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検索対象: 世界の大思想22 レーニン
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1. 世界の大思想22 レーニン

きないであろう。これらの変化の法則が発見され、これらのる。しかし「死者が生者をとらえるということがある」。死 変化とその歴史的発展との客観的な論理のおおよそがしめさんだスコラ的な添え物は、ボグダーノフの意志にそむき、彼の ベルトⅡゾルデ れるのが、せいぜいのところであろう。ここで客観的な、と意識にはかかわりなしに、彼の哲学をシ = ー いっているのは、意識をもった存在物、すなわち人間の社会 ルンその他の反動主義者の重宝な道具に変えている。これら が、意識をもった存在物の存在から独立して存在し、発展すの反動主義者は、何百もの教授の講壇から、千差万別の調子 ることができる ( 、ポグダーノフは、その「理論」によって、 で、まさにこの死んだものを生きたものとして流布させ、生 こんなつまらないことだけを強調している ) という意味では きたものに対抗させているのであって、そのねらいは生きた なく、社会的存在は人間の社会的意識から独立しているとい ものの息の根をとめることである。ボグダーノフ個人として う意味である。君が生活をいとなみ、世帯をもち、子供を生は、あらゆる反動の、とくにブルジョア的反動の不倶戴天の み、生産物を生産し、それを交換すれば、そのことからして敵である。だが、求グダーノフの「置換」説や「社会的存在 君の社会的意識から独立し、かっこの社会的意識によってけ と社会的意識とを同一視する」彼の理論は、この反動に奉仕 っして完全にはとらえられない、もろもろの事件の客観的に している。これは悲しむべき事実だが、しかし事実である。 必然的な連鎮、発展の連鎖が形成されるのである。人類の最 唯物論一般は人類の意識、感覚、経験、等々から独立した 高の課題は、経済的進化 ( 社会的存在の進化 ) のこの客観的客観的に実在的な存在 ( 物質 ) をみとめる。史的唯物論は社 論理のだいたいのところを把握し、自分の社会的意識とすべ会的存在を、人類の社会的意識から独立したものとみとめ ての資本主義国の先進的な階級の意識とを、この客観的論理る。どちらのばあいも、意識は存在の反映にすぎす、せいぜ にできるだけ判然とはっきりと批判的に順応させることであ いのところ、存在の近似的に正しい ( 適応的な、理想的に正 る。 確な ) 反映にすぎない。 一塊の鋼鉄から鋳造されたこのマル ポグダーノフは、すべてこれをみとめている。それはなに クス主義哲学では、一つの基本的な前提、一つの本質的な部 を意味するか ? つまりこうなのである。彼は「社会的存在分をとりだしても、客観的真理から逸脱し、ブルジョア的ー と社会的意識とを同一とみなすー自分の理論を実際には放棄反動的な虚偽のふところにおちいることになる。 死んだ哲学的観念論が、どのように生きたマルクス主義者 していて、この理論は空疎なスコラ的な添え物にとどまって ポグダーノフをとらえているかをしめす、もう一つの例をあ いる、すなわち「普遍的置換の理論」あるいは「要素」説、 「投人」説その他すべてのマッハ主義的たわ言と同じようなげよう。 空疎な、死んだ、くだらないものにとどまっているのであ それは論文『観念論とはなにか ? 」一九〇一年 ( 前掲書、一

2. 世界の大思想22 レーニン

九〇七年に、この同盟を脱退し、新しい君主主義的反革命団体へッケル Haeckel エルンスト ( 一八三四ー一九一九 ) 「。ハラータ・ミハイーラ・アルハンゲラ」を組織。ペッサラビア ツの唯物論的自然科学者、一九世紀後半ー二〇世紀はじめの最大 県選出の第二、第三、第四国会議員。国会内でのそのポグローム の生物学者の一人、一八六二年から一九〇九年までイエナ大学の 的、反ユダヤ主義的な言動でひろく名を知られた。十月社会主義教授。ダーウイン説の発展と宣伝をたすけ、自然界の起源と歴史 革命後は、ソビエト権力と積極的にたたかった。 的発展とを合則的なものとみる基本的には唯物論的な学説を仕上 げた。生物は、その個体的な発展のなかで、種の発展の基本的な へ 歴史的段階をくりかえすものであるという生物学的法則を、一八 六六年に定式化し、基礎づけた。自然科学における観念論に反対 ヘーゲル Hegel ゲォルク・ウイルヘルム・フリードリヒ ( 一七 し、神秘説や僧侶主義と積極的にたたかい、一九 0 六年に宗教的 七〇ー一八三一 ) ドイツの最大の哲学者、客観的観念論者、 ドイツ・ブルジ ' アジーのイデオローグ。ヘーゲル哲学は一九世世界観との闘争を目的とする「一元論者同盟」を創設。しかし、 ヘッケルは自覚した唯物論者ではなかったし、自分の自然科学的 紀末ー二〇世紀はじめのドイツ観念論の最高峰であった。ヘーゲ ルの歴史的功績は、弁証法的唯物論の理論的源泉の一つとなった唯物論を、当時支配していた観念論的世界観と和解させようとこ ころみ、特殊の「一元論的宗教」の可能性を容認し、社会ダーウ 弁証を深く全面的に仕上げたことである。ヘーゲルによれば、自 イン説を説いた。レーニンによる・ヘッケルの世界観の評価に 然界、歴史的世界、精神界のすべては、不断の運動、変化、改造、 発展のなかにある。しかし、彼は客観的世界、現実を「絶対精ついては、本書の二七一ー二七四ページ参照。 主著「生物の一般形態学』 ( 一八六六 ) 、「自然的な世界創生史』 神」、「絶対理念」の所産とみなす。レーニンは「絶対理念」を観 念論者へーゲルの理論的虚構と呼んだ。弁証法的方法と発展の中 ( 一八六八 ) 、「宇宙の謎」 ( 一八九九 ) 、その他。 止を実質的に要求した保守的、形而上学的な体系との深刻な矛盾ヘリング Hering エヴァルト ( 一八三四ー一九一八 ) ツの生理学者、ウィーン、プラハ ライブツイヒ ( 一八九五年か は、ヘーゲル哲学の特徴であった。社会的ー政治的見解からみれ ら ) 各大学の教授。もっとも有名になったのは、感覚器官の生理 ば、ヘーゲルは立憲君主制の支持者であった。 マルクスとエンゲルスは、ヘーゲルの観念論的弁証法を批判的学にかんする彼の著作であった。哲学上では観念論にかたむき、 二元論的な心理平行説を支持した。この説によれば、脳のなかに . に改作して唯物論的弁証法をつくりだした。唯物論的弁証法は、 客観的世界と人間の思考との発展のもっとも一般的な法則を反映おこる心理過程と生理過程は、二つの平行的な、たがいに独立し するものである。 た現象系列を形成する。 主著「有機物質の普遍的機能としての記憶について」 ( 一八七 主著「精神現象学」 ( 一八〇七 ) 、「論理の科学」 ( 一八一二ー 〇 ) 、「視覚学説によせて」 ( 一九〇五 ) 、その他。 八一六 ) 、「哲学的諸科学のエンチクロペディー綱要」 ( 一八一 七 ) 、その他。レ 1 ニンによるヘーゲルの著作の摘要は「哲学ノ ヘーニヒスワルト Höningswald リヒアルト ( 一八七五ー一九 ート」にはいっている ( 全集、第四版、第三八巻、参照 ) 。 四七 ) ドイツの新カント主義哲学者、 << ・リールの「批判的

3. 世界の大思想22 レーニン

ーノフの所説、「実体ーにかんするワレンティノフとユシス る物質に転化し、またその逆のことがおこなわれることが 「常識」の観点からみてどんなに異常であろうと、電子には ケーヴィチの所説、等々、 すべてこれは弁証法を知らな 電磁的質量以外のどんな質量も欠けていることが、どんなに いことからきた同じ結果である。エンゲルスの観点からみれ 「奇妙ーであろうと、力学的な運動法則が自然現象の一つの ば、不変なものはただ一つである。それは、人間の意識は 領域だけにかぎられ、電磁現象のいっそう深い法則に従属し ( 人間の意識が存在しているとき ) 、それから独立して存在 . ているということなどがどんなに異常であろうと、すべてこ し、発展する外界を反映するということである。このほかの れは弁証法的唯物論をかさねて確証するものにほかならな どんな「不変性」も、このほかのどんな「本質ーも、どんな 。新しい物理学が観念論に迷いこんだおもな理由は、物理「絶対的実体ーも、無用な教授哲学がこれらの概念を描きた 学者が弁証法を知らなかったことである。彼らは形而上学的しているような意味では、マルクスとエンゲルスにとっては 存在しな、。 な ( 実証主義的な、すなわちヒューム主義的意味でなしに、 物の「本質」あるいは「実体」もまた相対的で エンゲルスの言った意味の ) 唯物論とたたかい、その一面的ある。それは客観にたいする人間の認識の深化だけを表現す るものである。昨日はこの深化は原子以上にすすます、今日 . な「機械論的性格」とたたかった、 しかもそのさいに、 は電子やエーテル以上にすすまないばあい、弁証法的唯物論 浴槽から水といっしょに赤ん坊までほうりだしてしまった。 彼らは、、 は、人間の進歩しつつある科学による自然認識のこれらすべ しままで知られていた元素と物質の性質との不変性 を否定したので、物質を否定することへ、すなわち物理的世ての道標の一時的、相対的、近似的な性格を主張するもので ある。電子も、原子と同様に汲みつくされえないものであり、 界の客観的実在を否定することへ転落していったのである。 自然は無限であるが、しかし自然は無限に存在している。人 彼らは、もっとも重要で基本的な法則の絶対的性格を否定し たので、自然におけるあらゆる客観的な合則性を否定するこ 間の意識と感覚のそとの自然の存在を、このようにただ定言 とへ、自然法則を単なる約東、「期待の制限」、「論理的必然的に、無条件的にみとめることだけが、弁証法的唯物論と相 性」などと称えることへ転落していったのである。われわれ対論的不可知論や観念論とのちがいである。 の知識の近似的、相対的な性格を主張すると同時に、彼ら ブルジョア学者にとって未知のままになっている弁証法的 は、認識から独立して存在し、この認籤によって近似的に忠 唯物論と不可避的に主観主義的な ( さらにあからさまに信仰 実に、相対的に正しく反映される客観を否定することへ転落主義的な ) 結論をともなう「現象論」とのあいだを、新しい していったのである、等々、際限がな、 物理学はどのように無意識にまた成り行きまかせに動揺して 一八九九年に「物の不変的な本質ーについてのべたポグダ いるかということの二つの例を引こう。

4. 世界の大思想22 レーニン

176 然がみちびきだされ、やっとそのあと自然から普通の人間意 これは、それと同様な神的な感覚である。 識がみちびきだされる。だから、この最初の出発点としての 第一段階はとりさるべきである。 「心理的なもの」はいつでも稀釈された神学をかくす死んだ 第一一段階もとりさるべきである。なぜなら、だれひとりと 抽象となるのである。たとえば、人間の観念がどんなものでして、物理的なもの以前の心理的なもの ( ポグダーノフのば あるかは、だれでも知「ているが、しかし人間をぬきにしたあいには、第一一段階は第一二段階より以前にある ) を知らない 人間以前の観念、抽象における観念、絶対理念は、観念論者し、自然科学もそれを知らないからである。物理的世界は、 ヘーゲルの神学的な作り事である。人間の感覚がどんなもの最高の形態の有機物質の最高の産物としての心理的なものが であるかはだれでも知っているが、しかし、人間をぬきにし出現することのできた以前に存在していた。、ポグダーノフの た人間以前の感覚はたわ言であり、死んだ抽象であり、観念第二段階も死んだ抽象であり、頭脳をぬきにした思想であ 諞的な綺語である。 り、人間からきりはなされた人間の理性である。 、ポグダーノフが、つぎのような段階をつくっているとき、 はじめの二つの段階をすっかり撤去すれば、そのとき、し 彼はまさにこのような観念論的な綺語を弄しているのであかもそのときにだけ、自然科学と唯物論にほんとうに照応し た世界像を得ることができるのである。すなわち、い物理 一「要素」の混沌 ( われわれは、この要素という言葉の的世界は人間の意識から独立して存在している。それは、人 背後に、感覚以外には他のどんな人間的概念もかくされてい 間より、「人間」のあらゆる「経験ーよりずっと以前に存在 ないことを知っている ) 。 していた。Ü心理的なもの、意識、等々は、物質 ( すなわ 二人々の心理的経験。 ち物理的なもの ) の最高の産物であり、人間の脳と呼ばれる 三人々の物理的経験。 とくに複雑な物質の塊の機能である。 四「物理的経験から発生する認識」。 「置換の領域は、物理的現象の領域と一致する。心理現象を 人間をぬきにした ( 人間の ) 感覚というものは存在しない。 なにものとも置換する必要はない。なぜなら、それは直接的 だから、第一の段階は死んだ観念論的抽象である。事実上、 な複合だからである」 ( 前付三九ページ ) とボグダー / フは書い ここにあるのはだれにでも知られている、普通の人間的感覚ている。 ではなく、なんだか作為された、持主のない感覚、感覚一般 これこそ観念論である。なぜなら、心理的なもの、すなわ であり、ヘーゲルのばあい、 普通の人間的観念は、人間と人ち意識、表象、感覚、等々が直接的なものとみなされ、物質 間の頭脳とからきりはなされると、神的な観念になったが、 的なものは心理的なものからみちびきだされ、それに置換さ

5. 世界の大思想22 レーニン

だということになる。なぜなら、カトリック教が、「人間のと、人間の経験に、どんな「社会性」もどんな「組織」もあ 経験を組織する形式ーであることには、すこしもうたがう余 りえなかったときに物理的世界が存在していたことなどにつ 地がないからである。ボグダーノフ自身も、自分の理論のこ いては、くりかえさないことにしよう。ここでは他の側面か のはなはだしい誤りに感づいていた。だから、彼が自分のおらマッハ主義哲学を暴露してみよう。〔マッハ主義哲学では〕う ちこんだ泥沼からどのようにしてはいだそうとこころみたか たがいもなく「普遍妥当性」をもっ宗教の教義、等々が包摂 されるような仕方で、客観性が規定されている。ポグダーノ を見ると、きわめて興味ぶかいのである。 『経験一元論』の第一港を読むと「客観性の基礎は集団的経フの言うことをもっと聞いてみよう。「「客観的』経験は、け 義の領域になければならない。われわれと他人にとって同等っして『社会的』経験と同じではないということに、かさね ・ : 社会的経験は、けっして な生活上の意義をもっている経験の所与、矛盾なしにわれわて読者に注意をうながしたい。 れが自分の活動の基礎としているばかりでなく、他の人々も、すべてが社会的に組織されているとはかぎらず、つねにさま ざまな矛盾をふくんでいる。だから、その一つの部分は他の われわれの確信するところによれば、矛盾につきあたらない ために、立脚しなければならない所与、それをわれわれは客部分と一致しない。森の精や家の霊は、一定の人民あるいは 観的なものと呼ぶ。物理的世界の客観的性格は、それが私個人民の一定のグループ、たとえば農民の社会的経験の領域に 存在することができる。しかし、そうだからといって、社会 人にとってでなく、万人にとって存在し」 ( 正しくない ! それは「万人ーから独立して存在する ) 「私の確信するとこ的に組織された経験あるいは客観的経験が、そういうものを ろによれば、万人にとって、私にとってと同様な一定の意義ふくめることにはならない。なぜなら、そういうものは、他 をもっているところにある。物理的系列の客観性は、その普の集団的経験と調和せす、経験を組織する形式、たとえば囚 遍妥当性である」 ( 二五ページ、傍点はボグダーノフ ) 。「わ果性の鎖に適合していないからである」 ( 四五ページ ) 。 ポグダーノフ自身が森の精や家の霊などについての社会的 れわれが経験のうえで遭遇する物理的物体の客観性は、結局 は、さまざまな人間の発言の相互検討および一致にもとづい 経験を客観的経験に「ふくめていない」のは、もちろん、わ 経て規定される。一般的にいえば、物理的世界は、社会的に一 れわれにとってたいへんよろこばしい。しかし、信仰主義を 論致し、社会的に調和した、一言でいえば、社会的に組織され否定するという精神から、このように善意をもって訂正をお こなっても、ポグダーノフの立場全体の根本的な誤りをすこ 唯た経験である」 ( 三六ページ、傍点はポグダーノフ ) 。 これが根本的にまちがった観念論的規定であること、物理しも訂正していないのである。客観性と物理的世界について のポグター / フの規定は、無条件に崩壊する。なせなら、宗 的世界は人間の経験と人類とから独立して存在しているこ

6. 世界の大思想22 レーニン

物質の消減とか、物質と電気との交替とかいうような、ひじである。だから、 h ・ディーツゲンは強調したのである、 ように多くの人をまどわしている文句のほんとうの内容であ 「すべての科学の対象は無限なものである」。それは無 る。「物質は消減する」ということは、物質についてのわれ限なものであるばかりでなく、「最小の原子」も測定されえ われのいままでの知識の限界が消減し、われわれの知識の深ず、究極まで認識されえず、汲みつくされえない。なぜなら さがましていることを意味している。いままでに絶対的、不「自然は全体的にも部分的にもすべて無始、無終だからであ 変的、根源的なものとおもわれていた物質の性質 ( 不可入る」 ( 「哲学小論文集」、一三九ー二三〇ページ ) 。だから、エンゲ ( 八八 ) 性、慣性、質量、等々 ) は消減しつつある。そして、それら ルスはコールタールのなかのアリザリンの発見の例を引い の性質は、物質の或る状態にのみ固有な相対的なものである て、機械的唯物論を批判したのである。唯一の正しい、すな ことが、いまではあきらかにされている。なぜなら、物質のわち弁証法的Ⅱ唯物論的な観点から問題を提起するには、電 唯一の「性質」ーーー哲学的唯物論はそれをみとめることに結子、エーテル、等々は人間の意識のそとに、客観的実在とし この びついているーーは客観的実在であるという性質、われわれて存在するか、それともしないかを間わねばならない。 の意識のそとに存在するという性質だからである。 問いにたいして、自然科学者は、人間以前の、また有機物質 * オリヴァ ー・ロッジ「電子について』、一九〇六年、一五九以前の自然の存在を、ためらうことなくみとめているのと同 ページ参照。「物質の電子論」、すなわら気を「基本的実体ーと じように、ためらうことなく、然りと答えるにちがいオし みとめることは「哲学者がつねに目ぎしていたもの、つまり物質 し、またつねにそう答えている。これによって問題は唯物翁 の統一性を理論上近似的に達成したものである」と。以下の著作 に有利に解決される。なぜなら、すでにのべたように、認識 をも参照。アウグスト・リギー「物質の構造について」 ( ライプ 論的にいえば、物質の概念は、人間の意識から独立して存在 ツイヒ、一九〇八年 ) 、・・トムソン「物質の粒子論」 ( ロン ドン、一九〇七年 ) 、・ランジ = ヴァン「電子の物理学」 ( 「純粋し、人間の意識によって模写される客観的実在以外のなにも ( 八ル ) のをも意味しないからである。 科学と応用科学の一般雑誌』、一九〇六年号所載、二五七ーーー一一 判 批 七六ページ ) 。 しかし、弁証法的唯物論は、物質の構造と性質についての 経マッ ( 主義一般とマッ ( 主義的な新物理学の誤りは、哲学あらゆる科学的命題が近似的、相対的な性格をもっことを主 的唯物論のこの基礎を無視し、形而上学的唯物論と弁証法的張し、自然のなかには絶対的な境界というものはなく、運動 唯唯物論とのちがいを無視していることである。なにかの不変する物質は、一つの状態から他の状態ーーわれわれの観点か 的な要素、「物の不変的な本質」、等々をみとめることは、唯らはこの一つの状態と和解しがたく見えるーーへ転化するも 物論ではなく、形而上学的な、すなわち反弁証法的な唯物論 のである、等々と主張する。重さのないエーテルが重さのあ

7. 世界の大思想22 レーニン

なら、イエズィット派は「認識社会主義ーの熱烈な支持者で 「心理的なものーにより近いものにしようと努力した。絶対 理念や、普遍的精神や、世界意志や、心理的なものを物理的あろう。というのは、彼らの認識論の出発点は「社会的に組 これは同一の観念で織された経験ーとしての神だからである。また、カトリック なものと「普遍的に置換」すること あって、その定式化にちがいがあるにすぎない。観念、精教が社会的に組織された経験であることには、うたがう余地 がない。それは客観的真理 ( ポグダーノフはこれを否定する 神、意志、心理的なものが正常に作業する人間の頭脳の機能 が、科学はこれを反映する ) を反映しておらす、特定の社会 であることは、だれでも知っているし、自然科学はそういう ものとして、これを研究している。この機能を、一定の仕方階級が民衆の蒙昧を利用することを反映しているだけのこと で組織された物質からきりはなし、この機能を普遍的、一般である。 ボグダー / フの 的な抽象に変え、この抽象を物理的自然全体と「置換」する イエズィット派をもちだすまでもない ! ことは、哲学的観念論の妄想であり、自然科学を愚弄するも「認識社会主義ーは、マッハにお気にいりの内在論者たちの のである。 あいだにそっくり見いだされる。ルクレールは、自然を「人 唯物論は言う。「生物の社会的に組織された経験」は、物類」の意識とみなしている ( 『バークレとカントの開拓した認識批 理的自然からの派生物であり、その長期にわたる発展の結果判の観点からみた現代自然科学の実在論』、五五ペ 1 ジ ) が、けっ 、。ブルジョア哲学 であり、社会性も組織性も経験も生物もなく、またありえな して個々の個人の意識とはみなしていなし かった当時の物理的自然の状態からの発展の結果である、 者は、このようなフイヒテ主義的な認識社会主義ならいくら と。物理的自然は生物のこの経験からの派生物である、と観でも、諸君に進呈するであろう。シュッペも、 das generi ・ 念論は言う。そしてこう言うとき、観念論は自然を神と同一 sche, das gattungsmässige ン宀 ome des Bewusstsein 〔意 視している ( 神に従属させていないならば ) 。なぜなら、う識の類的な、種属的な契機〕 ( 「科学的哲学季刊誌」、第一七巻、三七 たがいもなく、神は生物の社会的に組織された経験からの派九ー三八〇ページ ) 、すなわち認識冫 こおける一般的、種属的契 生物だからである。。ホグダーノフの哲学をいかにひねくりま機を強調している。個人の意識を人類の意識でとりかえ、あ るいは一個人の経験を社会的に組織された経験でとりかえれ わしてみても、それは、反動的な混乱した考えよりほかはま ば、哲学的観念論は消えうせると考えるのは、一人の資本家 ったくなにもふくんでいない ボグダー / フは経験の社会的組織についてかたることをを株式会社でとりかえれば、資本主義は消えうせると考える のと同じである。 「認識社会主義」 ( 第三巻、前付三四ページ ) だとおもっている。 わがロシアのマッハ主義者、ユシュケーヴィチとワンンテ これは気ちがいざたである。社会主義をこんなふうに論ずる

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れの意識から独立して存在することをみとめるので、まずカ ことは、空間と時間の客観的実在性をくつがえすものではな 1 ント主義とちがって、かならず時間と空間の客観的実在性を 。それは、物質の運動の構造や運動形態についての科学知 もみとめねばならない。カント主義は、この間題では観念論識の変りやすい性格が、外界の客観的実在性をくつがえさな の側に立っていて、時間と空間を客観的実在とみなさす、人 いのと同じである。 間の直観の形式とみなす。きわめてさまざまな方向の著述家 一貫性を欠き混乱している唯物論者デューリングは、空間 ゃいくらかでも徹底した思想家は、哲学上の二つの基本ライあるいは時間は実在的なのか、それとも観念的なのか、空間 ンがこの問題でも根本的にくいちがっていることをまったく と時間についてのわれわれの相対的な表象は存在の客観的 明瞭に意識している。まず唯物論者からはじめよう。 実在的形式への接近であるか、それともそれは、みずから発 フォイエル・ハッハは言う。「空間と時間は現象の単なる形展したり、組織したり、調和したりする人間の思想の産物に 式ではなく、存在の : : : 本質的な条件 (Wesensbedingungen) すぎないのかという疑問にたいする明答を回避して、時間の である」 ( 全集、第二巻、三三二ページ ) 。フォイエルバッハは、概念の変化 ( これは、ひじようにさまざまな哲学的方向のい われわれが感覚を通じて認識する感性的世界を客観的実在と くらかでも大物の現代の哲学者にとっては議論の余地のない 問題だが ) を説いているが、エンゲルスは、彼を暴露する みとめているので、当然に空間と時間の現象論的 ( マッハだ にあたって、まさにこの点で彼をとらえているのである。以 ったら自身についてこう言うだろう ) な理解をも、不可知論 的 ( エンゲルスの表現しているように ) な理解をも、否認す上の疑問に、そしてこの疑間にのみ、哲学上のほんとうに根 る。すなわち物あるいは物体が単なる現象ではなく、感覚の本的な方向をわかっ認識論上の基本問題がある。エンゲルス 複合ではなく、われわれの感官に作用する客観的実在である は、こう書いている。「どんな概念がデューリング氏の頭の のと同様に、空間と時間も、現象の単なる形式ではなく、存なかで転化しようと、ここではわれわれにまったく関係がな 在の客観的Ⅱ実在的な形式である。世界には運動する物質以 、。時間の概念が問題なのではなく、現実の時間が問題なの 外にはなにものもなく、運動する物質は空間と時間のなかよ であって、これはデューリング氏としてもけっしてそうやす りほかでは、運動することはできないのである。空間と時間 やすと」 ( すなわち概念の可変性についての空文句で ) 「かた ( 五三 ) についての人間の表象は相対的であるが、しかし、これらの づけられるものではないー ( 「反デューリング論』、ドイツ語第五 相対的な表象から絶対的真理が成りたち、これらの相対的な版、四一ページ ) 。 表象は発展しつつ、絶対的真理の方向をすすみ、それに接近 これは、たいへんはっきりしているので、ユシュケーヴィ する。空間と時間についての人間の表象が変りやすいというチ氏一派でも問題の本質が理解できそうにおもわれる。エン

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ような不動の素朴な確信をもって叙述していることは、、、 とん在論者ー ( すなわち全人類 ) の確信は、大勢の自然科学者の終 な色合いの支配的な哲学的観念論とも絶対に和解の余地はな 始変ることなく成長し、強くなっていっている確信である。 、 0 すべてこれらの色合いは、ハルトマン某のきわめて粗雑 新しい哲学的小学派の創始者たち、新しい認識論的「イズ な反動的理論から最新の進歩的、先駆的なものと自負するべ ム」の創案者たちの仕事は失敗した、 永久に絶望的に失 ツォルトの実証主義あるいはマッ ( の経験批判論にいたるま 敗した。彼らはその「独創的ーな小体系をかかえてもがくか で、いすれも、自然科学的唯物論は「形而上学」であって、 もしれないし、経験批判論者ボブチンスキーと経験一元論者 自然科学の理論と結論を客観的実在性とみとめることは、も ドブチンスキーのどちらがさきに「えっ ! と言ったかとい っとも「素朴な実在論」を意味するなどという点で一致してう興味ある論争で何人かの彼らの崇拝者の関心をひこうと努 いる。 ( ッケルの著書のどのページも、教授流のすべての哲力するかもしれないし、「内在論者ーのように大冊の「専門 学と神学のこの「神聖な」学説にこそ平手打ちをくわせてい 文献をさえつくるかもしれない。しかし、自然科学の発展の るのである。一九世紀末と一一〇世紀はじめの圧倒的な多数の コースは、その動揺とためらいにもかかわらず、自然科学者 自然科学者の無定形とはいえ、もっともしつかりした意見、 の唯物論の無意識的な性格にもかかわらす、きのうは流行の 気持、傾向を無条件に代表しているこの自然科学者〔ヘッケ 「生理学的観念論」に夢中になり、きようは流行の「物理学 ル〕は、教授哲学が公衆と自分自身からかくそうとこころみ的観念論」に夢中になるにもかかわらす、あらゆる小体系と ていたこと、すなわちますます広範に強固になってゆきつつあらゆる小細工を脇へ放りだして、自然科学的唯物論の「形 ある基礎があって、哲学的観念論、実証主義、実在論、経験而上学」をまたふたたびおしすすめる。 批判論、その他のちんぶんかんふん論の千一の小学派のあら 以上にのべたことを、ヘッケルの著書からの一つの例によ ゆる努力や空しい努力は、この基礎にぶつかって粉砕されて って例解したものを、ここにしめそう。著者は『生命の不可 いるということを、一挙に、やすやすと、わけなくしめした。 思議』のなかで、一元論的認識論と一一元論的認識論を対比し ここにいう基礎とは自然科学的唯物論のことである。われわている。対比のうちのもっとも興味ある項目を引いてみよう。 れの感覚は客観的に実在的な外界の像であるという「素朴実 一元論的認識論 ニ元論的認識論 三認識は生理的過程であって、その解剖学的器官は脳であ三認識は生理的過程ではなく、純粋に精神的な過程であ

10. 世界の大思想22 レーニン

から独立していて、この意識によって反映される客観的実在のとみなされねばならなかった。物理学は「実在的な素材と の存在を否定する。正しい哲学的用語法をもちいていたな実在的なセメントで実在的な建物を構築した。物理学者は物 ら、レイは、つぎのように言ったにちがいない。従来の物理質的元素、その作用の原因と様式、その作用の実在的な法則 学が自然発生的にうけいれていた唯物論的認識論は、観念論を会得していた」 ( 三三ー三八ページ ) 。「物理学をこのように 的および不可知論的認識 = = ー冫 侖ことってかわられたが、信仰主義みる見解の変化は、理論の存在論的意義を否認し、物理学の は、観念論者や不可知論者の期待を無視して、このことを利現象論的意義を誇大に強調することである」。概念論的な見 解は「純粋の抽象」をとりあっかい、「できるかぎり物質の 用したのである、と。 しかし、レイの考えでは、危機を形づくっているこの交替仮説をとりのそき、純粋に抽象的な理論を探求するものであ る」。「こうしてエネルギーの概念は新しい物理学の土台 ( 。 ub , は、新しい物理学者の全部が古い物理者学者の全部に対立し ているというふうなものではない。そうではない。彼は、現 structure) となる。だから、概念論的物理学はおおむねこれ 代の物理学者がその認識論の傾向からみて、つぎの三つの学をエネルギー論的物理学と呼んでよい」。とはいっても、こ 派にわかれていることを、しめしている。エネルギー論的あの呼び名は、たとえば、マッハのような概念論的物理学の代 コンセプチュエル るいは概念論的 (conceptuelle コンセプトれ純粋概念からき表者にとっては適当でない ( 四六ページ ) 。 もちろん、レイがこのようにエネルギー論とマッハ主義と ている ) 学派と物理学者の大多数が支持しつづけている機械 論的あるいは新機械論的学派と以上の二つの中間の批判的学を混同しているのは、完全には正しくない。それは、概念論 派。第一の学派にはマッハとデュ ーエム、第三の学派にはア者との深刻な意見の相違にもかかわらす、新機械論学派もや はり現象論的な物理学観に到達しているという断言 ( 四八ペ ンリ・ボアンカレ、第二の学派には古い物理学者ではキルヒ 1 ジ ) が、完全には正しくないのと同様である。レイの「新 ホフ、ヘルムホルツ、トムソン ( ケルヴィン卿 ) 、マクスウ エル、最新の物理学者ではラーモア、ローレンツがそれそれしいー用語法は間題をあきらかにせず、あいまいにしている が、われわれは、物理学の「危機ーについての「実証主義 属している。二つの基本ライン ( 第一二のラインは独立のもの でなく、中間的なものだから ) の本質がなにであるかは、レ者」の見解を読者にわからせるために、この用語法を避ける わけにはいかなかった。問題の本質からみれば、「新しい」 イのつぎの言葉をみればわかる。 学派と古い見解との対立は、読者のおわかりのように、前掲 「伝統的な機械論は物質世界の体系を構成していた」。この のクラインペーターのヘルムホルツ批判と完全に一致して 機械論は、物質構造の学説では「質的に一様で同一な要素」 。いろいろな物理学者の見解を伝えるにあたっ いる。レイよ、 から出発し、そのさい要素は「不変的、不可入的」等々のも