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検索対象: 世界の大思想22 レーニン
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1. 世界の大思想22 レーニン

スの弟子。哲学的方向としての唯物論を否定した。「一義的な被機関紙「フペリ ヨード」と「プロレターリー 」の編集局にはい 規定性ーという先天的原理をもって因果性とすりかえようとここ り、ポリシエヴィキ派の新聞「ノーヴァヤ・ジーズニ」の編集者 ろみ、科学的社会主義に反対した。レーニンの言葉によれば、ペ の一人となる。ロシア社会民主労働党第五回 ( ロンドン ) 大会の ツォルトは「マッハ主義の反動的スコラ学のすばらしい見本とな作業に参加。反動時代にポリシエヴィズムから去り、召還派の先 ることができる」 ( 本書、一二三ページ ) 。 頭に立ち、『フペリ ヨード」グループーー・・・党の方針に反対した 主著「純粋経験の哲学入門」 ( 一九〇〇ー一九〇四 ) 、「実証主 の指導者となる。哲学上では、独自の体系「経験一元論」 義の立場からみた世界問題」 ( 一九〇六 ) 、その他。 ( 偽マルクス主義的用語法でカムフラージされた主観的ー観念論 ペラー Pellat アンリ ( 一八五〇ー一九〇九 ) フランスの物的なマッハ主義哲学の一変種 ) を創始しようとこころみた。一九 〇九年六月の新聞「プロレターリー 」拡大編集局会議で、ポリシ 理学者、教授、電気の分野での著作で有名。 エヴィキ党から除名される。キ月社会主義革命後、「プロレトク 主著「電気教程」 ( 一九〇一ー一九〇八 ) 。 丿ト」の組織者および指導者の一人。一九二六年から自分の創設 した輸血研究所所長。 イギリスの レーニンは、一九〇八年前に書かれたポグダーノフの主要な諸 ポイル BoyIe ロヾ ト ( 一六二七ー一六九一 ) 化学者、物理学者、一六八〇ー一六九一年にロンドン王立協会総著作を、『唯物論と経験批判論」や一九〇八年二月二十五日付の 裁。化学における実験的方法を仕上げ、はじめて化学元素に科学ゴーリキーあての手紙のなかで検討している ( 全集、第四版、第 的に根拠のある規定をあたえた。化学の対象と意義の理論的な規一三巻、四一一ー四一七ページ参照 ) 。その後、ポグダーノフは 定をこころみ、化学に力学的原子論の観念を導入しようとっとめ観念論の立場にとどまり、「生きた経験の哲学」 ( 一九一三 ) 、「社 一六六二年に・タウンリーとともに、空気の体積と圧力と会的意識の科学」 ( 一九一四 ) 、「一般組織学 ( テクトロギア ) 」 が逆比例することを確定し、これは後にポイル・マリオットの法 ( 一九一三ー一九二一 l) その他の哲学的著作を書いた。 則と呼ばれた。ポイルの哲学的見解は、機械論的唯物論の諸要素ポーリン Bolin ウイルヘルム・アンドレアス ( 一八三五ー一九 二四 ) フィンランドの歴史家、唯物論哲学者、・フォイエ と神学とが結び 0 〔たも 0 「ある 主著「懐疑論的化学者」 ( 一六 ~ ルバッハの後継者、一八六九年からへルシンキ大学の教授。・ ポグダーノフ bornaHOB. A. 本名はマリノーフスキ ヨードルとともにフォイエルバッハの著作集を再版した。 ロシアの 主著「ルードウイヒ・フォイエルバッハ、その影響と同時代 (MaJIHHOBCKHV1, A. A. ) ( 一八七三ー一九二八 ) 社会民主主義者、哲学者、社会学者、経済学者、教養からいえば人」 ( 一八九一 ) 、『スピノザ」 ( 一八九四 ) 、その他。 医師。九〇年代に ( トウラで ) 社会民主主義サークルの活動に参ポルツマン Boltzmann ルードウイヒ ( 一八四四ー一九〇六 ) オーストリアの物理学者、一八八五年からウィーン学士院会 加。ロシア社会民主労働党第二回大会後、ポリシエヴィキに加 担。第三回党大会で中央委員に選出された。ポリシエヴィキ派の員、グラーツ ( 一八六九ー一八八九 ) 、ミュンヘン ( 一八八九ー ヂ」 0

2. 世界の大思想22 レーニン

実在論」の支持者、プレスラウ ( 一九一六年から ) とミ、ンヘン はマルクス・エンゲルス研究所とコムアカデミーに勤務 ) 。医学 ( 一九三〇年から ) 両大学の教授、一九三三年からアメリカで生間題にかんするいくつかの著作と数篇の哲学論文の筆者。主著は 活。 「ディーツゲンの哲学と現代の実証主義」 ( 一九〇八 ) 、「経験批判 主著「マッハ哲学批判』 ( 一九〇三 ) 、「外界の実在性にかんする 論の認識論について」 ( 一九〇八 ) 、その他。レーニンはヘルフォ ヒュームの学説」 ( 一九〇四 ) 、『認識論史」 ( 一九三三 ) 、その他。 ンドの哲学的見解を「唯物論と不可知論の生粋の雑炊」と呼んだ ヘルツ Hertz ハインリヒ・ルドルフ ( 一八五七ー一八九四 ) ( 本書、一一九ページ ) 。 ドイツの物理学者、一八八九年からポン大学教授。一八八六ー一 ヘルムホルツ Helmholtz ヘルマン・ルードウイヒ・フェルディ 八八九年に、電磁波の存在を実験的に証明し、その性質を研究し ナント ( 一八二一ー一八九四 ) ドイツの自然科学者。一八四 た。ヘルツの実験は電磁波と光波との基本的な性質が同一である九年からケーニヒスペルク、一八五五年からポン、一八五八年か ことを証明し、光の電磁論に重要な役割をはたした。レーニン らハイデルベルク各大学の生理学教授、一八七一年からベルリン は、新カント主義者とマッ ( 主義者がヘルツを「自派の同盟者に大学物理学教授、一八八八年から国立ベルリン物理工学研究所所 獲得しよう」とこころみたことをしりぞけて、こう書いている。 長。物理学と生理学の各分野での基本的な労作の著者。一八四七 「ヘルツはだれの派に属するかというこのおかしな論争は、観念年にエネルギー保存の法則をはじめて数学的にとりあっかい、そ 論哲学者が、信仰主義の擁護のやりなおしを弁明するためには、 の普遍性を指摘した。エンゲルスは、ヘルムホルツによるこの法 有名な自然科学者のごく小さな誤りでも、表現上のごく些細な不 則の形而上学的な理解の仕方を批判した ( 「自然の弁証法」、一九 明確な点でも、どのようにとらえるかということのりつばな見本五五年、七一ページ参照 ) 。 である。実際には、・ヘルツの著書「力学』の哲学的序説は、唯 哲学上では、ヘルムホルツは自然発生的な、不徹底な唯物論者 物論という「形而上学」に反対する教授たちのうなり声にびつくであ 0 た。彼は、唯物論を唯一の科学的な世界観とみなさす、自 りさせられはしたものの、外界の実在性にたいする自然発生的な然科学者にと 0 て観念論よりも、好都合な「仮説」としかみなさ 信念をけっして克服することのできなかった一人の自然科学者の なかった。彼は客観的実在の存在をみとめ、経験的知識に大きな ありきたりの観点をしめすものである , ( 本書、一三一ページ ) 。 意義をあたえ、感覚と表象の形成を人間の感覚器官にたいする客 主著「電力伝揃の研究」 ( 一八九一 I) 、『カ学原理」 ( 一八九四 ) 、 観的実在の影響の結果とみなすと同時に、カント主義へかたむ その他。 き、感覚は物の描写ではなく、記号にすぎないという象形文字論 ヘルホンド reJ1b(frOHA, 0. H. ( 一八六三ー一九四二 ) ーーー修をもちだした。 レーニンはヘルムホルツの世界観を特徴づけ、その不可知論は 正主義的な論文集「マルクス主義哲学についての概説」 ( 一九〇 八 ) の執筆者の一人、本職は医師、八〇年代末から革命運動に参「「内気な唯物論」に似ているが : : : カント主義的逸脱をともなっ 加し、一九〇五年にキエフでの社会民主主義文献の普及に協力。 ているーとして批判した ( 本書、一八二ー一八三ページ ) 。 十月社会主義革命後は医師として活動 ( 一九二二ー一九二八年に 主著「カの保存について」 ( 一八四七 ) 、「生理光学必携」 ( 一八

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「自然体系、あるいは物理的世界と精神的批界との法則について」 ( 一七七〇 ) 、その他。 ニュートン Newton アイザック ( 一六四二ー一七二七 ) ーーイ イギリスの ノックス Knox ハワード ( 一八六八年生まれ ) ギリスの偉大な物理学者、力学学者、天文学者、数学者。一六六 九年からケンプリッジ大学物理。数学講座主任、一六七二年からプラグマティズム哲学者。『ウィリアム・ジ = ームズの哲学」 ロンドン王立協会員、一七〇三年からその総裁。古典力学の基本 ( 一九一四 ) 、「自由への意志」 ( 一九二八 ) 、「真理の進化 : : : 」 ( 一九三〇 ) 、その他の著者。 法則を定式化し、万有引力の法則と光の分散を発見し、 ((-5 ・ラ イプニツッと同時に ) 微分積分を仕上げた。その哲学的見解から みれば、ニュートンは自然発生的な唯物論者であった。物質を、 ドイツの哲 自己運動の能力のない惰性的なものとみなし、宇宙の運動に「最 ハイム Haym ルドルフ ( 一八二一ー一九〇一 ) 初の衝撃 , をあたえたのは、神であると主張した。ニ = ートンの学史家、著述家。一八六〇年からハレ大学教授。多くの事実資料 見解は、機械論的唯物論の形成に大きな影響をおよばした。 をふくむその著作では、実証主義の立場から意見を述べた。 主著「自然哲学の数学的原理」 ( 一六八七 ) 、『光学あるいは光 主著『フォイエルバッハと哲学」 ( 一八四七 ) 、「へーゲルとそ の反射、屈折、曲、色彩についての論文』 ( 一七〇四 ) 、その他。 の時代」 ( 一八五七 ) 、言マンティシズム学派」 ( 一八七〇 ) 、そ の他。 ネ ハイフェルダー Heyfelder ビクトル ( 一八七一年生まれ ) 。 ロ ハインツェ Heinze マックス ( 一八三五ー一九〇九 ) ネフスキー HeBCKHü, B. H. ( 一八七六ー一九三七 ) シアの職業革命家、一八九八年以来の党員、ロシア社会民主労働ツのライブツイヒ大学の哲学教授 ( 一八七五年から ) 。一連の哲 ーウェークの『哲学概史」に手をくわ 党の最初のドン委員会の組織者の一人。ロストーフ・ナ・ドヌ学史書の著者。・ユー ノリコフ、その他えて、発行 ( 五ー九版 ) 。 モスクワ、ペテルプルグ、ウォローネジ、、 主著「ギリシア哲学におけるロゴス学説』 ( 一八七一 l) 、『カン の都市で党活動に従事。一九〇五ー一九〇七年の革侖の積極的な トの反対者としてのエルンスト・プラトナー」 ( 一八八 0 ) 、その 参加者。何回となくツアーリ政府に弾圧される。二月のプルジョ ア民主主義革命のあと、ペテルプルグ軍事組織の組織者および指他。 ( 一八二五ー一八九五 ) ハクスリー Huxley トマス・ヘンリー 導者の一人。十月武装蜂起に積極的に参加。ペテルプルグ軍事革 イギリスの自然科学者、一八七一年からロンドン王立協会の 命委員会委員。十月社会主義革命後、ソビエト活動、党活動、学 術活動にたずさわる。交通人民委員、全ロシア中央執行委員会書記、一八八三ー一八八五年にはその総裁。チャールズ・ダーウ 副議長、只・・スヴ , ドローフ共産主義大学学長、党史・社会 主義革侖史研究部副部長、国立レーニン図書館長。数巻の哲学書 の著者。 ノ

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ンカー地主の利益をはかり、同時にユンカーと大ブルジョアジー 著書「人間と自然におけるその地位 : : : 」 ( 一八六九 ) 、『ダー との同盟の確保に努力した。一八七八年に彼の実施した社会党鎮ウイン説と社会主義」 ( 一八九四 ) 、その他。 イギリス 圧法によって労働運動の圧殺をはかったが成功しなかったので、 ピアソン Pearson カール ( 一八五七ー一九三六 ) デマゴギー的な社会立法綱領を発表し、いくつかのカテゴリーの の数学者、生物学者、観念論哲学者、一八八四年からロンドン大 労働者の義務的保障法を実施。一八九〇年三月に退職。 学教授。自分の著作のなかで、人間社会における反動的な優生学 ビーズリー Beesley エドワード・スペンサー ( 一八三一ー一九的「自然淘汰説 . を擁護した。・スペンサーと同様に、実証主 一五 ) イギリスの歴史家、実証主義哲学者、一八五九ー一八義に平易な形態をつけくわえようとこころみ、自然法則の客観的 , 」こ ) っこ。レーニンはこ - っ書 九三年にはロンドン大学歴史学教授、イギリスにおける O ・コン性格を否定し、唯物論的世界観とナナカナ トの思想の普及者、コントの著作の英訳者。一八六四年九月二十 いている。「イギリスのマッハ主義者・ビアソンは、あらゆる 八日、ロンドン集会の議長をつとめた。この集会で国際労働者協哲学的小細工を無視し、投人をも、同格をも、『世界要素の発見』 会 ( 第一インタナショナル ) 設立の決定が採択された。一八九三 をも、みとめないで、このような「ペール」をはぎとられたマッ 年から雑誌「実証主義評論」を編集。 ハ主義の不可避的な結果、つまり純粋の主観的観念論をうけとっ ている」 ( 本書、六七ページ ) 。 ビーダーマン Biedermann アロイズ・エマヌエル ( 一八一九ー 哲学的主著「科学入門」 ( 一八九一 I)O 一八八五 ) ーープロテスタントの牧師、一八五〇年からチューリ ヒ大学の神学教授。ヘーゲルの宗教哲学の影響をうけ、その精神ピュロン ( 紀元前ほほ三六五ー二七五年ごろ ) ーー古代ギリシア でキリスト教を基礎づけようとっとめ、キリスト教を「無限的精の哲学者、古代懐疑論の始祖。客観的真理の認識を否定し、実際 神」ーーー神ーーーと「有限的な精神ーたる人間とのつながりとみな生活からの逃避と実際生活へのまったくの無関心を説いた。 フランス ピョン Pillon フランソワ ( 一八三〇ー一九一四 ) の新カント主義哲学者、フランスにおける新カント主義のもっと 主著「われわれ青年へーゲル主義者の世界観 : : : 」 ( 一八四九 ) 、 ・ルヌーヴィエの弟子。一八九〇年から雑誌 「キリスト教釈義」 ( 一八六九 ) 。 も著名な代表者 「哲学年報」を編集し、それに数篇の論文を発表。著書「セクレ ビュヒナー Büchner フリードリヒ・カール・クリスティアン タンの哲学」 ( 一八九八 ) の著者。 ドイツの・フル ) ノョア ルードウイヒ ( 一八二四ー一八九九 ) 哲学者、俗流唯物論のおもな代表者の一人、プルジョア改良主義 者、本職は医師。一八五二年からチュービンゲン大学法医学講座 の私講師。その主著「カと物質」 ( 一八五五 ) で、俗流唯物論を 体系的に叙述した。自然科学を世界観の基礎とみなしたが、しか し、弁証法を無視し、機械論的な自然観と社会観を復活させた。 後年には、ダルムシュタットで医師となる。 ファウベル VaubeI ヨハン・ウイルヘルム ( 一八六四年生まれ ) ドイツの有機化学者、一八九八年からダルムシュタット工科 大学の私講師、のちに教授。レーニンは彼の著書「理論化学教科 書」 ( 一九〇三 ) を念頭においている。

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リスト、マッハ主義哲学者。ロシア社会民主労働党第二回大会後 - 主著「電気についての現代の見方」 ( 一八八九 ) 、「生侖と物質」 はポリシエヴィキに荷担し、一九〇四年末、メンシエヴィキの立 ( 一九〇五 ) 、『精神的世界の実在性』 ( 一九三 0 ) 、その他。 ローレンツ Lorentz ヘンドリク・アントン ( 一八五三ー一九二場に移る。メンシエヴィキ派の新聞「モスコーフスカヤ・ガゼー オランダの物理学者、一八七八年からライデン大学教タ」を編集し、その他、一連のメンシ = ヴィキ派の出版物やプル ジョア出版物に協力。反動期には解党派。マルクス主義とすっか ハーレム ( ライデン市の近く ) 研究所所長。 授、一九二三年から り絶縁し、マルクス主義哲学を修正した。マッハとアヴェナリウ 物質の電気理論を創始し、一連の重要な電気現象と光学現象 ( と スの主観的観念論的な見解をもって、マルクス主義哲学を「補 くにゼーマン現象 ) を説明し、新しい現象を予言した。相対性理 論の準備にと「て重要な意義をもっ運動媒体の電子力学を仕上げ足」しようとっとめた。レーニンは、ワレンティノフの混乱した た。その哲学的見解からみれば、彼は唯物論者であって、物理学観念論的見解に痛烈な批判をくわえた。十月社会主義革命後、 『商工業新聞」の編集次長として活動し、その後、パリ駐在ソ連 における観念論のさまぎまなあらわれに積極的に反対した。 邦通商代表部に勤務。一九三〇年から白系亡侖者となり、マルク 主著「マクスウエルの電磁理論と運動物体へのその適用」 ( 一 ス・レーニン主義とソビエト国家に反対した。 八九一 I) 、『電子理論および光現象と熱放射へのその適用」 ( 一九 主著「マルクス主義の哲学的構造」 ( 一九〇八 ) 、「マッハとマ 0 九 ) 、その他。 ルクス主義』 ( 一九〇八 ) 、その他。 ロディエ Rodier ジョルジュ ( 一八四八ー一九一〇 ) 大学の古代哲学史の教授。 ロ。ハーティン ona 目一 H 》当 . M. ( 一八五五ー一九二〇 ) ロシアの観念論哲学者、モスクワ大学教授、モスクワ心理学協会 議長、一八九四年から観念論的な雑誌「哲学と心理学の諸問題」 の編集者。その哲学的見解からみれば、神秘主義者の・ 0 ・ソ ロヴィヨーフに近く、唯心論を説き、「霊魂不滅」の基礎づけを 哲学の「切実な問題」の一つとみなし、霊魂を創造的な原理 自由意志をもっーーーとして解釈しようとっとめた。 主著「哲学の積極的な課題」 ( 一八八六ー一八九一 ) 、『近代哲 学史」 ( 一九〇五ー一九〇八 ) 、『哲学的評価と講演」 ( 一九一一 ) 。 ワ ワレンティノフ BaneHTHHOB, H. ーー・・本名は BOJ1bCKHü, H. ロシアのメンシエヴィキ、ジャーナ B. ( 一八七九年生まれ )

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33 】人名索引 五 ) 、「科学と方法」 ( 一九〇九 ) 、その他。 一八九四 ) 、ライブツイヒ ( 一九〇〇ー一九〇一 l) 、ウィーン ( 一 八九四ー一九〇〇、一九〇二ー一九〇六 ) 各大学の教授。放射理ボアンカレ Poincaréルシアン・アントアヌ ( 一八六二ー一九二 フランスの物理学者、教授。その主著は電気理論をとり 論にかんする彼の著作や気体運動理論と熱力学第二原理の体系的〇 ) あっかったものである。もっとも有名なのは、彼の著書「現代物 解釈とにかんする古典的な研究は、物理学の発展にとって重要な 理学」 ( 一九〇六 ) 。 意義をもち、いわゆる宇宙の焼燼を説く観念論的理論に打撃をく ( 一八五二ー一九 ポインティング Poynting ジョン・ヘンリー わえた。哲学に大きな関心をよせ、晩年には、自然哲学について ーミンガム大 イギリスの物理学者、一八八〇年からバ 一四 ) 講義した。哲学上では、機械論的唯物論の立場に立ち、マッハ主 義者の主観的観念論や・オストワルトの「エネルギー論」を批学教授、一八八八年からロンドン王立協会員。 リした。レーニンは、こう書いている。「もちろん、ポルツマン 主著「電磁場におけるエネルギーの移動について』 ( 一八八 は唯物論者と名のることをおそれていて、自分はけっして神の存四 ) 。 オースト ポッパー Popper ョゼフ ( 一八三八ー一九二一 ) 在には反対するものではないと特別にことわりさえしている。し リアの技師、実証主義者、小プルジョア的な「官吏」社会主義の かし、彼の認識論は、事実上は唯物論的である : : : 」 ( 本書、二 代表者。『生きる権利と死ぬ義務」 ( 一八七八 ) 、その他の著者。 二四ページ ) 。 主著「気体理論講義」 ( 一八九六ー一八九八 ) 、「力学原理講義」 マ ( 一八九七 ) 、その他。 フラ ボアンカレ Poincaréアンリ ( 一八五四ー一九一一 l) マクスウエル Maxwell ジェームズ・クラーク ( 一八三一 ンスの数学者、物理学者、一八八六年からパリ大学教授、一八八 イギリスの物理学者、一八五六年からアバ 八七九 ) 七年から。ハリ学士院会員。微分論、数理物理学、天体力学にかんン、一八六〇年からロンドン、一八七一年からケンプリッジ各大 する著作で有名。 << ・アインシ = タインと同時に、特殊相対性理学の教授。ケンプリッジ大学では彼の首唱 ( 一八七四年 ) で設立 論の基礎を打ちたてた。 されたカヴェンディシ = 実験所を指導。光学、気体運動理論、と 哲学上では、マッハ主義に近く、物質の客観的存在と自然の客 くに電気理論の分野での理論的研究で有名。電磁現象の研究にか 観的合則性を否定した。ボアンカレにとっては「自然法則は、人んする・ファラデーの実験を概括して、電磁場理論と光の電磁 間が「便宜」のためにつくりだす記号、約束である」とレーニン理論を創始。 は書いている ( 本書、一二五ページ ) 。ボアンカレによれば、科 その哲学的見解からみれば、唯物論者であったが、彼の唯物論 学的理論の価値を規定するものは、それがどれほど正しく深く現は機械論的で、首尾一貫していなかった。 実を反映するかということではなく、その応用の便宜と合目的性 主著「熱理論」 ( 一八七一 ) 、『電気および磁気にかんする論文」 だけである。 ( 一八七三 ) 、『物質と運動」 ( 一八七六 ) 、その他。 マッハ Mach エルンスト ( 一八三八ー一九一六 ) 哲学的主著「科学と仮説」 ( 一九〇一 D 、「科学の価値」 ( 一九〇 オースト

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もぬきにして、経験の限界をなんらこえることなしに、実践的な 貫してたたかっている。アヴェナリウス某のきめのこまかな 目的のために、ただ実践のためだけに、首尾よく神をみちびきた 認識論的妄想も教授のこしらえ事にとどまり、「自分」の小 しているのである ( ウィリアム・ジェームズ「プラグマティズム さな哲学的宗派を開宗しようとする試みにとどまっている ( ある古い思考方法のための新しい名称 ) 』、ニューヨ 1 クとロン が、実際には、現代社会のもろもろの思想や方向があいたた ドン、一九〇七年、五七ページ、とくに一〇六ページ参照 ) 。唯 かっている一般の環境のもとでは、これらの認識論的小細工 物論の観点からみれば、マッハ主義とプラグマティズムとのちが の客観的な役割は一つであり、しかもただ一つである。すな いは、経験批判論と経験一元論とのちがいと同様に、とるにたら わち観念論と信仰主義への道を清掃して、観念論と信仰主義 ないものであり、重要でない。せめて、真理についてのボグダー のたぐいのイギリス ノフの規定とプラグマティストの規定とをくらべてみるがよい。 に忠実に奉仕することである。ウォード 「プラグマティストにとっては、真理は、経験におけるあらゆる の唯心論者も、唯物論とたたかうマッハをほめているフラン 種類の一定の作業価値 (working-values) を包摂する類概念であ スの新批判主義者も、ドイツの内在論者も、経験批判論者の る」 ( 前掲書、六八ペ 1 ジ ) 。 小さな学派にしがみついているが、これは、実際に偶然では マッハ主義とマルクス主義とを「和解ーさせようとくわだ ないのである ! 「学位のある信仰主義の召使」という・ アヴェナリウスとその全学 ディーツゲンの公式は、マッハ、 てたロシアのマッハ主義者たちの不幸は、彼らがひとたび反 動的な哲学教授を信用したこと、そして信用した結果、斜面 派の痛いところをついている。 反動的プルジ , ア哲学の広範に流布している思潮が、実際にを転落してい「たことである。マルクスを発展させ、補足し ようとするさまざまな試みの案出の手口は、はなはだ安直で いかにマッハ主義を利用しているかをしめすもう一つの例をあげ よう。最新のアメリカ哲学のおそらく「最新の流行」は「プラグあった。オストワルトを読み、オストワルトを信じ、オスト プラグマ ( 一 0 九 ) マティズムー ( ギリシア語の pragma—事実、行為ーー・・・に由来ワルトを口うっしし、それをマルクス主義と名づける。マッ し、行為の哲学 ) である。哲学雑誌は、プラグマティズムについ ハを読み、マッハを信じ、マッハを口うつつし、それをマル て、おそらくいちばん多く論じている。プラグマティズムは、唯 クス主義と名づける。ボアンカレを読み、ボアンカレを信 物論の形而上学をも、観念論の形而上学をも、嘲笑し、経験を、 じ、ボアンカレを口うっしし、それをマルクス主義と名づけ しかも経験だけをほめあげ、実践を唯一の基準とみとめ、実証主 る、といったあんばいである ! 化学、歴史、物理学の専門 義の思潮一般を引合いにだしており、とくにオストワルト、マッ 分野では、きわめて貴重な仕事をする能力をもっこれらの教 ハ、。ヒアソン、ボアンカレ、デューエムをよりどころとしてお いったん話が哲学となると、その 授のうちのどの一人をも、 、科学は「実在の絶対的な写し」ではないということをよりど ころとしている。 : ・すべてこういうことから、どんな形而上学一言をも信じてはならない。なぜか ? それは、事実的、専

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グダー / フその他がマッハ主義を支持し、このうちマルクス り、レーニンの哲学思想、いわゆるマルクス主義哲学のレー 主義者と自称した連中は、マルクス主義をマッハ主義で「修 ニン主義的段階を知るには不可欠の文献である。 レーニンがこの本を書こうとおもうにいたった動機は、直正」しようとこころみた。レーニンのほかにロシアでは、プ ノー / フがマッハ主義を批判した。「戦闘的唯物論』と『内 接にはロシアのマッハ主義者を批判することであったが、実レ、 際には批判はロシアのマッハ主義者にとどまらず、マッハ主気な観念論』がそれであゑ一九世紀末には、物理学上のい ークレ、ヒュ くつかの発見は、それまでの古典力学をもってしては説明が 義全体、さらにマッハ主義の母体となった。ハ ムの学説におよび、しかも問題はさらに掘りさげられて唯物つかないことがわかった。熱力学の第一一原理の発見によっ 論と観念論の理論的基礎におよび、マッハ主義と最新の自然て、物理学は力学的現象の基本的な特質である可逆性と衝突 科学における観念論との結びつきが追求され、最後には哲学した。こういう事情は、オストワルトのエネルギー論を生み の党派性が問題としてとりあげられている。 ださせる一つの素地をなした。一八八一年にはマイケルソン によってエーテル仮説がくつがえされ、これはその後、相対 マッハ主義、あるいは経験批判論の創始者のひとりエルン スト・マッハ ( 一八三八ー一九一六 ) は、オーストリアの物理性理論の実験的基礎となった。一九世紀末ー一一〇世紀はじめ 学者、哲学者であって、一八六一年からウィーン大学の私講に放射能現象が発見されるとともに、原子論、空間、時間、運 動にかんする従来の物理学的概念はあやしくなり、古典物理 師、一八六四年からグラーツ大学の数学教授、一八六七年か 学の再検討がよぎなくされた。従来自明のものとみなされて らプラハ大学の物理学教授兼学長であり、一八九五年からは いたニュートンカ学の一連の前提は、十分に論理的に説明で ウィーン大学の哲学講座を担当した。経験批判論のもう一人 の創始者、リヒアルト・アヴェナリウス ( 一八四三ー一八九六 ) きなくなった。マッハの著書『カ学』はニュートンの質量、 は、スイスの観念論哲学者であって、一八七七年からチュー 力、慣性の概念を分析し、力学法則定式化の新しい計算方式 の役割をしめし、絶対空間と絶対時間についてのニュートン リヒ大学の教授となった。マッハ主義あるいは経験批判論 は、二〇世紀のはじめにマッハとアヴェナリウスがはじめて の古典的な考え方の論理的破産をあきらかにした。マッハは 説唱道し、その弟子、ペッォルト、カルスタ = エン、ウィリ 世界に生起するいっさいのものは物体の相互作用によって説 また。ヒアソンやデュ ーエムがその発展に寄与した一つの明さるべきである、という別の原理を提出した。アインシュ 解 タインは、これを「マッハの原理」と呼んだ。この原理は、 哲学学派である。・ボアンカレや・オストワルトの哲学 アインシュタインその他、二〇世紀の大物理学者たちによっ 的的見解も、ある点ではマッ ( 主義に近い。ロシアでは g-Q ・チ エル / ーフ、・ユシュケーヴィチ、・。ハザロフ、 .< ・ポ て、古典物理学のためばかりでなく、新しい物理学の建設の

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318 イギリスの物理学者、一八八四年からトリニティー・カレッ の著作の著者。認識論ではマッハ主義者。 ジの教授、ケン・フリッジ大学力ヴェンディシュ研究所所長、ロン デューリング Dühring オイゲン ( 一八三三ー一九二一 ) ドン王立協会員、一九一五年から一九二〇年までその総裁。渦動 ドイツの哲学者、経済学者、小プルジョア的イデオローグ。デュ リングの哲学的見解は、実証主義、形而上学的唯物論、観念論理論についての労作、物理的現象と物理化学的現象への力学の一 の混合物である。彼の反動的ー空想的な「共益社会的」経済制度般原理の応用にかんする労作、とくに電気と磁気の分野での研究 によって、有名である。電子を発見し ( 一八九七 ) 、最初の原子 は、プロイセンの半農奴制的な経済形態を理想化したものであっ ング模型の一つを提唱した ( 一九〇三 ) 。その哲学的見解からみれば、 た。ドイツ社会民主党の一部のあいだで支持されたデューリ 自然発生的な唯物論者。 の見解は、「反デ = ーリング論」のなかで、エンゲルスに批判さ れた。レーニンはデューリングの折衷主義的な見解を何度も批判 主著『電気と物質」 ( 一九〇三 ) 、「物質の粒子理論」 ( 一九〇 した。 七 ) 、「化学における電子」 ( 一九二三 ) 、その他。 フラ 主著「国民経済学と社会主義との批判史」 ( 一八七一 ) 、「国民ドラクロア Delacroix アンリ ( 一八七三ー一九三七 ) 経済学と社会経済学教程」 ( 一八七 = l) 、「哲学教程」 ( 一八七五 ) 。 ンスの観念論的心理学者、神秘主義者、Ⅱ・ベルグソンの直主 義の後継者。一九〇九年からソルポンヌの教授。 主著「神秘主義の歴史と心理についての概論 ( 偉大なキリスト トムソン Thomson ウィリアム、別名ケルヴィン卿 ( 一八二四教神秘主義者 ) 」 ( 一九〇八 ) 、「言語と思考」 ( 一九二四 ) 、その他。 リ・ティリ ( 一七二三ー ー一九〇七 ) イギリスの物理学者。一八四六年から一八九九ドルバック D' Holbbach ポール・アン フランスの唯物論哲学者、無神論者、一八世紀の 年までグラスゴー大学教授。ロンドン王立協会会員。一八九〇年一七八九 ) 革命的なフランス・プルジョアジーのイデオローグの一人。「百 から一八九五年までその総裁。ペテルプルグ学士院名誉会員。 科全書」の積極的な参加者であって、宗教と観念論を痛烈に批判 ムソンの学問活動は多方面にわたった。彼は数理物理学の問題、 数理物理学の教授と技術的応用に大きな注意をはらった。熱力した。ドルバックの著作には、フランスの形而上学的唯物論がも っとも完結した形で表現されていた。神学的な世界創造説を否 学、電気、磁気その他の分野における彼の労作は、重要な意義を もっている。物理学用計器 ( コンパス、検流計その他 ) のいくっ認し、物質と運動を永遠のものとみなしたが、しかし運動そのも のを局限的に機械論的に理解し、それを空間における単なる位置 かの発明と改良もおこなった。 変換に還元した。認識論では、唯物論的感覚論を発展させ、不可 その哲学的見解からみれば、機械論的唯物論者。 主著は著作集として出版されている。『再版電気・磁気関係著知論と観念論的な生得観念説とに反対した。社会現象の分野で は、人間の本性の抽象的な理解から出発して、観念論的な社会契 書」 ( 一八七一 l) 、『数学書と物理学書」 ( 一八八二ー一九一一 ) 、 約説に同意した。 「通俗講演・演説集」 ( 一八八九ー一八九四 ) 。 主著「ポケット神学、あるいはキリスト教小辞典」 ( 一七六八 ) 、 トムソン Thomson ジョゼフ・ジョン ( 一八五六ー一九四〇 )

10. 世界の大思想22 レーニン

分の世界的な革命的役割をはたすことはできない . ( 全集、第四 が成長し、新カント主義、実証主義その他のようなプルジョア哲 版、第二一巻、二八三ページ ) 。 学思想の諸方向が発生した。 主著「一般自然史と天体理論 : ・ : 」 ( 一七五五 ) 、「純粋理性批 カルスタニエン Carstanjen フリードリヒ 一八九六年から チューリヒ大学の哲学教授、マッハ主義者、・アヴェナリウス 判」 ( 一七八一 ) 、『実践理性批判」 ( 一七八八 ) 、「判断力批判」 の弟子。アヴェナリウスの死 ( 一八九六 ) 後に雑誌「科学的哲学 ( 一七九〇 ) 、その他。 季刊誌」を発行。 キ 主要労作は「リヒアルト・アヴェナリウスによる一般純粋認識 キルヒホフ Kirchhoff グスターフ・ローベルト ( 一八二四ー一 論の生物カ学的基礎づけ ( 純粋経験批判序説 ) 」 ( 一八九四 ) とレ 八八七 ) ドイツの物理学者、ハイデルベルク ( 一八五四年か ーニンの引用している論文「経験批判論 : : : 」 ( 一八九八 ) 。 ら ) 、ベルリン ( 一八七五年から ) 両大学の教授。一八七四年か カント Kant イマヌエル ( 一七二四ー一八〇四 ) 」いイツ一口 らベルリン学士院会員。電気力学の領域や物理学の他の部門での 典哲学の創始者。一八七〇年からケーニヒスペルク大学の教授。 キルヒホフの研究は、科学の発展にとって重要な意義をもってい 活動の初期 ( ほば一七七〇年まで ) には、自然科学に多くの注意 た。一八五九年に、ドイツの化学者・プンゼンと共同で、スペ をはらい、有名な宇宙発生仮説を提起した。エンゲルスの表現に クトル分析の基礎をきず いた。彼の四巻本「数理物理学講義」 よれば、この仮説は、形而上学的世界観に最初の割目をつくっ た。その後、主として認識論の仕上げにあたり、人間の認識の能 ( 一八七四ー一八九四 ) は、理論物理学の発展のうえで重大な役 割をはたした。その哲学的見解からみて、キルヒホフは、自然科 力の研究と認識の限界の規定とを哲学の課題とみなした。カント 学的唯物論の代表者であった。 によれば、感覚は認識の経験的資料である。感覚のみなもとは、 主観のそとにある認識不可能な「物自体」である。カントは、封ギンター Günthe 「ジークムント ( 一八四八ー一九二三 ) ドイツの数学者、地理学者、自然科学史家。一八八六ー一九二 0 建主義と徹底的にたたかわなかった、自由主義的なドイツ・プ ルジ ' アジーのイデオローグであ「たから、宗教道徳の基礎であ年にミ = ンヘン工科大学教授。 主著「地球物理学および自然地理学教科書」 ( 一八八四ー一八 る神、意志の自由、霊魂不滅の概念を放棄することができなかっ 八六 ) 、「一九世紀無機自然科学史」 ( 一九〇一 ) 。 た。彼の考えによれば、人間はこういうものを信仰し、それを指 針として実際生活をおくるべきである。「カント哲学の基本的な ク 特徴は、唯物論と観念論との和解であり、両者の妥協であり、異 質的な、対立しあっている哲学的方向を一つの体系のなかで結合 クーゲルマン Kugelman ルードウイヒ ( 一八三〇ー一九〇一 l) していることである」 ( 本書、一五二ページ ) 。カント主義は哲学 ドイツの社会民主主義者、マルクスの友人、一八四八ー一八 史上に大きな役割をはたし、その影響をうけて、ドイツ古典的観四九年のドイツ革命の参加者、第一インタナショナルの会員。ロ 念論のさろに後期の代表者 ( フイヒテ、シェリング、ヘ 1 ゲル ) ーザンヌ ( 一八六七 ) 、 ハーグ ( 一八七一 l) の両インタナショナ