集合 - みる会図書館


検索対象: 世界の大思想26 ラッセル
177件見つかりました。

1. 世界の大思想26 ラッセル

2e2 尸 (ü) 》 30, 02 》 (-)3 亠、 CD. 存在するということであろう。しかしこれは不適当な定義 である。この新しい系列の範囲の上限点は、 である。というのは比系列のような系列には「間隙」が存 1 2e2 在するからである。第七章でみたように、比系列を二つに 分け、一方が他方に先行し、最初のものは最終項をもたす、 となる。他方、序数系列 また事実、すべての整列系列 は下限点をもたない。直接の後継者をもたない項は最二番目のものは初項がないようにするやり方はいくらでも 終項以外にないからである。しかし比系列のような系列をある。このような事態は「連続性」を特徴づけるものと漠 考えると、すべての成員は適当に選ばれた集合の上限点で然と思っていたわれわれの感じに反するようにみえる。さ も、下限点でもある。実数系列をとってこれから有理実数らに、このような事態は、比系列が多くの、数学的目的に を選び出せば、この集合 ( 有理数 ) はすべての実数を上限必要な種類の系列ではないことを示している。たとえ、は幾 点および下限点とすることになる。ある集合の極限点の全何学を例にとろう。われわれは、二つの直線が交わるとき 体はその「第一次導来集合 (first derivative) 」、第一次には交点をもっといいたいが、直線上の点系列が比系列に 導来集合の極限点の全体は第二次導来集合、等々とよばれ相似ならば、この二直線は「間隙」で交わり、共通点をも る。 ナないかもしれない。 この例はよくねれていないが稠密 極限に関連して、われわれは系列での「連続性」とよ。は 性が連続性の数学的定義としては不適当であることを示す 例は数多くある。 れるもののさまざまの度合を区別でぎる。「連続性」とい う語は古くから使われてきたが、デデキントやカントルの 「デデキントの」連続の定義は、とくに幾何学の要求で導 時代まで正確な定義をもたなかった。この二人のいずれも入されたものであった。われわれは、ある系列を、その範 この語に正確な意味をあたえたが、カントルの定義の方が囲のすべての部分クラスが境界をもっときデデキント的と して定義したのであった。 ( つねに上界があるとするか、 門デデキントのそれよりも狭い。カントルの連続性を有する つねに下界があるとすれば十分である。一方が仮定されれ 学系列はデデキントのそれをもたねばならないが、その逆は いえないのである。 ば他方は出てくる。 ) つまり、ある系列は間隙がないとき にはデデキント系列である。間隙がなくなるのは各項が後 系列の連続性の正確な意味を追求するものが自然に思い 浮かべる第一の定義は、われわれが「稠密性」とよんだと継者をもっか、最大項がないとき極限があるかすることに ころのもの、つまり系列の任意の二項のあいだに第三項が よってである。したがって有限系列または整列系列はデデ

2. 世界の大思想26 ラッセル

成功したのである。本章ではフレーゲの数 ( 一般 ) の定義、とし、「後継者ーは「半分ーを意味するとする。このとき・ ペアノの五つの公理はいすれもこの集合について真であ および個々の特殊な数の定義を実際にあたえることはしな る。 いが、ペアノの扱い方が一見するほど究極的なものではな いことの理由をいくつか述べる。 * ここで、二、四等は普通の意味での数である。 ヘアノの三つの基本概念 ます第一に、。 このような例はいくらでもふやせることは明らかであ 「後継者」 は異なった無数の解釈が可能で、そのどれる。実際、 もが五つの基本命題を満足するのである。そのいくつかの 0. ご 2 例をあげてみよう。 という、終りがなく、重複を含まず、始めがあり、始めか 「 0 」を、「数」をⅧから先の自然数系列中での数をら有限個の手続きで到達でぎない項のない系列をあたえる 意味するとする。このとぎ、われわれの基本命題はいずれと、これはペアノの公理を真ならしめる項の集合である。 も、四番目でさえも、満足される。なぜなら、刪は四の後形式的な証明をするとやや長くなるが、このことは容易に 継者であるが、四は「数ーという語にいまあたえようとしわかる。「 0 」を「数」を項の全集合、「」の後者を し力なる数もこの例のⅧ ている意味での「数ーではなし とする。このとき、「 0 は数である」、すなわち「石」 の代りに代入できることは明白である。 はこの集合の要素である。Ü「どの数の後継者も数であ 「 0 ーは普通の意味で使うが、「数」を普通いう「偶 る。」すなわち、この集合中の任意の項をとるとも同 数」、ある数の「後継者」をこれに 2 を加えることによって時にこの集合のなかにある。「どの二つの数も同じ後継 えられる数とする。このとき「 1 」は数一一を表わし、「 2 者をもたない。」すなわち、とをこの集合の二つの異 は数四を表わす、等々である。すると、「数」の系列は、 なった成員とすると、とも異なっている。これは ( 仮 定によって ) この集合中に重複がないという事実からく となる。こうしてもペアノの五つの前提は満たされてい る。四「 0 はどの数の後継者でもない。」すなわち、この る。 集合中のいかなる項も新の前にはこない。これはつぎの Ü「 0 ーは数「 1 」、「数」は集合 ようになる。石に帰属し、に帰属すればにも帰属する ような性質はいずれも、すべてのに帰属する。これは、 1 4 ・ 数についてのこれに対応する性質から出てくる。 1 2 1

3. 世界の大思想26 ラッセル

集合が存在するという仮定を研究してかまわないのであ る。この仮定の、ここでの目的に都合のよい形は、〃を任 意の帰納的数とすれば〃は十 1 に等しくないというもの である。この形と無限集合の存在を主張する形とが同一の ことがらをあらわしていることをいうためには、多くの精 妙な論点を必要とする。しかしこの問題は後の章で無限公 理そのものを主題とするまで残しておこう。ここでは、〃 第二章でのべた基数の定義は、第三章で有限数、つまり 通常の自然数に適用された。これに「帰納的数」という名が帰納的数ならば〃はミ + 1 に等しくないことと仮定する をつけたのは、 0 から出発する数学的帰納法にしたがう数にとどめる。このことはペアノの仮定、二つの帰納的数は として定義できることが見出されたからである。しかしい 同じ後継者をもたない、に含まれている。なぜなら、もし ままで帰納的数の要素を有する集合だけしか考えなかった ミⅡミ十 1 ならばー 1 と〃とは同じ後継者、つまり〃を し、それ以外の集合が数をもっといえるかどうかも考えな有することになるからである。したがってわれわれは、ペ かった。これは古くからの間題であるが、われわれの時代アノの基本命題に含まれていないものは何も仮定していな いわけである。 になって、とくにゲォルク・カントルによって解かれたの ここで帰納的数そのものの集合を考察しよう。これは完 である。本章では、カントルの発見とフレーゲの論理学的 な数論とを結合させて作った超限基数または無限基数の理全に定義されたクラスである。ます第一に、基数は、すべ 論を説明することにする。 てたがいに相似で、それ以外の何ものにも相似でないクラ スの集合である。つぎに「帰納的数」は、〃とに十 1 との この世界には現実に無限集合が存在することは確実だと しい切ることはできない。そのようなものがあるという仮関係に関して 0 の子孫に属する基数、つまり、 0 が所有し、 定は「無限公理」とよばれる。この公理の証明を期待させそれを所有しているものの後継者もかならず所有するよう る方法はいろいろ考えられるが、それらはすべて間違って な、すべての性質をもっ基数として定義される。ここでれ いると思う理由、正しいと信する決定的な論理的根拠はな の後継者とは数ミ十 1 を意味する。こうして「帰納的数」 いと思う理由はある。同時に、無限集合に反対する論理的のクラスは完全に決定される。基数の一般的定義によれ 理由もないことは確かで、そのため論理学ではこのような ば、帚納的数のクラスの要素数は、「帰納的数のクラスに 第八章無限基数

4. 世界の大思想26 ラッセル

それん、 R とし、をんのある成員とすれば、に関して 乗法公理はほかの形もいろいろとあたえられようが、右に対応する R の成員がある。气はそれぞれ個の にのべたものが現在知られているも「とも重要なものであ項を有するから相似である。したが 0 て両者のあいだには一 る。そのいずれの形式にせよ、この公理の真偽については 一対一の関係づけが存在する。困難はこのような関係づけ 現在何も知られていない。 を数多く考えねばならないという点である。んの総和と入、 最近この公理の他の集合論の公理からの独立性がコーンに の総和との一対一の関係づけをうるために、結合者のクラ よって証明されている。 ここで・ スの集合から一つの選出をとり出さねばならない。 乗法公理に等値かどうかはわかっていないが、これに依その結合者の一つのクラスはととの一対一の結合者の 存する多くの重要な命題がある。ます加法と乗法との関係全体である。んと入とが無限のときは、乗法公理の真であ・ をとりあげてみる。われわれは自然に、それぞれが個のることを知りえなければこのような選出の存在を知ること 項を有するレ個のたがいに共通成員をもたないクラスの総 はできない。したがって加法と乗法とのあいだの通常の関、 和は、、 x 個の項をもたねばならないと考える。レが有限連を確立することはできない。 のときはこれは証明できるが、無限のときは乗法公理なし このことはさまざまの奇妙な結果を生む。まず、すでに、 には証明できない。 もっとも、ある特殊な事情からある選知っている % 。。日 % 。 x % 。Ⅱ % 。から、それぞれが個の 出者の存在が証明できるときは別である。乗法公理が入り成員を有する個のクラスの総和はそれ自身個の成員 込んでくる仕方はつぎの・ようなものである。それぞれがをもたねばならないとふつうは推論されるが、この推論は 間違っている。なぜなら、われわれはこのような総和の項 個の項を有する、たがいに共通成員をもたないレ個のクラ スの二つの集合があるとする。証明したいのは一方の集合数が % 。 x % 。であることを知らないし、したがってそれが 門の総和が他方の集合の総和に等しいということである。こ であることを知らないからである。これは超限基数の 学れを証明するためには一対一関係を確立せねばならない。 理論に関係する。個の先立者をもっ序数はカントルの 理それぞれの集合にレ個のクラスがあるから、これらの集合 いわゆる「第一一級の序数」、つまりこの序数をもっ系列は のあいだにはある一対一関係が存在する。しかしほしいもその範囲に個の項を有するようなもの、でなければなら のはクラスの項のあいだの一対一関係である。クラス間のないことを証明するのは容易である。第二級の序数の任意一 一対一対応関係を考えよう。クラスの二つの集合をそれの系列をとると、その極限の先立者はたかだか、それそれ こ 0

5. 世界の大思想26 ラッセル

は、それそれの対においてどちらの靴下を先にとり出すか性との関係である。第八章で指摘したことであるが、反射 は任意である。ところが任意の選択を無限におこなうこと的数は非帰納的でなければならない。しかしこの逆は ( 現 は不可能である。選出規則、つまり選出者となっている関係在知られているかぎり ) 乗法公理を仮定してのみ証明する ことができる。その証明の仕方はつぎのようなものであ を見出さなければ、選出は理論的に可能ということさえわ からない。もちろん靴下のような空間中の対象のばあいに は、つねにある選出原理を見出すことができる。たとえば 反射的クラスがの成員を有する部分クラスを含んで いることを証明するのはやさしい。 ( もちろんこのクラス 靴下の重心をとれば、どの対についてもその二つの靴下の 自身が個の項数であるかもしれない。 ) したがって可能 重心がそこから完全に等距離にないような点が空間中に ある。したがってに近い方の重心をもっ靴下を対から選ならば証明せねばならないことは、任意の非帰納的クラス が考えられたとき、その項から前進列を見出す、選び出す ぶことができる。しかしこのような選出方法がつねに可能 であるという理論的根拠はない。靴下のばあいを読者が多ことができるということである。こうなれば、ある非帰納 少好意的に考えれば、どうして選出が不可能であるかを解的なクラスがいかなる帰納的クラスよりも多くの項を含ま ねばならないこと、あるいは同じことに帰着するが、を するのに役立つであろう。 それぞれの靴下の対から一つを選出することが不可能なある非帰納的クラス、レを任意の帰納的数とすればレ個の らば、靴下は前進列に並べることは不可能であり、したが項を有するの部分クラスが存在すること、を証明するこ って靴下の数はではないことがわかる。この例は、をとは容易である。したがっての有限部分クラスの集合を 無限数とするとき、個の対の一つの集合が同じく個の作ることができる。まず項のないクラス、つぎに項を一つ 対の他の集合と同数の項を含まないことがありうることをもっクラス ( の成員の数だけできる ) 、つぎに項を二つも 門示している。なぜなら、個の長靴の対があたえられたとっクラス、等々。こうして、それそれがあたえられた有限 学きは確かに個の長靴があるが、靴下のばあいには、乗法個の項を有する部分クラスの集合の前進列がえられる。こ こまでは乗法公理を使っていないが、の部分クラスの集 理公理を仮定するかさもなければいまのべたような、ある偶 数 然的な幾何学的選出方法によらなければ、個の靴下があ合の数が反射的数であることまで証明した。つまり、を の成員数としてはの部分クラスの数、は部分クラ 5 るかどうか明らかでないからである。 乗法公理を含む、もう一つ重要な間題は反射性と非帰納スの集合の数だから、が帰納的でなければは反射的数

6. 世界の大思想26 ラッセル

163 はわかっている語として立てる代りに、。 ヘアノの五つの公 理を満足する任意の三つの対象を意味するものと解したら よいといわれるかもしれない。そうすると、これらは定義 されてはいないが決まった意味をもっ語ということはでき なくなる。それらは「変項」 (variable) であるだろう。っ まり、それについてわれわれは、ある仮説ーーここでは五 つの公理にのべられているーーを立てるが、それ以外の点 では不定なものであるだろう。このやり方を採ると、われ われの定理は「自然数」といわれる対象の確定した集合に ついてではなく、ある性質をもっ対象のすべての集合につ いて証明されることになる。このような手続きは間違いで はなく、実際、ある目的には貴重な一般化である。しかし それは、つぎの二つの点からいって算術の適切な基礎づけ をあたえることができない。ます第一に、これからペアノ の公理を満足するものの集合が存在するかどうかを知るこ とができない。それは、このような集合が存在するかどう かを知る方法を少しも示唆してくれない。第二に、われわ れは数がふつうの対象を数えるのに使われるものであるこ とを欲する。このことは、われわれの数がある形式的な性 質をもつだけでなく、ある定まった意味をもっことを要求 する。この定まった意味が算術の論理学的理論によって定 義されるものなのである。 「数とは何か」という問はしばしば提出されたが、正確に 答えられたのはわれわれの時代になってからである。この 答は、一八八四年、『算術の基礎』 (Grundlagen der Ari- ( 1 ) thmetik) においてフレーゲによってあたえられた。この 本はごく短いもので、むずかしくもなく、きわめて重要な ものであるが、ほとんど注意を引かなかった。そしてそこ に含まれている数の定義は、著者が一九〇一年に再発見を するまで事実上知られていなかった。 ( 1 ) 同一の回答が彼の Grundgesetze der Arithmetik, vol. 一 . 1893 , のなかでもっとくわしく、またもっと発展せしめられ て、のべられている。 数の定義を求めるにあたって、まずはっきりさせておく べきことは、いわばわれわれの探求の文法である。多くの 哲学者たちは、数を定義しようとして実際は複数性を定義 しようとしていたが、これはまったく別のことであった。 数は、人が個々の人を特徴づけるように、個々の数を特徴 づけるものである。複数性は数の事例ではなく、ある特殊 な数の事例である。たとえば人の三人は数 3 の事例で、数 第一一章数の定義

7. 世界の大思想26 ラッセル

素がなく、選出者の数と選出の数とは一致するからであなければならないこと、は証明できない。一見これらは明 る。われわれのクラスのクラスからの選出は順序ある対の白な真理のようにみえるが、考えなおしてみると次第に疑 集合で、その時の第一一項はの任意にあたえられた成員わしくなり、ついには、その真偽を知ることができるとは で、第一項はのどの成員でもよい。したが「ては、そしないで、平行線の公理を公理として記録するように、 れぞれが個の項を有するレ個のクラスのある集合から選の命題とその結果を仮定として記録して満足するようにな 出者によって定義されるが、その集合はある構造をもった る。この仮定を大ざっぱにのべれば、選出者と選出とはそ もので、一般のばあいよりも扱いやすい仕組をもってい の存在が期待されるときにはかならす存在するということ る。このことと乗法公理の関連はすぐあとで説明する。 である。これを正確にのべる方法はいくつもある。まずつ ぎのものから始めよう。 累乗にあてはまることは二つの基数の積にもあてはま る。、 x こはそれぞれが個の項をもっレ個のクラスの 「いすれも空集合でなく、かったがいに共通の成員をもた 成員数の和としても定義できるが、のある成員を第一 ないクラスのクラスがあたえられたとき、あたえられたク 項、のある成員を第一一項とする、順序ある対の数として ラスのそれそれとただ一つの項を共有するクラスが少なく 定義する方がよい。 ここでは個の項、はン個の項をとも一つある。」 有する。この定義もまた乗法公理を仮定しないでもよいよ この命題は「乗法公理」とよばれる。ますこの命題と等 うに工夫されている。 値なものをいろいろあたえ、つぎにその真偽がどのように これらの定義によって、乗法と巾法の通常の形式的法則数学には興味深いかを考察しよう。 を証明することができる。しかしわれわれの証明できない ( 1 ) Principia イ ol. i, . vol. 三 , 257 ー 258 参照。 ことが一つある。積は、その因子の一つが零のときにのみ 零となることは証明できない。これは因子数が有限のとき 乗法公理は、積はその因子の少なくとも一つが零のとき 入 にのみ可能なのである。 学 しいかえれば、どれも空でないク にのみ零であるという命題、つまり、基数をいくっ掛け合 理ラスのクラスがあたえられたとき、それらからの選出者が わせても、掛け合わされる数の一つが 0 でなければ 0 には なければならないこと、あるいは、こ、、、 なりえないという命題と等値である。 オがしに共通成員のな いクラスのクラスがあたえられたとき、それらのそれそれ 乗法公理は、を任意の関係、んをの逆領域に含まれ からとり出した一つの項から成るクラスは少なくとも一つ る任意のクラスとするとき、を含意し、んをその逆領域

8. 世界の大思想26 ラッセル

えられる。これは前進列であり、 いかなる比もこの系列部分クラスが少なくとも一つなければならないのである。 ( 1 ) 中にいっか現われる。 この証明はつぎのようになされる。の成員のすべてと しかしながら、すべての無限集合が個の項をもって の部分集合の一部とのあいだに一対一の対応づけが作ら いるとはいえない。たとえば実数の数はより大きく、 れると、あるあたえられた成員工はこれを成員とする部分 実はである。そして〃が無限のときもは〃よりも大き集合と関係づけられることがありうる。あるいは、関係づ いことは容易に証明できる。これを証明する一番容易な方けられる部分クラスはその成員を含まないかもしれない。 法は、まず、あるクラスが個の成員をもてばそれは個 このような、エを含まないクラスと関係づけられるエの全 の部分クラスを含むこと、つまりそのクラスの成員のある クラスをとする。はの部分クラスでのいかなる成 もの ( 全部を選ぶとぎと何も選ばないときを含めて ) を選員ともで関係づけられない。なぜなら、まずの成員は、 び出す方法は個あることを証明し、つぎに、あるクラス ( の定義によって ) これを成員としないある部分クラス に含まれる部分クラスの数はつねにそのクラスの成員の数と関係づけられるのだから、とは関係づけられない。っ よりも大きいことを証明することである。このうち、最初ぎにの成員でないものをとると、それぞれは ( の定義 のものは有限数のばあいにはよく知られており、これを無 によって ) それを含むある部分クラスと関係づけられるか 限数のばあいに拡張するのは困難ではない。二番目の証明ら、やはりとは関係づけられない。したが 0 てのいか は簡単で教訓的でもあるからつぎにこれをのべよう。 なる成員もによってはとは関係づけられない。はす ます最初に、あるあたえられたクラスとする ) の部 べての成員とある部分クラスとの任意の一対一の関係づけ 分クラスの数は、それぞれの成員も部分クラスを作るから、 だから、すべての成員とすべての部分クラスとの関係づけ 少なくとも成員の数だけはある。したが 0 てすべての成員は存在しないことになる。が成員をもたないとしてもこ とある部分クラスとの一対一対応は存在する。そこで、部れは問題にならない。 このばあいに起こることは対応関係 分クラスの数が成員数に等しくないならば、これより大で 学 のない部分クラスが空クラスだということである。それゆ 理なければならないということが出てくる。この数が等しく えいずれのばあいにも部分クラスの数は成員の数に等しく ないことを証明するのはつぎのことを証明すれば容易であはなく、したがって前にのべたことから成員の数より大き 、 0 7 る。領域がそのクラスでその逆領域は部分クラスの集合に このことを、成員数を〃とすれば部分クラスの数は 含まれる一対一関係をあたえると、その逆領域に属しない という命題とに結びつければ、〃が無限であってもつね

9. 世界の大思想26 ラッセル

いかなければ、個体クラスが数えられるし、これでも成功はつぎのような議論であろう。論ずる個体の数をルとす 勠しなければクラスのクラスをためすことができる、等々。 る。ここで〃は 0 であっても議論をそこなうことはない。 こうして最後に、世界の個体数がいかほど少なかろうと、 個体、クラス、クラスのクラス等々を全部一緒にした完結 任意の帰納的数について、戸よりも多くの対象がある段した集合を作ると、全集合の要素数は ミ十 2 さ十 2 十・ : ad inf.. 階に到達する。個体が全然存在しなくてもかまわない。な ぜなら、ただ一つのクラス、空クラスがあり、二つのクラ となる。これはである。したがって、あらゆる種類の対 スのクラスがあり ( つまりクラスについての空クラスと個象を合わせて一つのタイ。フの対象に局限しなければたしか 体の空クラスを唯一の成員とするクラスと ) 、四つのクラ に無限クラスがえられるから、無限公理は必要でない。以 スのクラスのクラスがあり、つぎの段階では一六個のクラ上のようである。 スがあり、更につぎの段階では 65536 のクラスがある、等 さてこの議論に立ち入る前にまず見受けられることは、 等。したがって、任意にあたえられた比または帰納的基数何か手品のようなものがあることである。何か帽子からも に到達するのに無限の公理のような仮定は必要でない。 のをとり出す手品師を思い出させるものがある。帽子を貸 した男は、その帽子には生きた兎はいなかったことを確信 この公理が必要なのは帰納的基数または比の全クラスま しているが、どうして兎がなかに人ったかをいうことがで たは全系列を扱いたいときである。の存在を確立する ためには帰納的基数の全クラスが必要だし、前進列の存在きない。同様に、健全な実在感覚のある読者は個体の有限 を確立するためにはその全系列が必要である。つまり、こ集合から無限集合を作り出すことはできないと確信する ういうものが存在するためには、零でない帰納的基数の単が、右の構成のどこに欠陥があるのかいうことができな このようなごまかされた感じに力点をおきすぎること 一クラスまたは単一系列を作れることが必要である。実数 、を截片として定義するためには大小順に排列した比の全系は間違いであろう。それはほかの感情と同じくわれわれを 列を必要とする。この定義は比の系列が緊密でなければ求惑わさせやすい。しかしそれは、このような感じを起こさ める結果をもたらさない。そして考えている段階で比の総せた議論を細かく吟味する当面の根拠をあたえる。そし 数が有限であれば、この系列は緊密ではないのである。 て、著者の意見では右の議論を吟味すれば、間違っている 著者自身以前そう思ったのであるが、いまのべた構成方ことがわかるはすである。その誤りは微妙なもので、整合 法によって無限公理は証明できると考えられやすい。それ的にこれを避けることは容易ではないが。

10. 世界の大思想26 ラッセル

20S のべた著作のなかで、間隙はつねに埋められねばならぬこ という名前をあたえることにする。したがって、ある系列 から選び出されたある項集合の「上界」は、もし最後の成と、つまりすべての切断は限界をもたねばならぬことを公 員があればこれであるが、もしなければ、その集合のすべ理としてたてた。このため、彼の公理の確認される系列が ての項より後の項の最初のものーー残りの集合に最初のも「デデキント系列」といわれるのである。しかしこの公理 のがあるとしてーーーである。したがって、最大項も極限もの確認されない系列はいくらでもある。 ほしいものを「要請」する方法は多くの利点をもつが、 なければ上界はない。「下界ーは下限または最小項である。 デデキントの切断の四種のばあいにもどる。最初の三つそれは正直な労働に対する盗みの利点と同じことである。 このようなことは他人にまかせて、われわれの正直な労働一 のばあいには、切断はいずれの組も限界 ( そのときによっ て上また下の ) をもつが、四番目にはどちらの組も限界ををもって進もう。 もたない。下組が上界をもっときはかならず上組は下界を 明らかにデデキントの無理毋断は、ある仕方で無理数を もっことも同様に明らかである。二番目と三番目では二つ「表現」する。さしあたって漠然とした感じにすぎない、 の限界は一致する。最初のばあいには、両者は系列中で隣この考えを利用するには、それから正確な定義を得る道を一 接する項である。 見出さなければならない。 これをおこなうためには、無理 ある系列は、そのすべての切断のどちらの組も限界 数は比の集合の極限でなければならないというわれわれの・ そのときにしたがって上界または下界ーーをもっとき、 先入見を除かなければならない。分母が 1 の有理数が整 と同じものではないのと同じく、ある無理数より大きかっ 「デデキント系列ーとよばれる。 たり小さかったりしたり、極限に無理数をもったりする有・ 大いさの順で考えた比系列がデデキント系列でないこと はすでにのべた。 理数は比と同一視されてはならない。われわれは、一部が 空間的に考える習慣のために、系列が極限をもたないと有理数で一部が無理数である、「実数」とよばれる新しい すると変に思われるばあいには、人々は、その系列は極限数を定義せねばならないのである。比ミ 1 が整数〃に「対・ をもたねばならないと考えてきた。こうして、その平方が応」しているのと同様な仕方で、有理数は比に「対応」し 2 より小さい比には有理数の ( 合理的な ) 極限がないことているが、比と同一物ではない。それがどのようなものか を知ると、彼らは無理数の ( 非合理な ) 極限を「要請」しを決定するために、無理数は無理切断で表わされ、切断はそ・ てデデキントの間隙を埋めたのである。デデキントは前に の下組で表わされることに注意しよう。その下組が最大第