て、救いの不可能であることを知っていたかという点にかか る。それにしても彼は、人間的にいえば自分の破減が必至で っており、さらに、それにもかかわらす彼を救ってくれたカ あることを知っている。これが信仰における弁証法的なもの に対して、彼がいかに誠実であるかにかかっている。けれど である。普通ならば人間は、これこれのことが自分の身にお こるようなことはまずありそうもないということだけしか知も人間はたいがいそのどちらをもしないものだ。人間は自分 らない。ところが実際、それが彼の身におこると、彼は破減の知性のカのかぎりをつくして救いを見いだそうともせず、 する。向こうみすな人間はことさらに危険な可能性を求めた救いは不可能だと叫んでいる。また、あとからも、人間は救 いを不可能だと考えていたこと、したがって自分は奇蹟的に がる。とはいえ、それが現実となることを彼は本心から期待 しているわけではない。そこでそうした可能性が現実となっ救われたのだということを、恩しらずにも、告白しようと欲 しないのである。 てあらわれてくると、彼は絶望して破減する。信仰者は、い げどくぎい ま自分の迫られていること、あるいは自分のあえてしようと 信仰者は絶望に対する永遠に確かな解毒剤をもっている。 することが、人間的な打算によれば、わが身の破減とならず可能性がそれである。なぜなら神にとってはあらゆる瞬間ご にはいないことを知っている。しかし彼は信じる。彼は自分とにいっさいが可能であるからである。これが信仰の健康状 態である。健康とは矛盾を解消する能力である。肉体的生理 力いかにして救われるかというようなことはまったく神にま かせてある。ただ彼は、神にとってはいっさいが可能である的にも、そのとおりである。呼吸は一つの矛盾である。とい ことを信じている。自分の破減を信じるなどということは無うのも、呼吸は、類を異にするあるいは非弁証法的な冷と温 とであるからである。しかし健康な身体はこの矛盾を解消し 意味である。ただ救いの可能性のみが信じられる。厳密にい ており、呼吸を別に気にとめない。信仰の場合もまたかくの うと、人間がもはや救いの可能性を発見しえない場合にの み、信じるということがありうる。そのときには神もまた彼ごときものである。信仰は、破減が必至でありながらしかも を助ける。おそらく神は恐るべきことから彼をまぬがれさせそこに可能性があるというこの矛盾を解消する。 しっさいが必然的になることで 可能性の欠如というのは、、 病るであろう。おそらく神は恐るべきことがらのただなかにお る いて予期しない奇蹟的な救いをもたらすであろう。それはまあるか、さもなければいっさいが平凡になることである。 決定論者や運命論者は絶望の状態にあり、絶望者として自 さに奇蹟的なものである。というのも、千八百年以前の人た に 死 ちだけが奇蹟的な救いにあすかったなどというのは、まった己を失っている。というのも、彼にとってはいっさいが必然 5 く奇妙な逃げ口上だからである。或る人間が奇蹟的に救われ性であるからである。個々の人間は可能性と必然性との統合 である。それゆえ人間は、たんなる必然性においてもまたた たかどうかは、本質的には、彼が知性のいかなる情熱をもっ
るが、必然的なものには苦しむということはあり得ない。現の考えを混乱せしめた。なぜなら彼が考察したのは存在では 実性の苦しみを苦しむということはあり得ない。生成にあっ なく本質であり、その結果かかる方法では未来のものに関し ては可能性が現実性によって無に帰せられるのであるから、 てなんらの結果に到達することができなくなるからである。 ) 現実性の苦しみは、可能的なものが ( 排除された可能性のみ 必然性はまったく自己自身にとどまっている。したがっ ならず採用せられた可能性もまた ) 生成によって現実的とな て、必然性によって生成するものはなく、必然性そのものが った瞬間に自己を無として示す、という点にある。生成する生成するということもなく、また生成することによって必然 ものはすべて、まさにその生成によって、それが必然的では的なものとなるというようなこともあり得ない。必然的なる ないということを示すのである。何となれば必然的なもの がゆえに存在するというようなものは一つとしてない。そう は、まさにそれが必然的にあることによって、生成することではなく、必然的なものは、それが必然的であるゆえに、ある のできない唯一のものだからである。 いは必然的なものが存在するゆえにただ存在しているにすぎ ないのである。現実的なものは可能的なものよりもいっそう では必然性は可能性と現実性との統一ではなかろうか。 いったいこれはどういうことであろうか。 可能性と必然的なものなのでは決してない。なぜかといえば、必然的 現実性との相違は本質にあるのではなく存在にあるのであなものはこの両者いずれともまったく別個のものなのである る。しかるに必然性ということは存在の規定ではなく本質のから。 ( 必然的なものに対する可能的なものの関係の二つの ( 五目 ) 規定である以上 ( というのは存在するということが必然的なあり方に関するアリストテレスの説を参照せよ。彼の誤り ものの本質であるから ) 、いかにしてこの異質のものから必は、あらゆる必然的なものは可能的である、という命題から 然性がその統一として形作られ得るであろうか。この場合可始めた点にある。可能的なものは必然的なものに帰属せしめ 能性と現実性とは必然性となることによって同時にまったく られないのであるから、彼は必然的なものに関して矛盾した 別の本質になるのであり、これは決して変化とは言えない。そことを、自己矛盾したことを言わざるを得なくなり、それを れらは必然性となる、あるいは必然的なものとなることによ避けるために、彼は、彼の最初の命題が誤っていたことを明 片って、生成に与えることのできない唯一のものとなるのであらかにする代わりに、可能的なものの二様のあり方を考える 的る。したがって右の統一というようなことはまったくの自己に 到ったのである。 ) 哲 生成に含まれる変化は現実的な変化である。その移行が起 矛盾でもあり不可能でもある。 ( 「可能である」「可能的でな ( 五三 ) い」「不可能である」というアリストテレスの命題を想起せ こるのは自由による。いかなる生成も必然的ではない、生成 よーーー偽りの命題と真の命題とに関するエ。ヒクロスの説はこする以前において必然的であったのでもない、なぜなら必然
普通ひとびとは或る年ごろにはとくに希望が豊かであるとの減びは必至である。彼の魂の絶望は、絶望しながら、絶望 考える。あるいはまた、ひとは自分の生涯の或る時期には希することの許しを得ようとしてたたかう。 ( いってみれば ) 絶望へのいこいを求めて、全人格を絶望に一致させ絶望に同 望も可能性も非常に豊かであったというようなことを言う。 意させようとして、彼の魂の絶望はたたかう。そこで彼は、 けれどもこういうことはすべて人間的な言いぐさにすぎない のろ のであって、真実にまで到達していない。そういう希望はま彼の絶望を妨げようとする試みを何ものにもまして激しく呪 だ真の希望ではなく、そういう希望に絶望することはまだ真うことであろう。「絶望にいたるこの快き道から予をつれさ る者よ、呪われてあれ」と、詩人の中の詩人は、その不幸な の絶望ではない。 決定的なのは、神にとってはいっさいが可能であるという英雄に叫ばせている ( リチャード二世、第三幕第二場 ) 。し たがって人間的にいえば、この場合、救いは何よりも不可能 ことである。このことは永遠に真理であり、したがってまた なことである。けれども神にとってはいっさいが可能であ あらゆる瞬間ごとに真理である。だれでもそういうことを口 る。これが信仰のたたかいである。いってみれば、可能性の にするが、それはただひとがそう言っているからにすぎな ための狂おしいたたかいである。というのも、可能性こそが けれども人間がぎりぎりのところまでおしつめられて、 彼にはもはや ( 人間的な意味では ) いかなる可能性も存在し唯一の救いであるからである。だれかが気絶したときには、 ひとびとは水やコロン水やホフマン氏液を持ってこいとい なくなったときに、はじめてこのことが真剣な問題になる。 ひん う。だが、だれかが絶望に瀕しているときには、「可能性を 神にとってはいっさいが可能であるということを、彼が信じ 見いだせ、可能性を見いだせ、可能性が唯一の救いだ」と言 ようとするかしないかが、そこでは問題になる。要するに、 うべきである。一つの可能性。それがあれば絶望者はいきを 彼が信じようと欲するか欲しないかが問題なのである。だ ふきかえし、蘇生する。可能性なくしては、人間はいわば呼 が、それではこのことについての知識をまったく失うことに なりはしまいか ときには、ここで可能性を見いだす しかり、信じるということは、神を得んが吸することもできない。 のに、人間の空想の力だけでまにあうこともある。だが最後 ために知識を失うことである。 或る人間が何か或る恐るべきことがらを、これだけは絶対には、神にとってはいっさいが可能であるということのみが に耐えられないとして、それを思い浮かべることすら極度に救いとなる。そのときはじめて信仰が問題になる。 恐れている場合を考えてみるがいい ところがいまそれが彼 かくしてここに、たたかいがはじまる。たたかう者が破減 の身にふりかかってくる。ちょうどこの恐るべきことが彼のするかしオカ 、よ、は、ただただ、彼が可能性を見いだすかいな 身の上におころうとしているのである。人間的にいえば、彼力しいかえれは彼が信じるであろうかいな力にかかってい 、 0
くから注意されなければならないのは、われわれは魔的なもである。自由が不自由として措定されているのである・とい のにすでにわれわれがしつらえた座席を指定してあるという うのは、自由が失われているからである。自由の可能性が、 ことである。無責においては、魔的なものは問題となりえな ここでもまた不安なのである。だが、それとこれとの相異は 。他面、悪への身売り証文などといったような、それによ絶対的である。なぜなら、自由の可能性がここでは不自由に ってその人間が徹底的に悪くなったというようなものについ 関連してあらわれるのであるが、この不自由は、自由へ向か ての空想的な表象は、、 しっさい、棄ててもらわなければなら うべき規定であるところの無責とは正反対のものなのだか ない。あの古い時代の厳格な処置における矛盾は、これ〔前ら。 述の空想的な表象〕に由来するのである。彼らはこのようなも 魔的なものは、自己のうちに閉じこもろうとする不自由で のを想定していながら、しかも処罰しようと意図したのであある。しかしながら、このことは不可能なことであり、かっ る。しかしながら、その罰そのものは、なんとい「ても単な不可能なことにとどまるのであ 0 て、その不可能性はいつで る正当防衛ではなく、同時に ( ゆるい罰によ 0 て該当者をもひとつの関係を保持しており、たとえその関係が一見した か、それとも死刑によ「て別の該当者をか ) 救済することをところではま 0 たく消失しているときでさえも、それは依然 めざしていた。しかし救済が問題になりうるようだと当人は として存在しており、そしてそれとの接触の瞬間にはたちど 完全には悪の支配下には入っていなかったわけであるし、ま ころに不安が姿をあらわすのである ( 前に新約聖書の物語を た完全に悪の支配下に入っていたのだとすると罰することは 機縁にして述べたところを参照していただきたい ) 。 矛盾である。ここでもしも魔的なものはどの範囲まで心理学 魔的なものは閉じこもっているものであり、そしてみずか 的な間題であるかという質問が提起されるとすれば、私は、 らの意に反して顕わになるものである。これら二つの規定は 魔的なものはひとつの状態であると答えなければならない。 同一のことを意味すべきものであり、事実また同一のことを この状態から、個々の罪ある行為が不断に発現しうるのであ意味している。なぜなら、閉じこも「ているものは沈黙して る。しかしその状態はひとつの可能性である、無責とくらべ いるものにほかならないし、その沈黙しているものが自分を る場合にはこれまたすでに質的飛躍によ 0 て措定されたひと表明させられる場合には、そのことはみすからの意志に反し つの現実性であることはもちろんであるが。 て起らなければならないからである。すなわち、不自由の基 魔的なものは善に対する不安である。無責においては自由底に横たわ「ている自由が、外部にある自由と通じ合うこと が自由としては措定されておらず、それの可能性が個人にお によって反乱をおこし、そしていまやその不自由を、不安の いて不安なのであった。魔的なものにおいてはその関係が逆なかでみずからの意志に反して自分自身を暴露するのが当の
かの破減から救いうるための信仰の可能性がそこには欠けて増すだけ、それだけ絶望の度は強くなる。このことはいたる いるのである。 ところに見られるが、わけても絶望の最高度と最低度におい それにしても運命論や決定論は、まだ可能性に対して絶望て最も明瞭に見てとれる。悪魔の絶望は最も度の強い絶望で するに足るだけの空想をもっており、不可能性を発見するにある。なぜなら、悪魔はまったくの精神であり、そのかぎり において絶対の意識であり、一点の曖昧さもなく、酌量の余 足るだけの可能性をもっている。ところが俗物根性は平几な もののうちに安んじている。だからそれがうまくいっていよ地がないからである。それゆえ、悪魔の絶望は、絶対の傲慢 である。これが絶望の最高度である。絶望の最低度は、 ( だ うといまいと、ひとしく絶望の状態にある。運命論や決定論 には、必然性をゆるめ、それをなごめるための可能性、すなれしも人情としてそう言いたくなるだろうが ) 一種の無邪気 わち緩和剤としての可能性が欠けているのであるが、俗物根さから、自分が絶望していることすら知らないでいる状態で かくせいぎい 性には覚醒剤としての可能性が欠けている。というのも、俗あり、したがってそれは意識の最低度と一致する。そこでは ろう がいぜんせい 物根性は可能性を、蓋然性というおとし穴もしくは座敷牢にそのような状態を絶望と名づけていいかどうか、ということ さえも、観察者にとっては問題なくらいである。 おびきいれたつもりでおり、可能性を蓋然性の檻にいれて引 みせもの きすりまわし、見世物にし、それでもって可能性のおそるべ 、いかえれ 絶望であることを知らない絶望。 き弾力を意のままにすることができると思いこんでいるので ば、ひとが自己を、しかも永遠的な自己を、も あるが、実はそれによってただ自分自身が檻に入れられ、結 っているということについての絶望的な無知 局、精神喪失の奴隷となり、何よりもあわれむべきものにな りさがっていることに、気づいていないからである。必然性 ずぶと こういう状態がやはり絶望であり、絶望と呼ばれてしかる を失った者は絶望の図太さによって現実を飛びこえる。可能 、意味で真理の自己主張といわ べきであるということは、しし 性を失った者は愚かな絶望のうちにあって現実にくじける。 俗物は必然性も可能性ももたずに、みずから満足して精神喪れていることがらのあらわれである。真理はそれ自身と虚偽 とをわかっ指標である。しかしむろん、ひとびとはかかる真 ュ失の勝利を祝う。 理の自己主張に気づいていない。一般に人間は真なるものヘ 死 の関係をけっして最大の善だとは考えていないので、誤謬に 意識という規定のもとにおける絶望 捉えられていることをソクラテスのように最大の不幸だと思 べき う者もない。そういうひとたちの場合には、たいてい感性的 意識の度は、いわば絶望の羃の指数である。意識が増せば おり
ぞくぶつこんじよう んなる可能性においても生きることができない。のちの場合 俗物根性とか、平凡ということにも、本質的に可能性が欠 には人間はいわば蒸発し、さきの場合には人間は凝結する。 けている。もっとも、この場合にはすこし事情がちがう。俗 決定論者、運命論者は、絶望し、神を失い、かくして自分の物根性は精神喪失であり、決定論、運命論は精神の絶望であ 自己を失っている。神をもたない者は自己をももたない。と る。だが精神喪失ということもやはり絶望である。俗物根性 ころが運命論者は神をもたない。神にとってはいっさいが可は、ありそうなものだけにとらわれている。そこには可能的 能であり、したがって神は人間にとって、いっさいが可能でなもののはいりこむ余地がすこしばかりある。けれどもいっ あるということそのことである。運命論者にとってはいっさ さいが ( ありそうにもないものや、不可能なものまでが ) 可 いが必然である。彼の神は必然である。 いいかえれば彼は神能であることには、俗物根性は思いいたらない。したがって また、神に気づくということもない。俗物はいつでもそうだ をもっていない。それゆえに運命論者の礼拝はたかが一つの 感嘆詞であり、本質的にはしかし無言の屈服である。運命論が ( たといビール店のおやじであろうと国務大臣であろう 者は祈ることができない。祈りは呼吸であり、可能性と自己と ) 空想ももたずに、ただああだとかこうだとか、どうなり の関係は、酸素と呼吸の関係のようなものである。しかしなそうだとか、えてしてこんなものだ、などといったようない がら人間はたんに酸素とか窒素だけを呼吸することができなろいろな経験の平凡な寄せ集めのなかに生きている。かくし いように、たんに可能性もしくは必然性だけでは祈りの呼吸て彼は自己自身と神とを失っている。なぜなら、人間が自分 の自己に気づくためには、彼が空想によって、ありそうなも をすることができない。祈りには、神と自己と、そして可能 性とがなければならない。いいかえれば、自己と、深い意味のの大気圏よりもさらに高く飛び立ち、そのうえに出で、あ らゆる経験の総量を越えることができるようになり、かくし での可能性とが必要である。というのも、神とはいっさいが 可能であるという意味であり、 しいかえれば、 いっさいが可て望みかっ恐れ、あるいは恐れかっ望むことを教えられると ころまでいかなければならない。けれども俗物は空想をもた 能であるということが神を意味しているからである。自己の ない。また、もとうともしない。空想は俗物にとってはいま 本質が根底からゆりうごかされ、その結果、自己が精神とな いましいそらごとにすぎない。したがって空想は彼に何も教 っさいが可能であることを理解したひとにしてはじめ て、神との関係にはいったひとといえる。神の意志は可能的えることができない。そこで、平凡な経験によるひとまねの なものであればこそ、私は祈ることができる。神が必然的な知恵を超越したひとたちを、人生が遇するに恐るべきものを ものでしかないならば、人間は本質的に動物と同じく言葉をもってするならば、俗物根性は絶望する。かくして俗物根性 もたない存在に堕するであろう。 は絶望であったことがあらわになる。神によって自己を何ら
けっしてない。したがって、騎士はすべてを記億しているでるにはあまりに誇りをもっているからである。彼はこの恋を いつまでも若々しいままでもちつづける。そして恋は彼とい 意よまさしく苦痛である。しかしそれ あろう。しかしこの記う。 っしょに歳を重ね、美しさを加えてゆくのである。しかし、 にもかかわらず、彼は無限の諦めにおいて人世と和解してい る。かの王女にたいする恋は、彼にとって永遠の愛の表現と彼の愛の成長には、なんら有限性の誘因を必要としない。彼 なった、宗教的性格をおびてきた、永遠なる存在者にたいすが運動をなした瞬間から、王女は失われているのである。彼 ェロス る愛に浄化された、すなわち、永遠者は、彼の恋の実現を拒は恋人を見たときなどにおこるあの色情的な神経のわななき みはしたけれども、しかしまた、愛の価値についての永遠なを必要としない。彼はまた有限なる意味においてたえす彼女 に別れをつげる必要もない、彼は永遠の意味において彼女を る意識として、もはやいかなる現実も彼から奪いとることの できない永遠性の形式において、彼を和解せしめたのであ記憶しているからである。そして恋人同士は、別れをつげる る。愚かな者たちや若い人々は、人間にはあらゆることが可とき、もう一度、これが最後と魅せられたようにいつまでも 能である、などと述べたてる。しかしこれは大きな誤りであじっとおたがいに顔を見合っているものだが、それにはじゅ る。精神的に言えば、あらゆることが可能である、しかし有うぶんな理由があることを、これが最後と恋人同士が考える ことに理由のあることを、彼はよく知っている、それはつま 限性の世界においては、可能でないものがたくさんある。し かしながら、この不可能なものを、騎士は、精神的に表現す り恋人同士があまりにも早くおたがいに忘れてしまうからな ることによって、可能にする、そして不可能なものを精神的のである。彼は、他人を愛するばあいにおいても、人は自分 に表現するのは、不可能なことを断念することによってなさ 自身で満足していなければならぬという深い秘密を理解して れるのである。彼を現実へ連れ出そうとしたのに不可能なこ いる。彼はもはや、王女がなにをしようと、それに有限な顧 ざしよう とにぶつかって座礁してしまったその願望が、こんどは、そ慮を払わない。そしてまさにこのことが、彼が無限の意味に の方向を内面に向きをかえるのである、しかしそれだからとおいて運動をなしたということの証明なのである。ここに一 むな にせもの いって、その願望は空しくなったわけでもなければ、また忘個人の運動が本物であるか贋物であるかを見分けるべき機会 れられてしまったわけでもない。あるときは、願望のえたい がある。ある人は、自分もこの運動をしたと信じていた。と のしれぬうごめきが彼のうちにおこり、このうごめきが追憶 ころが見よ、時がたち、王女は別のことをした。彼女は、た を呼びさまし、またあるときは、願望自身が追憶を呼びさま とえば、王子と結婚した。すると彼の心は諦めの弾力性を失 すのである。なぜならば、彼は、彼の人生の全内容であった ってしまった。これは彼がこの運動を正当におこなわなかっ ものが、つかのまの瞬間のことであったと考えて甘んじてい たことを示したものである。というのは、無限に諦めた者な
192 それゆえに過去のものは、かってそれが生成した時には必 ある。これ以外の仕方で信仰することは不可能である。危険を避 けようとするのは、水にはいる前に自分が泳げるということを確 然的ではなかったように、そしてそれを信じた同時代者、と 実に知っておこうとするようなものである。 いうのはそれが生成したことを信じた同時代者に対しては決 して必然的として自らを示さなかったように、どんな時にも 決して必然的とはならない。なぜなら信仰と生成とは互いに 付応用 相応じているのであり、存在を止揚する規定すなわち過去と 未来とにかかわり、また生成したものとして存在を止揚する 以上の事は単に歴史的なものについていわれたのである。 規定の下に見られたかぎりの意味での現在にかかわるのだか ( 原注一 ) 単に歴史的なものの矛盾はただそれが生成したということの らである。これに反して必然性のかかわるのは本質であり、 そして本質の規定とはまさに生成を排除するということにほみであり、これは生成一般にある矛盾である。けれどもここ で、何かあることが生成したことを理解するのは、生成する かならないのである。かって可能的なものが現実的となった、 その可能的なものを生み出した可能性そのものは生成したも前よりも生成した後の方が理解しやすいというような錯誤を のにいつも付き添っているのであり、たとい千年経った過去警戒するためである。かかる考えを抱く者は、それが生成し のものにでもなお付き添っているのである。そして後代の者たことを少しも理解していない。彼にあるのはただ現在眼の 前にあるものの知覚とその直接的認識とだけであって、そこ が再び、それは生成したのであるとするならば ( そうするの に生成は含まれていないのである。 はもちろん信ずることによってである ) 、その場合彼はその ここでわれわれの物語に、すなわち神がかって世にあらわ 可能性を反復しているのである。この際この可能性について れたというわれわれの仮定に戻ろう。単に歴史的なものにつ のさまざまの特殊な観念が間題となるかどうかはどうでもよ いては、すでにわれわれが見たごとく、同時代の者にとっても いことである。 後代の者にとっても直接的知覚ないし認識冫 こ対しては真に歴 AJ い - っこÄJ 原注一直接的知覚ないし認識は欺くことがない、 ( 六八 ) 史的とはなり得ないということがいわれるであろう。しかる はプラトンアリストテレス、も教えている。一いってはデカルト にかの歴史的事実 ( われわれの物語の内容であるところの ) も、ギリシャの懐疑家とまったく同様に、錯誤は意志が急いで結 は特別の性質を有している。というのはそれは単に歴史的な 論をひき出そうとするところから生する、といっている。右の事 柄は信仰に光を投ずるものである。人が信じようとする場合に事実なのではなく、一つの自己矛盾に根ざす事実だからであ は、彼は錯誤に陥る危険を冒しながらもなお信じようとするのでる。 ( このことはすでに、真接的同時代者と後代の者との間
余儀なくされる。こうした先駆的な方向づけは可能性におけ理由を思慮分別のなかに求め、いっそう思慮分別ある者にな る建設とのひとつの類比物であり、またそのような方向づけろうと努めることが可能だからである。信仰の助けをかりて は可能性によってでなくては起りえない。ところで、思慮分不安は個人を摂理のうちに安らうように教育するのである。 別がその無数の計算をなしおえて、その賭が勝っているとき不安が発見するもうひとつのものである責めに関しても同様 である。単純に有限性によって自分に責めがあることを学び そこに、その賭がまだ現実において負けるか勝っかして しまうまえに不安が出てくる、そしてその不安が悪魔にむか知る者は有限性で失われているのであり、有限的なもののう って十字を切る、そこではもう思慮分別には何もできない、 ちでは人間が責めあるものであるかどうかという問題は、外 思慮分別のどれほど狡猾な打算も、不安が可能性の全能によ面的な、法律的な、極度に不完全なやりかたによる以外には って作りあげる偶然に対してはあたかも冗談のように消え失断定されえないのである。それゆえ、みずからの責めを警察 せるのである。最もつまらないものにおいてさえも、個人が の判定や最高裁判所の判決との類比物によってしか学び知る 狡猾な、単に狡猾でしかないような転換をなそうとするや否べくもない者は、本来の意味では彼が責めあるものであるこ とを決して把握していないのである。なぜなら、或る人間が や、つまり何かからこっそり逃げようとして、そして現実は 不安ほどに峻厳な試験官ではないものだからそれが成功する責めあるものであるなら、彼は無限に責めあるものだからで という蓋然性が完璧にあるときでも、 そこにたちどころある。ところで、有限性によってしか建設されていないこう した個人が、警察の判定とか世論の裁定とかから彼が責めあ に不安があらわれるのである。問題になっているものがつま らないものだからといって不安が拒否されると、不安はそのるものとは断じられない場合には、彼は何かいっさいのうち で最も笑うべきまた最も惨めなものとなる。すなわち、大多 つまらないものを注目すべきものになす、マレンゴの村落が ヨーロ、 ( の歴史において注目すべき場所とせられたよう数の人々よりは少しはましだが、牧師さんほどりつばにはな かがみ に。つまり、この村落でかのマレンゴの大会戦がおこなわれっていないところの、徳の鑑というものになるのである。こ たからである。もしも個人がこうして自分自身によって思慮のような人間がどうしてその生活のなかで助けを必要とする 分別から乳離れさせられないならば、思慮分別からの乳離れなどということがあるだろうか、彼はほとんど生ぎているう は断じてうまくいくものではない。なぜなら、有限性はいつだちにさえ模範集のなかに組み入れられることが可能であるで って断片的にしか説明せず、決して全体的には説明しないし、 はないか。有限性からは多くのものを学ぶことができるが、 自分の思慮分別が常に的はずれになる ( 実際、こんなことさ はなはだいい加減で有害な意味において以外には不安になる え現実においては考えられないのだ ) ような人はむろんその ことを学ぶことはできない。 これに反して不安になることを まと
はまた不安をたずさえてもきた。要するに、罪の現実性は存 いから。その意味では罪業性はより強い或る力を得てきてい るのであり、原罪は増大しつつあるのである。いかなる不安続をもたぬ現実性なのである。一面においては、罪の連続性 はひとを不安がらせるところの可能性であり、他面において にもまるで気のつかない人々が存在するということは、もし は、救済の可能性がこれまたひとつの無であって、その無を もアダムが単なる動物であったならば、彼はいかなる不安も 感じなかったであろうということと同様に、理解されなけれ個人は愛しもし怖れもしているのであるが、それは個人たる ことに対する可能性の関係はいつもこうだからである。救済 ばならない。 が現実的に措定される瞬間に初めて、そのとき初めてこの不 その後の個人もアダムと同様に、精神によって担われるべ ( 六九 ) きひとつの綜合である。しかし、その綜合は派生的な綜合で安は克服される。人間の、また、被造物の憧憬は、ひとがよ く感傷的に考えているように、甘美なあこがれといったもの あり、そのかぎりでは人類の歴史がその綜合のなかにいっし ではない。実際、憧憬がそのようなものでありうるだけのた ょに措定されている。そして、その後の個人における不安の めにも、罪はすでに武装解除されていなければならなかった 多寡はこの点に存するのである。けれども、その不安は罪に 対する不安ではない。なぜなら、善悪の区別は一に自由が現であろう。誠実に罪の状態のなかに身をおくことを欲し、そ してどうすれば罪から救済されるという期待がありうるかを 実的となることによってのみ存在するものである以上、ここ にはまだ善悪の区別が存在しないからである。この区別がそ欲している者は、きっと私の言うことを是認してくれるであ こに存在するとすれば、それはただ或る予感された表象とろうし、官能主義的〔美的〕な厚かましさをいささかきまりわ して存在するだけのことで、しかもこれがまた人類の歴史に るく思うであろう。人間のうちにある罪は、期待ということ よってその量の多寡を意味することができるものなのであ だけが問題になるかぎりはまだ威力なのであって、当然のこ る。 とながらその期待を罪は自分の敵と解する ( このことについ その後の個人における不安が、習慣ーーーそれは第一一の天性ては後述する ) 。救済が措定されると、不安は可能性と同様 であることはいうまでもないが 、しかしひとつの新しい質で に背縫にやられる。不安はそれゆえ、正当に使用される場合 はなくて量的に増大したものにすぎない になぞらえられには、無に帰せられるのではなくて別の役割を演じるのであ - る人類の歴史にその個人が参与することの結果として、より る ( 第五章 ) 。 多く反省されたものであるということは、この場合にもやは 罪がみずからたずさえてもちこむところの不安は、もちる り不安が或る別の意味でこの世界にはいってくるということん個人自身が罪を措定するときにこそ最も手近に存在する からくるのである。罪は不安とともにはいってきた、 : 、 カ罪のであるが、しかしその不安は人類の量的な歴史における多