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検索対象: 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学
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1. 世界の大思想27 デュウイ=タフツ 社会倫理学

と氏族の間では、もしも代償として贖罪金が提供されない となれば、血の闘争は、慣習を強行する公認の方法である。 第三節集団的標準の重要性を明示し、集 氏族内での殺人にたいしては、遺族の人々が、罪人を追放 団統制を意識化させる諸条件 カイン することができるし、だれでもそうした「肉親殺し」にで あった人は、彼を殺すことができる。古代ウエルズ人の間 慣習、あるいはモレスは、それ自体の中に、慣習を道徳 では、人がその血族の首長を殺した場合、彼は追放された的判断の乗りものにする社会的是認の要素をもっているの が、そのとき「角ぶえラッパの音の聞こえる範囲内におけではあるが、多くの場合、慣習は単なる習慣の水準に没し る男も女もすべての者が、その追放者の後についていって、 さる傾向がある。そして慣習のもともとのカの根拠ーーう 彼が海へ出ていったのち、見えなくなってから、六十時間えにのべたようなーーは見失われてしまう。慣習は、多く ( 3 ) 過ぎるまで、犬の啼声を続けなければならなかった。」しのエチケット形式のように、たんなる因襲におちいってし かしながら、われわれが典型的適例とみなした集団のいずまう。しかしながら、そこにいくつかの条件があって、慣 れにおいても、そうした肉体的苦痛は、現実の苦痛であっ習の重要性に注意を集中させて、それを意識的作用の段階 ても、恐れられた苦痛であっても、権威を維持するために に引きあげる場合もある。これらの条件は、三つの項目に はあまり役だたなかった、という点は、心に銘記すべきで分類されるだろう。集団の若い未熟な成員を教育し、 ある。絶対主義なるものは、恐怖を押しつけるその総ての成員としての全資格を準備させること、Ü手におえない 残酷な方法をもつにもかかわらず、もっと高度に組織され成員を強制し、拘東し、衝突した利害を調整すること、 た体制を必要とするのである。未開集団においては、大多何か著しい危険や危機をはらむ事件がおこり、そのゆ 数の人々は集団の権威をもちろんのこととして、支持する えに、神々の恩恵をえ、災禍をさけるために特別な配慮が のであるから、それが挑戦された場合には、神聖なる義務必要となること、以上の三つである。 として当然その挑戦を斥けるのである。肉体的強制は、規 一、もっともめざましい教育的慣習の中には、未開人民 則ではなく、むしろ例外である。 の間にあれほどひろく行なわれる成年 ( 元服 ) の儀式があ ( 3 ) ゼエボオム「ウエルズの族制」 Seebohm, The る。それは、少年を成人の特典と集団の完全な生活に導入 TribaI S) 「 stem of WaIes, p. 59. する目的で広く行なわれる。成年式は、成人する若ものに たいして、集団の知恵と力とに対照して、彼自身の無知、

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リアでは、階級がもっと多数で、関係もはるかにこみいっ ゲンスまたは氏族に形式上、養女となるだろう。オレステ て、複雑である。けれども、そうだからといって、想像さス Orestes のギリシャ神話は、父の血縁と母の血縁との二 れるように、そのきずなは、比較的軽視されるようにはな系統の衝突を例証する。ハムレットが同様な事情のもとで らない。反対に、各人が他の各々の階級にたいする関係の母を許したことは、、 しっそう近代的な立場をしめす。 きずな 仕方は、「各人がかならず熟知すべき最重要な事項の一つ 父系家族の普及とともに、氏族制と家族制の絆はたがい である。」それは、結婚関係、食糧の分配、礼儀作法、一般に強化されるのはあきらかで、それは父の子にたいする関 の行動を最高度に規定するのである。こうした血縁関係の係に重要なちがいをおこし、祖先崇拝の宗教にいっそう確 集団は、イスラエル人では、 ( 英訳して ) 「付族」または「家 かな基礎をあたえる。けれども多くの点において、周囲の 族」、ギリシャ人の間ではゲノス genos プラトリア phra ・雰囲気、圧力や支持、集団の共感や伝統などは、本質的に tria 。フィーレ phy 一 e と呼ばれ、ローマ人では、ゲンス gens 変りはない。重要なことは、各人が血縁関係の一員であり、 およびクリア curia 、スコットランドでは、クラン ( 氏同様に、ある家族集団の一員であり、そうした資格でもの ( 1 ) 族 ) clan 、アイルランドではセプト sept 、ドイツではジッ を考え、感じ、行為するということである。 ・ヘ S ぎをと呼ばれる。 ( 1 ) 未開人が同時に個人であり、集団の一員であるという いまのわれわれの目論見には、二種の家族制が重要なも こと、すなわち、彼は、二つの人格、あるいは自分、個人的 のとして、注目さるべきである。すなわち、母系家族で 自我と氏族的自我、または、クリフォード Clifford のいう「酋 は、女性は、自分の身内にとどまり、子供は、自然に母の 族的自我」をもっということは、単に心理学者の表現法のせ いでよよ、。 カフィル族は、最近の研究家、ダッドレイ・キ 血縁に属するものとされる。夫なる父は、多少とも、客 ッド Dudley Kidd によると、これら二個の自我を表現す 分、または他人として取りあっかわれる。酋族闘争におい る二つの別語をもつ。彼らは、一方をイドロチ idhlozi 、他 活て妻の氏族と戦う場合、彼は、自分自身の氏族に味方し、 方をイトンゴ itongo と呼ぶ。イドロチは、個人的、人格的 団妻のそれに敵対しなければならない。氏族と家族とはかよ な霊で、子供の生誕とともに生まれるーー何か新鮮で、独自 の うに、別途のものと見られる。つぎに父系家族はたやすく 代 で、他のなんびともそれをわけもたないものであるが、イト 古家父長制家族となり、そこでは妻は、その血族を離れて夫 ンゴは、祖先的、集団的な霊で、個人的でなく、酋族的であ の家にはいり、夫の身内とともにくらす。その場合、彼女 って、氏族にぞくし、生誕によって得られたものではなく、 は、ローマにおいてのように、自分の血縁を棄てて、夫の 幾つかの入団式によって獲得されるものである。イドロチが

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Ⅷ 道徳の特殊なコト・ハのいくつかは、直接に集団関係から のもっと直接な影響は、科学的探究の一般的精神と方法、 特殊的にはダーウインとスペンサーによって提唱された進きている。「親切な」 kind 人物とは、血族 kin の一人と してふるまう人物である。支配的、もしくは特権的集団 化学説からきており、いらい、多くの学問の分野で進化論 的方法として採用されることになった。というのは、学問 が、家柄のない、卑しい生まれの人物と対照されるとき、 一般価値をもったたくさんの 探究の一般的精神は、多くの教義を疑間に付し、実験的方高下貴賤を意味するコト。ハ、 / カ生まれる。これは、上層階級の内在的優越による 法は、知識をひろめたばかりでなく、自然に質問を投げか けるという、観察と推論との結合において、真理のひろく場合もあり、そうでない場合もある。しかし、すくなくと 適用されるテストを組みたてたことにあるからである。進もそれは、上層階級が言語や是非の規準を形成するのに、 もっとも有力であった事実を意味している。こうして、「高 化の概念は、ある一定の時代や一定の民族の道徳を、より 少なく絶対視さす展望の中に位置づけることになり、それ貴」 noble とか「上品」 gentle とかというコト・ハは、それ らが道徳的価値をもつに至る以前は、家柄をいうコト・ハで を他の時代や他の民族のそれと比較させることになった。 あった。近代的コト・ハ使いの「義務」は、まえには、主と して上位の人になさねばならぬことであったようである。 第四節現代道徳の諸概念の源泉 道徳的非難のための多くのコト・ハは、階級感情の意味を大 とりこ きくもっていた。「卑劣漢」 caitiff はもと「擒ー captive の 道徳事実をあらわすわれわれの概念のほとんど総ては、 集団関係、あるいは法律的、宗教的諸側面ーーこれらの関ことで、イタリア人の道徳的悪にたいする一般的コト・ ( 係や側面が次第にいっそう明瞭な意識冫 このぼってくるに応 cattivo は、同じ語源からでてくる。「悪者ー villain は封 キ建時代の小作人のことで、悪人をも意味する「ごろっき」 じてーーから引きだされている。すでにのべたように、・ black guard はもと、釜の番人であり、「無頼漢」 rascal リシャ語の : ethical ・・ラテン語の 2 moral ごドイツ語の は、ふつうの獣群の一匹であり、「悪漢ー knave は、下男 sittlich は、この関係を示唆するーーすなわち、 ethos は、 「特長的仕来たり、観念、規範、法典の一団を意味し、そのことで、「ひくい」 base 「いやしい」 mean は、紳士 れによって、一集団が他の諸集団からその性格において分 gentle で、貴族 noble である身の上に反対するコト・ハで ( 1 ) あった。「みだらな」 lewd とは、もと聖職に対照された俗 化され、個性化されるものである。」 ( 1 ) サムナー「民俗」 Sumner, Folkways, や 36 ・ 人の特色を意味した。

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Morgan, House-Life をも見よ。 った。思いがけなく天使をもてなしているという可能性が ( Ⅱ ) 「旧約聖書」創世記、一九ノ八、士師、一九ノ二三 1 たしかにあるという意識がいつも頭にうかぶわけではな 二四。 。しかし好運か悪運かの可能が来客に付随していると一 ( ) 詩篇、一四六ノ九、・申命記、二四ノ一四 : ・二二。 般に信じられるには、そう信じる相当の理由があるようで ( ) ウエスタマークの前掲書中のゲリウス GeIIiusp. 155 ある。 いっしょの食事や身体の触れあいを重要視するの 参照。 は、それによって禍福が伝達されるという魔法の観念に基 しき、 づく場合も多分にありうる。閾を越すこと、天幕の綱にふ 第四節慣習道徳の価値と欠点 れること、「塩」をなめることが、神聖な要求権をあたえ る。避難所権とでもいうべきか、逃げこんだ人物が、そこ 慣習道徳の価値と欠点とは、慣習の本性や慣習による行 ごりやく の神に触れて御利益をうける。彼は祭壇に触れ、その神が動の規制を記述する場合に概略的示唆をあたえた。けれど 自分を保護してくださると信じる。歓待の全慣習はだか もつぎの段階の道徳への準備として、改めてここに総括し ら、血族復讐の慣習を逆にしたものである。どちらも同様ておこう。 に神聖であり、あるいはむしろ、歓待の義務は、その家の 慣習や慣習道徳 mores は、相互依存や相補依存の現実 主人が追跡しなければならぬ敵人でさえも ( その家に飛び的諸関係の認識に基づくかぎり、それは、何が「道義」を こんだうえからは ) 、これを保護せねばならぬとする。一方実現する行動であるべきかの標準を設定する。たとえそれ では排他的、敵対的性格の行為によって集団連帯を固めよ が正義の高い段階に達するまでには、大いに批判や反省を うとするのに、他方では「わが」集団と「よそものー集団必要とするにしても、そうである。慣習や慣習道徳は福祉 との差別を一時的にでも棄てさろうとする。宗教の裁可をの合理的概念に基づくかぎり、何が「善」と見なさるべき うけて、通商やその他の社会的交換をひろげるコミュ かを指摘しつづけている。また、それらが集団による是非 ーションの道をひらくことになる。それは、家族制にも、 の評価を提供するものである以上、それらは、優とか「徳」・ 家庭にも、少なくとも人間らしさと共感との可能性を維持とかという概念にむかって途を開きつつある。道徳はこう して、知力と柔軟では欠陥があるにしても、生活を指導 する有力な手段を加えるのである。 ( 川 ) 同氏の社会学論文集中「社会関係にたいする魘法の影し、統制しているのである。 響」 Sociologica1 Papers, II. 1905. モルガン「家族生活」 けれども慣習の標準と評価は、ただ部分的にしか合理的

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であ「た。ある著者は、これこそおそらく、道徳的情動の狩猟舞踏や戦争舞踏は、劇的形式をとって、狩や戦いのす もっとも基本的な本源であると見ている。集団が一体とな べての過程を表現する。しかし、これがただ劇的目的のた って反抗したのは、侑族の血が流されたか、氏族の婦女がめだけで出てくると想像するのは、まちがいであろう。狩 凌辱されたからで、反対の集団との戦火の乱闘は、味方のや戦のあとで行なわれる舞踏や祭典は、獲物をやつつけた 集団をいっそう緊密に結びつけた。 狩人や敵をやつつけた戦士の勝利を、いきいきした想像力 「平時の汝は、好むままにだれと提携してもよい。し に訴えて、付族全体に再現し、それによって、勝利のスリ かし戦時の汝は、血につながらない者はすべて、汝の ルを味わい、分捕った獲物にたいして共通の誇りを感する 敵だと覚悟すべきだ。」 機会をあたえるためである。戦争や狩のまえに行なわれる 「戦友ーは、共闘の行為それ自身によって、共通の大義を舞踏は、狩人や戦士に魔力をあたえることを意図したもの もつ。また、相互の援助や防衛のあたえあい、受けあいに である。そのすべては、すみずみまでもっとも精確に注意 よって、少なくともその間だけは、意志も感情も、一つに深く挙行され、全侑族はそれによって、準備作業に共同し なる。ュリシーズは、アガメムノンに、兄弟が兄弟をいっ て参加することができるのである。 ′ラト そう有効に支持し、激励しうるために、氏族は氏族、兄弟 歌を歌う場合も、同じ統一カが働く。他の人との合唱 仲間は兄弟仲間で、・ キリシャ人の陣営をくむように忠告 は、おそらく他のどの芸術の場合よりも、いっそう高度に する。しかし結果は、相互補足的である。実をいえば、集共感を感染させる。そこには第一に、舞踏と同様、リズム の統一がある。リズムは、共同活動に基礎づけられている 団の成員を結びつける絆であると信じられる血のつながり は、もともと、ほんとうは共同の闘いの圧力からでてきたが、ひるがえって、それは、共同活動をいちじるしく強化 団結をうまく説明するための、信心ぶかい作り話とか後知する。エジプトの記念塔の浮彫に、多数の人々が石牛を動 恵にほかならなかったという事情はたぶん、たいへんあり かしているのが表現されているが、その共同的協力を推進 がちであろう。 するために一人の男が拍子をとっている彫像がみられる。 共同と共感とは、いろいろの芸術活動によっても開発さすべてのリズムは、共同行為の必要からきたのか、それと れる。芸術活動のあるものは、内発的であるが、その多く も律動的行為に結果するのを説明するに十分な生理的基盤 は、一定の社会的目的に役立ち、集団の統一や共感をたか があるのかどうか、それはとにかく、一団の人々が律動的 めるという一定の目的のためにしばしば組織だてられる。 に踊ったり、歌ったり、働いたりするとき、彼らの能率も リズム

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あひる たかもすべての家鴨が泳ぐように、集団の成員が同じ先祖は、末節を変更したり、新しい慣習を加えたり、あるい は、古い慣習に新しい説明を工夫したりする。しかし、慣・ から生まれたという事実だけに基づく場合もある。しか し、人間行動の大部分は、文明人におけると同じく未開人習を背後からささえる権威は、十分な意味での集団であ においても、ただたんに本能的なものだとはいえない。そる。集団は、眼に見える生きた成員ばかりでなく、死者や こには、一つの集団に共通な、そして時代から時代に伝承血縁につながるトーテムや祖先の神々をふくむ大きな集団 くつかある。この是認 された行為の是認された仕方が、い である。それは、個人個人の集まりとして考えられる集団 された進退や活動の仕方こそ、慣習である。この是認の要ではない。それはむしろ、輪郭ははっきりしないが、精神。 素をっとはっきりさせると、サムナー教授 Professor 的、社会的な全体世界である。そうした集団を見あげるこ sumner のいうラテン語、ごである。それは、慣習でとは、宗教的敬虔に類する。大多数の慣習がいつ、どうし ある。しかし、それ以上でもある。それはしたがうべきだておこったものかわからないという事実は、慣習を事柄の との集団の判断を含意する。集団の福祉が、ある意味にお自然の一部だと思わせる。実をいえば、未開人の慣習にた。 いて、慣習に宿っていると見なされる。だれかがそれに逆 いする尊敬と、ストア派からスペンサーにいたるまでの、 らって行動するならば、集団の非難を思いしらされる。若「自然にしたがう」生活に道徳の標準を求めたその「自 . ものたちは、慣習を守るように、入念に訓練される。特別然」にたいする尊敬との間には、単なる類比以上のものが サルを重ねある。 重要な場合は、慣習は、とくに厳粛にリハー 、くつかの合流した要因に見いださるべ る。こうして裁可の加えられた行為には、漸増的圧力が生 慣習の基盤は、し じる。全集団がみんな慣習どおりに行ない、慣習を是認すきである。第一に、集団の各員は、同集団の他の各員にたい ( 2 ) る。集団は、つねに慣習どおりにふるまい、それを是認し して、またふつう、集団全体にたいして、いくつかのもち たのである。慣習にしたがうことが、今後もよいことであっ、もたれつの関係にたつ。家族の中で父親、母親、子供 . ろうし、したがわねば、危険にさらされるであろう。 らは、生計を営むために各自の役割をもつ。母系氏族では、 ( 1 ) サムナー「習俗』、 W. G. Sumner, Folkways, や叔父はその姉妹の家族の生計にたいして一定の義務をお 30. う。集団の成員は、その首長にある贈物をささげ、そのか 老人または祭司、あるいは呪術師、酋長、または老女わり、その恩恵を受ける。集団が漁や狩にいくとき、また . は戦闘に出かけるとき、各人は各自の地位と役割をもつ。 が、これらの慣習の特別な守護者である場合もある。彼ら ( 1 )

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目次 序文 第一章序論 第一節定義および方法 第二節成長としての道徳 第三節扱い方の区分 参考文献 第一部道徳の起源と成長 一般的文献 第二章古代の集団生活 第一節集団生活の類型的事実 第一一節血縁関係と家族集団 第三節血縁関係や家族集団は経済的、産業的単位でもある 第四節血縁関係や家族集団は政治体制であった 第五節血族、または大家族集団は、宗教的単位であった 第六節年齢と性とを基礎とする集団、あるいは階級 第七節血族および他の集団の道徳的意義 参考文献 エーゼンシイ 第三章基礎的諸活動とその機関 第一節生物的要素

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争があるように、労働組合においても、中央組織と地方単位を代表するものと考え、その権力に挑戦する他の諸集団を、 とが違った方向に引きあう。経済上では、個人個人は、集団既成権威への反逆者、法と秩序の要請に逆って、自分の個 をつくり、その集団化は、生産者、分配者、消費者のあいだ人的私欲の満足をもとめるものと考える。問題のこの局面 に闘争を強化する。教会はかって、国家と支配権を争った。 のいくらか目につく実例は、現在では、つぎのような分裂 科学者のグルー。フは、ときに国家と教会の両方と争わねば に見うけられる。すなわち、政治国家を最高の社会形式、 ならなかった。べつべつの集団はそれぞれ、政府機関を占最高の共通的道徳意志の絶頂的表現、総ての社会的価値の 領しようとする。官僚は、彼らの特殊利益を擁護するため究極的本源、かっ唯一の保証者として支持する人々と、国 に結合しがちであり、これらの利益は、私的個人のそれと相家を団体の多くの形式のたんなる一つとみなし、その権利 反する。支配者がその人民を抑圧し、苦悩させるように権要求を事実上独占的になるまで不当に延長することによっ 力を行使するのは、しばしば、くり返される現象である。じて、つぎつぎに悪を生みだしたのが、国家だと見る他の人 つのところ、この現象があまりにありふれているからこそ、人とのあいだの分裂である。この衝突は、以前にそう信じ 政治的自由への全闘争が、被支配者の彼ら自身を支配者のられたように、国家と個人のあいだではなく、支配する集 暴政から解放するための闘争として表現されたのである。 団としての国家と、いっそう大きい行動の自由をもとめる 第三に、多数の衝突は、個人個人と社会とのあいだでは他の諸集団とのあいだの衝突である。それは、実質的な構 なく、集団と他の集団、ある個人たちと他の個人たちとの成要素の点では、しばしば逆であるけれども、その原理に あいだで行なわれるのである。分析がしめすように、これおいては、政治団体が教会の支配的権威からの解放をえる らの衝突は、同様の属性によって特色づけられるいくつかために、それ以前に行なった闘争に似ている。 のクラスにわかれる傾きをもち、これらの属性は、衝突が 一「こうした衝突のある段階では、低位ではあるが、増 個人と社会のあいだで行なわれるのだという観念がどうし大しつつある集団は、組織化されていない。その結合は、 ておこったかを説明するのに役だつのである。 ゆるい。その成員たちはしばしば、すでに承認されている 一、支配する集団と、そのとき、権力と経済的富力におい 一つの集団を代表することもないし、まして、全体として て低位な位置を占めている集団、または、いくつかの集団との社会的組織を代弁するなど思いもおよばない。これに反 のあいだにおこる闘争というものが存在する。そうした事して、支配的集団は、しつかり確立しているばかりでな 情のもとでは、上級集団は、いつも自分自身を社会的利害 く、容認され、承認されている。この集団は、その時代の

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的、血族的集団の未分化の全一体から、政府や法律を意識成員の受けた危害を憤って、これに対処しなければならな いという事実にあったようだ。だから、この責任は当然、 的に分離し、限定したとき、権威はいっそう高い可能性の 水準に上昇した。しかし、この未開集団もやはり結局、一彼女の結婚についての決定権を包含すると見られた。 いろいろの法的権利は、いまなお集団の成員たる資格に つの″国家″であって、群衆でも、自発的結社でも、また 単なる家族でもなかった。なぜなら、それは、①多かれ基づくことが大きい。″国家。は、他国の市民に土地所有 成員の上に権をあたえ、裁判に訴える権利を認め、ふつう、ある程度 少なかれ恒久的に組織された団体であり、② 支配力を行使し、彼らはそれを単なる強力とはみす、正当の保護もあたえるであろうけれども、土地所有権はしば しば、限定されている。黒人は「白人が尊重しなければな またより高い権威によって制限 な権威として尊重し、 されることなく、多かれ少なかれ全体の利害関係のためらぬなんらの権利をもたない」という最高裁長官タネイ に有効に作用したからである。集団のこの政治的側面の代 Taney の言明は、つい先頃のことで、合衆国の現行法理論 ヒ米原 ) とか、長老会議とを 0 ト・ ( にしたものである。法理論が人種別やその他の差 表者は、族長とか首長 sachem ( に民 か、あるいはローマでは「家父」 House Fathe 「とよばれ、別を認めないところでさえ、実際上、異国人、または蔑視 その「父権」 pat 「 ia potestas はじつに家父長制家族の極されている社会、あるいは経済集団の成員にと「て、法の正 義に浴しうることは、しばしば困難である。未開氏族や家 点的発展をあらわしている。 個々の成員の上に働く集団の支配力は、異な「た民族の族集団では、この原理は十一一分にものをいう。正義は、あ 間でさまざまの形態をとる。い 0 そう重要な側面は、生命る集団に属する人間のもっ特権であ 0 て、それ以外には及 ばない。氏族や大家族や村落共同体の成員は、損害賠償を および人身の自由を左右する権利である。場合によって 要求しうるが、他国者は資格をもたない。彼は客人として は、生命をうばい、きずつけ、懲らしめる強力にまで広が り、新生の子供を生かすか殺すかを決定した。婦女のため親切に取りあっかわれても、彼自身の集団以外のいかなる に受けとられる持参金の支配をもふくむ婚約の権利があ集団の手によっても「正義」を要求することはできない。 、血族全体のために血族の財産を管理する権利もあっ集団内においての権利という概念こそ、近代民法の原型で た。これらのさまざまな形式の支配権の中で、婦女の結婚ある。氏族と氏族との交渉は、戦争か談判かであって、 関係への支配権が、もっとも長続きしたらしい。この支配法のそれではない。氏族のない人物は、名実ともに「法外 の理由の一つは、集団は、他集団の人と結婚していたその者」 outlaw である。

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この報告は、アリアン族、セミ族、蒙古族、カフィル族であって、「契約」 con ( ract ではない。 ここから彼の全体 などの諸民族をさしている。それらは、ほとんどすべての的態度には大きな差違が生じる。もしわれわれがこの集団 民族についての同様な記述と見あっている。これらの事情生活をもっと丹念に検討するならば、道徳生活の生成過程 は、アメリカ人や多くのヨーロツ。 ( 人のそれから、すこぶを知ると同時に、現代道徳の特長を対照によって、もっと ( 9 ) る異なった生活の仕方や人生の見方を示唆する。もっとあきらかに理解する助けとなるであろう。引用された文章 も、アメリカ人やヨーロッパ人は、さまざまな種類の集団によってあきらかなように、もっとも重要な集団の型は、 に属しているので、それらの集団を「兼ね備えて」いる。 経済的、政治的、宗教的、道徳的単位である一族、もしく 欧米人ももちろん、家族の中に生まれおちるが、好まない は一家である。けれども、まずわれわれは、諸集団の重要 くつかの型を簡単にのべることにしよう。 かぎり、一生そこにとどまってはいない。彼は、自分自身のな、い ( 9 ) ロシアの村落共同体 ( ミール ) や、南スラヴ民族の 職業や住居や妻や政党や宗教や社交クラブや、あるいは国 「連合」家族や、同族連帯復讐の風習をもっコルシカの氏族 籍さえも勝手に選んでよい。彼は、自分の家を所有したり、 や、集団的利害念を堅持したコーカサスの酋族や、辺境諸 売却したりする。自分の財産を贈与したり、子孫に譲った 国の山地住民らの他族敵対などは、家族連帯の例証をしめ りするし、また一般的にいって、自分自身の行為以外、な す。 んびとの行為にたいしても責任はおわされない。 これらの いっさいの関係が彼にとって既成である場合、彼がそうで あるよりも、もっと充実した意味で、これは、彼を一人の 第二節血縁関係と家族集団 「個人ーたらしめる。その反面、上の引例に参照したような 諸集団の一員であれば、すべての、あるいはほとんどすべ 血縁集団は、彼ら自身を祖先を一つにすると考え、した 活ての関係は、彼が一定の氏族、または家族、集団に生まれ がって血管の中には、同一の血が流れていると信じる人々 団おちると同時に確定してしまう。それは、彼の職業を、住の団体である。一々の集団が現実に単一祖先から発生した の居を、神々を、政治を決定してしまう。それは、彼の妻をものであるかどうかは、われわれの研究にとって問題では 古決定はしないとしても、少なくともふつう、彼女をそこか ない。食糧需給や戦争といった偶然の事情が集団を構成す らめとるべき集団は決っている。彼の諸条件は、メイン るのに、全体的、あるいは部分的の根本原因であったであ Maine のコト・ハにしたがえば、こうして、「身分」 status ろうことは、想像にかたくはない。しかし、この点も、わ