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検索対象: 世界の大思想24 キルケゴール
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1. 世界の大思想24 キルケゴール

392 か、あるいはとても苦しいとかいうようなこと ) を、そのま か理解していない。それはわけてもつぎの点を見のがしてい またよりにするような医者がいるとすれば、医者のつもりで る。 ( ここではただこの点だけをあげるが、それだけでも、 いるのがおかしい。というのも、医者はただ薬の処方をする 正しく解するならば、幾千のひとたち、いな幾千万のひとた だけが能ではなく、何よりもまず病気の診断をするべきであ ちが絶望の部類にはいることになる ) 。絶望していないこと、 り、したがってまず、病気だと思いこんでいる当人がはたし しいかえれば自分が絶望していることを意識していないこと も、まさしく絶望の一つの形である、というのがそれであて事実病気であるか、健康だと思っている者がはたして事実 る。通俗的な考察が病気や健康について判断を下すときにえ健康であるかを診断すべきであるからである。 医者が病気をとりあっかうと同じように、心理学者は絶望 てしてありがちなことが、絶望についての通俗的な考察に も、もっと深刻な意味でつきまとっている。もっと深刻な意をとりあっかう。彼はその道の人として、或る人間が自分は 味でというわけは、通俗的な考察をするひとたちは、病気や絶望していないとか絶望しているとか語るときの当人のこと ばには満足しない。しいかえれば、自分は絶望していると主 健康のこととちがって、精神 ( これなしには絶望を理解する こともできない ) のことに関してはあまり理解がないからで張する者も、或る意味では必ずしも絶望しているとはかぎつ ある。普通にはこう考えられている。人間は自分から病気だていない、ということに注意しなければならない。事実、ひ とは絶望をよそおうことができる。また、ひとは自分で自分 と言わないかぎり、まず健康である。まして当人が自分から がわからなくなり、精神の一つの状態である絶望を、絶望に 健康だと言うくらいならば、完全に健康である、と。ところ えんせい が医者は病気をちがった目で見る。なぜであるか。医者は健までいたらないで過ぎ去ってしまうさまざまの不機嫌や厭世 てき 康について、はっきりした進んだ考えをもっており、それに的な気分と、取りちがえることもありうる。その場合、心理 したがって人間の状態を診察するからである。医者は、たん学者は、むろんそこにも絶望のいろいろな形を見てとる。 はそれが気どりであること、しかしこの気どりが絶望である に気のせいで病気がおこることがあるように、健康の場合に ことをよく見ぬいている。彼はそれらの不機嫌等々の気分が もそういうことがあるのを知っている。そこで医者はそうい う疑いのある場合には、まず病気があらわになるような薬をたいした意味をもつものではないこと、しかしそれがたいし た意味をもたないということそのことが絶望であることを、 あてがう。一般に医者は、彼が医者 ( その道の人 ) であるか らには、ひとが自分の容態について語るときの当人のことばちゃんと見ぬいているのである。 さらに通俗的な考察は、精神の病としての絶望が、普通に を、けっして無条件には受けいれない。各人が自分の容態に ついて語ること ( たとえば健康であるとか、病気であると病気といわれているものとちがって、弁証法的なものである

2. 世界の大思想24 キルケゴール

者よりもすぐれている点は、彼が同時に誤謬のなかにあると くは他人にも健康で輝いているように見えることであろう。 いう点だけである。そういう誤謬のなかにいて彼がどんなに 絶望のこの形 ( ひとが自分ではそれと知らずに絶望してい 居ごこちよくあろうとも、実をいうと、彼は意識的な絶望者ること ) は世間ではまったくありふれたことである。ひとび に比して救いの真理から一歩だけ遠くへだたっているわけでとが世間と呼んでいるもの ( いっそう正しくいうならば、ヤ ある。救われるためには、彼はまず自分が絶望のなかにある リスト教が世と呼んでいるもの、すなわち異教徒や、キリス にしいかえればキリスト教の外と ト教のなかでの自然的人リ ということの認識にまで来なければならない。一方また、意 識的な絶望者は、彼が自分の絶望を知りながらなおも絶望の内とにある異教徒 ) は、まさしくそのような絶望である。そ なかにとどまっているかぎり、その絶望はいっそう度が強い れはひとびとが自分で絶望しているとは知らない絶望であ のだから、それだけまた救いから遠ざかっているわけである。もちろん、異教徒も、またキリスト教のなかでの自然的 る。けれども無知はけっして絶望を止揚したり絶望を絶望で人間も、絶望している人間と、絶望していない人間とのあい なくしたりするものではなく、反対に絶望の最も危険な形で だに区別を立てる。けれどもこの区別は、異教徒やキリスト ある場合がある。無知のなかにあって絶望者はある程度まで教のなかでの自然的人間が、愛と自由とのあいだに区別を立 自分の絶望に気づかせられないようにかくまわれている。だてるときと同様、欺瞞である。この場合の「愛」はやはり本 がそれはかえって彼の身の破減になる。したがって、彼が絶 質的には自愛である。それにしても異教徒や自然的人間は、 望の支配のもとにおかれていることはまったく確かである。 こういう欺瞞的な区別より以上に出ることはできなかった 自分の絶望について無知であるとき、人間は自己自身を精し、またできもしない。というのも、彼の絶望の特徴は、ま さに自分が絶望しているということを知らないことであるか 神として意識することから最も遠くへだたっている。しか らである。 し、自己を精神として意識していないことそのことが、まさ しく絶望であり精神喪失である。ところでこういう状態は、 以上の点から容易にわかることであるが、絶望の何である まひ 病完全な麻痺状態であることもあるし、またたんに無為の生活かは、精神についての美的な概念たとえば機知があるとかな る これ いとかいったようなことで、判定されるべきではない。 であることもあるし、あるいはまた活力にあふれた生活であ ュることもあるが、いずれにしてもその秘密は絶望である。そはもとより当然のことである。精神が真に何であるかという の場合、絶望者の状態は、肺病患者の容態に似ている。病気ことは美的には規定されないのであるから、そもそも美的な ものの対象にはならないような間題に対して、美的なものが 9 が最も危険になってきているちょうどそのときに、当人はい どうして答えられるわけがあろうか。だが、美的な意味でな ちばん気分がよく、われながら健康そうに感じられ、おそら

3. 世界の大思想24 キルケゴール

462 ろうように、悪魔的な者も、善の点で彼よりもすぐれている個々の新しい罪は、たんに罪にある状態のあらわれにすぎな 何びとかが、彼に善をその幸福な崇高な姿において示そうと いのであり、罪にある状態こそ本来の罪である。 するならば、おそらく彼は「自分には何も言わないでくれ」 したがって、われわれがここで問題にしようとしている といって、自分のために嘆願するであろう。彼の言いぐさを「罪の継続」の場合には、個々の新しい罪ではなく、罪にあ もってすれば、「どうか自分を弱くしないでくれ」といって、 る状態のことを、念頭においていなければならない。ところ 彼は涙を流さんばかりに自分のために嘆願する。悪魔的な者で、この状態は、さらにその罪の度がそれ自身において高め られ、自分は罪の状態にとどまっているという意識をもって はそれ自身において一貫しており、一貫した悪のうちに立っ ているので、彼もまた、失うとなったら総体を失わなければ罪の状態にとどまっているところまでいく。かくして罪の度 ならない。ほんの一瞬間でも、その一貫したものからそれが高まるときの運動は、ここでも前と同じように、内面へ向 て、ちょいとした衛生上の不注意があったり、ちょいと脇見かって進み、いよいよ強度の意識のなかへはいっていく。 をしたり、また全体もしくはその一部がただの一瞬間でもち がったしかたで見られたり解されたりすることがあれば、彼 自己の罪について絶望する罪 は自分でもそう言うように、おそらくは一一度とふたたび彼自 身になれないのである。それはこういうことなのだ。自分は 罪は絶望である。罪の度が高まると、自己の罪について絶 そんなものでは救われないと言って、彼はいったん絶望的に望するという新しい罪になる。これが度の高まったものであ 善を捨て去ったにもかかわらず、その善がなおも彼の心をか ることは、容易にわかる。罪についての絶望は、一つの罪の き乱すようなことがありうる。ふたたび彼があの一貫した全繰返し ( たとえば以前に百ターレルを盗んだ者が、今度は千 速力の進行のなかへ立ちもどることを、その善が不可能にさ ターレルを盗むというようなこと ) ではなく、事実、新しい せ、善が彼を弱気にさせることがありうる。罪の継続のうち罪である。罪とは、いまでは、罪にある状態のことである。 にあってのみ、彼は彼自身であり、彼自身であるという気持この罪がその度を高められて一つの新しい意識状態になる。 がする。彼はただこの継続のなかにあってのみ生きている。 自己の罪についての絶望は、罪がそれ自身において一貫し だが、これはどういう意味であろうか。それはこうである。 たものになったこと、もしくは一貫したものになろうとして 罪にある状態は、彼の沈んだ深みに彼をとどめておき、一貫 いることのあらわれである。それは善とは何のかかわりもも とうとしない。 して彼の精神喪失をますます強めるものである。個々の罪が ときおり余所の話に耳をかすような気の弱い 彼をそうさせるのではない ( それはおそるべき迷妄である ) 。 ことではいけないと思う。それはただ自己自身の言うことだ

4. 世界の大思想24 キルケゴール

行く黄金の壺には、宇宙の神秘がことごとく蔵されてい 第一部三 ( 四〇三ー四〇七頁 ) 必然性の絶望。可能性を失った絶望。決定論者や運命論者がこ れに属する。俗物根性や平凡な者も同様である。 必然的なものとは、「他の様にはありえないもの」すなわち「そ れがあるところのものでしかありえないもの」である。したがっ てそれは、原因が与えられているときに不可避的に生じる結果を いう。その意味で、必然性は可能性の消失であり、すでに決定さ れた存在のしかたである。 ( 論理的には「それの反対が矛盾をふ リいじレト ) くむもの」を必然的という。また形而上学では、存在するために 他の原因に依存しないものを、必然的存在という。デカルトの 神、スビノザの実体のごときが、これにあたる ) 。 この場合の必然性は、もちろん、可能性の欠如、すでに決定ず みの状態をいう 。ハイデッガーは現存在の存在可能を、被投的投 企 (geworfener Entwurf) ということばで言いあらわしている が、これは人間がこの世界に投げ出されておりながら、さらにみ すから投げかける存在であるという意味である。キルケゴールの いう必然性と可能性は、この二つの契機に相当するものであると いっていいであろう。可能性との接点においては、必然性はまた 偶然性でもある。 現代の実存主義の哲学者は「われわれは存在するのではない。 われわれは実存するのだ」という。実存するということのうちに は、人間は世界へ偶然的に出現しそれを理由づけることができな いということが含まれている。「。ヒエールは一九四二年のフラン スのプールジョアである、シュミットは一八七〇年のベルリンの 労働者であった」等々、人間は彼がみすから選ぶことのできない 状況のうちに投げ出されているかぎりにおいて実存する。 パスカルは、自己がこの世界になんの理由もなく投げ出されて いること、すなわち自己の被投性、必然性の意識を次のように表一 現している。「私の一生の短い期間が、その前と後につづく永遠 ) のうちに没し去り、私の占めているこの小さい空間が、私を知り もせずまた私の知りもしない無限の空間のうちに沈んでいるのを 考えるとき、私は自分がここにいて、かしこにいないということ一 に、恐れと驚きを感じる。なにゆえ私がかしこにいないでここに いるのか、なにゆえ私がかの時にいないでこの時にいるのか、全 然その理由がないからである。だれが私をここに置いたのか。だ れの命令、だれの指図によって、この時この所が私にあてがわれ・ たのか。」 第一部三 ( 四〇七頁 ) べ、 意識の度はいわば絶望の羃の指数である。絶望をかりに a と し、意識の度を n であらわすならば、絶望の強さは a であらわ される。 この個所は、原著では「羃の指数」なる語は用いられていない 「意識の度が増すごとにその増大に比例して、絶望の度 も増大するーとなっている。しかしここはシュレンプ訳のよう に、「意識の度は絶望の羃の指数である」と訳した方が、キルケ ゴールの言おうとするところをいっ . そう明瞭に示すことができ る。 第一部三 ( 四〇七ー四一一頁 ) 自分が絶望の状態にあることを意識していない絶望。意識して しないからといって絶望の状態にないわけではない。異教徒やキ リスト教界内の自然的人間に共通の、世間に最もありふれた形の 絶望である。これは意識の度 n が 0 であり、したがって絶望の強 め「わ・よ・つ

5. 世界の大思想24 キルケゴール

何かのように取りあっかおうとする実験的な好奇心に対して こういうわけで、罪がこの世界に人りこんだことによっ も抗議が提出されて、ひとは自分がなんのことを問うているて、罪は全被造物に対して意義を得た。非人間的現存在のな のかまるで知らないでいるといった質問者を虚構するか、そかでのこの罪の作用を、私は客観的不安と称したのである。 れともそれを知っていて、しかもそれに無知であるかのよう この言葉で考えられているものを、私は〈造られたるもの・ に見せかけることがひとつの新たな罪になるといった質問者の切なる期待ざミ pab ミ』っ守只〉という聖句 を虚構するか、どちらかしかないというジレンマが立てられマ書八章十九節 ) を思いだしてもらうことによって示唆する たものであった。 ことができる。要するに、切なる期待が問題となるかぎり、 さて、これらのことがすべて確保されていれば、それによ被造物が不完全な状態にあることは自明である。希求、憧憬、 ってかの表現は、それなりの制限っきの真理性を獲得する一」期待などというそうした表現や規定にあたってしばしば見お とになる。最初のものが質を措定するのである。であるか とされていることだが、これらのものはそれに先行する或る ら、アダムは罪を自分自身のうちに措定するが、また人類に状態を含んでいるのであって、それゆえまた、そうした先行 対しても措定するのである。しかし人類という概念は、単独状態が現存していて、この先行状態が、希求が展開されると 者が単独者としてみずからそれを措定することによってこそ同時にその効能を発揮するわけなのである。期待をいだく者 措定されるものである罪のごとき具体的な範疇を措定しえん が現在そこにあるところの状態は、彼が偶然などによってそ がためには、あまりにも抽象的である。それで、人類におけこに落ちこんで、その結果、彼がまったく無縁にその状態の る罪業性はひとつの量的な近似値となるだけである。が、こ なかにいるといったものではなくて、彼がその状態を同時に のことはアダムをもってその端緒につく。この点にアダムが みずから産み出すのである。このような希求の表現が不安で 人類における他のいかなる個人にもまさってもっている大きある。なぜなら、不安においては、彼がそこから脱け出すこ・ とを望んでいるその状態が告知されているからであり、また な意義が存し、この点に例の表現の真理性が存する。このこ とは、正教信奉者といえども自分自身の言うことを理解するそれが告知されるのは、希求だけでは彼を救済するのに十分 でないからなのである。 つもりがあるなら承認せざるをえないことである。それとい うのも、実際、正教はアダムの罪によって自然同様人類も罪 被造物がアダムの罪によって堕落したとま、 。しかなる意味に に落ちこんだと教えているからである。しかしながら、ことおいてのことであるのか、自由の誤用が措定されることによ 自然に関しては、罪を罪の質としてそのなかに入りこませた って自由が措定されたがゆえに、自由が可能性の反照や共犯 ということは、たしかに問題とはなりえないことである。 者の戦慄を被造物の上に投げかけたとはいかにしてそうであ

6. 世界の大思想24 キルケゴール

のに本質的に関与するのでないならば、すべてはおしまいででは不安は罪のもっと先の可能性に対して存在している。そ の場合、不安が取り除かれるとすれば、われわれはその点を ある。それゆえ、宗教的なものの領域においては、単独者に しかあたえられていない特殊な天賦として天才について語る罪の帰結が勝ったからだといって説明する。 べきではない。なぜなら、ここにおいては天賦とは意欲する (o) 措定された罪は不当な現実性である。それは現実性 ということであるからで、意欲しない者に対してはひとは彼であり、また当の個人から悔いにおいて現実性として措定さ のために悲しまないということで少くとも彼の所有を保全しれているところのものなのであるが、悔いはその個人の自由 てやるべきである。 とはならないのである。悔いは罪との関係においてはひとっ の可能性にまで引きさげられる、換言すれば、毎いは罪を除 * これは倫理的に言った場合のことである。なぜなら、倫理は くことはできず、罪のために悩むことができるだけである。 状態を見るのでなくて、その状態がその同じ瞬間にひとつの新た な罪であるそのありかたを見るからである。 罪はみずからの当然の帰結を次々にたどって進み、悔いがそ 倫理的に言えば、罪は決して状態ではない。 これに反しれに歩を接して一歩一歩したがうのであるが、常に一瞬だけ て、状態はいつもそのすぐ次の状態への最後的な心理学的近遅すぎる。悔いは戦慄すべきものを見るように自分自身を強 いるのであるが、それはかの狂乱のリヤ王 ( おお、汝、造化 似値である。そこで、不安はたえす新たな状態の可能性とし て現存する。最初に述べた状態 (<) においては不安は比較の失敗作よ ! ) さながらで、悔いは統御の手綱を失「て、た だ悲嘆するだけの力を保持しているのみである。ここにおい 的眼につきやすいが、ー ( ) の状態においては不安はだんだ て不安はその絶頂に達する。悔いは乱心し、不安は悔いへと ん消失していく。けれども、不安はそのような個人の外部に やはりせまっているのであって、精神の立場から見るならば力を強められる。罪の帰結は前進し、それが個人を引きずつ てゆく、あたかも刑吏に髪をつかまれて絶望して泣き叫びな その不安は他のいかなる不安よりも大きいのである。 (<) がら引きずられてゆく女のごとく。不安は先行する、不安は では不安は罪の現実性に対して存在するのであり、その罪の 現実性から不安は詭弁的に可能性を産み出してくるのであるその帰結をそれが到来する前に発見する、あたかも暴風雨が 既が、その不安は倫理的に見れば罪を犯しているのである。こすぐそこまできているのをひとが自分自身の身に徴して気づ 安の場合、不安の運動は無責におけるそれの反対のものであくことができるように。不安がさらにいっそう近づく、個人 る。無責においては、罪の現実は倫理的に見れば質的飛躍に は恐怖に戦慄する、いちど怖じ気をふるったことのある場所 にくると呻きながら後脚で突っ立っ馬のように。罪が勝利を よって現われるものではあるけれども、心理的に言えば不安 が罪の可能性からこの現実を導き出してくるのである。 (=) 得る。不安は絶望して悔いの腕のなかに身を投する。悔いは

7. 世界の大思想24 キルケゴール

らから の能力の栄光とを離れて、限りなき滅亡の刑罰を受くべし。 たラ・レーゾン・パレセウス la 月 a オ on paresseuse ( ライ。フ 〈 07 ョ 6 K7J ヾ 7 ovcr A60P0 ヾ、で -0 ド当 0 当POC@ミ 0 ぐ 70 ス vp ( 0 ド ニツツ ) だとか〔怠惰な理性を意味するそれぞれのことば〕で焼 ööラョ X ~ ョ ot3. 〉 ) 印を打たれている考察の仕方を賞讃すべきものだと見なして レギオン いる人々が、いつの時代にもその数あまたあったからである。 罪が質的な飛躍によって単独者のうちに措定されるとき、 善悪のあいだに区別が措定される。人間が罪を犯さなければ そこで心理学はふたたび不安をその対象としてもつのであ ならない、という意味の馬鹿げたことをわれわれはどこでも るが、その心理学は慎重でなければならない。個人の生活の 言ったことはない。むしろわれわれはいっさいの単なる実験歴史は、状態から状態への連動のなかで進行してゆく。状態 的知識に対して不断に抗議してきたのであり、ここでもう一 のいちいちは飛躍によって措定される。罪は、かってこの世 度くりかえして言うならば、罪は自由とおなじく自分自身を界に入りこんだように、阻止されないかぎり今も入りこみつ 前提するものであり、自由とおなじくそれに先行する何もの づける。しかし、その反復のいちいちは、なんといっても単 かからは説明されえないものである、とわれわれは言ってき純な一貫した帰結なのではなくて、ひとつの新たな飛躍なの たのである。善をも悪をもひとしく選ぶことのできる〈自由である。この種の飛躍のいちいちの前には、それと紙一重の 意志 liberumarbitrium ( このようなものはどこにもないも 心理学的近似値としての状態が先行する。この状態が心理学 の対象である。おのおのの状態のうちにそれそれ可能性が現 のであるが ライプニツツ参照 ) 〉なそとして自由を始め させようとすることは、、 しっさいの解明を根本から不可能に存しており、そしてそのかぎりまた不安が現存している。罪 することである。善悪を自由の対象として語ることは、自由が措定された後でも事情はおなじである。なぜなら、善にお いてのみ状態と移行との統一は存するのであるから。 をも善悪の両概念をも共に有限化することである。自由は無 限であって、何ものからも発現しない。だから、人間は必然 的に罪を犯すと言おうとするのは、飛躍の円を直線に延長し 一悪に対する不安 ようとすることである。このようなことが多くの人々にきわ 念めてもっともらしく思われる理由は、多くの人々にとっては (d) 措定された罪はなるほど止揚された可能性ではある の無思慮が最も自然なものであるからであり、またあらゆる世 、しかしそれは同時に不当な現実性である。そのかぎり不 、刀 安がこれに関係することができるのである。それは不当な現 不紀を通じていたずらにロゴス・アルゴス品 ( クリ シッポス ) だとか、イグナヴァ・ラチオ ignavaratio ( キケ実性なのであるから、ふたたび否定されるべきである。その ロ ) だとか、 ソフィスマ・。ヒグルム sophisma pigrum 、ま仕事を、不安が引き受けようとするのである。ここに不安の ほろび

8. 世界の大思想24 キルケゴール

けいがん 思わない、また決定することもできない。思想をかかる弁証そしておそらくは一種の慧眼と賢い打算によって、また心理 学的な見とおしから、わざとそうしているのかもしれない。 法的な尖端にまで追いつめることはさておいて、われわれは しかしそれにしても、他の意味では、自分が何をやっている ここではただ、絶望についての観念の程度には非常に差異が か、絶望していかなるふるまいをしているかということを、 あり、したがってまた自分が絶望の状態にあるということの 意識の程度にも非常に差異がありうる、ということに注意し彼ははっきり意識していないのである。 べき しかしながらさきにも述べたように、意識の度が絶望の羃 よう。人生はきわめて多様であり、たんに無意識的な絶望と を高める。或るひとの絶望についての観念が真であればある 意識的な絶望といったような抽象的対立のあいだを動いてい だけ ( 絶望のうちにとどまっていることには変わりがないに るのではない。絶望者は多くの場合、自分自身の状態につい て、あれこれのニュアンスをもった一種のたそがれの意識のしても ) 、また彼が自分の絶望していることについてはっき なかに生きている。彼はおそらく或る程度までは、自分が絶 り意識していればいるたけ ( やはり絶望のうちにとどまって 望していることを自分で知っている。ちょうどひとが自分の いることには変わりがないにしても ) それだけ絶望の度は強 うちに病気のあることに自分で気づくように、彼は自分自身くなる。自殺が絶望であることを意識しながら、そのかぎり で絶望に気づく。けれども、彼はときとして病人と同じよう において絶望についての真の観念をもちながら、それでもな に、自分にもともと欠けているものを正直に認めようとしな お自殺するひとがあるとすれば、そのひとの絶望は、自殺が 。或る瞬間には自分が絶望しているということが、彼にも絶望であることについての真の観念をもたすに自殺する者の わかりかけてくるのであるが、しかしつぎの瞬間には、自分絶望よりも、 いっそう度が強い。自殺するひとが自分の絶望 している状態についてはっきりした意識をもっていればいる の病気の原因が何か自分以外のものにあるような気がして、 それさえなくなれば絶望しないですむだろうと考える。ある だけ、それだけ彼の絶望は度が強い。反対に、絶望について いはまた、おそらく彼は気晴らしによって ( もしくは仕事やの観念がはっきりせす真実でないならばないだけ、また絶望 事業によって ) 自分の状態を自己自身に対してはっきりさせしている魂の状態がぼんやりしていてまぎらわしいものであ ないでおこうとするであろうが、その場合にも彼は、自分がればあるだけ、それだけ絶望の度は弱い。 そうするのは、ただ意識を、ほんやりさせるためだということ さて、つぎに私は、意識された絶望の二つの形を吟味して に、自分では全然気づかない。い ゃあるいは、彼がこうして いくことによって、絶望についての認識と自己の絶望状態に 仕事をしているのはそれによって魂をぼんやりさせておくたついての意識とがだんだんに上昇していくことを指摘しょ めだということに、もしかすると彼は気づくかもしれない。 いいかえれば ( それは同じことであるが、決定的なこと

9. 世界の大思想24 キルケゴール

の弁証法的尖端にもたらしたのではなかったのであるーーそり、 才知ゆたかな人間を戯画化し、嘲弄し、諷刺するよう の尖端において措定されると、そのときには悔いが新たな悔に、急行列車のごとく閃光的に内に巣くうものを予感させる いにおいて自分自身を止揚しようとして、そしてそこで悔い こともあるけれども、要するにそうした動物性によってほと が崩壊してゆくのであるが。 んどそれと知られるほど動物的なものが人間に威力をふるつ この節においてこれまで論述されてきたものは、この著作ているということの例をも、いろいろ見いだすのである。神 のどの点もがそうであるように、ひとが心理学的に言って 学者たちがこの点に関して言っていることはまったくほんと 〈罪に対する自由の心理学的位置、ないし心理学的・近似値 うであるかもしれない、が、何よりも肝要なのは、それが問 的状態〉と称することのできるものである。そしてそれらは題の要点を衝いているかどうかということである。ところで 罪を倫理学的に説明すると申し立てるものではないのであ一般にこの〔悪鬼に憑かれている〕現象は、そこで問題になって る。 いるのが罪の奴隷という問題であることをひとが明瞭に見る ことができるような仕方で記述されているのであって、罪の 奴隷というこの状態については、ひとがよくする或る遊戯を 一一善に対する不安 思いだしてもらうよりよく描写するすべを私は知らない。そ ( 魔的なもの ) の遊戯というのは、二人の人がまるで一人の人間でしかない ようにひとつのマントの下に隠れて、一人がしゃべり、もう われわれの時代においては魔的なものについての話を聞く 一人がその話とはまるで必然的な連関のないゼスチュアをす ことは比較的まれである。新約聖書のなかに見いだされるこ ( 一ニ 0 ) るというやつである。なぜといって、、 しまの場合は、これと れについての個々の物語は、そのままそっとしておかれる のが普通である。神学者たちがこれらを説明しようと試みるおなじように、動物が人間の姿を身にまとって、そしてその かぎりでは、彼らはこのんであれこれの不自然な罪に関するゼスチ = アとそのしぐさとでたえす人間を茶番化しているの 観察にふけっている。そしてそこで、ひとは音節のない動物だからである。しかし、罪の奴隷はまだ魔的なものではな 的な声だとか動物的な身振りや動物的なまなざしだとか、そ 。罪が措定され、そして個人がその罪のうちにとどまるや の動物性は人間のかたちをとった姿態 ( 観相学的表情ーーラ否や、そこには二つの方式があり、そのひとつがわれわれが ヴァテル ) をとらせることもあれば、あたかも狂人のまなざ前節で論述したところのものである。このことに注意しない しゃゼスチュアが、瞬間のきわみよりなお短い一瞬におい と魔的なものを規定することはできない。そこでは、個人が て、いっしょに立って話している相手の、理性あり、自覚あ罪のうちにあり、そしてその個人の不安は悪に対する不安な デモーニッシュ

10. 世界の大思想24 キルケゴール

のうちにあるかのように静まりかえるとしたら、そのときに は、君が男であったか女であったか、金持ちであったか貧乏 であったか、人に使われていたか独立していたか、幸福であ 三この病 ( 絶望 ) の諸形態 ったか不幸であったか、そんなことはどうだっていし 。君が 身分高く冠の輝きをおびていたか、それとも人目につかぬい やしい人間としてその日その日の苦労を負っていたか、君の 絶望のいろいろな形は、自己がそれらの統合として成立し 名まえがこの世のつづくかぎりひとびとの記↑冫 意こ残っているている諸契機を、反省していくならば、おのずから構成され か、それとも君はただ数しれぬ群衆のなかの名もなきひとり るはずである。自己は無限と有限とから形成されている。こ として共にかけずりまわっていたか、あるいはまた、人間の の統合は、しかしながら一つの関係である。しかもそれは、 ら・くいん このうえもなく苛酷な不名誉な判決によって君は罪人の烙印派生的であるとはいえ、自己自身にかかわる関係である。こ をおされたか、そんなことはどうだっていい。 永遠が君に向れが自由である。自己とは自由のことである。しかし自由は はんちゅう かって、またこれらの数しれぬ幾百万の人間のひとりひとり 可能性と必然性との二つの範疇における弁証法的なものであ に向かって問うのは、ただ一つのことである。君は絶望して る。 生きていたかどうか。君は絶望しながら君の絶望についてす それにしても、絶望は主としてそれの意識に関して考察さ こしも気づかなかったか、それとも君はこの病を、身をさい れなければならない。絶望が意識されているかいないかとい なむ秘密として胸の奥ふかく秘めていたか、あるいはまた絶 うことが、絶望と絶望のあいだの質的差異をなしている。む 望のうちにとどまって他人に恐怖をあたえたか。もしそうだろん、あらゆる絶望は、その概念からいえば、意識されてい としたら、もし君が絶望して生きていたとしたら、たといそるものである。しかし、だからといって、絶望の概念にあて の他の点で何を得、何を失ったとしても、君にとってはすべ はまるような状態にあるひとが、自分のこの状態を意識して てが失われたのだ。永遠は君を知らないという。永遠は君 いるとはかぎらない。かくして意識が決定的なものとなる。 こんりんざい を、金輪際、知らないのだ。だが、もっと悪いことには、永一般に、自己にとっては、意識 ( 自己意識 ) が決定的なもの 遠は君を知っている。君が知られているとおりに君を知って である。意識が増せば増すほど、それだけ自己が増す。意識 いる。永遠は君の自己をとおして君を絶望のなかに釘づけに が増せば増すほど、意志が増し、意志が増せば増すほど、自 する。 己が増す。何らの意志をももたない人間はけっして自己では ない。しかし意志を多くもてばもつだけ、それだけ多く人間