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検索対象: 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学
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1. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

論は、「道義」の概念が、「善」の概念から独立だと主張すし、したがってもいる。しかし、こうした屈従は、したが ることに満足するのではなく、「道徳的善」としての「道う方に奴隷的弱さを、権力をもっ方に他人の権利へのあっ 義ーは、あらゆる自然的欲求や満足から完全にへだてられかましい無視を発展させる。他方では、われわれの正常な た何かであると主張している。したがって、これらの議論衝動や目的と何のかかわりもないくせに、衝動や目的に優 は、行為を二つの孤立した領域、道徳的領域と道徳的でな越する「義務ーの法則であり、同時に原理であるものがあ る、というならば、人間は、二つのばらばらの部分にわけ い領域にわけ、すべての自然的感情や衝動をうさんくさい られることになる。 目でみる考え方にすでに加えられた非難 ( 一九七頁 ) をう けることになる。これからの議論はそれゆえ、人間性に本 出口はどこに見いだされるかといえば、道徳的要求の行 来所属する欲求や感情を湧きロとする目的や価値から、道使は、人々が相互に孤立するのではなく、不断の結合と相 義をわけてしまうことなしに、道義の概念を判明にたもっ互作用の中で生きているような世界では、他のいかなるも ことができることをしめす方向をとるであろう。 のとも同じように、自然だということを承認することにあ る。子供の服従を命じる両親のどちらかの要求であって、 片親の一方的欲望以外の何ものをも表現せす、おまけにし 第二節道徳的要求の起源 たがわなければ、子供を苦しめる力が加わっているような われわれは、自分自身がそれにしたがう要求の道徳的権場合がある。しかし、子供が服従すべき要求や請求は、か 威のための場所を発見することが、果たしてできるか。場ならず一方的意志からでてくることを必要とするわけでは ない。要求や請求が、両親と子供の間に存在する関係の中 所というのは、一方では、たんなる強制、すなわち、物理 にある家族生活の本性そのものからでてくる場合もある。 誠的および心意的圧力から区別されるとともに、他方では、 その場合、要求は、子供にたいして外部的、専制的権力に われわれの人間的素質の自然のままの欲求や傾向と何のか 義かわりもない義務や道義の法則をたてない場所である。わなるのではなく、子供自身のぞくする全体の表現になるの である。子供は、両親にたいする自分の愛情、両親の判断 義れわれの出あうのは、こうした問題である。なぜなら、一 にたいする自分の尊敬によって、応答するように動かされ 方では、たんなる強制は、何の道徳的資格をももたない。 る。こうした要求は、子供のもっとも強い欲求に逆行する 人々は、たんに、もしそうしなければ、苦しみをこうむる という理由だけで、一方的権力の要求にしたがうだろう場合もあるが、その場合でさえ、子供は自分に全く無縁た

2. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

286 他人にたいして人間愛的な仕方で行動することだけを よび経済実践として、支配的個人主義が表現される以上、 道徳批評家たちは、こうした無慈悲な個人主義に、ある抑考えるか、それとも、⑥この両方を何とか妥協さすこと 制を加える必要を主張し、道徳的行動様式 ( ビジネスとはをもとめるとすれば、こうした目標は、とうてい達成され 区別されたものとしての ) における他人への同情なり、人えないであろう。正しく組織された社会秩序において、人 間愛的尊重なりの支配を強調することにみちびかれた。け人が相互にむすびあう諸関係そのものが、ある方向のビジ れども、こうした訴えかけの最終的意義は、つぎの事実を納ネスを遂行する人物にたいして、他人の諸必要を満足させ る種類の行為を要求すると同時に、他人は他人で、当人を 得させることにある。すなわち、自我への尊重と他人への しいかえる して自分自身の存在の諸能力を表現させ、実現させること 尊重は、いずれもいっそう正常で完全な関心、 と、われわれが部分をなしている社会的集団の全体的幸福を可能にさせてくれるのである。べつのコト。 ( でいえば、 サービスはその結果において、相互的、協同的となるであ と統一への尊重の副次的局面であるという事実である。 たとえば、家族は、一人の人間に、他の一人を一つ一つろう。われわれが医者を信頼するのは、その医者が、自分 加えていったものとは、べつの何かである。家族は、永続の職分の社会的意義を承知し、知能と技能にめぐまれてい る場合であって、医者の利他的熱望がどれほど大きかろう する結合形式であって、家族集団の一人一人は、そもそも と、個人的感情によってもつばら動かされている場合では の初めから相互に関係しあっており、自分の行為の方向づ ない。組織された社会集団にぞくする市民の政治的活動 けをえるのは、利己主義と利他主義を調節することによる は、市民の一人一人が同情的性向をもつのでなければ、道 よりも、全体集団と、そこでの自分の位置を考えることに よるのである。同様な例証は、ビジネスの中にも、職業徳的に満足的とならないであろう。しかしこの同情は、行 的、政治的集団の中にも見いだされる。道徳の立場からす為の直接的命令者として価値があるのではない。何らかの れば、ある産業が立派であるかどうかのテストは、一方複雑な政治問題を考えてみれば、諸君は、知力によって開 で、全体としての社会に役だち、社会の諸必要を有効、かっ眼されない人間愛が、諸君をどんなにまちがったみちびき 公正に満足させるかどうかであり、他方で、その産業を担方をするであろうかを理解するであろう。同情は、価値を もっているが、しかしこの価値は、政策の形成や執行にふ 当する各人に生計の手段と人間としての発達をも提供する くまれるあらゆる社会的きずなにたいして、われわれをし かどうかである。けれども、もしビジネスマンが、②自 て、心のひろい仕方で注目させることを可能にする力の中 分自身の利益を増大することだけを考えるか、あるいは、

3. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

べンサムにとっては、彼の先人たちの解釈の大部分は、 習的発揮には、明確な限界がある。こうした感情は、われ まだ「独断主義」、すなわち、彼によれば、あまりに直観われ自身の家族や友人の一員といったわれわれに身近な人 的な理論の弊に、強くおかされすぎてした。 / 。 、 - 彼よ、立派な人をこえてひろがる場合は、まれである。この感情は、わ 鑑賞力なり、その他、何なりといった個人的反応を統制し、 れわれの目に見えない人々、あるいは、たしかに敵ではな 正当化すべき原理、一般的、非人格的、客観的原理をもと いにしても、異国の人々については、まれにしか働かな めた。スミス、とくにヒュームの中に、彼は、つぎのよう 、。第二に、無批判的な賞讃や軽べつは、表面的である。 な考え方が潜在的にふくまれているのを発見した。すなわこうした態度は、たすけたり、きずつけたりする場合の中 、っそう徴妙 ち、人柄の行ないや属性が他人におよぼす有用さこそ、ほ の、目だったいちじるしい事例には働くが、し こうした態度が める態度の究極的根拠であり、不用さ、有害さこそ、非難で、せんさいな種類の事例には働かない。 や軽べつの根拠である。人間は、自分らをたすけ、自分ら注目するのは、短時間のうちに目に見えてくるような援助 の幸福を促進する行動にたいして、自発的に拍手をおく や傷害という仕方での帰結であって、ずっとのちになって る。この事実にたいしては、 いかなる説明も必要とされなあらわれる帰結ではない。のちになってあらわれる帰結の 。共感は、人間性の原始的属性でもある。共感のゆえ方が、本当をいえば、はるかに重大な場合でも、そうであ に、われわれは、われわれ自身の運命がかかりあっていな いくつかの行動が徹底的に習慣化され る。そして最後に、 い場合でさえ、他人をたすける行動を賞讃する。われわれてしまえば、それらの行動は、自然現象と同じように当然 は、第三者に苦痛が故意に加えられるのを見て、共感を通の前提とされ、全然価値の評価が加えられなくなる。たと えば、法律や制度のもっ有益、あるいは有害な帰結は、慣 じて怒りに動かされる。共感は、本能的にわれわれを彼ら の場所におきかえる。われわれは、あたかもわれわれ自身習的道徳によってはとりあげられないのである。 ここから是認の標準について、功利主義理論がもちこん とが関係しているかのように、愛好の高まりとか、怒りの炎 だいくつかの変化が生じる。普遍的幸福、あるいは福祉へ 標とかを彼らと共有するのである。他人の幸福に献身した英 の寄与が、賞讃と尊敬への唯一の根拠であることを人々が 認雄的行動とか、あるいは、卑劣な忘恩や意地わるい怨恨の 行ないとかによって、何の情動をも感じないのは、ただ例承認する場合、彼らは上にあげた三つの限界をのそいてい 外的に無神経な人物だけである。 るのである。標準は、一般化される。判断というものは、 しかしながら、共感から発する賞讃や怒りの自発的、慣行動によって影響される総ての可感的生物にたいする苦楽

4. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

よって修正され、変史させられる。確証されるのは、狭く 全く違っていても、彼は道徳上では、他の人々と平等なの 誤「た知識でありかねない彼の以前の考えではなく、聡明である。彼自身の生活と経験において、彼が集団の活動と に判断しうる彼の能力である。彼のえるところのものは、 経験に寄与するところのものと、そのかわりに、経験の刺 経験の拡大である。彼は、学ぶのである。以前からもって激と豊富化という仕方において、彼のうけるところのもの いた彼の考えが大筋では、確認されたとしても、相互にほ とに、方程式がなりたっ場合、彼は、道徳的に平等であ んものの受けこたえが行なわれるだけ、彼の考えは、新し る。平等は、諸価値の平等であって、物質や量の平等では い照明をうけ、意味をふかめられ、拡大される。経験の拡ない。価値の平等は、それゆえに、各人の内面的生活と成 大と能力の成長にたいするよろこびがある。 長によって測定さるべきであって、機械的比較によって測 上にのべられたところは、社会理想の一部としての平等定されてはならない。各人は個人としては、総ての他の個 の観念を理解することを助ける。平等は、同一を意味する人と通約しえない。だから平等の外面的尺度を見つけるこ のではない。平等は、量的に理解されてはならない。そう とは、不可能である。具体的にいえば、一人の人物は、あ ナれば、解釈はいつも、外的、機械的平等の観念におわる る特殊の点では、多くの他人よりも優れ、ある他の点で であろう。子供たちが両親から経験を豊富にしてもらえる は、多くの他人よりも劣る。彼自身の成長の諸可能性と関 のは、両方がまさに不同不等であるからである。そこには係する彼の諸価値が、それらがなんであろうとも、その社 量的不平等がある、ーー熟練や知識の所有における不平等会組織の中で、他の一人一人の人々の諸価値と同じように、 である。それと同時に、質的平等がある。なぜなら子供ができるだけ細心に考慮される場合、彼は、道徳的に平等で すみれかし 能動的であって、うけると同時にあたえる場合、両親の生ある。いくらか機械的な類似を使えば、菫と樫の木とが、 活は、彼らが子供に提供するものと同時に、子供からうけどちらも同じく、革は菫として、樫の木は樫の木として、 るところのもののゆえに、い っそう充実し、いっそう豊富十分の発展をとげる同様な機会をもっとすれば、両方は、 政となるからである。平等をめぐる議論の多くが、無意味で、平等なのである。 葩無駄であるのは、この概念が機能的に考えられないで、静 善の共同の概念は、優越的地位の動かない人々が、他の 止的に取りあげられるからである。一人の人物が自分の諸人々に善をあたえようとする企てとっきあわせてみれば、 2 能力を発展させ、自分の役割を演ずる機会を、他の人々と内容がはっきりしてくるであろう。歴史がしめすように、 同様にもっ場合、彼の諸能力が他の人々のそれとほとんど慈恵的専制君主が、他の人々にめぐみをあたえようとのそ

5. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

があって、それが賞罰の使用を、各々の特別な場合における。こうした総ての場合において、他人によって責任があ る賞罰の帰結とは無関係に支配し、正当化するということ るとされることは、当人が成長するうえでの重要な保護装 は決してない。罰が、冷淡や反逆や頬かぶりのうまさ、そ置であり、指導力である。 の他を生みだしている場合に、 こうした原理に訴えること 自由の観念は、理論的議論の中で、責任の本性に関する・ は、責任を承認することを拒否する一つのやり方にしかす誤解によって重大な影響をこうむらされた。責任にたいし ぎない。さて、もっとも重大な帰結は、個人の態度に生じて、その先行する基礎と先行する保証をもとめた人々は、 る帰結、善い習慣をかためることと悪い傾向に変化をあた通常「意志の自由」の中にそれを位置づけ、この自由を、 えることである。 外側から動機づけられない選択力を意味させるように構鑿 責任に関するいろいろな理論がどこであやまりにおちい した。コト・ ( をかえれば、意志がこうした仕方で選択する・ るかといえば、ある人物に責任を帰することを、その結ということ以外に、いかなる理由をももたない一方的選爆 果、何が生じるかにではなく、それにさきだつ事情に基礎力である。当人がひとしく他の仕方で行動できたはすでな づけようとくわだてるからである。当人に責任があるとさければ、ある人物を、彼の行動のゆえに、責任があるとす・ れるのは、当人が責任にこたえる、すなわち、他人の必要るのには、何の正義もない、と論じられる。その場合、責、 や要求にこたえ、当人の持ち場にふくまれる義務にこたえ任を帰するということの機能が、当人の将来の行動を改良 るようになるためである。その行為のゆえに、他人に責任することにある点が、全く見のがされているのである。あ を問う人々は、彼ら自身がまた、こうした責任性が発達する人物は、もし彼が違った種類の人柄であれば、「彼が行 るように責任を問う責任をおっている。でなければ、彼ら為したとは、べつの仕方で行為した」ことであろう。そし て彼がやったこと ( また彼がそうするような種類の人柄で 自身は、彼ら自身の行為において無責任である。理想のゴ ール、あるいは極限は、各人が、自分のあらゆる行動に完あったこと ) にたいして、なぜ彼の責任を間うかといえ ば、彼が別種の自我になり、以後、別種の目的を選択する 自全に責任をもつべきだということになるであろう。しかし ようになるためである。 徳人間が出あうのは、新しい諸条件であるかぎり、このゴー ルはとうてい達成されることはできない。なぜなら、諸条 コト。ハをかえれば、実践的および道徳的意味における自 件が以前に経験した諸条件と全く不同である場合、人間は由 ( 何らかの形而上学的意味における自由について何がい 知識と態度の正しさについて確実でありえないからであわれようとも ) は、責任がちょうどそうであるように、人

6. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

290 て、責任の観念につながるもっともありふれたまちがい 仕方とはべつの仕方で行動しえたであろうかどうかの問題 は、賛否が展望的関係をもたずに、回顧的関係をもっと想は、ここでは無関係である。問題は、当人が、つぎの場合 像するところにある。人柄をのぞましくかえることの可能に、べつの行動の仕方が、できるかどうかである。人間の人 性、およびこの可能性を現実たらしめる行動のコースの選柄に変化をもたらすことのもっ実践的重大性こそが、責仟 択こそは、責任における中心的事実である。たとえば、子を重大な問題に仕あげるのである。幼児や心神虚弱者や狂 供が最初から自分のやったことに責任があるとされるの人が責任ありとされないのは、まなび、かえる能力がない は、当人がこうした行動を、知りながら、わざと意図したと からである。まなぶ能力が増大するごとに、責任の程度も いう理由からではない。そうではなくて、当人がすでにや増大する。他人に害悪を加えた行動を遂行するにさきだっ ってしまったことの中で、当人が思いおよばなかった諸関て、当人が熟考しなかったという事実、また当人がその行 係や諸帰結を、将来において当人が勘定に入れるようにす動を意図しなかったという事実は、何の重要さをももたな るためである。人間の行為者が、石や無機物から異なり、 い。ただし当人が同様の事情のもとに行動するつぎの場合 下等動物からさえも異なるのは、まさにこの点である。 に、当人をして十中八九、熟考させる方へおいやるような 石が絶壁からおちて、人を傷つける場合、石に責任があ種類の、他人による反応の種類に、その事実が照明をあた ると考えたり、木がたおれて、通行人をけがさせる場合、 える場合は、・ へっとしてである。一つ一つの行動が、ある 木を非難したりするのは、およそ、ばかげているだろう。ば種の諸行動を遂行する自我を形成することに、習慣を通じ からしさの理由は、こうしたあっかい方をしても、石なりて働くという事実こそは、理論的にも、実践的にも、責任」 木なりの将来の行動に、およそ考えうるいかなる影響をも というものの基礎である。われわれは、過去をとりけすこ およ、ほさないし、また、およ、ほしえないからである。石や木とはできない。われわれは、未来を左右することはできる が自分の周囲の諸条件と相互作用する仕方は、まなび、自のである。 分の態度や性向をかえる仕方ではない。人間が責任がある だから、他人の行為にたいするわれわれの反応を統制す ることと関係する責任は、一一重である。賛否や賞罰を行使 とされるのは、彼がまなぶためであり、そのまなび方も、 理論的や大学的ではないかもしれないが、自分の以前の自する人々は、他人の将来の態度や行為をのそましい仕方で 我をあらため、ある程度、つくりなおすというまなび方を十中八九、改変するであろう方法をどう選択するかについ するためである。当人が行動したときに、当人が行動したて、責任をおわされている。応報的正義という本来的原理

7. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

282 てランスをあたえられなければ、じっさいには、他人に にほかならないからである。そのかぎり、人が何に関心を もっかは、自我の一構成要素である。関心が、切手をあっ たいして害毒をながす結果におわるだろう。子供たちは、 とめどのない「親切」から、あまりに多くのことをしてもめようと絵をあつめようと、金をつくろうと友人をつくろ らうことによって、だめにされてしまう。大人たちは場合うと、芝居の初日にいこうと電気現象を研究しようと、そ の他、何をしようと同じである。どれだけ犠牲を払っても によっては、あまりにあまやかされて、慢性的病弱になっ てしまう。人々は、他人へのすじみちのとおらない要求を友人をたすけることによって、満足をえるか、それとも竸 行なうようにカづけられると、これらの要求がみたされな争者をうちたおすことによって、満足をえるか、いずれの い場合には、悲しまされ、傷つけられる結果になる。慈善場合にも、自我の関心がふくまれている。だからこの二つ は、その受け手をして、社会への寄生者にしかねない、等の行為は、総てひとしく「利己的」であると考えること 等である。帰結の善悪は、考えなければならぬ大切な問題は、ばかげている。なぜなら「自我」は、この二つの違っ であり、しかも、こうした帰結は、それが私の自我に関係た場合では、同じ意義をもつのではないからである。いっ の場合にも自我はふくまれているが、しかし違った自我 しようと、他人の自我に関係しようと、同じ性質をもって は、違った価値をもつのである。自我は、自我が欲求し、 いる。自我がいかなる種類の対象を欲望し、選択するか は、重大な問題である。このような目標のあり場所がどこ追求する対象の種類に応じて、コトをかえれば、積極的 であるか、たとえば、他人の中か、自分の中か、というこ関心が払われる対象の種類の違いに応じて、自分の構造を とは、それだけでは、このような目標の道徳的性質におけかえ、自分の価値をかえるのである。 道徳理論の中心点である自我と行動との同一性は、二つ る差別をつくりだすことはできない。 の方向に働く。この同一性は、行動の性質や価値の解釈に 活動は、一つの関心を表示し、しかもあらゆる関心は、 関心として自我をふくんでいるからという理由だけで、活も適用されるし、自我の解釈にも適用される。善人と悪人 動は利己的だと主張する考え方が、しばしば、もちだされの違いが、善人の方は、自分のすることにいかなる関心、も しくはふかくてくわしい配慮 ( 個人的なふかい満足にみち る。この立場の検討は、一切が、それにふくまれてくる自 我の種類に依存するという言い方を裏づける。すべての活びく ) をもたないのに反し、悪人の方は、自分の活動に自分 動は、自我から出てき、自我に影響するということは、自の一切をかける人物だという点にあると想像するのは、ば かげている。この両者の違いをおこすものは、両者の特徴 明の理である。なぜなら関心こそは、自我を定義するもの

8. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

わが道義、全能の神はわが霊を むことを意味する相互関係の思想に到達している。そして 悩ましたまえど、 この他人の重荷をせおうという思想は、倫理的関係のいっ わが舌は不義を語らじ、 そう高い類型をしめすもので、イスラエル人の宗教のもっ われ死ぬも、わが立派さを失なわす、 とも立派な産物である。それは、キリスト教の十字架観に ( 2 ) われは道義を守り、決して手ばなさない。」 おける中心的思想となり、近代の社会意識の中に一つの偉 ( 2 ) ョブ記、二七ノ一 大な要素を提供したのである。 ョブ記の示唆するいま一つの方向は、悪が人間の誠実を ためすためにくるということである。「ヨプは何も求めな 第三節到達された道徳概念 いで、神に奉仕するのか ? 」その立場からの答えは、あき らかにそうだ、彼はそうする、である。「ヨプには神にた 一、道義と罪とは、対立し、矛盾するものではなかっ ( 3 ) いする全く無私の愛がある。」この筋書きでは、苦難の経た。道義の人が必ずしも罪なき人ではなか 0 た。にもかか 験が外面から内面への価値の転換を引きおこしてもいる。 わらす、罪の意識は、暗い背景のように、し 、っそう強力に ( 3 ) ゼナン「内面生活の史劇、ヨプ』 Genung, Job, The 道義の概念を浮きださせた。この概念は両側面をもち、そ Epic Of lnner Life. の両側面は、市民生活と宗教生活から引きだされている。 人間苦の問題の他の扱い方は、イザャ書の後半にもでてしかもヘブライ人にとっては、この両側面は分離していな きている。そこでは社会的相互依存のいっそうふかい見解かナ っこ。一方において、道義または正義の人は、人間社会 をもってこの問題を解釈し、古い族的連帯にたいして、 における道徳的秩序を尊重した。不義の人とは、不正で、 変貌的意味があたえられるのである。苦難の個人主義的解強奪的で、残酷な人物である。彼は、他人の諸権利を尊重 釈は、罪の個人性を意味した。「われらは彼が神からうち しない。他方において、道義の人は、神と義しい関係の中 しもべ おきて のめされたと思った。」この考えは破れて、悩める僕の観にあった。この義しい関係は、神の律によってテストされ 念があらわれ、この悩める僕は、罪びとではない。彼はあうる。しかし神は、彼の人民を愛し、罪や咎や過ちを許す る意味において、他人のために苦しみをうけているのであ生きた人格と考えられたから、この義しい関係は、神の意 る。「彼はわれらの悩みを悩み、われらの悲哀をせおっ 志と人間の霊との本質的調和によっても、はかり知ること た。」ここでの思想は、善人が他人の罪や悩みのために悩ができる。そこには「律法の義」と「信仰の義」との両方

9. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

えにしかならなくなるのは、それが、具体的な場合にふく 判的判断を儀牲にした義務の外的承認を助長する。他の諸 まれるきすなの価値についての全心的な承認の中で、形成条件は、人々をして何が真に道義なのかを考えさせ、義務 される習慣の結果でない場合である。 の新しい諸形式を創造することにみちびく。現在では社 それゆえ、人々を結合する共通の価値と関心への感覚会という舞台は、その結果が混乱的であるほど、複雑にな り、迅速な変化に支配されていることは、うたがいの余地 は、ふつうの場合、ささえであり、手がかりである。しか しわれわれのすべては、われわれがこの価値に無感覚になをいれない。行為するための確実なみちびきをあたえる何 らかのコン。 ( スを発見することは、困難である。その結 りかねない諸条件に支配されがちである。そしてその場合 果、真の反省的、思索的道徳への要求がこれほど大きい時 は、当然他人にそくすべきものへの感覚は、逆傾向の支配 力とくらべて弱まるのである。そこで、他人の要求は、具代は、かってなかった。反省的道徳は、道徳上のあなたま 体的な諸関係についての以前の評価から生まれでてきた道かせか、あるいは、そうでなければ、義務としてかかげら 義と義務の一般化された感覚の中に、貴重な味方を発見すれる一方的、形式的規則体系への無思索で、独断的なしが る。 みつきかにかわる、ほとんど唯一の方法である。しかもし がみつきの理由は、慣習と伝統がわれわれを完全に支配し 「善」と道徳的知恵についての議論の最後の部分におい て、違った社会的諸環境が、実践的な思慮分別の力をきずているということ以外にはないのである。 過去における道徳的標準への厳格な帰依の程度を過大視 くうえに、非常に違った働き方をすることに注目した。社 し、現在のふしだらの範囲を誇張する傾向は、おそらく、 会的諸繝度が、「道義」への忠誠とか誠実を助長するのに、 いつも存在する。にもかかわらず、家庭的、経済的、政治 どう関係するかという問題についても、同じことが、おそ らく、 いっそう大きな程度において妥当する。反逆とか、 的諸関係の変化は、これまで人々を一定の、容易に認知し あるいは、すくなくとも無関心を助長する社会的諸制度が うる関係に結合してきた社会的きずなを、大きくゆるめる ある。ある諸制度は、見かけだけの忠誠、慣習的忠誠、偽結果を生みだしている。たとえば、労働者と企業家の間に は、機械組織がはさまってくるし、生産者と消費者の間に 善的忠誠までも生みだす傾向が強い。主たる関心事が、も は、遠隔市場が介入する。流動と移住が地方の共同体的き し画一的忠誠にしたがわなければ、うけなければならない 苦痛への恐怖である場合、こうした種類の忠誠が発生すずなに侵入し、しばしば、それを破壊する。かって家庭の る。ある社会的諸条件は、目的や価値に関する個人的、批中で遂行され、家のいとなみの結合のための焦点として役

10. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

だつような対象のために、否定するからである。その証て、反省と探究がさらに進行するのを積極的によろこんで 明を行なう責任は、反同調主義者の方にかかっている。何承認する態度である。道徳的判断における意見の違いへの が義務であるかについての自分自身の判断の道義性を主張寛容は、義務をもっとも強調する人々がまなぶのに一番む する彼は、潜在的には社会的要求、それゆえに他人の実験つかしい義務である。探究と公開的討論の敵の一つが克服 によってさらにテストされ、裏づけられるべき何かをかか されるやいなや、思想の検閲と抑圧を実行するために、新 げているのである。だから彼は、彼が抗議をする場合、彼しい、もっともらしい理由をもった、新しい敵どもが発生 の抗議からでてくる帰結を自分の身に引きうけることをまする。しかも思想の自由と観念の表現なしには、道徳的進 ぬがれないということをわきまえている。すなわち、彼歩はただ偶然的に、こっそりとしかおこりえない。人類は は、辛抱強く、快活に他人を説得することにつとめるだろなお全体としては、何が道義であるかを発見し、把持する ために、知性よりも、強制力にたよる方をえらんでいる。 忍耐や快活、また欺瞞、自己宣伝、自己感傷からの解放強制力はいまや、かってのように直接的、物理的に行使さ れることはなくなったが、ひそかな間接的強制力として行 が、もし道徳的非同調主義者にたいして要求されるなら、 同調主義者にたいしても、それと相関的な義務、すなわち、使されている。 寛容の義務が課せられる。歴史は、どれほど多くの道徳的 進歩が、彼ら自身の生きていた時代に反逆者とみなされ、 第五節義務の感覚 犯罪者としてあっかわれた人々のおかげによっているかを ものがたっている。反省的道徳の核心は、反省である。そ 要求がもちだされる場合の一般化された形式に対応しな して反省は、一般的に承認されたある事柄を批判すること がら、「義務ーの一般化された感覚が生まれ、そだってく とか、ふつう道義的だとみなされている事柄の変革を提案る。その道義性のゆえに、道義をもつものによって、しば することとかに結果することは確実である。こうして寛容られるという感覚である。最初は、いろいろな義務は、子 は、上機嫌の無関心という態度だけにとどまるのではな供の両親や兄弟姉妹にたいする義務のように、特別な関係 、。寛容は、真の道義が疑問と討論によっていっそう確実とつながっている。しかし道徳的成長が高まるにつれて、 にされる反面、慣習だけから持続してきた事物はいっかは何らかの特殊な状況から区別された義務の感覚が発達す 修正され、あるいは片づけられるのだという信念にたっ る。一般観念というものは、特別な状況のくり返しから出