373 用語解説 の考察においては、何よりもまず、資本の総価値が残ら ず貨幣資本、または生産資本、または商品資本という単 一の形態のみで登場すると規定されていた。だがこのよ うな規定は、単純商品生産のもとでの注文生産の場合 か、あるいは運動している資本のある個別的部分につい てのみ妥当するのであって、正常で連続的な資本循環の 総過程を問題にする場合には三つの資本循環が同時に相 並行して進行している。すなわちどの時点をとってみて も投下資本価値は貨幣資本、生産資本、商品資本という 三つの形態に分割されて同時に存在するものと想定しな ければならない。 資本価値のうち、生産諸要素の形態をとって生産過程 で機能している部分は生産資本と呼ばれ、現実には建 物、機械、原材料、燃料などの形態で存在する。また資 本価値のうち、流通過程にあって商品形態をとっている 部分 ( 商品資本 ) と貨幣形態をとっている部分 ( 貨幣資 本 ) とは流通資本と呼ばれる。 生産資本と流通資本とは資本の価値増殖にとって欠く べからざる構成部分であるが、両者はともに価値増殖の 機能を果たすわけではない。価値増殲機能を遂行するの は生産過程で機能する生産資本だけであって、流通資本 は増殖された価値を実現する機能を果たすにすぎない。 生産資本と流通資本の機能の分離は、資本間の分業とし て自立化し、商品取扱い資本あるいは商業資本範疇確立 の基礎を形成する。 補 2 流通費資本循環のうち流通過程においては何う の新しい価値形成が行なわれず、したがって、単に資本 価値の姿態転換が行なわれるにすぎないが、この姿態転・ 換のためにも一定の期間 ( = 流通時間 ) と資財および労 働が必要である。流通過程における資本の姿態転換、す・ なわち流通資本の運動に必要な費用を流通費という。 流通費の内容と性格を詳細に検討することは、価値形 成および価値増殖はもつばら資本の直接的生産過程にお・ いて遂行され、流通過程はその成果を実現する過程にす ぎないという性格を一層明瞭にするばかりでなく、生産 過程と流通過程とがどのような接続関係にあるのかをよ。 り具体的に明らかにする。このことによって生産的労働 . と不生産的労働の明確で具体的な区別が明らかにされ、 流通費の資本主義生産の空費という性格づけから流通時・ 間ならびに資本の回転時間のもつ意義が明らかにされ . る。すなわち流通費の考察は、資本の循環から資本の回 転へと発展する論理展開の重要な媒介をなしているので・ ある。 資本の流通費はその性格によって、純粋流通費と、堡 管費および運輸費の二つに分けることができる。純粋流 通費は資本価値を商品形態から貨幣形態へ、貨幣形態か ら商品形態へ転態される費用であって、そこでは何らの - 価値増殖も行なわれず、資本主義的生産にとっての空 である。保管費はそれが新しい使用価値を追加しないと いうかぎりで資本主義的生産の空費であるが、資本の形
に、どうして、イングランド銀行が担保として保有する有価うことを証明するものでは決してない。購買手段としての銀 証券の分量が増大しうるか、つまり、同銀行からの貨幣融通行券の流通は、こうした強大な融通が要求されうる不況期に を求める増加的殺到が満足させられうるかは、きわめて簡単は減少するのであるから、支払手段としての銀行券の流通が に説明できる。しかもこの総分量は、こうした貨幣払底時代増加しても、流通手段の総額ーー・購買手段として、および支 には一一重の仕方で制限される。すなわち (l) 、金の流出に 払手段として、機能する銀行券の総額ーーーは不変不動であり よ 0 て。 ( 一 l) 、たんなる支払手段としての貨幣にたいする需うるし、減少することさえありうる。発行銀行にすぐ還流す 要 このばあいには、発行された銀行券がすぐ還流する る銀行券の支払手段としての流通は、かの経済学者たちの眠 か、または、帳簿信用によって取引がぜんぜん銀行券発行な には何らの流通でもない。 しに片づくのであり、したがって、たんなる信用取引によっ 支払手段としての流通手段の増加度が、購買手段としての て諸支払 ( その決済が取引の唯一の目的であ「た諸支払 ) がそれの減少度よりも高いならば、購買手段として機能する貨 解 見媒介される によ「て。貨幣がたんに諸支払の決済のため幣が分量的にいちじるしく減少しても、総流通手段は増加す ン に機能するばあいには ( しかも、恐慌期に前貸が借りられる るであろう。そして、こうしたことが、恐慌の特定瞬間、す 一のは、支払うためであって買うためではなく、過去の取引を なわち、商品や有価証券が売れないばかりでなく手形も割引 フ 片づけるためであって新たな取引を開始するためではない ) 、 されえず、現金支払。ーーまたは商人のいうキャッシュ クこの決済がぜんぜん貨幣介入なしの単なる信用操作によって がいには何も通用しない完全な信用崩壊期には、現実に生ず 行なわれないかぎりでさえも、貨幣の流通は一時的にすぎぬる。フラートンその他は、、、支払手段としての銀行券の流通は ということ、つまり、貨幣融通を求める殺到が大きくても流こうした貨幣飢饉時代の特徴であることを理解しないので、 本 資通手段の拡大なしに尨大量のこうした取引が行なわれうると こうした現象を偶然的なものとして取扱う。「銀行券を入手 段いうこと、 こうしたことは貨幣の独自性である。だが、 しようとする熱烈な競争は、パニック時代を特徴づけ、また 通イングランド銀行によって提供される強大な貨幣融通と同時時には、一八二五年末のように、地金流出がまだ続いていて に同銀行〔券〕の流通が不変不動または減少しさえするとい も突然な , ーー一時的にすぎぬとはいえーー発券増加を生ぜし 八う単なる事実は、一見して明らかに、フラートン、トウークめうるのであるが、ふたたびこうした竸争の実例についてい 第その他が ( 貨幣融通を貸付資本・追加資本・の借用と同一視えば、こうした実例は為替相場低落の自然的で必然的な附随 する彼らの誤りの結果として ) 仮定するように、支払手段と現象と見なされるべきではない、と私は考える。こうした場 して機能する貨幣 ( 銀行券 ) の流通は増加・膨脹しないとい 合における需要は、流通手段」 ( 購買手段としての流通手段
そのもとで地代を取扱うべき諸項目はつぎのものである。 には、もっとも貧弱で無地代であるが生産価格を調整する土 、差額地代。 地で同じ投資をもって実現されるよりも ( たとえば小麦のク ( 一 ) 、差額地代の概念。水力による例証。本来的農耕地代オーター数からみて ) 大きな生産性をもっ土地ーーでの継起 への移行。 的諸投資の差等生産性の相違にもとづいて、行なわれうる。 ( 一 l) 、差額地代— 相異なる地所の豊饒度の相違から だが、この超過利潤がどうして成立するかをとわす、それの 生するもの。 地代への転形、つまり、借地農業者から土地所有者へのそれ (lll) 、差額地代Ⅱ、 同じ土地での継起的投資から生ずの移譲は、その先行条件として、個々の継起的諸投資の部分 るもの。差額地代Ⅱをつぎの場合について研究すること。 諸生産物が有する ( 一般的で市場調整的な生産価格から独立 (<) 、生産価格が不変なばあい する ) 相異なる現実の個別的生産諸価格が、あらかじめ一つ (=) 、生産価格が低落するばあい の個別的平均生産価格に均等化されるということを、つねに (o) 、生産価格が昻騰するばあい 前提する。一エーカーの生産物の一般的な調整的生産価格が そしてさらに、 右に述べたその個別的平均生産価格をこえる超過分は、エー (z) 、超過利潤の地代への転形。 カーあたりの地代を形成し、かっ度量する。差額地代—にあ ( 四 ) 、この地代が利潤率におよぼす影響。 っては、差等的諸結果は絶対的に区別されうるものである。 、絶対地代。 というわけは、それらの結果は、区別された・相互に分離し 0 、土地価格。 並行して横たわる・地代諸部分において、エーカーあたりの 、地代にかんする終結的諸考察。 標準と見なされる出資とこれに照応する標準的耕作とのもと で生ずるからである。差額地代Ⅱにあっては、差等的諸結果 は、ます区別されうるものとされねばならない。それらは事 差額地代一般の考察による一般的結論として、つぎのこと がわかる。 実上、差額地代—に再転形されねばならぬのであって、この 第一に。超過利潤の形成は、相異なる途をへて行なわれう再転形は既述の仕方でのみ行なわれうる。たとえば二〇〇頁 る。一方では、差額地代—にもとづいて、すなわち、ある地の表三をとってみよう。 土地は、エーカーあたり一一ポンドの第一次投資にたい 面ー・ー豊饒度を異にする諸土地種類からなりたっ地面ーーで の総農業資本の投下にもとづいて、行なわれうる。さらに、 して二クオーター、同等な大いさの第二次投資にたいして一 差額地代Ⅱとしては、同じ土地ーーといっても、このばあい クオーター、合計、同じ一エーカーで三クオーターをも
ばならない。資本主義制度においては、奴隷制度などにおけ三三 % である。ところが、どれだけの使用価値が一定の時 間中、したがってまた一定の剰余労働時間中に生産されるか 8 ると同じく、剰余労働はただ敵対的な一形態をとるのであっ は、労働の生産性に依存する。だから、社会の現実的富、お て、社会の一部分の純粋な無為徒食によって補足される。一 定分量の剰余労働は、災害にたいする保険のために必要であよび、社会の再生産過程のたえざる拡大の可能性は、剰余労 働の長さに依存するのではなく、剰余労働の生産性に、およ 、再生産過程の必然的な・慾望の発展および人口の増加に 照応する・累進的拡張ーーこれは資本制的立場からは蓄積とび、そのもとで剰余労働が行なわれる生産諸条件の内容豊富 名づけられるーーのために必要である。資本がこの剰余労働 さの大小に依存する。自由の領域は、事実上、窮迫と外的合 をつぎのような様式および諸条件ーーすなわち、従来の奴隷 目的性とによって規定される労働がなくなるところで、はじ 制、農奴制などという諸形態のもとでよりも、生産諸カ・社めて始まる。だからそれは、事態の本性上、本来の物質的生 会的諸関係・の発展のため、および、より高度な新社会の諸産の部面の彼岸のものである。未開人がじぶんの慾望を充た 要素の創造のためにいっそう有利な諸条件ーーーのもとで強制すため、じぶんの生活を維持し再生産するために自然と戦わ するということは、資本の開化的側面の一つである。資本はねばならぬように、文明人もこうした戦いをしなければなら かくして、一面では、社会の一部分によっての他部分を犠牲ず、しかも、どんな社会形態、ありうべきどんな生活様式の とする強制および社会的発展 ( その物質的および知的諸利益もとでも、こうした戦いをしなければならない。人間の発展 この自然的必然の領域 につれて、慾望が拡大するがゆえに、 をふくむ ) の独占化が見られなくなるような一段階を生ぜし めるのであるが、他面では、この独占化は、より高度な社会が拡大する。だが同時に、この慾望を充たす生産諸力も拡大 形態のもとではこの剰余労働を物質的労働一般にあてられるする。この領域内での自由は、ただ、社会化された人間・結 時間のいっそう大きな制限と結びつけることを許すような、 合した生産者たちが、自然との彼らの質料変換によって、盲 この質料変 諸関係のための物質的手段および萌芽を創造する。というの 目的な力によってのように支配されるかわりに、 は、剰余労働は、労働の生産力の発展しだいで、総労働日が換を合理的に規制し、彼らの共同的統制のもとにおくという 小さくても大でありえ、また、総労働日が大きくても相対的点ーーー最小の力を充用して、彼らの人間性に最もふさわしく に小でありうるからである。必要労働時間が三時間、剰余労最も適当な諸条件のもとで、この質料変換を行なうという点 働が三時間ならば、総労働日は六時間であり、剰余労働の率 にのみありうる。だが、これは依然としてつねに必然の は一〇〇 % である。必要労働が九時間、剰余労働が三時間な領域である。必然の領域の彼岸において、自己目的として行晒 らば、総労働日は一二時間であり、剰余労働の率はわすかに なわれる人間のカの発展が、真の自由の領域が、
によって影・ るか商品の形態で行なわれるかに係わりなく カからの輸入品と交換し、これを見返り輸入なしに輸出しう る。いずれにしても、価値にかんしては、イギリスはじぶん響されるという。為替相場が利子歩合によ「て、ことに、両 国ーーその相互的為替相場が問題たる両国ーーで行なわれる・ が何も要費しなかったものを輸出するにすぎない。および、 たとえば追加資本を形成利子歩合の関係によって影響されるということは、もちろん、 (ll) 、イギリスはすでに輸人品 ウイルソンの知るところである。いまもし彼が、資本一般の の支払をしているかもしれな するアメリカからの輸入品 いこと。イギリスがこれを不生産的に、たとえば軍需品とし過剰ーーっまりさしあたり、貴金属を含むあらゆる種類の商一 品の過剰ーー・が利子歩合に共同規定的な影響をおよぼすこと て消費するならば、これはアメリカにたいする何らの債務も を証明しうるとすれば、彼はじぶんの目標にちゃんと一歩ち 形成せず、また対米為替相場に影響をおよぼさない。 かづくことになる。すなわちそのばあい、この資本中の相当 マーチは第一九三四および三五号で自己矛盾をきたしている のであ「て、この点をウッドによ 0 て第一九三八号で注意さ部分を他国に移転することは、両国において利子歩合を れている。「還流をともなうことなしにわれわれが輸出 ( 軍事しかも反対の方向にーー変動させるに違いなく、したが 0 て 支出〔・ = ンゲルス〕 ) する財貨の製作に充用される商品のど第二にはまた両国間の為替相場をも変動させるに違いない。 ・エンゲルス。 ) の部分も、これらの財貨の送られてゆく国からはやってこな ところで彼は、当時彼が編集していた『エコノミスト』 いとすれば、それはどうしてこの国との為替相場に影響する か ? ・トルコとの貿易が普通の均衡状態にあるものと仮定す誌、一八四七年〔五月一三日付〕、五七四頁でいう、 れば、どうしてイギリスとトルコとのあいだの為替相場が、 「あきらかなことだが、貴金属を含むあらゆる種類の大在荷によって 示されるような資本過剰は、必然的に、商品一般の価格下落を生ずる 相クリミアへの軍需品輸出によって影響されるか ? 」 為で = = ー「ーチは平静をうしなう。彼は、すでに第一九三四ばかりでなく、資本の使用料たる利子歩合の低落を生ずるに違いない 号で同じ簡単な質間に正しく答えたことを忘れて、つぎのよ ( 第一項 ) 。もしわれわれが、こんご二年間この国に役だつに足る商品 金 「われわれはすでに実際的問題を論じっくしたも在荷をも。ているとすれば、これらの商品にたいする一定期間の支配 は、在荷が二か月分に足るか足らぬかの場合にくらべて、あまりにも・ ののごとく、いまや形而上学的論争というきわめて高尚な領 低すぎる〔利子〕率を受けとるであろう ( 第二項 ) 。すべての貨幣貸 域にはいる」と。 付は、どんな形態で行なわれようと、一方から他方への、商品にたい 第 する支配の移転にほかならない。だから、商品が過剰に現存すれば貨・ ( ウイルソンの別の主張によれば、為替相場は、一国から他幣利子は低いはずであり、商品が乏しければ貨幣利子は高いはすであ・ 国へのあらゆる資本移転ーーそれが貴金属の形態で行なわれる ( 第一一一項 ) 。商品がい 0 そう豊富に流れてくるばあいには、売手の第
156 いえば盗んだのだと思うがー・ー六ペンスの価値ある木の枝をとった。 農業的労働 ( というのは、ここでは簡単にするために、採集 この過失のために、彼は治安判事から一四日か二〇日の禁鋼を判決さ 的・狩猟的・漁撈的・畜産的労働をふくな ) のこうした自然」 ・、、ジョン・クロッスの事件のようなもの れた。私は諸君に敢ていうカ 発生的生産性は、、 しっさいの剰余労働の基礎である。およそ は、全国、ことに南部では数千も見いだせるのであり、また彼らの状 労働は、さしあたり、かっ本源的には、食糧の取得および生 態は、どうして彼らが身心を維持するかという秘密を解くことが従来 産にむけられているかのようである。 ( 動物は、同時にまた ' もっとも誠実な研究者にとっては不可能だったほどのものである。さ 寒地での保温用の毛皮を与える。ほかに洞穴の住居など。 ) て諸君は、全国に眼をくばって、この五〇〇万家族と、そのうちのこ 剰余生産物と地代とのあいだの同じ混乱が、ダヴ氏にあっ うした層の絶望状態とを考えてみられたい。選挙権から閉めだされた 国民大衆は、苦役に苦役を重ねていてほとんど休むことも知らないのては別の形で表現されている。本源的には、農耕労働と工業・ だ、というのが本当ではないだろうか ? 諸君は彼らを支配階級と比労働とは分離されていないのであって、後者は前者に結びつ 較されたい、 だが、私がそんなことをすれば、ひとは私を共産主 いている。農耕種族たる家屋共同体または家族の剰余労働お 義者だと攻撃するであろう。 ・ : だが諸君は、この苦役しながら選挙 よび剰余生産物は、農業的ならびに工業的労働を包括する。 権をもたない多数の国民を、支配階級と見なされうる部分と比較され 両者は手をつないでいる。狩猟・漁撈・農耕は、適当な道具 はたお 。彼らの富を、彼らの豪奢を、彼らの奢侈を見られたい。彼らの なしには不可能である。機織りや糸繰りなどは、最初には農、 けだし、彼らのあいだにも疲労があるが、それは僊怠の疲労 業の副業として営まれる。 であるーーーを見られたい。また、彼らが、あたかも新しい楽しみを発 以前に明らかにしたように、個々の労働者の労働が必要労 見することだけが問題であるかのように右往左往するさまを見られた も。」 ( 「モーニング・スター」紙、一八六五年一二月一五日付。 ) 働と剰余労働とに分かれるように、労働者階級の総労働を分 剰余労働したがって剰余生産物一般が、地代ーー剰余生産割して、労働者階級のための総生活手段 ( これに必要な生産 物のうち、少なくとも資本制的生産様式の基礎上では、量的手段をふくむ ) を生産する部分は全社会のための必要労働を し力にして および質的に独自に規定されるこの部分ーーと、、、 行なうものと見ることができる。労働者階級の残り全部によ って行なわれる労働は剰余労働と見なされうる。だが必要労 混同されるかは、つぎの点に示されている。剰余労働一般の 自然発生的な基礎、すなわち、それなくしては剰余労働が可働は、けっして農業的労働を含むばかりでなく、労働者の平 能でないという自然条件は、労働日全部にわたらない或る労均消費に必然的に入りこなその他のすべての生産物を生産す 働時間を充用すれば必要な生活維持手段を自然が保証してく る労働をも含む。また社会的にいえば、一方の労働者たちが れるーーー土地の生産物たる植物的または動物的生産物におい 必要労働だけを行なうのは他方の労働者たちが剰余労働だけ てであれ、漁業などにおいてであれーーーということである。 を行なうからであり、また逆のばあいには逆である。これこ
138 指導をひきうけ、「指揮される経営および刺戟される労働の数および本においては、みずからを増殖する価値・剰余価値の生産・ 有用性によって」 ( 一〇一頁 ) ぬきんでるべきだという思想のうちに という資本の自己再生産的性格が、幽玄な素質として純粋に は、動産信用なるものが潜在している。同様に、シャルル・ペクール ことこ、 あらわれる。だからこそ、経済学者の一部さえーー は、銀行 ( サン・シモン主義者が一般的銀行制度〔 Systöm général 産業資本がまだ完全に発展していない諸国たとえばフランス des banques 〕と名づけるもの ) が「生産を統制する」ことを要求す では 利子生み資本をもって資本の基本形態だと固執し、 る。総じてペクールは、はるかに急進的だとはいえ、本質的にはサ また、たとえば地代をもってーーーというのは、このばあいに ン・シモン主義者である。彼は「信用施設か : : : 国民的生産の全運動 も貸付の形態が優勢だというわけでーー利子生み資本の別個 を統制する」ことを欲する。 「ある国民的信用施設、すなわち、 の形態とのみ解することにもなるのである。かようにして、 才能あり功績ある無産者に資金を前貸するが、この借手たちを強いて 生産および消費上の密接な団結によってその支配下に結びつけること資本制的生産様式の内的編制がすっかり誤認され、また、土 なく、むしろ、彼らみずからをしてその交換や生産を決定させるよう 地は資本と同じように資本家にたいしてのみ貸付けられると な、国民的信用施設をつくってみよ。かようにして達成されるもの いうことが全く見のがされる。貨幣のかわりに、もちろん、 は、今日すでに私営諸銀行によって達成されているもの、すなわち、 機械、事業用建物などのような現物での生産手段も貸付けら 無政府状態であり、生産と消費との不均衡であり、一者の突然の破滅 れうる。だがその場合には、これらの生産手段は一定額の貨 と他者の突然の致富であるにすぎない。してみれば、諸君の施設は、 幣をあらわすのであって、リ 不子のほかに磨損のための部分も 一者によって負担される不幸と同じだけの幸福を他者のために生みだ 支払われるということは、これらの資本要素の使用価値・独 : ただ、諸君が前貸をもって支持した す以上には出ないのであり、 賃労働者たちにたいして、こんにち彼らの資本家的雇主たちが行なっ 自な現物形態・から生ずる。決定的なことは、この場合にも ているのと同じ竸争をたがいに行なわせるための資金を与えた、とい また、それらの要素が直接的生産者に貸付けられるーーこれ うことだけであろう。」 (0 ・ペクール「社会。および政治経済学の新は、少なくともこの貸付が行なわれる部面では、資本制的生 理論』、パリ、 一八四二年、〔四三三、〕四三四頁。 ) 産様式が実存しないことを前提とするー・・ーーかどうか、また、 すでに見たように、商人資本と利子生み資本とは、資本のそれらは産業資本家に貸付けられるーーこれこそは資本繝的 もっとも古い形態である。だが、通俗的な考えでは利子生み生産様式の基礎上での前提であるーーかどうか、ということ 資本が資本それ自体の形態としてあらわれる、ということは である。個人的消費用の家屋などの貸付をここに持ちこむの 事態の本性に根ざしている。商品資本においては、ある媒介 いっそう不適当かっ没概念的である。労働者階級がこの 的活動がーーーそれが詐欺と解されるか労働と解されるか何と形態でもーーしかも極悪非道にーー詐取されるのは明らかな 解されるかをとわずーーー行なわれる。これに反し利子生み資事実である。だが、こうした詐 1 。 反よ、彼らに生活手段を供給
働で・つまり賦役労働をもって・支払われるべき地代ーーをする中断 ( 第一部第八章第一一節、工場主とポャール、参照 ) は、生産物地代が純粋なばあいには見られず、また、特定り 四伴なうのであって、地主が私人であろうと国家であろうとこ の点に変わりはない。生産物地代は、直接的生産者のより高賦役が生産物地代とあいならんで存続するばあいには、少な くとも年間のわずかな短期間に圧縮されている。生産者のな い文化状態を、つまり、彼の労働・および社会一般・のより 高い発展段階を、内蔵する。そして生産物地代が先行形態かす自分じしんのための労働と、土地所有者のための労働とは、・ ら区別されるのは、つぎの点、すなわち、剰余労働はもはやもはや、手にとるように時間的および空間的に分割されては いない。その純粋性におけるこの生産物地代は、さらに発展 その現物姿態では行なわれず、したがってまた、もはや地主 した生産諸様式および生産諸関係にも断片的に根を残しうる またはその代表者の監視や強のもとでは行なわれないので あって、むしろ直接的生産者は、直接的強制のかわりに諸関とはいえ、あいかわらず自然経済を、すなわち、経営諸条作 係の力により、鞭のかわりに法律的規定によって駆りたてらの全部または最大部分が経営そのもので生みだされるーーー経 営の総生産物から直接に填補され再生産されるーーというこ れ、自分じしんの責任のもとで剰余労働をしなければならぬ という点によってである。剰余生産、すなわち、直接的生産とを、前提とする。それはさらに、農村的家内工業の農耕と 者の不可欠な慾望をこえて行なわれ、また彼じしんに事実的の合一を前提とする。地代を形成する剰余生産物は、この合 に属する生産場面ーー従来のように自分のものの外にある領一された農Ⅱ工業的家族労働の生産物であって、中世ではし ばしばそうであったように、生産物地代が多かれ少なかれ工 主直営地でではなく、彼じしんによって利用される土地 の内部で行なわれる生産という意味での剰余生産は、このば業生産物を含むか、それとも本来の土地生産物の形態でのみ この地代形態では、剰余労働をあ あいにはすでに自明の原則となっている。この関係において提供されるかをとわない。 は、直接的生産者は、じぶんの全労働時間を多かれ少なかれらわす生産物地代は、農村家族の超過労働ぜんぶを汲みつく 自由に処分する、といっても、従来どおり、この労働時間のすとはかぎらない。生産者にとっては、なしろ、労働地代に 一部分ーー本源的にはその超過部分のほとんど全部ーーは無くらべれば、じぶんの最も不可欠な慾望を充たす自分の労働・ 償で、土地所有者に属する。ただ、土地所有者はこの労働時の生産物と同じように自分じしんに属する生産物を生産する 超過労働のための時間をえるための、より大きな余裕が与え 間を、もはや直接にそれじしんの現物形態では受けとらない この地代形態とともに、個 で、それの実現たる生産物の現物形態で受けとるというだけられている。それと同じように、 のことである。土地所有者のための労働による、厄介な、ま個の直接的生産者たちの経済状態における従来よりも大きな た、賦役労働の規則しだいでは多かれ少なかれ攪乱的に侵害区別が生するであろう。少なくとも、そうした可能性が、そ
土地 0 で行なわれるとすれば、 0 とまたはとのあいだの ということは自明である。このばあいには追加的投資が 諸差等だけが包含され、またで行なわれるとすれば、と改良と結びついている。このことのうちには、より僅かの資 本の追加が、従来のより多くの資本の追加にくらべて同一ま とのあいだの諸差等だけが包含されうる。 だが法則は、 追加的に投下される資本に比例してでは たはより大きな効果をあげる、という場合が含まれている。 なくても、これらすべての土地種類での地代が絶対的に増大この場合はさきの場合とまったく同一ではないのであって、 する、ということである。 これは、すべての投資について重要な区別である。たとえば 超過利潤の率は、追加資本を考察しても、土地に投下され一〇〇が一〇の利潤をもたらし、一一〇〇が一定の形態で充用 た総資本を考察しても、減少する。だが、超過利潤の絶対量されれば四〇の利潤をもたらすとすれば、利潤は、一〇 % か は増加するのであって、それはあたかも、資本一般の利潤率ら一一〇 % に増加したのであって、そのかぎりでは、これは、 合の低落が、たいていのばあい、利潤の絶対量の増加をともな五〇がより有効な形態で充用されれば五でなく一〇の利潤を うのと同様である。かくして、での投資の平均的超過利潤もたらす場合と同じである。われわれは、ここでは、利潤は 不は、資本にたいし、第一次投資のさいには一二〇 % であった生産物の比例的増加と結びついているものと想定する。だが が、いまや九〇 % である。だが、総超過利潤は一クオーター 区別は、私は一方のばあいには資本を二倍にせねばならぬの 産から一クオーターに、そして三ポンドから四ポンドに、 に反し、他方のばあいには従来の資本で一一倍の効果をもたら 生 増加する。総地代は、そのものとしてーー・一一倍になった投資すということである。私が (l) 、二分の一だけの生きた労 一の大いさに連関してでなくーー考察すれば、絶対的に増加し働および対象化された労働をもって以前と同じ生産物をもた た。相異なる諸土地種類の諸地代の差額は、そしてそれらのらすか、それとも ( 一 I) 、同じ労働をもって以前の一一倍の生 Ⅱ地代の相互的比率は、このばあいには変動しうる。だが、差産物をもたらすか、それとも (lll) 、一一倍の労働をもって以前 叫額のこの変動は、このばあいには、諸地代の相互的増加の結の四倍の生産物をもたらすかは、けっして同じことではない。 も果であって、その原因ではない。 第一のばあいには、労働ーー生きた形態または対象化された 章Ⅳ、優等な諸土地種類での追加的諸投資が本源的諸投資よ形態でのーーが遊離され、他の何かに使用されうる。労働お 四りも大きな生産物を生みだす場合は、くわしく分析するには よび資本を自由にする能力が増加する。資本 ( および労働 ) およばない。 こうした前提のもとでは、エーカーあたりの諸の遊離は、即自的には富の増加である。それは、あたかも、 この追加資本が蓄積によってーーだが蓄積という労働なしに 地代が増加する、しかも、追加資本よりも大きな比率で増加 する、 ーー獲得されたのと全く同じ効果をもつ。 ーーその投下がどの土地種類で行なわれたかをとわず
イングランド銀行に預託された。預金者たちはそのかわりに こうした時期にこそ貨幣資本家は、価値の減少したかような 銀行券を受けとったが、これを彼らはすぐまた銀行業者に預有価証券を大量的に買入れるのであるが、これらの有価証券 けはしなかった。かようにして流通手段が異常に増加した。 はやがて再び、その後の段階ではその正常的な高さおよびそ ( ウ = ゲランの陳述、『銀行委員会』、一八五七年、第一三一一れ以上に騰貴する。そこでこれが売りとばされ、かくして公 九号。 ) イングランド銀行は割引率を二 % に引下げることに衆の貨幣資本の一部分が取得される。売りとばされない部分 よって、この預金を利用しようとした。同銀行に積立てられはより高い利子をもたらす、というのは、価格以下で買われ た金の分量は一八五三年の六か月間に、二二〇〇万ないし二 たからである。ところが、貨幣資本家たちがもうけて資本に 三〇〇万に増加した。 再転形するいっさいの利潤を、彼らはさしあたり、貸付可能 な貨幣資本に転形する。だから後者の蓄積は、われわれが貨 . 貨幣を貸付けるあらゆる資本家の蓄積は、自明のことなが ら、つねに直接に貨幣形態で行なわれるのであるが、すでに幣資本家・銀行業者・等々そのものだけを考察するばあいに . われわれの見たように、産業資本家たちの現実的蓄積は、概は、現実的蓄積ーー・それから生まれたものだとはいえーーと して、再生産資本そのものの諸要素の増加によって行なわれ区別されるものとして、すでにこの特殊的な資本家階級の蓄 . る。だから信用業の発展、および大銀行の手における貨幣貸積として行なわれる。そしてそれは、再生産過程の現実的払 付業務の尨大な集積は、即自的にも向自的にも、現実的蓄積大にともなう信用業のあらゆる拡張につれて増大するに違い とは異なる形態としての貸付可能資本の蓄積を促進するに違ない。 Ⅱ いない。だから、貸付資本のこの急速な発展は現実的蓄積の 利子歩合が低落すれば、貨幣資本のこの価値減少は、主と 資一成果である。というのは、それは再生産過程の発展の結果して預金者の負担になって銀行の負担にはならない。株式銀一 現であって、この貨幣資本家の蓄積源泉をなす利潤は再生産者行の発展以前には、イギリスでは全預金の四分の三が無利子・ 本によって打出される剰余価値の一控除分たるにすぎない ( と で銀行に預けられていた。今日これに利子が支払われるばあ 幣同時に、他人の貯蓄の利子の一部分の取得でもある ) からで いでも、この利子はその時の利子歩合よりも少なくとも一 % ある。貸付資本は産業家と同時に商業家の犠牲において蓄積は低い 一される。すでに見たように、産業循環の不況段階では、利子 その他の資本家階級の貨幣蓄積についていえば、われわれ 第歩合が、若干のーー・特に不利な状態にあるーー事業部門の利 は、利子生み証券に投下され、かっこの形態で蓄積される部 潤を一時的にはすっかり呑みこんでしまうほどにも昂騰しう分を度外視する。われわれはただ、貸付可能な貨幣資本とし る。同時に、国家証券その他の有価証券の価格は下落する。 て市場に投ぜられる部分だけを考察しよう。