純な、分割でぎない質であり、分割できる主体あるいは基体自分と同じ他の感覚能力をもっ道具、あるいは同じような他 (support) とは両立しない質だということはわかるのだ」。デ の動物が近づいたり、遠ざかったり、要求したり、提供した なんだって ! イドロ、「形而上学的Ⅱ神学的なたわ言だ ! り、傷つけたり、愛撫したりする、ということを経験した。 物質のまとっているすべての性質、感覚されるすべての形態そして、これらの結果は、彼の記憶や他のものの記憶のなか が、その本質からみて分割できないものだということを、君で、それらの音の構成に結びつけられた。人間と人間の交通 は、はたして知らないのか ? 過不足のない不可入性しかあのうちには、音と行動のほかにはなにもないということを、 りえないのだよ。丸い物体の半分はありうるが、丸さの半分注意したまえ。ぼくの体系のすべての力を正しく評価するに . は、この体系は、く などということはありえない。 / ークレが物体の存在に反対してもちだし ・ : 君、物理学者になること だ。そうしたら、たとえ、原因と結果の結びつきを説明でき たのと同じ打ちかちがたい困難に直面しているということ なくとも、ある結果が生じているのを見たら、その結果は生に、さらに注意したまえ。感覚能力をもっビアノが、自分は この世界に存在するただ一つの。ヒアノであって、宇宙のすべ じたものだということをみとめるべきだ。君、論理学者にな ることだ。そうしたら、存在している原因、すべてを説明すての調和は、自分のなかでおこなわれている、と考えた精神 る原因に、理解されない或る他の原因、結果との結びつきが錯乱の時機があった。」 なおいっそう理解されえない原因、無数の困難を生みだして、 * デイドロ全集、前掲版、第二巻、一一四ー一一八ページ。 そのうちの一つをも解決しない原因をおきかえてはならない これは一七六九年に書かれたことである。これで私は、こ ね」。ダランべール、「では、ぼくがこの原因を放棄するとしの小さな歴史的考証を終ることにしよう。「気ちがいビアノ」 たら ? 」。デイドロ、「宇宙にも、人間にも、動物にも、一つや、人間の内部でおこなわれる世界の調和には、「最新の実証 の実体しかない。手風琴は木からできているし、人間は肉か主義」を検討するさいに、何度もお目にかかることだろう。 らできている。マヒワ〔鳥〕は肉からできており、音楽家は さしあたり、一つの結論だけにとどめておこう。「最新」 別の仕方で組織された肉からできているが、しかし、どちのマッハ主義者は、・ハ ークレ監督のもっていなかった、一つ らも、同一の起源、同一の組成、同一の機能、同一の目的をの、文字どおりただ一つの論拠をも、唯物論者に反対しても もっている」。ダランべール、「では君の二つの。ヒアノの相互ちださなかった、と。 の音の協和は、どうしてきまるのか ? 」。デイドロ、「感覚能 お笑い草として、つぎのことをのべておこう。これらのマ 力をもっ道具、あるいは動物は、これこれの音のあとにつづ ッハ主義者のうちの一人ワレンティノフは、自分の立場の誤 いては、これこれの結果が自分のそとにおこるということ、 りをうすうす感づいていたものだから、 ・ハークレと自分の類
かりにビアノが、感覚能力と記憶をもっているとしたまえ、 とのあいだには組織上のちがいしかないことをみとめるな そうすると、そのピアノは、君がその鍵盤の上で演奏した歌ら、君は常識と分別をしめしたことになり、君は正しいだる 曲を自分でくりかえしはしないかね ? われわれは、感覚能 う。しかし、ここから出てくる結論は、君の考えには反して 力と記憶をあたえられた楽器だ。われわれの感官は、われわ いる。つまり、一定の仕方で構成された、動かない物質が、 れをとりまく自然によってかなでられ、しばしばひとりでに他の動かない物質や熱や運動によって浸透されると、そこか かなでる、まさにその鍵盤なのだ。ぼくの判断によれば、君ら感覚能力、生命、記憶、意識、情念、思想が発生する」。 やぼくと同じように組織されている。ヒアノのなかでおこるこ 二つのうちのどちらか一つだと、デイドロは一一一口葉をつづける とはみな、こんなふうなものである」。そのような。ヒアノは、 一つは、一定の発展段階に、わからない仕方で卵のなか 食物を獲得し、小さなビアノを、この世界に生みだす能力をにはいりこな或る「かくれた要素」、空間に位置をしめてい もたねばならないだろう、とダランべールは言いかえす。う るかどうか、物質的なものか、それとも故意に創造されたも たがいもなくそうだ、とデイドロは応答する。しかし、卵をのかどうかわからない要素が、卵のなかにあると仮定するこ とってみたまえ。「これこそ、神学のすべての学派と地上のとである。これは常識に矛盾しており、矛盾と不条理へみち すべての寺院をくつがえすものだ。この卵は、。 とんなものだびくものである。もう一つ残されている仮定は「すべてを説 ろうか ? 胚子がそのなかにもちこまれるまえは、感覚能力明する単純な仮定、すなわち感覚能力は物質の普遍的な性質 のない一つの塊りなのだ。では、胚子がそこにもちこまれたであるか、さもなければ、物質の組織の所産であるという仮 あとには、こんどはなんだろう ? 感覚能力のない一つの塊定」である。この仮定は、本質上物質と両立しないような質 りだ。なぜなら、この胚子自身も、動きのない、組つ。ほい液をみとめているものだ、というダランべールの反論に、ディ 体にすぎないからさ。どのようにして、この塊りは、他の組 ドロはこう答える。 論織に、感覚能力に、生命に移ってゆくであろうか ? 熱によ 「君は、物質の本質をも、感覚能力の本質をも、およそ物の ってだ。だが、なにが熱を生みだすだろうか。それは運動だ 本質を知っていない以上、いったいどうして感覚能力が本質 経よ」。卵から孵った動物は君のすべての感情をもっており、 上物質と両立しない、ということを知っているのかね。君 論君のすべての行動をおこなう。「それは純粋な模倣機械だ、 は、運動の本性なり、ある物体における運動の存在なり、あ 唯と君はデカルトとともに主張するかね ? 小さな子供らは、 る物体から他の物体への運動の伝達なりをはたしてよりよく 君をあざ笑うだろうし、哲学者は、それが一つの機械なら、 理解しているのか ? 」。ダランべール、「感覚能力の本性を 君ももう一つの機械だと答えるだろう。もし、君が動物と君も、物質の本性をも知らなくても、ぼくには、感覚能力が単
この文句の後半は、うたがいもなく、前半の単で衣裳替えさせることである。すべてこういう試みは、はじ なるくりかえしであり、それを無意味な用語で表現したもの めから終りまでなんの役にもたたない。なぜなら、「淘汰」、 であって、こういう用語は問題を「深める」ように見えはし エネルギーの「同化と異化」、エネルギー論的パランスなどと ても、実際にはランゲ一派の折衷主義的な社会生物学的試み いう概念を社会科学の領域に適用するばあいには、それは空 と髪の毛一すじほどもちがわない ! つ。ほな一言葉だからである。実際には、この概念を使っては、 「しかし、この過程の、 非調和的な性格は、この過程が『恐慌』、生産力の膨大な浪社会現象のどんな研究も、社会科学の方法のどんな解明も、 費、エネルギーの急激な減少をもって終るという結果をもた できないのである。恐慌、革命、階級闘争などのような現象 らす。正の淘汰は負の淘汰にとってかわられる」 ( 一八ペー に「エネルギー論」あるいは「生物社会学」のレッテルをは りつけることほどたやすいものはないが、しかし、この仕事 これではランゲではないか ? 具体的な材料をも、恐慌の ほど無効果な、スコラ的な、死んだものもないのである。だ 本性の解明をも、すこしもつけくわえないで、恐慌にかんす いじな点は、ヂグダーノフがこのばあい、その総まとめや結 るできあいの結論に、生物学とエネルギー論のレッテルが縫論のすべてを、あるいは「ほとんど」すべてをマルクスに折 いつけられている。著者はマルクスの結論を確証し、深めた りあわせていること ( われわれは、ポグダーノフが社会的存 いとおもっているのであって、すべてこれは、きわめて善良在と社会的意識との関係の問題を「訂正」しているのを見 な意図からきたものであるのに、実際には彼は、たえられな た ) ではなく、この折りあわせの方法、この「社会的エネル いほど退屈な、死んだスコラ学で、この結論を稀釈している ギー論」の方法がまったく偽りであり、ランゲの方法とまっ のである。ここで「マルクス主義的なものーといえば、まえたくなんらちがわないということである。 まえから知られている結論のくりかえしにすぎないし、・この マルクスは、一八七〇年六月二十七日に、クーゲルマンに 結論のすべての「新しい」基礎づけ、このすべての「社会的あてて、こんな手紙を書いた。「ランゲ氏は ( 『労働問題 : : : 』 エネルギー論」 ( 三四ペ 1 ジ ) 、「社会淘汰ーは、無意味な一一 = ロ葉の第一一版で ) ぼくをひどくほめているが、そのねらいは自分 の単なる組合せであり、マルクス主義のまったくの愚弄であ自身に重みをつけることだ。つまり、ランゲ氏は大発見をし る。 たわけなのだ。全歴史をただ一つの大きな自然法則に包摂す 、ポグダー / フがたずさわっているのはマルクス主義を研究ることができるというのだ。この自然法則は <Struggle for することでは全然なく、マルクス主義の研究によってすでに life> つまり生存闘争という言葉 ( ダーウインの表現もこ 以前に獲得されている結果を生物学とエネルギー論の用語法んなふうに使用されると、単なる言葉になってしまう ) であ 0
シアにおけるその支持者 ( ポグダーノフ、ルナチャールスキーそ になっていた。ところが、・カウフマンが一九〇一ー一九〇二 の他 ) に批判をくわえており、マルクス主義とマッハ、 アヴェナ年におこなった実験は、意外にも、電子はその全質量が電磁的本 リウスの主観的観念論哲学とを結合しようとする彼らの試みがな性をもっているかのようにふるまうことを、しめした。そこで、 りたたないことを指摘した。そのさい、プレハ ーノフは「マッハ 以前には物質の不可欠の性質とみなされていた力学的質量は電子 を論破することよりも、むしろポリシエヴィズムにフラクション から消失したという結論がひきだされた。この事は、さまぎま 的な損害をあたえることのほうに気をくばった」 ( 本書、二七七 な種類の哲学的思弁や、「物質は消滅した」という言明のきっかけ をあたえたが、レーニンはそういうことが無根拠なことを証明し こ。物理学のその後の発展 ( 相対性理論 ) は、力学的力量も同様 マッハ主義にたいするプレハ ーノフの闘争は、マルクス主義哲 に運動の速度に依存すること、電子の質量を完全には電磁質量に 学を修正主義者の攻撃から擁護するうえで積極的な役割をはたし た。しかし、彼は経験批判論を深く理論的に分析せず、マッハ主還元はできないということをしめした。 義と自然科学の危機との直接の結びつきをあきらかにせずに、マ 尖『心理学年報」ーーフランスのプルジョア的念論的心理学 ッハ主義の個々の代表者たちの徳念論的認識論を批判するにとど者のグル 1 プの機関誌。一八九四年から。ハリで発行。はじめは まった。 << ・ビネの手で、後には・。ヒェロンの手で発行された。 ^ 三マルクス、エンゲルス、二巻選集、第二巻、一九五五年、三 0 一九世紀末ー二〇世紀はじめの物理学では、陽電気の素電荷 五三ー三五四ページ参照。 をもっ粒子が陽電子と呼ばれた。現代的な意味に解釈された陽電 会エンゲルス「反デュー リング論』、一九五七年、五七ページ子 ( ポジトロン ) の存在は、一九二八年にイギリスの物理学者 参照。 ・ << ・・デイラックが予言した。一九三二年に、アメリカの 会・ボアンカレによってあたえられ、レーニンが引用してい 物理学者 0 ・ O ・アンダーソンは宇宙線の成分のなかにポジトロ る質量の概念の特徴づけは、その当時の物理学発展の水準に照応ンを発見した。 している。子の発見につづいておこった電子理論の発展は、電公原子は複雑なものだという考えは、メンデレーエフの元素周 子の質量の本性を説明する可能性をもたらした。・・トムソ期律・光の電磁的本性・電子・放射能現象の発見の結果、一九世 ンは、電子の固有の質量はその電磁場のエネルギーに制約される紀末に生まれた。い くつかの原子模型が提唱された。レーニン ものである ( すなわち電子の惰性は場の惰性に負うものである ) は、原子のプラネタリウム模型をもっとも確率の高いものとみな という仮説をもちだした。電子の電磁質量の概念が導人され、こ しているが、この模型の考えは、一九世紀末に一つの推測として の電磁質量は電子の連動速度に依存するということがわかった。 述べられたものである。それは、・ラザフォードの実験のなか 電子の力学的質量は、任意の他の粒子の質量と同じように、不変で、実験的に確証された。ラザフォードは、さまぎまな物質を通 的なものとみなされた。速度にたいする電子の電磁質量の依存性過するアルファ粒子 ( 陽電気をおびたヘリウム核 ) を研究して、 の研究のための実験は、力学的質量の現存をあきらかにすること陽電荷が原子の中央に集中し、その容積のきわめてわずかの部分
ュームと・ハークレを結合してはいるが、しかし重点をこのよ 間の思想のあらゆる領域からしだいに消えてゆくことを、あ うな混合物の唯物論的要素のほうに移している、とくに偉い らゆる時代に意味していたし、またいつの時代にもまして、 学者の例を一つ引こう。それは、イギリスの有名な自然科学現在意味しているということをみとめるであろう」。または 者・ハクスリーである。彼は「不可知論者ーという用語を「われわれが物質の現象を精神にかんする用語で表現しよう と、あるいは精神の現象を物質にかんする用語で表現しよう 流行させた人であって、エンゲルスがイギリスの不可知論に ついて論じたときに、なによりまず、そしてなによりも多と、それ自体ではさほど重要ではない。それそれの言うとこ ろには、一定の相対的な真理ー ( マッハによれば「相対的に く、この人を念頭においていたことは、うたがいない。エン ゲルスは、一八九一一年にこのような型の不可知論者を「内気持続的な要素の複合」 ) 「がある。しかし科学の進歩という観 点からみれば、唯物論的な用語法のほうがどの点でも好まし な唯物論者」と呼んだ。イギリスの唯心論者ジェームズ・ウ い。なぜなら、それは思想を宇宙の他の現象と結びつけるか オードは、その著書『自然主義と不可知論』のなかで主とし らである。 これに反して、もう一つの、すなわち唯心論 て「不可知論の科学的チャンビオンーハクスリーを攻撃した さい、つぎのように言って ( 第一一巻、一三九ページ ) 、エンゲル的な用語法はまったく不毛 (utte 「 ly ba 「「 (n) であって、観念 こう スの評価を裏書きしている。「 ( クスリーのばあいには、実のあいまいさと混乱以外のなにものへもみちびかない。 際に物理的側面」 ( マッ ( によれば「要素の系列」 ) 「の優位して、科学がさらに前進すればするほど、すべての自然現象 は唯物論の公式と記号をもってますます広くますます徹底的 をみとめる傾向がしばしばきわめて強いので、それを平行論 にあらわされるだろうということには、ほとんど疑いがあり と呼ぶことはとうていできない ハクスリーが、唯物論者と いう肩書は自分の純潔な不可知論を侮辱するものだとして猛えないのである」 ( 第一巻、一七ー一九ペ 1 ジ ) 。 烈にこれを否認しているにもかかわらす、私は、たまたまこ * 「国際哲学会義文庫」、第四巻、アンリ・ドラクロア「ダヴィ ド・ヒュ 1 ムと批判哲学」。著者はアヴェナリウスやドイツの内 の肩書に彼以上にふさわしい、近ごろの著述家をほとんど知 在論者やフランスの・ルヌーヴィエとその学派 ( 「新批判主義 らないのである」 ( 第二巻、三〇ー三一ページ ) 。そしてジェー 者」 ) をヒュ 1 ムの支持者の仲間にいれている。 ノクスリ ムズ・ウォードは自分の意見を裏書きするために、 1 のつぎのような言明を引用している。「科学史に通暁して 唯物論を、不当にも「感覚の群」よりもさきへすすむ「形 いる人であったらだれでも、科学の進歩とは、われわれが物而上学」であるとして、これをけっしてみとめようと欲しな 質および囚果性と呼んでいるものの領域が拡大し、それにと かった「内気な唯物論者」ハクスリーは、以上のように論じ もなってわれわれが精神および自発性と呼んでいるものが人ている。同じハクスリーは、こう書いている。「絶対的唯物 ( 六五 )
の弁証法的方法とはなにかについて絶対に無知でないかぎ 第四に、経験批判論の認識論的スコラ学の背後には、哲学 、経験批判論とマルクス主義との「結合」を説くことなど上の党派の闘争、結局、近代社会のもろもろの敵対階級の できるものでない。 、 ~ . し、刀ノ 向とイデオロギーをあらわす闘争を見ないわけこま、 第二に、現代の他の哲学学派のあいだでの専門哲学者のき 。最新の哲学も、一一〇〇〇年以前と同じように、党派的で わめて小さな一つの学派としての経験批判論のしめる地位をある。あいたたかう党派は、博学な物識りぶった呼び名で、 規定しなければならない。マッ ( もアヴェナリウスも、カンあるいは愚鈍な無党派性でカムフラージされてはいても、事 トから出発して、唯物論へはすすまず、反対の方向のヒュー 実上は唯物論と観念論である。観念論は信仰主義の洗練さ ムと・ハ ークレのほうへすすんだ。アヴェナリウスは、自分はれ、みがきをかけられた形態にすぎないし、信仰主義は万墹 の準備をととのえていて、膨大な組織を思いのままに動かし、 「経験」一般を「純化している」と想像していたが、実際に は、カント主義から不可知論を純化していたにすぎなかっ哲学思想のほんのわずかの動揺をも自分のために利用して、 た。マッハとアヴェナリウスの全学派は、もっとも反動的な着実に大衆に働きかけつづけている。経験批判論の客観的、 階級的役割は、唯物論一般、とくに史的唯物論とたたかう信 観念論学派の一つ、いわゆる内在論者と緊密に一体となっ 仰主義者の御用をうけたまわることに完全に帰着している。 て、ますますはっきりと観念論にむかってすすんでいる。 第三に、マッハ主義と最新の自然科学の一部門の一つの学 派とはうたがう余地のないつながりをもっているというこ と、これを考慮にいれる必要がある。一般的にも、ある特殊 第四章第一節の補足 の部門、すなわち物理学でも、自然科学者の圧倒的な多数 は、終始変ることなく、唯物論に味方している。新しい物理 学者の少数は、ここ数年の大発見が古い理論を打ちこわした ・ß-«・チェルヌイシェフスキーは、どんな側 ことに影響され、またわれわれの知識の相対性をとくに明瞭 面からカント主義の批判にとりかかったか ? にしめした新しい物理学の危機に影響されて、弁証法を知ら われわれが、第四章第一節で、くわしくしめしたことは、 ないため、相対論を通じて観念論へ転落した。こんにち流行唯物論者は、マッ ( とアヴェナリウスがカントを批判してい している物理学的観念論は、ついさきごろまで流行していた るのとは正反対の側面からカントを批判してきたというこ 生理学的観念論と同じように反動的で、同じように一時的な と、また現に批判しているということであった。ロシアの偉 心酔である。 大なヘーゲル主義者で唯物論者の・ g-- ・チェルヌイシェ 7
千人以上の労働者をもっ経営は、ドイツでは一九〇七年に 一〇〇分の一のものの手中にある ! そして、これら三〇〇 は五八六あった。これらの経営は、労働者総数のほとんど一〇の巨大企業は一一五八の工業部門にわたっている。このこと 〇分の一 ( 一三八万人 ) と、蒸気力と電力の総量のほとんど三 からして、集積は、その発展の一定の段階では、おのずか 原注一 分の一 ( 三二 % ) をもっている。貨幣資本と銀行は、あとで見ら、いわばびったりと独占に接近してくることが、あきらか るように、一握りの最大の経営のこの優越をよりいっそう圧である。なぜなら、わずか数十の巨大企業にとっては相互の 倒的なものにしている。しかもそれは、まったく文字どおり協定にたっすることは容易であるし、他方では、まさに企業 の意味でそうである。すなわち、数百万の中小「経営主」との規模が大きいために、競争が困難となり、独占への傾向が 一部の大「経営主ーさえもが、実際には、数百の百万長者・ うみだされるからである。竸争の独占へのこのような転化 金融業者の完全な隷属下におかれている。 は、最新の資本主義の経済におけるもっとも重要な現象の一 原注一「ドイツ帝国年鑑」 ( 一九一一年、ツアーン ) からの摘要。 っー・たとえもっとも重要な現象ではないとしてもーであ 現代資本主義のもう一つの先進国である北アメリカ合衆国る。そこでわれわれは、この点をもっとくわしく論じる必要 では、生産の集積の増大はいっそうはげしい。ここでは、統がある。だが、はじめに、われわれは、おこりうる一つの誤 計は狭義の工業を別にとりだして、経営を、年生産物の価値解をかたづけておかねばならない。 の大きさにしたがって分類している。一九〇四年には、一〇 アメリカの統計の示すところによれば、二五〇の工業部門 一〇万ドル以上を生産する最大の企業は一、九〇〇 ( 二一六、 に三〇〇〇の巨大企業があることになっている。これによる 八〇のうち、すなわち〇・九 % ) であって、これらの企業に属すと、おのおのの工業部門には最大規模の企業が一一一ずつある る労働者は一四〇万人 ( 労働者総数五五〇万人のうち、すなわち ことになるであろう。 二五・六 % ) 、生産額は五六億ドル ( 一四八億ドルのうち、すなわ だが、事実はそうではない。あらゆる工業部門に大企業が ち三八 % ) であった。五年後の一九〇九年には、右に相応すあるわけではない。また他方では、最高の発展段階にたっし る数字は、企業数は三、〇六〇 ( 二六八、四九一のうちーー た資本主義のきわめて重要な特質をなすものは、い わゆる企 ビネーション 一・一 % ) 、その労働者数は二〇〇万人 ( 六六〇万人のうちーー 業合同、すなわち種々の工業部門の単一企業への合同である。 1 二〇・五 % ) 、生産額は九〇億ドル ( 二〇七億ドルのうち・ーー・四 これは、あるいは原料加工の一貫した諸段階をなす ( たとえ 原注一 三・八 % ) である。 ば、鉄鉱から銑鉄を精錬し、つぎに銑鉄を鋼鉄に精製し、さらにおそ 原注一「合衆国統計要覧」、一九一二年、二〇二ページ。 らくは鋼鉄からあれこれの完成品を製造する ) 工業部門か、ある 国のすべての企業の総生産額のほとんど半分が企業総数の いはたがいに補助的な役割を演じる ( たとえば、廃物または副
422 寮注一 なものとなったからである。」 り、またすでに独占にみちびいたほどに高度にたっしている 原注一同書、一八一ページ。 ということが、指摘されていないかぎりでは、不完全であ - 訳注一 このようにして、一一十世紀は、古い資本主義から新しい資る。もっとも、一般にヒルファーディングの叙述全体のなか 本主義への、資本一般の支配から金融資本の支配への、転換では、とくにこの定義がとり出された章のまえの二つの章で 点である。 は、資本主義的独占の役割が強調されている。 訳注一ドイツ訳には、コ一十世紀のはじまりは」となっている。 生産の集積、そこから成長してくる独占体、銀行と産業と の融合あるいは癒着、ーーこれが金融資本の発生史であり、 金融資本の概念の内容である。 第三章金融資本と金融少数支配制 われわれはいまや、資本主義的独占体の「支配」が、商 生産と私的所有との一般的環境のもとでは、どのようにして ヒルファーディングはこう書いている。「産業資本のます不可避的に金融少数支配制の支配になるかということを述べ シュルツ なければならない。まずわれわれは、リー ます多くの部分は、これを使用する産業家に属さなくなる。 エーゲーヴェルニツツ、リーフマンその他のようなドイツの かれらがこの資本の処分権をえるのは、ただ、かれらにたい ドイツだけではないが プルジョア科学の代表者たち してこの資本の所有者を代表する銀行をとおしてである。 他方、銀行はその資本のますます多くの部分を、産業に固定が、こぞ 0 て帝国主義と金融資本との弁護者であることを、 指摘しておこう。かれらは、少数支配制の形成の「からく しなければならなくなる。こうして、銀行はますます大きな り」、そのやり口、その「正当な、および不正な」収入の大 程度で産業資本家となる。このような仕方で実際には産業資 きさ、少数支配制と議会との結びつきなどをあばくことな 本に転化されている銀行資本すなわち貨幣形態にある資本 く、かえってそれらをおしかくし、美化している。かれらは を、わたしは金融資本と名づける。」「金融資本とは、銀行の この「のろわしい問題ーからのがれるために、もったいぶつ 管理下にあって産業家によって使用される資本のことであ 原注一 たわけのわからない文句を述べたり、銀行取締役の「責任 原注一・ヒルファーディング「金融資本論』、モスクワ、一感」にうったえたり、プロイセン官吏の「義務感」をほめた たえたり、まじめくさって「監督ーや「取締規定ーにかんす 九一二年、三三八ー九ページ。〔邦訳三七三ー四ページじ るまったくくだらない法案などの、小さな事がらに熱中した この定義は、そのなかに、もっとも重要な契機の一つ、 生産と資本との集積は、それが独占にみちびきつつあり、さらには、つぎにあげる「科学的ー定義のような、つま
お古い口ずさみですな、いとも尊敬すべき教授殿 ! これ り、唯我論からまぬかれることはできない。マッハ主義哲学 のこの基本要素を、よりいっそう明瞭に解明するために、マ は、物質は単なる抽象的記号であると言った、・ハ ークレの文 字どおりの反復である。しかし、エルンスト・マッハは、実 ッハの著作からいくつかの補足的な引用をしよう。つぎは、 「感覚の分析』 ( コトリヤルのロシア語訳、スキルムント版、モスク際には裸であるきまわっている。なぜなら、もし、「感覚的 ワ、一九〇七年 ) からの見本である。 内容」は客観的な、われわれから独立して存在する実在であ るということを、彼がみとめないならば、一つの「赤裸々な ーリング論」、第五版、シュッツト ・エンゲルス「反デ ・カレ—z. 、 一九〇四年、六ページ。 抽象的」な自我、かならず大文字で太字で書かれた自我、す なわち「自分だけがこの世に存在すると思いこんだ気ちがい 「われわれは、尖端をもつ物体を見ている。にふれて、 それをわれわれの肉体に接触させると、痛みを感じる。われ。ヒアノ」しか、彼のところにはのこらないからである。も し、外界がわれわれの感覚の「感覚的内容」でないならば、 われは痛みを感じないでも、を見ることができる。しかし、 痛みを感じるがはやいか、を皮膚の上に見いだす。だから、空虚な「哲学的」軽業にたすさわるこの素裸の自我以外に 眼に見える尖端は持続的な核であって、痛みの感じは、事の成は、なにものも存在しないことになる。これは、ばかげた虹 行しだいで、なにか偶然的なもののように、それに結びつくの益な業だー である。類似の出来事が反復されていくと、しまいには、物体「 : : : 世界はわれわれの感覚からだけなりたっ、ということ のすべての性質を、持続的な核から発して肉体に媒介され、自 は、そのときには正しい。しかし、そのときには、われわれ 我にもたらされる『作用』とみなす習慣ができる。われわれはわれわれの感覚についてしか知らない。感覚の唯一の出所 に、この『作用』を感覚と呼ぶのである : : : 」三〇ページ ) 。 とされるかの核や核相互の作用を仮定することは、まったく 言いかえれば、人は唯物論の観点に立ち、感覚をわれわれむだで、余計なことだということがわかる。そのような見解 の感覚器官にたいする物体、物、自然の作用とみなす「習 は、中途半端な実在論ないしは中途半端な批判主義にとって 慣ーをもっている。哲学的観念論者にとって有害なこの「習しかふさわしいものとなりえないのである」。 慣」 ( 全人類と全自然科学が身につけている習慣 ! ) は、マ 以上に、マッハの『反形而上学的序説』〔『感覚の分析』 ッハにははなはだお気にめさない。そこで、彼はそれを打破の〕第六節の全文を抜粋した。これは徹頭徹尾・ハークレから しはじめる。 の剽窃である。「われわれは自分の感覚だけを感覚する」と うこと以外には、一つの考えも、一つの思想のひらめきも 「 : : : しかしこれによって、この核はすべての感覚的内容をい うしない、単なる思想上の記号となる : ・ : ・」。 このことからただ一つの結論が出てくる。すなわち、
だが、マッ ( 主義のうちで、この学派と結びついているもの性急にかたよるか、さもなければ信仰主義を個人的に憎悪し て ( ・ポグダーノフのばあい ) 哲学的観念論をつらぬいて は、マッ ( 主義を観念論哲学の他のすべての方向や小体系か いることである。 ら区別しているものではなく、マッハ主義とすべての哲学的 新しい物理学のこの学派の基本思想は、感覚のなかでわれ 観念論一般とに共通のものである。この思想的潮流全体を一 瞥しさえすれば、この命題の正しさにすこしの疑惑をものこわれにあたえられていて、われわれの理論によ「て反映され る客観的実在を否定することである。あるいはこのような実 さずにすむのである。この学派の物理学者、すなわちドイツ フランス人のアンリ・ボアンカレ、ベルギー人在の存在をうたがうことである。ここでこの学派は、一般的 人のマッハ、 にみとめられているところによれば、物理学者のあいだで支 の・デュ ーエム、イギリス人の・。ヒアソンをとってみる がよい。彼らのおのおのがまったく公平にみとめているよう配している唯物論 ( これは、実在論、新機械論、ヒロキネテ に、彼らは多くの共通点をもち、同一の基礎と同一の方向をイックと不正確な名称で呼ばれ、物理学者自身、これをいく もっているが、しかしこの共通点には一般に経験批判論の学らも意識的に発展させていない ) から遠ざかり、「物理学的」 観念論学派として遠ざかるのである。 説も、とくにマッハの「世界要素」学説さえも、はいってい はなはだしく奇妙にひびく「物理学的ー観念論という用語 ないのである。アンリ・ボアンカレ以下三人の物理学者は、 どちらの学説をも知ってさえいない。彼らに共通なものはを説明するには、最新の哲学と最新の自然科学との歴史から 「ただ , 一つ、哲学的観念論であって、彼らはみな例外なしの一つのエ。ヒソードに注意をうながす必要がある。一八六六 に、多かれすくなかれ意識的に、多かれすくなかれ決定的に年に、・フォイエル・ ( ッ ( は、最新の生理学の有名な創始 ・ミュラーを攻撃して、彼を「生理学的観念論 哲学的観念論に傾いている。新しい物理学のこの学派をたよ者ヨハンネス りにして、それを認識論的に基礎づけ、発展させようと努力者ーの仲間にいれた ( 全集、第一〇巻、一九七ページ ) 。この生 物している哲学者をと「てみたまえ。そうすれば、やはりそこ理学者は、感覚にたいするわれわれの感覚器官のメカ = ズム の意義を研究して、たとえば、光の感覚は眼にさまざまな種 にドイツの内在論者、マッ ( の弟子たち、フランスの新批判 ーテ類の作用がおよ、ほされるときに得られるものだということを 主義者と観念論者、イギリスの唯心論者、ロシアのロバ 指摘して、ここから、われわれの感覚は客観的実在の像であ 論イン・。フラス・唯一の経験一元論者 << ・ポグダーノフを見い 唯だすだろう。彼らのすべてに共通なものは、ただ一つであるということの否定をみちびきだそうとする傾きをもってい る。すなわちそれは、彼らがみな、多かれすくなかれ意識的た。そしてこれが彼の観念論であった。・フォイ = ル・ ( ッ ( は、自然科学者の一つの学派が、このように「生理学的観 に、多かれすくなかれ決定的に、信仰主義のほうへ急角度に