利害関係 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集
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1. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

の利害。 自分や子供らの利益において最善の経営者にと 民経済的な立場から」などということばで、一般に概念的に って、もしくはーーすぐさまそれとおなじことになるのでは はっきりした分析にたえられないようなものをばもちいたた めに、どのような混乱をひきおこしたかは、局外者がみれないがーーもっとも資力の大きい購買者にとって、利益にな ば、まったく信じられもしないぐらいである。しかも、不幸るような方向に地価が動くことを望んでいるようなひとたち 私経済的な意味でもっとも な結果をまねいたものは、このばあい、とくに日常用語からの、それとは正反対の利害。 とりあげられた集団概念である。しろうとにもなるだけわか「有能な経営者ーが、経済的な運動の自由にたいしていだく、 りやすい手本をしめすために、「農業の利益ーという語句に 純経済的な利害。一定の支配階級が、自分自身の「身分ー おいてあらわれている「農業」という概念を考えていただこや、したがって自分自身の子孫の伝統的な社会的および政治 う。われわれがまず「農業の利益」というものを、個々の経的な地位を維持することにたいしていだく、それと対立して 営者個人がかれらの利益についていだく、経験的にたしかめ いる利害。ーー農業経営者のうち、支配的でない層のひと ることができ、大なり小なり明瞭な、主観的な考えだと思 が、かれらよりも上層のもので、かれら自身の地位を圧迫オ るひとたちが、没落することにたいしてよせる、社会的な利 、そして畜産農、家畜肥飼農、穀物栽培農、餌料栽培農、 プランデー醸造業などの利益相互の数かぎりないあらそいを害。 上層の農業経営者の中にあって、かれらの企業の利 ばそのばあいにはぜんぜん無視するならば、しろうとならば益をもまるために政治的な支配者を自分らのなかからだした ーーわれ いという、ばあいによってはそれと衝突する利害。 ともかく、専門家ならばだれでも、価値諸関係がいりみだ れ、対立しあって、ものすごくこみいっているのに、その農われはできるだけ簡略にしようと思って、精密な考えかたを しなかったのであるが、それでもこういう利害関係の一覧表 業の利益ということばでは、それがはっきりといいあらわさ は、はてしなくいくらでもふやすことができる。この種の、 れていないことに、気がつくであろう。ここでそのこみいっ どちらかといえば「利己的な」利害には、非常にさまざま た状態の若干のものだけでもかそえあげてみると、それには 論 次のようなものがある。農地を売ろうと思って、農地価格のな、純粋に理想的な価値が、まじり、結びついており、後者 が前者を抑制し、方向をかえることがありうるということ 学急速な値あがりだけに関心をもっている農民の利害。それと は反対に、農地を買い、耕地を整理し、もしくは小作をしょを、われわれは無視していっているのだが、それは何よりも 会 社 うとしている農民の、それとはまったく逆の利害。自分の子次のことを思いおこすためである。それは、われわれが「農 孫にたいして一定の農地を維持したいとのぞむのは社会の利業の利益」についてかたるときに、われわれは普通は、その 益のためだと思い、そこで農地所有の安定に関心をもっ農民ときどきの農業経営者が自分で自分の「利益に」関係させる

2. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

110 物質的および精神的な価値について考えるにとどまらす、ま っては、「国家」の利益のみならず、若干の農業経営者につ たそれとならんで、われわれが農業とかかわらせることので いてありうるいっさいの利益ーーそのなかには、現在および きる、部分的にはまったく質のことなった、価値諸理念をも将来にたいする、もっともさしせまった利害もあるーーとも 考えている、ということである。 ここに曲業とはまった 衝突することがありうる。そしてーーーこのことによって問題 く質のことなった価値諸理念の例をあげれば、次のようなも はいっそうこみいってくるのだが 「国家の」利益に、わ のがある。まず第一に人民に安い食糧をあたえたいという関れわれは上のような、またかず多くの他の似かよった、個々 心、および、それとはつねに一致するというわけではない の利益を、ともすれば関係させるのであるが、そういう「国 が、人民に質的によい栄養をあたえたいという関心からみち家ーというものは、実際は、きわめてこみいったこんとんと びきだされた、生産的な利害がある。このさい、都市と農村 した状態にある価値諸理念にたいする呼び名にすぎないこと の利害はさまざまな衝突をすることがありうるし、また、現がひじように多いのであって、われわれが、それぞれのばあ いに、そういう価値理念にかかわらせたものを、国家だと考 在の世代の利益が、将来の世代がもつであろう利害と、決し えているのである。そしてここにいう価値理念には、つぎの て一致するとはかぎらない。 次に人口政策的な利害、と ようなものがある。外国にたいする純軍事的な安全保障、王 くに農業人口が多いことにたいする関心であって、それは、 あるいは、強国政策的な「国家ーの利益から生ずることもあ室もしくは特定の階級の支配的な地位の、国内にたいする、 るし、相互の間は種類をことにする、そのほかのいろいろな保障、国民の形式的ー国家的な統一を維持し拡大しようとい 観念的な利害 ( たとえば農業人口が多ければ、農村の文化の特う関心、この関心には、それ自身のためにもたれることもあ れば、一定な客観的な、相互のあいだはまたひじようにこと 性の上に影響があることが期待されるので、その影響にたい なった、文化価値で、われわれが国家的統一をなしている民 する関心のごとき ) から生ずることもあるーーこの人口政策 的な関心は、農業人口のあらゆる部分のもつ、さまざまな私族として、それらを代表していると信じているようなものを 維持したいと思うために、いだくばあいもある。さらに一定 経済的な利害と衝突するのみならず、農村人口の大多数のも のが現在いだいているいっさいの利害とも衝突することも考の、これまたひじようにさまざまな、文化理想をこころざし えられる。あるいはまた第三にたとえば農村人口の社会構成て、国家の社会的な性格を変革することにたいする関心。 のあるありかたから、特定の政治的ないし文化的な影響が生 われわれが「農業ーにかかわらせうる「国家の利益」と じてくるので、農村人口の構成のそういうありかたにたいし いう集合名詞のもとに理解されるいっさいのものをただ暗示 ていだかれる関心がある。この関心は、そのめざす方向によするだけでも、議論はあまりわずらわしすぎることになるだ

3. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

と彼はいう。マルクスが「反映ーとか「表現ーとか、あるい 行為の「意味」を探究した。しかし彼の場合、その「意味。 は、行為する主体の中で「主観的に思われた意味 , ではな は「規定」ないし「決定」とかの用語を使うところで、ウェ 、経済的・社会的過程によって規定されたところの、主体 ー。ハーは好んで「親和カーとか「近親性」とか、あるいは の中で働く「客観的な意味」であった。だから社会的行為の 「関連」とかの用語を用いて、異なる領域の間に関係をつけ、 基底には、それ自身の論理によって自然法則的・客観的必然独特の仕方で生活の諸領域を綜合しようとする。この用語上 性をもって動くところの経済的過程たる「下部構造」が横たのニュアンスが物語っているものこそ、「フロテスタンティ わっているのであって、これを超越した形で人間の行為に固ズムの倫理と資本主義の「精神ヒで開始され「世界諸宗教 有の「動機」があるわけでもなければ、これを超越したとこ の経済倫理」に発展するところの、宗教社会学的研究、つま ろに行為それ自身の「意味」が見出せるものでもない。史的り宗教的意識 ( 理念 ) と経済的・社会的倫理、そして経済的 唯物論の論理からすれば、外見上独立しているかにみえる人利害と社会体倒の間の重層する関係の研究に彼を向かわせた ものであった。 間の意識、理念も一つのイデオロギーと化し、人間の行為に ーのマル マルクス研究の現代的水準からみると、ウェー おける動機は、経済的・階級的利害を反映したものになって 、うる しまう。ウェ クス批判には多くの問題点が残されているばかりでなく、無 ーの観点からすれば、このようにいし であろう。しかるにウェー ーの社会学によれば、理念は経理解とさえ思われるふしがないではない。しかしウェー 済的・社会的利害のたんなる反映ではない。そこでは、政はたんに消極的なマルクス批判者として現われたのではな く、積極的な対決者として現われたのである。すなわち、ウ 治・法律・経済・宗教などの生活の諸領域は、一応それぞれ ーの理解社会学は、マルクスの体系のたんなる否定的 に固有の法則性に従うと考えられている。だから、これら諸エー 領域が「上部構造」ー「下部構造」の関係で一義的・構造的批判ではなくその肯定的・積極的批判たろうとすること、そ に関係づけられ綜合されるのではなく、したがってまた、理れは、マルクスの体系からいわば「魔術」を抜取ったうえ、 マルクスの諸概念を自己の体系の中に包摂しようとさえして 念と利害が一義的にア・プリオーリに対応させられるのでも ー・ハーはまさにマルクスと互 しること、この占〔においてウェ ない。なるほどウェ ーによっても、「人間の行為を直接 に支配するのは、理念ではなく ( 物質的および観念的な ) 角の勝負を挑むものであることに、十分の注意を払っておく 利害関心である。けれども、理念によって創出された世界像必要がある。 ほ、しばしば転轍手としてコースを決定する。そしてそれに * この点については、高島善哉「マルクスの前と後ー ( 本全集 中の「資本論」第一部のための解説、「唯物論と主体性ーの項を おって、利害関心の動学が行為を押進めていくことになる

4. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

と無産の小生産者と、そして賃労働者との組織の出現なので るいは「議会なき民主主義ーを高く掲げているほどである。 極端な感情的反感というものは、もちろん「論破」しきれるあって、この組織は、あらゆる部門について何らかの法で この点が大事だ ! ーー独占を保障された営業 ものではない。ただ、こうした反感が実際の結果をもたらす規制され、 場合に、今日ではそれはどういう意味をもってくるか、を明のチャンスを有するだろう。それは、古代工 , ジプトの「新帝 らかにしておかねばならぬ。当然わが国の君主制的国家秩序国」の国家と同じ意味での「社会主義ーであるだろう。もし このシンジケート化された経済を運営するに当って、大衆の という条件のもとでである。官憲的な官僚権力を擁するわが 制度のもとでは、議会主義のひとかけらもない民主主義は何意志が決定権をもつように配慮されるならば、そのときにの を意味するであろうか。そういうまったく否定的な民主化みそれは「民主主義ーともなりえよう。〔だが〕大衆の権力を ほ、わが国で周知の、統制されることから自由な官僚支配の保障し、シンジケートをつねに統制する代表機関なしに、つ 完全に純粋な形態であって、これを「君主制的統治」と呼んまり当該組織行政の物的・人的事情に干渉するところの民主 でも差支えあるまい。あるいは、もしこれがあの「社会主化された議会なしに、このような配慮がどうして可能か、そ 義者たちーの望むような経済組織と結びあわされるならば、 れは見究めのつかぬ点である。今日の形での国民的代表機関 それは、古代「ライトウルギー国家」を近代的・合理的に模 : ない場合には、シンジケート化された経済からは、安定し 写したようなものになるだろう。その場合には、国家の官僚た生業のツンフト的政治への発展、従って、停滞的経済への 発展と経済的合理化への利害関心の排除に向かう発展が予想 層によって正統なものとされ、 ( 表面的に ! ) 統制されてい る利害関係者団体が、積極的にはシンジケート自治行政の担されよう。なぜなら、資本のないあるいは資本力の弱い営 業的利害関係者がひとたび独占的に組織された場合、彼らに い手であり、消極的には国家の負債の担い手であるだろう。 とってつねに決定的であったのは、ツンフト的な生業の保障 そのさい官僚は、このようにシンジケート化された営業的・ 営利的利害関係者から統制されるのであって、統制能力の全に対するこの利害関心に他ならなかったからである。これが 然ない君主からも、代表機関をもたない公民からも、統制さ「民主主義的」あるいは「社会主義的」な将来の理想だ、と れることはないであろう。 思いたければ思うがよい。しかし、かような利潤および賃金 この将来の展望を、いま少し詳細に観察しておこう。私経の関心のカルテル化と、現今しばしば主張されている理想、 済的企業家の排除は、見通しうる限りの将来について、実際すなわち、将来の財貨生産の方向は需要に見合うべきで、現 「国有化ーが進行していく過程でも、完全に実施されること在のように利潤の関心に見合うべきではない、という理想と はないであろう。あの排除の意味するところは、大小資本家のしばしばみられる混同、こういう混同も文筆家たちの浅

5. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

の手段として、議会は、選挙による民主制のもとでも不可欠的として政治的な権力と責任をえようと努めている政治的な のものである。さらに議会は、世襲的君主制のもとでも不可利害関係者のことをいう。 ) 思うに、この利害関係者の経営と 欠である。なぜなら、世襲的君主は選挙によるだけの官吏を いうことこそ、本質に係わる事柄である。なぜなら、政治的 使って仕事をすることができないし、また、政治的世論と権に消極的な「大衆」が自分の中から指導者を生み出すのでは カ状況に統一がない場合平和的解決を可能にする、という君なく、政治的指導者が追随者を徴募し、かつ「デマゴギー」 主特有の内政上の機能を危殆に瀕せしめないためには、彼はを通じて大衆を獲得するからである。このことはすべての国 官吏の任命にさいして、みずから一党に荷担してはならない 家秩序についていえることであって、たとえ民主主義的なそ からである。また、一応一般に承認された大衆の信任者が存れであっても例外ではない。そこから直ちに次のような逆の 在しない期間の長びく事態が起こりうるという理由からして 問いがたてられる。すなわち、完全に発達した大衆民主主義 も、議会の権力は「ケーザル的」指導者とともに世襲的君主のもとで、いったい諸政党は、一般に指導者的人物の擡頭を 制において不可欠である。後継者問題は、あらゆる純粋なケ許すだろうか。諸政党は一般に新しい理念を受け容れること ーザル主義的支配にとって、つねにアキレスの踵であった。 ができるだろうか。国家機構とまったく同様、政党も官僚制 ケーザル的指導者の擡頭、排斥、そして脱落が内政上の破局化の過程をたどる。組織および出版事業の装置を備えたま「 の危険なしに速かに行なわれる場は、市民的秩序の政治的持たくの新政党の結成には、今日ではそのための財源と労働経 続性と国法的保障が、強力な代表機関の有効な協力的支配に 費が必要とされるのであって、既成出版業の確固たる権力的 よって、間断なく確立しているところである。 地位を前にしては、新政党結成が実際上ほとんど論外となる ( 原注八 ) 議会に敵対する民主主義者たちを実際に衝き動かしている ほどの困難さに出遭うのである。かくて既成政党はきまった 点は、結局、政治の政党的経営がもっところの、従ってまた 枠にはめこまれ、ステロ化してしまっている。政党の職員の 議会主義的な政党権力自体がもっところの、過度の自発性で地位が、政党所有者の与える「えさ」になっている。政党の あることは明白である。事実、すでにみたように、 この制度思想的財宝は、宣伝文書や党機関紙の中に広く投資されてい のもとでは政治的生活に「積極的に」参加するものと「消極る。これに関係する出版業者や著者の物質的関心は、思想の 的に」参加するものとが相対峙している。政治的経営は利害改造によるこれら出版物の減価を阻んでいる。その上政治に 関係者の経営である。 ( この場合「利害関係者」とは、国家よって生活せざるをえぬ職業的政治家は、思想とスローガン 秩序の形式を問わす、さまざまな強度で政治に影響を及ぼすを内容とする「理念的財産、すなわち彼の精神的商売道具 物質的な利害関係者ではなく、特定の政治的思想の実現を目の価値が低下しないよう望んでいる。だから政党が新しい思

6. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

であり、生存闘争で敗けるのは「時代おくれ」のしるしだ、 経済的な力と国民を政治的に指導する使命とは、い という観念にやすやすと捉えられます。そして、そうしたば 一致するとはかぎらないことを忘れたがることであります。 あい、階級間の力関係の移りゆきをしめす数多くの徴候のう ちのどれかがあたらしく見つかると、そのたびごとに、歴史家 なぜこういうことを述べるかというとーーかくて、われわ は一種の満足感を味わいますが、その理由はかれの観測の正れは実践的・政治的な色彩のつよい諸考察の最後の線に導か しさが確かめられたことだけではなく、かれが半ば無意識のれますー・ーわれわれは、右に述べた政治的な価値基準で、国。 うちに、そのような徴候の出現を、まるで自分自身の勝利の民の指導権を握っている階級または握ろうとしている階級の ように感じることにもあるのです。つまり、歴史家が歴史に値打ちを測るからであり、この基準こそは、われわれ経済的、 宛てて振出しておいた手形を、歴史が支払ってくれるという国民主義者にとって、ただ一つの最高の基準であります。わ わけです。階級間の力関係の右のような発展のなかに、それれわれが問題とするのは、それらの階級の政治的成熟です。 に逆らうような事象がでてくると、歴史家はそのものをば、 すなわち、それらの階級は、国民の永続的な経済上・政治上 自分でも気づかぬうちにある種の敵意をもってながめます。 の権力的価値関心をば、そのほかの一切の考慮にさきだって わざとそのような眼でみるつもりはないのですが、かれに尊重することを心得ているのか、また、心得る力をもちうる は、階級間の力関係の発展にさからう事象が、あからさまな ときがあるのかどうか、この点こそわれわれが問題とすると 利益の主張からおのずと出てくる結果であると単純には思え ころです。自分の属している階級の利害と国民全体の利害と ず、いわばかれが定式化した「歴史の審判」に対する叛逆のを素朴にも同じものと考えることが、たまたま国民の永続的 をしろいろ ように思えてくるのです。いっこい、われわれよ、、 な権力的価値関心に副うているなら、それはその国民にとっ な歴史的発展傾向が産み出す結果のうち、われわれの予想をてまことに運命の贈物ともいうべき僥倖であります。そして 裏切って現われるような過程に対しても、批判を加えなけれ他方において、もしつぎのように考えるとするなら、それも ばなりません。ところが右のような立場にたっていると、批 また、普通使われている意味での「経済的なもの」を過大に 判がもっとも必要なちょうどそのときに、われわれは批判カ評価することにもとづく当世流の迷妄のひとつだと、いわね・ を失ってしまっていることになります。実際つぎのような誘ばなりません。すなわち、政治的な共同体意識は、相異なっ 惑が、われわれのあまりにも身近かに迫っています。それは た、日々の経済的な諸利害で試めしてみると、もちこたえら なにかというと、われわれは経済的な権力闘争の勝者のお供れぬぐらいに弱い ものであり、またおそらくは政治的な共同、 になって、そのあとについてゆきたくなるし、そしてそのさ体意識というものも、じつは、あの転変っねなき日々の利害〔

7. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

ない場合は、本質的に次の一一点を要求している。立法に 薄極まるディレッタンティズムの産物なのである。そういう わけは、この究極の理想が実現できるためには、営業の利害かんして、議会の決議ではなく義務的な国民投票が決定権を もつべきこと。Ü議会主義的方式は存続すべきでないこ 関心のシンジケート化と独占化とから出発するわけこよ、 ないのであって、むしろ正反対に、消費者の利害関心の組織と、従って議会は指導的政治家選択の場であるべきではな く、この政治家の留任を議会の信任ないし不信任で決定すべ 化から始めねばならぬことは、明々白々だろうからである。 きでないこと。ところでこれは、周知のごとくアメリカ民主一 そうとすれば、将来の組織は国家的に組織された強制的カル テル・強制的ギルド・強制的労働組合などの方式に従うこと主義のもとでの現行法である。アメリカでそれが可能である のは、一部は国家首席その他の官吏の国民選挙があるためで はできないのであって、一つの巨大な、国家的に組織された あり、一部はいわゆる「権力分立」の原則があるためであ 強制的消費者団体の方式に従わざるをえなくなるであろう。 る。しかしアメリカ民主主義の経験によれば、議会主義排除 この組織は、いまでもすでにいくつかの消費組合が単独に ( 自己生産によって ) 試みているように、生産の方向を需要のこの方法もまた、議会主義的方式と比べて、より実質的で 清潔な行政の最低限すら保証するものではなく、事実はむし に対応させつつ組織自体で決定しなければならないだろう。 その場合、財貨生産の標準をも示しつつ、これを不断に統制ろ正反対であることが非常にはっきりしている。確かに、 するところの議会を通すことなしに、「民主的な」利害関心、 国家首席の国民選挙については、概して失敗の経験がなかっ それ故消費者大衆の利害関心がどうして保障されることにな た。とにかく、最近数十年間で真に不適任だった大統領の数 るのか、これまた見究めのつかぬ点なのである。 は、世襲君主制下の不適任な君主の数に比べて、少なくとも しいことにしょ多くはなかった。これに反して、アメリカ人は官吏の国民選 府将来の楽の調べをきくのはこの辺でもう、 政 う。実際、今日の議会の有様に対してどんなに反感を懐いて挙の原則については、全般的にきわめて限られた範囲でしか この原則は、普遍化的考察からすれば、官 議いる民主主義者でも、議会を、現実に完全に排除することを満足していない。 の 本気で要求した例はないのである。行政の公開、予算の確定、僚制的機構の技術的な優越性、すなわち職務規律というもの イ この原則はまた、近代的 最後に法案の審議と決定ーーーこれらはあらゆる民主制におい を排除する。そればかりではない。 秩て実際問題として代用し難い議会の機能であるがーーを強要な大規模国家で大量に適用される場合に、官吏の質を実際少 新 この原則は、官職候補者の選択について議 する法廷として、議会の存続は実に多方面から要求されてい しも保証しない。 会主義的方式と対立した関係にあるわけだが、それは、この る。議会に対する反論は、それが真面目な民主主義的なもの であり、通例のように官僚制的権力利害の卑劣な隠蔽手段で原則が官職候補者の選択を、ーー・・議会主義的政党およびこの

8. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

平等選挙権による選挙にさいして利害関係者が個々に供出し だけではなく、権力を掌握している政府の機構も、政党とま た金高の意義如何、を測定するための、てっとり早い大まか ったく同様、こうした事態の進展に一枚加わっているのだ。 な物差とされよう。実際、・これら諸政党の場合ですら、もち いわゆる「ヴェルフ家基金」に維持されたビスマルク系の新 ろん彼らにとってとくに不可欠な金だけで票数がまとまる、 聞は、とくに一八七八年以来、手段と論調を選ばぬ点で尖端 などと思えば大まちがいである。むしろこれら諸政党は、金を行くものだった。現に支配している官庁機構にまったく従 力と広汎な文筆家階層・ーーなかでも感情的にビスマルク時代属する地方新聞をつくろうとする試みは止むことがない。っ の追憶にすがりついているアカデミー内外の教師集団ーーと まり、これらの闘争手段の存在と性質は、議会化の進む程度 の一種独特の雑婚に依存している。選挙人数とにらみ合わせと完全に無関係なのである。さらにそれは、選挙権の等級の ( 原注七 ) てみれば不釣合に多数のブルジョア新聞が、この教師集団を分け方とも無関係である。闘争手段の存在と性質は、純粋に 予約購読者にしようとして目をつけている。ブルジョア新聞大衆選挙そのものの結果なのであって、選挙団体が政治的に のこういう態度は、薄められた形で、完全に無節操な広告新責任ある指導者選択の場であるかどうか、という問題とも、 聞の真似るところともなっているが、それというのも、このあるいは、選挙団体が、わが国に見られるように、利害政策 広告新聞が官界と実業界に迎えられるからである。 や酒手政策という否定的なことしかなしえないかどうか、と ドイツの諸政党内部の社会的構造はいかにもさまざまでは いう問題ともまったく係わりないことである。この後者の場 あるが、官僚制化と合理的な財政経営が民主化の随伴現象で 合には、純粋に個人的・物質的な利害関係がその背後にある あることは、ドイツでもどこでも同じである。だがこの結果から、政党の争いは格別に低級な形態をとるのが普通であ る。政治闘争の鋒先が相手側の個人的名誉、とくに私生活に 府生じてくるのは、古い名望家政党がいまだかって知らなかっ 向けられたり、虚偽のセンセーショナルな言説が軽率に流布 とたような、選挙運動のための持続的で緊張した活動である。 されたりすることは、厳格な刑法上の保護手段によってこれ 今日一人の候補者が、自分の選挙区内の、できればあらゆる の 小地区において行なわねばならぬ選挙演説の度数、選挙区のを取締ることができる ( し、また取締らなければならぬ ) 。し かし、闘争そのものの様式と性格は、およそ物質的利害につ 訪問と結果報告の度数、また党通信や党機関紙のためのステ いて判定を下す選挙団体が存在している限り、これを変える 秩ロ版の必要、およびあらゆる種類の宣伝の必要は、日一日と 新 高まっていく。闘争手段の尖鋭化と非情性もますます進展すことができない。とくに、議会の重要性と水準をむりやりに 押し下げることによって、これを変えることはできない。と る。このことはしばしば非難されて、これが政党の特性だ、 として政党の責任にされている。しかしながら、政党の装置にかくそういうことで満足しきらなければならないのた。眉

9. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

( 原注ニ 0 ソ っている。むしろそうした場合には、商業政策や社会政策上これは広範な層のいだいた反貨殖者的な見解から相当の反対 の利害関係こそが「世界観」を決定するのである。資本主義をうけていた。またフィレンツェのアントニーノを例にとれ ば、教会の教義が現実にいっそう適応したのちでも、営利を 的な成功をもたらす条件に自分の生活を適応させることがで 自己目的とする行為は、根本的には「下劣なもの」であり、 きないものは、没落しないにしても、少なくとも繁栄するこ 現存の社会秩序がたんにやむをえずして容認しているにすぎ とはありえない。しかしこれは、近代資本主義が勝利して、 古い足場から自分を解放した時代の現象である。かって資本ないのだという意識は、決して消えてはいなかったのである。 主義が、当時はまだ形成期にあった近代国家権力と同盟する当時の倫理学者のうち、とりわけ唯名論学派の人びとは、す ことによってのみ、古い中世的な経済統制の諸形態を粉砕すでに生成し始めていた資本主義の経営形態の萌芽を既成事実 ることができたように、宗教的権威との関係についても、おとしてうけいれ、それを認めねばならないこと、とくに商業・ は必要なものであり、そのなかに生ずる <<industria> ( 勤労 ) といっておこう これと同様のことが起りえた そらく は利潤の正当な源泉であり倫理的にも批難すべきものでない のではあるまいか。そこでわれわれは、それが現実に起った ことを証明しようと努力している。しかし、当時の支配的な のかどうか、また現実に起ったとすれば、それはどのような 学説は資本主義的営利の「精神 [ を「不道徳なもの」として 意味をもったのか、ということを解明するために研究をつづ けねばならない。なぜならば、貨幣の獲得を人間に義務づけ排斥しており、少なくとも道徳的に、それを是認しようとは られた自己目的、すなわち「天職」とみとめるような観念 しなかったのである。べンジャミン・フランクリンのよう は、すべての時代の道徳感覚と対立するものであり、これに に、それを「道徳的ーであるとするなどは、およそ想像する 理ついてはほとんど説明を必要としないからである。教会法に こともできなかったのであるが、右のような考えかたこそ、 ( 原注一れ ) 2 も採用され、当時 ( 利子に関する福音書の章節と同じく ) 正資本主義の当事者たる人びと自身の見解だったのである。か ズ当であるとして商人の活動にも適用された <<Deoplacerevix れらが生涯を賭けている事業には、教会の伝統を基準とする よみ potest> ( 神に嘉せらるるは難し ) という信条や、同じく利潤の限り、たかだか道徳とは無関係なものとして、寛容に処理さ ン 追求を turpitudo ( 下劣なもの ) と規定したトマスの思想 ( やれているにすぎないものであるか、そのうえ教会の利子禁止 テむをえないものとして道徳的にはみとめられた利潤追求もの教えにいっかは牴触するかも知れぬという不安があるの 「下劣なもの」と批難された ) には、すでに教会と緊密な政で、霊魂の救いのためには危険しごくなものであった。富裕 治関係をもっていたイタリア諸都市の金融勢力にたいするカ な人びとが死んだときには、莫大な金額が「良心の代償」と ソリック教会の教義の迎合が、かなりな程度までみられるが、 して教会に寄進され、または不当に奪取した含 s 日 a 》 ( 高利 )

10. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

こに宿っていたのである。 れだけが間題となるからである。しかもこのことは、団体が 国家官僚と政党官僚とが、また国家官僚のうちでは文官と大きくなればなるほど、団体の仕事が複雑になればなるほど 武官とが、その外見を部分的には甚だ異にしているのはいう とくにーー団体の存在に係わる権力的制約 ( 市場におけ る権力闘争であろうが、選挙場裡におけるそれであろうが、 までもない。さらにこれらすべての官僚が、自治体・教会・ 銀行・カルテル・同業組合・工場・利益代表団体 ( 雇主団戦場におけるそれであろうが ) が増せば増すほど、いえるこ ~ 体・農業者同盟 ) などの官僚と外見を異にしているのはいう となのである。政党の場合でも同じである。例えばフランス までもない。のみならず、右の一切の場合に官僚として職務において ( フランス議会の悲惨さの理由は、すべて官僚制化さ に参画する仕方が名誉職的になされる程度、あるいはそれにれた政党の欠如にある ) 、また部分的にはドイツにおいても、、 利害関係をもっ程度は、きわめて多様である。政党における地方的な名望家行政の組織を固守している政党がいまもなお 存在しているが、これは政党のあり方という点では没落を宣 「ポス」、株式会社における監査役、これらは「官僚」とはい えない。あらゆる種類の名望家たち、あるいは、支配を受けて告された状態なのである。この名望家行政の組織は、実にか いる利害関係人または強圧的な抑圧に苦しんでいる利害関係って中世においてあらゆる種類の団体で例外なく行なわれて いたものであり、小規模の自治体と中程度の自治体では現今、 人の中から選出された代表者たちは、多様な形式のいわゆる 「自治」の名の下に、自己の職務たる決議参加・監督・審議、なお広く行なわれているものではあるが。しかし、今日の政 党にとっては、「名声高い市民」なり「一流の学者」なり、そ 場合によっては執行などを通じて、官僚をーー団体的形態に おいて、あるいは個別的機関としてーー・自己に従属させ、あの他なんと呼ばれようとそのような名士が問題となるのは、 るいはみずから官僚の添えものとなり、あるいは官僚を自己宣伝手段としてである。まさしく宣伝手段としてだけであっ の上に戴くことができる。この最後の場合、すなわち、名望て、決定的な日常活動の担当者としてではない。それは丁 度、株式会社の監査委員会でさまざまな装飾的肩書をもっ名・ 家または利害関係人代表者が官僚を上に戴くという場合は、 とくに自治体行政にみられるところである。この現象は、実士が、カトリックの会議で高位の聖職者が、農業者同盟の集 ほんもの 際問題としては確かに重要な事柄であるが、しかしここでは 会で本物とにせ物の貴族が、あるいは、全ドイツ主義者の戦 . ( 原注一一 ) われわれの問題から外れている。なぜなら、大衆団体の行政時利得関係者や選挙特権関係者のアジテーションにおいて玉 においては、専門教育を受けた常勤の官僚層がつねに機構の石混淆の歴史家、生物学者、さらに大抵はまさしく非政治的 ディスチプリン 中核を形成すること、そしてこの官僚層の「規律」が成果な玉石混淆の専門大家が、それそれ演じている役割と同様で を生み出す絶対的な前提条件をなしていること、ここではそある。あらゆる組織の中で実質的な仕事をしているものは、