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検索対象: 世界の大思想21 マルクス 資本論4
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1. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

る。だから、労賃・利潤および地代の価値はそれらが特定分して彼の労働とひきかえに交付される可変資本を構成する部 量の金銀に等しいということにあると語ることは、ただ、労分に等しい。そして、この可変資本を構成する諸商品の価格 賃・利潤および地代は特定分量の労賃・利潤および地代に等は、それ自身ふたたび、第一番には労働の価格によって規定 しいと語ることに他ならない。 される。というのは、それは、労賃・利潤および地代という加 さしあたり労賃をとってみよう。というのは、この見解に諸価格によって規定されているからである。だからわれわれ は、労賃を規定するために資本を前提することはできない。 あっても労働から出発されねばならぬからである。つまり、 労賃の調整的価格、それをめぐって労賃の市場価格が動揺すというのは、資本そのものの価値が労賃によって規定されて いるからである。 る価格は、どうして規定されるか ? さらに、竸争をもちこんでも何にもならない。竸争は労働 労働力の需要供給によってだ、といいたい。だが、労働力 の市場価格を騰貴または下落させる。だが、労働の需要と供 のどんな需要が問題なのか ? 資本からの需要だ。だから、 給とが一致すると仮定せよ。そのばあい、労賃は何によって 労働力にたいする需要は資本の供給に等しい。資本の供給に ついて語るためには、われわれは何よりもまず、資本とは何規定されるか ? 竸争によって。だが、競争は規定者でなく なること、竸争はその対抗する二つのカの均衡によって作用 か、ということを知らねばならない。何から資本は成りたっ しなくなること、 これが前提されているのだ。われわれ か ? その最も簡単な現象をとってみれば、貨幣と商品とか が見いだしたいのは、他ならぬ労賃の自然価格、すなわち、 ら成りたつ。だが、貨幣は商品の一形態にすぎない。だから 〔資本は〕商品から成りたつ。だが商品の価値は、前提によれ竸争によって調整されるのでなく逆に竸争を調整する労働の ば、第一番には、商品を生産する労働の価格たる労賃によっ価格である。 なお残るのは、労働の必要価格を労働者の必要生活手段に 象て規定されている。労賃はこのばあい、商品の価格の構成要 の素として前提され、取扱われる。ところでこの価格は、資本よ 0 て規定することだけである。だが、この生活手段は、あ る価格をもっ商品である。だから、労働の価格は必要生活手 こよって規定されるはすである。 第にたいする提供労働の比率冫 章資本そのものの価格は、資本を構成する諸商品の価格に等し段の価格によって規定され、生活手段の価格は他のすべての 0 。労働にたいする資本の需要は資本の供給に等しい。そし商品の価格と同じように、第一番には労働の価格によって規 五し 第 て資本の供給は、与えられた価格をもっ或る商品額の供給に定されている。だから、生活手段の価格によって規定される 等しく、この価格は、第一番には労働の価格によって調整さ労働の価格は、労働の価格によって規定されている。労働の しいかえれば、労 価格はそれ自身によって規定されている。 れ、労働の価格の方はまた、商品価格のうち、労働者にたい

2. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

た、土地としての土地が地代の源泉となる。 よび土地所有としてのそれらに・すなわちそれらの社会的代 労働としての労働は、合目的的な生産的活動としてのその表者たちに・利潤 ( 利子 ) および地代の形態で帰属する 単純な規定性においては、もろもろの生産手段に、といって労働者の労働が生産過程で占める分前が労賃において労働者 も、その社会的な形態規定性における生産手段にではなく、 に帰属するようにーーそれそれの分前において、みすからを 労働の材料および手段としての、その質料的実体における生表現するかに見えるに違いない。かくして地代、利潤、およ 産手段に、 やはり質料的にのみ、もろもろの使用価値とび労賃は、土地、生産された生産手段、および労働が、単純 して、すなわち、土地は、生産されたのではない労働手段と な労働過程でーーこの労働過程を、たんに人間と自然とのあ して、その他は、生産された労働手段として、相互に区別さ いだで行なわれる過程として、かっ、 いっさいの社会的規定 れるもろもろの生産手段に、 連関する。だから、労働が性を度外視して、考察するかぎりでさえもーー・演する役割か 賃労働と一致すれば、労働諸条件がいまや労働と対立すべき ら発生するかに見える。賃労働者の、自分じしんのための労 規定された社会的形態も、労働諸条件の質料的定在と一致す働が、彼の収益・彼の収入・として自らを表わすべき生産物 る。そのばあいには、労働諸条件は、労働諸条件として資本は、ただ労賃であり、価値 ( したがって、この価値によって であり、土地は、土地として土地所有である。労働にたいす度量される社会的生産物 ) のうち彼の労賃をあらわす部分に るこれらの労働条件の形式的自立化は、労働条件が賃労働にすぎぬと語るならば、これもまた、形態を異にする同じ事態 たいしてとるこの自立化の特殊的形態は、そのばあい、物と にすぎない。つまり、賃労働が労働一般に一致するならば、 しての・物質的生産条件としての・それらから不可分な属性労賃も労働の生産物と一致し、労賃があらわす価値部分は、 式であり、生産要素としてのそれらに必然的にそなわる・内在労働によって創造される価値一般と一致する。だが、かよう 的に生じた・性格である。一定の歴史的時代によって規定さ にして、他の価値部分たる利潤と地代も、やはり、自立的に 労賃に対応するのであって、固有のーー労働とは独自的に異 一れた、資本制的生産過程におけるそれらの社会的な性格は、 なり、かっ係わりのないーー諸源泉から生ずるのでなければ 一一一それらのものに自然的に・いわば永遠の昔から・生産過程の ならない。利潤と地代は、協同的な生産諸要素から発生し、 章諸要素として生来そなわる物的な性格である。だから、生産 その所有者たちの手に帰属するのでなければならない。つま 四過程一般で占める土地ーー労働の本源的就業場面としての、 第 り利潤は、資本の質料的要素たる生産手段から発生し、地代 自然力の領域としての、あらゆる労働対象の現存兵器庫とし は、土地所有者によって代表される土地または自然から発生 ての、土地ーーの分前と、生産された生産手段 ( もろもろの 用具・原料など ) の分前と、そのばあい、それそれ、資本おするのでなければならない。 ( ロッシャー。 )

3. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

3 イ 2 市場価格と一致すると仮定せよ。さらに、再生産はつねに同の価値量の形成としてー現象するであろう。こうした仮象 が生ずるのは必然であろう。というのは、個別的資本および じ同等不変な諸関係のもとで行なわれるもの、つまり、労働 の生産性は資本のあらゆる要素において不変なもの、と仮定その商品生産物の現実的運動においては、商品の価値がその せよ。最後に、商品生産物の価値のうち、どの生産部面でも分裂の前提として現象するのでなく、逆に、その分裂してゆ・ く諸成分が商品の価値の前提として機能するからである。さ つまり、あら 生産手段の価値にたいする新たな労働分量 しあたり、すでに見たように、各資本家にとっては商品の費 たに生産された価値ーーの追加によって形成される部分は、 用価格は与えられた大いさとして現象し、また現実的生産価 つねに、同等不変な比率で労賃・利潤および地代に分かれ、 したがって、現実に支払われる労賃、事実的に実現される利格においてはたえず与えられた大いさとして現われる。だが 潤、および事実上の地代は、労働力の価値、総剰余価値のう費用価格は、不変資本ーー投下された生産手段ーーの価値、 プラス、労働力の価値、に等しい。しかるに労働力の価値は、・ ち平均利潤率によって総資本中の自立的に機能する各部分に 帰属する部分、および、この基礎上で地代が正常的にはとじ生産当事者にとっては、労働の価格という不合理な形態であ こめられている限界、とつねに直接に一致するものと仮定せらわれ、したがって、労賃が同時に労働者の収入として現象・ よ。一言でいえば、社会的価値生産物の分配と生産価格の規する。労働の平均価格は与えられた大いさである。というの は、労働力の価値は、ほかの各商品の価値と同じように、そ 制とが、資本制的基礎上で、ただし競争のないところで行な の再生産に必要な労働時間によって規定されているからであ一 われるものと仮定せよ。 だから、これらの前提のもとでは、商品の価値は不変である。だが、商品の価値のうち労賃に分解する部分についてい り、かっ不変に見え、商品生産物の価値のうち諸収入に分解えば、この部分は、それが労賃の形態をとることーー資本家 が労働者にたいして労働者じしんの生産物中の労働者分を労 する部分は不変量としてとどまり、かつつねに不変量として から発生するのではな 賃という現象形態で前貸すること あらわれ、最後にこの与えられた・かっ不変の価値部分は、 つねに不変の比率をもって労賃・利潤および地代に分かれる く、労働者が彼の労賃に照応する等価を生産すること、すな町 であろうが、この前提のもとでさえも、現実的運動は必然的わち、彼の日労働または年労働の一部分が彼の労働力の価格 に逆立ちした姿態でーーたがいに独立する収入諸形態をとる中に含まれる価値を生産すること、から発生する。だが労賃 は、それに照応する価値等価が生産される以前に、契約によっ 三つの部分への、あらかじめ与えられている価値量の分裂と してでなく、逆に、独立しかっそれだけで自立して規定されて定められる。だから労賃は、商品および商品価値が生産さ る労賃・利潤および地代という諸構成要素の総和からの、これる以前に与えられた大いさをもつ一つの価格要素として、

4. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

314 をこ町 分量 ) となってあらわれる剰余労働・不払労働であり、このれは不変資本の価値プラス可変資本の価値に等しい 剰余価値はまた、利潤 ( 企業者利得プラス利子 ) および地代える生産された価値超過分、に等しいだけだからである。 利潤および地代の形態に転形された剰余価値の一部分が、 という、上述のさまざまな部分に分かれる。 だから、商品の価値のうち、一日間または一年間に追加さ収入としては消費されないで蓄積に役だっということは、こ こで解決すべき困難にとっては全くどうでもよい。剰余価値 れる労働者たちの総労働が実現される部分総体、この労働が 創造する年生産物の総価値は、労賃の価値、利潤、および地のうち、蓄積元本として貯蓄される部分は、新追加資本の形 代に分かれる。というのは、この総労働は、必要労働 こ成に役だつが、旧資本の填補にはーー・旧資本のうち労働力に れによって労働者は、生産物価値のうち、彼じしんが支払わ投下された成分の填補にも、労働手段に投下された成分の 補にもーー役だたない。だから、ここでは、簡単にするため れる部分っまり労賃を創造するーーと、不払の剰余労働 これによって労働者は、生産物価値のうち、剰余価値をあら に、収入はすっかり個人的消費に入りこむものと仮定されう わして後に利潤と地代に分化する部分を創造する・・ーーとに分る。困難は一一重にあらわれる。一方では。もってこれらの収 かれるからである。この労働いがし冫ー 、こよ、労働者はなんらの入ーー労賃、利潤、地代ーーが消耗されるべき年生産物の価 労働もおこなわす、労賃・利潤・地代という諸形態をとる生値は、そのうちに、年生産物に移った不変資本部分の価値部 産物の総価値し : 、、には、労働者はなんらの価値も創造しな 分に等しい一価値部分をふくむ。年生産物は、労賃に分解す 一年間にあらたに追加される彼の労働のあらわれたる年る価値部分と、利潤および地代に分解する価値部分とのほか 生産物価値は、労賃または可変資本の価値、。フラス、剰余価に、右の価値部分をふくむ。だから年生産物の価値は、日労 値ーーこれはふたたび利潤および地代という諸形態に分かれ賃十利潤十地代十 0 ( この o は不変価値部分をあらわす ) で ある。でよ、、、 るー・・ー・に等しい。 ーし力にして、年々生産される価値ーーこれは労 だから、年生産物の価値のうち労働者が一年間に創造する賃十利潤十地代に等しいだけである・ーー・は、 ( 労賃十利潤十 部分総体は、三つの収入の年々の価値総額たる労賃・利潤お地代 ) 十 o だけの価値ある生産物を買うべきか ? 年々生産 よび地代の価値において、みずからを表現する。だから明ら される価直よ、、、 イ。し力にして、それ自身よりも大きい価値をも かに、年々創造される生産物価値においては、不変資本部分っ生産物を買いうるか ? の価値は再生産されていない。というのは、労賃は、生産に 他方では。われわれが不変資本のうち、生産物に入りこん 投下された可変資本部分の価値に等しいだけであり、地代おでいない部分、したがって、商品の年生産以前と同じく以後 よび利潤は、剰余価値、すなわち、投下資本の総価値 にもーー価値は減少しているとはいえーー存続する部分を度

5. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

八 % に減少する。というのは、減少した剰余価値が、増加しけとるからでなく、労働者が彼じしんの労働のより大きな部 分を受けとるのは労働の生産性が減少したからだとすれば、 た投下総資本にもとづいて計算されねばならぬからである。 だが利潤率は、け 0 して剰余価値率と同じ比率では減少しな事態は趣きを異にするであろう。このばあいには、同じ労働 がもって自らを表示する総 支払労働プラス不払労働 い。剰余価値率は剏からに、つまり一五〇 % から六 六 % に減少するが、利潤率の方は「から 8 一訒に、すな価値は同一不変であろう。だが、この労働分量がも「て自ら わち = 一〇 % から一八 % にしか減少しない。つまり利潤率のを表示する生産物の分量は減少し、したが 0 て生産物の各可 除部分の価格は騰貴するであろう。というのは、各部分がよ 減少比率は、剰余価値分量のそれよりも大きいが、剰余価値 り多くの労働を表示するからである。昻騰した労賃 150 は、 率のそれよりも小さい。さらに、あいかわらず同じ労働量が 投下資本は可変的成分の増加の結果以前の労賃さ 0 よりも多くの生産物を表示しはしないであろ 充用されるならば、 として増大したにもかかわらすーー生産物の価値ならびに分う。減少した剰余価値】 00 は、もはや、以前にくらべて三分 こ 100 で表示された使用価 の二の生産物を、すなわち、以前冫 量は同一不変であることがわかる。投下資本のこの増大は、 もちろん、新事業を開始する資本家には手痛いであろう。だ値の分量の六六 % を、表示するにすぎぬであろう。このば が、再生産のぜんたいを考察すれば、可変資本の増加なるもあいには、この生産物が不変資本に入りこむかぎりは、不変 のは、新追加労働によ 0 て新たに創造された価値のより大き資本も高価となるであろう。だが、これは労賃昻騰の結果で な部分が労賃に、したが「てさしあたり剰余価値および剰余はなく、労賃の昻騰こそ、商品昻騰の結果であり、同一分量 の労働の生産性減少の結果であろう。このばあいには、労賃 生産物にでなく可変資本に、転形されること以外には何も意 の騰貴が生産物を高価ならしめるかのような仮象が生する。 味しない。だから生産物の価値は同一不変である。というの だが、労賃の騰貴は、このばあいには原因ではなく、労働の は、それは一方では不変資本価値Ⅱ 400 によって限され、 仮 他方では、新追加労働がも 0 て自らを表示する数字 200 によ生産性減少による商品の価値変動の結果である。 の これに反し、その他の事情が同等なばあい、つまり、同一 竸って倒限されているからである。しかるにこの両者は依然と 章して不変である。この生産物は、それ自身がふたたび不変資分量の充用労働があいかわらず 0 でみずからを表示するば あいに、これによって充用される生産手段の価値が増加また 五本に入りこむかぎりでは、あいかわらず、同じ価値量におい 第 て同等分量の使用価値を表示するであろう。つまり、同一分は減少すれば、同一分量の生産物の価値が同じ大いさだけ増 加または減少するであろう。 450C 十 100V 十】 50m ならば、生 量の不変資本諸要素は同一価値を保持するであろう。労賃が 増加するのは労働者が彼じしんの労働のより大きな部分を受産物価値は以前の 600 にたいし 700 であるが、 350C 十さ ov 十 912

6. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

いう相異なる収入諸形態への分化および分解は、価値そのも者は彼の日労働のうち平均六時間を自分じしんのために労働 のの限界ーーこれらの相異なる範疇間に分配される価値総額せねばならない。彼の労働力の現実的価値はこの肉体的最低 をなんら変化させないのであって、それはあたかも、こ限から背離する。それは、気候風土や社会的発展の状態やに れらの個々の部分相互間の比率の変動が諸部分の総額ーーこ応じて相違する。それは、肉体的慾望に依存するばかりでな の与えられた価値量ーーを変化させえないのと同じである。 く、歴史的に発展した社会的慾望ーーこれは第一一の自然とな 与えられた数 100 は、 50 十 50 に分かれても、 20 十 70 十 10 に るーー・にも依存する。だが、どの国でも、ある与えられた時 分かれても、 40 十 30 + 30 に分かれても、依然として同一不変代には、この調整的な平均労賃はある与えられた大いさであ である。生産物価値のうちこれらの収入に分かれる部分は、 る。だから、残りの諸収入ぜんたいの価値には限界がある。 資本価値の不変部分とまったく同じように、商隨の価値によ この価値はつねに、総労働日 ( これは、社会的総資本によっ って、すなわち、そのときどきに商品に対象化される労働の て運動させられる総労働分量を包括するから、このばあいに 分量によって、規定されている。だから第一に、商品価値の は平均労働日と一致する ) がもって自らを体化する価値、マ うち労賃・利潤および地代に分配される分量が、つまりこの イナス、労賃において自らを体化する価値部分、に等しい 商品の価値諸部分の総額の絶対的限界が、与えられている。 だから、この価値の限界は、不払労働がもって自らを表現す 第二に、個々の範疇そのものについていえば、その平均的で る価値の限界によって、すなわちこの不払労働の分量によっ 調整的な限界も与えられている。労賃はこの限界づけの基礎て、与えられている。労働日のうち、労働者が彼の賃銀の価 をなす。労賃は一面からみれば自然法則によって調整されて値の再生産に要する部分が、彼の賃銀の肉体的最低限をその いる。その最低限界は、労働者がその労働力を維持し再生産最後の限界とするものとすれば、労働日のうち、彼の剰余労 働がもって自らを表示する他方の部分は、したがってまた剰 象するために得なければならぬ生活手段の肉体的最低限によっ 余価値を表現する価値部分は、労働日の肉体的最高限を、す のて、つまり、一定分量の諸商品によって、与えられている。 なわち、労働者が彼の労働力の維持および再生産にあたって 竸これらの商品の価値は、その再生産に必要な労働時間によっ 総じて提供しうる日々の労働時間の総分量を、その限界とす 章て、つまり、生産手段にあらたに追加される労働のうち 五あるいはまた労働日のうちーー・労働者がこれらの必要生活手る。ここでの考察では、年々あらたに追加される総労働がも 第 って自らを表示する価値の分配が問題だから、労働日はここ 段の価値の等価を生産および再生産するに要する部分によっ て、規定されている。たとえば、労働者の平均的な日々の生では、それが肉体的最高限からどれだけ背離するかしないか に係わりなく、不変量と見なされえ、また不変量として前提 活手段が、価値からみて六時間の平均労働だとすれば、労働

7. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

318 び地代として自らを表示する他方のとに、分解する。あとて労働者たちは、彼らの商品生産物のうち、この貨幣によっ の価値成分は、まえの価値成分 << にたいして対立を形成すて度量された、彼らによって収入として消費される部分を買 る。というのは、が、その他の事情が同等なばあい、 ( 一 ) 、う。貨幣流通を除外して考えてみれば、労働者の生産物の一 収入の形態をとらず、 ( 一 l) 、つねに資本しかも不変資本の形部分は、資本家の手では現存資本の形態にある。この部分を 態で還流するかぎりにおいてである。とはいえ、他方の成分資本家は資本として投下し、これを新労働力とひきかえに労、 は、それ自身においても再び対立を生じている。利潤およ働者に与えるのであるが、労働者の方は、これを直接に、ま び地代は、労賃とのあいだに、それらはすべて三つの収入形たは他の諸商品と交換することによって、収入として消費す 態をなすという共通点を有する。にもかかわらす、利潤およ る。だから生産物価値のうち、再生産にさいして労賃に び地代においては剰余価値つまり不払労働がみずからを表示労働者のための収入に 転形すべき部分は、さしあたり、 し、労賃においては支払労働がみずからを表示するというこ資本、くわしくいえば可変資本の形態で資本家の手に還流す とによって、それらは本質的に区別されている。生産物価値 る。それがこの形態で還流するということは、労働が賃労働 のうち、支出された労賃を表示ーーっまり労賃を填補ーーし として、生産手段が資本として、生産過程そのものが資本制 て、再生産が同じ規模で同じ条件のもとで行なわれるという的生産過程として、たえず新たに再生産されるための、本質 われわれの前提のもとでは再び労賃に転形される部分は、さ的な一条件である。 しあたり、可変資本として、再生産のため新たに投下される 無用な困難にまきこまれないためには、総収益および純収 べき資本の一成分として、還流する。この成分は二重に機能 益を、総収入および純収入から区別しなければならない。 する。それはまず、資本の形態で実存し、資本として労働力 総収益または総生産物というのは、再生産された生産物ぜ と交換される。労働者の手で、それは収入ーーこれを労働者んたいである。固定資本のうち、充用されているが消費され はじぶんの労働力を売ることによってえるーーに転形し、収ていない部分を除外すれば、総収益または総生産物の価値は、 入として生活手段に転態されて消費される。貨幣流通によっ投下されて生産中に消費された資本ーー不変資本および可変 て媒介されるばあいには、この二重の過程があらわれる。可資本ーーの価値、プラス、利潤および地代に分解する剰余価 変資本は貨幣で投下され、労賃に支払われる。これは、資本値、に等しい。または、個別的資本の生産物でなく、社会的 としての可変資本の第一機能である。可変資本は労働力と転総資本の生産物を考察するならば、総収益は、不変資本およ 態されて、この労働力の発現たる労働に転形される。これは び可変資本を形成する質料的諸要素、。フラス、利潤および地 資本家にとっての過程である。だが第一一に。 この貨幣をもっ代のあらわれたる剰余生産物の質料的諸要素、に等しい。

8. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

にも、全部的には実現されない。いずれにしても、利潤プラ れない剰余価値部分は価格形成にとっては失われてしまうと しても、平均利潤プラス地代の総和は、その正常的形態におス地代は実現された剰余価値 ( 剰余労働 ) の全部に等しく、 ここで問題たる考察のためには、実現された剰余価値は全剩 、ては、総剰余価値より小さくはあっても大きくはありえな 。その正常的形態は、労働力の価値に照応する労賃を前提余価値に等しいとされうる。というのは、利潤および地代は 実現された剰余価値であり、つまり、総じていえば諸商品の とする。独占地代でさえも、それが労賃からの控除でなく、 つまり特殊的範疇をなさないかぎりは、間接にはつねに剰余価格に入りこむ剰余価値であって、実際的にみれば、この価 価値の一部分をなさざるをえない。〔すなわち独占地代は〕差格の一成分をなす全剰余価値だからである。 他方、収人の第三の独自な形態をなす労賃は、つねに、資 額地代のばあいのように、それが一成分をなす商品そのもの 本の可変的成分、すなわち、労働手段にではなく生きた労働 の生産費をこえる価格超過分の一部分をなさないとしても、 または、 ( 絶対地代のばあいのように ) それが一成分をなす力の購入・労働者の支払・に投下される成分に等しい。 ( 収 商品そのものの剰余価値の超過部分ーーその商品じしんの剰入の支出において支払われる労働は、それじしん、労賃・利 余価値のうち平均利潤によって度量される部分をこえる 潤・または地代によって支払われ、したがって、その支払を をなさないとしても、しかも他の諸商品の、すなわち独占価なすべき何らの商品価値部分も形成しない。だからこの労働 格をもっこの商品と交換される諸商品の、剰余価値の〔一部分は、商品価値・およびこの商品価値が分裂する諸成分・の分 にをなさざるをえない〕。 平均利潤プラス地代の総和は、そ析では考察されない。 ) それは、労働者の総労働日のうち、 たれらを部分とする・そしてこの分割以前にすでに与えられて可変資本の価値したがって労働の価格が再生産される部分の 析いる・大いさよりも大ではありえない。だから、諸商品の総対象化であり、商品価値のうち、労働者が自分じしんの労働 力の価値または自分の労働の価格を再生産する部分である。 の剰余価値、すなわち、諸商品に含まれている全剰余労働が 過諸商品の価格において実現されるか否かは、われわれの考察労働者の総労働日は二つの部分に分かれる。その一部分は、、 労働者が自分じしんの生活手段の価値を再生産するために必 生にとってはどうでもよい。剰余労働は、すでにつぎのこと、 章すなわち、ある与えられた商品の生産のため社会的に必要な要な労働分量をおこなう部分であり、彼の総労働中の支払部 四労働の大いさの絶えざる変動 , ーーこれは、労働の生産力にお分であり、彼の労働のうち自分じしんの維持および再生産に . 第 必要な部分である。労働日の残り全部、労働者がじぶんの労 ける絶えざる変動から生ずるーーーによって、商品の一部分は つねに異常な条件のもとで生産されざるをえず、したがって賃の価値に実現された労働をこえて行なう超過労働分量のぜ んたいは、彼の全商品生産の剰余価値 ( したがって超過商勗 その個別的価値以下で売られざるをえないということのゆえ

9. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

労賃・利子および地代をもってしては、 . 商品が利益をともな諸形態に分解することが極めて自明となるので、この方法が ( 地代のところでわれわれが例示したような過去の歴史的諸 財って、すなわち相当な企業者利得の実現をともなって、与え られた一般的市場価格またはそれ以下で販売されうるか否か時代はいうに及ばず ) もともとかの収入諸形態の実存諸条件 が欠けているところにも充用される。すなわち、いっさいが ということだけが問題となる。ある国では、労賃と土地価格 とは低いが資本の利子は高く、 というのは、この国では類推によって、かの収入諸形態のもとに包摂される。 他の国 ある独立の労働者ーーー小農をとってみよう、というのは、 資本制的生産様式が総じて発展していないから、 このばあいには、三つの収入形態のすべてが充用できるから では、労賃と土地価格は名目的に高いが資本の利子は低いと すれば、資本家は一方の国ではより多くの労働と土地とを充であるーーが、自分じしんのために労働し、自分じしんの生 用し、他方の国では相対的により多くの資本を充用する。こ産物を売るとすれば、彼は、第一には、自分じしんを労働者 として充用する自分じしんの雇傭者 ( 資本家 ) と見なされ、 のばあいに両国間の竸争がどの程度まで可能かという計算に また、自分じしんを自分の借地農業者として充用する自分じ は、これらの因子が規定的要素として入りこむ。だからこの 場合には、商品の価格は労賃・利子および地代によって、すしんの土地所有者と見なされる。彼は賃労働者としての自分 には労賃を支払い、資本家としての自分には利潤を請求し、 なわち労働・資本および土地の価格によって規定されるとい うこと、および、これらの価格要素は事実上では調整的な価土地所有者としての自分には地代を支払う。資本制的生産様 格形成者であるということは、経験が理論的に示し、また資式およびこれに照応する諸関係を一般的・社会的な基礎とし て前提すれば、この包摂は、彼が自分じしんの剰余労働を取・ 本家の利害打算が実際的に示すところである。 得しうるのは彼の労働のおかげではなく、生産手段ーーーーこれ もちろん、そこにはなおつねに、前提されているのでなく はここでは一般的に資本の形態をとっていたーーの所有のお 商品の市場価格から生する一要素、すなわち、かの労賃・利 かげだというかぎりにおいて正しい。しかもさらに、彼が自 子および地代という諸要素の合計からなりたっ費用価格をこ える超過分が、残っている。この第四の要素は、各個の場合分の生産物を商品として生産する・つまり生産物の価格に依・ 存する・かぎりでは ( でない場合でもこの価格は見積られう には竸争によって、もろもろの場合の平均では平均利潤 ふたたび同じ競争によって、といっても、より長期間にのみる ) 、彼が利用しうる剰余労働の分量は、それ自身の大いさ、 にでなく一般的利潤率に依存する。同様にまた、剰余価値の によって、規定されるかに見える。 調整される平均利潤 うち一般的利潤率によって規定される部分をこえるどんな超 ~ 第五に。資本制的生産様式の基礎上では、新追加労働がも って自らを表示する価値を労賃・利潤および地代という収入過分も、彼によってなされる労働の分量によって規定される、

10. 世界の大思想21 マルクス 資本論4

本は資本家に利潤をもたらし、土地は土地所有者に地代をも労働者によって創造された価値の一部分ーーしたがって、社 たらし、労働力はーー・正常的諸関係のもとでは、そして労働会的生産物のうち、この価値部分によって度量される一部分 力が使用にたえる労働力であるかぎりはーー労働者に労賃を たる必要生活手段ーーを労賃という名義のもとで獲得するた もたらすということ、これである。年々生産される総価値中めの、たえす自らを更新する条件であり、たえす自らを更新 のこれら三つの部分、および、年々生産される総生産物中こする手段である、という意味においてである。それらがそう れに照応する三つの部分は、 われわれはここでは、さし したものであるのは、さらにつぎの意味、すなわち、資本は あたり蓄積を度外視する、 そのそれそれの占有者によっ年々の労働の価値したがって生産物の一・部分を利潤の形態で て、年々、その再生産の源泉を涸渺させることなしに消耗さ固定させ、土地所有は他の一部分を地代の形態で固定させ、 れうる。これらの三部分は、一本の多年生の樹の、またはむ賃労働は第三の一部分を労賃の形態で固定させるのであり、 しろ三本の樹の、年々消耗されるべき果実として現象し、資まさにこの転形によってこそ、資本家、土地所有者、および 本家、土地所有者、および労働者という三つの階級の年々の労働者の収入に転形ーーといっても、これらの相異なる範疇 収入ーー剰余労働の直接的汲出者および労働一般の充用者と させる に転形される実体そのものを創造することなしに しての機能資本家によって分配される収入ーーをなす。だか のだ、という意味においてである。分配はむしろ、現存する ら、資本家にとっては彼の資本が、土地所有者にとっては彼ものとしてのこの実体、すなわち、対象化された社会的労働 の土地が、労働者にとっては彼の労働力またはむしろ彼の労にほかならぬ年生産物の総価値を、前提とする。とはいえ、 働そのものが ( というのは、労働者は労働力をば、みずから事態が生産当事者たちーー生産過程の相異なる諸機能の担い を発現するものとしてのみ現実に売るのであり、また労働者手たちーーのまえに現われるのは、こうした形態においてで にとっては労働力の価格は、以前に明らかにされたように、 はなく、むしろ、逆立ちした一形態においてである。な。せそ 資本制的生産様式の基礎上では必然的に労働の価格として現んなことが起こるかは、研究がすすむにつれて詳しく展開す われるのだから ) 、利潤、地代、および労賃という彼らの独るであろう。資本、土地所有、および労働は、かの生産当事 かかる , も 自な収入の三つの相異なる源泉として現象する。それらがそ者たちにとっては、三つの相異なる独立の源泉 うしたものであるのは、事実上ではつぎの意味、すなわち、 のとしてのそれらから、年々生産される価値・したがってそ 資本は資本家にとり、剰余労働の永続的汲出機であり、土地こにこの価値が実存している生産物・の三つの相異なる成分 は土地所有者にとり、資本によって汲みだされた剰余価値の が発生するところの、つまり、それらからして、社会的生産 過程の特殊的諸要因に帰属する諸収入としての、この価値の 一部分を吸引するための永続的磁石であり、最後に労働は、