生命 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想25 ニーチェ
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1. 世界の大思想25 ニーチェ

こうツアラッストラは語った 105 いものは、命令される。それが、生命あるものの様態であ いた。民衆によって善および悪として信じられるものが 権力への古来の意志を察知させる。 わたしが聞いた第一二のことはこうである。すなわち、命 そのような客たちを小舟にのせ、彼らにきらびやかさと 誇らしい名を与えたのは、きみたちであった。賢い者たち令は服従よりむ十かしい。命令者はすべての服従者の重荷 をになうというだけではない。また、この重荷が命令者を よーーきみたちと、きみたちの支配的意志であった , たやすく圧しつぶすというだけではない。 川はきみたちの小舟をさきへ運ぶ。運ばざるをえないの およそ命令には、試験と冒険とがひそんでいると、わた だ。砕かれた波があわだとうが、怒って電骨にさからおう しには見えた。生あるものは、命令する時、つねにみすか : 、問題にならないー らを賭ける。 きみたちの危険は、川ではない、きみたちの善と悪との 終末でもない、きみたち、賢い者よ。きみたちの危険は、 そうだ、生あるものは、みすからに命令する時、みすか あの意志そのもの、権力への意志 無尽蔵な生みだす意らの命令をつぐなわねばならない。自分自身の律法の裁判 志である。 官、復讐者、犠牲とならねばならない だが、善と悪とについてのわたしのことばをきみたちが どうしてそういうことになるか ! そうわたしは自分に 理解するように、そのために、生命と、生きとし生けるす たずねた。生あるものを説得して、服従し、命令し、命令 しつつも服従するようにさせたのは、何か。 べてのものの様態とについてのわたしのことばをいおう。 では、わたしのことばを聞け、賢い者たちょ ! 真剣に 生あるものをわたしは追求した。その様態を知るため、 最大の道も最小の道も歩いた。 検討せよ ! わたしが生命そのものの心臓に忍び入った か、またその心臓の根に食い人ったかをー 生命のロが閉ざされた時、その目がわたしに語るよう に、百面の鏡をもってそのまなざしをとらえた。すると、 生あるものを見いだしたところに、わたしは権力への意 彼の目はわたしに語った。 志を見いだした。奉仕する者の意志の中にも、支配者にな ろうとする意志を見いだした。 だが、生あるものを見いだしたところには、服従のこと 弱者が強者に奉仕するのは、より弱い者を支配しようと ばも聞かれた。生きとし生けるものはみな、服従するもの である。 する弱者の意志が、彼を説得するからである。弱者もこの 意志だけは欠かすことができない。 第二にはこうだ。 みずからに服従することのできな

2. 世界の大思想25 ニーチェ

こうして、従順と戦争との生活を生きょ ! 長い生命に なんの値打ちがあろう ! どんな戦士が容赦されることを 欲するだろうー わたしはきみたちを容赦しない。わたしはきみたちを心 底から愛する、戦争における兄弟たちょ ! こうツアラッストラは衄った。 一精神的、道徳的戦いについて述べる。 = 容赦されるのは、弱者として扱われることだから。 」人類の向上という高い使命のための服従であれ。 新しい偶像について どこかにまだ民衆と畜群とがいる。だが、わたしたちの ところにはいない、兄弟たちょ。ここには国家がある。 国家 ? それは何か。では、聞け ! さあ、耳をひら け。いまわたしはきみたちに民衆の死について、わたしの ことばを衄る。 国家とは、あらゆる冷たい怪物の中のもっとも冷たいも ののことである。それはまた冷たくあざむく。そのうそは 国家の口からはいだす。「自分は、国家は、すなわち民衆 である」と。 それはうそだ ! 民衆をつくり、彼らの上に信仰と愛と をかけたのは、創造者であった。こうして創造者は生命に 奉仕した。 多くの人間に対しわなをかけ、それを国家と称するも は、絶減者である。絶減者は多くの人間の上に一つの剣と 百の欲望をかける。 まだ民衆がいるところでも、民衆は国家を理解せず、国 家を意地悪なまなざしとして憎み、風習や法律に対する罪 として憎む。 民衆を区別するしるしを示そう。およそ民衆は善と悪に ついてみずからのことばを語る。隣人はそれを理解しない。 民衆は風習や法律にかけて、自分の言語を考えだした。

3. 世界の大思想25 ニーチェ

8 ばれようと。 人は知恵に渇え、飽くことがない。ヴェールを通して あなたがた男性はわたしたちに常にみずからの徳を与え見、網を通してとらえる。 知恵は美しいか。わたしが何を知ろう ! もっとも年と るーーーああ、あなたがた、節操ある人々よ ! 」 ったコイでも、知恵をもってすれば、おびきよせられる。 こう彼女は、信じられない女は、生命は笑った。だが、 知恵というこの女は変わりやすく、強情だ。たびたびわ わたしは、彼女が自分自身を悪くいう時、彼女とその笑い を決して信じない たしは彼女がロびるをかみ、髪を逆にくしけするのを見 わたしが荒々しい知恵と内証で語った時、知恵は怒ってた。 知恵は意地わるで偽りであるかもしれない。そしてすべ いった。「あなたは意欲し、欲望し、愛する。その理由だ ての点で女性である。しかし、彼女が自分自身を悪くいう けであなたは生命をほめたたえる ! 」 それに対しわたしは、意地わるく答え、怒っている知恵時こそ、彼女はもっとも多く誘惑する。」 に真実を告げるところだった。みすからの知恵に向かって わたしが生命に向かってこういった時、生命は悪意をも って笑い、目を閉じた。「あなたはだれについて話してい 「真実をいう」時より意地わるく答えることはできない。 るのか。たぶんわたしについてではないか」と生命はいっ つまり、わたしたち三者の間はこうなのだ。わたしは心 の底から生命だけを愛するーーしかも、実際、生命を憎むた。 時、もっとも多く愛する ! 「あなたのいうことが正しいとしてもーーそれを面と向か っていうとはー しかし、わたしが知恵に対して好意的である、しばしば だが、さあ、あなたの知恵についても語 あまりに多く好意的であるのは、知恵が非常に多く生命をれ ! 」 想起させるからであるー ああ、いまやおまえはふたたびおまえの目を開いた、お 知恵は目を、笑いを、そして黄金の釣りざおさえ持つ。 お、いとしい生命よ ! 測り知れない底にわたしはふたた 知恵と生命と両者がこんなによく似ているのを、わたしは び沈んでいくように思われた。 どうしようがあろう ? ・ かって生命がわたしに、「知恵とはいったい何者か」と たすねた時、わたしは熟をこめていった。「ああ、ほんと この知恵だ , こうツアラッストラは歌った。だが、踊りが終わり、少 女たちが去ると、彼は悲しくなった。

4. 世界の大思想25 ニーチェ

この点でも、結理を二、三歩押しすすめると、何週間も墓の中で眠る回教 いてその正体を明らかにしていること たくはっそう 。およそ反応したら最後、 芻局、わたしはどれだけ自分の長い病気に負うているかしれの托鉢僧になるわけである : しようもう 間題は必ずしも簡単ではない。力のほうからも、 たちまち自分を消耗することになるから、全然もう反応し 弱さのほうからも、この間題を体験していなければならな これがその論理である。そして、ひとの急速に燃え いからだ。病気であること、からだが弱いということに対つきることは、怨のにまさるものはない。憤慨、病的 な傷つきやすさ、復讐に対する無力、復讐したくてうすう して、およそ何か文句をつけなければならないとしたら、 それは、病弱にあっては、人間の持っ本来の治癒本能、つずしていること、あらゆる意味で毒を混ぜること、 、、、、、、、ぜいじゃく まり防衛武装の本能が脆弱になるという点だ。病弱な人れはカつきた者にとっては、確かにもっとも不利な反応 は、何ひとっ厄介払いできない、何ひとっかたをつけられの仕方である。神経力の急速な消耗、有害な分泌の病的昻 たんじゅう 何ひとっ突っかえすことができない、 すべてに進、たとえば胆汁が胃の中に分泌されることなどは、ここ よって傷つけられる結果になる。人間も事物もうるさくっ から起こるのである、怨恨は病人にとって禁物そのもの きまとってくるし、いろんな体験はあまりに深く急所をつ 彼の悪であり、残念ながらまた彼のもっとも自然な性 き、思い出は膿を持った傷ということになる。病気である向でもある。 ぶつだ ということは、一種の怨恨そのものである。 このことを、あの深い生理学者仏陀は理解していた。彼 の「宗教」は、キリスト教のような情けないしろものと混 これに対して病人にはただ一つ大きな治療法がある わたしはそれをロシア的宿命論と呼ぶ。行軍が辛すぎる同されないように、むしろ一種の衛生学と呼んだほうがい くどく いが、怨恨に打ちかっことをその功徳とした。それから魂 と、ロシアの兵士がついに雪の中に身を横たえる場合の、 これが快癒への第一歩である。「敵意 あの無抵抗の宿命論である。もはやどんなものも受けつけを解放すること 全然もう反によっては敵意は終ることはない。親愛によって敵意は終 す、かまわず、自分の中に取りいれない、 こう新る それは必すしも死に対する勇気とばかりは る」と、仏陀の教えの最初に書かれている、 応しない : こう語るのは生理学である。 いえない。むしろ、生命がもっとも危険にさらされた事情 のは道徳ではない。 のもとで、生命を持ちこたえさせる手である。こうした宿 弱さから生まれた怨展は、だれよりも弱者そのひとにも ところが別の場合、すなわち、ゆ 命論の大きな理性は、新陳代謝を低減すること、それを緩っとも有害である。 たかな天性が前提となる時は、怨恨など、ちゃんちゃらお 慢にすること、一種の冬眠への意志であることだ。この論

5. 世界の大思想25 ニーチェ

何をわたしがつくろうとも、どんなにそれを愛しようと より小さいものが、より大きいものに身をささげるの 加は、最小のものに対する快楽と権力とを得んがためであも・ー・ーやがてわたしは、つくったもの、愛したものの敵に - る。そのように、最大なものも身をささげて、権力のためならなければならない。わたしの意志はそれを欲する。 認識する者よ、きみもまたわたしの意志の行路と足跡に にーー生命を賭ける。 すぎない。まことに、権力へのわたしの意志は、真理への 冒険であり、危険であり、死を賭けてのさいころ遊び、 きみの意志をも足として行くのだー それが最大なものの献身である。 儀牲と奉仕と愛のまなざしのあるところ、そこにも、支「存在への意志』なることばを真理に向けて射たものは、 配者たろうとする意志がある。より弱い者は間道を忍んでもちろん真理に射あてなかった。こういう意志はーー存在 . しな、 ついにはより強い者の心臓にはいりこみ 城 ( にはいり、 そこで権力を盗む。 なぜなら、存在しないものは、意志することができない 生命はみすからわたしに、つぎの秘密を語った。「見よ」からである。だが、また、存在の中にあるものは、どうし と生命はいった。「自分は常にみすからを克服しなければて存在しようと意志することができるだろうか ! ならないものである。 生命があるところにだけ、意志もある。だが、それは生 わたしはきみにこう教えるーー燁 もちろん、きみたちはそれを、生産への意志、あるい 命への意志ではなく は、目的への、より高いものへの、より遠いものへの、よ力への意志であるー り多様なものへの衝動と呼ぶ。だが、それらはみな一つこ 生きる者にとっては、多くのものが生命そのものより高 とで、一つの秘密にすぎない く評価されている。だが、この評価そのものからーーー権力・ この一つのものを断念するより、わたしはむしろ没落し への意志が語っている ! 」 たい。まことに、没落と落葉のあるところ、見よ、そこで こう生命はかってわたしに教えた。それからわたしはき は生命は自己を犠牲にする・ーー権力のためにー みたちに、もっとも賢い人々よ、きみたちの心のなそを解・ いてやろう。 わたしは戦いと、生成と、目的と、諸目的の矛盾でなけ ればならない。ああ、わたしの意志を推察するものは、ど まことに、わたしはきみたちに告げる。不朽不減であう 善と悪は んなに曲がった道をわたしの意志が行かなければならない ような善と悪・ーーそういうものは存在しない かをも、よく推察するだろうー 常にみすからの内からくりかえし自分を克服しなければな

6. 世界の大思想25 ニーチェ

: しかもそれはいつも同じ原因からなのだ。彼ら 利、うそをつく権利に対する方式を見つけたのだ。ライプ レアリテート ニツッとカント のもっとも内面に巣くっている現実に対する臆病 ( それ ヨーロッパの知的誠実のこの二大制動 ・は真理に対する臆病でもある ) 、彼らにおいて本能となっ機 , ているその不誠実、「理想主義」からなのだ。 ドイツ人は最後に、デカダンスの両世紀をつなぐ橋の上 ヨーロッパから、その最後の偉大な時代であるルネッサ に、地球支配を目的として、ヨーロッパから一つの統一 ンス期の収穫を、その意味を奪ったのも、ドイツ人だ。しを、一つの政治的および経済的統一をつくりだすに足るほ フォルス・マジュール かも価値の一段高い秩序、高貴な、生命を肯定し、未来をど十分な強さを持った、一個の天才と意志の不可抗力が 保証する価値が、その反対の価値、衰亡の価値の本拠で勝あらわれた時、彼らのいわゆる「解放戦争」によって、ヨ ・利に到達し、 そこに座をしめている連中の本能の中に ーロッパから意味を、ナポレオンの存在に宿る意味の奇跡 までしみこんだその瞬間においてなのだー ルッタ こを奪いさった。 こうして彼らは、その後やってきたす の宿命の修道士は、教会を、さらに千倍も悪いことには、 べてのこと、今日あるすべてのことに対して責任を持って キリスト教を、ちょうどそれが倒れたその瞬間に、再興し いる。世にもっとも反文化的なこの病患と背理、ナショナ たのだ : キリスト教を、この宗教となった生命への意 リズム、ヨーロツ。ハがそれに病んでいるこの国民的神経 志の否定を ! : ルッター、彼一流の「ありうべからざる病、ヨーロツ。ハの小国分立と小さな政治のこの永遠化に、 こと」を列挙して、その根拠から教会を攻撃しーー - ・したが責任があるのだ。彼らはヨーロッパそのものからその意味 これを立て直した、ありうべからざる修道士を、その理性を奪い取った、ーー・彼らはヨーロッパを袋小 わたし以外にだれがこの袋 カトリック教徒こそルッター祭を祝い、ルッター劇路に連れこんだのである。 をつくっても、当然だろう : ・ : もろもろ : 。ルッターとーー「道徳的再 小路から出る道を知っているであろうか ? 生ーとは ! あらゆる心理学など悪魔にくれてやってしまの民族をふたたび結合するにたるほど十分大きな一つの任 疑いもなく、ドイツ人は理想主義者なのだ。 務を ? を の正直な、明確な、完全に科学的な思考法が、それこそ巨 大な勇気と自己克服でかち得られたその時に、一一度までド ィッ人は、古い「理想」への間道を見つけだすことができ た。真理と「理想」との妥協を、結局は科学を拒否する権 こ

7. 世界の大思想25 ニーチェ

ものを持ち去れ ! そうすればするほど、わたしは人生に ( 一つの視点しか持たぬ彼らの目が否定されているにすぎな 東縛されなくなる ! 」 もしこれらの人々が心底から同情者であるならば、彼ら 濃い憂うつに包まれ、死をもたらす小さい偶然を熱望し は隣人に生活をいとわしくさせるだろう。意地悪であるこ つつ、彼らは待ち、歯を食いしばっている。 とーー・それが彼の真の親切であるだろう。 あるいはまた、 / 彼らは菓子に手を出し、そうしながら、 彼らは生命から離れようと欲する。ところが、彼らは他 自分の子どもつ。ほさをあざわらう。彼らは生命のわらにし がみつき、自分がまだ一本のわらにしがみついていることの者たちを鎖と贈り物をもってなおいっそう堅く人生に縛 りつけようとするのは、どうしたことか ! を、あざわらう。 また、きみたちにとっては生活ははげしい労働と不安で 彼らの知恵はこういう。「生きながらえる者は愚人であ る。そして自分たちはきわめて愚人である ! そのことこあるが、きみたちもはなはだしく生活に飽きてよ か。きみたちもはなはだしく死の説教を聞くべく熟しては そ、人生におけるもっとも愚かしいことである。」 、、 0 . し学 / . し、刀 そう他の者たちはい 「生きるのは苦しみにすぎないー きみたちはみんな、はげしい労働を愛し、速いもの、新 う。それはうそではない。そこで、きみたちは終止してし きみたちは自己に しいもの、珍しいものを愛するが、 まうように配慮せよ ! 苦しみにすぎない生が終止するよ よく耐えない。きみたちの勤勉は逃避であり、自己を忘れ うに配慮せよ , そこで、きみたちの徳の教えはこうであれ。「自殺せようとする意志である。 っ もしきみたちがもっと生命を信じたら、きみたちはもっ ここよりしのび去れ ! 」と。 と少なく瞬間に身をゆだねるだろう。だが、きみたちは待 云「肉欲は罪である」ーーと、死を説教する者たちはそうい ス一つ。 つに足るだけの内容をきみたちの内に持っていない 「わきへ避けて、子どもを生むのをやめよう ! 」 また、怠けるに足るだけの内容さえ持っていない ! 「子どもを生むのは骨が折れる」ーーーと、他の者たちはい 死を説教する者たちの声がいたるところにひびいてい ラーー「なんのためになお生むのか。不幸者を生むにすぎ る。そして大地は、死が説教されねばならないような者た こない ! 」こういう者も死の説教者である。 「同情が必要だ」ーーと、また他の者たちはいう。「わたちに満ちている。 それとも、「永遠の生命か」。それはわたしにとってどう しの持っているものを持ち去れ ! わたしのあるところの

8. 世界の大思想25 ニーチェ

それゆえに、高さを必要と ものを望見しようとする。 を加えようと欲するのである。なぜなら、いま権力を持っ ている人々の間で、まだ死についての説教が一ばん親しまするのだー 高さを必要とするがゆえに、階段を必要とし、階段と、 れているからである。 事情が異なったら、タランテラは異なった教えを教える登る者との矛盾を必要とする ! 生命は登ることを欲し、 だろう。まさに彼らこそかっては、この上ない世界中傷登りつつ自己を克服することを欲する。 友よ、見よ ! タランテラの穴のあるここに、古い寺院 者、異教徒火刑者であった。 明るい目をもってそれを見 平等のこれらの説教者たちとわたしは混同され、とりちの廃墟がそびえている。 がえられたくない。なぜならば、正義はわたしに向かって まことに、 ここにかって自分の思想を石をもって積みあ わたしがそうい いっさいの生命の秘密を、もっとも賢い人のよ げた者は、 実際、人間は平等であるべきでないー わないとしたら、超人へのわたしの愛はいったい何であろ うに、知っていたのだー 戦いと不平等とが、権力と超権力とを得るための戦い が、美の中にも存すること、それを、彼はここでわれわれ 千の大小の橋をわたって、人間は未来に迫っていくべき である。戦争と不平等とがいよいよ多く人間のあいだに置にもっとも明らかな比喩をもって教える。 かれるべきである。わたしの大いなる愛はこうわたしをし 丸天井とアーチが格闘しつついかに神々しく屈折してい たて語らせるー るかを。神々しく迫るそれらがいかに光と影とをもってた っ : いに迫り合うかを 語人間はその敵対関係において、形象と幽霊との創始者で このようにわれわれも堂々と立派に敵となろう、友よー 云あるべきである。彼らの形象と幽霊とをもって彼らはさら 神々しくわれわれもたがいに迫り合おう ! にたがいに最高の戦いを戦うべきであるー ああ ! いまタランテラがわたし自身をかんだ、わたし 善悪、貧富、高下、その他いっさいの価値の名称、それ ツは武器であるべきだ。生命はたえす自己自身を克服しなけの古い敵が ! 神々しく堂々と立派にわたしの指をかん こればならないという警笛であるべきだー そうタランテラは老ノ 生命みすから、柱と階段をもって、高くきすきあげよう「罰と正義がなければならないー える。「この男が敵対行為をたたえる歌を歌ったからには、 とする。はるかな遠方を展望し、幸福にめぐまれた美しい 「人間は平等にあらすーといっているからである。

9. 世界の大思想25 ニーチェ

一ツアラッストラ・ニーチェははっきりした自覚をもって、 人間の魂と未来のための悲劇的な戦いに発足する。 = ツアラッストラは、誇りの象徴なるワシと、知恵の象徴な るヘビを伴って行くが、知恵を失っても、誇りは失うまいとす 三序言の結論を要約しておく。人間はいまや、上昇して「超 人になるか、下降して「末人ーになるか、重大な決定に直面 している。人間を精神的にみちびくはすのさまぎまな力はもは や役に立たない。すなわら、教会は生命と現世の敵であって、 精神的に反動的である。道徳はかたくなに偏狭になってしまっ た。国家は無責任な扇動家にかきまわされている。科学はうぬ ばれに陥り、非現実的である。哲学は抽象的体系にとらわれ、 人間の生命を豊かにする能力を持たない。人類はこうして理想 への真の指導者を必要とする。

10. 世界の大思想25 ニーチェ

335 かしい感じなのだ。つまり怨恨みたいな感情にとつつかま らないことこそ、ほとんどそのゆたかさの証明といえるの である。わたしの哲学は「自由意志」の説にまでふみこん で行って、復讐や怨恨の情との戦いをひきうけてきたが キリスト教との戦いはただその一つの場合にすぎない あの場合の真剣さを知るほどのひとなら、なぜわた 戦いはまた別の間題だ。わたしはわたし流に戦闘的であ しがここで実践における自分の個人的態度まで説明し、わる。攻撃はわたしの本能に属する。敵でありうること、敵 たしの本能に狂いがなかったことを、何のために明らかに であること これはおそらく強い天性を前提とする。 するか、わかってくれるだろう。デカダンスの時期には、 すれにせよこれはすべての強い天性において必要なもので わたしは復讐や怨恨は有害と見て、自分に禁じた。生命がある。こういう天性は抵抗を必要とする。したがって抵抗 、、、パトス ふたたびそれに負けないだけに、ゆたかさと誇りを持つよを求めるのである。攻撃的情熱が強さに必然的に属してい うになるとすぐ、わたしはそれを自分の下にあるものとし ることは、復讐や怨恨の情が弱さに属しているのと同様で て、自分に禁じたのだ。まえに述べた「ロシア的宿命論」ある。たとえば女性は復讐心が強い。これは女性の弱さに が、どういうところに、わたしの場合、あらわれたかとい 由来している。それは他人の苦しみに感じやすい女性の性 うと、ひとたび偶然によってあたえられた以上、ほとんど分が弱さにもとづいているのと同様である。 , ーー攻撃者の 堪えきれないような状態・場所・住居・交際仲間であって強さは、どういう敵対関係を必要としているかということ も、わたしはそれを何年間もねばり強く守りぬいたのであで、一種の尺度のように測定できる。どれだけ強くなった る。 そういうものを変えること、変えられると思うこ かは、強力な敵手ーーあるいは手ごわい問題を求めること そういうものに反抗するよりも、そのほうがまし に示される。というのも、戦闘的な哲学者は、問題に対し 。わたしのこの宿命論をかきみだし、わた てまでも決闘をいどむからである。その任務は、何でもい をだったのだ のしをむりやり目覚ますことに、わたしは当時死ぬほどの悪 いから抵抗を征服するということではなくて、自分の全力 量、その自在さと武芸の練達ぶりを賭しうる抵抗、ーーす 意を感じた、ーー実際それはまたいつでも死ぬほど危険だ ったのである。 自分自身を一個の運命のように受けと なわち、同格の敵手を征服することにある : : : 。敵と対等 ること、自分を「違ったようにー欲しないことーーあのよ であること これが誠実な決闘の第一の前提だ。馬鹿 こ うな状態では、これこそ大きな理性そのものなのである。 しよう