う状態にある男に出会ったとしたら、彼はあらんかぎりの威にふるまおうとするのを妨げようとするあの講話者のやり口 厳をととのえてその男の前に歩みより、次のように言うだろは、こつけいな矛盾である。 う、とわたしは思う。「かわいそうな男よ、なんじの心をそ それでは、アプラハムについて語ってはいけないのであろ のような愚かな思いにふけらせるとは ! 奇蹟などおこりは うか ? むろん語ってよい、とわたしは思う。かりにわたし しない。全人生がひとつの試練なのだ ! 」と。講話者は、そがアプラハムについて語ることになったら、わたしはまず試 ひる の心情を吐露していくにつれて、ますます興奮におちいり、 練の苦痛を描写するであろう。そのためにわたしは、蛭のよ くもん ますます自分自身がうれしくなることだろう。そして、アプうに、ひとりの父の悩みからあらゆる不安と悩みと苦悶とを ラハムの話をしたときには少しも充血に気づかなかったの吸い出して、アプラハムがいかに悩んだかを、しかし悩みな 冫いまは額の血管が膨脹するのを感ずることであろう。も がらもあくまでも信じていたということを、描写するであろ しそのあわれな男が落ち着きはらって、「だってあなたはこ う。あの旅は三日と四日めのかなりな時間がかかったこと、 の前の日曜日にそう説教なさったじゃありませんか」と答えしかもこの三日と半日は、わたしとア・フラハムとを隔てる たとしたら、おそらく彼は息もつけすロもきけなくなってし二、三千年の歳月よりも無限に長かったであろうことを、わ まうことであろう。 たしは思い出させるであろう。それからわたしは、これはわ まっさっ そこでわれわれはアブラハムを抹殺してしまうか、それと たしの考えなのだが、人間はだれでも、そのようなことをは も、彼の生涯の意義であるおそるべき逆説に驚くことを学んじめる前にまだあともどりできるということ、いつなんどき で、どの時代でもそうだが、現代でも、信仰をもっていれでも後悔して引き返すことができるということを、思い出さ ば、楽しくありうることを理解できるようにするか、してみせるであろう。こういうふうに話をすれば、危険もないし、 よう。ア・フラハムがとるに足りない人物でも、架空の人物で ア、、フラ ( ムと同じような試験をうけようなどという気を人々 も、うさばらしのための飾り物でもないなら、あのあわれな におこさせる心配もない、とわたしはおもう。ところが、ア 男がアプラハムのまねをしようとしたことに誤りがあるはずブラハムの廉価版を売りに出しておきながら、だれも彼もが : よい。むしろ、かんじんなことは、アブラハムのしたこと アブラハムと同じようなことをしようとするのを阻止しよう こころ がいかに偉大であったかを認識して、あのようなことで試験とするのは、笑うべきことである。 みられる使命と勇気とが自分にあるかどうかを、あの男が自 さて、わたしの狙いはアブラハムの物語のうちにある弁証 分で判断できるようにしてやることである。アプラハムをと法的なものを、いくつかの問題の形式で取り出して、信仰と るに足らぬ人物にしたてておきながら、ほかの男が同じよう いうものがいかにとほうもない逆説であるかを知ろうという ねら こころみ
しはわたしなりの生き方でけ 0 こうあまんじていられる、わかりにわたしがこうして ( 悲劇的英雄の資格で、というの たしは楽しく、満足している。しかし、わたしの喜びは、信は、わたしはそれ以上の高さにはのぼりえないからである ) 仰の喜びではない、信仰の喜びにくらべると、わたしの喜びあのモリアの山〈の旅のようなただならぬ王者の旅を命じら はやはり不幸である。わたしはわたしの些細な心配事で神をれたとしたら、わたしはどうするだろうか、わたしにはよく さまっ わかるのである。わたしは臆病にも家にとどまるようなこと わずらわしはしない。些末なことは、わたしにはどうでもか はしないだろう、道草をくったり、大道をうろっきまわった まわない、わたしはただ、わたしの愛のみをじっと見つめ、 その処女のような烙を純く明るくもちつづけるばかりでありもしないだろうし、また刀を忘れて少しでも猶予をかせご うなどともしないだろう。おそらく定められた時刻にきちん る。信仰は、神がどれほど些細なことをも心にかけたもうこ 、とわ とを確信している。わたしはこの世の生活では左手の結婚でと着いて、万端の準備をととのえるにちがいあるまい 満足する、信仰は謙虚にも右の手を要求する、このことが謙たしは思うーーそれどころか、わたしは早く苦境を脱け出せ 虚であることを、わたしは否定しないし、またけ 0 して否定るように、早めに行 0 たかもしれない。それから先どうする か、これもまたわたしにはよくわかる。馬にまたがった瞬間 することはないであろう。 に、わたしは自分にこう言うだろう、もうこれで何もかもお 現代では、だれでもがほんとうに信仰の運動をすることが できるのであろうか ? わたしのたい〈んな思い違いでなけしまいだ。神がイサクを要求せられた、わたしはイサクを、 れば、現代の人々は、わたしにはおそらくできはしまいと彼イサクとともにわたしのすべての喜びをささげたーー・・けれど も、神は愛である、そしてわたしにとっていつまでも変わり らが信じていることを、つまり不完全なことを、彼ら自身は なしうるとして、むしろ得意にな 0 ている傾きがある。偉大なく愛であられるであろう。思うに、この世では、神とわた なことを語るのに、まるで幾千年の歳月がおそろしく遠い距しとはたがいに語り合うことができないのだ、わたしたちは 離ででもあるかのような非人間的な言い方をするのは、じっ共通なことばをもたないのだ、と。当節では、偉大なことに のにしばしばおこなわれることであるが、わたしは大嫌いであご熱心ですいぶん馬鹿げたお方もそこここにおられることだ から、もしわたしがそんなことをほんとうにやったとした おる。偉大なことを語るには、それがまるできのうのできごと ら、わたしの行為はアブラ ( ムのなしたことよりももっと偉 れででもあるかのように人間的に語るのが、わたしにはいちば おん好ましい。そしてその距離がわたしの心を高めてくれる大であるなどと、自分でも思い込み、またわたしにもそう思 い込ませようとなさるお方が、ひょっとしたらおありになる か、それとも、わたしを断罪することになるか、とにかくそ あきら かもしれぬ。わたしの絶大な諦めはアブラハムの小心さなど れは偉大なこと自身にまかせておきさえすればよいと思う。 ( ニニ )
ってみれば、この書の著者には、自己のたどる運命を予見す うものを理解していないし、そんなものが現に存在している ることは、いともたやすいことなのだ。彼は完全に黙殺され かどうか、できあがっているのかどうかも知らない。彼の弱 るという自己の運命を予見する。あのおせつかいな批評家と い頭は、こんにちではだれもがあのようなおそろしく大きい うやつが繰り返しむし返しひつばたいてくれるだろうとい 思想をいだいているからには、その頭もさだめしおそろしく う身の毛のよだっ思いが予感できるのだ。そればかりか、も 大きいにちがいない、と考えるだけでもういつばいなのだ。 っともっと恐ろしいことに、熱心な記録係のだれかが、ハ一 よしんば信仰の全内容を概念の形式に翻訳することができた うの やから にしたところで、だからといって、信仰を把握したというこグラフを鵜呑みにする輩 ( トウロップが「趣味を救うために」一 高慢にも「人類の破滅ーに関する彼自身の草稿にたいして とにはならない。。 とうして人が信仰にはいったか、あるい ( 七 ) は、どうして信仰が人にはいってきたかを理解したことにな企てたと同じことを、学問を救うために、他人の書物にたい ふしぶし わノ十へ 1 ) よ、 0 ここなる著者は、けっして哲学者ではない、彼して企てようとつねに身がまえている輩 ) が、著者を節々に . 切り、刻み、しかも、句読点学に仕えようとして、自分の語・ は、詩的ナ上品ナ言イ方ヲスレ。ハ (poetice et eleganter) 、 一個のアマチュアなので、体系を書くことも、体系の予告をる一言葉を語の数で区分し、五十語で終止点、三十五字でセミ、 書くこともできないし、体系に盲従するわけでも、体系を万コロンにしたあの男と同じように、根気よくやってくれるこ とを思っては、ここなる著者はぞっとするのである。 能の妙薬と考えているわけでもない。彼が書くのは、書くこ とが彼の余技だからで、彼の書くものを買って読んでくれるれかそういう体系の税関吏に出会ったら、わたしはうやうや 人が少なければ少ないほど、ますます愉快になるし、また余しく、足下にぬかずいて、こう言うばかりである。「これは 体系ではございません、これは体系などとなんのかかわりも 技の余技たるゆえんもいよいよ発揮されてくるからなのだ。 情熱というものを抹殺してしまって、ひたすら学問に仕えよありません。わたくしは体系の上に、この乗り合い馬車の株 . うとされる時代であってみれば、つまり、読者をかちえよう主であられるデンマーク国の人々の上に、あらゆる恵みのく、 だらんことを祈ります。なぜかと申しますに、それはとうて と思う著者なら、午睡のあいまにいい気持でパラバラと。ヘー の そび い聳え立っ塔とはなるまいからです。わたくしは、彼らすべ 9 ジがめくれるようなふうに書こうとひたすらいそしまねばな らず、まるであの新聞の広告欄にのるいんぎんな園丁の見習てに同じように、とりわけひとりひとりの人に幸福と祝福を れ そ 祈ります。」 しーっィー 、曽そっくりの格好で、帽子を片手にささえ、つい先ほど お 敬白 までの奉公先でもらったりつばな推薦状をかかえて、尊敬す 沈黙のヨハンネス べき読者にとり入ろうと骨を折らねばならぬような時代であ まっさっ ( 五 ) ( 八 )
ねくだけのことであろう。そして隔りがあるがためにのみ偉十人の残忍きわまる批評家たちのどなり声よりももっと恐る ふくしゅう ぜいげんろう 大でありうるもの、空虚でうつろな贅言を弄してなにか偉大しい、復讐をするのである。なるほどマリヤは奇蹟的に子を なものに仕立て上げられるようなもの、そんなものは、ひと生んだ、しかし、彼女もやはり世の常の女たちと同じに生ん だのである。そしてその時は不安と苦難と逆説の時である。 りで減びてしまうのである。 なるほど天使は奉仕する霊ではあったが、しかしイスラエル だれがこの世におい . て、あの恵まれた女、神の母、処女マ の他の若い娘たちのところへ行って、マリヤを軽侮してはな リヤのように偉大であったであろうか ? しかも人は彼女の ことをどう言っているか ? 彼女が、女の中の恵まれた者でりません、彼女には異常なことが起こっているのです、と告 あったということが、彼女を偉大にするのではない。そしてげるようなおせつかいな霊ではなかった。そうではなくて、 ( ニ四 ) 冫夛天使はただマリヤのところへ行っただけであった、そしてだ もし奇妙にも、聞くほうの者が話すほうの者と同じようこド 人間的な考え方をするようなことにならないとしたら、おそれもマリヤを理解することができなかったのである。 しいかなる女がマリヤほど心を痛めたであろうか ? そし らくすべての若い少女はこうたずねることだろう、どうして のろ て、神はその祝福する者を同時に呪うということは、ここで わたくしも恵まれた女にはならなかったのでしよう ? と。 もまた真ではないであろうか ? これがマリヤについて精神 そしてもしわたしがほかに言うべきことをもたなかったとし たら、わたしはそのような問いを愚問として頭からしりそけのくだす解釈なのである。それに、彼女はけっして、こうい 冫。しかないであろう。なぜかというに、抽象的に見うことを口にするのさえわたしは腹だこしいし、ましてやあ るわけこま、 おんちょう ると、恩寵ということに対しては、すべての人間が平等の権さはかにも、またみだらがましくも、そういう解釈が彼女に いっそうわたしは腹がたつの 利をもっているからである。苦難や不安や逆説が見落とされ 加えられてきたことを思うと、 てしまうのである。すると、わたしの考えはだれかの考えみ だが、彼女はけっして、おめかしをして神の子とたわむれる ような女ではない。それにもかかわらず、彼女があのとき、 たいに純粋になる。そしてそのようなことを頭だけで考える はしため ( ニ五 ) のことのできる者の考えはきっと純粋になるだろう。もし純粋かしこまりました、わたしは主の婢女です、と語ったとき、 おにならなかったとしたら、その人はじじっ恐るべきことを期彼女は偉大である。そして、なぜ彼女が神の母となったかを れ待しなければならないだろう。なぜかというに、そのような説明するのは困難ではないだろう、とわたしは思う。彼女は 」イメ 1 ジ この世の感嘆などを必要としないのである、それはちょうど お映像をひとたびいだいた者は、二度とそれからのがれること はできないからである。そしてもし彼がこれらの映像にそむアブラ ( ムが涙を必要としないのと同じことである。彼女は 女傑ではなかったし、また、彼は英雄ではなかったからであ くなら、それらの映像は、沈黙の怒りをもって、恐ろしい 0 一三 )
理解するであろう。なぜならソクラテス的に考えれば私は真の肖像を描いているであろう。この教師の姿を髣髴させ、年 理理解の条件を有しており、それを意志することができるは齢や気分がこの教師の外見に与えた変化のすべてを再現する ずだからである。しかし私がこの条件を有していないとすれような各種の肖像画をもっているかもしれない。もしも彼が これらの肖像画を眺め、かの教師はかかる姿をしていたと確 ば ( そしてわれわれはソクラテスに逆戻りしないためにかく 信するとするならば、彼はその眼を信じてもいいであろう 考える ) 、いかなる私の意志も何の役にもたたないのである、 か。もちろん、いけないわけがどこにあろう。しかし、だか たといこの条件が与えられれば直ちにソクラテス的なものが らといって彼は弟子であろうか。決して否。彼のほうは神の 真に成立するとしても。 カ神のほうは自らを思い もっとも、同時代に学ぶ者は、後代の者が非常に羨むに違姿を心に思い描くかもしれない。 : 、 いない一つの利点、つまりどこにでも行ってかの教師を見る描かせない。そしてこれこそ神が僕の姿としてこの世にあら では彼は彼のわれた理由にほかならないのである。しかもこの僕の姿は決 ことができるという長所を有してはいる。 して欺瞞ではなかった。もしも欺瞞であれば、かの瞬間は瞬 眼を信じていいだろうか。もちろん、いけないわけがどこに 間ではなく一つの偶然となり、単なる機会として、永遠的な あろう。しかしだからといって自分が弟子であると信じてい ものの前にはまったく消減してしまう一つの現象にすぎなく いであろうか。否、彼はその眼によって弟子であると信ずる なるからである。さらにもしも学ぶ者が自分のカで教師を思 ならば、彼が欺かれているのである。なぜなら神は直接に見 い描くことができたとするならば、彼は初めからそのための られるものではないから。それならば眼を閉じればどうであ ろうか。これは実に正しいことである。しかしそうすれば彼条件を自己自身に所有していたことになる。この時彼に必要 なのは、彼自身本当は神について何一つ知らないにしても、 は同時代者であるということからいかなる利益を得ることが できるだけの範囲で神の姿を思い描くことを思い起こさせる できようか。眼を閉じても彼は心に神を思い描こうとするで あろう。しかしそれがもしも彼自身のカでできるならば彼は機縁のみなのである。が、もしそうであれば、この機縁はた 初めから神を理解する条件をもっていることになる。彼が思ちまち永遠の可能性のうちの一つの原子のごとく消減してし 断い描く姿は魂の内部の眼にうつる姿であろう。心でこの姿をまう。すなわち初めから彼の魂の中にあった永遠的可能性が 学見ているならば、眠を開くや否や眼にうつる僕の姿は彼を狼この時現実的となるのであるが、しかも現実性としての自己 狽させるであろう。さらに進もう。かの教師も時がくれば確自身を再び永遠的に前提することとなるのである。 学ぶ者は、では、いかにして信仰者すなわち弟子となる かに死ぬ。で、今や彼は死んだとする。そうすれば彼と同時 代であったものはどうするであろうか。恐らく彼はこの教師か。理性が斥けられ、あの条件を与えられることによって。
するのは、きわめて困難なことだからである。この困難さを れたのだが、その言うところは、心理学的関心をもって、 カッ 心にとめながら、もっとも天才的な作家たちの作品のいくっ 「ナニカ狂気ヲトモナワナイ偉大ナ天才トイウモノ、 かを熟読するならば、むろん、たいへんな努力を要すること テ存在シナカッタ」という古いことばの意味にこれを深化し て考えてもらえば、その完全な意義を得てくるのである。とではあろうが、おそらく、ところどころに、何ものかを発見 いうのは、この狂気 (dementia) は、人世における天才のすることができるにちがいない。 苦悩であり、天才的なものが神の偏愛の表現であるのにたい わたしは、もう一つ別の場合を考えてみたい。すなわち、 しっと して、こう言うことが許されるなら、狂気は神的なる嫉妬の個別者が隠れていることによって、また沈黙によって、普遍 表現だからである。それだから、天才は最初から普遍的なも的なものを救おうとするような場合である。そのような場合 のとの関係においてまちがった方向をとっており、逆説とのとして、わたしはファウストの伝説を用いることができる。 関係におかれているのである、この場合、天才は、自己の限 ファウストは懐疑者である、肉の道を歩む精神の背教者であ 界に絶望して、彼の目には自己の全能が無力に変じて映り、 る。これが詩人の意見である。そして、どの時代もそれそれ 悪魔的な慰安を求め、そこでこの絶望状態を神に対しても人のファウストをもつ、ということが繰り返し繰り返し言われ 間に対しても認めようとしないか、それとも、神に対する愛ているのに、あらわれる詩人もあらわれる詩人も、先人に歩 のうちに宗教的な安らいをうるか、そのどちらかとなる。こみならされた同じ大道を、あきもせずに、みんながたどって フ こには、喜んで全生涯をささげてもよいとわたしには思われゆくのである。わたしは少しばかり変更を加えてみたい。 るほどの、いろいろな心理学的な問題がある。けれども、こ アウストは懐疑者ノナカノ ( ミき ) 懐疑者であるが、 ういう事柄について語られるのを耳にすることは、きわめてしかし、彼は同情的な性格の人物である。ゲーテのファウス まれ 稀である。狂気と天才とよ、 。いかなる関係にあるのであろう ト解釈においてさえ、懐疑の自己みずからとの秘密な会話へ か、一方は他方から作られるのであろうか、いかなる意味のいっそう深い心理学的洞察が欠けているように、わたしは で、そしてどの程度まで、天才は彼の狂気の支配者なのであ思う。現代では、万人が懐疑を体験しているというのに、こ ろうか。というのは、天才がある程度まで狂気の支配者であの方向に歩みを進める詩人がまだ一人もあらわれていない。 ることはわかりきったことだからである。だって、もしそうそこでわたしは、彼らに国家の保証を与えて、彼らがこの門 でなければ、天才はほんとうの精神病者になってしまうだろ題について体験した多くの事柄を残らず書かせてみたいもの うではないか。 しかし、このような観察には、高度の賢明さ だと思うーーーそれでも彼らは、余白のいちばん上のほうをや と愛情とが必要である。なぜかというに、卓越した人を観察っと埋める程度のことしか書きはしないだろう。 ( 三三 ) ( 三四 )
210 人間の関心をひき、その福祉を歴史的なものとの関係におい て基礎づけるところの唯一のものである。いかなる哲学も ( なぜなら哲学はただ思惟にとってのみ存在するのだから ) 、 いかなる神話も ( なぜならそれは単に空想に対してのみ存 在するのだから ) 、またいかなる歴史的知識も ( なぜならそ れは単に記億にとってのみ存在するのだから ) 、かかること に考え及ばなかったのであり、かかることは人の心いまだ 思わざりしところ、と言ってもいい程である。しかし私はこ かかる企図は、言うまでもなく、ソクラテス的立場を遙か のことをある程度まで忘れられれば忘れたいと思ってきたの に超えており、このことはあらゆる点からすでに明らかであ である。私は自由な仮説の形式を用い、こういったことすべる。だからと言って、これがソクラテス的立場よりも正しい かどうか、ということは全く別の問題であって、同じ呼吸で ては私の風変りな思いっきだというふうにしてきた。そして 私はこの風変りな思いっきを十分に考えぬかないうちは捨ては論じられない。なぜならここでは、信仰という新しい器、 罪の意識という新しい前提、瞬間という新しい決断、そし ようとは思わないのである。僧侶たちは決して世界史を終り まで語ることがない。彼らはいつも世界の創造から始めるかて、時間の中の神という新しい教師が登場してきたからであ キリスト らである。もしも基督教と哲学との関係を語る場合に、まずる。そうでなかったならばとうてい私は、幾世紀にもわたっ 今までにそれに関して語られてきたことを初めから述べなけて尊敬されてきたあのイロニカー、恍惚と胸をおどらせなが ればならぬとしたら、どうしてーー終りに、ではなく、初めらでなければ近づいてもゆけない彼の前に出て、あえてその そのものに達し得るであろうか。なぜなら歴史はたえず生長検査を受けようなどということは決してできなかったであろ う。しかし、ソクラテスを超えて先に進もうとしながら、し してやまないからである。そしてもしも「かの偉大な智者に かも本質的には同じことを、彼ほど立派にではなく語ろうと して賢者なる新しき契約の執行者ポンテオ・。ヒラト」から始 めて、基督教と哲学との関係に関して ( この両者を綜合しなするならば、それはすくなくともソクラテス的ではないので いまでも ) さまざまの方法で貢献した人々について語ろうとある。 すれば、そしてこういった人々から始めるよりも前に説教壇 からすでに何度も出版を予告されているあれこれの決定的研 究 ( おそらくは体系 ) がすべて完成するまで待たなければな ( 八四 ) ( 八三 ) らないとするならば が出来ようか。 モラル いったい何時になったら始めること
と、思われるほどである、それほど彼はきちょうめんなのして待っているとしたら、彼が食事をしてるところを見たい だ。日曜日には、彼は休息する。教会へ行く、天国の眼差ものだ、きっと、上流社会の人々にとっては、じつにうらや も、この世の尺度で量れないもののしるしも、彼の姿には見ましい光景であろうし、平民にとっては、感激をさそう光景 おうせい られない。彼を知っている人でなかったら、群衆の中から彼であろう。彼の食欲はエサウの食欲よりも旺盛だからであ を見つけだすことなどとてもできないだろう。たかだか、賛る。彼の妻がご馳走をこさえて待ってはいないとする、 美歌を歌う彼の健康な力強い声が、りつばな胸の持ち主であじつに奇妙なことだがーーそれでも彼はまったく同じことな ふしんば のである。帰りの道で、彼はある普請場を通りすがる、彼は ることを証明しているくらいのものだからである。午後にな もひとりの男に出会う。一一人はちょっとのあいだ話し合う、 ると、彼は森へ出かける。目にとまるあらゆるものを見て、 ( 三 0 ) するとたちまち彼はりつばな建物を一つ建ててしまう、彼は 彼は喜ぶのである、人ごみでも、新しい乗り合い馬車でも、 海峡でも。ーー・海浜道路を歩いている彼に出会ったら、思う建築に必要ないっさいの資力を思いのままに調達してしま あきんど う。あの人はきっと大金持ちなんだ、と考えながら相手の男 ぞんぶん遊びつくした商人ではあるまいかと思われるばか り、それほど彼はうれしそうである。思うに、彼は詩人では は別れていく、ところがわが驚嘆された騎士のほうは考え ない、わたしは彼のなかに詩的な量りえぬものを嗅ぎだそう る、なあに、お金くらい必要とあれば、わけなくできるさ、 としてみたが、むだであった。夕方ちかくなると、彼は家路と。彼は開いた窓ぎわに横たわって、自分の住居に接する庭 どぶいた につく、彼の歩みはいそいそとして、まるで郵便配達夫のよをながめる。どぶねずみが溝板の下へこそこそと匐い込む、 うである。道すがら彼は考える、自家へ帰ったら、きっと女子供らが遊んでいる。こうした、そこで見られるあらゆるこ とに、彼は十六歳の小娘みたいに、人の世の安らかさを覚え 房が、とっておきの暖かい小料理をこしらえて、たとえば、 あぶ ながら、夢中で見入っているのである。けれども、彼は天才 小羊の頭の炙り肉に野菜をそえたといったような料理をこし ではない、わたしは天才のもっ量りがたさを彼から嗅ぎだそ らえて、待っているだろうと。もし同じようなことを思って ( 三ニ ) いる人に出会ったら、おそらく彼はエスターポールのところうとしてみたが、むだであった。夜になると、彼は一服たば までその男といっしょに、料理屋さんならふさわしいと思わこをふかす、もしその姿を見る人があったら、向こう側で、 やみ ちそう れるような情熱をこめて、そのご馳走の話をつづけることだ豚肉商人が暗のなかでぼんやりしているのだと信じて疑わな ( 三三 ) いことであろう。彼は、まるで屈託のないのらくら者ででも ろう。たまたま彼には四シリングのお金もない、それだのに 彼は、妻がそういうおいしい料理をこしらえて待っているもあるかのようなのんきさで、ものごとにこだわらない。けれ のと、固く堅く信じている。もし彼の妻がそういうしたくをども彼は、彼の生きる一瞬一瞬において、時をえた時間をこ ( 三四 )
110 個の生涯にとっては、つねに手いつばいだからである。子供 た人たちの生涯にはとうてい比べられないまでも、彼の生涯 らがお休みの日に、まだ十二時にもならぬうちにもうありと もまたむだではなかったことになるであろう。しかし信仰に あらゆる遊戯を遊びつくしてしまって、そこでもどかしげ達した者は ( 格別に才能に恵まれた人であろうと、愚鈍な人 に、なにか新しい遊戯を考え出してくれる人はいませんか、 であろうと、それは事態になんのかかわりもない ) 、信仰で と言うとしたら、いったいこれが、知っている遊戯だけでま とどまることをしないのである、それどころか、立ちどまれ る一日を費やして満足していた同じ世代または過去の世代のなどといわれたら、彼は憤慨するにちがいない。それはちょ 子供たち以上に、彼らのほうが発達し進歩しているというこ うど恋をしている男に向かって、おまえは恋にとどまってい との証明になるものであろうか ? むしろこれは、わたしが る、といったら、彼が怒るだろうと同じことである。なぜか 楽しい真剣さと呼びたいと思う、遊戯に必要なあの真剣さ というに、ぼくは恋に生きているのだから、けっして立ちと が、かの子供たちに欠けていることを証明するものではない どまってはいないのだ、と彼は答えるにちがいないからだ。 であろうか ? けれども、彼はその先まで進むわけでもない、何か別のもの 信仰は人間のうちにある最高の情熱である。おそらくどの に達するわけでもない、なぜかというに、もし彼が別のもの 世代にも、信仰にさえ到達しない人がたくさんいることであを発見すれば、彼はまた別の説明をするはずだからだ。 ろう、しかし、その先まで達したなどという人は一人もいは 「さらに先へ進まねばならぬ、さらに先へ進まねばならぬ。」 1 ) よ、 0 オしはたして現代にも信仰を発見しない人がたくさんい さらに先へ進もうというこの衝動は、昔から世にあるもので るかどうか、そんなことをわたしは決定しようとは思わなある。かの暗き人へラクレイトスは、自己の思想を書物に書 、わたしはただあえてわたし自身を引き合いに出すばかりきおろして、その書物をディアナの神殿にささげた ( という りようえん である。そのわたしは、信仰への道は遼遠だ、と隠さず申しわけは、彼の思想は人生における彼の武器であった、それ 述べておく。といって、偉大な事柄をば、そんなものはできで、彼はこの武器を女神の神殿にささげたのである ) 、この るだけ早く克服してしまいたいと願わずにはいられぬ何か些暗き人へラクレイトスは言った、人は一一度と同じ流れを渡る 細なことであるとか一種の小児病であるとかときめつけて、 ことはできない、 と。暗きへラクレイトスには、一人の弟子 それで自分自身や偉大な事柄を欺こうなどと願っているわけがあったが、この弟子はそこで立ちどまらないで、さらに先 でもない。しかしいまだ信仰にすらいたらない者にも、人生へ進み、そして付け加えて言った、いや、一度だ「て渡るこ はじゅうぶんの課題を与えてくれる。そしてもし彼がこの課とはできはしない、と。あわれ、ヘラクレイトスよ、さよう 題を誠実に愛するなら、もちろん最高のことを理解し把握し な弟子をもっとは ! ヘラクレイトスの命題は、この改良に ( 三 )
456 つまず 第一部のほうで、絶望はその度が強くなれば強くなるほど まったく別の意味においても、躓きの可能性、逆説を、その しよくざい うちに含んでいる。このことは贖罪の教えのうちにあらわれ世間ではまれにしか見られないものであることを、注意して る。ますはじめに、キリスト教が出てきて、人間の理解力でおいた。ところがここで、罪は絶望の度が質的にもう一だん はつかめないほどしつかりと、罪を積極的なものとしてうちと高まったものだということになった。そうなると罪はごく まれにしか生じないことになりはしないか。実に妙な難点で たてる。そのうえで、ふたたびこの同じキリスト教が、人間 の理解力ではけっしてつかめないようなしかたで、この積極ある。キリスト教はすべてを罪のもとにおく。しかもわれわ 的な罪をとりのぞくことをひきうける。多々ますます弁じてれはキリスト教的なものをできるだけ厳密に叙述しようとっ 逆説を葬り去る思弁は、どちらの側でも何かを取り落とすのとめてきた。その結果、こういう変わった結論が出てきた。 で、万事がすらすらと運ぶ。それは罪を概念的に把握できな罪は異教のうちにはむろんまったく見いだされない。ただュ いほどに積極的なものとすることもないし、また罪を概念的ダヤ教とキリスト教においてのみ、それもしかし、ごくまれ に把握できないほどに忘れさせることもない。しかし、逆説にしか見いだされない。という変わった結論である。 の最初の発明者たるキリスト教は、この場合にも、およそあ それにしてもこのことは、ただ一つの意味においてのみ、 りうるかぎりの逆説的なものであることがわかってくる。キまったく正当である。「ひとが神の啓示によって罪の何たる リスト教はいわば我れとわが身にさからうようなことをすかを知ったのちに、神の前に絶望して彼自身であろうと欲し る。というのも、それはまず罪を積極的なものとして、しつ ないこと、もしくは、絶望して彼自身であろうと欲するこ かりうちたてるものだから、もう一一度とふたたびそれをとり と」これがすなわち、罪をおかすということである。またた のそくことはとうていできそうにもないように思われる。と しかに、人間はこの定義が自分にびったりあてはまっている ころが、その同じキリスト教が、ふたたび罪を、贖罪によっ と自分ではっきりそう思うほどまでに成長することはまれで て、さながら海へでも沈めるように跡かたもなく拭い去ってある。しかしそこで、このことからどういう結果が出てくる しまおうとするからである。 というの であろうか。その点に注目しなければならない。 も、このところに独自の弁証法的転回があるからである。人 e< の付論しかしそうすると罪は或る意味 間が度の強い意味では絶望していないからといって、彼が絶 できわめてまれなものにならな 望していないということにはならない。反対に、さきにも示 、よ、まとんどすべての 冫ナし力いの人間がしオ されたようこ、 いだろうか ( 道徳 ) 人間が絶望している。ただ絶望の度が低いだけのことであ