庁」の存立を、私経済的な支配においては官僚制的「経営」 の原理が完全に貫徹されている場合には、階層制的従属とい の存立を、基礎づけている。この意味において、これらの制 うことは、少なくとも公的な官職においては、「上級ー官庁 度〔官僚制的な官庁と経営〕は、政治的および教会的共同体の が「下級ー官庁の仕事を単純に自己の手に移す権限をもつ、 領域においては、近代国家に至って初めて、私経済の分野に ということと同義ではない。むしろ、その逆が原則なのであ おいては、資本主義の最も進歩した諸組織において初めて、 り、したがって、ひとたびある官職が設置されれば、この官 完全な発達をとげるに至 0 たものである。明確な権限をも 0 職が欠員になったときは、再び誰かをこの官職に任命するこ た継続的官庁は、古代オリエントのそれのごとく非常に厖大とが絶対的に要求される。 な政治組織においても、ゲルマン人や蒙古人の征服国家にお 三近代的な職務執行は、原本または草案の形で保管され いても、多数の封建的国家組織においても、通則ではなくてる書類 ( 文書 ) と、各種の下僚や書記のスタッフとに依拠し 例外なのである。これらの諸国では、支配者は、正に最も重ている。一つの官庁で働いている官吏の全体は、これに対応 要な施策を、個人的腹心や食卓仲間や廷臣を使っておこなっする物財装置や文書装置と合して、「役所」 ( 私的経営ではし たのであるが、これらの者が受けた委任や権能は、個々のケ ばしば「事務所」と呼ばれる ) を形成する。近代的な官庁組 1 スについて一時的に与えられたものであり、また明確に限織は、事務所と私宅とを原理的に分離している。けだし、近 定されてはいなかった。 代的官庁組織は、一般に、職務活動を別個の領域として私生 ニ官職階層制と審級制との原則、すなわち、上級官庁に活の領域から区別し、職務上の金銭や資材を官吏の私的財産 よる下級官庁の監督を伴う、官庁間の上下関係の明確に整序 から区別しているからである。この状態は、どこにおいても された体系がある。 ところで、これは、同時に、下級官長期の発展の結果初めて生み出された産物であるが、今日で 庁から上級官庁に訴える・明確に規制された可能性を、被支は、公けの経営においても私経済的経営においてもひとしく 配者に対して提供する体系でもある。この類型が完全な発展見出され、しかも私経済的経営においては指導的企業者自身 学 会をとげるときは、右の官職階層制は「一元支配的」な秩序をの地位にまでおよぼされている。業務執行の近代的類型 もっことになる。階層制的審級制の原則は、国家や教会のごその萌芽はすでに中世に見出されるーーが徹底的に実現され の 配とき組織体におけると同様に、他のあらゆる官僚制的組織体ていればいるほど、事務所と家計・事務上の通信と私信・事 においても、例えば大政党の組織や私的大経営においても、 務財産と私的財産とは、原理的に区別される。 それらの機関をも官庁と呼ぶかどうかは別としても、 まったく同様に、近代的企業者の特徴として、われわれ 同じく見出されるものである。しかしながら、「権限」 は、彼が、ちょうど特殊官僚制的な近代国家の支配者が国家
位においては、他の官僚と原理的に違うものではない。国家決断の自主性なり自分の考えに基づいた組織能力なりは、 「指導者ーからも「官僚ーからも等しくーー個々の場合をと 的活動の領域における指導的政治家についても事情は同じで ってみれば多大に、大雑把にみてもしばしばーー期待される ある。指導する大臣は、形式上は恩給のつく俸給を受けてい ものである。しかるに、官僚は下位の日常的活動に精を出し ) る一人の官吏である。彼は、どの国の憲法についてみても、 指導者のみが「興味のある」精神的な要求をうち立てるよう いつでも退職させられ、また退職を要求することができると いう事情が、大臣の職務上の地位を、外見上大抵の官吏のそな特別な業績を果すべきである、などという考えは、文筆家・ れから区別している相違である。もっとも、他のすべての官的な考え方である。これは、指導者が職業に携わる種類と、 これよりもはるかに目指導者が官僚的に仕事をする種類とを、全然見究めていない 吏に対する相違というわけではない。 立った相違は、大臣に対して、まさに大臣に対してのみ、他ところでのみ可能となるような考え方である。相違はこうし たところにあるのではなくて、指導者の責任の種類と官僚の の官吏に対してなされるような専門教育の資格証明の必要が 責任の種類との違いにあるのである。この違いから、両者の なんら規定されていない、という事実である。このことは、 大臣が、まさしくその地位のもつ意味からして、私経済内部特性に対して提出される要求の種類も、もとより広範囲に規 の企業家や総支配人とどこか類似した相違を、他の官吏に対定されてくる。官僚は、自分の意見と喰い違う命令を受けた してもっていることを暗示している。いや、大臣は他の官吏場合には、異議を申し立てることができるし、また申し立て とは何か 男物であるべきことを暗示している、こういった方るべきである。だが、上役が自分の指令を固執して譲らない : 正確であろう。実際そのとおりなのである。もしも指導的ならば、下僚としては、あたかもその指令が自分の本来の確 府人物が、彼の仕事の精神にかんしてどんなに有能であるにせ信と一致しているかのごとくにそれを遂行し、そうすること 政 よ、なお一個の「官僚、であるならば、つまり、自分の仕事によって職務に対する義務感が自分の我意より重要であるこ 議を勤務規則と命令に従って義務的に誠実に遂行する習わしのとを示すのが、官僚の義務であるばかりか、官僚の名誉でも ッ男であるならば、彼は、私経済の経営の頂点においても、国あるのである。このさい、官僚に強制的命令を与える上位部 イ 門が「官庁」であるか、「団体」であるか、「集会」である 家の頂点においても、役に立っ男ではない。遺憾ながらわれ か、というようなことはどうでもよい。それが官職の精神の 秩われは、われわれ自身の国家的生活の中に、そういう例をつ 新 要求するところでもある。ところが、政治的指導者がそのよ くり出してきたのである。 うに行動するとしたら、彼は軽蔑に値しよう。指導者といえ 指導的人物と「官僚」との相違は、彼らから期待している ども、妥協せざるをえないこと、すなわちより重要なものの 仕事の種類という点では、まったく部分的なものにすぎない。
者に対する関係において付与しうる意味、の相違にすぎな官僚制的支配の本質・その諸前提 。すなわち、官吏はまったくそのヘルーーーしたがってここ および展開 では選挙民ーーーの受任者として行動するであろうし、指導者 はもつばらみずから責任を負うものとして行動するであろ う。したがって指導者は、彼が選挙民の信任を効果的に要求 しうる限り、もつばらみずからの判断によって行動し ( 指導 者民主制 ) 、官吏のように、選挙民の ( 「命令的委任ーの形で ) 明示された・または推定された意思にしたがって行動するこ とはしないであろう。 一近代的官僚制の特殊的機能様式 近代的官吏制度に特有な機能様式は次の諸点に表現され によって 一各官庁が、規則ーーーー法律または行政規則 一般的な形で秩序づけられた・明確な「権限」をもつ、とい う原則が存在する。すなわち、①官僚制的に支配されてい る団体の目的上必要な・通常的な活動は、官職的義務として ②これらの義務の履行に必要 明確に分配されている。 な命令権力が、同じく明確に分配されており、また、これら の命令権力に ( 物理的・宗教的その他の ) 強制手段が付与さ れているときには、この強制手段は、規則によって明確に限一 ③このように分配された諸義務が規則 定されている。 的・継続的に履行され、これに対応する権利が行使されるた めに、計画的な配慮が、一般的に規制された資格をもつひと びとを任命するということによって、なされている。 これら三つの契機が、公法的な支配においては官僚制的「官
からである。非専門家たる被支配者たちは、官職候補者のも なく彼に下属する官僚たちをも公選するということは、少な っ専門家的資格がどの程度のものであるかは、経験してみてくとも監督のゆきとどきがたい大きな行政庁においては、階 初めて、したがって事後的に、これを知りうるにすぎない。 層制的従属関係を弱めるということのほかに、官僚の専門資 いわんや政党となると、まったく当然のことであるが、選挙格や官僚制的機構の精確な機能をも大いに危うくするのが常 による官僚の各種の任命ーー形式的には自由に選挙される官である。合衆国において、公選裁判官に比して大統領の任命 僚が、候補者名簿の作成に当って政党権力者によって指名さ この両 にかかる連邦裁判官のすぐれた資格と廉潔とは、 れるという形であろうと、みずからもまた選挙された政党首種の官僚はともに、まず第一には政党的考慮にもとづいて選 領によって、自由な任命がおこなわれるという形であろうと ばれたものであったのではあるが、ーー周知の事実であった。 に当っては、専門的な見地ではなくて、政党権力者に対 これに反して、改革者たちによって要求された大都市自治 する忠勤に決定力を認めるのが常である。もちろん、このよ行政の大変革は、アメリカにおいては、原則としてすべて公 うな対照は相対的なものにすぎない。けだし、正当君主とそ選市長によって着手された。これらの市長は、彼らによって の下僚とが官僚を任命する場合にも、実質的には同様のこと任命された官僚装置をもってーーしたがって「カエサル主義 があてはまるからである。ただこの場合には、下僚たちの影的に 仕事をしたのである。民主制からしばしば生まれ 響が容易に統制しがたいというだけにすぎない。 てくる「カエサル主義ー Cäsarismus のもっ支配組織として 専門的に訓練された行政への要求が著しいか、あるいは、 の実効力は、技術的にみれば、一般に、カエサルーー大衆 ( 軍 今日では合衆国においてもそうなっているように、 このよう隊または市民 ) の信頼をえた・自由な・伝統に拘東されない な要求が著しく高まってきており、また、政党の役員たち人としての、また正にそれ故に、伝統その他の考慮を無視し が、知的に高度の発展をとげた・訓練された・自由に動くて彼によって自由に選抜された・最高度の資格を備えた将校 「世論」 ( もちろん、合衆国においては、このような世論は、 や官吏の幹部団に対する、絶対的なヘルとしてのカエサル の地位にもとづいている。しかし、このような「個人的 会都市における移住者分子が「選挙弥次ー的な働きをしている ようなところでは、今日どこにも存在していないが ) を考慮天才の支配」は、全面的な選挙官僚制という形式的には「民 配せざるをえないようなところでは、不適格な官僚を任命する主制的」な原理とは、矛盾するものである。 ときは、〔次の〕選挙で与党の上にその報いがはね返ってく 3 少なくとも公的なまたはそれに近い官僚制的組織にお 7 る。このことは、、 しうまでもなく、官僚が政党首領によって いては、普通は、地位の終身性がある。地位の終身性は、解 任命される場合に、特に著しい。したがって、行政長官だけで約告知や〔官僚の地位の〕定期的再確認がおこなわれる場合に ( ニ八 )
もあるが、しかしこれは通例ではなかった。 も、また〔聖職以外の〕他の分野においても、みられたもので しかし、〈ル自身に属する用益権や貢租や賦役を官僚に譲ある。中国の礼制においては、あらゆる官職が特殊「。フ , リ 与し、官僚自身にこれを利用させることは、その方法のいか ュンデ」的性格をもっていたために、次のような結果が生ま んを問わず、常に、官僚制的組織の純粋型を抛棄することをれている。すなわち、父その他の家の権威者のための礼制上 意味している。このような状態にある官僚は、自分自身の官の服喪期間中は、財産の享受を慎しむべきことが規定されて 職占有権をもっているわけである。官僚が官職占有権をもっ したが ( これは、元来は、財産が属していたところの今は亡 程度は、官職義務と報酬とが次のような相互関係におかれる き家長の怒りにふれることをおそれるという趣旨であった ) 、・ 場合には、一層高められる。すなわち、官職義務と報酬とその結果服喪者は官職を辞することを強制されたのであっ が、官僚が彼に委ねられた目的物からの収人をまったく君主た。官職は正に純プレベンデ的に観念され、レンテ源とみな に引渡さず、この目的物をもつばら彼の私的目的のために自 されていたわけである。 由に利用し、その代わり君主に対しては個人的または軍事的 単に経済的な権利だけでなく、支配権も授与されて、官僚・ な勤務、あるいはその他政治的または教会的性格の勤務をお自身による行使に委ねられ、反対給付として〈ルに対する こなう、というような相互関係におかれる場合である。 人的勤務が約定されるときは、これは純粋な俸給官僚制から 何らかの仕方で物的に固定されたレンテ収入や、土地その更に一段と遠ざかることを意味している。この場合、このよ 他のレンテ収入源の本質的に経済的な利用権やが、現実的ま うに授与される支配権自体は、例えば、政治的な官僚の場・ たは擬制的な官職義務の履行に対する報酬として、終身的に 合、荘園領主的な性格が強いこともあるし、あるいは官職的 官僚に賦与されており、かっ、右の財貨〔レンテ収人や収人源 な性格が強いこともあるというように、さまざまでありう の利用権〕が、君主によって、官職義務を経済的に保障する る。この二つの場合、いずれにせよ官職的性格が強い場合に という目的に、永続的にふり向けられている場合、われわれは少なくとも、官僚制的組織に固有の特質は完全に破壊され は〔右の財貨を〕「プフリュンデ」と呼び、〔このような組織を〕 るに至る。すなわち、われわれは、支配の「封建制的」組織 の領域に入ることになる。 「フレベンデ的」官職組織と呼ぶことにしよう。この組織か ら俸給官僚制への移行は流動的である。古代においても、中 官僚に対する給与としてこのように実物給付や実物用益を 世においても、いな近世に入 0 てまでも、聖職者に対する経付与するあらゆる仕方は、官僚制的機構を弛緩させる傾向、 済的生活保障はきわめてしばしば「プレベンデ的ーであっ とりわけ階層制的下属関係を弱める傾向をもっている。この た。しかし、同様の形は、ほとんどいかなる時代において下属関係は、近代的な官吏規律において、最も厳格な形で発
導的政治家は議会の中から生まれるが、彼は議会に対してま主義的指導者をかりたてる原動力であり、官職を求める利己 すます優越的な地位を占めるようになってきている。 的な努力がその追随者をかりたてる原動力である、と。この あらゆる人的組織には欠陥がっきものであるように、政党強調の仕方によると、官僚制的官職志願者たちを鼓舞してい の徴募活動による指導的政治家の選択にも、当然欠陥が付着るものは、あの追随者におけるとまったく同様な利己的努力 している。ドイツの文筆家たちが、最近数十年間うんざりすと俸給欲ではなく、あたかもただひたすらに減私奉公的な動 るほどくどくどと述べたててきたのは、この欠陥である。議機であるかのごとくである ! もう一つ、「デマゴギーーが 会主義的な政党支配もまた、大抵は「より小さな災難」とし権力の獲得に関係していることについてみてみよう。ドイツ て承認しておけばよいような指導者への服従を各個人に要求の外務大臣のポストをうめるについての、一定の官職的地位 ( 原注六 ) し、また要求せざるをえないこと、これは理の当然である。 を後楯とするデマゴーグ的な新聞論調の、丁度いま進行中の しかし、官憲国家は、各個人に選択というものを全然経過をみると、官職志願と管轄権闘争とを危険この上ない新 許さす、しかもÜ指導者の代わりに、おしきせの官吏を聞種にしているものこそ「君主制的ー統治と呼ばれるものに 贈る。これは、確かにちょっとした相違点ではある。だがさ他ならない、ということが誰にも分るであろう。強力な政党 らにみていくと、ドイツにおける「金権政治」は諸外国とはを有する議会主義国家ならば、これ以上悪いことはます起こ 違った形態をとっているとはいえ、ことの性質上諸外国と同りえないであろ。 原注六一九一八年一月。 様に盛んであるという事実、また、文筆家たちが何の知識もな いくせに真黒にぬりつぶしたあの大資本の勢力・ーー実のとこ 個人的行動の動機というものは、政党内部では確かに余り ろ彼らの方が書斎学者よりも自分自身の利害についてよく知 これは、官僚の職階制の中で通 っているのだが その中でもとくに自己の利益には傍若理想主義的なものではない。 無人なあの重工業家たちが、わが国では同一人物のように一例になっている竸争者間の昇進と扶持に対する俗物的な関心 体となって、官僚主義的官憲国家に味方するとともに民主主が理想主義的でないのとまったく同様である。官僚制と政党 のいすれにおいても、多くの場合、個々人の個人的利害が間 義と議会主義に反対しているという事実、これには、それな りの理由がある。彼らは、文筆家的俗物連中の活躍する地平題になっている ( 文筆家たちが賞賛してやまない未来国家の の下に隠れているだけなのだ。きわめて了見の狭い道徳主義「連帯的組合」においても、これが問題となるだろう ) 。なに 的論調で〔文筆家たちが〕強調しているのは、このことではな よりも肝要なのは次のことである。すなわち、どこにおいて くて、次のような当り前の事実である。権力への意志が議会も人間的な、しばしば余りに人間的なこの関心が働くことに
らしなかった。これに重ねての国民の不幸は、何らかの理由 でビスマルクに後継者と疑われた人物がみな彼からひどく邪 推された一方、自分の息子の貧弱な政治家的資質を、彼が驚く ほど過大評価したことであった。そして他方では、彼の強力 な威光のまったく否定的な結果として、完全に無力な議会が ある。ビスマルク自身、官職を離れ、みずからの運命の帰結 近代国家において支配が現実に力を発揮するのは、議会の 日常生活における行政 を身をもって味わったとき、このことを一つの失敗として自演説でもなく、君主の宣言でもない。 責するところがあったのは周知のごとくである。議会の無力の執行が現実の力なのであるから、この支配は、必然的・不 さの意味は、精神的水準のひどく低下した議会ということで可避的に、文武の官僚の掌握するところとなる。武官も挙げ ビューロー もある。いや、わが国の非政治的文筆家たちのつくった素朴 たわけは、近代戦では高級将校が「官房」の中から指揮をと な道徳的伝説では、この因果関係がむしろ正反対に考えられっているからである。中世以来の資本主義への進歩といわれ ている。つまり、議会活動のあの水準は低かったし、また低るものが経済の近代化を見定める一義的な尺度であるのと同 いままでいたのであるから、その故に議会活動は、この水準様に、官僚制への進歩、すなわち任命・俸給・恩給・昇進・ アクテンメーシッヒカイト 相応に無力に留まっていた、というわけだ。けれど、単純率専門的訓練と分業・明確な権限・文書主義・上下の階層 直な事実と考察は、現実がどういう実態であるかを示すもの的秩序などに基づく官僚制への進歩というものが、君主制国 である。いずれにせよ、冷静に考える人には実態はおのずか家であれ、民主制国家であれ、およそ国家の近代化を見定め る一義的な尺度なのである。国家が交替的行政の行なわれる 府ら明白である。なんとなれば、議会の水準の高低を決めるも カントン 政のは、大きな問題が議会で議論されるかどうか、さらにこの 小区画でなく大きな大衆国家である限り、すべてこのことは 議問題が権威をもって決定されるかどうかーーっまり議会内であてはまる。絶対主義国家とまったく同様に、民主政体もま の の出来事に重要性があるとすれば、それはどの程度の重要性た、任命される官吏のために、封建的・家産的・都市貴族的・ 材なのか、ひょっとすると議会は、支配する官僚層がいやいやその他名誉職的にあるいは世襲的に、職務を行なう名望家行 序認めている可決機関にすぎないのではあるまいか、こうした 政を排除していく。任命された官吏が、われわれのあらゆる 新問いへの回答如何によるからである。 日常的な要求や苦情について、決定を下すようになるわけで ある。こうした重要な点については、軍事上の支配担当者た る将校も、文官たる行政官吏と異なるところがない。近代の 二官僚支配と政治指導
に対して回答される、という方法だけが可能であるにすぎな しかし、専門知識のみが官僚の権力の基礎となっているの 。それというのも、議会が継続的に行政に協力し、行政の てはない。第二は、官職の装置という手段を通じて官僚のみ が入手しうる知識で、官僚の行動の規準となっている具体的方向に影響を及。ほしうる唯一の手段と考えられるところのも の、すなわち、いわゆる「調査権ーの行使によって事実に な事実にかんする知識、すなわち職務上の知識である。この かんする知識や技術上の専門的観点にかんする知識をいつで 事実にかんする知識を官僚の好意に頼らすに入手できる人だ けが、個々の場合に行政を有効に統制することができる。事も入手しうる手段、これが議会に与えられていないからであ 情の如何によって異なるが、このためには、書類閲覧、実地る。何はさておいても、この点での改革が行なわれねばなら・ 検証、さらに極端な場合には、再び議会委員会の甯上、証人ない。将来帝国議会が委員会において広範囲にわたる研究に として出頭する関係者たちを宣誓させて訊間することなどが没頭し、大部の研究成果を公刊すべきだ、などといっている この他に議会が受け持っている仕事の負担を考 考えられる。帝国議会はこの権利ももっていない。帝国議会のではない。 えてみても、そんなことのできようはずがない。私のいうの は、わざわざ行政の統制に必要な知識を入手できない状態に は、調査権は臨時的補助手段として使用さるべきものであ おかれているものだから、この議会には、〔さきの〕ディレッ る、ということである。とにかく調査権があるというだけ タントに加えて、無知蒙昧の輩という宣告が下されているの で、行政長官は、調査権の使われようがないくらいの仕方 帝国議会がこのような権利をも 0 ていないのは、たんに客で、答弁に立っことを迫られるーーー調査権はそういう粳のよ この理由はもつばら、職務 観的な理由からでは決してない。 うなものである。この権利をこういう仕方で行使したとこる 府上の知識を「職務上の秘密、というご存知の概念によ 0 て秘に、イギリス議会の挙げた見事な成果の原因がある。イギリ 政 こ変えることが、官僚制の最も重要な権力手段になる 密知籤 ス官僚層の廉潔さとイギリス国民の政治的教育の水準の高さ 会 ということ、つまるところ、行政が統制を受けないようにすの原因も、主としてまたここにある。そして、委員会の討議 の るための一手段になるということである。官職位階制の下級 がイギリスの新聞とその読者層に監視される仕方をみれば、 材官吏は、上役に監督され批判される一方、「政治」と関係し政治的成熟度を測る最上の物差がえられる、とよくいわれて いる。なぜなら政治的成熟度というものは、不信任投票とか 秩ている最上級の官位は、わが国では、技術的にも政治的にも、 新 一般になんの統制も受けないですんでいる。〔こうした場合〕自大臣弾劾とか、フランス・イタリア式の無組織な議会政治に 覚的な国民にとって形式内容ともさして不名誉でない方法とみられるこの種のスペクタクル大興行によって示されるもの しては、提出される質問や批判が行政長官の側から議会代表ではなく、国民が官僚層によって自分たちの用件が処理され アンケートレヒト
( 今日では両者ともにそうである ) 、これに反して前者の方は、連 よって、ちょうど資本主義的経営が労働者をその生産手段から分 隊長の「企業者」的地位によって作り出された一つの経済的経営 離するように、研究者や教官を彼らの「生産手段ーから分離する。 単位であったのである。「半官的な」海戦企業 ( 例えばジェノヴ 官僚制はこのように疑いえない技術的優秀性をもっている アの「マオナ」 maonaC 四このごとき ) と重隊調達とは、大幅な わけであるが、それにもかかわらず、官僚制は、どこにおい 官僚制的構造を伴ったところの・最初の私的資本主義的「巨大経 ても、比較的後代の発展の所産であった。官僚制の発展をお 営」の一つなのである。この点で、これらの事業の「国営化ー くらせることにあずかって力があったものとしては、ますも は、その近代的相当現象を求めるなら、 ( 最初から国家的統制を って一連の障碍があったのであるが、これらの障碍は、一定 受けていた ) 鉄道の国営化の中に、これを見出しうる。 の社会的・政治的諸条件の下で、ようやく終局的に力を失っ 他の領域においても、まったく同様に、行政の官僚制化 たのである。 は、経営手段の集中と相提携して進行している。往時のザト ラー。フや総督の行政、官職賃借人や官職買受人による行政、 6 社会的差別の水準化 最も甚しくは封建家臣による行政は、物的経営手段を分散化 すなわち、官療制的組織は、通黨行政機能の担当の点に するものである。各地域の地方的需要が、軍隊や下僚の費用 をも含めて、地方の収入からまず支弁され、その余剰分のみ関して経済的・社会的差別がも「ていた意義が、少なくとも が中央金庫に納められるのが原則である。レー = ン〔封〕を与相対的に水準化されたということにもとづいて、支配力を獲 えられた官吏となると、完全に自分の財布で行政をおこな得するに至 0 たのである。同質的な小単位体の民主制的自治 う。これに反して、官僚制的国家は、国家的行政費用全部を行政とは異な 0 て、官僚制は、とりわけ、近代的大衆民主制 国家の予算に計上し、下級機関に経常的経営手段〔経常費〕をの不可避的な随伴現象である。このことは、まず第一に、支 付与し、その利用について下級機関を規則し統制する。これ配権行使が抽象的な規則にしたがうという・官僚制に特徴的 学が行政の「経済性」に対してもつ意義は、資本主義的に集中な原理からしても、すでに明らかである。なぜならば、この 抽象的規則の遵守という原理は、人的および物的意味におけ 会された大経営のもつ意義と同じである。 る「権利の平等 [ の要求から、したがって、「特権」に対す の 科学上の研究経営および教育経営の分野においても、大学の常 配 る嫌悪と「その場あたりの」解決を原理的に拒否することと 設「研究所」 ( その大経営としての最初の例は、ギ 1 セン大学にお けるリービ ' ヒ実験室であ 0 た ) における官僚制化は、物的経営から、由来しているからである。しかしこの原理は、更に、 手段に対する需要増大の函数である。官僚制は、国家から特権を官僚制成立の社会的前提条件からも由来している。量的に大 与えられた一人の指導者の手中に物的経営手段を集中することに規模な社会団体の非官僚制的行政は、すべて、既存の社会
的要求との線に沿った・分業化にもとづいている。官吏の型 ( 普通は ) 国家の裁判および警察幹部がこの機能を担当して は訓練された専門官吏であり、彼の勤務関係は契約にもとづ いる。しかしながら、資本主義的経営は、そのーーますます いており、明確な昇進規則によるところのーー労働の量によ官僚制化しつつあるーー管理組織の点では、自首的である。 ってではなく、官等に応じて等級づけられるーー定額の俸給支配団体への加入は形式的には自由意思によっておこなわれ と年金とを伴っている。彼のおこなう行政は、没主観的な官 るが、このことは、支配という性格に何らの変更をも加える 職義務にもとづく職業労働であり、この行政の理想は、「怒ものではない。けだし、解約告知もまた同じく形式的には りも興奮もなくー sine ira et studio 個人的動機や感情的影「自由ーであるが、しかもこのこと〔解約が自由であるというこ 響の作用を受けることなく、恣意や計算不能性を排除して、 と〕が、通常は、労働市場の諸条件の結果、被支配者を経営 なかんずく「人による差別をすることなく」、厳に形式主義規範に服従させているのである。資本主義的経営のもっ支配 的に、合理的規則にしたがって、 あるいはこれが不可能の性格が、近代国家の支配と、社会学的にみて、同質性をも なときはーーー「没主観的」な合目的性の見地にしたがって、 っているということは、支配なるものの経済的基礎を考察す 処置をするということである。服従義務は、下級官職の上級れば、もっと明らかになるであろう。むしろ、「契約」が基礎 官職への服属と秩序ある訴願手続とを伴う・官職階層制によ とされていることは、資本主義的経営を、「合法的」支配関 って、段階づけられている。技術的な機能作用の基礎は経営係の一つの顕著な類型として、特徴づける事情なのである。 規律である。 2 官僚制は、合法的支配の・技術的にみて最も純粋な型 いうまでもなく、国家や公共団体の近代的構造のみ である。しかしながら、いかなる支配も、もつばら官僚制的 、「合法的ー支配の型に属するのでは決してない。私的・ に、すなわち、契約によって雇われ・任命される官吏だけに このようなことはまった 資本主義的経営内における支配関係も、階層的に組織された よって、運営されるわけではない。 多数の管理幹部をもつあらゆる目的団体や社団ーーその種類 く不可能である。政治的団体の最高の首長は、あるいは「君 の内部における支配関係も、同じく のいかんを問わない 主」 ( 世襲カリスマ的支配者、後述参照 ) であるか、あるい 合法的支配の型に入るのである。近代的政治団体は、単にこ は国民によって選挙された「大統領」 ( したがって、人民投 の型の最も顕著な代表者であるというだけである。 票的Ⅱカリスマ的ヘル、後述参照 ) であるか、あるいは議会 私的・資本主義的経営における支配は、確かに一部分は他団体によって選挙されるかである。この最後の場合には、事 律的であり、その秩序は部分的には国家によって指令されて実上のヘルは、議会の成員、あるいはむしろ、議会における いる。また、強制幹部については、完全に他首的であり、 有力諸政党のーー場合によってよりカリスマ的なあるいはよ ( 七 )