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検索対象: 世界の大思想24 キルケゴール
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1. 世界の大思想24 キルケゴール

97 おそれとおののき で笑うことを忘れる。しかし彼は黙っていてよいのであろうか。 * 懐疑者を用いたくなければ、同じような人物、たとえば、イ おそらく、わたしの言う困難さをまるきり理解しない人がたくさ ロニカーを選んでもよい。イロニカーの鋭い目は、人生のおかし んいることであろう。そういう人々は、きっと、沈黙を守るとい さを根底から見抜いており、彼は、人生のもろもろのカの秘密に うことは驚嘆すべき雅量だと思っているのだ。わたしはけっして 通じているので、患者が何を欲しているかについても、確信をも そうは思わない、つまり、すべてそのような人物が沈黙を守るだ っている。彼は、人を笑わそうと思えば笑わせる力を所有してい けの雅量を持っていなかったとしたら、彼は人世の裏切り者だ、 ることを、知っている。彼は、彼の勝利を信じている、いや、そ とわたしは思うのである。それだからわたしは、そういう雅量を れどころか、彼の幸運を信じている。彼は彼を妨げようとする声 彼に要求する。しかし彼がそれを持っているなら、彼は黙ってい がときに発せられるのを知っている、しかし彼は彼のほうが強い てよいのであろうか。倫理学は危険な学問である、もしかする ことを知っている。彼は、せめて一瞬のあいだ人々に大まじめな と、アリストパネスが笑いをして荒廃した時代を裁かせようと決 顔をさせうることを知っている、しかし人々は内心では彼といっ 心したのは、まったく倫理的な気持に動かされてのことであった しょに笑いたくてたまらないのだということを知っている。彼 かもしれない。美的な雅量は役にたらはしない、そんなものをた は、彼の語っているあいだ、せめて一瞬、婦人に扇を眼前にかざ よりにしたのでは、そういうことをあえてすることはできない。 させうることを知っている、しかし彼は婦人が扇のうしろで笑っ もし彼が沈黙すべきであるなら、彼は逆説のなかへはいり込むほ ていることを知っている。彼は扇が絶対に不透明なものでないこ もう一つプランをわたしは暗示しておこう。たと 、カ : オし とを知っている。彼はその上に目に見えない文字を書きこめるこ えば、ひとりの人間が、一英雄の生涯についてじつに悲しい物語 とを知っている。彼は、婦人が扇で彼に打ちかかってくれば、そ を知っているのであるが、それだのに、その時代の人々全部が、 れは婦人が彼を理解したからだということを知っている。彼は、 そんなことは夢にも知らすに、その英雄に全幅の信頼をよせてい 笑いというものがいかにして忍びこみ、どのように人間のなかに る、といったような場合である。 隠れ住むものであるかを、そしてそれがひとたび巣くってしまう と、待ち伏せして折をねらっているものだということを、まごう このようにファウストを自己のなかに沈潜させる場合にの かたもなく知 0 ている。そういうアリストバネスのような人物み、そのときにのみ、懐疑は文学的に見ばえのするものとな を、そういうヴォルテールのような人物を、少し変えて考えてみ ることができる、またそのときにのみ、ファウストは現実そ よう。というのは、そういう人物は同時にまた同情の心をもった のもののなかにも、あらゆる懐疑の悩みをほんとうに発見す 人物でもあるからである、つまり、そういう人物は人の世を愛 るのである。そのとき彼は、人世を担うものが精神であるこ し、人間を愛する、そして彼は、笑いの断罪というものは、おそ とを知る、しかし彼はまた、人々がそこに生きているあの安 らく、解放された若人たちを育て上げるものではあるけれども、 心と喜びは、精神の力に基づくものではなく、反省されざる しかし現代にあっては、多くの人間を滅ほすものであることを知 0 ているのである。そこで、彼は沈黙を守り、できるだけ、自分幸福として容易に説明されるものであることをも知るのであ

2. 世界の大思想24 キルケゴール

とも、なしろ現代人は自己自身を欺く術に申しぶんなく完成と欲しないで、さらにその先まで進もうとするなら、それは むな を遂げているのではないであろうか ? 現代人が必要としてまことに空しくかっ愚かな話だというほかはない。 いるのは、むしろ、恐れることなく、そして清廉に、自己の しかし人間における最高の情熱は信仰である。そしてこの 使命を告げ知らせる正直な厳粛さなのではないのか、愛情を点では 、いかなる世代も先だっ世代とは違った出発点からは もって自己の使命をかかえ守る厳粛さ、性急に最高のものをじめるということはない、各世代がはじめから始めるのであ 捉えようとして人々を不安におとしいれることなく、使命をり、 先だっ世代が自己の課題に忠実でありこれを見捨てなか うる ば、見る目に若々しく、そして美わしく、そして気高く保ったかぎり、後につづく世代が先だっ世代よりもさらに先へ ち、万人の心惹くものでありながら、しかも困難であって高 進むということはない。自己の課題に忠実であってこれを見 貴な人々をのみ感激せしめるものたらしめる、正直な厳粛さ 捨てないということは、退屈でうんざりすることだなどと ではないのか ? おもうに、高貴な心の持ち主は困難なこと は、もちろんいかなる世代も一一一口えるわけのものでない。なぜ にしか感激を覚えないものなのだ。たとえ一つの世代が他のかというに、各世代はそれそれの課題を持っているのであっ 世代から何を学ぶにしても、ほんとうに人間的なものだけて、先だっ世代が同一の課題を持っていたかどうかというこ ーいかなる世代も先だっ世代から学ぶことがない。 この点ととは、なんのかかわりも持たないからである。もっとも、 では、それぞれの世代は原初的に始めるのであって、先だっ個々の世代、もしくは、その世代に生きるひとりびとりが、 いずれの世代とも違った使命をもっているわけでなく、先だ世界を支配する精神、けっして倦むことを知らない忍耐力を せんえっ っ世代が自己の使命をなおざりにしたり、自己みずからを欺持っ精神にしか賦与されない位置を僭越にもみずから占取し いたりしないかぎり、その先まで進みうるものでもない。 ようなどと欲するのであれば、話は別である。もしそのよう のほんとうに人間的なものとは情熱であって、これさえあれなところから始めるような世代があるなら、それはあべこべ ば、一つの世代は他の世代をも、自己みずからをも、完全に というもので、それでは全人世がさかさまに見えたところ の 理解することができるのである。かくしていかなる世代も、 で、なんのふしぎがあろう ! おもうに、童話にあるあの仕 の お 愛するということを、他の世代から学んだためしはない、い 立屋さんは生きながら昇天して、この立場から世界をながめ たというが、この男ほど人世をさかさまに見たものは、もち そかなる世代も初めから始める以外に他の地点からはじめるこ お ともない、またいかなる後の世代も、先だっ世代よりより簡ろん、一人もなかったにちがいない。世代が自己の最高の義 8 単な使命をもったというためしもない。そしてもし人々がこ務である課題にのみ心をくだくや否や、もはや倦むというこ とはありえないはすである、この課題を果たすだけで人間一 の点で、先だっ諸世代とは違って、愛することにとどまろう とら

3. 世界の大思想24 キルケゴール

8 にかなるさ、と考えるならば、そのとき人は、イデーのうちでもない。 こういうことを考えてみるだけの情熱、そしてそ に生きることを永久に断念したのである。そしてそのとき人れに自分自身で正直に判断をくだすだけの情熱を持っている は、しごく容易に、この上ないことをなしとげることができ人は、こんにち、どれだけあるであろうか。そのようにし るし、また他人にもそれをなしとげさせてやることができて、現代というものを良心にのせ、良心に時を貸し与えて寝 る、つまり、精神の世界も、すべてが当てずつ。ほうにおこなずの番をしながらあらゆる秘密な考えを探り出せば、人間の われるある種のカード遊びと同じようなものだという考え方うちにあるいちばん高貴でいちばん神聖なものの力によって で、自分自身をも他人をもわけなくたぶらかすことができる いつなんどきでもあの運動をおこなうというわけこよ、 のである。そのときには、現代はだれでもが最高のものをな いまでも、人はあらゆる人間生活のなかに隠れているはずの しうる時代であるのに、霊魂の不減にたいする懐疑がこんなあの暗い衝動を、不安と恐怖のうちに発見できるし、ほかの ( 二五 ) にまでひろまりうるとは、なんという奇妙なことだろうなど しかたではできなくとも、少なくとも、不安によって誘い出 と考えて、人はおもしろがっていられるのである。つまり、 すことができるが、ところが、他人とともに社会生活をいと ほんとうに無限の運動をした人でさえあれば、ほとんど疑う なんでいると、人はとかくそれを忘れ、とかくそういう考え ことがないからである。情熱の推論のみが信頼に足る唯一のを回避し、あれこれといろいろなことにたすさわり、機会を 推論、人を説得する唯一の推論なのである。さいわいなこと とらえては目新しいことに手を出すものだということ、もし に、この人世は、賢い人たちが主張するよりも、もっと愛情こういうことに思いいたったならば、ー・ー・そう考えただけで、 にみち、もっと忠実なものである。人世はいかなる人間をもそれがそれにふさわしい敬意をはらって考えられるならば、 除外しないし、どんなに卑しい人間をも除外しないからであすでに最高のものに到達したつもりでいる現代の多くの人々 る。人世はなんびとをも馬鹿にしはしない、精神の世界で のこらしめともなることであろう、とわたしは考える。とこ は、みすからを馬鹿にするものだけが馬鹿にされるのだからろが、最高のものに到達した現代では、そのようなことはま である。万人の意見でもあるし、わたしもあえて意見を述べ るで気にとめられない、そのくせ、まさに現代ほど喜劇的な ることが許されるなら、わたしの意見でもあるのだが、修道ものに堕した時代はないのである。そして、現代自身がまだ 院にはいるのは最高のことではない。しかしそれだからとい 一種の自然発生 (generatio aequivoca) によって、現代の って、だれひとり修道院にはいるもののない現代では、だれ英雄を、すなわち、あらゆる時代を笑わせておきながら、現 もが、かって修道院のうちにいこいを見いだした深く真剣な代が自分自身を笑っていることを現代に忘れさせるような恐 人たちよりも、偉大であるなどと、わたしが考えているわけろしい芝居を演するであろう悪魔を、まだ生み出すにいたっ

4. 世界の大思想24 キルケゴール

かえれば、ひとがその原始性を奪い去られ、精神的な意味で 有限性の絶望は無限性の欠如にある 自己自身を去勢した状態である。そもそもすべての人間は、 これがそうだということは ( において示されたように ) 、 はじめは、自己自身たるべく定められた自己として、つくら 自己が〔相互に止揚しあう二つの契機の〕統合であるということれたものである。ところでいうまでもなく、おのおのの自己 かど にもとづく。それゆえ、一方のものは同時にその反対でもあはかかるものとして角の立ったものである。けれども、それ かど る。 はただ磨きをかければいいのであって、すりへらして角を落 無限性の欠如は、限定され閉じこめられた絶望の状態であとす必要があるということにはならない。人間は人間を恐れ る。限定されているとか閉じこめられているということは、 て、彼の本質的偶然性において彼自身であることを断念して ここではむろんただ倫理的な意味でいわれているのである。 はならない。人間はかかる本質的偶然性のなかで、自己自身 世間では元来ただ知的または美的な限定だけを問題にする。 に対してまさに自己であることができるのである。ところ 要するにそれはどうでもいいことである。ところが、世間で が、ひとは絶望の一方のしかたにおいて無限なもののなかへ はいつも、どうでもいいことがいちばん多く問題にされる。 迷いこみ、そこで自己自身を失うことがあるとともに、絶望 どうでもいいことに無限の価値をおくのが世間というものな のいま一つのしかたにおいて、ひとはいわば自分の自己を他 のだ。世間的な考察はつねに人間と人間のあいだの差別だけ人からうまうまとせしめる。そのような人間は、自分のまわ にとらわれており、したがって、当然のことながら、無くてりの人間のむれを見、さまざまの世間的なことがらにたずさ はならぬ一つのもの ( それは精神といってもいいであろう ) わり、世間の風習をのみこみ、その結果、自己自身を忘れ、 に対して理解を欠いている。したがってまた、世間的な考察あえて自己を自己自身にゆだねようとはせず、他人と同じよ は、自己自身を失っていることが、限定され閉じこめられた うにしているほうがよっぽど楽だし安全だという気持にな 状態なのだ、ということを理解しない。自己自身を失うとい り、かくして彼は彼自身である代わりに群衆のなかの一員に っても、ここでは無限なものへ向かって発散することによっ堕する。 て自己が失われるのではなく、ひとがまったく有限的にな 絶望のこの形に、世間では全然といってもいいくらい気づ り、 ( 自己である代わりに ) 一個の数、一個の人間となり、 いていない。なぜならこうして自己自身を捨て去るひとは、 千篇一律なもののなかでの一つの繰り返しにすぎないものとそれによってかえ「てこの世間で幸福になる可能性を得るか なることによって、自己が失われるのである。 らである。そういうひとにとっては、自分の自己や無限への 閉じこめられた絶望の状態は、原始性の欠如である。 この自己の努力といったようなものは、何ら問題にならな みが

5. 世界の大思想24 キルケゴール

値をもっている。 はむしろまさに逆でなければならないだろうからである。す いたづらめがみ なわち継母が子供を堕落せしめるように、人世みずからが彼 俺は粗造貨幣だ。びろっく淫蕩女神の鼻先へ、 くらゐ らを堕落せしめたのだからである。生まれつきもしくは歴史 勿体ぶって出て行くだけの身の尊厳がない。 俺はさういふ五体の美しい釣合を、 的関係によって、普遍的なものの外に置かれているというこ うそっき と、これが悪魔的なものの初めであって、個人自身にはけっ あの虚偽の造化めに欺されて、 、りちち かたは してその責めはないのである。したがって、カン・ハランドの 変な風に切縮められて、不具のまま、半出来のままで、 ユダヤ人も、善をなすにもかかわらず、やはり悪魔である。 まだ出べきでない時に此世へ出て、 う京ごえ 産声を揚げさせられたんだ。 このようにして、悪魔的なものは、人間侮蔑としてもあらわ かくこうぶざま れることができる、しかし、よく注意すべきことだが、この だから格構が不様を極めてゐる。 びつこ 侮蔑が、悪魔的な人間にみずから侮蔑的な行動をさせるので 俺が跛をひいて通ると、大が見て央える。 はない、むしろ逆に、悪魔的な人間は、彼が彼を非難するす グロースターのような人物は、社会の観念のなかへ媒介し 入れたところで、救えるものではない。じつのところ、倫理べての人よりも善良であることを知っている点に、その強み をもっているのである。 こういうことに関してこそ、詩 学はそのような人物をなぶりものにするだけのことである。 それはちょうど、倫理学がサラに向かって、なぜおまえは普人たるものは、まず第一に、警鐘を打ちならすべきであろ 遍的なものを表現して結婚しないのか、と言うとしたら、そう。当節の若いへ。ほ詩人たちはいったいどんな書物を読んで ちょうしよう れはサラにたいする嘲笑でしかないのと同じことである。 いるのだろう ! 彼らの研究は韻を暗記することにあるらし やから そのような人物は、根っから、逆説のなかにいるのである、 そういう輩が人世においてどういう意味を持っているか そして彼らはほかの人間よりもけっして不完全なわけではな は、神さまだけがご存じだ ! さしあたりッゲーセンが町 く、ただ彼らは、悪魔的な逆説のなかにほろびるか、それと の詩人キレヴァレについて言った、「もし彼が不減となるな のも、神的な逆説のなかに救われるか、そのいずれかであるば ら、われわれはみな不減となるであろう」ということばが彼 おかりなのである。ところで、昔からいつの時代でも、魔女やらについても自信をもって言えるという意味で、魂の不減に れ妖魔や妖怪などが奇形であるにとを、人々は喜んできた。そっいて教化的な証明をしてくれている、という以外の効用を おして人間はだれでも、奇形者を見ると、すぐそれに道徳的な彼らがもっているものかどうか、わたしは知らない。 堕落の観念を結びつけたがる傾向をもっていることは否定で こにサラについて言われたことは、とくに文学的創作と、 きない。なんという途方もなく不正なことであろう ! 関係う見地から、したがって、想像上の前提をもって、述べら おれ もったい ( 三 0 ) ぶべっ ( 三ニ )

6. 世界の大思想24 キルケゴール

るかを主人にも仲間にも知らせずに働く召使のようではありき出そうとするなら、いかにもこのように描かざるを得ない 得ない。かかる悪意をわれわれは神におしつけるわけにはゆであろう。・しかし詩が何の証明になるであろうか。住所不定 かないのである。彼が僕の姿をとったということは、したが にうろっきまわり、夕方になればどこにでも泊りこむという ( 四ニ ) って、ただ彼が普通の人間であったということ、柔らかな衣服 ようなことが、いったい許されるであろうか。問題はこうで によってもその他の眼に見える姿によっても世間の人々からある、そもそも人はかくのごときことを行うであろうか。行 ( 四三 ) 少しも区別されず、天上に残してきた数多くの天使たちでさわないとすれば神は人と同じ姿をとったのではないこととな えももはや他の人々から彼を見分けることのできない普通のる。しかり、できさえすれば人もかく行うであろう、もしも 人であったということを意味するのである。しかし、たとい 彼が飲食の煩いが念頭に浮かばないほどに霊の奉仕に没入す 彼が卑しい者であったとしても、彼の憂いは普通の人のそれることができるならば、またもしも彼が欠乏も彼の心を煩わ と同じではなかったであろう。彼は彼自身の道を進み、何一さず、困窮も彼の生活を苦しめることはなく、成人になってか っ持たず、また何一つ持とうと欲しない人のように、地上のら子供の時にああしておけばよかったこういうことも憶えて 財産を整理したり分配したりすることに心を煩わさず、空のおけばよかったというふうに後悔する必要はないと確信でき 鳥のごとく衣食に心を労せず、とどまるべき穴をも休むべき るならば , ーーしかり、この時には彼もまた確かにかくのごと」 塒をももたず、またそれを求めない者のように枕するところくふるまうことができるであろう。そして彼の偉大さは労せ に煩わず、また死者を葬ることにも思い煩わないだろう。なず紡ぐことのないあの百合の花よりも偉大であるであろう。 ぜなら彼は人の注意をひくようなものは何一つ顧みようとし その使命へのかかる崇高な没人によってすでにこの教師は ないからである。彼には心をひかれ、また心をひこうと思う 一般衆人の注意をひきつける。衆人の間にはこの教師から学・ ぼうとする者も見出される。そしてこれはます多くは民衆の ような女との関係もないーーー彼の求めるのはただ弟子の愛ば かりである。これらはすべて美しいことには違いな、。、、 : 下層の者である。なぜなら賢者とか学者とかはたいていまず これらは普通の人間に適当なことであろうか。これらのこと教師に対して狡猾な問を出して彼を試み、験し、その上で相 応の収人のある一つの地位を与えてやろうとかかるからであ・ は普通の人間にふさわしい事柄を破るものではなかろうか。 人間が鳥のように、、 しゃ鳥でさえも餌を求めてあちこち飛ぶる。 かくしてわれわれは神がある街にあらわれて ( それがどこ のであるから鳥以上に、煩いなく暮らすことは正当であろう であるかはどうでもよい ) 、巡りあるいて行く姿を考えよう。、 か。ーーー人である以上、明日のことを思い煩わねばならぬの は当然ではなかろうか。われわれがもしも神の姿を詩的に描彼にとっては真の教えの告知が生活の唯一の必要事であり、 ( 四四 )

7. 世界の大思想24 キルケゴール

。彼よ石のようにすりへらされ、現行貨幣のように流通も ) それだけは失わないですむものすなわち自己自身を、冒 する。世間では彼を絶望していると見なすどころか、人間は険しないばかりに恐ろしくやすやすと失うことがありうる。 とにかくどんな場合にも、冒険する者は、かくもたやすく、 だれでもこうあるのがほんとうだとされる。一般に世間は まるで何ものも失われなかったかのようにかくも容易に、自 ( それもそのはすだが ) 真に恐るべきものの何たるかを知ら ない。生活に何の不都合も来たさないばかりか、かえってそ己自身を失うことはありえない。もし私の冒険が誤っていた のひとの生活を安楽に愉快にしてくれるようなそういう絶望とすれば、そのときには、人生があるいは罰でもって私を助 、、、、絶望と見なされないのはむしろ当然である。このことけてくれるであろう。だがもし私が全然冒険をしなかったな は、わけてもあらゆる格言についてみればわかることであらば、そのときにはいったいだれがこの私を助けてくれるの か。もし私が最高の意味において冒険することをせず、また る。それらはたいていは処世訓ともいうべきものなのだ。た 私自身に気づく代わりに、くよくよしてあらゆる地上的な利 とえば、沈黙には一度、おしゃべりには十度の後悔があると いう。なぜであるか。いったん口から出たことばは現実のな益をにぎっているとしたら、だれが私を助けてくれようか。 有限性の絶望とは、まさにかくのごときものである。この かへはいっていって、いろいろな災いをひきおこすことがあ るからである。しかし黙っていたらどうなるだろう。それこ ようなしかたで絶望している人間は、そのためにかえって万 そ危険このうえもないことではあるまいか。というのも、沈事都合よく ( もともと絶望していればいるだけ都合がいいの 黙においては、人間は自己自身に放っておかれるからだ。現だ ) 世間のなかでその日その日を送り、世間のあらゆる仕事 にたずさわり、他人からほめられ、彼らのあいだで重きをな 実が彼のことばの報いを彼の身にもたらして彼を罰するよう し、彼らから尊敬を受けることができる。それは見たとこ なことがあっても、現実は彼を助けに来てはくれないから ど。だが、それはちがう。そういう意味でならば、沈黙は何ろ、円満で幸福な人間生活である。ひとが世間と呼んでいる ら危険をもたらすものではない。しかし、恐るべきものの何ものは、いわば世間に身売りしているような人間ばかりから 病たるかを知っている者は、人間の内面に向かって進み表面に成りたっている。彼らは自分の才能を用い、世俗の仕事をい こんせき 諸は何の痕跡をも残さないような罪をこそ、最も恐れるのであとなみ、かしこく打算し、富をたくわえなどして、おそらく る。世間の目からみれば、冒険はあぶないことである。なぜ は歴史に名を残す者もあるであろう。しかし彼らは彼ら自身 死 であるか。冒険をすると、失うことがあるからである。冒険ではない。たとい彼らがその他の点でいかに自己的であろう とも、精神的な意味での自己、彼らがそのためにいっさいを しないこと、それが賢明なのである。それにしても、ひとは 冒険しさえすれば ( ほかにどれほど多くのものを失おうと賭してしかるべきはずの自己、神の前における自己を、彼ら

8. 世界の大思想24 キルケゴール

のとなったのであるが、しかもそれ以前の状態との連続性をているとしても、やはり海の上に建てられていることには変 失ってはいない、 と言われなければならない。そうなればも りがないのではなかろうか。もしもこの最近の世代の者がそ はや人間は全く別の名前を与えられるべきである。なんとな のことを忘れ、梁が腐り街が沈むのを放置しておくとしたな れば、信仰は、すでにわれわれが考えたごとく、一つの誕生らば、それは悲惨な誤解というべきではないか。逆説の上に の内部での誕生として、すなわち復活としてなんら非人間的建てられた結果というものは、人間的に言えば、いわば深淵 なものをもっていないが、これに反して今述べてきたようなの上に建てられている家である。そして結果の全体の内容 考え方をすれば人間は驚くべき怪物となるであろうから。 ( それはただ、それがあらわれたのは逆説によってであると 結果を有しているという利点は、また、その結果がかの事 いうことを各人が理解することによってのみ個々の者に分た 実の単純な結果ではあり得ないという別の理由からも、きわれる ) は安定した財産のように次々と受け継がれるものでは めて曖昧な利点である。この利点を最高度に評価し、かの事決してない。全体とは不安定なものだからである。 実によって世界が全く変革せられ、最も些細な部分にまでそ 原注一真理らしくないものに真理らしさの証明を加えるーー・・こ れはいったい何のためか。真理らしいことを証明するためにか。 の変革が浸透していると考えてもーーそのような変化はどの ( この場合には概念が変更せられる ) 。それとも真理らしくないこ ようにして起こるのであろうか。それが起こるのは決して一 とを証明するためにか。 ( このために真理らしさという概念を用 度にではなく、次第にである。では次第に、どのようにして いるのは自己矛盾である ) ーーーという考えは、それがいかに具体 であるか。ただそれぞれの世代が、くりかえし、かの事実と 的に展開されても、もしそれが真面目だとすれば、とうてい考え の関係にはいることによって ! したがってこの中間規定は られないほど馬鹿げている。が洒落か冗談としてはきわめて面自 一つの制約を受けざるを得ない、すなわち結果が意味をもち く、これを少しばかり使ってみることはいい気晴らしになるので ある。 うるのは常にただ一人一人の回心によってのみなのである。 一人の殊勝な人間がいて、真理らしさの証明によって 人間が真理らしくないことを示し、もって人類に貢献しようとし それとも結果は人を誤らしめるというようなことはないので た。それは見事に成功した。で彼は人々から祝辞や感謝の言葉な あろうか。不真理が力をもっことがありうるのではなかろう どを受けてすっかり感動したのであった。しかるに彼が祝辞や感 か。そして各世代にとって同様のことが起こるのではないで 謝を受けたのは、この証明を正しく受け入れることのできた少数 あろうか。もしもあらゆる世代がこの偉大な結果のすべてを のすぐれた者からばかりでなく、一般大衆からも受けたのである。 次の世代にそっくりそのまま伝えるとしても、やはり結果は あわれ、かの殊勝な人は見事に一切を失っていたのである。 どうしても誤解を生むのである。それともヴェニスの都は、 あるいはまた一人の人がいて或る確信を抱いており、その確信の 現代の世代の者には全く気がっかない程今は堅固に建てられ 内容は全く不合理で真理らしくないものであるとする。このお人

9. 世界の大思想24 キルケゴール

419 りふれた種類の絶望である。ことにその第二の形、すなわち っては彼はキリスト教徒であり ( 異教の世界にあっては異教 徒であり、オランダにあってはオランダ人であるというのと若干の反省をともなった直接性としての絶望はそうである。 まったく同じ意味で ) 、教養あるキリスト教徒の一人である。けれども絶望がだんだん徹底的に反省されてくればくるほ ど、世間ではあまり見うけられないものとなる。それにして それとともに一方では、彼は不死の問題にも関心を寄せてい る。彼は再三、牧師に向かって、そうしたものがいったいあもこのことは、ただ、たいていの人間はその絶望の際にも特 るのかどうか、人間は事実さきの世でふたたび自分で自分をに深くなることすらないということを示すのみで、けっして 認めることがあるか、といったようなことをたすねたことも彼らが絶望していないということの証拠にはならない。幾ぶ こくまれに ある。これはたしかに彼の特別の関心事でなければならなんなりとも精神として生きているような人間は、。 し、 、。いな、一度だってそういう生活を試みてみよう というのも、彼は永遠の世界においてふたたび認めうる ような自己をもっていないからである。 とするひとさえも、けっして多くはいない。また、それを試 この種の絶望をありのままに描写しようとすれば、或る程みるひとたちのうちでも、たいがいの者はじきにそれから離 度の諷刺を加えないではすまされない。もしだれかが、自分れてしまう。彼らは恐るべきものと為すべきこととを学び知 っていない。それなのに、彼らはどうしてこの恐るべき内面 はかって絶望していたことがあるなどと口に出して言うとし たら、それは滑稽なことである。彼は自分では絶望にうちか的緊張に耐え、そこで精神の生活をいとなむことができよう ったつもりでいても、そう思っている彼の状態がまさしく絶 か。それにまた、彼らはどうして世間との矛盾に耐えること 望であるとしたら、それこそ恐るべきことである。そもそも ができようか。世間では魂のための心づかいや精神的生活へ 世間で非常に賞讃されている世才なるもの、すなわち良い忠 の努力などは、暇つぶしも暇つぶし、許しがたい暇つぶしと 告や深い見識や経験のつんだ処世訓 ( 人間は時世に順応し、 して、できることなら市民のおきてによって罰せられなけれ おのが運命にしたがい、。 とうにもしようのないものは忘れる ばならないもののように考えられており、人間に対する一種 べきだ、といったようなこと ) の寄せあつめは、よく考えて の裏切り、もしくはただ嘲笑と侮蔑にしか値しない傲慢な狂 みるとその根底に実に愚劣なものがひそんでおり、そういう気であるかのように考えられているのだ。思うに彼らの一生 もののなかにいると、人間は本来どこに危険があり本来なに のうちにも、内面へ向かって進もうとする瞬間 ( これが彼ら 、、、危険であるかわからなくなってしまうものであるが、これの最上の時である ) がないわけではない。彼らはおおよそ第 こそ実に滑稽でもあり恐るべきでもある。 一の難関のあたりまでやってくる。だが、そこでそれてしま この世またはこの世の何ものかについての絶望は、最もあう。この道は彼らにとって慰めなき荒野に導くかと思われ 、 0

10. 世界の大思想24 キルケゴール

ば、その青年のいだく気分は不安ではなくて、せいぜいのと教壇とにその解答をまかせるようなことをすれば、一方は他 ころ嫌悪をまじえた羞恥であろうし、それは彼がより多く精方の言いぶんにことばがおよぶのをはばかる始末で、それが ために一方の説明が他方の説明と天と地ほどの差異を生する 神として規定されているからにほかならないのである。 といったことになるので、そんなことをするのはもとよりい アダムの罪によって罪業性がこの世界に入りこんだ、また っさいを放棄することにほかならず、自分では一指も触れな この性欲というものがアダムにとって 性欲が人りこんだ い重荷を、人々に負わせることになるーーーすなわち、それそ 罪業性を意味するにいたったのである。性的なものが措定さ れたのである。世のなかでは、書物でも口頭でも、素朴さにれの教師〔劇場と説教壇〕はいつもどちらか一方のことだけし か講義しないのに、両方の説明のなかでその意味を見いだす ついて多くのことが喋々されている。しかしながら、無責だ けが素朴であり、しかるに無責は無知でもある。性的なものという重荷を、人々に負わせることになる。本来ならこのよ うな不都合にひとはずっと早くから気がついていたはずなの が意識にもたらされたとなるや否や、素朴さについて語ろう とすることは、無思慮であり、気どりであり、時にはそれ以に、あいにく現代にあっては人々は、かくも美しくしつらえ られた人生を無思慮に遊びくらすことに完璧に達しており、 上に悪いもの、すなわち肉欲の隠蔽である。しかし人間がも なにか宏壮巨大な理念についての饒舌がおこなわれている はや素朴でないからといって、だから彼が罪を犯すというこ とには決してならない。それは、真なるもの、人倫的なものと、無思慮にもそれに駁々しく仲間入りし、その理念の遂行 から注意をそらすことによって人々をたぶらかすところの俗のために彼らは団結の力に対する不動の信念のもとに団結一 悪な冗談にすぎない。 致するのであるーーもっとも、その信念たるや、店のビール 性的なものの意義に関する、また個々の領域におけるそれを仕入値段より一シリングあたり安く売りながら、しかも 「ものをいってくれるのは多数なんだから」といって儲けを ぞれの性的なものの意義に関する問題全体が、こんにちまで あてこんでいた例のビャホールの親爺の信念と同様に、まこ 満足に答えられたことがないということは否定すべくもない とに奇怪なものなのであるが。事情がこうなのであるから、 し、なかんずくそれが正当な気分において答えられたことは 念はなはだ稀である。この問題に関して機知をとばすのはあこの現代にあって誰ひとりとしてそのような考察に意を用い の われむべき技巧であり、警告するのはむずかしくはない。そないとしても、私はあえて怪しむわけではない。しかし私は 安 不 知っているのだーーーもしソクラテスがいま生きていたとした れについて難点には頬かむりするやりかたで説教するのも、 ら、彼はその種のことについて思索したであろう、もっとも これまたやりにくいことではない。しかし、それについてた いってみればもっと だしく人間的に語ることは、ひとつの技術である。劇場と説彼なら私にできるものよりもっと良く、