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検索対象: 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集
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1. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

格を証明されあるいはもっている新たなヘルの出現を単に受択でぎる選挙候補者についての「票決」なのではなく、カリ 身的に待望するという態度は、特に彼の出現がおくれ、かっ スマ的資格をもつものとして後任に召命された・「正しい」 その種類を問わず強い利害関係が支配団体の存続に結びつい ヘルを確定し承認する手続なのである。したがって、「誤っ ている場合には、新たなヘルを獲得するための積極的な行動た」選択は、贖罪さるべき不正であった。全員一致を達成す によってとって代えられるのを常とする。 ることは可能であるはずであり、反対意見はまちがいであ 化カリスマ的資格の諸標識にしたがって、〔後継者を〕物り、無力である、というのが本来の要請であったのである。 色することによって。比較的純粋な型としては、新しいダラ いずれにせよ、こうなると、信仰はもはや人そのものに向 イ・ラマの探索がある。これによって、カリスマの厳に個人けられるのではなく、「正しく」かつ「有効に指名された」 的な・非日常的な性格は、規則によって確定しうる資質に転 ( 時としては叙任式を経た ) ・それともあるいは財産対象を取 化する。 得するのと同様な仕方で権力の地位に就けられた・ヘルの人 5 神託・籤・その他の指名技術によって。カリスマ有資格に、向けられることになる。 格者の人に対する信仰は、これによって、当該技術に対する カリスマ的資格は血の中にあるという観念にもとづく 信仰に転化する。 「世襲カリスマ」によって。 けカリスマ的資格をもつものを指名することによって。 ごく自然に浮ぶ観念は、差当り、支配に対する「相続権」 カリスマ保持者自身による指名、すなわち後継者指という観念であるが、この観念が支配的になったのは、西欧 定。これは、予言者についても武侯についても、きわめてし中世においてのみであった。カリスマは、きわめてしばし ばしば用いられる形式である。カリスマ自身のもっ正当性に ば、単に氏族に付着しているにすぎず、新たな現実のカリス 対する信仰は、これによって、法的および神的指定による・ マ保有者は、 ーに述べた規則や方法の一つにしたがっ 支配権の正当な獲得、に対する信仰に転化する。 て、改めて特別に確定されることが必要である。人に関して カリスマ的資格をもっ使徒団または従士団による指明確な規則がある場合にも、これらの規則は同じではない。 名。この指名には、宗教的または軍事的共同体による承認が王位について「長子相続法」が完全に一義的にあまねく貫徹 付加されなければならない。 この手続を「選挙」権ないしは、 されたのは、西欧中世と日本においてだけである。このこと 「予備選挙」権とみる観念は、第一一次的な考え方である。こ は、これらの諸国における支配の安定性を高める上に、大い のような近代的な概念は、ここには全然もち込んではならな に寄与した。その他のあらゆる形式は、内部的紛争を誘発し この手続は、本来の理念からすれば、どれでも自由に選やすいからである。

2. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

らしなかった。これに重ねての国民の不幸は、何らかの理由 でビスマルクに後継者と疑われた人物がみな彼からひどく邪 推された一方、自分の息子の貧弱な政治家的資質を、彼が驚く ほど過大評価したことであった。そして他方では、彼の強力 な威光のまったく否定的な結果として、完全に無力な議会が ある。ビスマルク自身、官職を離れ、みずからの運命の帰結 近代国家において支配が現実に力を発揮するのは、議会の 日常生活における行政 を身をもって味わったとき、このことを一つの失敗として自演説でもなく、君主の宣言でもない。 責するところがあったのは周知のごとくである。議会の無力の執行が現実の力なのであるから、この支配は、必然的・不 さの意味は、精神的水準のひどく低下した議会ということで可避的に、文武の官僚の掌握するところとなる。武官も挙げ ビューロー もある。いや、わが国の非政治的文筆家たちのつくった素朴 たわけは、近代戦では高級将校が「官房」の中から指揮をと な道徳的伝説では、この因果関係がむしろ正反対に考えられっているからである。中世以来の資本主義への進歩といわれ ている。つまり、議会活動のあの水準は低かったし、また低るものが経済の近代化を見定める一義的な尺度であるのと同 いままでいたのであるから、その故に議会活動は、この水準様に、官僚制への進歩、すなわち任命・俸給・恩給・昇進・ アクテンメーシッヒカイト 相応に無力に留まっていた、というわけだ。けれど、単純率専門的訓練と分業・明確な権限・文書主義・上下の階層 直な事実と考察は、現実がどういう実態であるかを示すもの的秩序などに基づく官僚制への進歩というものが、君主制国 である。いずれにせよ、冷静に考える人には実態はおのずか家であれ、民主制国家であれ、およそ国家の近代化を見定め る一義的な尺度なのである。国家が交替的行政の行なわれる 府ら明白である。なんとなれば、議会の水準の高低を決めるも カントン 政のは、大きな問題が議会で議論されるかどうか、さらにこの 小区画でなく大きな大衆国家である限り、すべてこのことは 議問題が権威をもって決定されるかどうかーーっまり議会内であてはまる。絶対主義国家とまったく同様に、民主政体もま の の出来事に重要性があるとすれば、それはどの程度の重要性た、任命される官吏のために、封建的・家産的・都市貴族的・ 材なのか、ひょっとすると議会は、支配する官僚層がいやいやその他名誉職的にあるいは世襲的に、職務を行なう名望家行 序認めている可決機関にすぎないのではあるまいか、こうした 政を排除していく。任命された官吏が、われわれのあらゆる 新問いへの回答如何によるからである。 日常的な要求や苦情について、決定を下すようになるわけで ある。こうした重要な点については、軍事上の支配担当者た る将校も、文官たる行政官吏と異なるところがない。近代の 二官僚支配と政治指導

3. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

倫理との因果関係をさぐろうとしているのである。この点をの一部として書かれたものであるが、同書の第三版 ( 一九四七 年 ) までは、第三部第六章に置かれていた。すなわち、第三 慎重によむことは、どいじなことであると思う。 版までと第四版とでは配列構成がちがっているわけである。 なお、この問題提起は今世紀初頭から、いわゆる「ウェー ・ ( ー論争」というかたちで国際的な討論をまきおこしたもの訳文は、拙訳「支配の社会学』— ( 創文社、昭和三五年 ) から 部分訳であることに伴う必要な変更を加え、かっ訳注を である。著者はこの論文の序言に、そのあらましをまとめて いるが、なおいっそう立ちいって論争の問題点を知りたい人大幅に縮減してーー・再録した。しかし、とりわけウェー のために、・ ・トーニイ『キリスト教と資本主義の興隆』の場合には、一部分だけを読むことによっては十分な理解に (). H. Tawney, R ミ ~ ミを、 ~ え e of ca. 、ミ . メ達しがたいので、前掲拙訳 ( およびそれに続く部分の拙訳 ) H ミ。こき一 S き d 1926. ) を一読するようおすすめする ( 河出を読まれることが望ましい。そのほかに、邦訳としては、第 一一節に当たる部分については、浜島朗訳『家産制と封建制』 版、世界大思想全集・社会、宗教、科学思想篇、第十八巻 ) 。 ( みすず書房、昭和三十二年 ) の付録の部分、第三節に当たる部分 については、阿閉吉男・脇圭平訳「官僚制」 ( 創文社、昭和二十 支配の社会学 九年 ) と浜島朗訳「権力と支配』 ( みすず書房、昭和二十九年 ) 第 MAX WABER Wirtschaft und Gesel- 二部第六章 ( ともに原著第三版の邦訳である ) とがある。 lschaft, 1. Aufl. 1921. 2. Aufl. 1925 》 3. 新秩序ドイツの議会と政府 Aufl. 1947. 4. Aufl. 1956. ーー官僚制度と政党組織の政治的批判 世良晃志郎 MAX WABER: Parlament und Regierung im neugeordneten Deutschland. ーの『経済と社会』第四版 本書に収載したのは、ウェー Zurpolitischen Kritik des Beamten ・ ( 一九五六年 ) の第一一部第九章第一一、三節である。この中で、 題 tums und Parteiwesens. 1918. 第二節「正当的支配の三つの純粋型」は、最初「プロイセン 年報」一八七巻 ( 一九一三年 ) に独立の論文として発表され、 中村貞二 解 のちに第四版の編集者によって「経済と社会』の中に収録さ 山田高生 れたものである。第三節「官僚制的支配の本質・その諸前提 ーの政治論文の中で最も包括的な内 および展開」は、はじめから「経済と社会』 ( 初版一九二一年 ) この論文は、ウェー

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は、既存の・フルジョア的政治秩序で自分を汚したくないとい なくらい高潔な、と言えますーー、が登場することになりまし 盟う理由で、原理的に少数党であり、議院内閣制を妨げて来ま たが、しかし、同時に、前述の官僚政治の諸結果も政党のな した。この二つの政党が議会制度に背を向けていたという事かに現われて来たのであります。 実が、この制度の実現を不可能にして来たのであります。 一八八〇年代以降、プルジョア政党は完全に名士のギルド この場合、ドイツの職業政治家はどうなったのでしよう になりました。たしかに、政党は党外のインテリを宣伝に利 か。職業政治家は権力もなく、責任もなく、名士としてかな用し、「この方もあの方もわが党の味方です [ と言わねばな り小さな役割しか果すことが出来ませんでしたが、それだ らないことがありました。けれども、極力、この人たちを立 けに、近頃は、どこにも見られる典型的な派閥本能に燃えて候補させることは避け、どうにも仕方がなかった場合、当人 いたのです。この名士たちは小さなポストで生活を立ててお が承知しなかった場合だけ、立候補させていました。同じ精 りましたから、彼らの仲間で異分子が出世するというのは無神は議会をも支配しました。ドイツの議会政党は今も昔もギ ルドであります。国会の本会議で行なわれる演説はみな予め 理なことでした。指導者としての素質があったばかりに、ま さにそのために名士たちに白眼視され、悲劇的な政治的生涯党内で十分に検討されます。これは、演説がひどく退屈なこ とからも判ります。演説を命、ぜられた人間だけが発言するこ を送った人は、どの政党にも沢山おりましたし、もちろん、 とが出来るのです。これは、イギリスの慣例やフランスの慣 社会民主党も例外ではありません。すべてドイツの政党は、 例ーー理由は正反対ですがーーと比べて、これ以上に違うも こういう名士ギルドへの発展という道を辿ったのです。一例 をあげますと、べ のは殆んど考えられないくらいであります。 ーベルなどは、知的に優れていたわけでは ありませんが、情熱から見ても、純粋な性格から見ても、や 今、大きな崩壊ーーー世間では革命と呼ばれていますが 一個の指導者でした。彼は殉教者であり、大衆の信頼の結果、一つの転換が進行しているように思われます。いる を決して裏切らなかった ( 大衆から見て ) ため、大衆の絶対 ように思われますが、確かなことは判りません。先ず、新し 的支持を得ておりましたので、本気で彼に反対するような党 い政党機構の芽が現われて来ました。その第一は、アマチュ 内勢力はありませんでした。べ ーベルの死後、この状態は終アの機構であります。これは諸大学の学生諸君によって代表 りを告け、官僚政治が始まりました。労働組合官僚、政党のされる場合が特に多く、学生諸君は、自分たちが指導者の素 書記、ジャーナリストが出世し、官僚精神が党を支配し、こ質を認めた人間に向って、「大業をあなたに託そうと思いま の上なく高潔な官吏層ーー他の国々の状態、なかんずく、賄す。どうか、成し遂げて下さい」と申します。第一一は、実業 賂の横行するアメリカの労働組合官僚に比べれば、世にも稀家の機構であります。指導者の素質があると認めた人物を訪

5. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

うして、これらのすべての利害関係は同じ方向に作用するこ治によって発達した権力闘争上およびその方法上の習練を必 的とになり、ここに、統一的に指導する官僚大臣が誕生する一」要とすることになり、今度は、そこから、官吏が専門的官吏 と「政治的官吏【という二つの種類ーーーこの区別は、決して とになったのです。イギリスのように、議会の権力が国王よ り優位に立っていた場合は、議会の権力の発達がますます強厳密なものではありませんが、明らかに別の範疇ですーーに く統一化の方向に働きました。イギリスでは、議会の中心的分けられることになります。本来的な意味での「政治的ー官 な指導者であるリーダーを頭にいただく「内閣ーが発達しま吏というのは、、 しつでも簡単に就任させられたり、免職にな した。この内閣というのは、その時々の多数党という、事実ったり、「休職になったり」するという点で、普通、外から 見分けがつくものです。フランスの知事や、これに似た他の 上の唯一決定的な政治的権力ーー公の法津で公認されてはい ませんがーーの委員会のようなものでありました。公の合議国々の官吏がその例で、司法関係の官吏の「独立性」と著し 的団体そのものは、政党という現実の支配的権力の機関では い対照をなしております。イギリスでは、議会の多数党が変 るたびに、したがって、内閣が変るたびに、頑固な慣習に従 ありませんでしたし、したがって、現実の統治を担当するこ とも出来ませんでした。むしろ、多数党は、国内で権力を守って退職する官吏がおりますが、それがこの例であります。 り、国外に対して大政策を推進してゆくためには、政党内の特に、一般の「内務行政」を管轄する官吏はこれに数えられ 本当に指導的な人物だけをメン・ハーとする、内輪の話が出来ております。その「政治的ー構成要素が、特に国内の「秩 る強力な機関が必要だったのです。内閣こそこういう機関で序」の、つまり、現存の支配関係の維持にあるからでありま あったのですが、国民、とりわけ、議会に代表されている国す。・フロイセンでは、こういう官吏が処分を免がれようとす 民に対しては、一切の決定について責任を負う一人の指導者る場合は、ブットカーメルの布告によって、「政府の政策を が必要でした。それが首相であります。イギリスのこの制度支持する」義務を課せられ、フランスの知事と同じように、 は、やがて、議院内閣制という形で大陸で採用されました。 選挙運動における政府の道具として利用されたものです。ド けれども、これに対して、ただアメリカおよびその影響を受ィッの制度ではーー・他の国々とは違ってーーーこういう官職に けた民主主義諸国においては、全く異質の制度が現われましつくのにも大学教育、専門試験、一定の見習勤務を経なけれ た。これは、選出された多数党指導者を、彼が任命する官僚ばならないことになっていて、この点では大部分の「政治 機構の頂点に据え、予算と立法とについてのみ議会の賛成を的ー官吏も他の一切の官吏と同じ性質を持っておりました。 必要とするということにしたのです。 こういう現代の専門的官吏の特徴を持たなかったのは、ドイ 政治が「経営」に発達いたしますと、これも近代の政党政ツでは、政治機構の長である大臣だけであります。既に旧制

6. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

支配の社会学 世良晃志郎訳

7. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

支配する。しかし、何らかの原理が行政や争訟解決の基礎と政をおこなう者は、その官職に対して何らの固有権ももって いないし、しかも役人の専門的選択〔専門能力を基準とする選 される場合には、それは、実質的な倫理的公平や正義または 功利主義的合目的性の原理であり、合法的支配の場合のよう択〕がおこなわれるわけでもなく、役人の身分的名誉も存在 しない。物的な行政手段は、完全にヘルのために、ヘル自身 な形式的性格のものではない。彼の行政幹部のやり方もまっ たく同様である。行政幹部は個人的な従属者 ( 家族成員や家の直轄によって、管理される。行政幹部が完全にヘルに従属 役人 ) 、あるいは血縁者や個人的友人 ( お気に入り ) 、あるい しているために、ヘルの恣意に対しては何らの保障も存在せ は個人的な誠実のきすなによって結ばれたひとびと ( 封臣・ ず、したがって、ヘルの恣意の可能性の範囲は、ここで最も 貢納義務を負う諸侯 ) 、から成る。即対象的に劃定された管大きいわけである。最も純粋な型はスルタン的支配であ 轄領域としての「権限」という・官僚制的な概念は存在しな る。真の「専制政治」はすべてこのような性格をもってお 。個々のしもべの「正当な」命令権力の範囲は、ヘルのそり、この性格が存在するときは、支配権はヘルの通常の財産 の場その場の意向によって定められるのである。彼らの命令権のごとくに取扱われる。 権力をより重要なあるいはより上級の役目のために利用する 2 身分制的構造。しもべは、ヘルの個人的なしもべでは ということも、同じく完全に〈ルのそのときどきの意向に委なく、〈ルとは独立の・彼ら自身の固有の地位の故に社会的 ねられる。実際上は、この命令権力は、しもべたちが臣民の有力者とみなされているひとびと、である。彼らは、特権や 従順性を期待しつつどれだけのことをあえてなしうるか、と〈ルの譲歩によって、その官職を ( 実際に、あるいは正当性 いうことによって大幅に決定される。即対象的な官職義務と をうるために擬制的に ) 授与されており、または、法律行為 官職規律とではなく、しもべの個人的な誠実が、行政幹部の ( 売買・質人・賃借 ) によって、彼らの専有する官職につい 諸関係を規定しているのである。 て、自由に剥奪することのできない固有権をもっている。し しかしながら、行政幹部の地位の性質については、特徴的たがって、彼らの行政は、限られた限度においてではあるが な相違をもつ一一つの形式が観察されうる。 自首的かつ自律的であり、物的行政手段は、ヘルの管理では 1 行政の純家父長制的な構造。しもべはヘルに完全に人なく、彼ら自身の管理下にある。要するに、身分繝的支配な のである。ーー官職保有者たちの・その官職の権力領域 ( お 的に従属している。彼らは、あるいは純家産制的に、奴隷・ 隷属民・宦官の中から徴募され、あるいは家産制外的に、完よび官職からの収入 ) をめぐる競争は、やがて、彼らの行政領 全に無権利ではない階層、お気に入りや平民の中から徴募さ域の内容の相互的劃定をもたらし、これが「権限」の代用物 れる。しもべたちの行政は完全に他律的で他首的である。行となる。階層組織は、特権 ( 不移管・不上訴の特権〔 privi ・

8. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

分で統治しているつもりになっているが、実際には官僚が、 器の演奏法を心得ていなければならない。祖国の権力の安泰 君主をかくれみのとしながら、誰の統制も受けないで、無のために、政治的に無能な君主を排除するものこそ、議会制 責任なふるまいができる、という特権を享受しているのであ度なのである。人口僅少の自国民のために全大陸の最良の部 る。君主はおべつかを使われる。君主は自分のえこひいきで分をさらに付け加えるようなことが、一「夜警国家」にふさ 指導的な大臣の首をすげかえることができるものだから、権わしい行為だろうか。「臣下ーの怨みの臭いが強くただよっ てくるこの使いふるしの常套語を持ち出すとは、なんたる俗 力のロマンチックな外観が彼の目先にちらっく。だが、エド ワード七世やレオポルド二世のような君主は、確かに理想的物の文筆家的饒舌であることか ! 次に議会に移ろう。 な人物ではなかったけれども、すこぶる多くの実質的な権力 を掌握していたことに間違いはない。彼らは、厳密に議会主 近代の議会は、なによりもまず官僚制という手段によって 義的な形態で統治を行ない、公式的にはこれ以外のほかの形支配されている人びとの代表機関である。被支配者層のうち 態をとったことがなかったにもかかわらず、いやそれ故にこ で少なくとも社会的重要度が高いものからある最小限の内面 そ、彼らは実質的な権力を掌握していたのだ。近代の文筆家的同意を得ることは、確かにあらゆる支配が存続するための たちの筆にかかると、こういう君主は「日蔭の王」といいふ 前提条件である。たとえ最良の組織力を誇る支配であって らされるが、それは無知というものである。また文筆家たちも、それが支配存続の前提条件となっている。今日では、議 の筆が、俗物連中の道徳的なおしゃべりをもって、これらの会がこの最小限の同意を外的に表明する手段なのである。公 君主にかんする政治的判断の基準にしているとしたら、それ的権力の若干の行為には、議会との事前の協議を経た後法律 による合意の形成をとることが、義務づけられている。この 府は愚鈍というものである。たとえこれらの君主の業績が 政 その他もろもろの偉大な政治的計画と同じ運命を辿って 種の行為に属するものとして、とくに予算案がある。議会法 議結局のところ挫折するにしても、世界史は、文筆家たちとは の成立以後、今日では、国家の資金調達の方法にかんする権 の 違った判断を下すだろう。政党の情勢に応じて自分の廷臣の限、すなわち予算審議権は、決定的な議会の権力手段であ る。もちろん議会が、財政的手段の拒絶や法案に対する同意 首まですげかえねばならぬ一人の君主は、世界を囲む同盟と 秩つながっている反面、一小国を統治するもう一人の君主は、 の拒否によって、あるいは権威のない動議の提出によって、 新 巨大な植民地帝国 ( わが国の断片的な植民地と比較せよ ! ) ただ住民の不満を行政官庁に向かって強調することしかでき 5 とつながっているのだ。君主であろうと大臣であろうと、おないならば、その議会は政治的指導への積極的参与というこ よそ政治的に指導せんとするものは、近代的な権力という楽とから閉め出された議会という他はない。そういう議会には

9. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

れるのが常であるーーーの威力については、」 のところで論すがー・・ー・国家にあっては特に政党首領による任命がーー伏在し るはすであるが、この威力も、当然、官僚の社会的地位におているということを、否定することを意味しない。任命が伏 ける「身分制的ー要素を強化する。ちなみに、この身分制的在しているかどうかは、国法の規定によってきまるのではな 要素は、時としてはーーー例えばドイツの軍隊におけるように 、政党機構の機能の仕方によって決定される。政党機構 、官僚コース候補者への採用は官僚団 ( 将校団 ) の成員は、それがしつかりとした組織をもっている場合には、形式 の同意 ( 「選挙」 ) に依存するという規定によって、印象的か 的には自由な選挙を、政党首領によって指名された一人の候 っ明示的な承認をえていることもある。官吏層のツンフト的補者への単なる賛同に転化させることがあるし、〔またそこま 閉鎖化を促進するこれと類似の諸現象は、過去における家産でいかなくても〕普通、指名された一一人の候補者の中の一人の 制的官吏制度、とりわけ。フレベンデ的官吏制度の基盤の上 ための投票の獲得をめざす・一定の規則にしたがっておこな に、典型的な形で見出される。官吏層の閉鎖化を別の形で復われる闘争に転化させうるのである。 しかし 活させようとする努力は、近代的な官僚支配制においても決 、いかなる事情の下においても、被支配者の選挙に してそれほど珍しいことではなく、例えば一九〇五年のロシ よって官僚を指名するということは、階層制的下属関係の厳 ャ革命中における・強くプロレタリア化された専門官僚 ( 「第格さを弱めることになる。被支配者の選挙によって任命され 三分子」 tretyj element) の要求の中でも、ある役割を演じ た官僚は、審級制の上で彼の上位に立っ官僚に対して、原則 ている。 として独立的であるからである。けだし、このような官僚 官僚が官僚として受ける社会的評価は、ーー新移住地におは、彼の地位を「上から」ではなく「下から」えており、あ いてしばしばみられるように 、営利活動の余地が大き るいは少なくとも、官職階層制の上で彼の上位にある審庁そ く、また社会的階層構成が著しく不安定である結果、専門的のものからではなく、政党有力者ス ) ーー彼らは彼の将 訓練を経た行政の需要も身分的習律の支配もともに著しく徴来の栄達をも決定するーーからえているからである。彼の栄 弱であるようなところにおいて、特に低いのが常である。合達は、行政勤務上の上官に依存しているのではない。少なく 衆国において特にそうである。 とも第一次的には上官に依存してはいないのである。 2 純粋な型の官僚繝的官僚は、上級審庁によって任命さ 選挙されたのではなく・ヘルによって任命された官僚は、 れる。被支配者によって選挙される官僚は、もはや純粋に官純技術的にみるとぎ、通常はより精確な機能を営む。けだ 僚制的な姿ではない。もちろん、選挙が形式的に存在してい し、他の事情が同じであるなら、純専門的な見地や資格が彼 るということは、それだけではまだ、その背後にやはり任命の選択や栄達を決定するという公算が、この場合一層大きい ( ニ七 )

10. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

die ま die 守、 f 、ト 4 、 K ミ = 守 und きる立場から疎外された当然の結果として、営利追求の活動 P き、ごきミ e in B トド Tübingen und Leipzig 1901. s. 16 ) にむかって集中的に突入するのがつねであり、かれらのうち プロテスタントカソリック ユダヤ教徒 才能にめぐまれたものは、政治活動の分野で満足することの 四三 % 四六 % 九・五 % 高等学校 できなかった名誉欲をみたすために、この方面で自分の才能 高等実業学校六九 % 三一 % 九・〇 % を縦横に発揮しようとするというのである。ロシアや東。フロ 上級実業学校五ニ % 四一 % 七・〇 % イセン地方で堅実に経済的繁栄の道をすすんでいるポーラン 実業学校 四九 % 四〇 % 一一・〇 % ド人は ( 同じポーランド人が支配者の立場にあるガリツィエ 上級公民学校五一 % 三七 % 一二・〇 % ン地方とは反対に ) まぎれもなく右のような特徴をしめして 四八 % 四二 % 一〇・〇 % 平均値 おり、また古くはルイ十四世時代のフランスにおけるユグノ 原注四前注の数字を参照。それによれば、カソリック教徒で中 ー派や、イギリスの非国教会派、クエーカー派などもこれと同 級の教育機関に在学している生徒総数は、人口比率にくらべると 様であるーーかんじんなことをひとついいもらしたがーー一一 高等学校 ( おおむね神学研究の基 その三分の一より少ない。ただ 千年におよぶユダヤ人の場合などは、とくにそうである。し 礎課程を任務とする ) のみは、総人口における比率より若干パ かしながら、ドイツのカソリック派の場合には、このような セントが高くなっている。のちに述べるところと関連するのでと くに指摘しておきたいのは、ハンガリーでは改革派が中等学校の傾向はまったくといってよいほど ( あるいはまったくという 在籍者比率では典型的な事態を示していることである。 ( オッフ のは極端かも知れぬが ) それを裏書するような特徴はひとっ 、前掲書、一九頁の脚注をみよ。 ) もみられない。い や、それだけではない。過去をふりかえっ てみても、かれらがオランダやイギリスで迫害されていたと のさて、右にみてきたようにドイツでは、カソリック教徒が き、あるいは単に寛大なとりあっかいをうけているにすぎな かった不遇の時代の全期間を通じ、。フロテスタント派の場合 ズ近代的な営利追求の活動に、比較的にわずかしか参加してい ( 原注五 ) ナないという事実は、古くから周知のこととされ、またこんに とはちがって、眼にふれるほどの経済的発展をわすかでもし タちでもひろく一般に知られている次のような経験と矛盾するめしたという事実を完全に欠いているのである。しかし、こ テので、とくに関心をよぶものである。それは、民族や宗教上れとは逆に、プロテスタント派 ( とくに後章で詳細に論じね の少数者が《被支配者》として《支配者》である他の民族やばならぬ特定の教派 ) は、事実が示すところによれば、支配 集団との対立関係にたたせられているときには、自発的にし者の地位にあるときにも、被支配者の立場におかれたときに ろ、あるいは他律的にしろ、政治的に強力な指導性を発揮でも、また多数者の地位に立っときでも、少数者の立場にある