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検索対象: 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学
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1. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

くる。両親の一人が、親としての役目をして、自分自身の係を無視するために、道徳を苛酷なものにすることにおわ なぐさめを増し、自分自身の気まぐれにものをいわし、他人る。それは、自分たちが法だと思うものを宣言し、強制す への権力欲を満足させる手段に引きさげる場合もある。そる権力の持ち主たちの欲求に、人民大衆を従属させること して、地方行政や中央行政の役人も、同様である。こうしである。 た行為は、不義であるが、こうした裏ぎりは、不幸にも、 いままでの議論の結論は、「道義一般ーが、人間関係に どこででも行なわれる。悪は、拡大し、やがて総ての権威ともなう社会的要求のゆえに、独立した資格をもっている にたいする怨恨を挑発する。そしてあらゆる義務は、個人にもかかわらず、特殊な要求はどれでも、検討と批判をま 的自由の制限であり、上の権力の一方的おしつけだというぬがれないということである。特殊な要求は、自分のため 感情が強まっていく。 に道義の権威を要求する資格があるか。それは、ほんとう この衝突は、法の意味の解釈に影響する。一方では法に道義的なのか。こうした疑問にこたえ、批判における判 は、下位の従属的な人々の意志との関係における上位の意断をみちびくために、特殊な法や義務の道義性を判定する 志の表現だとみなされる。他方では法は、あらゆる人間の標準が見いだされなければならない。「道義」の主張する 要求の本質は、要求される事物が、よびかけられている当 意志を絶した、非人格的、独立的実体にまで高められる。 カントは、たとえ合理的意志という専門的名前においてに人にたいして、自分の善として訴えかける力をもっていな い場合でさえ、その人物はその事物を、自発的に善だと考 せよ、こうした仕方で、道徳法則を文字どおり定義した。 えるべきであるということであり、要約すれば、たとえ彼 あらゆる人間関係が役だつべき目的ならびに善を表現する ものとしてではなく、あらゆる人間関係に超越したもの自 がそのときその事物を善だと判断していないにしても、要 体として、法をあっかう傾向は、うたがいもなく、一部分求される事物は、彼の善になるべきであるということであ は、人間関係が動揺するという気持ちを理由として、何か る。「べきである」とか「当然である」というこの要素は、 「道義」の観念を「善」の観念から区別する性質である。 安定し、恒常的なものを見つけたいという欲求から、すく しかしこの性質は、道義の観念を、善の観念から全く切り なくともおこっている。法の「威厳」や「荘厳」がロにだ はなすものではない。なぜなら、「べきである」ところの される場合、この動機が潜在している。しかし、もしこう した信念が実行にうっされるならば、それから生じる論理ものは、要求される行為を個人が善だと発見すべきだとい うことだから。現在、善だと判断されていないものと、に 的帰結と実際的結果は、法や義務と、善の達成との間の関

2. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

るかに関する社会のまじめで、思慮の加わった判断を表現らない。社会的善と私的善、あるいは大きくて包括的な善・ する。こうした基礎にたてば、法律の権威は、反省的に是といっそう小さい善との衝突は、小さい方のかわりに大き い方の満足をえらぶのが合理的である以上、見せかけだけ 認された包括的善の権威にほかならない。 にすぎぬと論ぜられる場合にも、大体同じことがいえる。 道義が善への手段だとする考え方に関しては、道義にそ 本当の困難は、衝突にまきこまれた当人が、社会的善を当 うとみなされる行動が事実、善に寄与することは、たしか にのぞましいといわれるだろう。しかし、こう考えたから人にと「ての何らかの意味での善だとは実感していないと とい 0 て、「道義」の概念が多くの場合、満足と善の概念ころにある。彼がそう実感するためには、彼は社会的善 を、独立した権威をもって、彼の注目を要求するものとし から独立しているという事実が始末されるわけではない。 両親の一人が、「これは、道義にかなう、だから子供はそて、まず承認しなければならない。「善」は、われわれを引・ きつける魅力のあるものである。「道義」は、われわれが うすべきだ」という場合、その行動の遂行がじっさい、ある 善にみちびくことがのぞまれている。しかし観念としての自然的に引きつけられようと、引きつけられまいと、ある・ 「道義」は、善の観念とは全く別のところにある要素をも対象によ 0 て、われわれが当然引きつけられるべきだとま ちこんでくる。この要素は、強制とか要求という要素であ張するところのものである。 欲求と満足に立脚した理論と対照的な理論のタイプは、 る。一本道とは、まっすぐで最善のコースを意味するが、 しかしまた統制が加わり、秩序づけられたコースをも意味だから、前者に特徴的な諸観念の順序を逆転する。このタ している。ある行動が、ささやかで手近な善のために、大イ。フの理論はしばしば、たとえば「理性」および「理性的 きくて究極的な善を犠牲にすることをふくむので、その行理念」を重視する。しかしこれらのコト・ ( に帰せられる意一 動のおろかなことを、知的には認めながらも、さらに自分味は、この二つのタイプの理論では、はげしく異なる。 「理性ーはいまや、欲求のずっとむこうの完全な帰結への がその行動をのぞんだ以上、なぜおろかであってはいけな 聡明な洞察としてではなく、欲求に反対し、命令を発する、 いのか、とたすねる人物がいるかもしれない。不義という ことによって、欲求の実践に制限を課する力として考えら・ 観念は、独立の契機、すなわち、その行動が道徳的権威の 観点からすれば、正当的要求にこたえることへの拒絶であれる。道徳的判断は、思慮や配慮の行使ではなくなり、「道、 る契機をもちこむ。「善」を「道義ーへかえるために、何義」や義務の要求をわれわれに知らせる能力、ふつう、良 . 心とよばれるものになる。このタイプにぞくする多くの理一 が正しいかについての権威的主張という観念がなければな

3. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

論は、「道義」の概念が、「善」の概念から独立だと主張すし、したがってもいる。しかし、こうした屈従は、したが ることに満足するのではなく、「道徳的善」としての「道う方に奴隷的弱さを、権力をもっ方に他人の権利へのあっ 義ーは、あらゆる自然的欲求や満足から完全にへだてられかましい無視を発展させる。他方では、われわれの正常な た何かであると主張している。したがって、これらの議論衝動や目的と何のかかわりもないくせに、衝動や目的に優 は、行為を二つの孤立した領域、道徳的領域と道徳的でな越する「義務ーの法則であり、同時に原理であるものがあ る、というならば、人間は、二つのばらばらの部分にわけ い領域にわけ、すべての自然的感情や衝動をうさんくさい られることになる。 目でみる考え方にすでに加えられた非難 ( 一九七頁 ) をう けることになる。これからの議論はそれゆえ、人間性に本 出口はどこに見いだされるかといえば、道徳的要求の行 来所属する欲求や感情を湧きロとする目的や価値から、道使は、人々が相互に孤立するのではなく、不断の結合と相 義をわけてしまうことなしに、道義の概念を判明にたもっ互作用の中で生きているような世界では、他のいかなるも ことができることをしめす方向をとるであろう。 のとも同じように、自然だということを承認することにあ る。子供の服従を命じる両親のどちらかの要求であって、 片親の一方的欲望以外の何ものをも表現せす、おまけにし 第二節道徳的要求の起源 たがわなければ、子供を苦しめる力が加わっているような われわれは、自分自身がそれにしたがう要求の道徳的権場合がある。しかし、子供が服従すべき要求や請求は、か 威のための場所を発見することが、果たしてできるか。場ならず一方的意志からでてくることを必要とするわけでは ない。要求や請求が、両親と子供の間に存在する関係の中 所というのは、一方では、たんなる強制、すなわち、物理 にある家族生活の本性そのものからでてくる場合もある。 誠的および心意的圧力から区別されるとともに、他方では、 その場合、要求は、子供にたいして外部的、専制的権力に われわれの人間的素質の自然のままの欲求や傾向と何のか 義かわりもない義務や道義の法則をたてない場所である。わなるのではなく、子供自身のぞくする全体の表現になるの である。子供は、両親にたいする自分の愛情、両親の判断 義れわれの出あうのは、こうした問題である。なぜなら、一 にたいする自分の尊敬によって、応答するように動かされ 方では、たんなる強制は、何の道徳的資格をももたない。 る。こうした要求は、子供のもっとも強い欲求に逆行する 人々は、たんに、もしそうしなければ、苦しみをこうむる という理由だけで、一方的権力の要求にしたがうだろう場合もあるが、その場合でさえ、子供は自分に全く無縁た

4. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

標、目的観念を構築する。人間性のこうした普遍的、不可般化された観念が生まれでる。 避的事実から、「善」および人柄の知的局面の価値という 道徳の特有な諸現象は、社会条件の変化、および文化水 道徳的概念が必然的に成長してくる。そしてこの知的局面準の変化とともに、そのつど変化する。欲求をもち、目的 は、欲求や目標が衝突しあう中で包括的、永続的満足へのをいだき、社会的要求をだし、法をつくり、同感的賛成や 洞察、コト・ ( をかえれば、知恵、思慮をもとめるのであ敵対的非難を行なうという事実は変らない。われわれは、 る。 人間性が人間性であり、他人といっしょに生活するかぎ り、そうした事実の消減を想像することはできない。それ 一「人間は、自然的、かっ不可避的に、社会の中でいっ しょに生活する。仲間をくみ、竸争しあいながら、協同とゆえ、道徳の根本的諸概念は、勝手気ままなものでもなけ か従属とかの関係において生活する。これらの関係は、要れば、一方的にでっちあげられたものでもない。諸概念 求、権利主張、期待として表現される。各人は、彼の要求は、人間性に外からおしつけられるのではなく、人間性自 が、他人によってききとどけられることこそ、彼の権利で身の働きや必要から発展するのである。道徳の特殊な諸局 あり、他人にとっては、この権利は、要求を主張する人々面は、うつり変るし、その現実的表現においては、しばし ば、欠陥につきまとわれ、倒錯している。しかし道徳的諸概 から負わされた何か、すなわち、義務としてあらわれると いう信念をもっている。こうした要求と義務との相互作用念のワク組みは、人生そのものと同様、永久なのである。 から、「法」「義務」「道徳的権威ー「道義」といった一般概 参考文献 念が発生してくる。 三、人間は、自分の欲する対象をもとめ、主張をおしつ 「自我一般」のためには、 : ホースンキット『道徳的自 け、主張にこたえるのと同様、自然的、かっ不可避的に、 我の心理学』 Bosa n quet, PsychoIogy of The MoraI Self, 189 ごオットー『事物と理想』 Otto, Things and 賛否や愛情の態度をとる。道徳的善はこうして、たんに欲 ldeals, 1924 ch. vi.; クーリ ー『人間性と社会秩序』 自求を満足させるところのもの、あるいは義務をみたすとこ Cooley, Human Nature and SociaI Order, 1922 , chs. 徳ろのものとしてだけではなく、かえって是認されうるとこ v ー ix.; デュウィ『人間性と行為』 Dewey, Human Na- ろのものとしてあらわれる。こうした種類の現象の多くか ら、「徳」とか「道徳的優秀ーといった一般化された観念、 ture and Conduct, 1922 , pp. 134 ー 139 , および「索 引」を参照せよ。「愛他主義」という名前で利他主義 および、是非や賛否の表現を規制する「標準」といった一

5. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

にこたえることを拒絶する人物は、真の友人ではないと主 とはいえない何かとして、その要求に応答している。人間 もしこうした が相互にむすびあう本来的な関係の仕方のゆえに、人間は張することに、ちゅうちょすべきではない 事例を一般化するなら、つぎの結論に到達する。すなわ 他人の期待なり、これらの期待が表現される要求なりに、 ち、「道義」、法則、義務は、人間が相互にしたしく、むす 身をさらすことになる。 もしわれわれが、両親自身もまた要求にしたがうものとびあう関係からでてき、それらのもっ権威的支配力は、人 して、両親を考えるならば、問題はたぶん、いっそうはっき人をいっしょにたばねる関係の本性そのものから、でてく るということである。 りする。これらの要求は、子供によって明瞭な形式で発一言 この結論は、もし他の諸根拠にたって、道徳的権成と道義 される必要はないし、子供から意識的にだされるわけでも の力を説明する諸理論を、いくらか詳細に考察してみるな ない。しかし良心的である両親は、自分たちが親としての らば、 いっそう強められるだろう。これらの考え方のある 関係に引きこまれていることを感じる。こうした人間的な ものは、神の意志を権威のあり場所にする。他のもの ( ト 関係の仕方のゆえに、たとえ子供がその要求を何か明瞭な ーマス・ホッ。フスの考え方のように ) は、あり場所を、神か 要請として定式化することができないとしても ( たぶん、 ら政治的国家にうっす。カントは、出場所を外部にもとめ そうであるからこそ、ますます ) 、何かを子供に負っている ることに反対して、人間に内在しているが、人間の衝動や のである。こうして友人たちは、友人的関係の本性そのも ののゆえに、相互に何かを負いあっている。正しい国家の愛憎とは全く違った起源と構造をもっ実践理性の法則の中 に、起源を発見した。人間は、霊と肉の両方である一一重の 市民が、自分の個人的不便にもかかわらず、国家の要求に 本性をもち、肉は、道義的に霊の法則にしたがうとする俗説 応じるのは、国家が市民に物理的圧力とか心意的強制を加 は、根本概念としては、カントの主張と同じである。歴史 えるからではなく、個人が組織された社会の一員であるか の立場からすれば、ギリシャ人が善と道徳的洞察の観念を らである。一員だというのは、要求が現在の欲求のもとめ る善に逆行する場合でさえ、その要求は外的強制ではない 発展させたのにたいし、法則による権威付与の観念を中心 という密接な意味においてである。友人であるという関係にすえたのは、強い法的、行政的才能にめぐまれたローマ人 が要求してくるところのものは、いつも愉快だとはかぎらであったということは、注目に値いする。ローマの道徳批 ない。場合によってはその要求は、極端に厄介でさえあ評家や法律家が、道徳の規則体系にまとめあげた三つの守 」は、どれも義務の形式をとっている。すべての他人を公 る。しかしその要求が厄介だという理由だけで、その要求印 モラリ

6. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

が必要であるほど、強烈である。これらの快楽を克服する は隔日に、そうする理由が、むしろそうしない理由と違わ 方法は、自然のままではわれわれに感応的ではない実行ない理由のために、何かを実行せよ。こうするのは、ほん、 を、組織的に行なうことである。そのときわれわれは、自 とうに必要な時機にせまられたとき、試練にたえる神経も ( 2 ) 分自身を苦痛にたいして強い存在にし、欲求の誘惑を自分 訓練ももっていない自分を発見しないためである。」 ではね返しうるのである。そのうえ、実行のくり返しは、 ( 1 ) 『教育について」第三十八節。 欲求の強さを引きさげていく。 ( 2 ) 「心理学原理』第一冊、一二六頁。 ジョン・ロックは決して、禁欲主義者ではなかった。し こうした忠告に、真理の要素を承認しないわけにいかな かし彼のつぎのような言い方には、禁欲主義的要素がふく い。思考の中だけでいだかれた目的は、情熱の迫力と比較 まれている。「あらゆる徳、および立派さの原理は、理性すれば弱い。 善に関するわれわれの反省的判断は、反省の がその欲求を権威づけない場合には、われわれの欲求の満外側に盟友を必要とする。習慣こそ、こうした盟友であ 足を自分自身で拒否する力にあることはあきらかだ、と私る。そして習慣は、実行による以外には維持されないし、 には思われる。」そして彼は、つづけて、つぎのようにつ自分で自分を生みだすものではない。習慣は、持続する活 . け加える。「この力は、早くからの実行によって容易にさ動のコースによってのみ、生みだされる。そして要求され れ、なじまれた習慣によってえられる。だから、もし私の た持続は、偶然にまかされるわけにいかない。禁欲主義の コトバに耳をかたむけてもらえるなら、私はふつうの仕方教え、コト。 ( をかえれば、苦痛にたえ、享楽をおさえるこ とは逆に、子供たちは、そもそものゆかりかごの時期か とに、何か本来的にいいものがある、と主張する極端まで ら、自分の欲求を征服し、自分の病的欲望なしにもやって進む必要はない。しかし強い習慣をきずくために行なわれ いけるように習慣づけられるべきだ、と論じたいくらいでる行ないの最初の実行には、ある程度の不快さがほとんど ( 1 ) 知ある。」ウィリアム・ジェイムズもまた、禁欲主義者では確実にともなうことも、事実である。「訓練」は、周知のよ 善なかった。にもかかわらず、習慣を論じる場合に、彼は、 うに、たえるのが困難である。 的つぎのようにいう。「毎日ささやかな無償の実行をつみか この理論にたいしても、エ。ヒキュリアニズムと成功本位 さねることによって、自分自身の中に努力の能力をいかしの政策の教えの両方に加えられた批判と原理上、同様な批 . ておけ。コト。 ( をかえれば、不必要な諸点において、組織半が加えられる。情熱の誘惑に抵抗するにたる強い習慣を きずくために、実行が必要であるという観念の中には、真 . 的に禁欲主義的、あるいは英雄的にふるまえ。毎日あるい

7. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

うえでのもっとも成功的な方法は、大きな危険を冒してくけているが たとえば、一九二九年の合衆国において、 れる連中の、あるいは大きな報酬を目当てに困難な、あきそれは絶頂に達したのであって、歴史のうえでのもっとも・ あきするような仕事をあえてする連中の、努力をよびおこ大仕掛けの賭博として、財界の権威者が特徴づけていると すに適当な報酬を提供することであるように見える。竸争ころである 、その結果として、狡猾な連中から、さら の規則によれば、報酬は長い間、過度でありつづけるわけにいっそう狡猾な連中へと、利潤はころげこみ、多くの人 、よ、、と主張される。また、社会が要求し、必要と人の興味や活動を、公衆への奉仕から、無一物で何物かを一 するものを見いだすもっとも単純な方法は、要求し、必要獲得する方法にそれさせたのである。 利潤動機は、消費者にたいして、彼らの欲求し、必要と - とするものを供給する仕事に利潤をともなわせることだ、 と主張されてもいる。 するものを必ずあたえるとはかぎらない。重点が移動した まやわかりきったことである。消費者の欲求する・ 一「利潤動機の第一の欠点と称せられるものは、利潤動のは、い 機が公衆の欲求物を供給することによる公衆への奉仕に必ものを製造するのではなく、現在の理論は、多量の供給品 を生産し、逆に消費者にそれを売りつけるのである。もし ず導くとはかぎらないという点である。場合によっては、 も提供された品物を消費者が買おうとしないならば、彼ら 供給を制限し、それによって財貨やサービスの価格を引き あげることによって、いっそう大きな利潤を獲得することの「購買抵抗ーは、克服されなければならない。販売術と ができる。商業や工業の諸主流が、大会社に組織されるに広告術を利用して、要求のないところに、新しい要求を喚 ともない、大会社が天然資源の供給をしばしば支配する結起しなければならない。しかもその全体の結崟はしばし 題 果をもたらす場合、竸争は、リ 禾潤の追求者をして、公衆のば、満足ではなく、不満足である。 必要品を供給するいろいろな方法に自動的にむかわせると 第三の非難は、利潤動機が優良な品物の生産を確保する 道想定することは、ますます困難になる。利潤のかなりの部ことができないという点である。耐久的で、実質的な品物 ス分は、必要品そのものを供給することによってではなく、 よりは、安い、まやかし物のほうがしばしば、多くの利潤 ジ供給を統制することによって、あるいは利潤を収めるだけをあげる。商売的な娯楽業では、わいせつで、不健全な欲 で、利潤と等価なものを公衆に提供することを少しも気に望に訴えるほうが、利潤があがることがわかってさえいる ? 四かけない投機によって追求されている。そうした不当利得教育、演劇、音楽、その他の多くの分野では、高度で、良、 にたいする熱狂は、野良猫投機のいろいろな時代を特色づ質なタイ。フの仕事に従事している人々は、利潤動機を恐れ リスク こうかっ

8. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

るとする傾向をもつ。情動的行動をぬきにしては、あらゆまでさげてみることこそは、道徳的知識の客観性を達成す る人間はわれわれにとって、たんに命をふきこまれた自動るもっとも確実な方法である。同情が道徳的判断に生命の 人形にしかすぎなくなるであろう。そうした理由があるか火をふきこむ鋳型であるのは、同情の命じるところが、活 ら、いきいきとした好悪をよびおこすあらゆる活動は、人動において他の諸衝動の命じるところに優先するからでは 物の行なう行動だと認められる。こうした場合に、行動者ない。 ( 他の諸衝動は、そういう命令をだしはしない。 ) そ と行ないとには、区別が引かれない。立派な行動は、立派な うではなくて、同情がもっとも有効な知的観点を提供して 人物を意味し、いやしい行動は、いやしい人物を意味する。 くれるからである。同情は、複雑な状況を解決するため の、とくにすぐれた道具である。そこで同情が積極的で公 理性的な行動と寛容な行動とが手をたすさえているの は、この理由に基づく。同情的反応に全く不足する人物と然たる行為に移行する場合、同情は、この移行を他の諸衝 いえども、鋭敏な計算的知性を所有するかもしれない。し 動と融合しながら行なうのであり、切りはなされたままで かし彼は、他人たちが彼らの欲求の満足のために主張する行なうのではないから、感傷におちいることからふせがれ 要求にたいするいかなる自発的感覚をも所有しないであろている。こうした融合の中には、拡大された人格があるか う。せまい同情しかもたない人物は、必然的に人間的善のら、総ての欲求や企画のひろくて客観的な展望もあるので 舞台に関してかたよった見方をもった人物となる。真に一ある。同情を通じて、功利主義の冷血的計算やカントの形 般的な思想のみが、寛容な思想である。思想をして自我を式的法則が、生きて動く実在物に転化されるのである。 越えさせ、自我の極限としての普遍に近よるまで自我の範 道徳の最初の諸発見の一つは、行為における善悪の判断 囲をひろめさせるものは、同情である。他人の関心をいき と行為における美醜の認知との相似性であった。背徳的行 いきと感じさせ、われわれをして他人の関心に、われわれ自動への反発感と有徳的行動への魅惑感とは、美的センチメ 知 身の名誉、財布、権力がそれにかかっている関心と同じ重ントに根ざしている。好悪の情動は、生まれながらのもの 撕さをあたえるようにしむけることによって、帰結の考察が であり、こうした情動が行為にむけられる場合、こうした 働たんなる計算に退化するのをふせぐものこそは、同情であ情動は、道義の感覚の理論の中に存在する真理を提供する る。われわれ自身を他人の場所におくこと、他人の目的や要素を形づくっている。そのうえ、正義の感覚は、シムメ ー第リ . ーや比例の感覚の中に強力な同盟軍をもっている。 価値の立場から事物を見なおすこと、逆に、われわれ自身 フェアー の主張や要求を公平な同情的観察者の目が当然と見る水準「公正」というコトパが二重の意味をもつのは、偶然では

9. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

いうことは、決して戯画ではない。彼女の行動を動かす湧ただそれだけが正当化を許す動機としての法則と義務とに たいする尊敬という概念である。この法則は、カントによ き口に関するかぎり、彼女は自分の愛情を、自分のやるこ との義務的本性の意識的評価のもとに従属させなければなれば、命令的である。そしてこの命令的指令は、絶対的、 無条件的である。たんに仮言的であるにすぎない思慮や練 らない。彼女の行動は、愛情からでているという理由で、 達の要求と区別せんがために、カントのつかったコト・ハを また行動の結果として、年少者の幸福を助長するからとい う理山で、道徳的善であるのではない。また、弁護依頼人っかえば「無上命令」である。仮言的命令は、もし諸君が へのサービスに従事する人物は、職業的成功への野心によ健康をえたければ、あるいは職業に成功したければ、諸君 は、こうこうしなければならない、という形式をとる。道徳 って、あるいは、彼の責任にまかせられている依頼者の利 害のために最善をつくすという職業上の後天的慣習によっ的命令はいう。ーー諸君は、義務という動機から、ぜひと もそうしなければならない。カントが善から区別されたも て、動かされる。しかし、彼の行動が道徳的に善であり、 のとしての道義、法則、義務の原理をのべるのべ方の極端 欲求を満足させるということから区別されたものとして道 性と論理性は、道義を欲求や感情の満足から全く分離させ 義的であるのは、他人に役だちたいという欲望すらもふく めて、彼の行為を左右する動機が、道徳法への尊敬に従属てしまうすべての理論の中にひそむ難点を、あきらかにす る。カントの理論の中にある専門的用語を無視すれば、難 させられる場合にかぎるのである。さらに、そうするのが 良策だと考えているという理由だけから、お客に適切な品点は、つぎのようになる。欲求がわれわれの前にもちだす 物を提供し、正直な取りかえを認め、お客に熱心にサービ帰結や総ての目的へのあらゆる考慮が排除される場合、義 務の観念の中にふくまれるものとして、いかなる具体的内 ーワンになる スする周人の場合もある。彼は、ただナイハ 容がのこされるか。ある人物が、彼の義務がそこにあると ことをもとめているが、そう行動することが道徳的義務で 信じる場合、なぜ、その人物は、行為のコースをまっすぐに あるがゆえに、彼は彼のやることをやるべきなのである。 カントの理論の一側面、すなわち、動機として定義され進んではいけないのか。彼が、帰結の考察をはなれて、何か が彼の義務であり、道徳法によって命じられる、とひとた る意志と帰結との間にたてられる対照、および道徳的善さ を前者のみに帰する態度は、以前 ( 一六四頁 ) つけたり的び決断したとき、彼を自己欺瞞や狂信や他人の利害への惨 に論じられた。だからここでは、彼の立場に特有な一つの酷な無視からすくいだすものは、何であるか。この質問を 要素を論じることに限定するであろう。その一要素とは、 精密な形式でだすとすれば、つぎのようになる。人間は、義

10. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

2 きでは還元されえない権威や義務の系統がある。法律の要 求が、欲求の満足よりも優位をしめ、これらの要求への忠 誠よりも、幸福をさきにする結果にみちびく原理は、不道 徳な原理、利己の原理だ、とわれわれは大々的に教えこま れる。 これらの契機は、行為の中でいちじるしく目だっている から、中心をそれらの契機におく理論のタイプがでてくる のは、あるいは、われわれの予想どおりである。このタイ 第一節道義の観念 。フの支持者は、「善」へかかわることを排除するのではな く、以前に考察された諸理論とははなはだしくちがった意 前章において論じられた諸理論は、それそれの間に違い がある。しかし、これらの理論は、「善」を道徳における味を、善にあたえる。彼らは、欲求を満足させることにな 中心事実とみなし、道徳の大問題が、欲求や活動のえらぶりたっ善いものの存在を承認する。しかし、彼らはこのよ いものを非道徳的なよいもの、この理論が極端な形をとっ 目的の中で、真に、あるいは理性にとって、善である目的 た場合には、反道徳的満足とさえみなすのである。彼らに をどう規定するかにあると信じる点では、一致している。 よれば、道徳的「善」は、「道義」であるところのもの、 いかなる形式の満足からも独立してい けれども道徳には、 るように見える諸契機というものがある。たとえば、子供法則と義務の命令に応じるところのものである。人間は、 道義の命するところに留意することに満足を見いだすべき たちは、正しいからこそ、正しく行なえ、とたえす教えら れる。大人たちは、至上命令的でありながら、自分らの欲である。しかしこうした満足は、自然的衝動や感傷の満足 からでてくるのとは、種類をことにする。 求の満足は不可能にされてしまうような義務に支配されて 善と道義との間の衝突は、社会的要求が欲求に逆行する いる自分自身に気づく。われわれは、権威に支配され、法 ような場合に、するどくあらわれる。子供は草の上を走り 律に支配される自分自身に気づき、自分自身でえらんだの ではないが、果たさなければならない責任の持ち主としてまわりたいと欲する。子供は、芝生が他人のものであり、 ふみこんではならないことを教えられる。花が、彼の目を の自分自身に気づく。道徳には、たとえ理性的満足であっ ても、欲求の満足としての善の概念に、すくなくとも表む引きつけ、彼は、それをつみたいと欲する。彼は、花が他 第十一一章道義と義務と忠誠