国民 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集
162件見つかりました。

1. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

に立たせるだけの権力をもっ議会のような独立した統制機関 門的資格にかんして何の判断も下せないような、官職候補者 ・、欠如していることは、ますます致命的なものに感じられて の長い名簿について投票を行なう義務を課せられる。もっと くるだろう。直接的な国民選挙と国民投票、さらに免職の国も専門的資格の欠如ということそれ自体は ( 君主だとて無資 民投票という、完全な人民投票的民主制に特有な手段は、大格なのだが ) 、官吏の民主的選択に対する反対論拠とはなら 衆国家においては、専門的官吏の選択手段としても彼らの職ない。靴屋のつく「た靴で足が痛くならないかどうかを知る 務遂行に対する批判手段としても、まったく不適当なのであ ために、みずから靴屋となる必要は少しもないからである。 る。そして、議会主議的選挙の政党経営にかんしても利害関しかしながら、専門的官吏の国民選挙については、行政上の 係者の金力の意義が少なからぬものであるとすれば、大衆国失政に実際の責任を有する人物にかんして、無感覚になる危 家の事情のもとで国民選挙と国民投票のみが支配するときに険ばかりか、惑わされる危険が、議会主義的方式ーーそこで は、利害関係者の金力とこれに支えられたデマゴギー的機関は選挙人は官吏任命の責任をもっ政党の指導者にまかせきり の衝撃力は、怖るべき力を発揮するにいたることだろう。 なのだが と対照的に、きわめて大なのである。また、技 議会主義国家の公民は、一一、三年に一度の選挙のさいに諸術的に複雑な一切の法律については、国民投票は、その法律 政党の組織が予め印刷配布した投票用紙のうちの一票を投票成立の功績を、賢明だが隠れた利害関係者の掌中に余りにも 箱に入れるだけで、ほかになんの政治的行為もしないではなやすやすと委ねがちである。こういう点を考慮してみれば、 いか、こういうしばしば非難される状態に対して、義務的国高級な専門的官僚層をもっヨーロツ。 ( 諸国の条件は、アメリ 民選挙と国民投票は、もとより極端な対極をなすものである。 力の条件と本質的に違っている。アメリカでは、国民投票が 府議会主義国家におけるあのような状態はい 0 たい政治教育の不可避的に従属的な立法府の腐敗を修正する唯一の手段と評 手段であるのか、このような疑問も投じられている。いうま価されているのである。 議でもなく、それが政治教育の手段たりうるのは、公民が自分 しかしこういったからといって、適当な場合に適用される たちの問題の処理のされ方を根強く追求する習慣をもっとい 最後的手段としての国民投票にーー大衆国家の事情はスイス う、行政の公開と行政の統制にかんする前述の条件が満されの条件と違「ているけれどもー・ー反対したわけではない。だ 秩る場合だけである。しかし義務的国民投票ということになれ が大規模国家にとって強力な議会というものは、国民投票が 新ば、公民は、場合によ 0 ては数カ月に何十回も、立法のため適用される場合でも、余計なものとはならない。官吏の統制 に投票箱の前に呼び出される。また、義務的国民選挙というおよび行政の公開の機関として、不適任な指導的官吏排除の ことになれば、公民は、個人的にまったく面識がなくその専手段として、予算確定の場として、そして政党間の妥協実現

2. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

383 新秩序ドイツの議会と政府 民主的政策を要求する大衆運動か軍需産業労働者の「四月ストラ イキ」となって現われ、宰相べートマンは、「協調的講和」と国内 改革を主張する「議会多数派 . ( 多数派社会民主党・進歩人民 党・中央党の大部分・国民自由党左翼 ) と軍部との板ばさみとな った。ときに、帝国議会最高委員会の秘密会におけるエルッペル ガーの、講和の即時締結と国内改革の要求がロ火となって、それ までも軍部の不満を買っていたべートマンが失脚を余儀なくされ る「七月危機」が到来する。ペートマンに代わる新宰相ミハエリ スの軍部傀儡政権の成立による「七月危機」の終焉は、平和と民 主化のための最後のチャンスを逸したわけだが、それがもつ国制 上の意味は、帝政ドイツの官僚政治の消滅とともに、しかし議会 政治の開始ではなく、表面上議会多数派の協力をえたところの、 実質上軍部の独裁的支配体制の確立、ということであった。従っ て、平和と国内民主化を要求する革命的運動がそれに直接して起 こってくる。すなわち、国外では、一七年夏の遠洋鑑隊内での水 兵の反乱、国内では、一八年一月の百万人労働者の大ストライキ ( 「一月危機」 ) がこれである。しかし、軍事的独裁体制はこれによ って動揺することなく、その後およそ一年、プロイセンードイツ 第二帝国は、うち続く軍事的敗北と、「上から」の改革の試みと 「下から」の革命の動きとを織りまぜっつ、遂に崩壊するにいた るのである。 九 ( 三七一頁 ) フランスの対独「復讐将軍ープーランジェを頭目に 祭り上げ、一八八五年前後の社会不安を背景にして、第三共和制 の重大な危機をひき起こした一政治運動をプーランジスムという が、この極右王党派的・反議会主義的運動は、一八八八年同将軍 の予備役編入を機に、選挙法の悪用によって一種の人民投票に訴 え、将軍の政治的地位の確立を狙った。当選した同将軍は、憲法 改正および議会の解散を要求したが、翌年共和制に対する陰謀 ( クーデター計画 ) のかどで起訴されるにおよび、プリュッセル に逃亡、当地で自殺した。将軍をかつぎ出した「不平者の集り」 たる「プーランジスト」または「プーランジュ」と呼ばれる同将 車一派は続く選挙で敗れ、この運動は次第に後退していった。

3. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

1 新秩序ドイツの議会と政府 墺戦争後、ビスマルクは統一ドイツ帝国を実現するため、一八七 0 年、巧みにナポレオン三世を挑発して普仏戦争を起こした。彼 は国力を結集してこれにあたり、フランス軍を打ち破る一方、対 仏戦争によって昂揚したドイツ人の国民感情を利用して、まず南 独四邦を北ドイツ連邦に参加させることに成功した。かくて拡大 された北ドイツ連邦はドイツ帝国と改称され、パリ開城の直前、 一八七一年一月十八日、ヴェルサイユ宮殿において、プロイセン 国王ヴィルヘルム一世はドイツ皇帝の位につき、ここにドイツ帝 国が成立した。 三 ( 三一一頁 ) ドイツ帝国成立後、ビスマルクは、直らに帝国内の 反プロイセン勢力たるカトリック教徒および社会主義者との戦い を開始した。すなわち、カトリック教会権力との「文化闘争」が 不成功に終わるとみるや、ビスマルクは、一八七八年、二回にわた る皇帝狙撃事件を口実に、社会主義者鎮圧法を帝国議会に上程し、 当時急速に増大しつつあった社会主義勢力の徹底的弾圧に乗り出 した。帝国議会においては、ドイツ保守党、自由保守党の保守勢 力がこの法案を支持し、中央党、進歩党、社会民主党が反対にま 、ここめ、国民自由党が同 わったが、この両勢力はほば均衡してしナナ 法案成立のキャスチング・ポートを握ることになった。国民自由 党は、ビスマルクに対する妥協的態度を捨てきれず、また社会主 義に脅えるプルジョアジーの支持を失わないため、同法案に賛成 し、これが成立をみた。しかし、これに続くビスマルクの経済政 策に対する態度をめぐって、国民自由党から自由主義左翼が「分 離」し ( 一八八〇年 ) 、これは後、進歩党と合流してドイツ自由 思想家党を結成する ( 一八八四年 ) 、という有様で、ドイツ自由主 義陣営は徒らに離合集散を重ねた。かくてドイツ自由主義は、帝 国政治を強力に方向づける力とはなりえなかった。 四 ( 三一五頁 ) プロイセン憲法闘争は、一八六一年、プロイセン軍制 改革費の増額を要求する王権とこれを拒絶した下院自由派との葛 藤に端を発する。事態を収拾すべくプロイセン首相に任用された ビスマルクは、一八六二年以後、プロイセン憲法に規定された議 会の審議権を無視して統治を行なうにいたった。しかし、反政府 の急先鋒をつとめた進歩党があくまで予算審議権を主張して譲ら なかったため、憲法闘争は泥沼に落ち込んだが、普墺戦争におい てプロイセンが圧倒的勝利を収めたのをみて、自由主義者の反対 は力を失 0 た。そこでドイツ統一をめざすビスマルクは、自由主 義者を繋ぎとめておくため、一八六二年以後の歳出承認を求める 「事後承諾案」を議会に提出した。「事後承諾案」は、多数の支持 をえて可決され ( 一八六六年 ) 、憲法闘争はここに終了をみた。 一方、進歩党は同法案の賛否をめぐって分裂し、賛成派が同党か ら分れて、右翼自由主義者とともに国民自由党を形成した ( 一八 六七年 ) 。 五 ( 三一七頁 ) 「フランケンシ、タイン条項」 ( 有効期間一八七九ー 一九〇四年 ) および「ヒ = ーネ法」 ( 一八八五ー一八九六年 ) は、 ともに中央党を向こうに回わしたビスマルクの帝国財政政策のあ り方を示すものである。元来帝国財政は ( 所得税・財産税などの 直接税が各支邦に委ねられていたから ) も 0 ばら国内消費税や関 税などの間接税でまかなわれており、その不足分は各支邦の分担 金で補われていたのだが、ビスマルクは、この帝国財政収入の増 大を図り、かっュンカーと大工業の経済的利益を確保するために、 従来の自由貿易政策を保護貿易政策に切替える新関税法の成立を 期した。しかるに、この保護政策承認と引換えに、国民自由党は 議会政治の拡充強化を求め、カトリック中央党は帝国内における 支邦の地位の向上を求めた。このときビスマルクは、中央党を新 たな味方とするため、従来の与党国民自由党との提携を止めて、 中央党と折合い、同党の財政政策案を含む新関税法を成立せしめ

4. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

ナウマン氏がいかに非政治的な思想の持主であるか、それを二流のドイツ公民に圧し下げたのだ、と書かれてありまし た。真理は逆であります。われわれはポーランド人を〔よう は、ナウマン氏が軍事力の決定権を議会から取り上げようと なさ「ていることから推しはかれます。その反対が正しいのやく〕人間にした、これが本当のところです。「ポーランド 人問題」を把握する貴方がたの中には、またしても慈悲心主 です。つまり、ただ一つしかない健全な間題の解決は、軍事問 題を単純な予算間題として処理すること、従「て毎年毎年の義というあのまさしく非政治的な傾向が現われております。 しかし政治というものはきびしい仕事であります。ですか 議会協賛の問題として処理すること、これであります。新し ら、いやしくも祖国の政治を進める車の輻に手を掛ける責任 - い政党は、市民的自由の国民的政党でなければなりません。 をみずからとろうとする人は、強靱な神経をもっていなけれ な、せなら、わが国にないのはそういう政党だけだからです。 国民的な、経済的な権力利害の保全はこの政党によってこそばなりませんし、現世の政治を行なうについて、余りに感傷 的であってはならないのです。だが現世の政治を行なおうと 安泰であるだろう、と思ってこれに投票し、この投票を通じ てわれわれがドイツの指導を委せることのできる、そういうする人なら、何よりもまず幻想から自由の身にな「て、地上 で現に戦わされている人間対人間の避け難い永遠の闘争とい 国民的な民主主義はドイツにはないのであります。 う基本的な事実を、まず認めてかからなければなりません。 私は一特殊問題に触れる羽目になってしまいました。この 問題が貴方がたの新聞で論じられている様子をみますと、貴もしもそれができないのでしたら、その人は政党をつくろう などという考えを棄ててほしいものです。ここチ = ーリンゲ ということ 方がたはさしずめまだこの政党のものではない、 がわかります。それはつまり、最近の「時代 . 紙上でのいわゆンのこの町中 ( エルフルト ) で、チ = ーリンゲンの昔の諺 ランドグラーフ る「ポーランド人問題」の議論の仕方なのです。紙上で討論を、私は貴方がたに向けて叫びたいと思います。「領主は せされた個々の方策をここでの議論のたねにしよう、といって厳格なるべしー 。、、たいのは、「時代」紙がまさに いるのではありません 設そうなのですが、この間題がドイツの新聞で論じられるその 訳注 党仕方なのです。「時代」紙は、ポーランド人に対抗して精力 社的な立場を表明している人びとを攻撃したのでありますが、 ーのフライブルク大学就任講演「国民国家・ 一 ( 三九頁 ) ウェー 国この攻撃の論調は、ドイツの国民的問題を論ずるに当っては と経済政策」から決定的な影響を受けたナウマン ( 訳注一一を参 照のこと ) は、従来の「キリスト教社会派」の立場を脱して、国 国民相互がけっしてぶつつけあってはならないような陰険な 内における社会改良政策を外に対する権力政治、・すなわちドイツ ものでありました。この記事には、われわれはポーランド人

5. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

374 政党指導者と比較すればーー公衆に対して極度に無責任で表である。その内部構造に地域的・社会的・宗派的等々の激し 面に出てこない連中の手に、委ねているからである。彼らは い対立を蔵する一切の大衆国家において、大半の法律はこの 専門教育を受けていない選挙人に対して、候補者の推薦をし妥協に基づかざるをえない。所得および財産の累進的な没収 ているわけである。これは、技術的な専門的資格を要求されや「国有化」などは別として、その他の税法が、階級対立の ている行政官吏について、実に不適当な任命方法といえよ激しい大衆国家において、どうすれば国民選挙によってとも う。裁判官の職務まで含な最も近代的な行政の要求のために かく承認されることになるのか、これは見究めのつかぬ問題 は、〔国民選挙による官吏よりも〕選出された国家主席に任命さである。さて、こうした結果ですら、社会主義者にとって れた専門教育ある官吏の方が、アメリカでは技術の点でも廉はあるいは驚くべき結果にみえないかもしれない。ただ、国 潔さの点でも、はるかにすぐれた働きを示している。専門的民投票の制約下にある国家機関が、名目上はしばしば非常に 官吏の選択と政治的指導者の選択とは、まさに異質のものな高額で一部は没収可能な財産税を効果的に実施した、という のである。 この経過とは逆に、権力をもたないが故にあような例はーー実にアメリカでも、また、古い伝統によって れほど腐敗したアメリカ各州議会に対する不信感がつのった実質的思考力をもち、政治的訓練を経た住民をもっスイス諸 結果、国民による直接の立法を拡大していく方向がでてきて 州の極めて有利な条件のもとにおいてすらーーー皆無だという までの話である。それから次に、国民投票的原則は、政党指 国民投票には、選挙手段としても立法手段としても、技術導者の固有の重みと官吏の責任を低下させる。指導的な官吏 的特性から生する内的な限界がある。投票の回答は、「賛成」 の提案を拒絶する国民投票によってこの官吏を否認しても、 か「反対」かのいずれかに限られている。大衆国家の中で、 その結果は、議会制の国家における不信任投票の場合と違っ 議会の最重要の機能である予算の確定を国民投票にまかせて て、それら官吏の退陣ではない。 いや、この結果は決し いるところは、どこにもない。また、相反する利害の調停に てえられないのである。なぜなら、この否認投票は否認の理・ 根拠をもつようなあらゆる法律の成立を国民投票に問うこと由を悟らしめるものではないし、否認投票を行なう大衆は、 は、大衆国家においては、きわめて重大な障害に出遭うこと 政府に反対投票を行なう議会多数派のように、否認成立の後 だろう。なぜなら、存在する利害の対立を討議によって調停は自分らの側から責任ある指導者を出して、否認した官吏と する手段がない場合に、鋭く対立したいくつかの論拠から出交替させる義務を負っていないからである。 てくるものは、ただ「反対 [ の声でしかないからである。国 その上、国家的官僚制独自の経済行政がふえてくればくる 民投票によってえられないものは、まさしく妥協ということ ほど、全能の官吏から公的に説明と回答を求めて彼らを答弁

6. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

帝国の世界政策と結びつける「国民的社会主義」の提唱者とな り、そのために、ドイツの労働者階級を国際主義的な社会民主党 から国民的権力国家に奪還して、これを「国民的社会主義」の思 想と運動の主体にまで育成する、という「新型の労働運動ーを企 図した。この「国民社会派」運動の結集点として、彼は、日刊の 機関紙「時代」の発行と政党の結成準備に着手した。創刊 ( 一八 九六年九月二十日 ) 直後の「時代ー紙 ( 十月一日号 ) は、ナウマ ンの筆になる「国民的社会主義」の ( 第一 ) 綱領草案を掲載し、 保守党に所属しない「キリスト教社会派ーの人びと ( 「青年キリ スト教社会派」 ) に対して政党結成を呼掛け、一年前から同じく ナウマンが発行していたところの、キリスト教に根ぎして自由主 義的社会改良の立場をとる週刊誌「救済」の同人に宛てて、帝国 議会選挙区より各五名がこの結成大会に代議員として出席すべき 旨の檄を発した。ナウマンは政党結成にあくまで強気であった が、彼の呼掛けによって開かれた集会 ( 一八九六年十一月二十三 日ー二十五日 ) では、「政党結成の準備作業としての政治連盟」 の設立が決定し、「国民社会派連盟」 ( 一八九六ー一九〇三 ) の発 足をみた。「国民社会党」という表現は・設立集会の議事日程第 ーの討論演説を 一日 ( 十一月二十三日 ) に行なわれたウェー 彼の「政治論文集」に収録するに当り、編者ヴィンケルマンが付 した表現であって、本邦訳はこれに拠った。なおウェー ナウマンの計画には最初から弱気で、血気にはやるナウマンを諫 止するのに腐心したと思われる。彼は、この政治結社の将来に対 しては悲観的な見通ししかもっていなかったのだ。設立集会直後 の、妻マリアンネに宛てた手紙には、「いま新聞でみると、『政 党」の結成はとうとう沙汰止みとなり、『連盟」が設立されたよ うです。この中から今後なにが生まれるか、みものです。問題外 にきまっている」、と書かれている。しかしウェ ーバーはこの連 盟に加人して、支持できるときには、いつでもナウマンを支持し ーバーが帝国議会選挙にこの連盟から たたが、翌九七年、ウェ 立候補することを勧められたとき、もとより彼はこれを断わっ た。 = ( 四一頁 ) フリードリッヒ・ナウマン ( 一八六〇ー一九一九 ) は、帝政ドイツが生んださして深くはないが特異な思想家で、十 九世紀末以来リ。ヘラルな教授たちの政治的代弁者として現実政治 . の舞台に立ち、雄壮な弁舌と多彩な文筆活動を通じてドイツにお - ける自由主義の強化に献身し、また、ドイツ労働運動の国民的転回 . と教養ある市民的青年層の国民的政治的育成に努力して、ヴァイ マル共和国の「長老」に数えられている人である。神学を修めた . 後、プロテスタントの宣教師として出発したが、社会問題・労働 問題の解決が現代におけるキリスト者の使命である、との自覚に 達して、シ = テッカー一派の「キリスト教社会派」運動に参加し た。しかし、シュテッカーらの保守的・家父長主義的世界にあ きたらす、やがてその内部に自由主義的な「青年派ーを形成、そ 1 の影響を受けて「国民社会派」 のた後さ、りに、ン J , り、わけ・ウェ の代表者となり、それまでの「貧者の牧師ーの立場から現実政治「 家に移行してゆく。「国民社会派連盟」が、一九〇三年の選挙戦 に再度敗北を喫して解体した後、ナウマンおよび彼の一派のほと - んどのものは、自由主義左翼の「自由思想家連合」 ( その後政党 の合同によって「進歩人民党」 ) に所属し、一九〇七年来帝国議 会議員として活躍、敗戦後の一八年には「ドイツ民主党」を績 成、その党首となり、翌一九年には同党からヴァイマルの国民議 会に出馬し、ヴァイマル憲法の作成に参画した。ナウマンはウ = ーより四つ年上であるがたびたび彼の意見を徴しており、ウ ーもとくに二十世紀にはいると、事ごとにナウマンを通じ て現実政治への影響を策していたと思われるのであって、前後し

7. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

435 解題 発表であるから、原文では端折った表現が随所に用いられて の場の認識冫 ーの批 ) こよって確定していなかった点にウェー おり、また、ヴィンケルマンによる字句の挿入と注が若干あ判は集中された、といえよう。 るとはいえ、これを読むだけではなおウェー ・ハーが何を指し ウェ ーによれば、ナウマンの新政治結社がその意図を て発言しているのかがよく掴めない憾みが残る。邦訳にさい 実現できるための体制は、ユンカーと独占資本の反動的な して、訳文の中に適宜訳者が若干の字句を挿入し、また訳文「結集政策」を推進する半封建的現存体制ではなく、ユンカ を上廻る量の訳者注を付加した理由も、そこにある。しかし ーとの政治的闘争を経て初めて近代的に純化される資本主義 また、会議での意見発表であるというこの同じ事情は、かえ の体制であることが自覚されていなければならないのであっ ってウェ ーの現実政治的意志や政治思想を、なまの姿で て、その辺を曖昧にしている限り、国内の社会改良的政治は 直截にそこから読みとることのできる利点をわれわれに提供強力な対外政治と相応しえないこと、それ故、ナウマンの政 している、ともいえるのである。 治理念はたんなるスローガンに終り彼の政治的実験は挫折せ ・ハーがきびしく追及したのは問題 みられるように、この演説はナウマンおよびその一派に対ざるをえないこと、ウェー する仮借ない批判に終始しているのであるが、これを読むに のこの側面とこの連関であった。そのさい注意しておかなけ ついては、批判というこの否定的側面を、同じウェー ーのればならないことは、ウェ ・ハーが反ュンカー的・ブルジョ 同感をさそう肯定的側面と結びつけてみることが大切であア的階級利害をそれ自体として代表したのではないというこ る、と思われる。肯定的側面というのは、対外的権力政治と よ国民国家の世界権力政治の観点から必然 と、彼の体制認識ー 国内的社会改良政策との統一をめざす「国民的社会主義」の的に要請されてくる認識であったこと、その意味で、経済に 基本理念であり、さらに、ドイツに不在の「市民的自由の国対する政治、また国内政治に対する対外政治の優位の思想が 彼において堅持されていたこと、これである。 民的政党」をつくり出してこの理念の現実化を期する、とい う現実政治的意欲であるだろう。そして否定的側面というの ーの政治的意志がきわめてシャ われわれは、若きウェー は、この基本理念なり意欲がドイツの現状のリアルな認識に ープな形で現われているこの討論演説を『国民国家と経済政 ーのあくなきリア 十分媒介されておらず、その限りナウマンのよき主観的意図策』と併せ味読して、その中からウェー がひとり先走りして、かえって彼の意図しなかった、あるい リズム追求の実践的意味を理解すると同時に、政治的考察に ザッハリ は初めの意図とは正反対の結果がもたらされうること、すな おいて感傷を排除し、道徳の混入を拒否するという彼の即物 わち彼の「非政治性」ということがこれであるだろう。一一一一口 缸なものの見方を、ふかぶかと読みとる用意がなければなら でいえば、あのナウマン的「統一ーの方法論が、統一のため ないのである。

8. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

提案 ) 、一般に現今なお有効に機能しているあらゆる巨大なすることを許容しえなかったからである。閣僚の内部でそう 帝国諸制度のうちの大部分のもの、これらはすべてこの政党である。個々の議会政治家に入閣が勧められはした。しかし のイニシアティ・フに基づいているがーー・に対して判定を下し彼らが等しく経験させられたことは、ビスマルクがその新し い協力者を、純然たる個人的中傷でいつでも失脚させうるよ たければ、勝手にやるがよかろう。ビスマルクを向こうに回 したさいの苦しい立場をたえず計算に入れているこの政党うに、前もって巧妙なわなをかけていた、ということであっ た。 ( これこそまさにべニヒゼンの入閣拒否の究極の理由で の戦術を、後になって批判することはやさしい。純政治的に あった。 ) 議会内でも同様である。ビスマルクの全政治がも 志向しはするものの、時代遅れの経済学説に苦しめられてい た政党が、経済問題や社会政策的問題を前にして難局に直面くろんだことは、とにかく強力な、しかもとにかく自立的な この したのは当然のことであり、その点にこの政党の地位下落の立憲政党を固まらせないようにすることであった。 もっとも、これらの問題ために、ビスマルクは、関税政策をめぐる利害の衝突をきわ 責任を帰することもできよう。 めて周到かっ巧妙に利用するかたわら、いろいろな道具、とり を前にした保守諸政党の方は、所詮、国民自由党と比べて、 おそらく一層不利な状況におかれたのだが。憲法についてのわけ軍事法案と社会主義者鎮圧法を持ち出したのである。 軍事問題にかんする当時の国民自由党の政治家たちの本心 国民自由党の希望が一八六六年以後ビスマルクの目標と対立 トライチュケ は、私の知る限り次のようなものであった。すなわち、軍隊 した根底には、当時この政党が擁していた の現有兵力はある必要な高さに維持されるような性格のもの 流にいえばーー中央集権的理想 ( このものをわが国民は、一 であるが故に、これはまさしく純客観的な問題として処理さ 部はまったく政治外的な理由から次第に放棄してしまったの 府だが ) があったのであって、よくいわれているように、「浅れねばならない。そうすることによ 0 て憲法闘争時代の古い 政 慮ーがあったのではない。ともかく、それ以後の事態の展開葛藤が葬り去られねばならない。少なくとも、デマゴギーを 議をみてみると、この政党がとった態度の基本的な政治的前提誘発する問題の根源は帝国の安全のために断たれねばならな の このようなものであった。毎年の予算立法によって現有 のまったく正しかったことが分る。 イ 国民自由党の政治家たちは自分で選んだ政治的課題を遂行兵力を単純に確定していくことが、このための唯一の手段で 秩することができずに挫折してしまったが、それは究極のとこあった。この方法をとれば、軍隊を必要なだけ増員するの 新 ろ客観許な理由によるのではなくて、ビスマルクがどんな性に、国内政治的な、また国際的な興奮と動揺をひき起こさす にすむこと、またとくに、かかる純客観的な問題の処理によ 質のものであれ、なんらかの自立的な、つまり自分の責任に 従って行動するような勢力が一個たりとも自分のそばに存在って、軍事行政も一層高度な要求を一層目立たぬ仕方で遂行

9. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

られぬ態度で、一再ならず行なわれてきたのである。議会の 政治的活動という点では、ドイツの国民代表機関に批判を免 れえないもののあることは確実である。しかし、帝国議会に ついていえることは、あの文筆家たちがつねづね注意深く庇 護し、しばしばお世辞さえいってきた他の国家諸機関につい てもいえるのである。だが、議会主義を相手に槍を構えるこ この政治論文は、一九一七年夏「フランクフルト新聞』に とがディレッタントの安直なスポーツになっているとすれ 掲載された論説冫 こ手を加え、その内容を拡げたものである。 それは、国法の専門家に対する何らかの新しい提言でもなけば、〔他の国家諸機関に〕特別な庇護の手を加えるようなこと れば、学問の権威にかけての発言でもない。な、せなら、意欲は止めて、かかる批判者の政治的見解を一度検証してみると いうことが、時宜をえたことに思われてくるのである。私情 することの究極にある立場というものは、学問の手段をもっ てしてもこれを決定しえないからである。ドイツ国民の歴史を交えないすぐれた論敵ーー - ーそういう敵もいるにはいる 的課題を原則上国家形態のあらゆる問題に優越させない人を向こうに回すというのであれば、即事的に論争をすればそ や、もしくは、この課題の考え方を根本的に異にする人に対れで満足がいくだろう。しかし、著者をも含な多くの人びと して、以下の議論が影響を与えるとは思われない。なぜなら、 を、あるときは「デマゴーグ」、あるときは「非ドイツ的」、 以下の議論はこの点にかんして一定の前提から出発している またあるときは「外国の回し者」、と再三再四ののしってい からである。この前提からして、本論文は、次のような状況る階層に敬意を表することは、ドイツ的誠実さというものに こ関係している 把握をしている人びとに反対する。すなわち、他の政治勢力矛盾する行為といえるだろう。こうした誹謗冫 を利するためにまさしく国民代表機関の信用を失墜させるこ大多数の文筆家たちの、歴然たる馬鹿さ加減こそ、あの勝手 会 議とがいまなお適当だ、と考えている人びとこれである。悲し放題な誹謗のうち最も恥ずべきことだったのである。 の いことに、国民代表機関の信用は、とりわけかなり広汎な層 いまは国内政治問題に触れるべきときではない、いまわれ イ のアカデミーの文筆家たちとアカデミ 1 で教育された文筆家われは他のことをしなければならぬ、このような議論が横行 いったい誰のことなのか。も 秩たちによって、実に四十年来、いや大戦勃発後も、失墜させしている。「われわれ」 ? られてきた。それは、きわめて不遜にして節度のない恰好ちろん内地に残ったものではあろう。では、このわれわれは で、野卑な敵意をもって、そして、活動能力ある議会の存在何をすればいいのか。敵を非難すればよいというのか。だが 条件をおよそ理解しようともしない、ひとかけらの善意もみそれでは戦争に勝てない。戦地の兵士たちはそんなことはや 序文 ザッハリッヒ

10. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

442 革の必要を、社会科学者の透徹した眼で洞察し、そして、国ならなかった。彼にとって国家形態は一の技術的間題にすぎ 民的権力政治思想家として、挫折の予感におののき焦燥に駆ず、また、彼の君主制擁護論がその国家政治的合目的性の承 認にすぎなかったことも、すべてこのような文脈の中で、つ り立てられながら、これを最初のドイツ人として強調した。 まり、徹底した政治的リアリズムと燃えさかる国民感情との ( 「国内における無力への意志は、世界における権力への意志 ・ハーの と結びつくことができない」。 ) 顧慮することのない政治生活無類の結合をみせた「ドイツのマキアヴェリ」ウェー の合理化、制御不能の非合理的な諸力の政治指導への侵入をナショナリズム ( マイネッケ ) の中で、理解されなければな 喰い止めるためには、それが唯一可能な方途であった。そのらないのである。 ために彼は、。フロイセン三級選挙法の民主的改革を主張する 一方では、官僚と政治家の違いを際立たせ、ドイツ「官僚政 この翻訳にさいしては、ヴィンケルマン編のウェ 治」に代えて、議会を権力と責任ある政治的指導者選択の場『政治論文集』第二版 ( 一九五八年 ) 所収のものを底本とし ・ハーのこのような とすることーーその限り議会は国民代表機関という性格よりて使用した。雄渾な文章というのはウェー も国家機関としての性格を強めるーーー ( 「民主主義的ケーザものをいうのであろうが、著者の筆調を損わぬよう配慮しつ ル主義し、そしてかかる「議会化」のために、憲法上・制度つ「原意に忠実にしてしかも平明な日本語に移し替えること 上の保障を与えること、をウェ ー・ハーは「議会と政府』の中は、訳者たちにとって至難の業であった。しかし、たとえ日 で、欧米諸国とくにイギリスの例を引きつつ、十分の説得力本語の文体を平明にすることに成功したとしても、内容その をもって叙述した。 ものは平明になるまい。その意味で、訳者の注を質量ともに なおウェー ーの政治思想一般の理解のために、さらに一充実することが、本論文の十全な理解のためには不可欠なの であるが、紙数の関係で、必要最低限と思われるもの以外 言しておこう。彼は元来熱烈なナショナリストであり、その 「民主化」の要求も、民主主義の理念そのものに対する自然は、すべて割愛せざるをえなかった。なおこの翻訳は本邦初 法的信仰に基づいているのではない。かかる信仰に発する主訳ということになるが、文字通りの初訳というわけにもゆか 張ならば、彼の排撃した非合理な「ロマンティク」に堕してない。すなわち、著者が歿する直前ミュンヘン大学で行なっ いることであろう。彼が「民主化」によって要求したものた講義録が、一九五六年、ヴィンケルマンによって『国家社 は、。フロイセンードイツ官憲国家の「臣民」の「市民ー化ー 会学』として編集・公刊され、これは同氏編『経済と社会」 「国民ー化に他ならず、同様に、「議会化」の主張の背後にあ第四版 ( 同年 ) にも収録されることになったが、このものは るものも、世界権力としての官憲国家の「国民国家」化に他多く『議会と政府』の理論的部分の抽出によってできている