アリストテレス - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想24 キルケゴール
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1. 世界の大思想24 キルケゴール

いからだそうである。それならむろん、専門の論文でとりあは、隠れていること ( およびその結果としての発見 ) は運命 というものに基づく叙事詩的残存物であり、劇的行為はそこ いいだろう。それにまた、くどくどしく論じたくな つかえば なぞ に暗い謎のような起原をもち、そこへ消えていくのである。 しかもそれでけっこう、 ければ、簡単にかたづければいし ギリシア悲劇のよびおこす効果が、目の力を欠く大理石像の 述語を自由に使いこなすことができれば、同じ結論に達する 一つか二つの述語あたえる印象に似ているのは、そのためである。ギリシア悲一 ことができるのである。なぜかというに、 だって全世界の秘密を明かすことができるからである。体系劇は盲目である。したがって、ギリシア悲劇の印象を正しく の中にはそういう小さい単語を容れる余地さえもないという受けとめるためには、ある抽象が必要である。子が父を殺 . し、後になってはじめて、それが自分の父であったことを知 のであろうか ? ( 五 ) アリストテレスは彼の不朽の詩学において述べている、筋るにいたる。姉がその弟を犠牲にささげようとする、しかし 最後の瞬間に、それが弟であることを知るにいたる。この種 ノ二ッノ要素、急転ト発見トハ、以上ノョウナ事柄ニ関スル の悲劇は反省的な現代の関心をあまりひくことができない モノデアル ( 十一章参照 ) 。もちろんわたしがここで問題に 近代劇は運命を放棄し、劇的に自己を解放し、視覚的とな するのは、第二の要素である発見 7 p らだけである。 発見ということがいわれるからには、マタ当然 eo ぎ 8 、そり、自己自身をながめ、自己の劇的意識のなかに運命をとり れに先だって隠れているということがあるはずである。つま入れた。そこで、隠れていることも顕わになることも、主人、 公がみずから責任を負う自由な行為である。 発見が緊張を解きほぐしたり弛めたりするものとなるよ 近代劇においても、発見と隠れとは、本質的な要素として うに、隠れているということは、劇的生活における緊張なの である。アリストテレスが同じ章の先のほうの部分で、いか属している。その例をあげるのは、くどきにすぎるであ , っ う。わたしはうやうやしくも考えるのだが、現代ではだれも にして急転と発見とが同時におこるかという見地から、悲劇 が、官能の快楽を求め、きわめて精力的で、燃えさかってい のもっさまざまな価値について述べていること、ならびに、 るので、アリストテレスの説明によれば、雄の声をきいただ の単純な発見と一一重の発見について述べていることについて 冫。いかない、アリストテけで、あるいは雄の羽ばたきを頭上にきいただけで、受胎す おは、わたしはここで考察するわけこよ るというシャコと同じように、なんの苦もなく受胎するので れレスのことばは、その内面性とその静かな底深さによって、 お博識な学者たちの皮相な全知にうんざりさせられている人をある。そこで、現代ではだれもが、「隠れている」という言 惹きつけることではあろうが。ここではもっと一般的な意見葉を耳にするだけで、一ダースの小説や喜劇をなんの苦もな を述べるほうがふさわしいであろう。ギリシア悲劇においてくつくりあげることができると、わたしは信じている。それ ゆる ( 四 )

2. 世界の大思想24 キルケゴール

213 哲学的断片 ルカ伝第七章二五節。 四一一 (190 頁 ) 柔らかな衣服。 マタイ伝第二六章五三節。 四三 ( 石 0 頁 ) 数多くの天使たち。 ( 一ど頁 ) 穴、塒。ーーマタイ伝第八章二〇節。 四五 ( 一七一頁 ) 有名な学者云々。ヨハネ伝第三章一ー二一節を見 よ。 四六 ( 一尺頁 ) 知られたごとくに。ーー人が神を知るのではなく、 神によって知られるのである、と使徒パウロは教えている。コリ ント前書第一三章一二節、同第八章三節、ガラテャ書第四章九節 等参照。 ルカ伝第一三章二六節。 岩 ( 一尺頁 ) 聖書の言葉。 ミトリダテス ポントウスの王 ( BC132 ー BC63 ) 哭 ( 一芫頁 ) で、部下の名前を全部おばえていた。 一人の詐欺師が自分はカムビュ 四九 ( 一合頁 ) スメルデス。 セス王の兄弟スメルデスだと言ってベルシャの王位を奪おうとし たが、耳がないことが発見されて失敗した。当時刑罰として耳を 切り落すことが行われ、耳がないのは前科者の証拠であった。 間奏楽 プラトンの対話篇「ゴル 吾 ( 天一頁 ) 同じことについて。 ギアス」の中で、カリクレスはソクラテスが常に同じことについ てしか語らないのを責めている。 ( 48 E. 491 B)O ヘーゲルの哲学をさす。 五一 ( 一公一頁 ) 最新の哲学。 至 ( 一公一頁 ) 生成。ーーアリストテレスはこの言葉を一般に変 化ないし運動の意味に用いているが、『フュシカ」 (III, 1 ) では 「可能性から現実性への運動」と定義している。 「命題論」第一二章 至 ( 一八三頁 ) アリストテレスの命題。 においてアリストテレスは反対侖題を論じて「あるものが存在す ることが可能である」の反対は「このものが存在しないことが可 能である」ということではない ( この場合後者は前者と決して矛 盾しない ) 、「可能である」の反対は「不可能である」だと述べて 吾 ( 一公一頁 ) 必然的なものに対する可能的なものの関係の二つ 「命題論」第一三章・ のあり方に関するアリストテレスの説。 参照。 メガラ派ディオドロ 芸 ( 一会頁 ) ストア派クリュシッポス クリ = シッポスは決して現実となることのない多くの可 能的なものがあると考えたのに対して、ディオドロスは現在及び 将来において現実となるもののみが可能的なものであると言っ た。 ホルベルグの喜劇の 契 ( 一条頁 ) 自由は魔法となり云々。 題名「魔法あるいはから騒ぎ』を暗示。 ヘーゲルの「歴史哲学」は 亳 ( 一公頁 ) 支那やベルシャ。 支那、印度、ベルシャから始まる。 ホルベルグの 夭 ( 一尖頁 ) ゲエルト・ウエストファラー 同名の喜劇の主人公。 「なんとなれば現在的事物に 五九 ( 一 0 頁 ) ポエテイウス。 関する知識が現に起こっている事柄に対してなんらの必然性を与 えぬと同様に、未来事に関する予知もまた未来的出来事に対して なんらの必然性をもたらさぬからである。」 ( 「哲学の慰め」第五 部四、岩波文庫二一九頁 ) 。 ( 一翁頁 ) ダウブーーーカール・ダウブ ( 1765 ー 1 田 6 ) 。ルッター 教会に属する神学者。 「弁神論」四二、四一四、四 六一 ( 一 0 頁 ) ライプニツツ。 一六節等参照。 「なぜなら、 六一一 ( 一公頁 ) プラトンーーアリストテレス。 タウマゼイン 実にその驚異の情こそ智を愛し求める者の情なのたからね。っ

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214 まり、求智 ( 哲学 ) の始まりはこれより外にはないのだ。だから また、天界の使者ィリス ( 虹 ) をタウマスの子だと日ったかの人 も、見たところ下手な系譜家ではないようだということになる。」 ( プラトン「テアイテトス」 155 D. 田中美知太郎訳、六一頁 ) 「なぜなら驚く人は今も昔もます哲学することを強いられてきた のであるから」 ( アリストテレス「形而上学」一巻二章 ) 。 フランツ・フォン・ 査 ( 一穴頁 ) ーデル ( 1765 ー 1 1 ) 。ヤコプ・ペーメの影響を受けた神学者。 六四 ( 一公頁 ) 方法という言葉は、その言葉の意味からしても。 方法という言葉は、目的の追求を意味するギリシャ語窄 から来ている。 六五 ( 一九 0 頁 ) 求め、疑い、云々。 セクストス・エム。ヒリク ス「ピュロン語録」一の七。 奕 ( 一九 0 頁 ) ヤコービ。 「全集」第一巻一四八頁以下、第 三巻三六七頁以下参照。 李 ( 一九一一頁 ) プラトンとアリストテレス。 「もし誰かが僕 に尋ねるとしたらだね、「ソクラテス、君は発見したんだって ? 本当かい ? 虚偽の思いなしっていうものは、知覚相互の間に も、思考相互の間にも存しないものであって、ただ知覚が思考と 一緒に結び合わされている場合に存立するものなんだってね」と こう尋ねられるとしたら、僕は、これに肯定の答をするだろうと 思うんだ」 ( プラトン「テアイテトス」 195 C. 田中美知太郎訳。 二四一頁 ) 。アリストテレスに関しては「精神論」三の三参照。 査 ( 一九一一頁 ) デカルト。 「哲学原理」第三九、第四一一等参 第五章 究 ( 一突頁 ) 七十人の翻訳者。 照。 いわゆる七十人訳 (Septua- ginta) の翻訳者をさす。紀元前二世紀、エジプトのアレキサン , ドリヤにおいて、ユダヤ学者七十人 ( 正確には七十二人 ) によっ て旧約聖書のギリシャ語訳がなされたと言われている。 言 ( 一究頁 ) 新しい小屋での誕生。 ホルベルグの喜劇「忙 - ・ しいけ者」第一幕第六場に次の言葉がある、「新しい小屋の船 員のおかみさんは三十二人の子供を一どきに生んだのですよ」。 三 ( 一究頁 ) ティアナのアポロニオス。ーー紀元一世紀の新ピ タゴラス学派の宗教的哲学者。予言者、魔術者として尊敬され た。彼はプラトン及び。ヒタゴラスの説を襲って魂の先在を説き、 自分は前世においてはエジプトの船乗りであったと言った。 PII ( 一一 0 一頁 ) 運命の女神。ーーギリシャ神話における三人姉妹 の女神。クロトーは人生を織る糸を紡ぎ、ラケシスはその方向と 長さとを定め、アトロポスは糸を切る。 ( 一一 9 一頁 ) 格。—casus. 語と語との関係をあらわす文法上 の用語。 茜 ( 一一 0 一一頁 ) 態。—status へプル語の文法において、他語を 支配する時変化する語を構成態 status constructus と言い、変化 しない語を絶対態 status absolutus と言う。 芸 ( 一一 0 四頁 ) 山の中の多くの行い正しい人々云々。 ホルべ ルグの「エラスムス・モンタヌス」第四幕第二場に言う、「本当 を言うと、われわれは山の中で純粋な信仰をもちつづけていたの だ」、すなわち「われわれは皆正直であり、神を畏れる者で . あっ て、地球が円いなどという偽りの教を説く人間に娘を嫁がせるく らいなら娘の頸に綱をかけた方がまだましだと思うのである」。 ( 一一 0 五頁 ) ミュンヒハウゼン。 ーー十八世紀ドイツの法螺吹 きの冒険家。ミュンヒハウゼンを信ずるとは、荒唐無稽な冒険談 を信用すること。 ( 一一 0 六頁 ) ヨハネ伝福音書。ーーー第一六章七節。

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るが、必然的なものには苦しむということはあり得ない。現の考えを混乱せしめた。なぜなら彼が考察したのは存在では 実性の苦しみを苦しむということはあり得ない。生成にあっ なく本質であり、その結果かかる方法では未来のものに関し ては可能性が現実性によって無に帰せられるのであるから、 てなんらの結果に到達することができなくなるからである。 ) 現実性の苦しみは、可能的なものが ( 排除された可能性のみ 必然性はまったく自己自身にとどまっている。したがっ ならず採用せられた可能性もまた ) 生成によって現実的とな て、必然性によって生成するものはなく、必然性そのものが った瞬間に自己を無として示す、という点にある。生成する生成するということもなく、また生成することによって必然 ものはすべて、まさにその生成によって、それが必然的では的なものとなるというようなこともあり得ない。必然的なる ないということを示すのである。何となれば必然的なもの がゆえに存在するというようなものは一つとしてない。そう は、まさにそれが必然的にあることによって、生成することではなく、必然的なものは、それが必然的であるゆえに、ある のできない唯一のものだからである。 いは必然的なものが存在するゆえにただ存在しているにすぎ ないのである。現実的なものは可能的なものよりもいっそう では必然性は可能性と現実性との統一ではなかろうか。 いったいこれはどういうことであろうか。 可能性と必然的なものなのでは決してない。なぜかといえば、必然的 現実性との相違は本質にあるのではなく存在にあるのであなものはこの両者いずれともまったく別個のものなのである る。しかるに必然性ということは存在の規定ではなく本質のから。 ( 必然的なものに対する可能的なものの関係の二つの ( 五目 ) 規定である以上 ( というのは存在するということが必然的なあり方に関するアリストテレスの説を参照せよ。彼の誤り ものの本質であるから ) 、いかにしてこの異質のものから必は、あらゆる必然的なものは可能的である、という命題から 然性がその統一として形作られ得るであろうか。この場合可始めた点にある。可能的なものは必然的なものに帰属せしめ 能性と現実性とは必然性となることによって同時にまったく られないのであるから、彼は必然的なものに関して矛盾した 別の本質になるのであり、これは決して変化とは言えない。そことを、自己矛盾したことを言わざるを得なくなり、それを れらは必然性となる、あるいは必然的なものとなることによ避けるために、彼は、彼の最初の命題が誤っていたことを明 片って、生成に与えることのできない唯一のものとなるのであらかにする代わりに、可能的なものの二様のあり方を考える 的る。したがって右の統一というようなことはまったくの自己に 到ったのである。 ) 哲 生成に含まれる変化は現実的な変化である。その移行が起 矛盾でもあり不可能でもある。 ( 「可能である」「可能的でな ( 五三 ) い」「不可能である」というアリストテレスの命題を想起せ こるのは自由による。いかなる生成も必然的ではない、生成 よーーー偽りの命題と真の命題とに関するエ。ヒクロスの説はこする以前において必然的であったのでもない、なぜなら必然

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211 哲学的断片 扉 一 ( 一一一六頁 ) へたな結婚をするくらいなら 「十二夜」第一幕第五場。 = ( 一一一九頁 ) ホルベルグの博士。ーー・ホルベルグの喜劇「ヤコプ・ フォン・テ = ボェ」の登場人物ステュゴテイウスのこと。すなわ らこの第三幕第五場で彼は言う、「神の御旨のままに volente Deo 儂が論文を書く時には : : : その題は De alicubitate 「某所のこ と」とする。そしてこれにはなお五つの続篇があるのだ。」 「ユグルタとの戦一第 三 ( 一元頁 ) かのすぐれたローマ人。 四巻第四章でサルルステイウス (BC86-BC35) は、歴史の著述に 専心するために公生活から退くことを述べ、彼がそうするのは 「怠惰からではなく、正しい理由からである , と言っている。 『詭弁論』。 四 ( 一三 0 頁 ) アリストテレス。 ハイベルグの最初の 三 ( 一三 0 頁 ) サロモン・ゴルトカルプ。 喜劇「サロモン王と帽子作りのヨルゲン」の中の話。コペンハー ゲンから金満家の慈善家が来るというので、コルセールの町の人 人はその到来を待ちこがれていた。ところが、そのために準備せ られた熱狂的な歓迎は、たまたまハンプルグからちょうどその場 に来あわせた同名の古着商に対して与えられたのである。 訳注 シェイクス。ヒア作 六 ( 一三 0 頁 ) 体系ー・・ i--ä・マルテンセンのことを暗示してい 七 ( 三頁 ) コリント前書九の一三。 第一章 プラトン作「ソクラ ^ ( 一三七頁 ) ソクラテスの大胆な言葉。 テスの弁明」 41B 。 いすれも 九 ( 一四一一頁 ) ミノス、アイアコス、ラダマントス。 ギリシャ神話における地下界の名裁判官。 「ニコマコス倫理学」第三巻 一 0 ( 一四五頁 ) アリストテレス。 第五章一四。 第一一章 プラトン = ( 一四六頁 ) アルキビアデス、コリ = バンテス。 作「饗宴』 215 e を見よ。 一 = ( 一四六頁 ) 自らは動くことなく、万物を動かす。 トテレス「形而上学」第一一巻、七、八頁参照。 プラトン「ゴルギアス」のなかの人 三 ( 一哭頁 ) ポロス。 物。 一四 ( 一哭頁 ) テミストクレス。ーープルタルコス「英雄伝」テミ ストクレスの項参照。 マタイ伝第一三章二一節。 一五 ( 一四九頁 ) カイゼルの像。 ペテロ後書第三章八節。 一六 ( 一吾頁 ) 千年も一日。 マタイ伝第六章二九節。 一七 ( 一五 0 頁 ) ソロモンの栄華。 ーー・出埃及記第三三章二〇 天 ( 一吾頁 ) 神を見るものは死ぬ。 ルカ伝第一五章七節。 一九 ( 一五一頁 ) 天にあるのは喜び。 ルカ伝第九章五 言 ( 一五一一頁 ) 彼には枕するところもない。 る。 節。

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121 おそれとおののぎ の日記」において、「インテレサントなもの」をライトモティー フとして用い、「インテレサントなもの」を求めてその範疇の中 に終始する誘惑者を、「詩的に生きる人」の、つまり美的生活者の 最高の段階にある者として描いて、「インテレサントなもの」が 美的な生き方と倫理的な生き方との境界をなしていることを示し ている。そこから、「インテレサントなもの」が「転機のカテゴ ) ー」、「美学と倫理学との境界」といわれるのであって、この 意味でソクラテスは誘惑者といちじるしい類似をもっているので ある。 = ( 茜頁 ) これらの言葉によって、ソクラテスが「インテレサン トなもの」のうちに生きた人、つまり一種の「誘惑者ーとして美 学と倫理学の境界に立つ人であると考えられていることが示され ている。 三 ( 七五頁 ) アリストテレスによれば、劇の筋には単純なものと 複雑なものとがあるが、複雑な筋の場合には、急転か発見かの いずれかが、あるいはその両方が、含まれている。ここに急転 p 6 ミというのは、或る事態か予期されるのとは正反対の方 向に変化することで、しかもこの変化は、筋そのものの構造自身 から、先立つ事件の必然的もしくは蓋然的な結果として生じてく る場合を言い、発見ミ 7 p ミ s とは、これまで知らすにいたこ とをはじめて知るにいたること、つまり無知より知への変化で、 かくして幸運か不運かに分かれてくるさまぎまな人物のなかに愛 や憎しみの念をひきおこす場合のことである。たとえば「オイデ イプス王」の場合、オイデイプスからその母についての恐怖を取 り除いて彼を喜ばせようとしてきた使者か、オイデイプスの出生 の秘密を告げる、そこに発見がおこり、それと同時に、急転が生 ずるごときがそれである。 四 ( 七五頁 ) アリストテレスの次の説明をさしている。「また発見 は、人と人とのあいだのことであるから、甲がすでに乙に知られ ていて、乙のみが甲に発見されるという場合もある。また、両方 が素姓を明かさねばならぬ場合もある。たとえば、イビゲネイア は手紙を送ろうとすることによって、オレステスに発見された。 そして次に、オレステスが自分をイビゲネイアに明かすという発 見が必要であった」 ( 第十一章 ) ( 七五頁 ) ソボクレスの「オイデイプス王」におけるオイディ プスのこと。 六 ( 七五頁 ) エウリビデス「タウロスのイビゲネイア」における イビゲネイアとオレステスをさす。 ( 七五頁 ) 「動物誌」第五巻五章望 la ー 32 によったもので あろう。 ^ ( 七六頁 ) 親切なので市民に親しまれよく利用された国家経営 の質屋の「管理人ー 九 ( 尺頁 ) アガメムノンの妻、つまりイビゲネイアの母。 一 0 ( 尺頁 ) 老僕がクリ = タイムネストラに「お嬢さまを、お父 あや さまがご自身の手で、お殺めになろうとしているのでございま す」 ( 八七一 D と、イ。ヒゲネイアが牲にささげられることにな っている秘密をうちあけるのをさしている。 = ( 尺頁 ) argumentum ad hominem. 論理学上の一種の論法。 元来は、普遍妥当な厳密な論証でなく、一定の個人個人の考え方 や理解にのみ適した証明のしかたないしその証明をいうのである が、一般には、相手の議論そのもののまちがっていること、ある いは正しいことを証明するかわりに、その人物や行ないなどを楯 はんばく 、い、論理学上におけ にとって反取したり弁護したりする論証をも ごびゅう る誤謬の一つと見なされている。 三 ( 尺頁 ) 士師記一一の三七ー三九。一一八頁注一〇を参照。 一三 ( 尺頁 ) 「アウリスのイビゲネイア」一二一五ー一一一一九で、

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咫 のであり、したがって悪しきものであった。これに反してキリス ト教では多くの場合、無限は限りなきものとして神を意味し、有 限は限りあるものとして不完全を意味した。ここでは、自己を自 己自身から解放する方向が無限性、自己を自己自身へ立ち返らせ る方向が有限性である。 「自己は、それが現に存在するあらゆる瞬間ごとに、生成の途上 にある。 ・ : 自己がそれ自身にならないかぎり、自己はそれ自身 であることがない。」事物は存在をもっているが、人間は実存を しかもっていない。「実存する」とは何か。実存するとは、生成 することによってのみ存在することである。事物はいかなる場合 にも、すでにそれが存在するところのものである。しかるに、人 間はつねに、彼がみすから成ることを選ぶところのものでしかな 。ャスペルス的な表現をもってすれば、人間の存在は可能的実 存でしかありえない。 カタ・デュナミン ( 可能的 ) という概念はアリストテレスによ ってはじめて哲学的に規定された概念である。アリストテレスは 「メタフュシカ」の中で、「すべての可能性は、同時にその反対の ものの可能性でもある。 ・ : 同一のものが、存在することも存在 しないこともありうる」 ()X 1050 (8) と言っており、また「可 能性において在るものは、現実性において在るものとちがって、 無限定である」 ()V 1007 b28) と言っている。 第一部三 << ( 三九七ー三九九頁 ) 無限性の絶望。これは自己の有限性を忘れ、空想によって自己 を自己自身から解放しようとする者の絶望である。当人がそれに 気づいていると、いないにかかわらす、それは絶望である。ロマ ン派の文学、哲学は、その最も代表的なものであるといっていし であろう。 キルケゴールがここで空想的な認識による自己の無限化の例と してあげているヨハン・ゴットリープ・フイヒテの哲学は、自我・ を原理として他のいっさいのものを自我から導き出そうとする晢 学であり、徹底した主観的観念論である。すでにその出発点にお . いて、かかる自我は、有限な個別的自己ではなく、普遍的な超個 . 人的な自我である。 フイヒテの知識学は、第一の絶対的原則において、自我を定立 し、ついで第二の原則において、自我に対して非我を反定立す る。そして第三の原則において、ふたたび自我を非我に対するも のとして定立する。「自我は非我によって制限されたものとして 自己自身を定立する。」これは自我の理論的態度である。「自我は 自我によって制限されたものとして非我を定立する。」これは自 我の実践的態度である。このように、自我は制限し、かっ制限さ れるが、しかしそれによって自我はその無限性を奪われるわけで はない。自我は自己自身を無限として定立する。 しいかえれば、 自我は無限性の述語によって自己自身を限定するのである。 有限性の欠如による無限性の絶望は、ロマン派の詩人ノヴァー リスにも見られる。彼の思想はフイヒテから出て、これを神秘的 方向へ発展させたもので、魔術的観念論とも呼ばれる。 フリードリッヒ・シュレーゲルは自我意識を唯一のよりどこう として凡俗なものを超越する天才の態度を、イロニーと呼ぶ。彼 . は言う。「イロニーとはすべてのものを眼下に見おろし、すべて の制限の上に無限に超越する気分である。」 無限性の絶望は宗教的な分野でもおこる。キルケゴールがそう 言っているのは、明らかに神秘主義を指したものであろう。神秘 こうこっ 主義の本質的な現象は、いわゆるエクスタシス ( 恍惚、忘我、文 字どおりにいえば「自己の足場を失ってそこからぬけ出ること」 ) ・ である。そこにおいては外的な世界とのいっさいの交渉は断ちき

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215 哲学的断片 プルタルコス「英雄伝」 天 ( 一頁 ) ギリシャの床屋云々。 ニキアスの項に、マラトンの勝利の報知をアテネにもたらした使 者が、走り通しに走ってアテネに到達すると共に倒れて死んだと いう記事があり、それとは別であるが同じ項に、シシリアの敗北 をその店で偶然耳にいれた床屋が、そのしらせを最初にアテネに もたらしたという記事がある。キルケゴールは恐らくこの二つを ーオし力と思われる。 混同しているのでまよ、、 芫 ( 一一 0 七頁 ) 「事畢りぬ」。 ヨハネ伝第一九章三〇節。 ^ 0 ( 一一只頁 ) かなり有名な大家による聖書の言葉の気ままで北 工ペソ書第五章一九節のグルントヴィッヒの翻 欧的な翻訳。 訳。 公 ( 一一頁 ) セイロン島のあの人を嘲るような自然の声。 シューベルト Schubert の「自然科学の暗黒面の観察」 "Ansich ・ ten von der Nachseite der Naturwissenschaft ご S. 376 に、セ イロン島では夜、ある不思議な音が聞こえる、との記録があるそ うである。 「形而上学」第三巻第四章 公一 ( 一一 0 九頁 ) アリストテレス。 参照。 ーーコリント前 ^ 三 ( 三 0 頁 ) 人の心いまだ思わざりしところ。 書第二章九節。 ハマン「全 会 ( 三 0 頁 ) かの偉大な智者にして賢者云々。 集」第四巻二七四頁にある言葉。

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現実性が現出するのである。 のをあらわしたが、そのなかに彼は、われわれの概念によれ こういうわけだから、罪の概念は本来いかなる学問のうち 2 ば神学に属するものの一部をも同時にとり入れていた。神学 が異教においてはそうしたところで取りあっかわれるという にも帰属しない。ただ第二の倫理学だけは罪の開示を取りあ ことは、まことにもっともなことである。そしてこれは、異つかうことができるが、それとても罪の発生を取りあっかう 教において演劇が一種の神信心としての実在性をもっていた ことはできない。他のなんらかの学問が罪をあっかおうとす ことの原因と同じく、無限の徹底的反省の欠如なのである。 れば、その概念が混乱させられる。われわれの当面の問題に そこでこの曖昧さから脱却しようとするならば、ひとはこの いっそう近づけて言うなら、心理学がそれを為そうとして も、ことは同じである。 名称を保存して、〈第一哲学烹の名のもと で、内在をその本質とするところの、あるいはギリシア的に 心理学が関係すべきものは、動かされた安定性にとどまっ いうなら想起をその本質とするところの、異教的な学問と称ている静止せるものでなければならず、たえず自分自身を生 することのできる学問全体を理解することができるであろう 産するか抑圧されるかどちらかであるような不安定なもので し、また〈第二哲学 secunda philosophia 〉の名のもとで、 あってはならない。しかし、その持続的なもの、すなわちそ 超越ないし反復をその本質とする学間を理解することができ こから罪がたえす生成するところのもの、といっても必然性 るであろう。 をもって生成するのではないし、そのわけは、必然性をもって する生成というものは、例えば植物の全歴史がひとつの状態 * シェリングは、消極哲学と積極哲学という彼の区別を立てる であるようにひとつの状態だからであって、そうではなくて 便宜のために、このアリストテレスの用いた名称を思いださせ た。消極哲学の名で彼は論理学を理解していたが、これは十分に 自由をもって罪がたえすそこから生成するところのもの 明瞭なことであった。これに反して、積極哲学の名で彼が本来何そのような持続的なもの、素因的な前提、罪の実在的な可能 を理解していたかとなると、積極哲学は彼自身が提供しようと欲性、これが心理学の関心の対象である。心理学をわずらわせ していたものであるということが疑いないということ以外には、 ることができ、また心理学がそれに従事することのできるも 私にはそれほど明瞭ではなかった。しかしながら、そのことにこ のは、どんなふうに罪が発生しうるかであって、罪が発生す れ以上深人りするのはやるべきことではない。私が頼りにしてい るという事実ではなし 、。心理学はその心理学的関心におい るのは、私自身の見解よりほかには何もないのだから。 * * コンスタンティン・コンスタンテイウスは、内在が「関心」て、あたかも罪がそこに存在するかのごとく思われるとこう にまでもってゆくことができる。が、その次に続くこと、つ につきあたって難破するということを示唆することによって、こ のことに思いいたらせた。この概念とともに初めて本来の意味でまり罪がそこに存在するということは、存在するかのごとく

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ドイツ語訳から引用されている。 四五 ( 一 0 三頁 ) コリント前書一四の二「異言を語る者は、人にむ かって語るのではなく、神にむかって語るのである。それはだれ にもわからない。彼はただ、霊によって奥義を語っているだけで ある」によったものであろう。「異言を語る」というのは、霊的 なエクスタシーの状態において、他人にはわからぬような言葉で 語ることで、その語るところは、常人にはわからない。それは、 人にむかってでなく、神にむかって語られる言葉だからである。 ( 一 0 四頁 ) 創世記一三の八。 皂 ( 一 0 四頁 ) ギリシアの大船団がアウリスの港で無風のため出 帆できす立ち往生していたとき、イ。ヒゲネイアをアルテミスの女 神にささげれば、船出がかない、敵をほろばすこともできると予言 さや した予言者で、このカルカスが、刀を鞘から抜き放ったことにな 哭 ( 一 0 五頁 ) 有罪か無罪かについて投票がおこなわれた結果、 有罪と決定したすぐあとで、ソクラテスが語る言葉のうちにある。 有罪と決定したことは別に意外とも思わないが、それより、両方 の票数の差を見てふしぎに思っているのだと言って語る言葉。 発 ( 一 0 七頁 ) ディオゲネス・ラエルティオス「哲学者列伝」の、 。ヒュタゴラスの死について叙した個所にある言葉。 吾 ( 一尺頁 ) マタイ伝六の六。 結びのことば 一 ( 一 0 九頁 ) グリムの童話「天国へいった仕立屋」の仕立屋をさ しているように思われる。この童話で神さまが、ベトルスに留守 をさせ、だれも中へ入れてはいけないと命じて、散歩に出ている あいだに、仕立屋が天国の門口にやってきて、ベトルスがちょっ と外に出たすきに、神さまがおかけになる黄金づくりの椅子にす わると、地上のできごとがなんでも見えたという話が語られてい る。ただし、グリムでは、仕立屋は、死んでから天国に行くこと になっているようである。 = ( 一一 0 頁 ) ヘラクレイトスはすでに古くから「暗い人」あるい は「闇の人ーとあだ名されていた。その著作がむつかしくて理解 カたいものであったからである。ディアナ ( ギリシア名はアル テミス ) の神殿にささげられた書物は「自然について」であった と伝えられている。 三 ( 一一 (Z) クラテュロス Cratylos をさす。アリストテレス 「形而上学」 ( r5. 1010 a 7 ) に次の叙述がある。 「なおまた、この自然の全体が運動し変化しているのを見、しか もこのように転化する物事に関してはなんらの真実をも語りえな いものと考えて、かれらは、あらゆるところであらゆる仕方で転 化するこのような物事については真実を語ることはできないと判 断した。そしてこの判断から、これまで述べてきたうち最も極端 な意見も現われたのである。それはヘラクレイトスの徒をもって 自任する人々の意見、ことにクラテュロスのいだいたそれで、こ の人に至っては、ついになにごとも語るべきではないと考え、た だ指頭を動かしただけだった。そしてかれは、ヘラクレイトスが 二度と同じ川に足を踏み人れることはできないと言ったのを遺憾 とした、というのは、かれ自らは一度もできないと思ったからで ある」 ( 出隆訳による ) 四 ( 一一一頁 ) 「同じ川に二度はいることはできない」という命題 のこと。