しいかえると、われわれの演繹規則は、「カはを含意す 「九は、が九を含意することを含意する。」これは る」を確立するのに使う規則としてだけでなく、実質的な とよばれたものである。 前提、つまりわれわれの推論式の力としても使用できる。 はわれわれの推論式のカ、は「カはを含意する」を たとえば、カが ? を含意するとすれば、が / を含意する表わすとみられるから、クとして、 とき力は / を含意することがいえることを証明したいとす 「は、九が九を含意することを含意する。」 る。ここには含意をのべる三つの命題の関係がある。「カ に到達する。これは証明すべき命題であった。この証明 はを含意する」、「はを含意する」、「カはを含意すで、 << をあたえる第五原理は内容的な前提として登場し、 る」を、それぞれ、、九とおく。いま、右にのべた原を導く第四原理は推論の形式を表わすものとして使われ 理の五番目をとり、カに非力を代人し、また「非カまたは ている。演繹理論では前提の形式的な使用と内容的な使用 4 」が定義によって「カは〃を含意する」と同じものであとは密接にからみあっており、両者が理論上区別されるこ ることを思い出す。すると五番目の原理はつぎの命題をあとを知っていれば実際に分離することはあまり重要ではな たえる。 「クが / を含意すれば、『カはを含意する』は『カは 前提から新しい結論に到達する一番初期のやり方はいま 4 を含意する』を含意する。」すなわち「は、がを 例示したものだが、それはほとんど演繹とはよばれがた 含意することを含意する。」この命題をとよぶ。しかし 、。基本命題はいかなるものであれ、そのなかに現われる 四番目の原理のカ、クにそれぞれ非力、非を代入し、含命題変項力、象のすべての可能な値について肯定され 意の定義を思い出すと、この原理はつぎのようになる。 ていると考えられる。したがって ( たとえば ) 力へ、その 「が、はを含意するを含意すれば、〃は、カが鑽 イがいつも命題であるような任意の言表、たとえば非力、 を含意するを含意する。」 「はーを含意する」、等を代入できる。三のような代入 によって実はもとの命題の特別なばあいの組がえられる 学力、、 / の代わりにそれぞれ、、九、と書けば、こ のだが、実際的見地からすれば事実上新しい命題に到達す 理れはつぎのようになる。 る。このような代入の正当性は、非形式的な推論原則によ わ . がわ . 「ルが、はを含意するを含意すれば、九は って保証されなければならない。 を含意するを含意する。」これをと呼ぶ。 ( 1 ) このような原則は「数学原理」や、さきほど言及した さて、第五原理によってつぎのことが証明されている。
するのに、このタイ・フの適当な関数を使用できる。すべてうことを仮定せすに仮説としてのべることが完全に可能で の〃ークラス ( つまり 4 ー関数で定義されるすべてのクラある。それからの結果は仮説的に導出できるし、それを物 ス ) についての言明は、タイ。フ 7 のすべての〃ー関数に関と仮定したときの結果も導出することができる。したがっ する言明に還元できる。外延的な関数の関数が間題のときて還元公理はたんに使宜的なものであって、必然的なもの にかぎると、この公理がなければ「すべての 4 ー関数」の ではない。タイ。フ理論の複雑さと、そのきわめて一般的な ような不可能な概念を必要としたような結果をあたえる。 原理を除いた残りのすべての不確かさを考えると、還元公 - これが決定的な役をする、一つの特別な領域は数学的帰納 理をまったくなしですませる方法がないかどうかを語るこ・ 法である。 とは、まだ不可能である。しかしながら、以上概略した理 還元公理は、クラス理論におけるまったく本質的なもの 論の正しさを仮定したとき、この公理の真偽について何を をすべて含んでいる。それゆえ、これを真とする理由があ語ることができるであろうか。 るかどうかは、考える価値のあることである。 この公理は、ライプニツツの不可弁別同一の原理の一般、 この公理は、乗法公理や無限公理と同様に、ある結果に的な形であるといってもよかろう。ライ。フニツツは、論理 は必要欠くべからざるものであるが、演繹的推理がただ存学的原理として、二つの異なった主語は、述語に関して違 在しうるために必要というわけではない。第十四章で説明わなければならないと考えた。ところで述語は、われわれ が「述語的関数ーとよんだ、あたえられた項との関係や、 した演繹理論と、「すべて」および「ある」を含む「題に ついての法則とは、数学的推理の組立てそのものでそれ述語とは考えられない種々の性質、をも含んでいるものの か、それに似た何かがなくては同一結果はえられないばか なかの一部にすぎない。したがってライプニツツの仮定一 りカいかなる結果もえられない。それは、仮説として使は、われわれの仮定よりもはるかに厳しく、かっ狭いもの って仮説的結果を出すことはできない。というのは、それである。 ( もちろん、すべての命題を主語ー述語形式に還・ 元できるものとみなした、彼の論理学にしたがえば、そう は前提であると同時に演繹規則であるからである。それは 理絶対的に真でなければならない。そうでないと、それによではない。 ) しかし、わたしのみるかぎり、彼の形式を信 . って演繹されるものは前提から出てくることすらないことずる理由はない。抽象的な論理的可能性としては、「述語」 なる語を使ってきた狭い意味において、まったく同じ述語 1 になる。これに反し還元の公理は、前にのべた二つの数学 この狭い意味での述、 的公理と同じく、使用されるときはいつでも、現実に真とい を有する二つの事物があってもよい。
しかしラッセルの論理学的寄与をだれの眼にもあざやか循環原理 ( v 一 c 一 0u0 ・ c 一「 cle p ュ nc 一三 e ) を禁制原理として立て いかなる全体も、この全体によってのみ定義 る。それは、 繝こ特徴づけるものは、何とい「てもかれによる論理的。 ( ラ ドックスの発見と、それを解決するためのタイ。フ理論であしうる、あるいはこの全体を含む、成員をもっことはでき ないことをのべたものである。彼はこの原理を満足させる ろう。彼以後の論理学はこの問題を中心として回転したと この。 ( ラドックスは、自己自身をように、ある命題関数の値となるものは、この命題関数に しっても過言ではない。 含まないクラスのクラスが自己自身を含むかどうかを問題よって初めて定義されるものであ 0 てはならないという制 にしたとき生ずるもので、ラッセルはこのパラドックス限を骨子とするタイプ理論を展開した。ここでこれを説明 に、一九〇一年、。 ( リの国際哲学会議で数学的論理学の雄することはできないが、この禁制原理にもとづくタイプ理 論は一切のパラドックスを一挙に避けようとするもので、 大な構想をあたえられた翌年、到達した。しかしこれから 逃れる方策は容易にえられす、一九〇三年に発表した『数その構造は複雑で種々の難点を有している。しかしラッセ ルが網羅的にのべたパラドックスをよくみると、エ。ヒメニ 学の諸原理」は問題の解決をみないまま上梓された。その 解決をあたえるものとして考案されたタイプ理論は一九〇デスのパラドックスやリシャール型の。 ( ラドックスは彼自 プリンキピア・ 八年に初めて明確な形で発表され、一九一〇年の『数学身の発見した型の。 ( ラドックスとは区別された共通の特色 マテマティカ をもっていることがわかる。それは、ある言表について語 原理』第一巻においてくわしく説明された。ここにおい っている言表をもとの言表と同種のものとして扱っている て彼が解こうとしたパラドックスは彼自らが見いだしたも という特色である。これはラムジーによって初めて指摘さ のにとどまらず、「クレタ人はうそっきだ」とクレタ人が れ、これらはラッセル型のパラドックスとは別様に扱いう いったばあいに生する、いわゆるエ。ヒメニデスのパラドッ ることが示唆された。ラッセル型の。 ( ラドックスだけを避 クスや、「数の決まった有限個の文字で定義できない最小 けるとすればタイプ理論はよほど簡単になる。これはのち の数」に関するリシャール型の。 ( ラドックス等を含んでい になって単純タイ。フ理論として明確に定式化された。しか しタイ。フ理論は一般にいわゆる還元公理なるものを仮定し ラッセルはこれらの。ハラドックスに共通なものとして自 ないと、同一性や数学の実数論を満足がゆくように展開す 己について立言する自己引照 (self ・ reference) のあること を認め、パラドックスはその濫用によって生するものとすることができない。ところがこの公理はきわめて人為的な る。そして自己引照の濫用を避けるためにつぎのような悪印象をあたえ、論理的真理としてその妥当性を主張するこ
ニコーの論文にはのべられていない。しかしこれは見落と味する。 しいかえれば、これは、カとがともに真ならば しのように思われるかもしれないがそうではない。 s/q は偽であること、つまりとはともに真であるこ 代入規則が明確に定式化されていないために生する誤謬は と、を意味する。もっと簡単にいえば、カととを合わせ 述語論理においてははっきりと現われる。 たものがとクとを合わせたものを含意することをのべて いまや、右の五原理を一つにしてしまった、ニコーの形 いる。いま、 式的推論原則をのべることができる。このためにまず、あ る真理関数がいかにして両立不能性によって定義できるか を示そう。われわれはすでに、 ミ ( ミ q ) は「カはを含意する」を意味する、 とおくと、・ニコーの唯一の演繹の形式的原理は ことをみた。今や、 ミ ( ミ Q ) ミ ( ミこは「はととを含意する」を意味する、 つまり、はと e との両者を意味する、である。 彼はこれに加えて、タイプ理論に属する一つの非形式的 ことがわかる。なぜなら、この言表は「カは、ととの 原理 ( これはここでは必要ない ) と、カおよび力はを含 両立不能性と両立不能である」を意味し、これは「カは、 〃と′とは両立不能ではないことを含意する」、つまり意する、というの二つをあたえると〃を主張できるという 「カは、と / とが真であることを含意する」を含意する原理に対応するものを使用する。後者は、 すでにみたように、〃ととの連言は両者の両立不能 ミ ( ミ q ) が真で力も真ならば、は真である、 性の否定であるーーからである。 というものである。この二つから演繹の全理論が出てく つぎに、ミ ( 、豪 ) は「ーはみずからを含意する」を意味る。ただし「命題関数ー (propositional function) につい て存在やその普遍的成立を主張する命題に関する演繹論は することに注意する。これは、 / ( ミ、 ) の特別なばあい 別で、これは次章で論ずることにする。 である。 わたしが間違っていないならば、推論を可能とする命題 力の否定を一カと書くと、 P/s は P/s の否定、つまりカ との連一一一一口、を意味する。したがって、 間の関係について、ある種の混乱が著作家たちのあいだに ある。カから 4 を推論することが妥当なためには、カと命 は、 5 と、第との連言とが両立不能であることを意題「非カまたは」とが真であることのみが必要である。
403 解説 弟関係のような二項関係であることは明らかである。ラッ祖先や子孫の関係である。これによって、自然数の公理 とみなされるべアノの公理のうちの第五番目、数学的帰輔 セルはこの二項関係のなかの基本的に重要なものとして一 法は、 0 の子孫としての有限数の定義から直接導出できプ 対一関係や、対象をクラス分けするときに必要な反射的、 こととなる。もっとも、このような祖先関係の定義も、 対称的、移行的の三つの関係などをとりあげ、さらにその 特殊なものとして相似関係や系列関係等をもってくる。まのものとの考えはフレーゲにあるのである。 た、複数個の関係の組み合わせ・関係積を考え、ある関係 この項の最初にのべたように、ラッセルは数をあるク = なすべてのクニ の逆関係を間題にする。さらに、ある関係に対しては、こ スに相似ーーこれは一つの関係である れによって関係づけられる項のクラスとして領域、逆領 スのクラスとして定義したが、ここで定義された数は基新 域、範囲等を考える。このようにすると、関係について一 である。そのほかに序数を定義しなければならない。彼 般的な算法があたえられ、種々の性質が導出される。この これを、ごく一般的に定義された関係数なるものの特殊 4 なかで重要なものは、ある種の関係を基にして定義される ばあいとして定義しようとする。関係数とは、本文にあ , ように、ある関係に対して類似性を有する、すべての関 のクラスである。この関係を系列関係とすれば系列数が、 られる。数のあいだの順序関係はこの系列関係の特別な」 のであるから、序数は関係数のうちの特殊なものである。 それはいわゆる整列 (well-ordered) 系列の数である。 ッ列系列とは、その部分クラス ( 空クラスを除いて ) がす、一 ラて初項をもつような系列である。ラッセルはこの関係数 ( 代理論をきわめて重要視し、これに関する「関係算術」。 ~ 年「『数学原理』のなかで数学的にも「とも重要なもの」と、 一ページ ) 。現代 。青っている ( 邦訳『私の哲学の発展』一二 学の見地からみてこの説の当否はとにかくとして、彼に、 ってカントルの序数理論が関係の論理の見地から一般化 れていることにまちがいはない。
Contributions to Civilization 7. 1930 ) 、『教育と社会秩たのはいかにも彼らしいが、一九二七年に妻ドーラととも に始めた実験学校 (Beacon Hill Sch001) は、さらに厳し 序』 (Education and the social 0 「 de 「 , 】 932 ) 、『宗教と い試練となった。幼児期や少年期に抑圧的なとり扱いを受 科学』 (Religion and Science, 1935 ) などを産んでいる。 またこの時期は、そのような社会的闘いにもかかわらけた人間の、無意識層にひそんでいる病的で破壊的な諸衝 、、、、籤侖 ( この側面を動が、戦争をはじめ多くの社会悪の原因となる ( 「社会改造 ず、哲学者ラッセルの学問的探究カんき矍日 彼は「理論哲学、あるいは「抽象哲学」と呼ぶ ) と社会哲学の両の諸原理」に述べられた思想 ) と考えていたラッセル夫妻は、 子供たちの欲望をけっして抑えない教育方針をとった。 面で深められた時期でもあった。前者に属するものでは、 ところが一般の無理解から、札つきの間題児ばかりが送 『精神の分析』 (The Analysis of Mind. 1921 ) 、『論理的 られてくることになり、彼らは学校を荒らしまわった。放 原子論』 (Logical Atomism, 1924 ) 、『物質の分析』 (The Analysis of Matte 「 . 】 927 ) 、『決定論と物理学』 (Deter- 火までおこなわれる始末で、経営上の赤字は年々山のよう にるい積し、ラッセルは金をかせぐために速記者を雇って ;minism and Physics. 1936 ) 、『意味と真理の探究』 (An lnquiry ぎ ( 。 Meaning and Truth, 1940 ) などが刊行さ原稿を書きまくらねばならなかった。そのうえ、一九三五 ま後者に属するものでは、『一八一四年から一九一四年年には、夫人から離婚訴訟が起こされたのである。自由恋 にいたる自由と組織』 (Freedom and Organization 1814 愛に近い「異端ー説を実践もしていた彼は ( 夫人自身もそ うだったが ) 、「背徳漢」として囚習的ジャーナリズムの好 」ー 1914. 1934 ) 、『権力ーー新しい社会分析』 (Power 】 A 餌となった。形骸化したキリスト教倫理や性道徳に対する New Social Analysis, 1938 ) が上梓されている。 彼の果敢な攻撃が、その事件と結びつけて歪曲され、その この時期の第一の特徴として述べた、社会通念との闘い を彼の現実行動から眺めてみよう。長年別居していた最初ころ社会通念や旧慣行にいどむ彼の闘いは、もっとも激し ドーラ・フラ い反撃にあっていた。その反撃は誨をこえたところにもひ の夫人アリスと、一九二一年離婚した直後、 ろがったのである。 シク ( 中国訪問にも同行していた英国女性 ) と再婚したラッセ つまり一九三八年、新しく結婚したパトリシア夫人や子 ルは、翌二二年と一一三年の一一回にわたって、前にふれたと 彼を招いたシカゴ大学 供らとともに渡米したラッセルが、 / おり国会下院の選挙に労働党から立候補している。一一度と もロンドンのチェルシー区、つまり保守党の牙城で闘い落やカリフォルニア大学での講義を終えかけ、一九四 0 年の 選した。相手の牙城だからこそ一一度まで選挙戦に打って出初め、つづけてニーヨーク市立大学が彼を訪問教授に仕
べきだ、という『自由人の信仰』は、その情緒からして高 「社会再建の諸原理』 ( 「宗教」の章 ) や「なぜわたしはキ リスト教徒でないか』に見られるように、よりひろい視野度に宗教的であることを、読者は感得されるであろう。そ れは、神なきキリスト教、あるいは二十世紀の仏教 ( かれ からキリスト教と明確に袂別するにいたる。そのかれが、 はキリストより仏陀をより高く評価するという ) 、といっ 自由な人間としてーーっまり既成のいかなる宗教的教条に た形容をするよりも、やはり当分は少数派であるほかはな も拘東されずにーー何を信仰するかを述べたものがこの一 篇なのである。 い「自由人ーの「宗教」なのであろう。 そのような『自山人の信仰』は、一九〇一年の初めに、 突如としてラッセルをとらえるにいたったのだという。こ ラッセルなぜわたしはキリスト教徒でないか の一篇の冒頭では、メフィストフェレス ( 悪魔 ) がファウ スト博士に語りかけて、宇宙の無意味さを説くという戯曲 Bertrand RusseII: 「 hy 1 am not a Christian. London. Watts 雀 Co.. 1927. 的手法が用いられているが、そのメフィストフェレスの語 り口は意外に科学的である。意識なく目的のない自然の盲 目的な法則性、しかもその自然の一部としてある人間 ( 外 市井三郎 的存在として ) とその社会、その社会に倫理意識から見て 圧倒的に悪が認められるというのであれば、盲目的法則性 これはもともと一九二七年一二月六日に、イギリス非宗教 や必然によればその悪が通常のことなのだ、と考えざるを協会 (National Secular Society) の依頼によって、ラッ えない セルがロンドンでおこなった講演である。頭記のように同 そこに事実的に支配しているカーーしばしば悪を現出す年中に、三一頁の小冊子として出版された以外に、アメリ るカーーを、われわれは崇拝 ( 信仰 ) すべきか、それとも 力でも同年に、ホールドマン・ジリアス社から小冊子とし 善性 ( われわれの倫理意識 ) を崇拝すべきであろうか、とて刊行され、三十年後、ロンドンとニューヨークで同時に出 設間するラッセルは、敢然として後者をとる。しかも一 されたラッセルの論文集 ("Why I am not a Christian, 解 切の、超自然的な神の観念を排除してそうするのである。 and Other essays on religion and related subjects") 7 たいていの人間をとりまいている深刻な孤独、この孤独をに、その一章として再録されてもいる。 紐帯として、自由人は連帯的ないたわり ( 愛 ) をもちあう 一九二七年に初出版された原型の小冊子は、わずか三一
合の定義が数学的帰納法からえられるということを、暗示 が最初の思考力を要求しても長期的には思考力を節約し、 1 論理的能力を増進させることが分るのである。 しているので具合、良い。 証明における数学的帰納法の使用は、昔は何か神秘的な 数学的帰納法は他の何ものにもまして有限者を無限者か ものであった。それが正当な証明法であることを疑う合理ら区別する本質的特徴をあたえる。数学的帰納法の原理は 的な根拠があるようにはみえなかったが、だれもそれがな通俗的には「つぎのものからつぎのものへと推論できるも ぜ正当であるかをはっきりとは知らなかった。ある人は、帰のは、初めから終りまで推論できる」というような形でのべ 納法という語が論理学で使われる意味における帰納法の実られる。このいい方は、最初と最後のあいだの中間段階の 際例であると信じた。ボアンカレは数学的帰納法を、それ数が有限であるばあいには真であるが、他のばあいには真 によって無限数の三段論法が一つの論法に要約できるきわではない。貨車が動き始めるのを見たことのある者は、衝 めて重要な原理であると思った。われわれはいまではこれ撃がつぎの貨車からつぎの貨車へと伝えられて、最後には らすべての見解が間違っており、数学的帰納法は定義であ一番後の貨車までも動き出す様に気づいたことであろう。 列車が非常に長ければ最後の貨車が動くまでに非常に長い って原理ではないことを知っている。ある数には数学的帰 納法が適用でき、他の数には適用できない。われわれは時間がかかるであろう。列車が無限に長ければ、無限数の 衝撃の系列があることになり、全体の系列が動き出すとき 「自然数」を数」子的帰納法による証明が適用できるように、 はこないであろう。しかしながら貨車の系列は帰納的数の つまりあらゆる帰納的性質を有するように定義する。この ことから、数学的帰納法による証明が自然数に適用される系列 ( 後でみるように、それは無限の中の最小のものの一 のは、神秘的な直観や公理や原理によるのではなくて、純 例である ) よりも長くなくて、しかも機関がそれに耐えるな らば、それぞれの貨車は遅かれ早かれ動きはじめるであろ 粋にことば上の約東としてであるということが出てくる。 「四足獣」が四本の足をもっ動物として定義されれば、四う。まだ動きはじめていないもっと後の貨車はいつも残っ ているであろうが。この事例は、つぎからつぎへと進む議 本の足をもっ動物は四足獣であることがいえる。数学的帰 納法にしたがう数のばあいもまったく同様である。 論と、それの有限性との関係を明らかにするのに役立つ。 ( 1 ) Science and Method, chap. IV 数字的帰納法による議論が妥当しない無限数の諸性質を対 「帰納的数」という語はいままで「自然数」とよんだもの照的に考察すると、有限数についておこなわれる数学的帰 と全く同じ集合を意味するもっとする。それは、この数集納法のほとんど無意識的な使用法が明らかになってくる。
14 ー われわれ個人個人の生活が、その次には共同社会と世界の は、ごまかしをやらなければ成功が非常に難かしいことが 生活とが、個体性を犠牲にすることなく、統一あるいは統わかるだろう。だがそのごまかしによって、彼らがもって 合される必要がある。個人の生活と共同社会の生活、そし いたかも知れない科学的良心は、うちくだかれてしまう。 て人類の生活さえもが、多数のばらばらの断片となってい 政治家たちは、党の綱領をうのみにすることを余儀なくさ るべきではなく、ある意味での一つの全体を成していなけれるばかりではなく、 ~ 小教界の支持者たちを懐柔するため ればならない。それが実現した時に、個人の成長は助長さ には、聖者であるかによそおわねばならないのだ。またほ れ、また他の諸個人の成長と両立しえないものではなくな とんどいかなる人も、為善なしに国会議員となることはで るのである。このようにして、二つの原則は調和させられ きないのである。 るのだ。 生まれつきの誇りというものがなくなれば、人間は一つ 個人の生活を統合するものは、首尾一貫した創造的な目の全体たりつづけることはできないのだが、いかなる職業 的、あるいは無意識的な方向づけである。文明化された男 においても、その生来の誇りに対していささかも敬意はは 性や女性の生活に、統合を与えるには本能だけでは十分で らわれていない。誇りは独立心を意味するが故に、迂間は 。ない。なんらかの支配的な目的とか野む、科学的あるい それを無慈悲におしつぶしてしまう。だから人々は、 自身が自由になることを願うよりは、他人を隷従させるこ は芸術的創造への欲望、宗教的な原理、あるいは強力で永 とをより多く望むようになる。内面的な自由というもの 続的な愛情、といったものがぜひ必要になってくる。生活 つまり支配的衝叫 は、かぎりなく貴重なものであり、その自由を保持してく の統合ということは、ある種の敗北 にり知れないほど望ましいものなので であるべきはすであったものを、抑圧し流産させてしまうれるような社会は、則 ような敗北ーーを体験した男女にとっては、きわめて難かある。 しいことなのである。たいていの職業は、まさにその出発 人間における成長原理は、なんらか限定されたことをす 点で、人間にその種の敗北を与えてしまう。ジャーナリス るのを妨げることで、かならすしも押しつぶされはしな トになったとすれば、その政治的見解を嫌悪するような新 しかしその原理は、当人に何か他のことをするように 説得することで、しばし、は押しつぶされてしまう。成長を 聞のために、おそらく記事を書かねばならないだろうし、 そのようなことは、仕事に対する当人の誇りを抹殺してし押しつぶすようなこととは、活力に満ちた衝動が活動を欲 まい、独立感覚をふみにじるのだ。またたいていの医者する方向で、無力感を産み出すようなことどもなのであ 、 0
値が真であることを意味する。「」がこのような命題関 ソクラテスやら、赤い色やら、東西やら、何かそうで 数で、が変項値としてふさわしいような対象であれば、 ないものやらーーーについて語らなければならないてあろ 〃をどのように選んでもは真のはすである。たとえば う。しかしこのような一つの事物や概念については真であ 「〃が人ならば〃は死ぬものであるーは、 4 が人であろう るがほかのものについては真でないような主張をおこなう となかろうと真である。実際、この形の命題はすべて真で のは、明らかに論理学の領域ではない。その命題がすべて ある。したがって命題関数「エが人ならば % は死ぬもので 完全に一般的であること、つまり常数項を含まない、ある ある」は「つねに真」ないし「すべてのばあいに真」であ命題関数がつねに真であるという主張だけから成りたって る。あるいはまた、言明「一角獣は存在しない」は、言明 いるというのは、論理学の定義の一部 ( 全部ではないが ) 「命題関数『エは一角獣ではない』はすべてのばあいに真 である。最終章で常項を含まない命題関数の議論にもどる である」と同一である。また前章で命題についてのべたこ ことにして、ここでは命題関数で処理でぎるもう一つのこ と、たとえば「『カまたはク』は『またはカ』を含意すと、それが「ときに真」である、つまり少なくとも一例で る」は、実はある命題関数がすべてのばあいに真であると真である、という主張に移ろう。 いう主張である。われわれは右の原理をあれこれの特殊な 「人は存在する」というのは、「エは人である」という命 力やについて真であると主張しているのではなく、この題関数がときに真であるという意味である。「ある人はギ 原理が有意味ないかなる力もしくは〃についても真である リシャ人である」というのは、命題関数「エは人であり、 と主張しているのである。ある命題関数が、あるあたえら ギリシャ人である」がときに真であるということである。 れた変項値に対して有意味であるための条件は、その変項「アフリカにはまだ食人種がいる」の意味は、命題関数「エ 値に対して真または偽の値を有するための条件と同じであは現在、アフリカの食人種である」がときに真、つまり る。有意味性の条件の研究はタイ。フ理論に属し、これにつ のある値に対して真ということである。「世界には少なく 学いては前章であたえた概略以上には追求しないことにすとも個の個体がある」ということは、命題関数「はあ 理る。 る個体のクラスであり、基数〃の成員である」がときに真 繹の諸原理ばかりでなく 、論理学のすべての基本命題 あるいはのある値に対して真ともいえるーーーという ことである。この表現形式は、命題関数の変項と考えられ 鼈は、ある命題関数はつねに真であるという主張から成りた る変項要素を指示する必要があるときいっそう便利であ っている。もしそうでなければそれは特殊な事物や概念