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検索対象: 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集
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1. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

た「世界観」の生産者でもあるのだという要求を、ときに、 独特な観点のもとであつめられる観察材料を獲得して、歴史 かかげたことがあった。だから、近代の経済的な変革が大き的な現実の一つの具体的な歴史的にあたえられた原因に確実 な文化意義をもっているという印象をあたえられ、そのうちに帰属させる可能性を拡大してゆくのとは、種類のちがった でも「労働者問題」がたいへん重要だという印象をあたえら ことがらで、それよりもいっそう立派な仕事ができるのだ、 れて、自分自身にむかっては批判的でない認識冫冫 こよっねにみという熱心なディレッタントの考えである。人類学の研究が られる、根だやしがたい一元論的な特色が、われわれの科学もつばらわれわれにこのこと、つまり文化現象の具体的な歴 にすべりこんだのも、無理からぬことである。同様のくせ史的な原因への帰属を提供しうるかぎりにおいて、その研究 は、諸国民相互の世界制覇のための政治的および貿易政策的の成果はわれわれにとって興味があるのであって、その成果・ なたた力いがますますはげしくなっている現在、人類学にも によって、近ごろの科学の基礎的な研究熱の産物以上のもの 適用されている。すなわち、「結局のところ」すべて歴史的として「民族生物学」という科学が意義あるものとなるので な現象は、生得の「民族資質」相互のはたらきの結果であるある。 という信念が、実際にひろがっているのである。「民族性ー 歴史の経済的説明、あるいは唯物史観の意義についても事 を無批判にただ記述することはなくなったが、「自然科学的情はおなじである。ひところの、むやみに過大評価をあたえ な」基礎をもった独特の「社会理論」がなおいっそう無批判 た時期もおわって、今日では、歴史の経済的説明の科学的な 的にかかげられてきている。われわれは、この雑誌におい 有効性が過小評価されるという危険にちかいものがおこって て、人類学的な研究の発展を、それがわれわれの観点にとっ いるとすれば、このことは無批判的な態度のもたらした結果 っさいの文化現象を て意義があるかぎりは、注意して研究するであろう。文化現である。現実の経済的な解釈は、い 象を因果的に還元して、それを「民族」に帰せしめるようなすなわち文化現象のうち、われわれにたいして本質的なもの のいっさいをーーー結局には経済的な制約をうけているものと 考えは、われわれの無知をあらわしているにほかならないの だから、そのような状態が してひきだすという意味において、「普遍的な」方法だと、 たとえば文化現象を「環境」 に関係させたり、あるいはもっと以前の例でいえば、「時勢」評価されるときには、その評価はまるで例がないほど無批判 的に、おこなわれていたのである。今日では、経済的な解釈 に還元したりするのと同様にーー・方法的に訓練をつんだ研究 によって、だんだん克服されてゆくことがのぞましい。もしのおこなわれる論理的な形式はまったく一様ではない。経済 的な説明だけをしようとして、困難がおこってくると、その 人類学の研究をこれまでにきずつけたものがあるとすれば、 それは、人類学というものが、文化の認識のために、精密な説明が決定的な因果的契機として一般に妥当するということ

2. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

の正確ないいかたで使いならされている 、、、、ここしたが もとめる」知識ー・ー因果連関の規則性の知識ーーをもちいな いおうと思えば、それはある「歴史的個体ーというこ くては、どうしてもできない。具体的な現実におけるある連 とになるーーの因果的説明というものが考えられるときに関のひとつの個性的な部分が原因となって、因果的な説明が は、因果法則に関する知識冫 ま研究の目的ではありえず、むしおこなわれようとしている結果が生じた、という意味で、そ ろその手段たりうるのみである。そういう知識があれば、現の部分がその結果にたいする原因である、といってよいかど 象のなかで、その個性において文化意義をもった部分をば、 うかということが、実のところ、うたがわしいばあいには、 具体的な原因に因果的に帰属させることが、われわれにとづ次のような作用を査定してはじめて、それはきめられる。そ て容易となり可能となるのである。因果法則に関する知識の作用というのは、われわれがその部分から、および、同様 は、この役だちをするかぎりにおいて、またそのかぎりにおな複合体のなかで説明にあたっていっしょに考察されるとこ いてのみ、個性的連関の認識にとって価値があるのだ。そしろのその他の部分から、おこってくると一般的に期待するこ て法則が「一般的ーであればあるほど、すなわち抽象的であとをならわしとしているものであって、そういう作用がその ればあるだけ、その法則は個性的な現象を因果的に帰属させ要素を原因として生ずる「的確な」結果であるにほかならな ようという欲望にたいして、役だっことは少なくなる。した もっとも広い意味でのーー歴史家が、個人的な生活 がってまた、間接的にいえば、一般法則は、一般的であれば経験からわりだされ、方法的に訓練せられた想像力をはたら あるほどそれだけ、文化現象の意義の理解にとっても役だっ かして、どの程度に確実に、この帰属をおこなうことができ ところは少ないのである。 るか、またどの程度まで、歴史家はこの帰属ができるための さて、以上にのべたところからどういう結論がでるのだろたすけになる特殊科学の助力をあおがねばならないか、とい うことは、個々のばあいについてきまってくる問題である。 文化諸科学の領域では、普遍的なものの認識、すなわち抽だがつねに、したが 0 てまた複雑な経済現象の領域において 象的な類概念の形成や、規則性の認識、および「法則的しな も、帰属の確実さは、われわれの一般的な認識が確実とな 連関をば公式にしようなどという試みが、科学的に正当では り、範囲の広いものとなればなるだけ、それだけ大きくなる ない、というのでは決してない。このことはいうまでもな ものである。そのばあいにつねに、したがって、すべてのい い。まさに反対に、もしも歴史家の因果認識が具体的な結果わゆる「経済法則」といわれるものにおいても例外なしに、 を具体的な原因に帰属させることであるとするならば、なん せまい、まさしく自然科学的な、意味での「法則的」な連関 らかの個性的な結果をただしく帰属させることは、「法則をではなくして、法則であらわされた的確な因果連関が問題と

3. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

制と秩序とが必要だ、と言うでしよう。けれども、倫理的なそうしたら、諸国民は、何のための戦争だったのか、と疑問 掟は、こういうことは全く問題にしませんし、これがその本に思うでしよう。戦争は無意味に行なわれたことになりま 質なのです。すなわち、「汝の左の頬を向けよ」なのです。 す。ーーしかし、今日、こういうことは不可能です。という 他人はどうして殴る資格があるのか、などと考えず、無条件のは、戦勝国ーー少なくとも一部の戦勝国ーーは、この戦争 で頬を向けるのです。聖人でない人間にとっては、屈辱の倫 によって政治的な利益を得ているからであります。そして、 理であります。これは、われわれは、何事についてもーー少その責任は、私たちに一切の抵抗を禁じた、あの態度にある なくとも意志の上ではーー聖人でなければならぬ、キリスト のです。やがてーー疲弊の時期が過ぎてーー・信用を失うもの の如く、 使徒の如く、 聖フランシスコなどの如く生きねばな は、戦争ではなく、平和になりましよう。これは、絶対的倫 らぬ、という意味であって、その時、この倫理は意味深いも理の一つの結果であります。 のとなり、尊厳を現わすものとなります。そうでなければ駄 最後に、真理への義務であります。絶対的倫理にとって、 目なのです。なぜなら、無宇宙論的な愛の倫理の結果が、 これは無条件のものであります。そこで、人々は次のような 「悪には力もて抗することなかれ」ということであるのに反結論に到達しました。すなわち、一切の文書、なかんずく、 して、逆に、政治家にとって妥当する命題は、「悪には力も 自分の国にとって不利な文書の公表を行ない、 この一方的な て抗すべし、然らすんば、汝、悪の支配に責任を負うにいナ 公表の上に立って、一方的に、無条件に、結果を顧慮せす らん」ということだからであります。福音の倫理に従って行 に、罪の告白を行なうこと。やがて、政治家にも判るでしょ 為しようとする人は、ストライキをやめてーーーなぜなら、ス うが、真理というものは、結局、こういう方法で明らかにさ トライキは強制ですからーー御用組合に入ったらよいでしょ れるものではなく、情熱の濫用と氾濫とのために必すや蔽わ う。しかし、その人は、「革命」だけは云々してはなりませれてしまうもので、無党派の人々による全面的で計画的な研 治ん。福音の倫理が、内乱こそ唯一の正当な戦争である、など究のみが成果を収め得るのであり、それ以外のいかなる方法 のと教えることは決してありませんから。福音書に従って行為も、それを用いた国民に対して、数十年間に亘って償い得な い結果を与えることがあるものです。しかし、「結果ーを間 しする平和主義者は、武器を拒否し、放棄するでしよう。これ は、ドイツでは、この戦争を終らせ、したがって、一切の戦題にしないものこそ、絶対的倫理なのです。 業 ここに決定的な論点があるのです。私たちが明らかにしな 争を終らせるための倫理的義務として奨励されたものです。 政治家はこう言うでしよう。「当分の間、戦争の信用を失わければならないのは、すべて倫理的な方向を持つ行為は一一つ の、根本的に異なった、調停し難く対立する原則のもとに立 せる唯一確実な方法は、現状維持による講和であったろう。」

4. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

的論的」である必要はぜんぜんない、ということである。現行為の原因となるところのものである。意味ぶかい結果をも 行の法規範が形式上はま 0 たくおなじばあいにでも、その法たらし、ないしもたらしうる原因であれば、どんなものでも このような原因についてもわれわれは同様 律で規制される法的な関係、したがってまた、その規範その考慮するように、 もののもっ文化意義は、根本的にかわることがありうる。その考慮をはらう。のみならずこの種の原因には特有な意義が れのみではない。ひとたび将来について深く思いをいたすあるのだが、その意義とは、われわれが人間の行為をたんに と、次のようなことがおこりうるのである。たとえば「生産確かめることができるだけでなく、さらにすすんで、それを 手段の社会化」ということが理論的には実行されたものと考理解することができるし、また理解しようとも思う、という えられるとする、しかも、その社会では、この成果を意識的根拠から、生じてくるにほかならないのである。 さて、かの価値理念が「主観的」であることはうたがう余 にめざす「努力ーがおこなわれてもいず、また現行法の一カ 地がない。ある家族の年代記にたいする「歴史的な」関心と、 条も消減しもせす、あたらしくつけ加わりもしていない 一国民ないし人類にたいして、ながい期間において共通であ こういう空想もありうるのである。ところが、その社会で ったし、またそうであるような、考えられるかぎり大きな文 は、法的な規制をうける個々の事情の統計上のあらわれは、 化現象の発展にたいする興味とのあいだには、その「意味 [ いうまでもなく、現在の社会においてと根本から変わってお り、多くのばあいには、その数はゼロになり、大多数の法規について無限に多い段階があるのであ 0 て、その段階を構成 範は実際上無意義となり、法規範の文化意義も、ま 0 たくみする多くの踏み段には、われわれの一人びとりにたいして わけのつかぬぐらいまでに、変わ 0 ていることがあるでもあは、ちが 0 た並びかたのものがあるだろう。おなじようにま ろう。それだから、「唯物論的な」歴史理論は、提出せられた、その価値理念が、文化や人類を支配する思想そのものの た法についての論議をただしくも除きさることができたので性格とともに、歴史的に変化しうるものであることも、いう までもない。しかしだからといって、文化科学的な研究もま ある。なんとなれば、唯物史観の中心的な観点というのはま た、あるひとには妥当するが、そのほかのひとには妥当しな さに、法制度の意義が変化せざるをえないということにある いという意味において、「主観的」であるような結果だけし からである。歴史的な現実の因果的理解というじみな仕事が つまらないと思うひとは、そういう仕事をやめてもよかろかえられない、ということにはならないことは、もちろんで けれどもその仕事をなんらかの「目的論」でおきかある。変化するのはむしろ程度の差であって、そのために、 えるなどということはできないのである。「目的」とは、わその結果があるひとには興味があり、その他のひとには興味 がなくなるということになるのである。ことばをかえていえ れわれの考えかたでいえば、ある結果の表象であって、ある

5. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

員会を育成することが、おそらくは適切な手段となりうるで が生するであろう。すなわち、行政に対する影響力を各政党 あろう。ただしその前提として、公衆に対する適当な恒常的 間で平和裡に細分することが生するのであって、その限り政 報告の配慮が加えられていること、さらに、下級委員会 党間の闘争が後退することになろう。 ( だが、政党間の闘争の これには連邦評議会代表と当該部門代表が参加すべきであろ後退というこの否定的な成果すら、高度に政治的な課題を抱 マッセンシュタート うーーの議題が専門化された場合に守られていた統一性を失えた大衆国家にあっては、確実に達成されることは殆んどな わぬよう、適切な議事規則がつくられていること、がなけれ 。積極的な実際的効果については、私の知っているスイス ばならない。 このような事態の発展の結果生じうべき政治的人の間でも意見が分れている。積極的な実際的効果に対する グロースシュタート 影響にかんしていえば、この影響の有無は、一にかかって帝評価もまた、大規模国家においては当然完全に違ってくるは 国内での議会の地位、従ってまた議会諸政党の構造が、将来ずだ。 ) にもかかわらす、あの牧歌的な見通しがどんなに甘 いかなる性格のものとなるか、という点に存する。一切が旧 いものであろうとも、党派間の政争の排除をもって無条件的 態依然のままであるならば、従って、ことに帝国憲法第九条な最高善だとしている人は、かかる比例制叙任権を確実に歓 という機械的な障害が除去されす、一般に議会が「否定的な迎するであろうし、官僚層は官僚層で、僅少の酒手組織を存 政治」に局限されたままであるならばーーその限り官僚層は続させることで、自己の権力的地位を保障する上での利得を、 「否定的な政治」追求の方向に向かうことは明らかであるそれによって期待するであろう。これに加えて、「参内資格 そのときには諸政党は、委員会に出席した自党の代表のある」政党内の諸派間に、何らかの仕方で官職扶持が比例 を、おそらくは些細な命令的委任に縛りつけておき、どんな的に分配されることにでもなれば、その結果は「えびす顔に なるような人びとーをふやそうという努力がもっと激しくな 府ことがあっても指導者にふさわしい全権を彼らに委ねること されることだろう。しかしながら、かかる平和的な扶持の配 はないであろう。その上なお諸政党はめいめい勝手な道をい 会 くことになり、ただもう自党の配下連中のために、僅かな特分が、郡長、県知事、および州知事という国内行政の領域で、 議 ッ別利得をせしめようとするだけのことになろう。そしてこの保守党の官職独占に対抗しつつプロイセンでは現実に行なわ 制度全体は、行政にとっていたすらに時間を食う無益な障害れようのないこと、これは明白である。そして、純政治的に 秩物と化するのであって、政治的訓練および実質的に成果の多みれば、どう転んだところで、次のことが生ずる以上には何 い共同作業の一手段にはならないであろう。・このさいの積極ものも生じないであろう。すなわち、 政党指導者にでは 政党官僚に対して、政治的権力と責任ではなく 的な成果としては、極端な場合、多くのスイス諸州にみられなく これは、議会の政治的 る、諸政党に対する比例繝叙任権の場合に多少とも似たこと扶持所有のチャンスが開かれる。

6. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

意義ぶかい現象の認識にほかならない。そしてそのばあい のこんとんとした状態に秩序をあたえるものはただ次の事情 決定的に重要なことは次の点である。すなわち、無限に多い だけである。すなわち、われわれが現実に接するにあたって 現象のなかで、その有限な一部分だけが意義ぶかいという前 いだいている文化価値の理念とかかわりをもつのは個性的 提があることによってはじめて、個性的な現象の認識という な現実の一部分であるから、そういう一部分だけがわれわれ 思想は、一般に論理的に意味があるものとなるのである。歴と関係があり意義がある、という事情である。だから、つね 史的なできごとのあらゆる「法則」をば、考えられるかぎり に無限に多様な個別的な現象のなかで、特定の側面のみが、 あまねく知っていても、われわれは次の疑間をまえにしては いいかえれば、われわれがある普遍的な文化意義をあたえる 途方にくれることであろう。それはーー現実からそのもっと ところの側面のみが、知る価値をもっているのであり、それ も小さな断片をとってきて、それをただ記述することだけでだけが因果的な説明の対象となるのである。さらに、 この因 すら、すでにまったく十分にはできるとは考えられないから果的な説明それ自体についてもまたおなじようなことがいえ してーーある個性的な事実の因果的な説明とはそもそもどう る。すなわち、そのもっとも具体的なありかたでの現実界に してできるのか、という疑問である。なにかひとつの個性的おけるなんらかの具体的な現象から、因果的に遺漏なくさか なできごとをひきおこした原因の数と種類というものは、実のぼろうとするのは、ただ実際上不可能であるのみでなく、 際につねに無限に多い。そして、それらのなかから一部分のむしろまったく無意義なことがらなのである。われわれがと ものだけを、考察すべきものとして、よりわける標識が、そりあげるのは、あるできごとの構成部分のうち、ひとつひと のもの自体のなかによこたわっている。などということはな つのばあいに「本質的ーなものとされる成分について帰属さ いのである。現実をまじめに「前提なしで」認識しようと一」れるべきであるような原因だけである。因果的な問題は、そ ころみても、それが到達することはといえば、せいぜいのとれが現象の個性をとりあっかうばあいには ) 法則をもとめる ころ、無数に多い個別的な感覚に関する「実存判断」のこん 問題ではなくして、具体的な因果連関をもとめる問題であ とんとした状態ぐらいなものであるだろう。のみならず、こ り、その現象がその例としてどんな公式にしたがっているか ういう成果ですらも、ただみせかけのうえで可能であるにすという問題ではなくして、むしろその現象が、結果としてみ ぎないだろう。な。せかといえば、ひとつひとつの感覚の現実られたときは、どのような個性的な状況に帰属させられるの 性は、よりくわしくみれば、実際つねに無限に多い個々の成か、という問題である。すなわち因果問題とは帰属問題のこ 分をしめしており、そういう成分は感覚による判断によってとである。ある「文化現象」ーーわれわれの科学の方法論に もれなく表明されるわけにはゆかないものだからである。こ おいて、すでにときたま用いられ、そして現在では、論理学

7. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

424 ち得るということであります。すなわち、「信念倫理的」な の不正に対する抗議の炎を絶やさないようにすることだけで 方向か、「責任倫理的ーな方向かということであります。信あります。信念の炎を絶えず新たに燃え上らせるのが彼の行 念倫理とは無責任ということで、責任倫理というのは信念が為の目的なのですが、この行為は、起り得る結果から判断す ないということだ、と言っているのではありません。もちろれば、全く非合理的なもので、戒めとしての価値しか持ち得 んそんな問題ではありません。けれども、信念倫理の原則に よ、、持ってはならぬものであります。 従って行為するーー宗教的に言えば、「キリストは正しきを しかし、まだ以上で問題は終っていません。多くの場合、 行ない、その結果を神に委ねたもう」ーーか、それとも、自「善い」目的を達成するためには、道徳的に疑わしい手段、 分の行為の ( 予知し得る ) 結果について責任を負わねばなら少なくとも、危険な手段、それから、悪い副産物の可能性や ぬという責任倫理の原則に従って行為するかというのは、」 測蓋然性までも我慢せねばならないものですが、こういう事実 り知れぬほど深い対立であります。信念倫理を奉じ、不動の は、世のいかなる倫理も避けることは出来ませんし、また、 確信を持っサンディカリストに向って、「君の行動の結果は、 世のいかなる倫理も、倫理的に善い目的ということを理由に 反動のチャンスを増し、君の階級に対する圧迫がひどくな して、倫理的に危険な手段と副産物とを「正当化する」とい り、その発展を妨げることになるだろうーと大いに説得力のうことが、どういう場合、どんな範囲で出来るのか、それを ある説明をしたところで、彼には何の感銘も与えないでしょ 明らかにすることは出来ないのであります。 う。純粋な信念から流れ出た結果が悪いものであった場合、 政治にとって決定的な手段は暴力性であります。倫理的に サンディカリストは、その責任が行為者ではなく、世界にあ見て、この手段と目的との間の緊張がいかに大きいか、これ る、他の人々の愚かさやーーーこういう人間を創造した神の意 は、どなたもご存知の革命的社会主義者たち ( チンマーヴァ 志にあると思うのであります。これに対して、責任倫理を奉ルト派 ) が既に大戦中に宣言いたしました原則からも窺われ ずるものは、人間の平均的な欠点を計算に入れます。なぜな ることであります。この原則は次のように意味深く定式化出 ら、彼には、フイヒテが正しく申しましたように、人間を善来るものでありました。「もう数年、戦争が続いて、それか 良で完全なものとして仮定する権利がなく、予測が可能な限 ら革命が起るのと、今、直ぐに講和を結び、革命が起らない り、自分の行為の結果を他人に転嫁することが出来るとは思 のと、どちらかを選ぶとなれば、われわれは、やはり、もう っていませんから。彼はこう言うでしよう。「こういう結果数年、戦争が続く方を選ぶ。」一歩、問題を進めて、「その革 になったのは私の行為の責任です。」信念倫理を奉ずる人が命は、何をもたらすことが出来るのか」と尋ねたら、学問的 「責任ーを感じるのは、純粋な信念の炎、例えば、社会秩序訓練を受けた社会主義者なら誰しもこう答えたでしよう。

8. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

ところで、この命題から帰結されるものは何か。価値判断 いうる一定の諸手段でもって、特定の目的を一般に達成する は、結局のところは、一定の理想にもとづいているのであチャンスを考慮し、したがってまた、間接的には、目的のた り、したがって「主観的な」根源をもっているものであるか てかたそれ自身をばそのときの歴史的な情況をもととして、 ら、そもそもそれにたいしては科学的な討論をばくわえな実際には意味があるものだとか、あたえられた事情のもとで ということになるのでは決してない。 この雑誌の実際の は意味がないものだとか、批判することができる。さらにわ 編集と目的とは、こんな命題をくりかえし拒むことになるだ れわれは、もし頭にうかぶ目的を達成するみこみがたつよう ろう。批判は価値判断にたちむかっても足ぶみするものでは に思われるばあいでも、もちろんこのことはつねに、われわ ないのである。そのばあいに間題となるのは、むしろ、理想れのそのときの知識の限度内においてではあるけれども、必 いっさいのできごとは大きく連関し や価値判断を科学的に批判することにはどんな意味があるの要な手段をもちいると、 か、また何がめざされているのか、ということである。このあっているものであるからして、意図されたその目的をいっ 日は - 旦 題のためには、少したちいって考察をくわえてみなくては かは達成するのだが、それとは別に、それといっしょに生ず ならない。 るようないろいろの結果をば、確認することもできるのであ 意味をこめておこなわれる人間の行為の究極の要素を思考る。そのときわれわれは、その行為者にたいして、かれの行 によって省察するときはいつのばあいでも、それはまず、 動の意欲された結果と、意欲されもしないのに生じてきたこ 「目的」と「手段」の範疇に結びつけておこなわれる。われの結果とを、かれが秤量することができるようにしてやるの われが何かを具体的に意欲するのは、「そのものに固有の価であり、このようにして、次の疑問にたいする解答をあたえ 値のため」であるか、それとも、意欲の一番深いところにあてやっているのである。すなわちそれは、意欲された目的が る目的に役だつ手段としてであるか、そのいずれかである。 達成されると、それ以外の価値がきずつけられることが予想 ところで、とりあえず無条件に、科学的な考察としておこな せられるというかたちにおいて、その達成には「どんな儀牲 われるのは、その手段があたえられた目的にたいして適合し がともなうのか」という疑問である。大多数のばあいに人間 たものであるかどうかという問いである。われわれは ( われの努力の目的となるものはすべて、この意味において何ほど われの知識のそのときどきの限度内で ) われわれの頭にうか かの「儀牲をはらう」ものであり、ないし儀牲をはらうこと ぶ目的を達するためには、どんな手段が適しているか、ない がありうるのであるから、責任をもって行動する人間が自己 し不適当であるかを、正しくきめることができるのであるか反省をするばあいには、その行為の目的と結果との交互の秤 ら、われわれは、このような仕方で、われわれがとりあっか 量ということなしにすまされるものではない。したがって、

9. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

とを要求するようにみえたからであった。また最後に、この の進歩があったとか、または実際にそういう進歩がありえた 科学において実現すべき因果思想を追求した自然科学には巨大な成果があらわれてき とかいうのが、事実であった。 たために、科学研究には、できごとの法則をみつけることの 目的が確定しているばあいには、一つひとつの実践的な ほかに他の意味があるのだ、などということは、まったく考 疑問ーーたとえば、ある病症とか、ある技術的な課題とか を特殊な例として、それを一般的に妥当する法則に還元する えられもしないと、思われた。「法則的なもの」だけが、現 ことが進歩するとすれば、すなわち理論的な認識の範囲がひ象について、科学的に本質的なものでありうるのであって、 ろがってゆくとすれば、その進歩は実際上、技術的ー実践的「個性的な」現象というのは、ただ「型」としてしか、すな な可能性をば拡大することと直接にむすびついていたし、そわちこのばあいでいえば、法則を例示的にあらわすものとし ればかりか、理論的認識の拡大と実践的可能性の増大との一一てしか、考察されえなかった。個性的な現象それ自身のため によせる関心などというものは「科学的な」関心では「な つのものは、おなじ意味をもっていたのであった。そのの い」ように思われたのである。 ち、近代の生物学が、現実界のなかで次のような部分を、す ( 九 ) 自然主義的な一元論のこの信念に満ちた気分にたいしてお なわちわれわれの歴史的な関心をそそるところの部分を、さ こった、経済学の諸部門における強力な反動を、ここで追及 らにことばをかえていいなおすなら、現在あるもののように なりたってそれ以外のものにはならなかったというしかたすることはできない。社会主義者の批判と歴史家の研究と で、われわれの関心をそそる現実の部分を、一般的に妥当すが、自然主義的な価値観点に疑問をいだいて、それを未解決 な課題にかえはじめたときに、一方では生物学の研究の力強 るひとつの発展原理という概念のもとに、包括したときに い発展があり、他方では、ヘーゲルの汎論理主義の影響があ その原理は、少なくとも見せかけのうえではーーーしかし ったために、国民経済学において概念と現実との関係をば全 もちろん真実ではないのだーー上の対象における本質的なも ののいっさいを、一般的に妥当する法則の図式のなかへくみ体としては 0 きり認識することが、さまたげられた。そのた 、そのときに、あめに生じた結果を、ここでわれわれの関係のあるかぎりでの 論いれることを、みとめるものであった べてみると、次のとおりである。つまり、フイヒテいらいの 方らゆる科学におけるいっさいの価値観点の神々のあけぼのが ドイツの理想主義哲学、ドイツの歴史法学派の業績、およびド 科近づくように思われたのである。なぜかというと、いわゆる 社歴史的なできごともまた、実際には、現実全体の一部分であィッの国民経済学における歴史学派の仕事が、自然主義的な っさ独断の侵入にたいして、強力な堤防をきすいたにもかかわら ったし、あらゆる科学的研究の前提である因果律は、い いのできごとをば一般的に妥当する「法則ーに解消させるこず、しかも一部分は、このような仕事の結果として、決定的

10. 世界の大思想23 ウェーバー 政治・社会論集

374 政党指導者と比較すればーー公衆に対して極度に無責任で表である。その内部構造に地域的・社会的・宗派的等々の激し 面に出てこない連中の手に、委ねているからである。彼らは い対立を蔵する一切の大衆国家において、大半の法律はこの 専門教育を受けていない選挙人に対して、候補者の推薦をし妥協に基づかざるをえない。所得および財産の累進的な没収 ているわけである。これは、技術的な専門的資格を要求されや「国有化」などは別として、その他の税法が、階級対立の ている行政官吏について、実に不適当な任命方法といえよ激しい大衆国家において、どうすれば国民選挙によってとも う。裁判官の職務まで含な最も近代的な行政の要求のために かく承認されることになるのか、これは見究めのつかぬ問題 は、〔国民選挙による官吏よりも〕選出された国家主席に任命さである。さて、こうした結果ですら、社会主義者にとって れた専門教育ある官吏の方が、アメリカでは技術の点でも廉はあるいは驚くべき結果にみえないかもしれない。ただ、国 潔さの点でも、はるかにすぐれた働きを示している。専門的民投票の制約下にある国家機関が、名目上はしばしば非常に 官吏の選択と政治的指導者の選択とは、まさに異質のものな高額で一部は没収可能な財産税を効果的に実施した、という のである。 この経過とは逆に、権力をもたないが故にあような例はーー実にアメリカでも、また、古い伝統によって れほど腐敗したアメリカ各州議会に対する不信感がつのった実質的思考力をもち、政治的訓練を経た住民をもっスイス諸 結果、国民による直接の立法を拡大していく方向がでてきて 州の極めて有利な条件のもとにおいてすらーーー皆無だという までの話である。それから次に、国民投票的原則は、政党指 国民投票には、選挙手段としても立法手段としても、技術導者の固有の重みと官吏の責任を低下させる。指導的な官吏 的特性から生する内的な限界がある。投票の回答は、「賛成」 の提案を拒絶する国民投票によってこの官吏を否認しても、 か「反対」かのいずれかに限られている。大衆国家の中で、 その結果は、議会制の国家における不信任投票の場合と違っ 議会の最重要の機能である予算の確定を国民投票にまかせて て、それら官吏の退陣ではない。 いや、この結果は決し いるところは、どこにもない。また、相反する利害の調停に てえられないのである。なぜなら、この否認投票は否認の理・ 根拠をもつようなあらゆる法律の成立を国民投票に問うこと由を悟らしめるものではないし、否認投票を行なう大衆は、 は、大衆国家においては、きわめて重大な障害に出遭うこと 政府に反対投票を行なう議会多数派のように、否認成立の後 だろう。なぜなら、存在する利害の対立を討議によって調停は自分らの側から責任ある指導者を出して、否認した官吏と する手段がない場合に、鋭く対立したいくつかの論拠から出交替させる義務を負っていないからである。 てくるものは、ただ「反対 [ の声でしかないからである。国 その上、国家的官僚制独自の経済行政がふえてくればくる 民投票によってえられないものは、まさしく妥協ということ ほど、全能の官吏から公的に説明と回答を求めて彼らを答弁