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検索対象: 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学
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1. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

278 何か、たとえば、財布の中のドル札といったものではなれわれがあたかも対象が自我の構造の全く外側にある何か でありながら、無縁な自我を動かす働きをするかのように 。それは、当人がそれであるところの何かである。そし て彼の存在が活動的である以上、上記の諸性質は、活動の考える場合である。「動機」を、行為のコースに変化をも たらす対象と同視してよいのは、第二次的、派生的意味に 諸様式であって、活動を生みだす諸力ではない。 関心とか動機というものは、自我の必要、あるいは欲求おいてであるということは、明確で、重要な実践的意味を所 有する。人々がし 、つしょに結合し、一人のすることが、他 とえらばれた対象との活動における結合であるからして、 対象そのものが活動の動機であるといわれるのは、ただ第の人々に重哽な帰結をもたらすような世界、われわれ、人 間が生ぎている世界においては、他人が一方のことをする 二次的、派生的意味においてである。こうしてワイロは、 立法者をある特殊な政策に賛成投票するようにさそいこむが、他方のことをしないように、他人の活動に影響をあた 動機だといわれる場合もある。また儲けをえることは、食えようとくわだてることは、人生の不断の機能である。あ 料品屋がはかりを正しくしない動機だといわれる場合もありとあらゆる種類の根拠にたって、われわれは、他人の貧 る。けれども、ワイロや儲けたい願いが、当人を支配するの為に影響をあたえようとする試みにたえす従事している。 こうした影響作業は、家庭における教育のもっとも目だっ を許すのは、当人自身の人柄構造であることはあきらかで ある。欲ふかい人物は、淡白な人物にとっては、何の意味局面である。この作業は、ビジネスにおける買い手と売り・ ももたないような諸対象によって活動に動かされる。率直手の行動の動機となるし、弁護依頼人、判事、陪審員への で、腹蔵のない人柄の持ち主は、するくて腹黒い性向の持ち関係において弁護士が行動する動機となる。立法者、牧 師、ジャーナリスト、政治家は、他人の行為を一定の仕方 主をただ反発させるにすぎないような対象によって動かさ で左右する試み、行為における変化や方向づけの仕なおし れる。立法者がワイロによって、信念に反する投票をする ように誘惑されるのは、彼の自我のあり方が、すでに信念をもたらそうとする試みに、従事している。こうした総て の場合には、一つの共通のやりくちというものがある。相 や原理よりも、金を儲ける方が本人にとって価値が高いよ うなあり方である場合にかぎられるのである。われわれが手方の人柄構造の中にあるいくつかの要素に訴えかけられ 全状況を説明して、対象が人物を動かすというのは、十分ると考えられるいくつかの対象が提示され、その結果、相 正しい。なぜなら動力としてのその対象は、自分の中に自手方をして、彼らの活動を、ある一定の仕方で形づくるよ うに誘導するのである。その仕方は、もし当の対象が相手、 我をふくんでいるからである。まちがいが生じるのは、わ

2. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

224 的である義務とかの観念へかかわることなしにしめされ る。じつをいえば、この派によれば、「善」や「義務ーの 観念は、第二次的にすぎない。「善」とは、是認を引きだ すところのものである。義務は、他人が自発的に行動には りつける賞罰や賛否として、表現された他人の圧力からで てきている。 この見解にたてば、反省的道徳の問題は、人々が無意識 的に是非を表明する基礎を発見することである。賛否とい 第一節根源的事実としての是非 う自発的、直接的態度の中に潜在的にふくまれているとこ 行為は、複合的である。その複合は、行為を単一な原理ろのものを表だたせることによって、反省は、思考をへす へ知的に還元する試みを失敗させるほどである。さきに注に行なわれる反応の中へ一貫性と体系性をもちこむことに ハが、二重の意味をも 目したのは、相互に交差しあう一一つの主要な考察、欲求をなる。道徳では「判断」というコト。 満足させると判断される目的と、欲求を制止する道義と義っことは、重要である。知識に関しては、このコトパは知 的意味をもつ。判断するとは、思考の中でプラスとマイナ 務の要求の二つであった。 スを見つもり、証拠がどちらかにかたむくかによって、決 さまざまな学派の理論が、一方を他方から引きだそうと 試みたが、この二つはいくつかの点では、独立変数であり定することである。この意味づけは、論理学説の中で承認 つづけている。道徳批評家のもう一つの学派は、是非、賞されるただ一つの意味づけである。しかし、人間的関係に 罰、同感的激励と立腹をあらわす活動が、行為の中に普遍おいては、このコト・ ( は、はっきりした実践的意味をもつ。 「判断する」ということは、ほめたり、けなしたりするこ 的にふくまれていることから、ふかい印象をうけた。この と、賛否を表現することである。こうした判断は、実践的 派の理論家たちが、こうした活動の自発性と直接性にふか くうたれたのは、人間にとって、他人の行為に好悪をしめ反応であって、冷静な知的命題ではない。判断は、好悪を すことが、コトパのもっとも直接的な意味において「自然あらわし、人間のもっ感受性のゆえに、他人の好悪は、判 的ーであるからである。こうした好悪は、意識的反省をへ断される当人に積極的影響をおよぼす。「新約聖書」にお ずに、コト・ハをかえれば、達成さるべき善の目的とか権成ける「裁くなかれ」という命令は、判断のこうしたっかい 第十三章是認と標準と徳目

3. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

241 た人柄から切りはなされた関心は、かたよることをまぬが不可能である。しかし、自分自身を愛するように、自分の れないし、その意味で分裂しており、たとえ無意識であっ敵を愛せよという守則は、われわれの行為において、われ ても、不まじめである。ある人物は、友人とか自分の家族われは、自分自身の関心を評価するのと同じ度合の評価 で、彼らの関心を重んずべきだ、ということを意味する。 の一人一人の幸福に、容易に関心をしめしながら、自分が この守則は、われわれの行動が他人の幸福におよぼす関係 - 感謝や愛情のきずなによってつながれていない人々には、 同様に容易に無関心でいがちである。自分自身の民族にぞを判断する場合、この判断を規制するための原理である。 くする人々への関心を規定するために一つの標準をもち、 目的の純真さは、この純真さが関心のひろさとかたより 自分とはべつの人種や皮膚の色や宗教や民族にぞくする人のなさにむすびつかないかぎり、せまさになってしまうだ 人を見る場合には、全くべつの標準をもっことは容易であろう。徳は、是とされた対象への根本的で、徹底的な関心 る。もちろん、関心の完全な普遍性は、量のカの平等とい の中にある、という考え方が果たす機能は、特殊な集団、 ュニケー あるいは社会組織の中で慣習的、かっ流行的に重んじられ う意味においては不可能である。人が不断のコミ ションをむすんでいる人々にもっ関心と全く同じ程度の関るあらゆるものを徳と同視することから、たんにわれわれ 心を、わずかな接触しかもたない、遠いむこうにいる人々をすくうだけにとどまらない。なぜなら、この考え方は、 にもちうると想像するごときは、たんなる見せかけにすぎ徳の諸性質を相互に頭の中だけで分離することからも、わ ないだろう。しかし関心の公正、あるいは公平が量の問題れわれを守ってくれるからである。べつべつの徳の目録だ ではなく、質の間題であるのは、不公正が、多少の問題でけしか思わない思想は、さまざまの徳が水ももらさない個 はなく、判断の不平等な尺度をつかう問題であるのと同じ室の中へ分類整理されて、べつべつに保持されるという考 え方へわれわれを釘づけにする。じつをいえば、徳的属性 である。公正が要求するところは、他人と関係して行動し なければならない場合、その他人が、友人であろうと見知は、相互に貫通しあうのであり、こうした統一は、人柄の 一貫性という観念そのものの中にふくまれている。一つの らぬ他人であろうと、同胞であろうと外国人であろうと、 人は他人の関心が勘定の中に入ってくるかぎり、平等で同場合には、障害に面しての持続と忍耐が、もっともきわだ 等な価値尺度をつかうべきだ、ということである。直接った特性であり、その場合の態度は、勇気とよばれる長所 、かたよりのなさと公正という属 的、あるいは、情動的意味においては、われわれは、われである。べつの場合には 性が、最高であり、それは正義とよばれる。もう一つの場〔 われの友人を愛するように、われわれの敵を愛することは

4. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

で、およぶ範囲も巨大である。それゆえ、変革は、集団的させられうるのである。 3 に組織された行動によってしか、実現されえないのである。 ジョン・スミスとか、スザン・ジョーンズとか、その 他、その他の個人をこえ、その上にあって、社会とよばれ るべき何ものもないということは、たしかな事実である。 第三節この衝突の三側面 個人個人から離れた何ものかとしての社会は、全くの虚構 人々の意見は、一方か他方かに傾きがちである反面、個である。他方において、大宇宙におけるいかなる存在も、 人的対社会的という、いっそう一般的な争点の多数の亜種物理的事物でさえも、何らかの結合形態を離れて存在する ものではない。原子から人間にいたるまで、つながりあっ として、いっさいの争点をひとまとめにすることからは、 た行動にまきこまれていない何ものもありはしない。遊星 混乱だけしか出てこないのである。事実をいえば、明白な 一群の問題でありながら、その一つ一つがそれ自身の特色が存在し、運動するのは、太陽系においてである。そして これらの星系は、銀河圏の中にある。植物や動物は、もっ に応じて取りあげられ、処理されることを要求し、そこで と親密で完全な相互作用と相互依存の諸条件のもとで存在 は、個人的と社会的とは、対立したコトパではない間題が し、活動する。人間は、個人と個人の結合によってのみ生 ある。じつのところコトバの厳密な意味では、、かなる問 題も、一方では個人的に、他方では社会的に還元されえな産される。人間の幼児は、他の人々の愛育と保護に依存せ いのである。しばしば指摘されるように、社会は個人個人ねばならないほど、それ自身ではカ弱い存在である。彼は、 から成りたつのであって、「社会的」というコトパは、個他からあたえられる援助なくして成長することはできな 彼の心意は、他の人々との接触により、相互交信によ 人個人が事実上、結びあい、親密な仕方で相互に関係しあ り、やしなわれる。個人が家庭生活から巣だつやいなや、 っている事実を指示するだけなのである。「社会ーは、指 摘されるとおり、自分自身の構成要素と衝突することはで彼は、自分が他のいろいろの団体、近隣、学校、町村、職 きない。それができるなら、数一般と、個々別々の整数と業やビジネスの仲間に引きいれられていることに気づく を衝突させることもできるだろう。他方からいって、個人彼を他人に結びつけているいろいろの絆からはなれては、 個人は、自分自身がささえている諸関係と対立することな彼は、何ものでもない。隠者やロビンスン・クルソーでさ どはできはしない。完全に孤立した完全に・ ( ラ・ ( ラな存在え、野獣以上の次元に生活するかぎり、彼らが肉体的には などという非実在的で、不可能な存在だけが、社会と対立現に見られるような孤独であったとしても、自分の心に去 、 0

5. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

は、他人にサービスする総ての行動の条件である。自分自 動の目標の一部分になるであろう。のみならず、この二つ の可能性の観念は、手をたずさえて発達する。人間が、自身にたいする特別の意識的関心をもって行動することを必 分自身の善をはっきりした目的として気づくようになるの要とする場合があるのを認めそこなう総ての道徳理論は、 自殺的である。自分自身の健康への配慮、あるいは、自分 は、ただ彼がそれと対照される他人の善を気づくようにな る程度に応じてであり、その逆も真理である。人々は、他自身の物質的幸福すらへの配慮に失敗することは、他人の ために何かをする能力を、その人物からうばうことに結果 人と区別されるかぎりにおいてのみ、他人に対立するもの するであろう。すべての人間は、生まれながらに自分自身 としての自分自身を、意識的に考えるのである。 利己と利他が、生まれながらの「動機」ではなく、本当のためをはかるのであるから、それをあらためて考えにの の道徳的意味において最後に出てくるのは、こうした過程ぼせるということは不必要だ、と論じさるわけにもいかな 。自分自身にとって何が本当に善であるかを規定するこ をとおってである。しかしながら、この事実は、自我への いかなる手段 意識的尊重が道徳的悪であり、他人への意識的尊重が必然とのむつかしさは、他人の遽がどこにあり、 : 、他人の善を促進するかを的確に発見するのが、むつか 的に善であるということを意味するわけでは決してない。 行動は、その行動が自我の将来の幸福への考慮から発してしいのと同じである。生まれながらの自己関心は、何が善 であるかについて目さきだけの見方をとるように仕むける 、。自分自身の いるからといって、利己的であるのではなし から、こうした自己関心は、何がわれわれ自身の善を形成 健康、実力、学習の進歩への熟考的関心が、自分自身を目 ざしているからというだけの理山で悪であるとは、だれもするかについて、われわれを盲目にしがちである、と論 いわないであろう。こうした点において、自分自身を大切じ、他人にとって、何が善であるかを見ぬくことの方が、 にするのは、場合によっては道徳的義務でさえある。こうすくなくとも、他人の善がわれわれ自身の利害関心と衝突 いっそう容易である、と論じることさえで しない場合は、 した行動が、道徳的利己の性質をもってくるのは、それに きるであろう。 自没人する程度が、他人の要求への鈍感さをあらわすまでに し力なる種類の自我が促進され、形 真の道徳的間題は、、、 観なる場合にかぎられる。行動は、それが自我の幸福を進め るから悪であるのではなく、他人の権利なり、正当な要求成されるか、ということである。そしてこの間題は、自分 別なりについて不公平であり、無思慮であるから、悪なので自身の自我と他人の自我の両方に関して発生する。他人の ある。のみならず、自己を維持し、自己を防衛する行動幸福にたいする強い情動的関心は、注意ぶかい思考によっ

6. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

216 は神の声だ」という格言があるではないか。法律は、人間足される必要をもつ。彼の業績はもちろん、彼のレクリエ のためにあるので、人間が、法律のためにあるのではない ーションといえども、他人との分担に依存する。個人が引 ということは、決してまなびやすい教訓ではない。また、 きはなされ、孤立したままで生まれ、ある人工的工夫によ 抑圧的で一方的に見える権威への反動のあまり、個人個人ってのみ、社会に引きこまれるのだとする観念は、全くの の感覚的欲望や衝動の無政府状態によりかかる場合も、困神話である。社会のきずなやつながりは、肉体のそれと同 難はそれだけ、ヘるわけではない。 様、自然でもあるし、不可避でもある。一人ぼっちである 要約すれば、観念としての「道義ーは、独立した道徳的場合でさえ、彼は、他人との結合から出てきているコト・ハ 概念、あるいは「範疇」であるが、この事実は、特殊な場をつかって考え、他人との相互関係の中で生まれた疑問や 問題について考えるのである。人柄と判断の独立は、尊重 合に何が道義であるかの疑問を解決してはくれない。法と 法が法であらねばならぬということは、特定の法が、ちょ さるべきである。しかしこの独立は、単独的孤立を意味す うどそれだということには決してならない。法が必要なのるものではなく、他人との関係において発揮される何かで は、人間が社会的関係の仕方の中で生みおとされ、生活すある。たとえば、ほんものの科学的思想家や哲学的思想家 ほど、独立な探究や反省や洞察が特徴となる人々は、ま、 るからである。特定の法が疑問の余地をもつのは、特定の 法が法一般の機能を実現する特別な手段、すなわち、万人にいない。しかし、彼が長い伝統を出場所とした問題を思 の幸福と自由をもたらす人間間の諸関係の制度化にすぎな索したり、他人の賛成をかちとったり、あるいは他人の修 正を引きだしたりするために、自分の結論を他人と共有し いからである。 個人は、相互に依存しあっている。だれ一人として、他ようとしなければ、彼の独立なるものは、むだな風変りに こうした事実は、だれにもよく知られてい 人への依存なしに生まれでるものはない。他人からの扶養しかすぎない。 なしには、個人は、みじめにほろびさるだろう。彼の肉体るが、事実のもつ意味、すなわち、人間は、他人との関係 のゆえに、個人であるということは、必すしも明確に知ら 的生存および知的生存を可能にする材料は、他人から彼に 手わたされる。成長するにともない、彼は、肉体的およびれているわけではない。でなければ、彼が個人であるの は、ただ材木の一片として、すなわち空間的、数字的に単 経済的には独立を高める。しかし彼は、ただ他人との共同 および竸争によってのみ、彼の職業を遂行することができ独なものとしてであるにすぎない。 こうした諸関係の多くは、持続的であるか、それともし る。彼は、サービスや品物を交換することによってのみ満

7. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

二つとれば、この二つは、現実の材料と構造において、相価をくだせるかということである。この点が明瞭に認識さ この二つは、充足の一例であれれば、しばしば提起される間題が、作為的性質しかもた 互に決して同じではない。 る、すなわち、ある欲求によ「てだされた要求をみたす場ない事情を理解することができる。あらゆる道徳理論の核 心は、個人の幸福と一般の幸福との間の関係だという主張 合であるというかぎりでのみ、ひとしいのである。けちな が行なわれてきた。正義としての道徳は、この両方の間に 人物は、金をためることに満足を見いだすが、気まえのよ 完全な平衡がなければならないことを要求する。他人のた い人物は、他人に幸福をあたえるために金をつかうことに めに善をあたえる行為が、他人の利益を助長する当人にた 満足を見いだす。一方の人物は、目に見える仕方で他人の いしては、苦痛をもたらすような世界、あるいは、他人に 先頭をきるときに幸福であるが、他方の人物は、他人をあ 苦しみをあたえる行為が、他人を傷つける当人にたいして る災厄からたすけだすときに幸福である。実質内容からす は、幸福を生みだすような世界、こういう世界に、われわ れば、この二つの場合ははげしくことなり、形式からすれ こうした主張が、 ば、この二つはひとしい。なぜなら、この二つは、欲求をれは道徳的に満足することはできない。 満足させるにあた「て、同一の位置をしめ、同一の役割を行なわれている。この両方の間に、しばしば、出てくるく 、ぬけるために、多くの巧妙な工夫が いちがいをうまくしし 演じるからである。 とういう種類の幸福が真っみかさねられた。なぜなら、たとえ極端な利己的孤立化 そこで、標準の果たす機能は、。 は幸福に不利に働くにしても、愛情のひろさや感度が大き に道徳的であるか、いいかえると、是とされるかを規定で いのも、同様に幸福に不利に働く、すなわち、幸福である きるように、満足の種々さまざまな実質的種類を識別する ことである。標準がおしえるのは、違「たさまざまな種類可能性がも「とも強い人物とは、自分の同情に用心ぶかい 統制を加え、他人の運命にまきこまれないですますように の中で、同時に他人にも満足をもたらすか、あるいはすく となくとも他人に害悪をおよぼさないという点で、他人の安する人物だ、とい「た主張さえ行なわれているからであ る。もし標準と目的との違いにひとたび気づくようになる 標寧と調和するかする満足こそ、是とさるべきだ、というこ ならば、個人的幸福と一般的幸福との同一、あるいは平衡 ーいかなる事物が目的とさ 認とである。標準は、個々の場合こ 是 れるべきかを教えはしない。標準がわれわれに教えるのを実現しようとするこの間題は、じっさいには存在しない 間題であることがわかる。標準が教えるのは、われわれが は、われわれの欲求のゆえに標準とは独立に心に姿をあら わしてくるさまざまな目的に、どういう手続きで是非の評友人関係とか仲間関係とか市民関係とか、科学や芸術の追

8. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

カントの主張した普遍性は、公式的理論としては、そう原理と同じである。すべての人間は、ひとしく人格であ でないにしても、実際には、あらゆる帰結を無視すること 万人の行為にたいして、ひとしい要求を行なうことを ではなく、社会的諸帰結を尊重することを意味するという 許される以上、義務を守る合理的行為の理想は、目的の王 ことは、彼ののべる道徳的法則のもう一つの公式の中にあ国という観念にみちびく。道徳的法則は、「べつべつの人 らわれている。彼の見解によれば、道徳的、あるいは合理 間を共通法則によって組織に結合すること」を要求する。 的意志は、他の何かへの手段ではなく、目的そのものであ もしこの結論を心にとめながら、われわれが社会的関係 . る。さて、人間はだれでも、平等に、目的そのものであをむすばなければならない他人の要求を考えるならば、 る。じつをいえば、この平等こそ、人間をたんなるものか「道義」と「義務」の観念が、どの点で「善」の観念かう ら区別する性質そのものである。われわれは、ものを手段違い、しかもこの両方が、いかにつながっているかを洞察・ として使用する。われわれは、自然の対象やエネルギー することが可能である。 たとえば、石、材木、熱、電気をわれわれ自身の特別の目 当人の善と他人の善とが衝突する場合、大部分の人々 的のために従属させる。しかし、われわれが、他人をわれは、自分自身の満足のほうが、し 、っそう価値が高いと見つ われの目的のための手段にする場合、われわれは、彼の存もる強い傾向をもつ。われわれが、われわれ自身の欲求を一 在そのものに暴行を加えている。われわれは、彼を奴隷と よろこばせるという理由で、善だと判断するところのもの してあっかい、彼をたんなる自然対象とか、馬や牛のよう が、かりにわれわれ自身の利害がふかく介入していない な家畜の資格にまで引きさげているのである。ここから道して、われわれが他人の善だと洞察するはすのものと衝突 徳法則は、つぎのような形式でいいあらわされるだろう。 する場合、重大な道徳問題がおこってくることは、うたがう。 誠「人間を、自分自身の人格であれ、他人の人格であれ、目余地がない。自分自身を多数の他人と同じ一人とみなし、 的としてあっかうように、行動し、手段だけとしてあっか同時に「岸辺のただ一つの小石」とみなさす、しかもその 義うようには、行動するな。」他人にたいしてうその約東をすうえ、この評価を実行の中でつらぬくことは、われわれが まなばなければならない、おそらくもっとも困難な教訓で - 義る人物は、その他人を自分自身の利益の手段として利用し 道 ているのだ。自殺をもくろむ人間は、彼自身の人格を、不ある。もし他人が他人の要求をもちださず、またこうした 愉快や苦悩をさけるためのたんなる手段としてあっかって 一般的諸要求が一般的な社会的期待、要求、法の体系の中・ いるのだ。この第二の公式は、つぎにのべる第三の最後の に具体化されなければ、当人は、例外的個人となるだう

9. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

もかかわらずそう判断されるべきものとの間の外見上の矛子供たちは、彼らの父親たちが石をなげた人々のために記一 盾の解決は、われわれのもとめている標準への道を指示す念碑をつくったりする。しかし、こうした事実があるから る。義務だといわれ、その背後に道徳法の権威をもっとい といって、場合によっては不適当にも私的良心とよばれる われる行為は、ある行動が要求されている当人も分有する個人的、主観的意見以外に、道義と不道義の標準はないと ようになる善に、じっさい、寄与しているか。義務が課せ いう結論が、不可避になるのではない。自分が財産に何の られている当人は、自ら他人にたいする要求を行なう。彼価値もおいているのでなければ、だれもぬすみはしないだ - は、他人から便益を期待する。彼は、他人が彼に負うとこ ろう。泥棒でさえ、自分がぬすんだものを取りあげられれ、 ろの義務を他人に守らせるが、それは彼のえようともとめ ば、うらみをいだく。誠意というものがなければ、ペテン る目的や価値のゆえである。つぎに、こうした要求が、彼というものもありえない。不義をおかす連中は、他人の誠 の自分自身でもちだす要求と同じ種類にぞくするならば、 意と正直をあてにしているのである。でなければ、こうし またもしその要求が彼自身で貴重とする善に役だつなら たきすなをやぶることが、彼にとって何の利益にもならな ば、彼の心が公正である程度だけ、彼はそれが共通の善で いであろう。不義はどこになりたっかといえば、不義をお、 あることを認め、そのゆえに、彼の判断と行動をその要求 かす連中が自分にとって善だと判断し、それをもとめる場 合、あてにして行動するものへの不実にある。彼は、自分 に義務づけなければならない。 の依存する原理を裏ぎっているのである。彼は、他人にた もしわれわれが、何が一つの行動を不義にするのかをた いする自分自身の行為の中で承認することを拒絶する価値 ずねるならば、この点はおそらくもっとも明瞭にうかびで そのものを、自分の個人的利益のために利用している。彼 る。われわれの理論が義務づける結論は、選択や行ない は、自分自身のためにもとめる善を他人にひろげることを は、それが現在行なわれている法や義務の慣習的体系から 誠 忠 はずれているという理由だけで、不義になるのではないと拒絶する場合、カントなら、たぶんそういったであろうよ 義いうことである。なぜなら法や義務の体系の方が、不義でうに、理性の何らかの抽象的法則に矛盾しているのではな く、相見たがいの原理に矛盾しているのである。道徳上の 義あり、個人が自分の方でそれに順応するのを拒絶すること ノンコンフォーミスト 道 に、「道義」をもっ場合があるからである。ある時代に、道反同調主義者は、どこで正当性をもっかといえば、彼が特 徳的反逆者として迫害されたいく人かの人物が、のちの時殊な要求の道義性を否定する場合、私的利益のためにでは 、っそう矛盾なく役 なく、万人の幸福にいっそう十分に、し 代には、道徳的英雄としてもてはやされることになった。

10. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

方にたいして目的としてかかげだされなかったならば、相的活動をどう動機づけるかに関係する。議論が混乱したの 手方が十中八九、採用しなかったであろうような仕方であは、あらゆる動機づけの本性如何という根本にある問題を る。こうした対象は、動機というコト。 ( の第一一次的、直接検討しそこなったからである。この失敗は、人間が生まれ 的に実践的な意味において、動機とよばれるところのものながらに動かされるのは、ただ自愛、あるいは自分自身の を形づくる。こうした対象は、他人の行為に影響をあたえ利益本位によってのみであると主張した人々の中に、たぶ るくわだてにおいて、根本的に重要である。しかし道徳理ん、もっともはっきりとあらわれている。しかしこの失敗 論は、行動の方向づけに変化をよびおこすこうした対象は、人間が人間的動機によっても活動へ動かされると主張 を、あたかも始発的運動、あるいは活動という意味におけする人々、および人間愛こそは、道徳的に正当化される主 る「動機ーであるかのごとく考える点で、根本的なまちが たる動機だと主張する人々にも影響をあたえた。 いをしばしばおかしたのである。このような理論は、論理 動機をどこに見るかの正しい理論は、自愛と利他主義の 的には、自我を受動的にすることに結果し、あたかも外か両方が、われわれの心理構造においては、原初的構成要素 らの刺激によってのみ活動にかりたてられるものであるか ではなく、獲得された性向であることを教え、そのどちら のようにあっかってしまう。 も道徳的に善の場合もあるし、道徳的に非難される場合も ある、ということを教える。心理学的にいえば、われわれ の生まれながらの衝動や行動は、利己主義的でもなけれ 第三節利己主義と利他主義 ば、利他主義的でもない。 コト。ハをかえれば、それらの衝 何を動機とするかについての概念の正否が、自我と活動動や行動は、自分自身の善なり他人の善なりへの意識的関 心によって発動するのではない。むしろ状況にたいする直 との統一を左右する関係をべつにしても、この正否は、も う一つの問題とのつながりにおいて、とくに重要である。 接的反応である。自愛に関するかぎり、ジェイムズのつぎ 我 ののべ方が正しい。彼はいう。「婦人たちが立っているの 自イギリスの倫理学的思索においては、この間題は、ハ 徳ート・スペンサーが「道徳的思考の急所」とよんだほど、 に、私が自愛によって私 ' の席をゆずらないとか、何かをま 焦点にもたらされた。その問題とは、利己主義と利他主ず横どりして、隣人をだしぬくとかの方へ動かされる場 義、自己重心の活動と他人重心の活動、自愛と人間愛と合、私が本当に愛しているのは、座席であり、私が横どり が、どう関係するかという問題である。この問題は、道徳する事物そのものである。私は、母が彼女の子供を愛し、