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検索対象: 世界の大思想24 キルケゴール
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1. 世界の大思想24 キルケゴール

間が自分の認識をくらますためにやったその行為のうちに根がはじめてあらわれてくるその最初の状態、原罪の教義によ ざしているのでなければならない。 ってキリスト教的に説明されるあの最初の状態には、ソクラ テスはぜんぜん足を踏みいれない。 ( われわれのこの研究で だが、このことが認められたとしても、なお頑固で執拗な 難点がふたたび生じてくる。というのは、こういう問題であは、ただその教義の境界にふれるだけである ) 。 る。人間は、自分の認識をくらましはじめたその瞬間に、自 それゆえ、実のところソクラテスは、ぜんぜん罪を規定す 分がそれをくらましているのだということを明瞭に意識してるまでにいたっていない ( 罪を定義する場合にはこれが一つ いたかどうか。彼がそのことを明瞭に意識していなかったとの難点になる ) 。どうしてであるか。罪が無知であるとすれ ば、本来いかなる罪も存在しないことになるからである。罪 すれば、彼が認識をくらましはじめるまえに、すでに認識が いくらかくらまされていたことになる。かくして、彼の無知はまさに意識であるからである。人間が正しいことを知らな いために不正をなすというのが罪であるならば、罪などとい が根原的なものであるか、それとものちになってはじめてあ うものは存在しない。そういうことが罪だとすれば、ひとが らわれてきたものであるかという問題は、ただ元へおしもど されたにすぎない。 これに反して、人間が自分の認識をくら正しいことを知っていながら不正をなすとか、或ることを不 ましはじめたときにそのことを明瞭に意識していたのだとす正であると知っていながらその不正をあえてする、というよ うなことはありえない、と考えられるであろう ( 事実、ソク れば、罪は ( 無知が罪の結果であるかぎり、無知についても ラテスはそう考えた ) 。そこで、罪のソクラテス的な定義が いえることだが ) 認識のうちにあるのではなくて、意志のう 正しいとすれば、罪などというものはそもそも存在しない。 ちにあることになり、そこで、認識と意志との相互の関係が 問題になる。すべてこのようなこと ( こうして問題を進めてけれども、正しいことを知っていながら不正をなすとか、不 いけば日が暮れてしまう ) に関しては、ソクラテス的な定義正を知っていながらその不正をあえてするということは、キ リスト教的に見れば、まったく当たりまえのことであって、 ソクラテスはた はもとより何らあすかり知るものではない。 いっそう深い意味でまったく正当なのである。このことが、 しかに倫理学者であった。けれども彼は無知からはじめる。 キリスト教的な関心において、証明されなければならなかっ 人間は何も知らないというかかる無知をめざして、ソクラテ た点である。キリスト教が最も決定的に、質的に異教から区 スは知的に進んでいく。倫理的にいえば、彼は無知というこ とばによってまったく別の或るものを考えている。そして彼別されるゆえんのものは、まさに罪、すなわち罪に関する教 はそこからはじめる。それゆえ、彼はキリスト教の出発点と説にある。それゆえ、キリスト教が、異教徒や自然的人間は なっているものの研究には、ぜんぜん足を踏みいれない。罪罪の何たるかを知らないと見なしているのも、もとより首尾

2. 世界の大思想24 キルケゴール

けいがん 思わない、また決定することもできない。思想をかかる弁証そしておそらくは一種の慧眼と賢い打算によって、また心理 学的な見とおしから、わざとそうしているのかもしれない。 法的な尖端にまで追いつめることはさておいて、われわれは しかしそれにしても、他の意味では、自分が何をやっている ここではただ、絶望についての観念の程度には非常に差異が か、絶望していかなるふるまいをしているかということを、 あり、したがってまた自分が絶望の状態にあるということの 意識の程度にも非常に差異がありうる、ということに注意し彼ははっきり意識していないのである。 べき しかしながらさきにも述べたように、意識の度が絶望の羃 よう。人生はきわめて多様であり、たんに無意識的な絶望と を高める。或るひとの絶望についての観念が真であればある 意識的な絶望といったような抽象的対立のあいだを動いてい だけ ( 絶望のうちにとどまっていることには変わりがないに るのではない。絶望者は多くの場合、自分自身の状態につい て、あれこれのニュアンスをもった一種のたそがれの意識のしても ) 、また彼が自分の絶望していることについてはっき なかに生きている。彼はおそらく或る程度までは、自分が絶 り意識していればいるたけ ( やはり絶望のうちにとどまって 望していることを自分で知っている。ちょうどひとが自分の いることには変わりがないにしても ) それだけ絶望の度は強 うちに病気のあることに自分で気づくように、彼は自分自身くなる。自殺が絶望であることを意識しながら、そのかぎり で絶望に気づく。けれども、彼はときとして病人と同じよう において絶望についての真の観念をもちながら、それでもな に、自分にもともと欠けているものを正直に認めようとしな お自殺するひとがあるとすれば、そのひとの絶望は、自殺が 。或る瞬間には自分が絶望しているということが、彼にも絶望であることについての真の観念をもたすに自殺する者の わかりかけてくるのであるが、しかしつぎの瞬間には、自分絶望よりも、 いっそう度が強い。自殺するひとが自分の絶望 している状態についてはっきりした意識をもっていればいる の病気の原因が何か自分以外のものにあるような気がして、 それさえなくなれば絶望しないですむだろうと考える。ある だけ、それだけ彼の絶望は度が強い。反対に、絶望について いはまた、おそらく彼は気晴らしによって ( もしくは仕事やの観念がはっきりせす真実でないならばないだけ、また絶望 事業によって ) 自分の状態を自己自身に対してはっきりさせしている魂の状態がぼんやりしていてまぎらわしいものであ ないでおこうとするであろうが、その場合にも彼は、自分がればあるだけ、それだけ絶望の度は弱い。 そうするのは、ただ意識を、ほんやりさせるためだということ さて、つぎに私は、意識された絶望の二つの形を吟味して に、自分では全然気づかない。い ゃあるいは、彼がこうして いくことによって、絶望についての認識と自己の絶望状態に 仕事をしているのはそれによって魂をぼんやりさせておくたついての意識とがだんだんに上昇していくことを指摘しょ めだということに、もしかすると彼は気づくかもしれない。 いいかえれば ( それは同じことであるが、決定的なこと

3. 世界の大思想24 キルケゴール

哲学的断片 あるいは一断片の哲学 永遠的意識に対して歴史的出発点は存在し得 るか。この出発点は如何にして歴史的なもの 以上の意味を有し得るか。歴史的知識の上に 永遠の福祉を築くことは果して可能であるか。 ヨハンネス・クリマクス著 セ レン・キルケゴール刊 矢内原伊作訳 一八四四年コペンハーゲン

4. 世界の大思想24 キルケゴール

一貫した主張というべきである。キリスト教は、罪の何たる宣一言を聞くたびに、どれもこれも笑いと涙のたねならぬはな また多くの人々が ( 或る意味ではまったく当然なことだ かを明らかにするには神の啓示が必要であると考える。皮相 が ) この最高存在を抽象的に叙述する巧妙なしかたについて 的な考察がそう思いなしているように、異教とキリスト教と しよくさー のあいだの質的な差異をなすものは、贖罪の教説にあるのでも同様である。さらに、これらのあらゆる知識あらゆる理解 はない。もっと深いところからはじめなければならない。罪が人間の生活のうえに何らの力も及ぼさず、したがって彼ら から、罪に関する教説から、はじめなければならない。事の理解したことがすこしでもその生活にあらわされるどころ か、まるでその反対であることを見るにつけても、これまた 実、キリスト教はそのとおりやっているのである。だから、 この悲しむべくもまた笑うべ キリスト教が正しいと認めなければならないような罪の定義笑いと涙のたねならぬはない。 き矛盾をながめると、思わすこう叫ばずにはいられないであ を、もし異教がもっているとしたら、キリスト教にとって、 ろう。だが、いったいぜんたい彼らがそれを理解しているな これほど危険な抗議はないであろう。 では、ソクラテスが罪を決定する場合に、彼に欠けているんていうことがありえようか。いったい彼らはほんとうにそ 規定はなんであるか、意志、傲慢がそれである。人間が善をれを理解しているのだろうか。すると、あのギリシアの皮肉 なすことを意識的に放擲し、もしくは意識的に ( 正しいこと屋の倫理学者はこう答える。「わが友よ、むろん、そんなこと を知っていながら ) 不正をなすということを理解しうるにを信じてはいけない。彼らはそれを理解してなんかいない。 は、ギリシア的な知性はあまりに幸福であり、あまりに素朴 もし彼らがそれをほんとうに理解しているのだったら、彼ら であり、あまりに美的であり、あまりに皮肉であり、あまりの生活のうちにそれがあらわされたであろうし、自分の理解 に機知があり、そしてあまりに罪深くあった。ギリシア的精していることを彼らは実行したはずだ。」 神は、知性の無上命令を容認するものである。 してみると、ひと口に理解といっても、理解がちがうので 。なしか。たしかにそうだ。そしてこのことを理解した者は それにしてもここに含まれている真理を見のがしてはなら ない。むしろわれわれのような時代にはそれをし 0 かりと肝 ( 注意してもらいたいが、この理解は、それを理解していな いというところへふたたび戻ってくるような理解ではない ) 、 に銘じなければならぬ。われわれの時代はきわめて空虚な実 それだけで、このイロニーのあらゆる秘密にあずかったこと りなき知識のなかに迷いこんでしまっているから、当然、 絶まは ( ソクラテスの時代とま 0 たく同様に、いや、それ以上になるのだ。この矛盾をこそイロ = 1 は問題にする。或る人 間が実際に或ることを知らないというだけのことを滑稽だと に ) 、人間はすこしばかりソクラテス的に飢えさせられる必 要がある。最高存在を理解したとか把握したといったようなするのは、きわめて低級な滑稽であり、イロ = ーの名に値い

5. 世界の大思想24 キルケゴール

いことを理解していなかったのだ、と。 におこる ) 。だが、低いほうの性質の強みはそれを長びかせ まったくそのとおりだ。人間はそれ以上に進むことができ るところにあるからである。そのあいだ意志は見すごしにし ない。人間は、罪のうちにあるがゆえに、自分で自分から罪 ている。ただちにそれを欲するのでもなく、さりとてそれに 反対するのでもない。やがて認識がいい加減くらまされてしの何たるかを言いあらわすことができない。彼が罪について 語るすべてのことばは、ひっきよう、罪の弁解でしかない。 まうと、認識と意志とはお互いになれあうことができ、つい には両者がまったく一つになる。というのもいまでは認識はそれは言いわけであり、罪ふかい白ばくれである。それゆ え、キリスト教は、ただ神の啓示のみが罪の何たるかを人間 意志の側に移り、意志の欲するようにするのが正しいと認め に明らかにすることができる、というところからはじめる。 るからである。たいていの人間はこんなふうにして生きてい すなわち啓示によれば、正しいことを人間が理解しなかった る。彼らの倫理的な認識、もしくは倫理的宗教的な認識は、 彼らのうちの低劣な性質のお気にめさないような決断や結論ということが罪なのではなく、正しいことを人間が理解しょ うとしないこと、それを欲しないことが罪なのである。 に彼らを連れていこうとするので、彼らは徐々にそういう認 理解することができないということと、理解することを欲 識をくらますことにつとめる。そのために彼らは、自分たち ナいじじよう しないということとの区別についてすら、ソクラテスは、実 の美学的形而上学的な認識のほうを拡張していく。かかる認 識は、倫理的に考察し評価するならば、気ばらしにほかならをいうと、すこしも説明していない。むしろ彼は理解に二つ の別があることを問題にした点で、あらゆる皮肉屋の巨匠な のである。彼は説明する。正しいことをおこなわない者は、 それにしても以上の点だけでは、われわれはまだソクラテ ス的なものを一歩も出ていない。なぜなら ( おそらくソクラそれを理解していなかった者である、と。けれどもキリスト テスはこう言うであろう ) 、もしそういうことがおこるとす教はさらに根原へさかのぼる。正しいことを彼が理解してい ないのは、正しいことを彼が理解しようと欲しないところか れば、それはむろん、その人間が正しいことを理解していな ら来ている。そしてこのことは、さらにまた、正しいことを かったということを示すものだからである。要するに、ギリ でシア思想は、人間が知識をもちながら、正しいことについて彼が欲しないところから来る。かくしてキリスト教は教え る。人間は、正しいことを理解していても、それをおこなう の知識をもちながら、しかもなお不正をおこなう、というこ 絶の事実をはっきりと言いきるだけの勇気をもたないのであことをおこたるものである。あるいは、はなはだしきは ( 本 る。ギリシア思想はその場合の切りぬけ策としてこう言うで来の意味の傲慢から ) 正しいことを理解していながら、あえ あろう。或るひとが不正をおこなうならば、そのひとは正して不正をなすものである、と。一言にしていえば、罪につい

6. 世界の大思想24 キルケゴール

のうちにあるかのように静まりかえるとしたら、そのときに は、君が男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏 であったか、人に使われていたか独立していたか、幸福であ 三この病 ( 絶望 ) の諸形態 ったか不幸であったか、そんなことはどうだっていし 。君が 身分高く冠の輝きをおびていたか、それとも人目につかぬい やしい人間としてその日その日の苦労を負っていたか、君の 絶望のいろいろな形は、自己がそれらの統合として成立し 名まえがこの世のつづくかぎりひとびとの記↑冫 意こ残っているている諸契機を、反省していくならば、おのずから構成され か、それとも君はただ数しれぬ群衆のなかの名もなきひとり るはずである。自己は無限と有限とから形成されている。こ として共にかけずりまわっていたか、あるいはまた、人間の の統合は、しかしながら一つの関係である。しかもそれは、 ら・くいん このうえもなく苛酷な不名誉な判決によって君は罪人の烙印派生的であるとはいえ、自己自身にかかわる関係である。こ をおされたか、そんなことはどうだっていい。 永遠が君に向れが自由である。自己とは自由のことである。しかし自由は はんちゅう かって、またこれらの数しれぬ幾百万の人間のひとりひとり 可能性と必然性との二つの範疇における弁証法的なものであ に向かって問うのは、ただ一つのことである。君は絶望して る。 生きていたかどうか。君は絶望しながら君の絶望についてす それにしても、絶望は主としてそれの意識に関して考察さ こしも気づかなかったか、それとも君はこの病を、身をさい れなければならない。絶望が意識されているかいないかとい なむ秘密として胸の奥ふかく秘めていたか、あるいはまた絶 うことが、絶望と絶望のあいだの質的差異をなしている。む 望のうちにとどまって他人に恐怖をあたえたか。もしそうだろん、あらゆる絶望は、その概念からいえば、意識されてい としたら、もし君が絶望して生きていたとしたら、たといそるものである。しかし、だからといって、絶望の概念にあて の他の点で何を得、何を失ったとしても、君にとってはすべ はまるような状態にあるひとが、自分のこの状態を意識して てが失われたのだ。永遠は君を知らないという。永遠は君 いるとはかぎらない。かくして意識が決定的なものとなる。 こんりんざい を、金輪際、知らないのだ。だが、もっと悪いことには、永一般に、自己にとっては、意識 ( 自己意識 ) が決定的なもの 遠は君を知っている。君が知られているとおりに君を知って である。意識が増せば増すほど、それだけ自己が増す。意識 いる。永遠は君の自己をとおして君を絶望のなかに釘づけに が増せば増すほど、意志が増し、意志が増せば増すほど、自 する。 己が増す。何らの意志をももたない人間はけっして自己では ない。しかし意志を多くもてばもつだけ、それだけ多く人間

7. 世界の大思想24 キルケゴール

もと、だがおそらくは無意識のうちに、神をあるがままの神ちにありながら、彼は宗教的なものへの燃えるような欲求を いだいている。彼の煩悶はほんとうはつぎのようなところに . とはいささかちがったふうに創作することをあえてする。た とえていえば、子供の唯一の願望を結局は聞きとどけてくれある。自分は召された者なのであろうか。肉体の刺は、自分 る甘い父親のようなものとして、神を考えるのである。不幸が何らか異常なことのために用いられるべきだということの な恋愛を経験して詩人となった者が、恋愛の幸福をたたえるしるしなのであろうか。自分が異常なものをもって生まれて ようなしかたで、彼は宗教詩人となる。彼は神に対して不幸きたことは、神の前にあっては、まったく正常なことなので な恋愛をしている。自分のこの苦悩を捨て去ることが、神かあろうか。それとも肉体の刺は、自分が一般の人間的なもり ら彼に課せられた課題であることを、彼はおぼろげながら理に到達するためにそのもとにヘりくだるべきものなのである 解しており、またそれが人間にとって可能であるところまでうか。だが、もうたくさんだ。私は真理に重点を置いてこう いいかえれ言うことができる。いったい私はだれに向かって話しかけて は、自分もそれを実行していると信じている。 いるのか、と。こんな心理学的研究の乗について、だれが ば、彼は自分の苦悩を自分から遠ざけながら、それによって かえってこの苦悩に固執している。というのも、信仰のカで関心をもつだろうか。牧師さんの描いた「ニ = ルンベルクの これはだれかれに似 この苦悩を自分の身にひきうけることによって、それを真に版画本」のほうがむしろわかりがいい いいかえれているような錯覚をおこさせるが、精神的に解されるならば 捨て去ることは、彼にはできないからである。 ば、彼は結局のところそれを欲しないからである。あるいは何にも似ていないのである。 この場合、彼の自己はおぼろげな状態に終わっているといっ てもいい。 それにしても、あの詩人の恋愛描写と同様に、こ 第一章自己意識の諸段階 ( 神の前におけ の詩人の宗教描写も魅力をもち、抒情詩的感激を湛えてい る自己 ) る。それらよ、、、 。し力なる既婚者の描写も、またいかなる信者 第一部においては、自己意識がたえす上昇していくことが 概の描写も及ばないほどである。彼の語るところもまた嘘では 罪ない。けっして嘘ではない。彼の描くところのものは、まさ示された。はじめには人間が永遠的な自己をもっているとい しく彼のいっそう幸福でいっそうりつばな我れにほかならな うことについての知識がまだ欠けていた。つぎに、人間が自 絶、。彼は宗教的なものに対して、不幸な恋人のような関係に己というものをもっており、この自己のうちには何かしら永 ある。 いいかえれば、彼は信仰者ではなくて、ただ信仰にさ遠的なものがひそんでいるという知識があらわれた。そして きだつものすなわち絶望をもっているにすぎない。絶望のう この知識の内部でさらに種々の上昇が示された。この考察の

8. 世界の大思想24 キルケゴール

けに耳をかたむけ、ただ自己自身だけにかかわり、自己自身交である。 だけで閉じこもろうとする。それは罪についての絶望によっ 罪についての絶望は、ひとがいっそう深く沈むことによっ て、善のあらゆる干渉または攻撃に対して身をまもりなが て自分をささえようとする試みである。軽気球に乗っている ら、そこでいっそうかたく自己を閉ざそうとする。すでに自ひとが重い物を自分の身体から投げ捨てることによって上昇 分の背後の橋は切り落とされていることを、それは意識してしていくように、絶望者は善をますますはっきりと自分のも いる。いまではこちらから善にいたる道も、善からこちらへとから捨て去ることによって、沈んでいく。善はその重みに くる道も絶たれていることを、それは意識している。したが よって人間を引き上げているものなのである。かくして彼は って、たとい或る弱気の瞬間に自分から善を望むようなこと沈む。それでも自分では、上昇しているつもりである。なる があっても、もはや善を欲することは不可能になっているこ ほど彼はだんだん身軽になるだろう。罪はそれ自体が絶望の とを、それは意識している、罪はそれ自体が善からの断絶で戦いである。しかし力が尽きはてると、助けを求めなければ いっそう深刻 ある。だが、罪についての絶望は、第二の、 ならない。新たに絶望の度を高めること、悪魔的に新たに自 な、善からの断絶である。これは罪のうちから悪魔的なもの己自身に閉じこもること、すなわち自己の罪についての絶望 の最後の力をふりしぼり、神なき冷酷と頑冥とをつくりだすが、助けに出る。これは悪魔的なものにおける前進であり上 ものである。そこでは、ひとは一貫して、すべて悔い改めと昇である。いうまでもなく、これは罪のなかにさらに深く沈 おんちょう か恩寵といったようなものを、ただたんに空虚なもの無意味むことである。それは悔い改めや恩寵についてはもはや何も なものと見なすばかりでなく、それを自分の敵と見なし、あ知るまいと決意のほそをかためることによって、罪の力に新 たかも善が誘惑に対して身をまもるように、それを最も警戒たな関心と支持を与えようとする試みである。それにしても しなければならない敵と見なすのである。そういう意味で、 自己の罪についての絶望は、自己自身の空虚であることを意 かて メフィストフェレスが ( ファウストのなかで ) 悪魔の絶望し識している。自分は生きるための糧となすべきものをいささ かももっていないことを、それは意識している。自分の自己 たものほど悲惨なものはないと言っているのは正当である。 についての高められた意識さえももっていないことを、それ なせなら、この場合の絶望の意味は、悪魔が悔い改めとか恩 寵について何か聞きたいと思うほどに弱気になっているとい は意識している。シェークス。ヒアがマクベスをして次のよう 望 絶う意味に相違ないからである。罪から、罪についての絶望へ に叫ばせるとき ( 第一一幕第三場 ) 、さすがに彼は人間の魂の の、この上昇は次のように言いあらわすことができよう。罪深い理解者であることを示している。「こののちは ( 彼は国 は善との絶交であり、罪についての絶望は、悔い改めとの絶王を殺したのち、いまは自分の罪について絶望している ) 人

9. 世界の大思想24 キルケゴール

諦めるのには信仰を必要としない。なぜなら、わたしが諦自分自身の監督官であるという、全ローマ共和国の監督長官 めにおいて得るものは、わたしの永遠なる意識であり、これよりもはるかに高い身分であることを、感じないからであ は純粋に哲学的な運動であって、この運動なら、わたしはせる。この運動をわたしは自分自身でおこなう、そしてこれに よと求められれば、するだけの自信があるし、またこの連動よってわたしが得るものは、わたしの永遠なる意識におけ をするように、わたしは自分をしつけることもできるからでる、永遠なる存在者に対するわたしの愛との至福なる和合に ある。つまり、ある有限なものがわたしよりも大きく成長しおける、わたし自身である。信仰によってわたしは何ものか ようとする場合にはいつでも、わたしはこの運動ができるよを断念するのではない。反対に、信仰によってわたしはいっ からしだね うになるまで、食を絶って苦行するのである。なぜなら、わさいを得るのである。つまり、芥子種一粒ほどの信仰さえあ ( 四五 ) たしの永遠なる意識はわたしの神にたいする愛であり、このれば山をも移すことができる、といわれているような意味に すうこう 愛はわたしにとっては何ものよりも崇高なものだからであおいてである。永遠なるものを得るためにすべての時間的な あ、ら る。諦めるのには信仰を必要としない。しかし、わたしの永ものを断念するには、純粋に人間的な勇気が必要である。し 遠なる意識より以上のものをどれほどわずかでも得ようとすかし、わたしが永遠なるものを得、そしてそれをわたしが永 れば、それには信仰が必要である。これは逆説だからであ遠に断念できないというのは、これは自己矛盾である。しか る。人はしばしばいろいろな連動を混同する。すべてを断念しながら、時間的なもの全体を背理なものの力によってとら するためには信仰が必要だ、といわれる。それどころか、もえるには、逆説的で謙虚な勇気が必要である。そしてこの勇 っと奇妙なことに、ある人が信仰を失ったといってなげいて気が信仰の勇気である。信仰によってア・フラハムはイサクを いる、などということばを耳にすることさえある。ところ断念したのではなく、信仰によって彼はイサクを得たのであ ( 四六 ) が、その人がどの段階にいるのかを確かめようとして目盛り る。諦めによって、かの富裕な若者はいっさいの持ち物を放 をしらべてみると、じつに奇妙なことに、諦めの無限の連動棄したかもしれない。もし彼が諦めによってそうしたのであ をなすべき点までやっと達したというにすぎないことがわか ったら、信仰の騎士は彼に向かって言ったであろう、背理な るのである。諦めによってわたしはいっさいのものを断念すものの力によってあなたは一厘も残りなくとりもどすでしょ る。この運動をわたしは自分自身でおこなうのである。もし う、それはまちがいないことです、と。そしてこのこと、は わたしが自分のカでそれをしないとすれば、それは、わたし は、かって富裕であった若者にとってけっして聞き捨てなら ひ、よろ・ が卑怯で、柔弱で、感激をもたないからであり、人間めいめないものであろう。なぜかというに、もし彼がその財産にあ きあきしたからそれを放棄したというのであれば、彼の諦め いにあてがわれている高い尊厳の意義を、つまり、わたしが

10. 世界の大思想24 キルケゴール

113 おそれとおののき る。株主といっているのは、マルテンセンやニールセン Rasmus Nielsen らのヘーゲルの亜流をさしている。 調律 一 ()0 頁 ) はじめの草稿には、音楽の「序曲 . を意味するギリ シア語が書かれていたが、それがドイツ語の Stimmung にあたる Stemning に改められた。この語は、音楽の演奏をはじめる前に楽 器の調子をととのえることで、「整調」ないし「調律」を意味す = ( 一 (Z) 一一九ページの注一六参照。 三 ( 一 (Ä) 創世記一三。 四 ( 一 0 頁 ) 創世記一三の一ー二が自由に書きかえられている。 五 ( 一一頁 ) 聖書外典のユデト書一〇の一〇ー一一「ユデトはそ はしため の婢とともに出で行きしが、町の人びとは彼を見送り、その山 を降り、谷を過ぎて姿の見えすなるまでに至れり。彼らまっすぐ ーからとられた表現である。 に谷を越えて進みしかば : ・ 六 ( 一一頁 ) レギーネとの婚約を破棄するに先だって、自分が不 実な男であると思わせようとの意図をもって、キルケゴールは彼 女にいく通かの手紙を書いた。それによって、彼は婚約の破棄を 容易にしようと思ったのである。そのとき堪えしのばねばならな かった苦悩が、子供を離乳させるこの比喩にあらわされているの である。 ( 一一一頁 ) 「恥辱ーというのは、子供を生まなかったことをさ す。妻となって子をもっことを許されないのは、婦人の恥である と考えられたのである。 ( ( 一一一頁 ) 創世記一六 ー二一参照。 九 ( 一三頁 ) キルケゴール自身のことをいっていることはいうま でもない。 アプラハムをたたえることば 一 ( 一四頁 ) 「永遠なる意識 , というのは「永遠者の意識」の意、 すなわち、神の前に立つ人間の自己の意識をあらわす言葉で、多 くの書物で用いられているが、キルケゴールの全著作中、ここで 最初に用いられた。 = ( 一四頁 ) ホメロス「イリアス」六の一四六ー一四九の次の文 章によった表現 ( 呉茂一訳による ) 。 まことや、木々の葉の世のさまこそ、人間の世の姿とかわら ぬ。 木の葉を時に風が来って地に散り敷くが、他方ではまた めぐ 森の木々は繁り栄えて葉を生じ、春の季節が循って来る。 よすじ それと同じく人の世系も、かつは生い出で、かつはまた滅んで ゆくもの。 三 ( 一四頁 ) 創世記一の二七。 四 ( 一四頁 ) トロイア軍とこれを包囲したギリシア軍とは、十年 にわたる戦いにもかかわらす、勝敗が決しない。そこでトロイア 、 0 つわ・・、 の勇士ヘクトルは、いつまでも無益な殺戮をするのを避けるため 。ハリスとメネラオスとに一騎打ちさせて、その勝負の結果で、 戦いの結末をつけることにしようと提議する。休戦の約東ができ ) スが負ける。す て、二人のあいだで決闘がおこなわれるが、パ ると、アプロディテが、。ハリスを「雲につつんで」彼の宮殿へつ れ去ってしまう。「イリアス」三の三八一ー三八二のこの描写に よった表現。 三 ( 一五頁 ) アプラハムをさす。 六 ( 一五頁 ) 「そはこの世の知恵は神の前に愚かなればなり」 ( コ リント前書三の一九 ) によったもの。 ( 一五頁 ) ヘブル書一一の八ー九。