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検索対象: 世界の大思想24 キルケゴール
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1. 世界の大思想24 キルケゴール

3 的死冫いたる病 でもなくなるといったぐあいに、人間が浪費されるのであ人間はときとして、神の前に存在することに耐えられないよ る。 うな気持になることがある。というのも彼は自己に立ち返る こと、自己自身となることができないからである。かかる空 意志が空想的になる場合にも、自己はやはり同じように、 いよいよ稀薄になる。その場合、意志は同じ程度に具体的で想的な宗教家は言うであろう ( 抗弁の形で彼の特徴を示すな すずめ 冫。しかなくなる。たとえらば ) 。「雀が生きていられるのは、なるほどもっともであ もあり抽象的でもあるというわけこよ、 ば意志が有限性を越えて高まることによって同時に有限性をる。雀は自分が神の前にあるということを知らないからだ。 冫ーしかなくなる。したがってまけれどもひとは、自分が神の前にあることを知ったならば、 目ざす、というようなわけこよ、 た、企てと決断とにおいて自己自身から最も遠ざかりながらその同じ瞬間に気違いになるか、減びるか、どちらかでなし にいられるであろうか。」 その同じ瞬間に自己自身に最も近づき、その結果、今日、こ しかしながら、人間はこのように空想的になった ( したが の時、この瞬間にも実行されるような務めの無限に小さい部 分をもなしとげることができる、というようなわけこま、 って絶望した ) 場合にも、見たところは、あたりまえの人間 なくなる。 として何のさしさわりもなくその日その日を送ることができ このように感情、認識、もしくは意志が空想的になること る。彼はこの世の仕事にたずさわり、結婚し、子供を生み、 によって、ついには自己全体が空想的になることもある。そあるいは名誉あり名声ある地位に立っことができる。しか れには、比較して能動的な形 ( 人間が空想的なもののなかへも、彼にはいっそう深い意味において自己が欠けているとい われから身を投げかける場合 ) と、比較して受動的な形 ( 人うことには、おそらくだれも気がっかないであろう。そんな 間が空想的なものによって心を奪われる場合 ) とがあるが、 ことには、世間ではだれも大騒ぎはしないのだ。なぜなら自 いすれにしてもそれは自己の責任のもとになされる。その場己というものは、世間で問題にされることの最も少ないもの 合、自己は抽象的な無限のうちにかあるいは抽象的な孤独の であり、それをもっていることがちょっとでも気づかれるな うちにあって、空想的な生存をいとなむ。けれどもそこには らば、このうえもなく危険なものであるからである。ほんと いつも自己が欠けており、自己はいよいよ自己自身から遠ざ うは最も危険で最も悪いこと ( 自己自身を失うこと ) が、世 かくも平静に見す 間ではまるでなんでもないことのように、 こかるばかりである。たとえば宗教的な分野でもそういうこと がある。なるほど神との関係はひとを無限ならしめる。けれごしにされているのである。これほど平静にすまされる損失 ども、かかる無限化はややもすると人間をあまりに空想的に はほかにはない。腕一本、脚一本、金五ターレル、妻などな こうこっ どを失うとなったら、けっしてただではすまされない。 恍惚とさせ、その結果、それは単なる陶酔にすぎなくなる。

2. 世界の大思想24 キルケゴール

しないものである。たとえば、地球は静止していると思ってがいかにくだらないものあさましいものであるかという真理 いるひとがあったとしても、彼がそれだけしか知らない人門 日を、或るひとがことごとく理解していると言いながら、その であるならば、そこにはほんとうの意味で滑稽だといわれるつぎには、自分の理解したことを忘れているとしたら、それ こそ無限に滑稽である。というのも彼はそれを理解したとほ ようなものは何もない。思うにわれわれの時代だって、もっ とんど同じ瞬間に、自分から世間のなかへはいっていって、 と物理学的な知識の進歩した時代から見ればやはり同じよう なものであろう。そこでは矛盾するものが互いに衝突すると同じようにくだらないことあさましいことを自分もいっしょ いうことがない。 にやり、もし世間がそのことで彼を尊敬するならば、その尊 ( このことはただ同一の人間のうちにあっ てのみおこることだ ) 。そのような矛盾は本質的なものでは敬を受けいれる。つまり世間を承認するからである。また、 し、刀 . 冫 なく、したがってまた本質的に滑稽なものでもない。しかるキリストがいかにいやしいしもべの姿で歩きまわり、 いかにさげすまれ、あざけられ、唾をはきかけられ に、或る人間がロでは正しいことを言い、したがってそれを貧しく、 理解しているはずでありながら、いよいよ行動すべきときに たかを、何もかも理解していると言いきるひとがあって、そ なると、不正なことをやってのける、したがって彼がそれをの同じひとが、そのつぎには、きわめて用心ぶかく世間的に 理解していなかったことが暴露されるとすれば、それこそ無都合のよさそうなところへ出かけていって、そこで至極安全 限に滑稽である。或るひとが真理のために生命をささげる崇 に身を処しているのを、私が見かけた場合、そして彼が右や 高な心の物語りに涙を流さんばかりに感動しながら、つぎの左からのちょっとしたおもしろくない風当たりをまるで生命 瞬間には、まだ涙もかわかぬのに、用意ドンとたちまち一転にかかわる大事でもあるかのように心配そうに避けようとし して、虚偽に勝ちを得させるためにできるかぎりのことをすているのを見かけた場合、さらに彼が皆から尊敬され信頼さ るとしたら、それこそ無限に滑稽である。声にも身ぶりにもれていることに大いに満足し、それを幸福に思い、救われて 真理のこもった或る演説家が、自他ともに感動したりさせた いることの喜びのあまり感激してそれを彼の救い主 ( これこ りして、いかにも感に耐えたように真理を述べ、毅然たる態そ彼にはまだ欠けているのだが ) に感謝さえもしているのを 度と、不退転のまなざしと、驚くばかり確固たる足どりとを見かけた場合、私はしばしば心のなかで私自身に向かって言 もって、地獄のあらゆる悪と力に立ち向かうかのように見え ったものだ。「ソクラテスよ、ソクラテスよ、ソクラテスよ。 ながら、その同じ瞬間に、まだ右手には正義の剣をたずさえ このひとは自分では理解していると主張するけれども、それ たまま、ごく些細な困難にも恐れをなして逃げていくことがをこのひとが理解しているというようなことが、はたしてあ あるとしたら、それこそ無限に滑稽である。世間というものりうるでしようか。」私はこう言って、同時にソクラテスが つば

3. 世界の大思想24 キルケゴール

の外にではなく自己の内部に衝動の満足を有しているものだめて容易と思われることが、実は不等のものを減ぼさない限 からである。その決断は機会と同じ交互関係にあるのではな り決して容易のことではないからである。 くて永遠から来らねばならず、それが時間の中に入りこむ時 ここで性急に結論を下すことは慎もう。結論を下さずに徒 まさに瞬間となるのである。何となれば機会と機会を与えららに時を費しているように思われても、この停滞が決して時 れる者とが全く対等の立場で互いに応じあう場合には、野原 間の空費とはならないことは我々をカづける。ーー・ー世間では の真中で呼べば答えが谺すると同様両者は全く同形であり、 不幸な愛ということがしばしば口にされるが、この言葉の意 この場合には瞬間はあらわれずに想起がその永遠の中に瞬間 味するところは誰でも知っている。つまり恋人同士が結びつ を吸い込んでしまう。これに反して永遠の決断が非同等の機き得ないことーーその原因は勿論いろいろではあるが。しか 会の中に関係してくるならばこの場合には瞬間が姿をあらわし我々が今語っている不幸な愛はこれとは異なる。この世の すのである。かく考えなければ我らは再びソクラテスに逆戻 いかなる関係も決してこの愛に似てはいない。がしかしわれ りし、神をも永遠の決断をも瞬間をも考え得なくなるであろわれはなおしばらく人間の愚かしい言葉で語り、地上的関係 としてそれを考えてゆこう。ところで不幸というものは実 それゆえに神がかく永遠的決断をなすのは愛によってであは、愛人同士が一緒になれない点にあるのではなく、互いに る。しかし原囚が愛であるならば目的もまた愛でなければな理解し得ない点にあるのである。互いに理解し得ない悲哀は らぬ。何となれば神が全然別個の原因と目的とをもっことは 一緒になれないという普通の悲哀よりも限りなく深い。前者 矛盾にほかならないからである。それゆえにその愛は学ぶ者の一緒になれないという不幸は外的であり、時間的であるの に対する愛であり、その目的は彼を得ることになければなら と異なり、互いに理解し得ない不幸は愛の心臓に打撃を与 ぬ。なぜなら愛において初めて不等のものが同等とされ、 え、永遠の傷を負わせる。これに対して恋人同士が一時一緒 同等すなわち一致において初めて理解が成立するからであになれないというようなことは心豊かな者にとっては一つの る。そしてもしも完全な理解に達しないとすれば、それは学戯れに過ぎないのである。この無限に深い悲哀は、本質的 に、よりすぐれた者の側にかかる。なぜなら彼のみが同時に 断ぶ者の方の側で可能とされているものをなお拒むということ 学に起因するのでない限り、その教師は神ではないこととな理解しあっていないということを知るからである。それは実 哲 る。 に唯神にのみ属するのである。なぜならいかなる人間的関係 しかしこの愛は根底的に不幸である。というのはこの両者もその正しい相似を与え得ないからである。とはいうものの はきわめて不等であり、神が自らを理解せしめるというきわ私は次にそういった相似の一つを物語ることによって神的な

4. 世界の大思想24 キルケゴール

ぎよせているとはいえない。ところが絶望の場合はちがう。 絶望の現実的なあらゆる瞬間がその可能性に帰せられてしか O 絶望は「死にいたる病」である るべきである。絶望者は絶望しているあらゆる瞬間ごとに、 絶望を自分から招きよせているのである。そこにはつねに現「死にいたる病」というこの概念は、それにしても、特殊な 意味に解されなければならない。普通ならば、この概念は、 在の時がある。そこには現在に対して取りのこされるような 終わりが死であるような病のことである。そこでひとは、死 過去的なものは何も生じない。絶望の現実的なあらゆる瞬間 にいたる病といえば、致命的な病のことだと思っている。そ ごとに、絶望者は、可能性において自分の前をよぎるすべて ういう意味では、絶望は何ら死にいたる病ではない。また逆 のものを、現実的なものとして自分にひきうける。なぜなら 絶望するということは精神の領域においておこることであに、肉体的な病気は、たといそれが死にみちびくほどであっ り、人間における永遠なものに関係することであるからであても、絶望がそういわれるのと同じ意味で死にいたる病とい うことはできない。なぜなら死はけっして最後のものではな る。ところが人間は永遠なものをのがれることができない。 それは永遠に不可能なことである。人間はただの一度でも永く、キリスト教的に解するならば、実に生命への移行でさえ 遠なものを投げすてることはできない。何ものもこれほど不もあるからである。死にいたる病ということが最も厳密な意 味でロにされるべきであるとすれば、それは死が最後であり 可能なことはない。人間が永遠なものを持っていない瞬間が あるとすれば、彼はたったいまこの瞬間にそれを自分から投最後が死であるような病でなければならない。「絶望ーとい う病こそがまさにそれにあてはまるものである。 げすてたのでなければならない。彼はいま ( というのも永遠 それにしても絶望は、いま一つの意味においていっそう明 なものはいつでも戻ってくるから ) それを投げだしているの でなければならない。したがって人間は絶望しているあらゆらかに、死にいたる病である。この病ではひとは死なない ( 普通にひとが死ぬと言っている意味では ) 。、、、 ししカえればこ る瞬間ごとに、絶望を自分から招きよせているわけである。 の病は肉体的な死をもっては終わらない。反対に絶望の苦し 絶望は分裂の結果として出てくるのではなく、自己自身にか たかわる関係から生じるものだからである。人間は自己からのみは、まさに死ぬことができないという点にある。絶望はい ごうびよう がれることができないと同様に、自己自身への関係からのがわゆる業病にとりつかれた者の症状に似ている。彼はそこに れることができない ( 自己とは自己自身への関係をいうので横たわって死にさいなまれていながら死ぬことができない。 かくて「死ぬばかりに病んでいる」というのは、死ぬことが あるから、それは結局おなじことである ) 。 できないということであるが、といって、生きられる希望が

5. 世界の大思想24 キルケゴール

性は可能性を取り消すものである。 はこの責任のもとにおかれている。絶望がつづくあらゆる瞬 人間が自己であり、自己自身にかかわる関係であるという 間ごとに、絶望はこの責任のもとにおかれているのである。 のは、人間が一つの統合であるからである。それは無限と有絶望者がいかに巧みにまくしたてて自他ともに欺き、自分の 限、時間と永遠、自由と必然の統合である。ところで絶望と絶望は外からおそってきた一つの不幸にすぎないので、自分 は、自己の自己自身に対する関係のうちに分裂がおこること にその責任はないと言いぬけようとしてもだめである。 である。けれども統合そのものは分裂ではなく、たんにその かくして分裂 ( 絶望 ) がひとたび生じたならば、当然の結 可能性であるにすぎなし ししカえれば、統合のうちに分裂果として、それはつづくであろうか。いな、それは当然の結 の可能性が存在するのである。もし統合そのものが分裂であ果ではない。分裂がつづくとすれば、それは分裂から来るの るならば、絶望はまったく存在しないことになるであろう。 ではなくて、自己自身にかかわる関係から来るのである。す その場合には、絶望は、そもそも人間の本性のうちに存する なわち分裂のあらわれるたびに、また分裂が存在する瞬間ご 何ものかであり、したがって何ら絶望ではないことになる。 とに、それは直接この関係から発生するのである。ひとはよ それは人間がたまたまそれにぶつかり、それをこうむるもの く、人間が ( たとえば不注意によって ) 自分から病を招く、 であるということになる ( たとえば人間が病気にかかると というような言いかたをする。ひとたび病がおこると、その か、死が万人の運命であるというような意味で ) 。だが、そ瞬間からそれは現に存在する病と見なされ、それは現実のも うではない。絶望は可能性としては人間の本性のうちに、現のとなる。しかしその根原はだんだん過去のものにな「てい 実性としては個々の人間のうちに存するものである。もし人 く。もしひとが病人に向かって「君はこの瞬間にこの病を自 間が統合でないならば、彼が絶望するということはけっして分の身に招きよせているのだ」と、いつもいつも言いきかせ ありえないであろう。またこの統合がもともと神の手によっ るとしたら、それは残酷なことであり、不人情なことであろ て正しい関係におかれているのでないならば、やはり人間が う。それはいわば病の現実性をあらゆる瞬間ごとにその可能 絶望するということはありえないであろう。 性へ帰着させようとするようなものだ。病人が病を自分から しからば、絶望はどこから来るか。統合が自己自身にかか 招いたことは事実である。だが彼はただ一度だけそれを招い わるその関係から来る。神が人間を関係たらしめたというこ たのであって、病の持続は、彼がかってひとたびそれを自分 とは、神が人間を、いわば手放すことである。かくして人間 から招いたことのたんなる結果であるにすぎない。その持続 は自己自身にかかわる関係となる。しかし、その関係が精神の原因をあらゆる瞬間ごとに病人に帰することは許されな であり自己であるというところに責任がある。あらゆる絶望 し。彼は病を自分から招いたとはいえるが、病を自分から招

6. 世界の大思想24 キルケゴール

419 りふれた種類の絶望である。ことにその第二の形、すなわち っては彼はキリスト教徒であり ( 異教の世界にあっては異教 徒であり、オランダにあってはオランダ人であるというのと若干の反省をともなった直接性としての絶望はそうである。 まったく同じ意味で ) 、教養あるキリスト教徒の一人である。けれども絶望がだんだん徹底的に反省されてくればくるほ ど、世間ではあまり見うけられないものとなる。それにして それとともに一方では、彼は不死の問題にも関心を寄せてい る。彼は再三、牧師に向かって、そうしたものがいったいあもこのことは、ただ、たいていの人間はその絶望の際にも特 るのかどうか、人間は事実さきの世でふたたび自分で自分をに深くなることすらないということを示すのみで、けっして 認めることがあるか、といったようなことをたすねたことも彼らが絶望していないということの証拠にはならない。幾ぶ こくまれに ある。これはたしかに彼の特別の関心事でなければならなんなりとも精神として生きているような人間は、。 し、 、。いな、一度だってそういう生活を試みてみよう というのも、彼は永遠の世界においてふたたび認めうる ような自己をもっていないからである。 とするひとさえも、けっして多くはいない。また、それを試 この種の絶望をありのままに描写しようとすれば、或る程みるひとたちのうちでも、たいがいの者はじきにそれから離 度の諷刺を加えないではすまされない。もしだれかが、自分れてしまう。彼らは恐るべきものと為すべきこととを学び知 っていない。それなのに、彼らはどうしてこの恐るべき内面 はかって絶望していたことがあるなどと口に出して言うとし たら、それは滑稽なことである。彼は自分では絶望にうちか的緊張に耐え、そこで精神の生活をいとなむことができよう ったつもりでいても、そう思っている彼の状態がまさしく絶 か。それにまた、彼らはどうして世間との矛盾に耐えること 望であるとしたら、それこそ恐るべきことである。そもそも ができようか。世間では魂のための心づかいや精神的生活へ 世間で非常に賞讃されている世才なるもの、すなわち良い忠 の努力などは、暇つぶしも暇つぶし、許しがたい暇つぶしと 告や深い見識や経験のつんだ処世訓 ( 人間は時世に順応し、 して、できることなら市民のおきてによって罰せられなけれ おのが運命にしたがい、。 とうにもしようのないものは忘れる ばならないもののように考えられており、人間に対する一種 べきだ、といったようなこと ) の寄せあつめは、よく考えて の裏切り、もしくはただ嘲笑と侮蔑にしか値しない傲慢な狂 みるとその根底に実に愚劣なものがひそんでおり、そういう気であるかのように考えられているのだ。思うに彼らの一生 もののなかにいると、人間は本来どこに危険があり本来なに のうちにも、内面へ向かって進もうとする瞬間 ( これが彼ら 、、、危険であるかわからなくなってしまうものであるが、これの最上の時である ) がないわけではない。彼らはおおよそ第 こそ実に滑稽でもあり恐るべきでもある。 一の難関のあたりまでやってくる。だが、そこでそれてしま この世またはこの世の何ものかについての絶望は、最もあう。この道は彼らにとって慰めなき荒野に導くかと思われ 、 0

7. 世界の大思想24 キルケゴール

四 7 不安の概念 されていることに存する。一方、喜劇的なものは、偶然的な表現 キリシアの芸術はほかならぬこの瞬視を * 注目すべきことに、。 匕されることに存したのである。 が永遠イ 欠いたものである彫においてその頂点に達している。しかしな がらこのことは、ギリシア人が最も深い意味で精神の概念をつか このように理解されれば、瞬間はもともと時間のアトムで んでいなかったこと、したがってまた最も深い意味では感性や時 はなくて永遠のアトムなのである。それは時間における永遠 間性をもっかんでいなかったこと、そこにその深い根拠をもって の最初の反映であり、いわば時間を停止させようという永遠 いる。しかもキリスト教においては神が象徴的にはまさに眼とし の最初の試みである。ギリシア精神が瞬間を理解しなかった て表現されているということは、その対立のいかに激しいことで のはこれがためである。なぜなら、ギリシア精神は、よしん あろう。 ば永遠のアトムをつかんだとしても、それが瞬間であること * * 新約聖書のなかには、瞬間についての詩的な義解が見いだ される。パウロは〈世界は、不可分の短い間に、そして眼がまばを把握しなかったのだから。また、それはこの永遠のアトム たきするひまにぐ 7 き、 ~ 」さもぐに過ぎゅくでを規定するにあたって前方にではなく、むしろ後方にむかっ あろう〉と言っている。この言葉によって彼は、瞬間が永遠性に てした。なぜなら、永遠のアトムはギリシア精神にとっては 対して適応するものであることをも表現しているのであるが、要 本質的に永遠性であったし、したがって時間も永遠もそれそ するにそれは、没落の瞬間がその同じ瞬間に永遠性を表現するか れの真実の権利をもつにいたらなかったわけだから。 らのことである。私は私の考えていることを明らかにさせていた 時間的なものと永遠的なものとの綜合は第一一の綜合ではな だくとして、もしも私がもちいる比喩になにかさしさわりがあっ くて、人間は精神によって担われているところの心と身体と たらどうぞご容赦ねがいたし 。このコペンハーゲンにかって二人 の綜合であるということになるあの第一の綜合の表現なので の俳優がいた。彼らは、自分の演技からもっと深い意味がくみと られることができようなどとはおそらく自分でも考えてみたことある。精神が措定されるや、たちどころに瞬間がそこにあ る。それゆえ或る人間について彼は瞬間においてのみ生活し もないような人たちであった。彼らは登場し、互いに向き合った 位置をとって、なにやら激情的な葛藤を身振り狂言で互いに表現ていると言って非難しても、それは正当でありうる。なぜな しあい始めた。ところが、その身振りによる展開が佳境にはい ら、このことはひとつの恣意的な抽象によって起るのである り、観客の眼が物語を追って次はいかにと待ちかまえていたとき から。自然は瞬間のなかには存しないのである。 に、突然、彼らは演技を中絶し、そしてその瞬間の黙劇的表現を 時間性に関しては感性に関してと同様な事情にある。なぜ とったまま、じっと化石して動かなくなってしまった。このこと のもたらす効果は、非常に喜劇的でありうる。というのは、瞬間ならば、自然が時間のなかで一見安全に存立しているのにく らべて、時間性はなおさら不完全に、瞬間はなおさらみすぼ が偶然的な仕方で永遠的なものに適応したものになるからであ る。彫塑的なものの効果は、永遠的な表現がまさに永遠的に表現らしく思われるからである。しかも事実は逆なのである。な

8. 世界の大思想24 キルケゴール

2 所とまっこうから衝突する。要するに、人間が蛇によって誘う。 惑されるとすることによって、神を救ったものと信じ、その われわれはいろいろと策を弄することはやめにして、まっ かぎりにおいて「神はなんびとをも誘惑せず」というヤコプ たく単純に「性的区別が堕罪以前に現在していたということ 書のことばと一致していると考えるとしたら、それは神はなを承認しようと思う ただ、その区別は無知においては存 んびとにも誘惑されないというその次のことばに背反する。 在しないのであるから、やはりそれは存在しなかったのであ というのは、人間に対する蛇の陰謀は、同時に、神と人間のる。この点に関しては、われわれは聖書に典拠を有してい あいだの関係のなかに割りこもうとすることによって神に対る。 する間接的な誘惑でもあったのだからである。また、それは、 無責の状態においては、アダムは精神としては夢みつつあ 人おのおのは自分自身によって誘惑されるという第一二のこと る精神であった。それゆえ、その綜合は現実的でなかったわ ばにも反するのである。 けである。なぜなら、綜合を締めくくるものはほかならぬ精 この次にくるのが堕罪である。これは、心理学は説明する神なのであるが、その精神がいまだ精神としては措定されて ことができない。堕罪は質的な飛躍だからである。しかし、 いないのだから。動物にあっては、性的区別は本能的に展開 われわれはかの創世記の物語のなかで述べられているような されうる。が、人間は動物とおなじような仕方でそれをもっ 結果を、原罪の前提としての不安にもういちど着目するため ことはできないのであって、それは人間が綜合であるからに に、ちょっとだけ考察してみることにしよう。 ほかならない。精神が自己自身を措定するその瞬間に、精神 結果は一一重のものであった。すなわちそれは、罪がこの世は綜合を措定するのであるが、綜合を措定するためには、精 界にはいってきたことと性的なものが措定されたということ神はまず綜合を徹底的に分離せねばならず、そこにあらわれ る感性的なもの〔官能的なもの〕の極限が性的なものにほかな とであって、この二つは一方が他方から切り離されることの できないものである。このことは、人間の根源的な状態を一小らないのである。この極限には人間は、精神が現実的になる すために最も重要なものである。つまり、人間が第三のもの瞬間に初めて到達できるのである。それ以前には人間は動物 ではないが、さりとて本来の意味での人間でもなく、人間は のうちで安息するにいたるひとつの綜合でなかったならば、 一つのことが二つの結果をもっということはありえなかった人間になる瞬間に初めて、同時に動物にもなるということに よっても真に人間になるのである。 であろう。人間が精神によって支えられているところの、心 と身体との綜合でなかったならば、性的なものが罪業性とと 罪業性はそれゆえ感性〔官能〕ではない。決してそうではな もにはいってくるということは決してありえなかったであろ 。しかし罪なくしては性欲なく、性欲なくしては歴史はな

9. 世界の大思想24 キルケゴール

やるべきだなどと言うことは、人生についてのはなはだ無意 なかで探しまわることがないとしても、やはりいちばん手近 味な考察であり、いや、むしろ考察と名づけるべきものでは にあるものをひつつかむ。そうしたやりかたでひとはおそ まったくないのである。なぜなら、それが言っていることは らく世間で何か偉いものにさえなる。なおその上に時々は教 この一」 自明のことにすぎないのであるから。そのような考察ではな会にもゆくというのであれば、万事は申しぶんない。 くて、私の宗教的実存が私の外的実存にどう関係し、そこでとは、宗教的なものが絶対的なものであるのは少数の個人に どうあらわれるかを解明すること、それが課題なのである。 とってのことで、それ以外の人々にとってはそうではない、 と言っているもののように思われるーー事実そうだとすれ だが、われわれの時代に誰がこの種の問題について思索する 労をとるであろうか ? しかも今は現在の生活がかってない ば、それは人生におけるいっさいの意味に〈お寝みなさい〉 ほど飛ぶようにはやく過ぎ去ってゆく瞬間といった姿をとつを言うことである。もちろん、外的な課題が宗教的なものそ ているのだ。しかるに、永遠的なものを捉えることをそこか のものから遠ざかれは遠ざかるだけ、その考察はますます困 ら学ぶかわりに、ひとはただ瞬間を追っかけることによって難になる。たとえば喜劇役者たるべしといったような外的な 自分自身と隣人から、そして瞬間から生命を奪いとるこ課題にまでその考察が及ぶためこよ、 冫。いかに深い宗教的な自 とばかり学んでいる。ひとは相共に集まって瞬間のワルツを覚が必要になることであろう。だが、それがおこなわれるこ 一度だけ踊ることに居合わせることができさえすれば、それとができるということを、私は否定しょ オい。なんとなれば、 でもう人生を経験したのであり、生まれたとは言うも愚か、 すこしでも宗教的なものに心得のある者なら、宗教的なもの この人生のうちに大急ぎで転げこみ、大急ぎで生きつづけて が黄金よりも柔軟で絶対に通約可能なものであるということ 転げ去り、人生そのものを手に入れたことは一度もないとい をよく知っているからである。中世の誤謬は、宗教的自覚で った不幸な人々から羨望されるのである。実際、彼らはそれはなくて、むしろひとがあまりに早く停止したということで でもう人生を経験したのである。なぜとい 0 て、人間の生活あ 0 た。ここにまたしても反復に関する問題が生ずる、すな は、一晩中踊り手たちの一群を魅惑して、暁にいた「てようわち、宗教的な自覚を始めたのちに個人が自分自身を枝葉木 念やく色褪せたとしたらそれでもうひとかたならすり「ばに保節にいたるまで全般的に恢復することに恵まれることはどの 「たことになるところの、ひとりのうら若いおとめの刹那の程度まで可能であるか、という間題が。中世においては、ひ 不愛らしさ以上の何ほどの価値あるものであろうか。宗教的実とは中断した。そのようなわけで、個人が、自分自身をふた 存がいかにして外的実存に滲透しそれを揺り動かすかを考え たび取りもどすことをすべきところで、たとえば自分が機知 るだけの服がそこにはないのである。ひとは絶望の性急さの だとか喜劇的なものに対する感覚だとか、そういったものを やす

10. 世界の大思想24 キルケゴール

と質は同一でありながら変化するというような曖昧安易な意 できる、が判決を下し審くことはできぬ。なぜなら彼は、自 分が生徒に対してなんら本質的なものを与えることはできな味においてではなく、全く質を異にする人間、すなわちいわ ば新しい人間になるのである。 いと知る位には十分ソクラテス的であるはずだからである。 彼が不真理であった限り、彼には絶えず真理から遠ざかろ かの教える者はしたがって実は教師ではない、彼は審判者で ある。たとい学ぶ者が最も完全に真理理解の為の条件を所有うとする傾向があ 0 た。それがこの瞬間に真理理解のための し深く真理に入りこんだとしても、彼は決してこの教師を忘条件を受け入れることによって、彼の歩みは逆の方向をとる に到った。すなわち彼は向け変えられたのである。この変化 れ得すまたソクラテス的に消減せしめることできぬ。もっ とも、ソクラテス的思惟はあらゆる小児病的卑小さや嘘つばをわれわれは転回と呼ぼう。これは従来余り用いられていな い言葉であるが、しかしそれゆえにこそ他と混同されないた ちの饒舌よりは遙かに意義があるのである。確かにそれは最 めにこの言葉を選ぶのである。何となればこの言葉はわれわ い、ただかのもう一つのものが真理で 高のものと言ってもよ れが語っている変化のために創られたようなものだからであ ないとするならば。 今や瞬間が問題となる。かかる瞬間は独特のものだ。それる。 彼は彼自身の罪によって不真理にいたのである以上、この は瞬く間の如く短く迅く、瞬く間の如く過ぎ行き、次の瞬く 間には既に過ぎ去っている。しかもそれは決定的な意義を担転回は彼が自己の不真理性を自覚することなしに、さらにそ 、永遠的なものでみたされている。かかる瞬間は特別な名の不真理性が彼自身の罪であることを自覚することなしに、 自然に起こることはあり得ない。この自覚によって彼は以前 前で呼ばれねばならぬ。われわれはこれに名づけて呼ぼう。 の状態に訣別するのである。しかし激しい心の苦痛を伴わぬ 時の充実と。 訣別があるであろうか。この場合の苦痛は彼が久しい間以前 の状態にいたという意識に基づいている。われわれはかかる 弟子 苦痛を悔いと呼ぼう。悔いとは後をふりかえること、ふりか えりつつしかも前にあるものに早く急いで行きっこうとする 断学ぶ者が不真理でありながら ( そうでなければわれわれは 学ソクラテス的立場に逆戻りしてしまう ) なお人間であり、そことにほかならない。 かって不真理にあった者が真理理解の条件とともに真理を の彼が今や真理理解のための条件と真理とを獲たとするなら ば、彼は既に人間であったのであるから今初めて人間となる獲た限り、そこには無から有への運動にも比すべぎ変化が起 こっている。しかし無から有への移行の起こるのは誕生にお のではないが 、しかし、全く別の人間になるのである。以前