最後 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想25 ニーチェ
179件見つかりました。

1. 世界の大思想25 ニーチェ

これは鳥の性質だ。そして実際、それは生かしておけな まだ飛ぶことのできない人間もそれと同様だ。 、最大の、根源の敵に対する敵意なのだ ! おお、わた 彼にとって、大地と生は重い。重圧の霊がそう欲するつ しの敵意がすでに飛んで行かなか「た方向があろうか、飛だ ! しかし、軽くなり、鳥になろうと欲する者は、自分・ び迷わなかった方向があろうかー 自身を愛さねばならぬ。 こう、わたしは教える。 これについては、わたしは歌を歌うこともできよう もとより、病める異常な者どもの愛をもってではない。 そしていま、歌いたいと思うのだ。たとえ、人気のな なぜなら、彼らにあっては、自己に対する愛までが悪臭を い家に、ただひとりいて、わたし自身の耳に歌わねばなら 放っからだ ! ないにせよ。 ひとは自分自身を愛することを学ばねばならぬーーこ もとより世間には別の歌い手たちがいる。彼らは会場が う、わたしは教えるーー無傷な、健康な愛をもって。自分、 満員になって初めて、その喉がやわらかになり、その手が 自身にとどまることに堪え、あたりをうろっかぬためだ。 雄弁になり、その目が表情をおび、そのこころがめざめ このようにうろっくことが、「隣人愛」と命名される。 る。 わたしはこの連中と同じではない。 このことばによって、これまでもっともうまく嘘がっか れ、偽善がおこなわれてきた。とりわけ、世界にとって重 荷となった者どもによって。 一「馬鹿の手は机と壁をよごす。」「白壁は馬鹿の落書所」とい そしてまことに、自分を愛することを学ぶということ、 、つこし J 、わ 20 による。 これは今日や明日に対する掟ではない。むしろこれは、あ らゆる術のうちで、最も微妙な、最も策略に富んだ、最後 の、最も辛抱強い術なのだ。 いっか人間に飛ぶことを教える者は、すべての境界石を というのは、すべて自己のものは、その所有者である自 . 移し変えているだろう。彼にとっては、すべての境界石そ己に対して、うまくかくされているからだ。そして、あら のものが空中にけし飛ぶであろう。彼は大地にあらたに洗ゆる埋もれた宝庫のうちで、自己の宝庫はもっともおそく 礼して・ーー「軽いものーと命名するであろう。 発掘される、ーーー・重圧の霊がそうするのである。 ほとんどゆりかごのなかで、すでにわれわれには、もう ダチョウはもっとも早い馬よりも早く走る。しかし、そ わるい のダチョウとてもまだその頭を重い大地に重くつつこむ。 もろの重いことばと価値があたえられる。「」と「邪悪」 のど ひとけ

2. 世界の大思想25 ニーチェ

回復だったのだ。おまえたちはそれをまたすぐ手回し風琴計と同じように、くりかえし新たに転倒されねばならな の歌にしてしまうつもりなのか ? 、時が新たに経過し流れすぎるために。 「もうそれ以上語るな」と、ふたたびワシとヘビが だから、これらのすべての年々は、最大のことにお いても、最小のことにおいても、自分自身に等しい 答えた。「快方に向かっているあなたよ、それよりむしろ たてごと だから、わたしたち自身も、おのおのの大いなる年のうち 先す竪琴をととのえよ、新しい竪琴を ! なぜなら、見よ、おお、ツアラッストラ ! あなたの新において、わたしたち自身に等しいのだ、最大のことにお いても、最小のことにおいても。 しい歌には、新しい竪琴が必要だからだ。 ところでいまもしあなたが死のうとするなら、おお、ツ 歌え、たぎりあふれよ、おお、ツアラッストラ、新しい 歌によってあなたの魂をいやせ ! またどんな人間の運命アラッストラよ、その時あなたがどんなことを自分にいお うとするかということまで、わたしたちは知っている。 でもなかったような、あなたの大きな運命を担うために ! だが、あなたの動物であるわたしたちはあなたにお願 なぜなら、おお、ツアラッストラ、あなたが何者であ いする、まだ死なないでくれとー り、何者にならざるをえないかを、あなたのワシとヘビは あなたはその時、ふるえることもなく、むしろ至福のあ よく知っているからだ。見よ、あなたは永遠回帰の教師な まり吐息をつきながら、自分にいうであろう。なぜなら大 のだ これがいまあなたの運命なのだー あなたが最初の者としてこの教えを教えなければならぬきな重苦しさとうっとうしさが、その時にはあなたからと かた こと、 っ この大きな運命がどうしてまたあなたの最大のり除かれているだろうからだ、本当に辛抱強い方であるあ なたよ , 危険、最大の病気でないはすがあろうかー 見よ、わたしたちはあなたの教えることを知っている。 あなたはその時いうであろう。『いまわたしは死んで消 それは、一切の事物が永遠に再来し、わたしたち自身もい えて行く、そして一瞬のうちにわたしは一つの無になるの ラ っしょに再来するということ、わたしたちがすでに無限の だ。魂も身体と同じく死ぬものなのだ。 回数にわたって存在し、一切の事物もわたしたちと共に存 だが、わたしがその中にからまれているもろもろの原囚 こ 在したということなのだ。 それはふたたびわたしを創造す の結び目は再来する、 あなたは教える、生成の大いなる年というものがある、 るであろう ! わたし自身が永遠回帰のもろもろの原因の 大いなる年の一つの怪物がいるということを。それは砂時一つだからだ。 211

3. 世界の大思想25 ニーチェ

たしが一つの大きな使命を持っていると、彼はこの書からをさらに尖鋭化すると共に、この国民の「一流文士ーに対 無神論の問題において、わたしが一種して、わたしにおとらぬ軽蔑をぶちまけている。そして、 予見していた、 の危機をおびきよせ、最高の決定をくだすだろうというのわたしの勇気ーー「一民族の寵児を法廷に引き出す最高の である。彼の見当ではわたしは無神論のもっとも本能的勇気」に対し讃辞を呈して、その論文をとじている : ・ この書の影響はわたしの生涯において実にはかりしれぬ な、がむしやらな型だというのだ。実はわたしをショーベ ほど貴いものがある。あれいらい、だれひとりとしてわた ンハウアーに導いたのも、無神論だったのだ。 しんらっ さらに読みごたえがあり、なかなか辛辣な感じをあたえしとことを構えようとする者はなかったのだ。だれもかれ たのは、へいそはおとなしいカール・ヒレブラントの論文も押し黙っている。ドイツでは一種陰気な用心深さでわた だった。この筆の立っ最後の人文的ドイツ人は、並みはずしを取りあっかっている。わたしは数年来、言論の絶対的 自由を行使してきているが、こういう自由を思いきりふり れてカづよく勇敢にわたしを支持してくれた。その論文は まわせる手は、今日だれも、とりわけ「帝国ーでは、持っ 『アウグスプルク新聞』に出た。今日ではいくらか慎重に ている者はいないのだ。わが楽園は「わが剣の影に」あり 書きあらためられた形で、彼の全集で読むことができる。 これを要するに、わたしはスタンダールの金言 ここではこの書は一つの事件、転換点、最初の自覚、最上 の徴候として取りあっかわれており、精神的な問題におけを実行したわけだ。彼は、社会へ出るのに決闘をもってせ よ、とすすめている。そしてわたしの敵手のえらびようは るドイツ的真面目さとドイツ的情熱の真の再帰として述べ ! ドイツ第一流の自由精神をえらんだのだー どうだろう られている。ヒレブラントはこの書の形式、その円熟した ・ : 実際、まったく新しい種類の自由精神的やりかたが、 趣味、人間と事柄とを区別するその完全な手練に高い敬意 これで初めて出現したのだ。今日までわたしに何が縁遠か をはらっている。彼はこの書をドイツ語で書かれた最上の フリー・スインカーズ ったといっても、ヨーロッパやアメリカの「自由思想家」 まさにドイツ人にとって、きわ 論争文としてほめた、 ポレーミク 見めて危険で、すすめかねる論争の術の最上のものだというの全種族にまさるものはない。「近代的理念」の救いようの 人のだ。わたしがドイツにおけることばの第落についてあえない扁平頭の道化者である彼らとは、わたしは彼らの敵の ていい放ったこと ( ・ーー、・今日彼らは国語純化派を気どっ だれよりも、そりがあわない。彼らもまた彼ら流儀に、彼 らの姿にかたどって、人類を「改善」しようと望んでいる。 て、もはや文章ひとっ組みたてることができない 対し、彼は全面的に賛意を表し、それどころかわたしの説彼らは、わたしの本来のあり方、わたしの意志するところ 371

4. 世界の大思想25 ニーチェ

たしの思想の生きた移植と、わたしの最高の希望のあけぼ のの光を得るために、わたしは何をなげうたなかっただろ 不本意な幸福について 創造者はかって道連れと、自分の希望の子どもを求め こういうなぞとにがにがしさを匈こ、 月冫しだいて、ツアラッ ストラは海をわたった。幸福の島と友人たちから四日の行た。そして、見よ、創造者は、みずからますそれを創造し ないかぎり、見いだしえないことがわかった。 程をはなれた時、彼はあらゆる苦痛を克服した。勝ちほこ こうしてわたしは、わたしの子どもらのもとに行き、ま り、しつかりと足をふみしめて、彼はふたたび自分の連命 の上に立った。その時ツアラッストラは、小おどりして喜た彼らのところからもどりつつ、わたしの事業のさなかに いる。ツアラッストラは、みずからの子どもたちのため ぶ良心に向かってこう語った。 に、みすからを完成しなければならない。 なぜなら、人が心の底から愛するのは、自分の子どもと わたしはまたひとりになった。ひとりでいよう。清い空 と自由な海と共に。そしてわたしのまわりはふたたび午後事業だけだからである。自分に対する大きな愛のあるとこ ろ、そこでは愛は身ごもりのしるしである。こうわたしは かってわたしが友を初めて見いだしたのは、午後であっ吾った。 わたしの子どもらは、最初の春の中でまだ緑し、た ; 、 た。かさねて見いだしたのも、ーーー午後であった。ーーす に寄りそい、ともどもに風に揺られている。それこそわた べての光が一そう静かになる時刻であった。 なぜなら、幸福であって天と地との間の途上にあるものしの庭と最上の土の樹木である。 まことに ! そのような樹木が寄りそって立っていると は、宿るべきところとして、明るい魂を求めるからであ ころに、幸福の島があるー る。すべての光はいま幸福のあまり一そう静かになった。 だが、いつの日かわたしはそれを抜いて、一本一本をひ おお、わが生命の午後よー かってわたしの幸福も、宿 るべきところを求めようと、谷間にくだって行った。そこ とり立ちさせよう。おのおのが孤独と反抗と注意とを学ぶ ように に、幸福は、胸を開いて客をもてなす魂を見いだしたので あった。 ふしくれだって、曲がり、しかもしなやかに堅く、おの おお、わたしの生命の午後よ ! ただ一つのものを、わおのの木を海辺に立たせよう。不屈な生の生きた燈台とし

5. 世界の大思想25 ニーチェ

ああ、ふいごの働ぎしかしないような大思想がおびたた しくある。それはふくらまし、いよいよ空虚にする。 創造者の道について きみは自分を自由と称するのか。わたしが聞きたいの 兄弟よ、きみは孤独の中に行こうと欲するか。きみ自身は、きみの支配的な思想であって、きみが一つのくびきか への道を求めようとするか。なおしばしためらって、わた らのがれた、ということではない。 しのいうことを聞け。 きみは一つのくびきをのがれることを許されたものであ 「求める者は、道を失いやすい。およそ孤立は罪である。」るか。奉仕的服従を放棄するとともに、最後の価値を放棄 こう群集はいう。そしてきみは久しくこの群集に属してい した者も少なくない 何からの自由か。それがツアラッストラになんのかかわ 群集の声はきみのうちになおもひびくだろう。そして、 りがあろう ? だが、きみの目は明らかにわたしに告げね きみが「自分はもはやきみたちと同じ良心をともにしな ばならぬ。何のための自由かを。 ーという時、それは嘆きであり、苦痛であるだろう。 きみは自分自身にきみの善と悪とを与えることができる 見よ、この苦痛そのものを生んだのは、あの同じ良心で か。きみの意志を律法のように自分の上にかかげることが あった。その良心の最後の徴光がまだきみの悲しみの上に できるか。きみ自身にとって、きみの律法の裁判官、復讐 燃えている。 者となることができるか。 だが、きみは、きみ自身への道である悲しみの道を行こ きみ自身の律法の裁判官、復讐者とだけいっしょに孤立 うと欲するのか。それでは、それに対するきみの権利と力しているのは、恐ろしい。すなわち、一つの星が孤独の荒 を示せー 涼たる空間、氷のような気息の中に投げだされるのであ きみは新しいカ、新しい権利であるか。最初の運動である。 るか。みすから回転する車輪であるか。きみは星をも強要 今日なおきみは多くの者のために悩んでいる、きみ、ひ して、きみのまわりを旋転さすことができるか。 とりなる者よ。今日なおきみは勇気と希望を完全に持って ああ、高きをのぞむ情欲はおびただしくある ! 野心家 たちのけいれんはおびただしくある ! きみがそういう情 だが、いつの日か孤独はきみを疲れさせるだろう。いっ の日かきみの誇りはのたうち、きみの勇気は歯ぎしりする 欲家や野心家のひとりでないことを示せ !

6. 世界の大思想25 ニーチェ

ざんぎやく スタンダール、これは スの精神を「解放ーしたのだ : ・ 的残虐のこのもっとも戦慄すべき形式の論理そのものとし と て愛しているということ、わたしがモンテーニ = のいたずわたしの生涯のもっとも美しい偶然の一つであるが いうのは、わたしの生涯で一時期を画するようなことは ら気のいくぶんかを精神に持っており、ひょっとしたら肉 体にも持っているかもしれぬということ、わたしの芸術家すべて偶然のおくりもので、ひとから推せんを受けたこと このスタンダ ールこそ、そ など一度もなかったからだ 趣味が、シェークス。ヒアのような野性的天才を押さえて、 つうふん の物事のさきを見とおす心理家の目、もっとも偉大な現実 時に痛憤をおぼえながらもモリエール、コルネイユ、およ びラシーヌの名を庇護するということ、結局これらのこと的人間に近いことを思わせる ( 爪 = ョッテナポレオンヲ知 まあく レ ) その現実把握によって、まったく貴重な存在だ。 どもは、最近代のフランス人たちもまたわたしにとって魅 、、まとんど見当ら 力ある交際仲間であることをさまたげるものではない。現最後にとりわけ、フランスでは数少なしー スベキエス デリケート , リにおけるほど、あんなに好奇心が強く同時に繊細ぬ種属である正直な無神論者として、スタンダールはよ、 在の。、 いちおうプロスペル・メ りしれぬ価値をもっている、 な心理家たちをいっぺんにすくいあげるには、歴史のどの ひょっとしたら、わたし自 リメにも敬意を表するが : 世紀に網を打ったらよいか、わたしにはまったく見当もっ かない。試みに名をあげるとーーというのは、かれらの数身、スタンダールをねたんでいるのではないか ? 彼は、 はけっして少なくないからだーーポール・ブールジェ、。ヒわたしこそ吐きえたろうと思われる最上の無神論者的警句・ エール・ロティ、ジプ、メーリヤク、アナトール・フランを、わたしからさらっていった。「神の唯一の弁明は、そ 。わたし自身 ス、ジュール・ルメートルの諸君、あるいはこの強い種族の存在しないことである」という警句だ : : : きっすい はどこかで次のようにいったことがある。「これまで生存 のただ一人、わたしがとくにすきな生粋のラテン人ひとり ーパッサンである。打ち明けに対する最大の異論は何であったか ? 神だ」と。 をあげるなら、ギー・ド・モ よた話、わたしはこの世代を、彼らの偉大な先生たち以上に 見 さえ買っている。先生たちのほうは、そろいもそろってド を 一「爪ニョッテライオン leonem ヲ知ルーというラテン語のこ のイツ哲学によって毒されている。 ( たとえばテーヌ氏はヘ とわぎをもじって、「ナポレオン Napoleonem 」にしたもの。 ーゲルのために台なしになった。彼はヘーゲルのせいで偉 スタンダ ールは「意カーを信仰し、したがってナポレオンはそ 大な人々や時代を誤解している。 ) ドイツの手が伸びるか の偶像であった。 ぎり、ドイツは文化を台なしにする。戦争が初めてフラン

7. 世界の大思想25 ニーチェ

どきどきする ! なんじの沈黙はわたしを窒息させようと まことに、わたしはおまえたちの陰険な美しさに対し疑 する ! なんじ、深淵の沈黙者よー い深い ! あまりにはだざわりのよいビロードのような徴 わたしはまだ一度もなんじを呼びあげることをあえてし笑を疑うところの、恋する男に、わたしは似ている。 なかった。なんじを いだいているというだけで、すで 恋する男、嫉妬深い男が、愛情を冷酷さのうちに隠し に十分だった ! わたしはまだ最後のシシの奔放と気ままて、最愛の女をはねつけるようにーーわたしもこの幸福な を発揮するに足るほど十分強くなかった。 時をはねつける。 すでになんじの重量がわたしにとって常に十分恐るべき 去れ、おまえ、幸福な時よ ! おまえと共に不本意な幸 ものであった。しかし、いつの日かわたしは、強さを見い 福がやってきた ! 自分の最深の苦痛をよろこび迎えるた だし、なんじを呼びあげるシシの声を見いださなければな めに、わたしはここに立っている。 おまえはふさわし らない ! くない時にきた , まずそのことで自分を克服したら、その時は、さらに大 去れ、おまえ、幸福な時よ ! むしろ、宿をかしこに、 きなことについて自分を克服しようと思う。そして、一つ わたしの子どもたちのもとにとれ ! 急いで行けー の勝利がわたしの完成の確証であるようにー そして、タベにならぬうちに、わたしの幸福をもって彼ら その間わたしはなおさだかならぬ海をただよう。偶然を祝福せよー が、なめらかな舌をもっ偶然がわたしにこびる。わたしは 早くもタベが近づく。太陽が沈む。かなたヘーーわたし 前を見、うしろを見るがーーまだ果てしを見ない。 の幸福よ ! まだわたしの最後の戦いの時はこなかったーーそれと も、その時はいまやってくるのか。まことに、わたしをめ こうツアラッストラは語った。そして夜どおし不幸を待 ぐって、海と生命が陰険な美しさをもって、わたしを見つ った。しかし、待ったのは、むなしかった。夜は終始明る めるー く静かであった。幸福そのものはいよいよ近づいてきた。 おお、わたしの生命の午後よ ! おお、タベの前の幸福明け方ツアラッストラは自分の心に向かって笑い、あざけ よ ! おお、沖合いの港よ ! おお、不安定なものの中のるようにいった。「幸福がわたしを追ってくる。それは、 平和よ ! なんとわたしはおまえたちすべてを疑うことわたしが女を追わないからだ。さては、幸福は女なのか。」一

8. 世界の大思想25 ニーチェ

をあたえてくれたのも、同様に病気であった。それはわた すべて密輸入でもぐりこんでいた「高等詐欺」、「理想主 しに忘却を許した。忘却を命じた。それはわたしに、静か義」、「美しい感情」、そのほかさまざまの女性的なものに、 に横たわっていること、何もしないでぶらりとしているこわたしが自分で急激な最後をとげさせた、一つのぎびしい と、待っていること、辛抱していることのやむなさを贈っ 自己訓練の記念碑、『人間的な、あまりにも人間的な』は、 てくれた : しかしそれこそ実に考えるということなのすべてその主要な部分はソレントで書きおろされた。この ーゼルの : 目だけに話を限定しても、本の虫になること、は本がその終結を、その最後の形をえたのは、。ハ つきりいえば文献学に、終止符が打たれた。わたしは「本」冬、ソレントとは比較にならぬほど都合のわるい状況下に から救われた。何年間ももはや何一つ読まなかった、 おいてであった。当時バーゼル大学の学生で、わたしにた わたしがかって自分に示した最大の恩恵であるー ・ガスト氏が、ほんとうは いへん傾倒していたペーター わば埋もれていた、他の自我にたえす耳をかさねばならな この本の責任者だ。わたしは頭痛鉢巻で苦痛にたえながら いことのために ( ーー・ーそしてそれこそ実に読むということ ロ述し、彼が筆記をし、校正もした。ーー結局、彼がほんと だ ! ) いわば黙していたあの一番底の自我が、ゆっくり うの筆者で、わたしは著者に過ぎなかったわけだ。この本 だが、それは と、内気に、疑わしげに目をさました、 がついにできあがって、わたしの手もとにとどいた時 ついにふたたび語ったのである。わたしは自分の生涯のも これには重病人のわたしもひどくびつくりしたが / イロイトへも献本二部 っとも病弱でもっとも苦痛のひどかった時期ほど、わが身たしは他のところといっしょに、く に多くの幸福を持ったことはなかった。この「わたしへのを送った。偶然の中に意味のこもった一つのふしぎによっ しょこう 復帰」がどんなものであったかを理解するには、『曙光』 て、これと同時に、「貴き友フリードリッヒ・ニーチェ もしくは『漂泊者とその影』あたりを見さえすればよい に。教会長老リヒアルト・ワーグナー」というわたしあて それは最高の種類の快癒そのものであったー : ・他のの献詞をそえて、『。 ( ルジファル』台本の美しい献本が一 よ 見はただその結果にすぎなかった。 二つの書物のこのよ 部、わたしの手もとにとどいた。 こうさ 人 の うな交叉ー・ーわたしはそこに何か不吉なひびきでも聞いた こ かのような気がした。まるで短刀と短刀が交叉したような ともかくわたしたちふたりはそ 音てはなかったか ? ・ : : ・ う感じた。ふたりとも黙っていたのがその証拠だ。

9. 世界の大思想25 ニーチェ

うツアラッストラは語っこ 残酷きわまる敵よ、 わたしにー・ーおまえをー 行ってしまった ! 彼のほうが逃げだした、 わたしの最後の唯一の仲間、 わたしの偉大な敵、 わたしの未知の者、 わたしの絞首する神はー しかし、ここでツアラッストラはもう我慢ができな くなり、杖を取ると、カのありったけをふるって、泣きご いや ! もどってこい とをいっている男を打ちのめした。「やめろ ! ーと、彼は おまえのすべての責め苦と共に ! 怒りにみちた笑いをあげて、老人に叫んだ。「やめろ、俳 あらゆる孤独な者のうちの最後の者に 優 ! にせ金づくり ! 根っからのうそっき ! おまえの おお、もどってきてくれ ! 正体なんか、わたしにはよく分かっているんだぞ ! あらゆるわたしの涙は うんとおまえの足をあたためてやろう、おまえ、よこし 川となっておまえのほうへ流れて行く ! まな魔法使いよ、おまえみたいなやつをーーぶんなぐって そしてわたしの最後の心の烙は 熱くしてやることは、わたしのお手のものなのだ ! 」 おまえのために燃えあがる ! 「よしてくれ」と、老人はいって、地面から飛びあ おお、もどってこい がった。「もうぶたないでくれ、おお、ツアラッストラ ! わたしの未知の神よ ! わたしの苦痛よ ! わたしのわたしがあんなことをやったのも、ただ演技にすぎないの 最後のーー幸福よ ! あれしきのことは、わたしの芸のひとつなのだ。それを ため あなたに試しに演じてみせて、実はあなた自身を試そうと 一ツアラッストラが第三番めに出会ったのは、俳優的な芸術思ったのだ ! そして、実際、あなたはよくわたしを見ぬ 家である魔法使いである。 ( そのモデルはワグナーであること が隠見せられる。 ) 彼の演出はすべていつわりであるが、たた 一つ真実なことがある。それは自分がまがいものだという自覚 を持っていることだ。そのためにツアラッストラは彼を自分の 洞穴に招待する。 ニーチェの詩集では「アリアドネの嘆き」と題されている 詩と同じ。 ため

10. 世界の大思想25 ニーチェ

だが、わたしのような性質のものは、こういう時を避けある。このきびしさが、すべて登山する者に必要である。 1 亠、よ、・ すなわち、その時はこういう。「いま初めてなんじ これに反し、認識する者としてしつこく目をくばる者 は偉大さのなんじの道を行く ! 山頂と深淵とは どうして万事につけてその前景以上を見うるだろうー や一つに帰したー だが、おお、ツアラッストラよ、なんじはあらゆるもの なんじは偉大さのなんじの道を行く。いまや、これまで の根底と背後を見ようと欲した。それゆえなんじは自分自 なんじの最後の危険と呼ばれたものが、なんじの最後の隠身を越えて登らなければならない 上へ、上へ、なんじ れ家となったー の星をも自分の下に見るようになるまで , なんじは偉大さのなんじの道を行く。いまや、なんじの そうだー 自分自身を見おろし、さらに自分の星を見お 背後にはもはや道のないことを、なんじの至上の勇気とし ろさねばならない。それで初めて自分の頂上といえるだろ・ なければならない , う。それだけがなお自分の最後の頂上として残ってい なんじは偉大さの・なんじの道を行く。この道をたどっ て、なんじのあとをこっそりつけて行く者があってはなら なんじの足自身がみすからの通ったあと、その道 こうツアラッストラは、登りながら自分に向かって を消して行け ! そこには、不可能としるされてあれ ! 、きびしい警句で心をなぐさめた。いまだかってなかっ もし、はしごが全然ないとしたら、なんじは自分の頭の たほど、彼の心はきすついていたからである。そして山の 上に登ることを心得ねばならない。そうしないで、どうし背の高みにきた時、見よ、彼の前に別な海がひろびろと横 て上に登ることをのぞむのか。 たわっていた。彼は立ちどまって、長いあいだ沈黙してい なんじ自身の頭の上に、そして、なんじ自身の心を越え た。しかし、この高みでは夜は冷たく、澄んで、明るい星 て ! なんじにそなわるもっとも柔和なものがもっともき にちりばめられていた。 びしいものにならなければならない。 わたしはみすからの連命を知る、と彼はようやく悲しく たえす自分をしきりにいたわった者は、しきりにいたわ いった。よし ! 覚悟はできている。わたしの最後の孤独 ったために、ついには病弱となる。きびしくするものを、 はまさにはじまった。 ほめよー ハターとミツの流れる国をわたしはほめない ! ああ、わたしの足下のこの黒い悲しい海よ ! ああ、こ 多くを見るためには、自分を無視することを学ぶ必要が の身ごもれる、暗夜の苦渋よ ! ああ、運命と海よ ! お