その実存論的企投には現有的な証が〈なお〉与えられていな 。この証が見出された時初めて、研究は、その研究の問題 第三章現有の本来的な全体的に・有り・得 全体の内で要求されている証示つまり実存論的に真証されか ることと、関心の有論的意味とし 性っ明らかにされた現有の本来的に全体的に・有り・得ることを ての時性 証示することを、満たすのである。何故ならば、〈現有とい て う〉この有るものが彼の本来性と全体性とに於て現象的に通 し 第六一節現有の本来的な全体的に・有るこ 路づけられ得るに至った時にのみ、この有るものつまりその との境界づけから時性の現象的露 既実存に有・の・理解一般が〈本質的に〉属しているところのこ 開に至る方法的歩みの先行的輪郭 の有るもの、そういうこの有るものの有の意味への問が、検 の づけ 、し 1 一目ー 対こ堪える地盤の上に来るからである。 関 ( 1 ) 第三四節一六四頁参照。 と ( 2 ) 第四四節二一二頁以下、参照。 現有の本来的に全体的に・有り・得ることは、実存論的には ( 3 ) 同処一三一頁参照。 〈さきに〉企投された。〈本来的に全体で・有り・得ることとい る ( 4 ) 第一八節八三頁以下、参照。 得 う〉この現象を解き分けて明らかにすることは、死への本来 ( 5 ) 第四四節一三二頁参照。 有 的なる有を先駆として露わにした。〈他方〉現有の本来的に ( 6 ) 第二三節と第二四節一〇四頁以下、参照。 こ於て覚悟性として明示 的 ースは世界観学の課題を問題全体のこの方有り・得ることは、その実存的な証冫 ( 7 ) カール・ヤスパ 体 向に向「て初めて表明的に把捉し遂行した。彼の「世界観の心理されたと同時に、実存論的に解釈された。〈それでは、先駆と 全 学」第三版 ( 一九二五年 ) を参照。ここでは、「人間とは何であ覚悟性という〉この両現象は、一体如何にして一緒に合せら 来 るか」ということが、人間は本質上何であり得るかということかれるべきであろうか。本来的に全体的に・有り・得ることを有 本 の ら、問い出され規定されている ( 第一版への序言、参照 ) 。そこ 論的に企投することは、現有の次の如き次元の内へ、つまり覚 有 から、「諸々の限界状況ーのもっ根本から決定的な実存論的ー有 現 悟性という現象から遠く掛け離れている次元の内へ導いて行 章論的意義が明らかになる。「世界観の心理学」のもっ哲学的動向 ったのではないか。死は、一体何を、行為の「具体的状況ーと は、もしひとがこの書物をただ単に「世界観の諸類型」のための 第 参考書としてしか「使用」しないならば、全く誤認されてしま共有しているのであろうか。覚悟性と先駆とを無理に一緒に 合せんとする試みは、或る一つの堪え難い全く非現象学的な 構成〈すなわち出っち上げ〉へと、つまり現象的に根拠づけ
ノモ、本来、数エルトイウ本性ヲモッティナイ以上ハ、モシ 魂ガ有ルノデナケレ・ハ、時間ガ有ルコトハ不可能デアル・ : 〈 に rov ( ざ象 - Xp6vov 、 97 : 〉。そしてアウグス テイヌスは次のように書いている、すなわち、ソコカラ、時 ハ延ビニ他ナラナイト、私ニハ思ワレタ、併シ何モノノ 〈延ビ〉デアルカヲ、私 ( 知ラナイ、ソシテ魂ソレ自身ノ 〈延ビ〉デナイトシタラ、不思議デアル〈 inde mihi visum est, nihil esse aliud tempus quam distentionem sed cuit1S rel neSCIO Si 〉 0 て、つ - 性 であるならば、現有を時性として解釈することもまた、根本 から一一一〔えば、通俗的時間概念の地平の外部に〈通俗的時間理 て解と全く無縁にして、その地平と何ら関わるところのないこ ととして〉存するのではない。而もへ 1 ゲルは既に、通俗的 起に理解された時間と精神との聯関を明るみに取り出す表明的 念な試みをなしており、それに対して、カントに於ては、時間 4 間は慥かに「主観的」に有るが、併し「我思惟す」と結合され 的ずに「並」立していを。時間と精神との間の聯関についての 通ヘーゲルの表明的な根拠づけは、現有を時性として解する先 し述の解釈と時性からの世界時間の起源の証示とを、間接的に 時明瞭にするのに適当している。 章 ( 1 ) 「自然学」第四巻第一一章一一一九一以下、参照。 ( 2 ) 第六節一九頁ー二七頁参照。 ( 3 ) 第二一節、特に一〇〇頁以下、参照。 ( 4 ) 「ティマイオス」三七参照。 ( 5 ) 第四一節一九一頁以下、参照。 ( 6 ) 第五一節二五二頁以下、参照。 ( 7 ) 「止まれる今」 (nunc stans) という意味に於ける永遠性 の伝統的概念が通俗的時間理解から汲み取られており而も「常立 的ー直前性〈すなわち、立て続けに常に眼前に有ることという有 り方〉という理念にもとづく方向づけの内で境界づけられている ことは、詳細な究明を必要としない。仮に神の永遠性が哲学的に 「構成〈すなわち企投〉」され得るとすれば、その場合にはその永 遠性は、一層根源的にして「無限的」なる時性としてしか理解さ れてはならないであろう。このことへの何等かの可能なる道を否 定ノ道ト卓出ノ道〈 via negationis et eminentiae 〉が提供し得 るか否かは、〈ここでは〉決定せすにして置こう。 ( 8 ) 『自然学」第四巻第一四章一三三二五、なお同巻第一一 章二一八一一九ー一一一九一、二一九四ー六参照。 ( 9 ) 『告白」第一一巻第一一六章参照。 ( ) 併し他方、如何なる点に於て、ヘーゲルに於けるよりもカ ントに於て、時間についての一層ラディカルな理解が裂開してい るかは、この論攷の第二部第一編で示されるであろう。 第八一一節時性と現有と世界時間との実存論 的Ⅱ有論的聯関を、時間と精神と の間の関係についてのヘーゲルの 見解に対照して際立たせること 歴史、それは本質的には精神の歴史であるが、それは「時 間の内に」経過する。従って、「歴史の発展は時間の内に落
前には、そしてまた現有が総じて最早有るのではなくなる以 ( 1 ) ディールス「ソクラテス以前の思想家断片集」へラクレイ後には、如何なる真性も有ったのではなく、そしてまた如何 トス断片一、参照。 なる真性も有るのではなくなる、何故ならば、開示性と発見 ( 2 ) 右書三二頁以下、参照。 性と被発見性としての真性はその際には有り得ない、からで ( 3 ) 同一三四頁以下、参照。 ある。ニウトンの諸法則が発見される以前には、それらは ( 4 ) 同一六六頁以下、参照。 ( 5 ) カール・ラインハルトは、バルメ = デスの教説詩の両部分「真」で有ったのではない、〈併し、〉そのことから、それら が偽で有ったということは、帰結しないし、況んやそれらが、 〈すなわち、真性に関する部分と臆見に関する部分〉の聯関とい う多くの論議の的とな 0 た問題を、たとえ真性やミ〉と臆見有的に最早如何なる被発見性も可能ではなくなる際には、偽 〈〉との聯関〈を成り立たしめているところ〉の有論的基礎と になるであろうなどということは、帰結しない。それと同様 その必然性とを彼は表明的に証示してはいないとはいえ、初めて に、〈真性の有に関する〉この「制限」の内には、「諸々の真 把握し解決した、「バルメニデスとギリシャ哲学の歴史」 ( 一九一 性」が真で有ることの如何なる減少も含まれてはいない。 六年 ) 、参照。 ニウトンの諸法則は彼以前には真で有ったのでもなければ ( 6 ) 上述第三三節一五四頁以下、解釈の派生的様態としての陳 偽で有ったのでもないということは、それらの諸法則が発見 述、参照。 しつつ明示している有るものはそれ以前にはなかったのであ ( 7 ) 第三四節一六〇頁以下、参照。 るということを、意味し得ない。それらの諸法則はニウトン・ ( 8 ) 「ニコマコス倫理学」第六巻及び「形而上学」第九巻第一 0 章、参照。 に依って真となったのであり、それらの諸法則を以ってし て、現有にとって、有るものがそのもの自身に於て通路づけ 0 真性の有リ方と真性の前提 られ得るようになったのである。有るもののその被発見性と ともに、その有るものはそれ自身をまさしく、それ以前に既 現有は、開示性に依って構成されているとして、本質上、 真性の内に有る。開示性は現有の本質的有り方の一つであ に有った有るものとして、示すのである。そのような仕方で る。真性が「〈与えられて〉ある」のはただ、現有が有る限発見することが、「真性ーの有り方である。 り且っ有る間、だけである。有るものは、総じて現有が有る 「諸々の永遠なる真性」が〈与えられて〉あるということ、 時にのみ且っ有る間だけ、発見され開示されて有る。ニウト そのことは次のことの確証が成し遂げられた際に初めて十分 ンの諸法則や矛盾律や〈その他〉如何なる真性一般も、現有に証明されるであろう、すなわちそのこととは、現有が永遠 が有る間だけ、真で有る。現有が総じて有ったのではない以 に亙って有ったしまた有るであろう、ということである。こ
第三巻 ( 一九二三年 ) 一頁ー三六頁所載のニコライ・ ハルトマン たのである。根源的時性のさきに分析された諸々の時熟可能 のそういう標題を附せられた論文参照。 性から、以前にはただ辛うじて「明示されたーに過ぎなかっ ( ) ヘーゲル「論理学」第二巻 ( ラッソン版、一九二三年 ) 第 た諸構造は、それらの「根拠づけ」を取得したのである。併 二部二二〇頁参照。 し、現有の有・の・体制を明るみに取り出すことは、それにも 信 ) 同書同頁。 拘らず、依然として一つの道程に過ぎないのである。目標は ( 貯 ) ヘーゲル「歴史に於ける理性。世界史の哲学への序論」 有・の・問一般を徹底的に仕上げることである。実存について ( ゲォルク・ラッソン版、一九一七年 ) 一三〇頁参照。 の主題的分析論もそれ自身の側に於て、予め明らかにされた ( ) 同書一三二頁。 ( 四 ) 同書同頁。 有・の・理念一般から出て来る光を先ず必要とする。このこと ( ) 同書同頁。 は、序論の中で語り出された次の命題が如何なる哲学的研究 ( 幻 ) 『精神現象学全集」第二巻六〇四頁参照。 にとってもその基準尺度として堅持される場合、その場合に ( ) 「歴史に於ける理性」前掲版、一三四頁参照。 は特に該当する、すなわちその命題とは、哲学は普遍的な現 ( ) 「エンチュクロペディー」第二五八節参照。 象学的有論であり、現有の解釈学から出発する、現有の解釈 ( ) 『精神現象学」前掲版、六〇五頁参照。 学は実存の分析論として一切の哲学的に問うことの手引の終 りを、次のところに、すなわちそこから哲学的に問うことが 第八三節現有の実存論的ⅱ時性的分析論と 発源するとともにそこへそれが脈搏ちつつ帰るところに、確 有の意味一般への基礎的有論の問 乎として繋ぎ留めているのである、という命題である。勿論 このテーゼも、ドグマとして見做されてはならず、なお「包 これまでになされて来た諸考察の課題は、事実的現有の根み隠されている」根本から決定的な間題の方式化として見做喞 源的全体を、本来的に実存することと非本来的に実存するこ されねばならない、すなわちその問題とは、有論は有論的に とという可能性に注目して実存論的有論的に、事実的現有根拠づけられ得るのか、それとも有論は、有論的に根拠づけ の根源的全体の根底〈すなわち根拠〉から解釈することであられ得ることのためにも、何等かの有的基礎を必要とするの った。この根拠として、従って関心の有・の・意味として、時 か、更にまた一体如何なる有るものがその基礎づけという機 性が顕わになった。それ故、現有の準備的な実存論的分析論能を引き受けねばならないのか、という問題である。 が時性の露開に先立って調えて置いた事柄は、今や現有の有・ 非現有的に有るものの有 ( 例えば、実在性 ) に対しての実 の・全体性の根源的構造の内へ、つまり時性の内へ回収され存する現有の有の〈示す〉区別というような一見して直ちに
は、「ひと〈という有り方で〉の自己」がその内に「共に淋 ( 1 ) 第六〇節二九五頁以下、参照。 ( 2 ) 第六二節三〇五頁参照。 ぎまわっている」ところのそのような営みの内で、出会わ ( 3 ) 二八四頁参照。 れている。ひとはそのような営みを心得ており、そのような ( 4 ) 第二六節一一七頁以下、参照。 営みを論評したり、可しとして幇助したり、否として戦った ( 5 ) 「世代」という概念については、ウイルヘルム・ディルタイ り、それを心に留めて置いたり、忘れたりしているが、そう 「人間と社会と国家とに関する諸科学の歴史の研究について」 ( 一 することを常に、その際一体何が営まれ何が〈そこから結果 八七五年 ) 、全集第五巻 ( 一九二四年 ) 三六頁ー四一頁を参照。 として〉「跳び出て来るか」ということへ第一次的に着眼し つつ、なしているのである。個々の現有の〈生活の〉進展と 第七五節現有の歴史性と世界Ⅱ歴史 停滞と態度変更と「総計」とを吾々は差当って、〈その現有 に依って〉配慮されているものの進行と停頓と変移と効用性 差当って大抵、現有は、廻りの世界の内部で出会われるも とから算出している。日常的な悟性的理解性に属する〈この のにして見廻し的に配慮されるものから、自己を理解してい ような〉現有理解への指摘が如何に陳腐なものであろうと る。このような理解は、現有の一切の挙措態度に随伴するだ も、併し乍らそのような現有理解は、有論的には決して透見 . けの単なる自己認知では決してない。理解とは、世界の内 され得るようになってはいないのである。それでは併し、 にⅱ有ることのその都度の可能性へ向って自己を企投するこ とを、意味しており、すなわちこのような可能性として実存現有の「聯関」が、配慮され「体験され」るものから規定さ することを、意味している。そのようにして、理解はまた悟れてはならないというのは、一体何故であろうか。一体、道 具と製作品そしてまた現有が関わり合っている物事の一切 性的理解性として、ひとという非本来的実存をも構成してい は、歴史に〈その他の事物と〉共に属しているのではないの る。公開的な共に相互にという有り方に於て日常的配慮に出 会われるものは、道具や製作品だけではなくして、同時にそか。一体、歴史の経歴は、諸々の個々の主体の内に於ける、 れらに関して「行われる」ことであり、すなわち諸々の「仕「諸々の体験流」の〈その他の外的事物から〉隔絶された経 事」や企業や突発事件や事故などである。それと同時に「世過に過ぎないのであろうか。 実際、歴史は、諸々の客体の諸変化から成る運動聯関でも 界」は、〈これらの事柄がその上で行われるところの〉地盤 なければ、「諸々の主体」の宙に浮いた体験の継続でもない。、 にして舞台であり、而もそのような地盤にして舞台として、日 そうであるならば、歴史の経歴は、主体と客体との「連鎖」 常的な営為と出来事とに〈その他の物事と〉共に属してい に関わるのであろうか。たとえひとがその〈すなわち歴史 る。公開的な共に相互にという有り方に於ては、他の人々
192 的解釈の主題とはならない。綜合〈 ~ ご ( ら〉と分割 くる。有・の・問を徹底的に仕上げて行く仕事 ( 第一部第三編 ミ 0 との分析的理解、〈従ってまた〉判断一般に於ける参照 ) は当然、ロゴス〈。◇の内部に於けるこの独特な 「関係」の分析的理解、そういう理解の可能性と不可能性と有・の・現象に再び出会うことになるであろう。 は、根本からして決定的な有論的な問題全体のその都度の立 差当って肝要であったことは、解釈と理解とから陳述が出 場と緊密に結び合わされている。 て来たという陳述の派生性を確証することを以って、ロゴス 有論的な問題全体がロゴス〈こ 7 。◇の解釈の内へ如何に深〈。 0 の「論理学」が現有の実存論的分析論の内に根を張っ く働き入るか、そしてまた逆に「判断 , の概念が或る注目すていることを、明瞭にすることだけである。ロゴス〈さ◇ べき反転を以 0 て有論的な問題全体の内〈如何に深く働き返についての〈従来の〉有論的解釈の不十分さを認識すること って来るか、このことを繋辞〈 Copu 一 a 〉という現象が示して は、それと同時に、その上に古代の有論が生長したところの方 いる。〈繋辞といわれる〉この「紐帯」に於て次のことが明法的基盤の非根源性〈の洞察を、鋭くする。〔ゴス 0 、 7 。「〉は るみに出て来ている、すなわちそれは、先ず差当 0 て綜合〈と直前に有るものとして経験され、かかるものとして解釈され いう〉構造が自明的として始めに設定されている、というこ ているのであり、同様に、ロゴスが明示する有るものも、直前 とであり、更にその綜合構造がまた〈判断を解釈する場合に〉性という意味をも 0 ているのである。有のこの意味〈すなわ 基準決定的な解釈上の機能を保持してきた、ということであち、有。直前に有ること。直前性、という意味〉はそれ自 る。併し、「関係ーとか「結合」のもっ形式的諸性格が、ロ 身、その他の有・の・諸可能性に対して対照的に際立たせられ ゴス〈。◇の事象実質を含んだ構造分析に何等寄与し得ることなしに無記的なままになっており、そのために、それ るところがないとすれば、繋辞という呼称を以って意味されと同時に、有のこの意味と、或るもので有るという形式的 ている現象は畢竟、紐帯や結合とは何等の関わりをももたな な意味での有とが溶け合ってしまい、両者〈すなわち、直前 いのである。併し、陳述と有・の・理解とが現有それ自身の実に有ることとしての有の意味と、或るもので有ることとして 存論的な有・の・可能性であるとすれば、その場合には、「で の有と〉の純粋に領域的な区分すら獲得され得なかったので 有る」〈すなわち、普通に所謂「繋辞」としての有、実は「真ある。 で有る」という意味での有〉ということとそのことの解釈と ( 1 ) 第一三節五九頁以下参照。 は、「で有る」が言葉の上に殊更に言い現わされようと、或 いは動詞の語尾の内で告示されるに留まっていようと、そん 第三四節現にⅱ有ることと話。言葉 なことに拘わらず、実存論的分析論の問題聯関の内に入って
学の視界の内に人って来たこと、そのことは偶然ではない。その に依って彼の本来性が彼自身に大抵は覆蔽されたままになっ ことは、神へ関わる人間の有という人間学的間題が優位を占め、 ている現有、そういう現有は〈不定という〉この根本情態性 かくして信仰とか罪とか愛とか悔い改めというような諸現象が立 の内で或る根源的な意味に於て開示可能になる、ということ 間を導いていた場合には、常に起ったことである。聖ナル畏レと である。 奴隷的ナル恐レ <timor castus und servilis 〉とについてのア 慥かに如何なる情態性の本質にも、夫々世界の内に有 ウグステイヌスの説を参照、それは彼の釈義的著作や書簡の中で ることの全相をその一切の構成契機 ( 世界、内に有ること、 度々論ぜられている。恐れ一般については、「八十三の様々な問 について』〈 De diversis quaestionibus octoginta tribus 〉の 自己 ) に亙って開示することが属している。併し、不安の内 第三十三間「恐レニツイテ」〈 de metu 〉、第三十四問「恐レヲ には或る卓抜な開示の可能性が含まれている、それは、不安 免レティルコトヨリ他ニ愛サレルベキコトガアルデアロウ力」 が孤立化するからである。この孤立化は、現有を彼の頽落か 〈 utrum non alitld amandum quan 】】 carere 〉、珈 ら取り返し、そして彼に本来性と非本来性とを彼の有の諸可 三十五問「何ガ愛サレルベキデアロウ力」〈 quidamandumsit 〉 能性として顕わにする。現有、それは各自の現有であるが、 ニ = 「ラテン教父全書』第七巻二三頁以下 ) を参照。 その現有のもっこれらの根本的可能性〈すなわち本来性と非 ルターは恐れの問題を、懺悔谷 oen 一 ( en ( 一 a 〉と悔恨〈 contritio> 本来性〉は不安の内で、それら自身に於てあるがままに、つ とについての解釈という伝統的な〈問題〉聯関の内で取扱ってい まり、現有が差当って大抵それ自身をそれに繋ぎ留めている る以外に、彼の創世記注解の中で取扱っている、後者のうちでは もとより概念的であることが最も少ないが、併し教化的にはそれ ところの内世界的に有るものに依って偽装されずに、それら だけ一層肺腑を抉る、「創世記講解」〈 Enarrationes in genesin 〉 自身を示すのである。 第三章エルランゲン版全集、「ラテン語釈義的著作集」第一巻一 懾一体如何なる点に於て、不安のこの実存論的解釈を以っ 七七頁以下、参照。 」て、現有の構造全体〈を全体として担 0 ているところ〉の全 不安現象の分析に於て最も遠くまで突き行ったのはゼーレン・ と体性の有への問という主導的な問に答えるための現象的地盤 キ , ルケゴールであり、而もそれはまたしても、原罪の問題の「心 の が、獲得されているのであろうか。 理学的」説明という神学的聯関の内に於てであった。「不安の概 有 現 念』 ( 一八四四年 ) 、全集 ( ディーデリックス版 ) 第五巻参照。 ( 1 ) 第一二節五三頁以下、参照。 章 ( 2 ) 第二七節一二六頁以下、参照。 第 第四一節関心としての現有の有 ( 3 ) 不安と恐れという現象、それらは到る処で通常は分たれな いままになっているが、それらの現象が有的に、更にまた、極め て狭い限界内に於てであるとはいえ、有論的にも、キリスト教神〈現有の〉構造全体〈を全体として担 0 ているところ〉の全
いる、という仕方で証を呈示するのか、ということである。 現有の本来的な全体的に・有ることとそのことの実存論的 体制とへの問という宙に浮いた問は、その問が、現有それ自 身に依って証されたる、彼の有の可能な本来性に、拠処を取 り得る場合、その場合に至って初めて、吟味に堪え得る現象 的地盤の上に齎らされたことになるであろう。そのような証 とその内で証されることとを現象学的に暴露することが成し 遂げられるならば、その場合には、次の如き問題が新たに起 って来る、すなわち、これまでは単にそれの有論的な可能性 に関してのみ企投された死への先駆が、証された本来的に有 り・得ることと、果して或る本質的な聯関の内に立つであろ うか否かと。 ( 1 ) 第三一節一四二頁以下、参照 ( 2 ) 第六二節三〇五頁以下、参照 ( 3 ) 第二九節一三四頁以下、参照 ( 4 ) 第四〇節一八四頁以下、参照 0 0 0 0 第二章本来的に有り・得ることの現有的 な証と覚悟性 第五四節本来的な実存的可能性を証するこ との問題 今、求められているのは、現有の本来的な有り・得ること であり、而もそれの実存的可能性に関して現有それ自身に依 って証されるところの本来的な有り・得ることである。〈そ のためには〉それに先立ってこの証それ自身が見出され得な ければならない。 この証が現有に、彼の可能なる本来的実存 に於て彼自身を「理解せしめる」べきであるならば、その証 はその根を現有の有にもっているであろう。従って、そのよ うな証を現象学的に証示することはそれ自身の内に、現有の 有・の・体制からその証の根源を確証することを、含んでいる。 その証は、本来的な〈仕方で〉自己で有り得ることを、理 解せしめるべきである。「自己」という言い現わしを以って、 吾々は、現有の誰への問〈すなわち、一体何者が現有として 実存するのか、という問〉に答えたのである。現有の自己性 は、形式的には、実存することの或る仕方として、すなわ ち、或る直前に有るものとしてではなく、規定された。現有 の誰で有るのは、大抵は私自身ではなくして、ひと〈という 有り方で〉の自己である。〈それ故、〉本来的に自己で有
それ自身が一層透徹的に見られるようになる。それから更の有 ( 第一章 ) 、本来的に有り・得ることの現有的な証と覚 に、時性にもとづいて、一体何故に、現有は彼の有の根本に悟性 ( 第一一章 ) 、現有の本来的な全体的に・有り・得ること と、関心の有論的意味としての時性 ( 第三章 ) 、時性と日常 於て歴史的に有りまた有り得るのか、更にまた歴史的に有る ものとして歴史学を形成し得るのかが、理解され得るように性 ( 第四章 ) 、時性と歴史性 ( 第五章 ) 、時性と、通俗的時間 概念の起源としての内時間性 ( 第六章 ) 。 なる。 ( 1 ) 第九節四一頁以下、参照。 時性が現有の根源的な有・の・意味を成しており、然も〈現 ( 2 ) 第六節一九頁以下、第二一節九五頁以下、第四三節二〇一 有という〉この有るものにとっては彼の有に於てこの有それ 頁参照。 自身が関心の的になっている、とすれば、関心は「時」を用 ( 3 ) 第三二節一四八頁以下、参照。 いなければならず、従って「時」を見計らいつつ考量に入れ ( 4 ) 第九節四一頁以下、参照。 ざるを得ない。〈かくして、〉現有の時性は「時間計算ーを形 ( 5 ) 第四一節一九一頁以下、参照。 ( 6 ) 十九世紀に於てゼーレン・キエルケゴールは、実存の問題 有成するに至る。時間計算の内で経験される「時〈すなわち時 を実存的問題として明らさまにみ取り、骨制に徹する如き仕方 〈間〉」が、時性の差当って呈する現象的な外観である。このよ 死 で思索し抜いた。併し、彼にとっては実存論的問題全体は無縁な うに経験される「時」から、日常的Ⅱ通俗的な時間理解が生 と ものであり、そのため彼は、有論的観点に於て見られるならば、 じて来る。そしてこの日常的日通俗的時間理解がそれ自身を 全くへーゲルとへーゲルに依って見られた古代哲学とに隷従して 伝統的時間概念へと展開する。 いる。それ故、キ , ルケゴールの理論的著作よりもー不安の概念 に内世界的に有るものが「その内で」出会われるところの についての論文は例外として、「教化的」著作の方から、哲学的 体「時間」っまり内時間性としての時間、そのような時間の起 には一層多くのことが学ばれ得る。 な源を闡明することは、時性の或る一つの本質的な時熟可能性 可〈すなわち時熟の可能的な仕方〉を、顕わにする。そのこと に依って、時性の更に一層根源的な時熟に関する理解が、準 現備される。時性のこの一層根源的な時熟にこそ、現有の有を 一構成している有・の・理解が、基づいている。〈かくして、〉有 第 の意味一般の企投は、時の地平に於て遂行され得る。 従って、本編に含まれる研究は、次の如き諸段階を通って 行く、すなわち、現有の可能的な全体的に・有ることと死へ 三 0
る、すなわちそのこととは、 1 ・ 理解することそれ自身が現齎らされた。自己で有り・得ることの本来性は、根源的実存 有の有の根本的有り方の一つを成しているということであ性への先ー見を保証し、根源的実存性は、それに適切な実存 り、 2 ・この有〈すなわち現有の有〉が関心として構成され論的概念性を型造することを確保する。 てあるということである。その循環を否認しようとしたり、 先駆的覚悟性の分析はそれと同時に、根源的にして本来的 その循環を秘めて置こうとしたり、況んや克服せんとしたり な真性という現象へ導いた。以前には、差当って大抵支配し することは、この誤認を最後決定的に牢固たるものにするこ ている有・の・理解が如何にして、有を直前性という意味に於 とを意味している。〈ここに於て〉努力はむしろ次のことをて把握しており、かくして真性の根源的現象を覆蔽している かが、示された。併し、真性が「有るー限りに於てのみ、有 目指さなければならない、すなわちそのこととは、根源的に 而も全体的にこの「環」の内へ飛び込み、かくして現有分析が「与えられてあり」而も真性の有り方に従って夫々、有・ の・理解が転化するとすれば、その場合には根源的にして本 の着手に於て既に現有の循環的なる有へ全き眼差しを確保し て置く、ということである。もしひとが無世界的な自我から師来的な真性が、現有の有の理解と有の理解一般とを保証する 「出発」して次にそういう自我に客観と客観への或る有論的に相違ない。実存論的分析の有論的「真性」は、根源的に実 に根拠の無い関係とを供給するとすれば、現有の有論にとっ存的な真性を根底にしてその上に形成されるのである。併し て「前提される」ことが多過ぎるのではなくして少な過ぎる乍ら、後者〈すなわち実存的な真性〉は必ずしも前者〈すな のである。「生ーが〈先ず〉問題にされ、それから次にまた折わち実存論的ⅱ有論的な真性〉を必要としない。最も根源的 な、根底定礎的な、実存論的真性、それに向って基礎的有論 に触れて死が顧みられるとすれば、その〈場合の〉眼差しは 余りにも近視的であゑもしひとが〈考察を〉「差当って」的な問題全体はー有・の・問一般を準備しつつー到らんと努力 「理論的主観」に制限し、それから次にその主観を「実践的するのであるが、そういう最も根源的な根底定礎的な実存論 側面に関して」附け足し的に添加された「倫理学」に於て補的真性は、関心の有・の・意味の開示性である。この意味を露 完するとすれば、主題とされる有るもの〈すなわち現有〉開するためには、関心の構造成分の全き全体を狭めることな く用意して置くことが必要である。 は、人工的に独断的に剪定されているのである。 ( 1 ) 第四五節二三二頁参照。 以上のことで、現有の或る根源的な分析論〈を可能にする ( 2 ) 第五節一五頁参照。 ところ〉の解釈学的状況のもっ実存論的意味を明らかにする ( 3 ) 第四三節二〇〇頁以下、参照。 ことには足りるであろう。先駆的覚悟性を明るみに取り出す ( 4 ) 二一二頁と一一七頁参照。 ことを以って、現有は彼の本来的全体性に関して先持の内へ ( 5 ) 第三二節一五二頁以下、参照。