ることは出来ないのでありー生物学はこの構造を前提せざるの内に於ても常に既に或る仕方で「見られ」ているからであ を得ないのであり而も絶えずそれを使用せざるを得ないのでる。而もそれがそういう事態になっているのは、〈世界の興 ある。併し、この構造それ自身がたとえ生物学の主題とされ内に = 有るという〉その現象が現有の根本体制を成してお る対象〈すなわち、生物〉のア。フリオリとしてでさえも哲学 り、彼の有とともに彼の有・の・理解に向ってその都度既に開 的に解明され得るのはただ、その構造が前以って現有の構造示されてあるからである。併し、その現象はまた大抵、常に として概念的に把握されている場合だけである。そのような既に〈開示されてあると〉同様に根本的に誤解されており、 或いは有論的に不満足な仕方で解釈されている。併し乍ら、 仕方で概念的に把握された有論的構造への定位にもとづき、 そこから欠如化という道を経て初めて、「生命」という有・の・ この「或る仕方で見ながら而も大抵は誤解する」ということ 体制がア。フリオリな仕方でその範囲が境界づけられ得るのでもそれ自身、他ならぬ現有それ自身のこの有・の・体制〈すな ある。有的にも有論的にも、配慮することとしての世界の“ わち、世界のⅡ内に有ること〉に基づいており、その体制 内に = 有ることは〈生命に対して〉優位をもっている。この に従って現有は彼自身をーそしてそのことはまた、彼の世界 構造は、それの根本を定める解釈を、現有の分析論の内で受の“内に有るということを、でもあるがー有論的には差当 けるのである。 って、現有それ自身がそれであるのではないところの有るも 併し、この有・の・体制についてこれまでになされた規定は の、併し現有に彼の世界の「内部」に於て出会われる有るも 専ら諸々の否定的陳述の内に動いてきたのではないか。吾々 の、そういう有るものとそれの有から、理解しているのであ は常に、この極めて基礎的と称せられる内にⅱ有ることが何る。 でないかということばかりを、耳にしてきた〈のではない 現有それ自身の内でかっ現有にとって、〈世界のⅱ内にⅡ か〉。実際その通りである。併し、否定的性格づけがこのよ有ることという〉この有・の・体制は常に既に何等かの仕方で うに優勢を占めているということは決して偶然ではない。否熟知されている。ところでこの体制が〈明瞭に〉認識されね 定的性格づけはなしろそれ自身この現象の固有性を告知して ばならないとすると、その場合には、そのような課題の内で いるのであり、そのことに依って、現象それ自身にびったり表に現われてくる認識作用がまさしくそれ自身をー世界〈を〉 と適合しているという真正な意味に於て、積極的なのであ認識〈すること〉として、世界へ関わる「魂ーの範例的な る。世界のⅡ内に日有ることを現象学的に挙示することが諸関係とすることになる。そのために、世界を認識すること 諸の覆蔽と偽装とを棄却するという性格をもっているのは、 ( 思惟スルコト voe?v) や乃至「世界ーについて〈陳述すると 〈世界の“内に有ることという〉この現象が如何なる現有う仕方で〉語り掛けたり〈論議するという仕方で〉語ったり
とである。そのことに依って、理解と解釈とは一層鋭い光のそれの手許性という有り方にある或る一つの有るものであ一 内に入って来る。それから次に、陳述の分析は基礎的有論のる。たとえこの有るものが、手で幗まえ得る近さとか「眼に 問題全体の範囲内に於て或る卓抜なる位置を占めている、何見え得る」近さの内にあるのでない場合でも、明示すること 故ならば、古代の有論の幾つかの決定的な元初に於てロゴス は、その有るものそれ自身を指しており、何かその有るもの 〈。◇が、本来的に有るものへの通路とこの有るものの有の単なる表象を指しているのではなく、或る「単に表象され の規定とのための唯一の手引としての役割を、演じていたか たもの」を指しているのでもなければ、況んや陳述する者の らである。最後に、陳述は古来、真性〈すなわち、真で有る 心的状態を、つまり彼がこの有るものを表象するという作用 こと〉の第一次的にして本来的な「所在ーとして見なされてを、指しているのではない。 いる。〈真性という〉この現象は有・の・問題と極めて緊密に 2 ・陳述は、述語づけることという程のことを、意味して 接なぎ合されており、そのため当面の研究がその歩みを進め いる。或る「主語」について或る「述語」が「陳述され」 て行くと必然的に真性の問題に行き当るのであり、それのみるのであり、前者〈すなわち、主語〉は後者〈すなわち、述 ならず当面の研究は、非表明的にではあるが、既に真性の問 語〉に依って規定されるのである。この意味での陳述に於て 題の次元の内に立っているのである。〈それ故、以上の如き陳述されているものは、述語というようなものではなくして、 事態にもとづいて〉陳述の分析は、この問題の中核点を〈そ「鉄槌それ自身、である。それに対して、陳述するもの、す の他の事柄と一緒になって〉共に準備すべきものである。 なわち規定するものは、「重すぎる」ということに存してい 以下に於て吾々は陳述という呼称に、次の如き三つの意義る。この第二の意味での陳述に於て陳述されているもの、つ西 を配当する、それらの三つの意義は、この呼称に依って表示さ まり規定されたものそのものは、第一の意義での〈陳述とい れている現象から汲み取られており、相互に聯関しており、そう〉この呼称に於て陳述されているものに対比されれば、実 れらの統一に於て陳述の全き構造の範囲を境界づけている。 質に関して或る狭隘化を受けてしまっている。〈というのは、 ・陳述は第一次的には、明示することを意味する。〈明すなわち、〉如何なる述語づけも、ただ明示することとして 示という〉このことに依って吾々は、明ラカニ示スコト のみ、述語づけである〈が、逆に、明示することは必ずし ということである〉。〈かくし ま今ら〉としてのロゴス〈。 0 の根源的意味を堅持も、述語づけることではない、 する、すなわちそれは、有るものをそのもの自身から見えして、〉陳述の第二の意義はその基礎を第一の意義の内にもっ めることである。「この鉄槌は重すぎる」という陳述に於て、 ている。述語づけるという仕方での分節の分肢、すなわち主一 見にとって発見されているものは、「意味」ではなくして、 語ー述語は、明示することの内部で生じて来るのである。
わち、先駆しつっその都度既に自己をひとから引き離し得諸構造として、実存を可能にしている制約一般に、〈その他 る、ということである。この「得る」ということを理解する の諸構造と〉共に属している。現有は、彼が、配慮しつつ : ことは、併し〈それと同時に〉、ひと〈という有り方で〉の“ のもとに有ることと顧慮しつつ・ : と共に有ることとしての自 自己の日常性の内に事実的に〈自己が〉喪失されていること己を、第一次的に、彼の最も自己的な有り・得ることへ向って を、初めて露わにするのである。 企投し、併しひと〈として〉の = 自己の可能性に向って企投 最も自己的な可能性は、〈他と〉没交渉な可能性である。 しない限り、その限りに於てのみ本来的に自己自身で有る。 先駆することは現有をして次のことを理解せしめる、すなわ没交渉な可能性の内へ先駆することは、先する有るもの ちそのこととは、現有は、そこに於ては端的に彼の最も自己を、彼の最も自己的な有を彼自身から彼自身にもとづいて引 き受けることの可能性の内へ、否応なしに齎らす。 的な有が問題となるところの有り・得ることを、彼自身から ということである。死は、 唯一人で引き受けねばならない、 最も自己的な、没交渉な可能性は追い越し得ない。追い越 自己的な現有にただ無差別的に「属している」のではなくし し得ない可能性への有は、現有をして次のことを理解せしめ て、死は、自己的な現有を孤立的現有として要求する。先駆る、すなわちそれは、彼には実存の最極端の可能性として、 自己自身を放棄することが差し迫っている、ということであ に於て理解される死の没交渉性は、現有を彼自身へと孤立化 する。この孤立化は、実存に向って「現」を開示する一つのる。併し、先駆することは、死への非本来的な有がそうする 仕方である。その孤立化は次のことを顕わにする、すなわちのとは異なり、〈この可能性の〉追い越し得ないということ それは、最も自己的な有り・得ることが問題になる時には、 を回避せずして、その追い越し得ない可能性に向って自己を 配慮されたもののもとに有ることはすべて、そしてまた他人自由に空け渡す。先駆しつつ自己の死に向って空け放たれつ つ自由に成ることは、偶々押し寄せて来る〈本質的重要性を 達と共に有ることは如何なる仕方で有ることにせよ、一切合 財ものを言わなくなる〈すなわち、役に立たなくなる〉、と もたない〉諸可能性の内に〈自己が〉喪失されていることか いうことである。現有が本来的に自己自身で有り得るのはた ら〈現有を〉解放し、而もそのように自己の死に向って空け だ、現有が彼自身から自己をこのような有り方に向って可能放たれつつ自由に成ることが、追い越し得ない可能性の手前 にする時だけである。配慮や顧慮がものを言わなくなること に繰り拡けられて有る諸々の事実的可能性を、初めて本来的 は、併し乍ら、〈配慮や顧慮という〉現有のこれらの有り方に理解せしめ選択せしめる、という仕方で解放する。先駆す を本来的に自己で有ることから解き離すことを、決して意味ることは実存に、最極端の可能性として自己放棄を開示し、 してはいない。それらの有り方は現有体制に属する本質的なそのようにして、その都度達成された実存に如何なる仕方に
〈かくして〉疚しい良心は根本に於ては、単に詰責し = 後へ すなわちそのこととは、良むは、負目的に有ることを喫 回って指し示すのではなくして、それはむしろ前へ向って指 ぶ、ということである。 し示しつつ被投性の内へ喚び返すのである。〈以上を要する 今挙げられた帰結を免れるために、ひとは、「安らかな」 に〉経過する諸体験の継続順序は決して、実存することの現良心を「玖しい」良心の欠如態として解釈し「疾しい良心の 象的構造を呈示しない。 欠在の体験」として規定した。それに従うならば、「安らか 既に「疚しい」良心の性格づけでさえも、〈良心の〉根源な」良心は、〈良心の〉喚び声が現われて来ないことを経験 的な現象に届かないとすれば、その場合にはそのこと〈すなすることであり、すなわち私は自ら顧みて何等非難されるべ わち、良心の根源的現象に届かないということ〉は「安らか きことをもたないということを経験することである、という な」良心に、ひとが「安らかな」良心を、一個の自立的な良ことになるであろう。併し、一体如何にしてこの「欠在」は 心形態と解するにせよ或いは「疚しい」良心に本質上基礎づ「体験され」ているのか。ここで自らそう称している体験す けられた良心形態の一つと解するにせよ、一層甚しい程度に ることとは、総じて〈良心の〉喚び声を経験することではな 於て当てはまる。「疚しい」良心〈すなわち、文字通りには、 くして、現有の所為に帰せられた或る行為が〈本当は〉彼に 「悪しき」良心〉が「現有の悪しく有ること」を告知すると依って行なわれたのではなく、それ故に彼は負目〈すなわち すれば、それに対応して、「安らかな」良心〈すなわち、文責任〉がないということを、自分に確かめしめることである。 字通りには、「善き」良心〉は現有の「善く有ること」を告〈併し〉〈或る行為を〉行なわなかったことを確認すること 知することにならざるを得ないであろう。〈併し、ここに於とは総じて、良心現象という性格をもってはいない。反対 て〉ひとは次のことを容易に見て取る、すなわちそれは、こ に、このような〈仕方で〉確認することはむしろ、良心を忘 のことに依って、以前には「神的威力の流出」とされた良心却することを、すなわち喚び掛けられ得るという可能性か が今はパリサイ主義の奴隷に成る、ということである。〈「安らその外へ出てしまうことを、意味し得る。上に挙げられた らかな」〉良心は人をして自分について次のように言わしめ「確認」はそれ自身の内に、良心を持せんと意志することをす るべきである、すなわち , 「私は善く有る」と、一体誰がそんなわち最も自己的なる不断に負目的に有ることを理解するこ なことを言い得るであろうか、そしてまさしく善なる人程そとを、気安めつつ抑圧するということを、蔵している。「安 のことを自分に確認したがらない者が、誰かあるであろう らかな」良心は、一個の自立的な良心形態でもなければ、一 か。併し、安らかな良心という理念から出てくるこの不可能つの基礎づけられたる良心形態でもなく、すなわち総じて、 な帰結に於ては、ただ次のことが現われて来ているに過ぎな 如何なる良心現象でもない。
んやその可能性に可能性として注目しつつ主題的“理論的に 差当ってなされねばならないことは、死への有を、或る一川考察しているのではなくして、配慮しつっ向って行きつつ有 つの可能性への有として、而も現有の或る卓抜なる可能性そることは見廻しに於て可能的なるものから目を逸らし〈その れ自身への有として、特色づけることである。或る可能性へ可能的なるものが何のために可能であるか、という〉その何 のために“可能かという方へ目を向ける、という仕方であ の有、すなわち或る可能的なるものへの有は、その可能的な ものの実現を配慮することとしてその可能的なものへ向ってる。 行きつつ有ることを、意味し得る。手許に有るものと直前に 今問われている死への有は明らかに、その有の実現へ配慮 有るものとの分野に於ては、そのような諸可能性が、すなわしつっ向って行きつつ有るという性格を、もっていない。 ち達成され得るものとか、支配され得るものとか、行なわれ得〈何故ならば、〉第一に、可能的なるものとしての死は、如 るもの等々が、不断に出会われている。〈然るに〉或る可能的何なる可能的な、手許に有るものでも或いは直前に有るもの でもなくして、現有の或る有・の・可能性である。更に第二 有なるものヘ配慮しつっ向って行きつつ有ることは、意のまま のになし得るようにすることに依ってその可能的なものの可能 に、〈死という〉この可能的なるものの実現を配慮すれば、 死 まさしくその配慮は、失命を招来することを、意味すること 性を絶減するという動向を、もっている。併し、手許に有る にならざるを得ない。併し、そうすることに依っては現有は と道具を ( 製作すること、用意すること、置き換えること等々と るして ) 配慮しつつ実現することは、〈そのようにして〉実現まさしく、死へ実存しつつ有ることのための地盤を、彼自身 されたものもまた、なおそしてまさしく〈その他のものに帰から奪い去ることになる〈からである〉。 吶趨するという〉帰趨という有・の・性格をもっ限り、常にただ そのようにして死への有に依っては死の「実現ーが意味さ 全 相対的で有るに過ぎない。その実現されたものは、たとえ実れているのでないとすれば、その場合には死への有は、終末の 可現されているとはいえ、現実的なるものとして・ : のために可もとに立ち留まってその可能性に関して思いをめぐらすこと を、意味し得ない。そのような態度は、「死へ思いを致す」 能的なるものであるに留まり、どこまでも或る一つのする“ 現ためということに依って性格づけられている。当面の分析は ということの内に、含まれているであろう。そのような関わ 章ただ次のことだけを明瞭にすべきである、すなわちそのこと り合いは、〈死という〉その可能性を、何時そしてまた如何に 第 とは、配慮しつっ向って行きつつ有ることはそれ自身を可能その可能性が実際実現するであろうかと、熟思している。死 的なるものヘ如何に関わらしめているか、ということであり、 についてのこのような穿鑿は、慥かに死からその可能性とい すなわち、可能的なるものを可能的なるものとして、而も況う性格を全くは取り去りはしない、死は依然としてなお、来た
372 という〉現有のこの本来的な全体的に・有ることをそれの分それ自身が可能で有る、という仕方である。 先駆的覚悟性は現有を彼の本質的な負目的に有ることに 節された構造全体の統一性に関して可能にしているのは何 か。今はその全き構造内実を不断に挙げることなしに、形式て理解する。この理解は、負目的に有ることを実存しつっ引 き受けることを、つまり無なることの被投的根拠で有ること 的実存論的に捉えるならば、先駆的覚悟性は最も自己的なる 卓抜なる〈仕方で〉有り・得ることへ関わりつつ有ることであを、意味する。然るに、被投性を引き受けることは、現有が る。そのようなことが可能であるのはただ、現有が総じて彼その都度既に有った有り方に於て本来的に現有で有ること の最も自己的なる可能性に於てそれ自身へ将来し得るとともを、意味する。そして被投性を引き受けることはただ次の如 に自己を。それ自身〈。将来せしめるというこのことに於てき仕方で、すなわち、将来的な現有が彼の最も自己的なる「彼 がその都度既に有った有り方ーすなわち彼の「既有ーで有り その〈最も自己的なる〉可能性を可能性として持ち堪える、 すなわち実存する、という仕方に於てのみである。その卓抜得る、という仕方でのみ可能である。現有が総じて、私は有っ なる可能性を持ち堪えつっその可能性の内で自己をそれ自身たので有るとして、有る限りに於てのみ、現有は彼が、帰 へ将来せしめること、そのことが将。来の根源的現象である。来するという仕方で、将来的に自己自身〈将来し得る。本来 現有の有には本来的なる乃至は非本来的なる〈仕方での〉死的に将来的に〈有ることに於て〉現有は本来的に既有的に有 への有が属しているとすれば、その場合このこと〈すなわる。最極端の最も自己的な可能性の内へ先駆することは、最 ち、死への有が現有の有に属していること〉はただ、今告示も自己的な既有へ理解しつつ帰来することである。〈要する に〉現有は将来的に有る限りに於てのみ、現有は本来的に既 され更に立人って規定されるべき意味での将来的な有として のみ可能である。「将来」とはここでは、未だなお「現実的、有的に有り得る。既有性は或る仕方で将来から発源する。 先駆的覚悟性は現のその都度の状況を、実存が行為しつつ に成ってはいないが他日初めて「現実的」に有るように成る ところの今ということを、謂っているのではなくして、現有事実的に廻りの世界に於て手許に有るものを見廻し的に配慮 が彼の最も自己的なる有り・得ることの内で自己自身へ将来するという仕方で、開示する。〈然るに〉状況に属する手許 する場合のその来を、謂っているのである。先駆は現有を本に有るもののもとに覚悟を決めて有ることは、すなわち廻り 来的に将来的にし而も次の如き仕方で本来的に将来的にすの世界に現存するものを行為しつつ出会われしめることはた る、すなわちその仕方とは、現有が有りつつ有る現有としてだ、この有るもの〈すなわち廻りの世界に現存するもの〉を 総じて既に常に自己自身へ将来しており、すなわち彼の有に ' 現前することに於てのみ可能である。現前するという意味で 於て総じて将来的に有る限り、ただその限りに於てのみ先駆の現在としてのみ覚悟性は、それが有るところのこと〈すな
って構成的にある。話しつつ語ることには、聴くことと黙すて予め形成されているからである。話に於てそれについて話 ることとが、可能性として属している。これらの現象に於されるものは、常に一定の観点への注目の内でかつ一定の諸 て、実存の実存性にとって話のもっ構成的機能が初めて全き限界内に於て「話し掛けられ」ている。〈それから更に、〉如 仕方で明瞭になる。差当って先ず問題になることは、話その何なる話の内にも、話されたことそのこと〈つまり、話の内 ものの構造を明るみに取り出して仕上げることである。 容〉が、含まれており、その都度の願望することに於て問 話すことは、世界のⅡ内にⅡ有ること、そのことには、共うことに於て・ : について自分の考えを発言することに於て言 に有ることが〈本質的に〉所属しており、而もそのこと〈すわれたことそのことが、含まれている。この言われたこと なわち世界のⅱ内にⅡ有ること〉はそれ自身をその都度、配〈つまり、話の内容〉に於て、話は伝達されるのである。 慮しつつ共に相互に有ることの一定の仕方の内に保持してい 伝達という現象は、既に陳述の分析の際告示された如く、 るのであるが、そういう世界のⅡ内に = 有ることの理解可能或る有論的に広い意味に於て理解されねばならない。陳述す 性を「指示する」という仕方で分節することである。この共るという仕方での「伝達」は、例えば通知は、実存論的に根 に相互に有ることは、承諾するとか拒絶するとか、勧告すると本から明確に捉えられた伝達の一つの特別な場合である。こ か警告することとして、話しつつ有り、また討議するとか相の実存論的に根本から明確に捉えられた伝達に於ては、理解 談するとか代弁することとして、話しつつ有り、更には「供しつつ共に相互に有ることの分節が構成されるのである。 述をする」こととしてまた「演説をする」という仕方で話すその伝達は、共情態性と共に有ることの理解との「分割」を こととして、話しつつ有る。話すことは・ : についての話であ遂行する。伝達は、例えば諸々の意見とか願望とかいうよ る。〈何について話すかという〉話の何については、必ずし うな諸体験を、一個の主観の内面から他の主観の内面へと も、規定的陳述の主題という性格をもっとは限らず、それの運び送るようなことでは、決してない。共現有は本質上既 みならず大抵は、そういう性格をもっているのではない。命 に、共情態性と共理解とに於て顕わになっている。共に有る 令もまたーについて発せられており、願望も〈何かについて ことは話に於て「表明的ーに分たれるのであり、すなわち、 の願望として〉その何について、をもっている。代弁にもそ共に有ることは既に有るのであり、但しみ取られず自己の の何についてが欠けてはいない。話が〈何についてという〉ものとされない共に有ることとして分たれずに有るにすぎな この構造契機を必然的にもっているのは、話が、世界の内 : についての一切の話は、その話に於て話されたことに関 に = 有ることの開示性を、〈その他の諸契機と〉共に構成し ており、話自身の構造に関して、現有のこの根本体制に依っ して伝達するのであるが、その話は、それと同時に、それ自
480 この〈自己〉喪失性の内には、現有が、さきに先駆的覚れを、そしてそれから : ・」と。ここでは、時間の有限性など 悟性として特色づけられた彼の本来的実存に面しつっそれをは理解されておらず、逆に配慮は、これからまだ到来するとと もに「更に先へ行く」時間から出来るだけ多くのものを引手 覆蔽しつつ逃避するということが、表明されている。この配 慮された逃避の内には、死に面しつっそこから逃避すること繰ることを目掛けている。時間は、公開的には、誰でも自分の が、すなわち、世界の”内に日有ることの終末から眼を逸らすために取って来るそしてまた取って来ることの出来る或るも のである。水平化された今連続は個々の現有の時性からのそ ことが、含まれている。この・ : から眼を逸らすことはそのこ とそれ自身に於て、終末へ脱自的に将来的に有ることの様態の由来に関して、日常的な共に相互にという有り方の内では、 全く見分けられ得ないままに留まっている。「時間の内に」 の一つである。頽落的に日常的な現有の非本来的時性は、 終末的有限性からこのように眼を逸らすこととして、本来的直前に有る一箇の人間が最早実存しなくなっても、そのこと 将来性と従 0 てまた時性とを一般に見損わざるを得ない。更が如何にして「時間」にその〈すなわち「時間」の〉歩みに 関して些かでも係わるところがあろうか。一個の人間が「生 にその上、通俗的現有理解がひとに依って導かれるならば、 その場合に初めて公開的時間の「無限性」という自己忘却的れ出て来た」折、時間が既にまた「有った」ように、〈彼が な「表象」が牢固たるものになり得るのである。ひとは決死んでも、それに頓着なく〉時間は先へ進み続けて行く。 〈そのように〉ひとはただ公開的時間、それは水平化されて して死することがない、何故ならば、死が各自の私の死で あり而も本来的にはただ先駆的覚悟性に於てのみ実存的に理誰人にも属する時間、ということは、何人にも属さない時間 解される限り、ひとは死することをなし得ない、からであであるが、そういう公開的時間しか知らないのである。 併し乍ら、死に面しつっそれを回避することに於てさえも る。ひとは決して死することがなく、従って終末への有を誤 解しているが、それにも拘らす、ひとは、死に面しつっそこ死は逃避し行く者の後を附けて来るとともに、逃避し行く者 は背を反けることに於てまさしくやはり死を見ざるを得ない から逃避することに、或る一つの特徴的な解釈を与えている。 のと同様に、諸々の今のただ単に経過して行くだけの無害な ^ すなわちそれは次のように言われる〉終りまでには「まだ まだ時間がある、と。ここには、〈時間を〉浪費し得る〈す無限の連続でさえもやはり或る奇妙な謎めいた仕方で現有の なわち、文字通りには、時間を失い得る〉という意味での時「上に」のし掛かって来る。〈すなわち、〉吾々が、時は過ぎ 間がⅱある〈すなわち、時間をもっている〉ということが去ると言って、それと同じ位の強調を以って、時は生れて来 る、と言わないのは、一体何故であろうか。純粋な今連続へ ^ 次のように〉表明されている、すなわち、「今のところは 先すこれを、それから次にそれを、そして更にどうしてもあの着眼の内では、両方〈の言い方〉とも相等しい正当さを以
330 をせず、それのみならず、実にそのようなことを問題としてを負い得るのみならず、彼の有の根底に於て負目的に有り、 すら確定することをなし得ないでいるのは、一体何故であろそのような〈仕方で〉負目的に有ることが初めて、現有が事 うか。ひとは抑々曾って、無性〈すなわち、無いということ実的に実存しつつ負目的になり得ることの有論的制約を、与 の本質〉の有論的根源〈もしくは起源〉を問題にしたことが えているのである。この本質的な〈仕方で〉負目的に有るこ一 あるであろうか、或いはそれに先立って、次のような諸制約とが、〈事実的に諸々の負目を負うことを根源的に可能にす つまりそれらを根拠にしてその上で〈初めて〉無いというこ るのと〉等しく根源的に、「道徳的。な善と悪とを、すなわ ととそのことの〈本質たる〉無性とその無性の可能性とに関ち道徳性一般とその道徳性の事実的に可能な諸形成とを、可 する問題が立てられ得るところの諸制約、そういう諸制約だ 能にしている実存論的制約である。道徳性に依って、根源的・ けでも求めたことがあるであろうか。そしてそれらの諸制約な負目的に有ることは、規定され得ない、何故ならば、道徳一 は、有の意味一般を主題的に明らかにすることの内にでない 性はそれ自身のために既に、根源的な負目的に有ることを、 とすれば、その他の一体何処に見出され得るであろうか。 前提している、からである。 既に負目現象の有論的解釈のためにだけでも、欠如や欠陥 併し、一体如何なる経験が、現有のこの根源的な負目的に という〈不十分な諸概念にして〉更にその上に明透さに乏し有ることに味方して、語っているであろうか。併し乍ら、 い諸概念は、たとえそれらの諸概念が十分に形式的に捉えら〈ここに於て〉ひとは次の反問を忘れてはならない、すなわ れて広い範囲に及ぶ使用を許容するとしても、事足りない。 ち、負目はただ、負目の意識が目覚める場合にのみ、「現にー一 悪つまり善ノ欠如〈 privatio boni 〉としての悪〈 malum 〉と「有る」のか、それとも、負目が「睡っている」ことの内に いう理念にもとづいて〈研究の〉方向を定めることに依ってこそまさしく、根源的な負目的に有ることがそれ自身を告知 は、負目という実存論的現象に近づいてそれを会得することしているのではないかと。この根源的な負目的に有ることが は、最も不可能である。而もこのような聯関の内で総じて次差当って大抵開示されずに留まっており、現有の頽落的有に のことが見て取られねばならない、すなわちそのこととは、 依って閉じられたままに保たれているということ、このこと 善〈 bonum 〉も欠如〈 privatio 〉も、直前に有るものの有論 はただ、上述された無なること〈すなわち無的性格〉を露わ から出たという同じ有論的由来をもっており、そういう有論 にしているに他ならない。負目的に有ることは、そのことに 的由来は、そこから〈すなわち善から〉「抽出された」「価関する如何なる知よりも一層根源的に有る。そして、現有 値」という理念にも所属している、ということである。 が、彼の有の根底に於て負目的に有り、而も被投的に頽落しつ それの有が関心で有るところの有るものは、事実的な負目つある現有として、自己を彼自身に閉隠しているが故にのみ '
よりも一層甚だしく引き廻されるのであり、然もそれにも拘的に有ることに向って自己を企投することには、諸々の凶事 らず〈自己自身の〉運命を「もち」得ないのである。 に自己を任せる無力な超力が属しており、それ〈すなわち、 現有が先駆しつつ自己の内に死をして威力を揮わしめると かかる無力な超カ〉が運命であるが、運命は〈それ故〉、運 き、現有は、死に向って自由に開かれつつ、彼の〈終末的命を可能にする有論的制約として関心という有・の・体制を、 に〉有限な自由に属する自己自身の超力の内で自己を理解すなわち時性を、必要とする。或る有るものの有の内に、関 心の内に於けるが如き仕方で、死と負目と良心と自由と有限 し、この有限な自由、それはその都度ただ〈一か他かとい 性とが等根源的に同居している場合にのみ、その有るものは う〉選択を選んだということの内にのみ「有る」のである が、その自由の内で彼自身へ委ね渡されていることの無力を連命という様態に於て実存し得るのであり、すなわち、彼の 引き受け、〈かくして、〉開示された状況の諸々の偶然を諦視実存の根本に於て歴史的に有り得るのである。 ただ次の如き有るもの、すなわち、本質上彼の有に於て将 するに至る。併し、運命的な現有は世界のⅡ内に有ること 来的に有り、かくして彼の死に向って自由に開かれつつ死に として本質上、他の人々と共に・有ることの内に実存してい 当ってくだけて彼の事実的現へ投げ返され得る有るもの、す る以上は、彼の経歴は共経歴であり命運として規定されてい なわち、将来的に有るものとして等根源的に既有的に有ると る。命運ということで吾々が表示するのは、共同体の経歴で ころの有るもの、そういう有るものだけが遺産として相続さ あり、民族の経歴である。命運が個々の運命から集成される のではないことは、共に相互に有ることが幾人かの主体が一れた可能性を自己自身に伝承しつつ、自己の被投性を引き受 緒に集まって現われて来ることとしては把握され得ないのけることができ、かくして「彼の時代に向って」瞬間的に有 と、同様である。諸々の個々の〈人の〉運命は、同じ世界のり得る。ただ本来的な時性、それは同時に有限的に有るが、 性内に共に相互に有ることと一定の諸可能性に向って覚悟を決そういう時性のみが運命というようなことを、すなわち、本 歴めて開かれて有ることとに於て、初めから既に導かれている来的な歴史性を可能にするのである。 覚悟性が自己をそれらに向って企投するところの諸可能 のである。その〈すなわち、個々の運命と運命との相互の〉 時伝達と闘争との内で命運の威力は初めて自由に解き放たれる性、それらの諸可能性の由来に関して覚悟性が表明的に知っ 五のである。彼の「世代ーの内に於ける且っ彼の「世代」と共ているということ、そのことは必ずしも必要ではない。とは にする現有の運命的な命運が、現有の充全なる本来的経歴を いえ併し、現有が自己をそれに向って企投するところの実存 的な有り・得ることを、伝承された現有理解から表明的に取 成すのである。 沈黙しつつ不安を受け容れる心構えをして自己自身の負目 って来るという可能性、そういう可能性は現有の時性の内に