値を不生産的に支出しう これはまた、剰余価値および剰余生産物のうち、つまり剰余 ることをも認めねばならない。」 ( 一四七頁。 ) 「一国民の資本をなす諸生産物 は消費されえないものである。」 ( 一五〇頁。 ) 労働のうち、蓄積つまり再生産過程の拡大に役だっ部分いが いに、資本制的生産様式の止揚後も存続すべき唯一の部分で 再生産の正常状態を考察するならば、新追加労働の一部分 ある。このことは、もちろん、直接的生産者によって常則的 だけが、不変資本の生産したがって填補に使用される。とい うのは、消費手段ーー収入の質料的諸要素・・ーーの生産におい に消耗される部分が、現在のような最低限度に制限されてい ないことを前提とする。年齢のゆえにまだ , ーーーまたはもはや て消費された不変資本を填補する部分がそれである。このこ 生産に参加しえない人々のための剰余労働いがしに。 とは、この不変部分は部門Ⅱにとっては何らの追加労働も要 費しない、ということによって相殺される。ところが不変資労働しない人々を扶養するためのいっさいの労働は行なわれ なくなるであろう。社会の端初を考えてみれば、まだ生産さ これは ( 総再生産過程、つまり部門—とⅡとの、 本は、 かの相殺をふくむ総再生産過程を考察すれば ) 新追加労働のれた生産手段はなにも実存せす、つまり不変資本ーーその価 生産物ではない、といっても、この生産物は不変資本なしに値が生産物に入りこむような、そして同じ規模での再生産に この不変資本は、再生産あたっては、その価値によって規定される程度で生産物中か は生産されえないであろうが、 ら現物で填補されねばならぬような、そうした不変資本 過程中には、質料的にみれば、それを一〇分の一にも減少さ
のは、個人的消費の膨脹は、貨幣によって媒介されるがゆえ 産的資本の分量ではない。 以上で展開したことのうち最も重要なのは、収入のうち消に、ーーすなわちそれは、現実的蓄積のために・あらたな資 費に予定されている部分の膨脹は ( このばあい労働者のこと本投下を開始する貨幣のために・貨幣形態を提供するがゆえ 貨幣資本の蓄積として現象するからである。 は度外視する、というのは、労働者の収入は可変資本に等し いからである ) さしあたり貨幣資本の蓄積として現われる、 だから、貸付可能な貨幣資本の蓄積は、部分的にはつぎの ということである。だから、貨幣資本の蓄積に一契機が入り 事実ーーすなわち、産業資本がその循環の過程中で転形して こむのであるが、この契機は、産業資本の現実的蓄積とは本ゆくべきあらゆる貨幣は、再生産者たちが前貸する貨幣の形 質的に異なる。というのは、年生産物のうち消費に予定され態ではなく借受ける貨幣の形態をとるという、したがって事 た部分はけっして資本とはならないからである。そのうちの実上、再生産過程で行なわれねばならぬ貨幣の前貸は借受貨 一部分は、資本、すなわち消費手段の生産者たちの不変資本 幣の前貸として現象するという、事実ーーいがいには何も表 を填補するが、しかしその部分は、現実に資本に転形するか現しない。事実上、商業信用の基礎上では、一方の人が他方 ぎりでは、この不変資本の生産者たちの収入の現物形態で実の人に、じぶんが再生産過程で必要とする貨幣を貸すのであ る。ところがこれは、つぎのような形態ーー・すなわち、再生 存する。収人を代表するーーたんなる消費媒介者として役だ っーー同じ貨幣が、通例、しばらくのあいだ、貸付可能な貨産者たちの一部分から貨幣を貸付けられる銀行業者がその貨 瞥資本に転形する。この貨幣が労賃をあらわすかぎりでは、 幣を再生産者たちの他の部分に貸付ける ( そのばあいには銀 それは同時に可変資本の貨幣形態でもある。またそれが消費行業者は福の神として現われる ) と同時に、この資本につい 資手段の生産者たちの不変資本を填補するかぎりでは、その貨ての自由処分権はまったく仲介者としての銀行業者の手に帰 現幣は、彼らの不変資本が一時的にとる貨幣形態であって、填する、という形態ーーをとる。 本補されるべき彼らの不変資本の現物的諸要素を購入するため さて、なお幾つか、貨幣資本の蓄積の特殊的形態をあげね ばならない。たとえば、生産要素たる原料などの価格下落に に役だっ。一方の形態でも他方の形態でも、この貨幣自体は よって、資本が遊離される。産業家が直接にじぶんの再生産 その分量は再生産過程の規模につれて増大するとはいえ 章 過程を拡張しえないならば、彼の貨幣資本の一部分は、過剰 蓄積を表現しない。だがそれは、しばらくは、貸付可能 第な貨幣の、つまり貨幣資本の、機能をはたす。だから、この分として循環からおし出されて、貸付可能な貨幣資本に転形 側面からみれば、貨幣資本の蓄積は、つねに、現実に現存すされる。ところが第一一に、貨幣形態での資本が遊離される、 るよりも大きな資本蓄積を反映しなければならない。という 殊に商人のばあいには、取引の中断が生ずるときに。商
一〇 0 という一資本が一〇メートルの或る生産物を生産し とは事実上、資本制的生産様式に照応する信用発展および貸 たとしよう。この一〇〇には、生きた労働および利潤と同じ付資本豊富を前提とする。一方では私は、一年間にーー五人 く不変資本も含まれているとしよう。すると、一メートルの の労働者の生産物は一〇〇ポンドとしてーー一〇〇ポンドの 費用は一〇である。私が同じ資本一〇〇をもっていま一一〇メ追加不変資本を充用し、他方では一〇〇ポンドの可変資本を ートル生産しうるならば、一メートルの費用は五である。と充用する。剰余価値率が一〇〇 % ならば、五人の労働者が創 ころが、私が五〇の資本をもって一〇メ 1 トル生産しうるな造した価値は一一〇〇ポンドである。これに反し、一〇〇ポン らば、一メートルの費用はやはり五であって、もとの商品供 ドの不変資本の価値は一〇〇ポンドであり、資本としてはお 給で足りるかぎりは、五〇の資本が遊離される。四〇メート そらく 利子歩合が五 % ならばーー一〇五ポンドである。 ル生産するために私が一一〇〇の資本を投下せねばならぬとす同じ貨幣額でも、生産のために不変資本の価値量として投下 れば、一メートルの費用はやはり五である。価値規定にも価 されるか、可変資本の価値量として投下されるかに応じて、 その生産物において考察すれば極めて相異なる価値を表現す 格規定にも、ここでは何らの区別も認められないのであって、 それはあたかも、投資に比例する生産物分量になんらの区別 る。さらに資本家の立場からの商品の費用についていえば、 も認められないのと同様である。だが、第一のばあいには資なお、一〇〇ポンドの不変資本が固定資本に投下されるかぎ 本が遊離される。第二のばあいには、一一倍もの生産が必要な りではそのうちの磨損分だけが商品の価値に入りこむが、労 かぎりでは追加資本が節約される。第三のばあいには、増加賃のための一〇〇ポンドの方は全部的に商品の価値中に再生 した生産物が入手されうるのは、投資が増加するーーといっ闢産されておらねばならぬ、という区別が生ずる。 せんぜん、また ても、増加した生産物が旧来の生産力によって提供されねば 植民者や、総じて自立的小生産者たちは、。 ならぬ場合と同じ比率でではない ことによってのみであは高い利子を払わなければ資本を自由にすることができない る。 ( これは第一篇に属する。 ) が、彼らのばあいには、労賃を代表する生産物部分はーー・・・・資 資本制的生産の立場から考察して、剰余価値の増加でなく本家にとっては資本投下なのだがーー・彼らの収入である。だ 剰余価値を形成する要素から彼らは、この労働投下を、さしあたり問題たる労働収益 費用価格の低下を顧慮すれば、 たる労働における費用節約も、資本家にとってはこうした役の不可避的前提条件だと見なす。だが、この必要労働をさし 引いた彼らの超過労働についていえば、この超過労働はつね だちをなすのであって、調整的生産価格が同一不変なかぎ 不変資に超過生産物に実現される。そして彼らがこの超過生産物を り、資本家のための利潤を形成するのであるが、 本の充用はつねに可変資本の充用よりも低廉である。このこ販売またはみずから使用しうるばあいには、彼らはこれを、
363 用語解説 り、後者は一一一〇〇円である。そしてこの価値差額 ( 六〇〇 円 ) こそが剰余価値なのであり、それの成立によってはじめ て貨幣が現実に資本に転化し、商品の生産過程がたんなる価 値形成過程から価値増殖過程に転化するのである。 このようにマルクスは、労働力商品の一種独特な性格 その使用価値自体が価値の源泉であり、しかも自分自身の価 値よりも多くの価値を創造するという性格ーーーのなかに、剰 余価値発生の謎をとく鍵をみつけだしたのであり、こうして 彼は資本と賃労働との交換のメカニズムを真に科学的に解決 したのであった。 補 1 不変資本と可変資本労働過程の主体的要素たる 労働力と、その客体的要素たる生産手段 ( 労働対象およ び労働手段 ) とは、生産物価値の形成の点で異なった役 割を演じる。労働者は、その労働によって労働対象に新 たな価値を付加するが、生産手段はなんら新価値を付加 するものではなく、すでにそれ自身のうちにふくまれて いる旧価値を生産物へ移しこむにすぎない。だから、資 本のうち生産手段に投ぜられる部分は生産過程で価値の 大いさを変えない。そこでこの資本部分は不変資本と名 づけられる。これに反して、労働力に転形される資本部 分は生産過程で価値の大いさを変える。この部分はそれ 自身の等価と、これをこえる剰余価値とを生産する。そ こでこの資本部分は可変資本と呼ばれる。 こうして、労働過程の立場からは客体的および主体的 要素として、つまり生産手段および労働力として区別さ れたところの資本の同じ構成諸要素が、いまや価値増殖 過程の立場からは不変資本および可変資本として区別さ れるのである。 不変・可変という資本分類は、マルクスによってはじ めて確定されたものであって、彼以前の経済学者の場合 には、スミスやリカードでさえ、固定資本・流動資本と いう通俗的な資本分類だけで満足しており、そのため資 本主義的生産過程の分析が中途半端のままに放置されて いたのであった。 補 2 剰余価値率いま不変資本をであらわし、可変 資本をで、また剰余価値率をであらわすならば、商 品生産物の価値構成は c 十 v 十 m となる。ところで不変 資本はけっして剰余価値をうみださないのだから、剰余 価値の相対的・比率的な大いさを正確に表現するには、 剰余価値を総資本とではなく可変資本とだけ比較しなけ から区別 ればならない。そこでマルクスはーを V C ー丁 V し、かつ前者を剰余価値率と名づけたのである。 労働日のうち、労働者が労働力の価値の等価を生産す る部分は必要労働時間と呼ばれ、この時間中に支出され る労働は必要労働と呼ばれる。他方、労働日のうち労働 者が必要労働時間の限界をこえて苦役する部分、すなわ ち剰余価値を生産する部分は剰余労働時間と名づけら れ、この時間中に支出される労働は剰余労働と名づけら れる。したがって、剰余価値の可変資本にたいする比率 は、剰余労働時間の必要労働時間にたいする比率に等し
間の契約で前提されているのであって、この前提は、各個のれば、 また資本家としての彼の顧慮は、もつばら彼の利 ばあいの相対的な量的比率の動揺がいかに甚だしくても正し益、および、彼の利害打算的動機によって規定されているの い。価値諸部分が対応しあう規定された姿態が前提されてい だが、ーー彼じしんが生産する生産物は不変資本部分として るのは、そうした姿態がたえず再生産されるからであり、ま他の生産部面に入りこみ、他の生産部面の生産物は不変資本 た、それがたえず再生産されるのは、それがたえす前提され部分として彼の生産物に入りこむことを、彼は経験によって ているからである。 知る。つまり、彼にとっては、彼の新生産にかんするかぎり , さて、なるほど経験および現象によって明らかなように、 では、価値追加分は仮象的には労賃・利潤・地代の大いさ 市場価格ーーその影響においてのみ資本家にとっては、事実よって形成されるのだから、このことは、ほかの資本家たち 上、価値規定が現象する , ーーは、その大いさからみれば、けの諸生産物からなりたっ不変部分にも妥当し、したがって窮 っしてこの予想に依存せす、利子または地代の約定が高かっ極的には、すっかりは見とおせない方式でだとはいえ、不変、 たか低かったかによっては定まらない。だが市場価格は、変資本部分の価格したがって商品の総価値は、窮極的には、労 動において不変たるにすぎす、長期間でのその平均こそが、 賃・利潤および地代という、自立する・さまざまな法則にま 不変な つまり市場価格を窮極的に支配するーー大いさと って規制される・さまざまな源泉から形成される・もろもう しての、労賃・利潤および地代のそれそれの平均を生むので の価値形成者の合計から生ずる価値総額に帰着する。 ある。 第四に。商品がその価値どおりに売れるか売れないかは したがって価値規定そのものは、個々の資本家にとっては全 他面、労賃・利潤および地代は、それらが価値の生産に前 がんらい、彼の背後で、彼に 提されているかに見え、個々の資本家にとっては費用価格おくどうでもよい。価値規定は、、、 よび生産価格において前提されているがゆえに価値形成者だ係わりのない諸関係の力によって行なわれるものであって、 とすれば、不変資本部分ーーその価値が与えられたものとし各生産部面において調整的な平均価格を形成するものは、価 て各商品の生産に入りこむーーも価値形成者であるという反値ではなく、価値とは異なる生産価格である。価値規定とし 省は、きわめて簡単なように見える。だが、不変資本部分は、 ての価値規定が各特殊的生産部面における個々の資本家およ 諸商品したがって諸商品価値の総和にほかならない。だからび資本を関心させかっ規定するのは、つぎの限りでのみであ それは、商品価値は商品価値の形成者であり原因であるといる。すなわちそれは、労働の生産力が増加または減少するに つれて、商品の生産に必要な労働分量が減少または増加する・ う、ばかげた同義反復に帰着するであろう。 ことが、一方のばあいには資本家に現存市場価格のもとでは だが、資本家がこの点の顧慮になんらかの利益をもっとす