これはまた同時にあらゆる他の可能性の否定でもあるからでさして困難ではないのである。というのもヘーゲル主義者の 言うところは、彼らが何かを疑ったということとどこまで両 ある。かかる性質をもっているものが信仰にほかならない。 立するか疑わしいといったものだからである。ギリシャ的懐 なぜなら信仰の確実性のうちには常に、止揚された形におい てではあるが、生成の不確実性に正確に応ずる不確実性が存疑は抑制的 ( 判断中止 ) である。彼らが疑ったのは認識によ ってではなく意志によってであった ( 同意を拒むこと ) 。こ しているからである。見えぬところをまこととする、それが のことから生ずる結果として、懐疑はただ自由によっての 信仰である。それは星が存在することを信するのではなく ( な ぜと言ってそれは実際に見えているのだから ) 、星が生成しみ、意志の行為によってのみ克服せられることとなる。ギリ たことを信するのである。出来事についても同様である。起シャの懐疑家たちはすべて、もしも彼らが自己自身を理解し ていたならば、このことを理解していたに違いない。しかし こった事柄は、それを直接に知ることができる。しかしたと いそれがいわゆる鼻の先に起こった場合でも、それが起こっ彼らはその懐疑を克服しようとはしなかった。なぜなら彼ら は疑うことを欲したからである。してみれば好きなようにさ たということ、また起こるということそのことを直接に知る ことはできないのである。出来事の不確実性はまさにそれがせておくよりほかに仕方がない。そして人は彼らが懐疑を必 起こったということそのことのうちにある。このことのうち然的だと考えた愚かさ、また彼らが懐疑を克服され得るもの に、無からの、非Ⅱ存在からの、そして多様な可能的「いかに」と考えていたそのいっそうの愚かさを非難することはできな 、。ギリシャの壊疑家たちは感覚的知覚や直接的認識の正し からの移行がある。直接的知覚および直接的認識は信仰がそ の対象に近づいてゆく時の不確実性を知り得す、したがってさを否定したのではない。錯誤はそういうもの以外の理由に もとづくのであり。それは私が結論をくだすところから生ず また不確実性のうちから生ずる確実性にも思い到り得ない。 このことを理解るのだ、と彼らは言ったのである。つまり、私が結論をくだす 直接的知覚ないし直接的認識は欺かない。 のをやめさえすれば欺かれることはないであろう、と言った することは、懐疑というものを理解し、その理解によって信仰 の正しいあり方を知るために大切なことである。直接的な知のである。たとえば近くで見ると四角のものが遠くからでは 片覚ないし認識が欺かないという考えはギリシャ的懐疑の根底丸く見え、水の外では真直ぐな棒が水にいれると折れて見え るにしても、この場合決して感覚が私を欺いているのではな にある考えであり、これは一見不思議のように思われる。し 哲 そうではなくて、私がその棒とか遠くに見えるものとか かしそのことを理解し、そしてそれがどのような光を信仰に 投するかを理解することは、すべてに対するあのヘーゲル的についてある結論をくだす際に私は誤るのである。それゆえ 懐疑家はいつでも宙ぶらりにとどまっており、しかもこの状 懐疑によって初めから少しも迷わされることさえなければ、
188 ば ( そして新しい矛盾に陥ることなくして必然的構成に驚く となっている。ではこの知識はいかにして生み出されるであ ということがどうしてあり得ようか ) 、彼はそれだけで歴史ろうか。歴史的なものは直接的には知覚され得ない。それは 的なものにま「たく与らないこととなる。というのは生成が生成の二重性を担「ているからである。自然現象ゃある出来 行われる場合にはいつでも ( それがたとい過去の場合であっ 事の単なる直接的印象は決して歴史的なものの認識ではな ても ) 十分な確実性をもって生成したものにもなお不確実性 。何となれば、直接的に知覚され得るのは生成ではなくし ( この不確実性は生成そのものに付帯しているのである ) が て限の前の存在のみであるが、眼の前にある歴史的存在はそ あり、この不確実性こそが哲学者にふさわしく、かっ必要なそれ自身のうちに生成を含んでいるのであ 0 て、そうでなけれ の激情の中にのみ自己をあらわすからである ( プラトン ばそれは歴史的なものの存在ではないのだからである。 アリストテレス ) 。たとい生成せるものが最も確実的なもの 直接的知覚及び直接的認識は欺くことがない。すでにこの であるとしても、たとい驚きが前もってどういうことが起こ ことからも歴史的なるものはこの対象ではあり得ないことが るかを知り、かりにこれが起こらなか 0 たならば起こさねば明瞭である。なぜなら歴史的なものは生成に付随する不確実 ならぬ C ( ーデル ) というとしても、もしもこの場合驚きの性を担 0 ているからである。直接的なものに比すれば生成は 情が生成せるものに必然性を帰するような愚をあえてするな まったくの不確実性であり、それゆえに最も確固としている らば、それはやはり自己矛盾に陥ることである。 ところものもなお不確実とせられるのである。人が星を見て知覚す で方法という一一一一〔葉は、その言葉の音 ( 味からしても、この場合 る場合、その星が生成したものであると彼が意識するやたち の進歩が目的論的であることを明らかに示している。しかし まちその星は彼にとってきわめて不確実なものとなる。、 しわ かかる種類の進歩にはそのあらゆる瞬間に停止があり ( この ば反省が知覚からその星を奪い去るかのようである。それゆ 場合驚きは立ちどまり、 生成を待っ ) 、その停止が生成と えにまた歴史的なものに対する感覚器官は歴史的なものに応 可化北性との間にはいりこんでくる。というのは目的はまさに じたものでなければならないということ、その対象に応ずる 外部にあるのであるから。もしもただ一つの道だけが可能でものをそのうちにも 0 ていなければならないということ、そ あるとすれば、その目的は外部にあるのではなくむしろ内在してそれによって生成に応ずる不確実性を自己の確実性のう の進歩の場合と同様進歩そのもののうちに、そしてさらに進ちに絶えず止揚していなければならないということ、これら 歩の背後にあるのでなければならない。 もまた明らかなことである。ここに二重の不確実性がある。と 以上が過去のものの把握に関することである。しかしこの いうのはこの不確実性は一方において非Ⅱ存在者の非Ⅱ存在 場合、過去のものに関する知識が与えられていることが前提性という点にあるとともに、他方可能的なものの否定に存し、
わち一度現在として存在した後に過去のものとして存在して精神の感覚をしばしば欺くものである。同時代の者は生成す ゆくという二重性を担っている。本来的に歴史的なものは常 るものの必然性などを見はしない。しかし生成と観察者との に過去のものであり ( それはもはや過ぎ去ったのであり、そ 間に何世紀もが横たわっている場合には この観察者はそ れ以後何年経っていようと何日経っていようと同じである ) 、 の生成に必然性を見てしまう、あたかも非常に遠く離れて見 そして過去のものということがその現実性である。なんとな ると四角も円に見えるように。 ) もしも過去のものがわれわ れば、それがかって起こったということは確かであり疑うこれの把握によって必然的となるとするならば、過去のものは、 とができないからである。と同時に、しかし、それが起こっその把握が失ったものを得ることになるだろう。というのは たというそのことがまたその不確実性でもあって、この不確その場合把握は何か別のものを把握したのであり、それは愚 実性が過去のものを永遠の先からそのようにあったものとし かな把握であるから。把握の対象が把握によって別のものに て把握することをいつも妨げるのである。生成せるものの、 なるならばその把握は誤解にすぎない。現在のものについて したがってまた過去のものの本質をなすこの確実性と不確実の知識は現在のものになんら必然性を与えない。未来のもの 性との対立においてのみ過去のものが理解され得る。しかし の予知は未来のものになんら必然性を与えない (t ホエテイウ これとは異なった仕方で理解されたならば、その把握は自己ス。同様に過去のものの知識も過去のものになんら必然性を 自身の誤解 ( それが把握であるという誤解 ) に捉われている与えはしないのである。なぜならいかなる把握もいかなる知 のであり、またその対象の誤解 ( そのようなものが把握の対識も何一つ与えるべきものをもってはいないのであるから。 象となり得るという誤解 ) に捉われているのである。過去の 過去を把握する者すなわち「歴史ー哲学者」は、これゆえ ものをもう一度構成することによって完全に理解したとする に、後ろ向きの予言者 ( ダウブ ) である。彼が予言者である 過去の把握は、すべて、また完全にそれを誤解するものにほ ということは、過去のものの確実性の根底には未来のものに かならない。 ( 構成の理論の代わりに表現の理論をもってきあると同様な不確実性があることを意味し、必然的に産出す ても、これはちょっと見たところ魅力のある理論だが、これるのではない可能性 ( ライプニツツーー・可能的世界 ) がその 片もまたすぐに一一義的な構成と必然的な表現とに陥るのであ根底にあることを意味する。何となれば必然性はそれ自体そ 的る。 ) 過去のものは生成したものであるから必然的ではない。 れが必然的に存在することを前提しているからである。かく 哲 それはその生成によって必然的になった ( これは矛盾である ) して歴史家は激情に動かされ、驚きにみちて再び過去のもの の傍らに立つ。彼を動かすのは生成に対する激情的感覚であ のでもなく、何かある把握の仕方によって必然的となるので もない。 ( 空間の距離が往々感覚を欺くように、時間の距離は る。哲学者はと言えば、もし彼が何一つ驚くことがないなら ( 五九 ) ( 六 0 )
理解するであろう。なぜならソクラテス的に考えれば私は真の肖像を描いているであろう。この教師の姿を髣髴させ、年 理理解の条件を有しており、それを意志することができるは齢や気分がこの教師の外見に与えた変化のすべてを再現する ずだからである。しかし私がこの条件を有していないとすれような各種の肖像画をもっているかもしれない。もしも彼が これらの肖像画を眺め、かの教師はかかる姿をしていたと確 ば ( そしてわれわれはソクラテスに逆戻りしないためにかく 信するとするならば、彼はその眼を信じてもいいであろう 考える ) 、いかなる私の意志も何の役にもたたないのである、 か。もちろん、いけないわけがどこにあろう。しかし、だか たといこの条件が与えられれば直ちにソクラテス的なものが らといって彼は弟子であろうか。決して否。彼のほうは神の 真に成立するとしても。 カ神のほうは自らを思い もっとも、同時代に学ぶ者は、後代の者が非常に羨むに違姿を心に思い描くかもしれない。 : 、 いない一つの利点、つまりどこにでも行ってかの教師を見る描かせない。そしてこれこそ神が僕の姿としてこの世にあら では彼は彼のわれた理由にほかならないのである。しかもこの僕の姿は決 ことができるという長所を有してはいる。 して欺瞞ではなかった。もしも欺瞞であれば、かの瞬間は瞬 眼を信じていいだろうか。もちろん、いけないわけがどこに 間ではなく一つの偶然となり、単なる機会として、永遠的な あろう。しかしだからといって自分が弟子であると信じてい ものの前にはまったく消減してしまう一つの現象にすぎなく いであろうか。否、彼はその眼によって弟子であると信ずる なるからである。さらにもしも学ぶ者が自分のカで教師を思 ならば、彼が欺かれているのである。なぜなら神は直接に見 い描くことができたとするならば、彼は初めからそのための られるものではないから。それならば眼を閉じればどうであ ろうか。これは実に正しいことである。しかしそうすれば彼条件を自己自身に所有していたことになる。この時彼に必要 なのは、彼自身本当は神について何一つ知らないにしても、 は同時代者であるということからいかなる利益を得ることが できるだけの範囲で神の姿を思い描くことを思い起こさせる できようか。眼を閉じても彼は心に神を思い描こうとするで あろう。しかしそれがもしも彼自身のカでできるならば彼は機縁のみなのである。が、もしそうであれば、この機縁はた 初めから神を理解する条件をもっていることになる。彼が思ちまち永遠の可能性のうちの一つの原子のごとく消減してし 断い描く姿は魂の内部の眼にうつる姿であろう。心でこの姿をまう。すなわち初めから彼の魂の中にあった永遠的可能性が 学見ているならば、眠を開くや否や眼にうつる僕の姿は彼を狼この時現実的となるのであるが、しかも現実性としての自己 狽させるであろう。さらに進もう。かの教師も時がくれば確自身を再び永遠的に前提することとなるのである。 学ぶ者は、では、いかにして信仰者すなわち弟子となる かに死ぬ。で、今や彼は死んだとする。そうすれば彼と同時 代であったものはどうするであろうか。恐らく彼はこの教師か。理性が斥けられ、あの条件を与えられることによって。
することになるのである。キリストはしばしば弟子たちのた とてもほかのひとには話ができないと考える。というのも、・ めに心配して、躓かないように心せよといましめた。いいか知人や隣人がそれを聞いてすぐにどうとるかということが、 えれば、躓きの可能性がそこにあるし、またあるべきだとい 落ちついて考えると、だんだん彼にわかってきたからであ る。皇帝は自分をからかおうとしているのだ。かくして自分 うことを、キリスト自身が示したのである。というのも、も は町全体の笑い者になり、漫画雑誌のネタにされ、皇女と自 しも躓きの可能性がそこにあるべきではなく、またそれがキ リスト教的なものに本質的に属していないとすれば、キリス分の結婚話が歳の市の売りものになるのだ。要するに些細な お恵みなら、この日傭取りにも受けとれたであろうし、彼の トが自分でそれを取り除かずに、心配してそれをいましめた などということは、神人たるキリストについての人間的なナ住んでいるこのちつ。ほけな都会の名誉あり教養あるひとたち ンセンスであるからである。 にも、年寄ったご婦人がたにも、五十万市民の一人一人に . も、それがうなすけたであろう。 ( たしかに人口の点からい ここに一人の貧しい日傭取りと、歴史上いまだかってない えばこの都会は非常な大都会であるのかもしれないが、異常 ほどの強大な権力をもった皇帝がいるとしよう。いま、この なものに対する理解の点では、。 とんな田舎の小都市にも劣ら 無上の権力をもった皇帝が、突然、使者をこの日傭取りのも とにつかわすことを思いついたとしよう。日傭取りのほうでずちつ。ほけなのである ) 。だが、日傭取りが皇帝の世嗣ぎに なるなどとは、あまりといえばあまりなことである。 は自分の存在が皇帝に知られていようなどとは夢にも思った ところが実際に、皇帝の使者が例の制服をつけて彼のとこ ことがなかった。むしろ、皇帝のお姿をひと目でも仰ぎ見る ことが許されるならば、この男は自分をこの世の果報者だとろへやってきた。皇帝の意図が本気なのだということが、ひ きつづいてその後のいろいろな外面的事実のなかに示される 思い、それを自分の生涯の最大の事件として子子孫孫に語り ったえることでもあろう。ところでこの日傭取りのところへとする。この日傭取りはそれにはげまされて、皇帝がただ彼 皇帝が使者をつかわして、皇帝が彼を世嗣ぎにしたいと思っをからかおうとしておられるのではないということを、きわ ているということを彼に知らせるとする。そうするといっためて謙遜に信じることができるようになる。だが外面的な事 いどういうことになるだろうか。この日傭取りは、もし彼が実がぜんぜん問題ではなく、内面的な事実だけが問題である とまど ひょう 人間として人間的にこのことを受けとるならば、幾ぶん戸惑としたら、したがってこの日傭取りをはげまして確信にいた いして ( いや、おそらくは大いに戸惑いして ) 極りわるく感らせるような事実が一つもなく、信仰だけが唯一の事実だと したら、したがってまたいっさいが信仰にゆだねられている じることであろう。それは彼にしてみれば、なんだか奇妙な 話であり、狐につままれたようなものなので、こんなことは としたら、その場合、信ずべからざるものを信じうるだけの 、つね ひょう
わばそれ だから彼はもはやそれをひきぬこうとはしない。い 験をおこなう自己は、自分の具体的な自己のうちにあってあ らかじめ自分のむかう方向を見定めるときに、おそらくはあを永遠に身にひきうけようと欲する。彼はこの刺に憤りをお ぼえる。いっそう正直にいうならば、彼はその刺を機縁とし れこれの困難や何らか根本的な障害にぶつかる。そのとき自 己は、おそらくはます、自分の形式的消極的な無限性の感情て存在全体に憤りをおぼえる。そして反抗的に彼自身であろ のうちで、そんなものは全然そこに存在しないし、自己はそうと欲する。自己にさからって自己をなくそうとするのでは んなものは何も知らない、といったようなふりをするであろない。 ( もしそうだとすると、彼は自己のうちなる異常なも う。けれどもそれはうまくいかない。実験する場合の彼の腕のをぬきとることになるが、それはできない。できるとすれ ば、それはあきらめに向かう動きになるであろう ) 。そうで まえはまだそこまでは達していない。抽象する腕まえだって はなくて、自己とともにありながら、存在全体にさからい存在 とうていそこまでは及ばない。自己はその形式的消極的な無 限性にもかかわらす、このように制限されている。そこに自全体に立ち向かおうとするのである。彼は自分の苦悩に誇り 己の受ける悩みがある。だが、自己が絶望しながらもなお自をさえも感じながら自己を保とうと欲する。というのも、救 いの可能性に希望を寄せることは、何としても彼は欲しない 己自身であろうと欲するということが、ここではどんなふう からである。他人のもとに助けを求めるようなことは、どん にあらわれるであろうか。 なことがあってもしたくない。もしそういう場合に立ちいた さきに述べたように、 この世もしくはこの世の何ものかに ったら、彼は他人に助けを乞うよりは、むしろあらゆる地獄 ついて絶望するというこの形の絶望は、根本的には ( そのと の責苦を受けても、彼自身であることを欲する。 きにも示されたように ) 永遠的なものに絶望することにほか * なお ( ただひとこと注意しておくが ) まさにこの観点からし ならない。すなわち、永遠的なものが何の慰めにもならない て、世間で「あきらめ」という名によって飾られているものの多 ほどにこの世のものが高く評価される結果、ひとは永遠的な くが、実は一種の絶望にほかならないことを、知ることができる ものによって慰められたり、癒されたりすることを欲しない であろう。それはひとが絶望しながら自分の抽象的な自己であろ のである。しかしながら、この世的、現世的な苦難が除かれ うと欲し、永遠的なものを得てそれによってこの世的、現世的な るという可能性に希望を持とうとしないのも、やはり絶望の ものの苦悩にさからい、あるいはそれを無視しようと欲すること 一つの形である。かくのごとくにして絶望している者は、彼 である。したがってそこでは自己が悩んでいる場合の或る特定の の受ける悩みのうちにあって、絶望しながら自己自身であろ ものに関して自己であろうと欲するのではない。それは永遠の世 うと欲する。肉体のこの刺は深くささりこんでいるので、と 界ではいすれにしても無くなってしまうものだと考えて彼はみす から慰め、それゆえに現世ではそれをひきうけないのもまた当然 てもそれをひきぬくことはできないと彼は思いこんでいる。
476 的なもののうちにあって弁証法的な契機となるものである。 罪が人間と神とのあいだの戦いとして把握されるとき、罪もしこれが取りのぞかれるならば、キリスト教は異教と異な の度の高まりが明らかに示される。そこで戦法が変わり、防るところがないばかりでなく、きわめて空想的なものとなっ 御から攻撃に移るならば、そのときこそ、罪の度が最後的てしまうので、異教から見ればむだだと解されるにちがいな に、最高度に高まったときである。罪は絶望である、という キリスト教の教えにしたがえば、人間がキリストにおい 場合には、戦いが逃避的におこなわれる。つぎに自己の罪に て神に近づくことができ、近づくことが許され、また近づく ついての絶望があらわれる。ここでも戦いはいま一度逃避的べしと言われているのであるが、そのように近くまで神に近 に、退却しながらおこなわれる。ただし、その退却した地点づくことは、人間の心にはけっして思い浮かばなかった。と だけは固守する。ところが、今度は戦法が一変する。罪がま ころで、このことが、そっくりそのまま、いささかの留保も すます自己のうちに深まってゆき、かくして神から遠ざかる なく、まったく無遠慮に、当たりまえのこととして妥当する ことによって、かえって罪は別の意味においては神にいよ、 ものと考えられるとしたら、それこそキリスト教は、もし神 よ近づぎ、ますます決定的に自己自身となる。罪の赦しにつ神についての異教の創作を人間的狂気と呼ぶならば、これは いての絶望は、神の申し出に対する一定の身構えである。そ神による狂気の思いっきである。そのような教説は、正気を れはもはや逃げ腰ではない。もはやたんに防御的ではない。 失った神でなければ思いっかなかったであろう。また正気を むしろ、キリスト教を虚偽でありうそであるとして廃棄する失わない人間ならば、こう判断せざるをえない。受肉の神は、 ことは、攻撃的な戦いである。これにさきだつあらゆる段階 もし人間がかくも簡単に神の仲間になれるとしたら、シェー にあっては、罪は敵に対して或る程度まで、相手のほうが強クスビアのヘンリー王と好一対というべきであろう。 いことを認めている。だが今度こそは、罪のほうから攻撃に 神と人間とは、そのあいだに無限の質的差異が存する二つ 出るのである。 の質である。この差異を見のがすあらゆる教えは、人間的に 聖霊に対する罪は躓きの積極的な形である。 いえば狂気であり、神的に評価すれば冒漬である。異教にあ キリスト教の教えは、神人の教えであり、神と人間とのあっては人間が神を人間となした。キリスト教にあっては、神 おん いだの親近性についての教えである。この場合 ( よく注意せ が自己を人間となす。けれども神は、このあわれみふかき思 らよう よ ) 躓きの可能性は、もしこういうことがいわれていいとす寵の無限の愛のなかで、一つの条件を持ち出す。神はそうせ れば、人間が神にあまりに近づくことのないように神が身をざるをえないのである。「神はそうせざるをえない」という 護るための保障である。躓きの可能性はあらゆるキリスト教こと、これがまさしくキリストの悲しみである。彼は自分を
強・ようがく と同時に、彼はわたしを驚愕させるのである。自己自身を否もった人はどこにいるであろうか ? 悲劇的英雄はある一定・ 定して自己を義務にささげる人は、無限なものをとらえるたの時機に彼の事業を遂行する、しかし彼の事業は時の経過に めに、有限なものを放棄するのである。彼はまったく安全で つれてしだいに意義を失っていくようなものではない。悲し ある。悲劇的英雄は、、 しっそう確実なもののために、確実なみに心をとらわれた人、息づまるようなため息のためにその ものを放棄する。観る者の目は安らかに彼の上に注がれる。 胸が息づくことのできぬ人、その思いが涙をはらんで重くの しかしながら、普遍的なものでないなおいっそう高い何ものしかかっている人、そのような人を英雄はおとずれる、英雄 かをとらえるために、普遍的なものを放棄する者は、何をな は彼らの前にあらわれる、彼は悲哀の魔力をうちくだく、彼 こころみ すのであろうか ? これが試誘以外の何ものかでありうるこ は胸をしめつけている桎梏をゆるめる、彼は涙を誘い出す、 とは可能であろうか ? そしてもしそれが可能であるとすれすると、悩める者は英雄の悩みのうちに自己自身の悩みを忘 ば、しかしそのとき個別者がそれをとらえそこなうとすれれるのである。人はアブラハムのために泣くことはできな ば、彼にとってどういう救いがあるであろうか ? 彼は悲劇 、。人は、イスラエルの人々がシナイ山に近づいたように、 的英雄のあらゆる苦痛をなやむ、彼はこの世における彼の喜 宗教的畏怖 ( h 。日 religiosus) をもって彼に近づくのであ る。 びを減する、彼はすべてを断念すゑそしておそらく彼は、 ところで、もしアウリスの平野の上に空高く頂のそ その同じ瞬間に、彼がどんな価を払ってもあがないたいと思 びえ立っモリアの山にのぼる孤独な人が、もし彼が、山のふ すうこう ったほど彼にとって貴重であった崇高な喜びに対して、自己もとに立ってながめている人が不安におののき、畏怖と驚愕 を閉ざしてしまうのである。観る者はけっして彼を理解するのあまりあえて呼びかけることさえしないでいるのに、絶壁・ の上を平気で歩いてゆく夢遊病者でないとしたら、もし彼が ことはできないし、また安らかに彼の上に目を注いでいるこ ともできない。おそらく、信仰者のこころざすことはけっし 心をとりみだすとしたら、もし彼が道をふみあやまるとした ほんとにあ一りが A} てなされないであろう。だってそれは考えられないことなのら、どうであろうー ありがとう ! う ! 人生の悲痛なことどもに襲われて裸のままおきざりに のだから。あるいは、もしそれがなされるとしても、個別者が お神を誤解していたのだとしたら、彼にとっていかなる救いが された者に、おのれのみじめさを蔽いかくすための表現を、 こと なんじ、偉大 れ存在するであろうか ? 悲劇的英雄は涙を必要とする、彼は 詞の葉を、与えてくれる人よ、ありがとう ! なんじはあらゆるこ おまた涙を要求する。アガメムノンとともに泣くことができな なるシェイクスピアよ、ありがとう ! とを語ることができる、あらゆることを、あらゆることを、 いほどひからびた妬みの目がどこにあるであろうか ? しか し、アブラハムのために泣けるとうぬ。ほれるほど迷える心をありのままに語ることができるのだーー・それだのに、どうし ねた しつこく おお
がいわば自分ひとりで拍子を数えているのを聞く、あたかもていると言うことも正当だということになる。だが、これに イン・コンクレト ついて具体的に語る場合には、このことが明瞭に示される 9 踊ることはできないが、拍子どおりに踊ることはとうていで なぜなら、自分をひとつの抽象的存在にしたてようとする個 きないとしても、拍子を数えることは自分にもできるのだぐ らいに心得ている人の場合さながらに。それとおなじように人に欠けているものは、自分自身を単に式部官にする個人に おけるのとまったく同じように、まさに内面性であるからで この「聖人」は知っているのである、宗教的なものは絶対に 通約可能であるということを、また宗教的なものは或る種のある。 Ü内面性の排除ないし欠如をあらわす図式。内面性の欠・ 機会や瞬間に固有な或るものではなくて、ひとは常に宗教的 如は常にひとつの反省の規定であり、それがためにどの形式、 なものを手もとにもっていることができるものだということ も一一重の形式となるであろう。ひとは精神の諸規定をまるで を。しかし、彼が宗教的なものを通約可能なものとなしうる なら彼は自由ではないのであり、彼がいとも静かに自分ひと抽象的に論じつけているので、おそらくこのことを洞察する りで拍子を数えているのにひとは気づくが、それにもかかわような傾向はあまりないであろう。ひとは通常、直接性、そ らず彼が踏みまちがって、ぎこちなく視線を天に投げ両手をれに対決する反省 ( 内面性 ) 、それから綜合、というふうに 組んで合掌したりなどしているのをひとは見るのである。こ措定する ( いいかえれば、実体性、主体性、同一性ーーもっ たしなみ ともこの同一性は理性、理念、精神、なんと呼ぼうがかまわ ういうわけだから、そうした個人は、この躾をもっていな 。しかない。現実にお ない ) 。しかし、現実の領域ではそうよ、 いあらゆる人に対してあのように不安をお、ほえるのであり、 いては、直接性は内面性の直接性でもある。内面性の欠如 その結果は、彼がみすからをカづけるためには、世間は信心 は、それゆえ、反省のうちにこそある。 を憎んでいるのだという大げさな考察に手をのばさざるをえ 内面性の欠如の形式はそのどれもが、そういうわけである ないということになるのである。 から能動性ー受動性であるか受動性ー能動性であるかどちら ところで、確信と内面性とはなるほど主観性ではあるが、 かなのであって、それが一方であろうと他方であろうといず っさいがかくもお 完全に抽象的な意味においてではない。い 既そろしく大袈裟にな「てしま 0 ているということは、一般れにしてもそれは自己反省のうちにある。内面性の規定がだ のに、最近の知識の不幸である。抽象的主観性はまさに抽象的んだん具体的になるに従って、その形式そのものもかなりい 不 客観性と同様に不確実であり、またそれと同じ程度に内面性ろいろのニュアンスの変遷をたどる。ものの理解には二つの ものがあると古言にあるが、これもそのとおりである。内面 を欠いている。ひとがこれについて抽象的に語る場合に は、そのことが見ぬけないし、抽象的主観性には内容が欠け性はひとつの理解である、が、具体的に大切なことはこの イン・アプストラクト イン・コンクレト
528 このような信仰の沈黙にまで高まっていく過程の理論的考て刊行するつもりであったが、『死にいたる病』が彼の新しい 察は、『哲学的断片』と、その『完結した、非問、 学的あとが信仰の裏付けとした ( 一八四八年四月の復活祭の前に彼の第二の 回心というべきものがあった。これはその裏付けとして重大な意味を き』においてひとまず完結した。一八四七、四八年はもつば ら信仰的講話の著作に終始した。『わが著作活動の視点』でもっ ) 神学的理論を展開したために、絶望者の救済をとり扱 う『キリスト教の修練』を別書として刊行することになっ もいっているようにこの二年間はほんとうに信仰的著作に専 心した時代であった。しかしその間に信仰について人間の希た。『死にいたる病』がその刊行の間際まで実名をもってし ようとしていたことは前述した。しかしこの書はアンチ・ク 望を失いつくした絶望の立場から、信仰へのぎりぎりの可能 リマクスという偽名をもっているにしても、ここにいうクリ 性、ほんとうの救済の可能であることを、あらためて理論 マクスが彼のそれまでの偽名の全体を意味するものであり、 的・神学的に考え直す必要を感じ出したのではなかろうか。 つまり彼自身の神学をつくり上げる企てである。それはそれアンチ・クリマクスは反偽名者あるいは偽名者よりいっそう 高きにあるという意味において、彼の実名よりもいっそう実 までの彼の美的・倫理的・宗教的実存の思想の全体を、人間 の極限の絶望から出立して、新しい形にまとめ上げる仕事で名的な書物であるともいえる。 死にいたる病とは絶望のことである。ここにいう絶望と あった。これこそ彼の生涯の著作活動を全きものにする大事 は、絶望してしかも肉体的に死ぬこともできない病である。 業であった。それまではつねにより上へ、より深くと上昇し つづけてきた。この上昇の過程の到達点としての、いわば最つまり絶望して死を死ぬる病である。この病を病むものは精 後の著作である。それが一九四九年刊の『死にいたる病』と神のみである。この書の本文は「人間とは精神である。精神 とはなんであるか。精神とは自己である。自己とはなんであ 一九五〇年刊の『キリスト教の修練』である。 るか : : : 」という問いと答えではじめられ、精神とは「自己 この両書の完成する前に『わが著作活動の視点』が、ちょ うどニーチェの最後の書『この人を見よ』ときわめて似た形自身にかかわるとともに、この自己自身への関係において他 者にかかわる関係である」といわれる。そして「そこからし で、それまでの全著作を回顧的な或る距離を置いて執筆にか て本来的な絶望にも一一つの形があることになる。絶望して自 んする自伝風な形で書いたのは ( この書は上述したように一八 四八年の晩秋に書き上げたが生前に刊行されす、彼の死後一八五九年己自身であろうと欲しない場合 ( 弱さの絶望 ) と、絶望して自 兄ペーター・キルケゴールによって刊行された ) きわめて重要で己自身であろうと欲する場合がそれである」 ( 松浪訳 ) 。この ある。 ように、精神、自己にたいする関係の中で他者に関係する。 「死にいたる病』と「キリスト教の修練』とはもと一巻とし逆に他者にたいする関係の中で自己に関係する、というよ