る、すなわちそのこととは、 1 ・ 理解することそれ自身が現齎らされた。自己で有り・得ることの本来性は、根源的実存 有の有の根本的有り方の一つを成しているということであ性への先ー見を保証し、根源的実存性は、それに適切な実存 り、 2 ・この有〈すなわち現有の有〉が関心として構成され論的概念性を型造することを確保する。 てあるということである。その循環を否認しようとしたり、 先駆的覚悟性の分析はそれと同時に、根源的にして本来的 その循環を秘めて置こうとしたり、況んや克服せんとしたり な真性という現象へ導いた。以前には、差当って大抵支配し することは、この誤認を最後決定的に牢固たるものにするこ ている有・の・理解が如何にして、有を直前性という意味に於 とを意味している。〈ここに於て〉努力はむしろ次のことをて把握しており、かくして真性の根源的現象を覆蔽している かが、示された。併し、真性が「有るー限りに於てのみ、有 目指さなければならない、すなわちそのこととは、根源的に 而も全体的にこの「環」の内へ飛び込み、かくして現有分析が「与えられてあり」而も真性の有り方に従って夫々、有・ の・理解が転化するとすれば、その場合には根源的にして本 の着手に於て既に現有の循環的なる有へ全き眼差しを確保し て置く、ということである。もしひとが無世界的な自我から師来的な真性が、現有の有の理解と有の理解一般とを保証する 「出発」して次にそういう自我に客観と客観への或る有論的に相違ない。実存論的分析の有論的「真性」は、根源的に実 に根拠の無い関係とを供給するとすれば、現有の有論にとっ存的な真性を根底にしてその上に形成されるのである。併し て「前提される」ことが多過ぎるのではなくして少な過ぎる乍ら、後者〈すなわち実存的な真性〉は必ずしも前者〈すな のである。「生ーが〈先ず〉問題にされ、それから次にまた折わち実存論的ⅱ有論的な真性〉を必要としない。最も根源的 な、根底定礎的な、実存論的真性、それに向って基礎的有論 に触れて死が顧みられるとすれば、その〈場合の〉眼差しは 余りにも近視的であゑもしひとが〈考察を〉「差当って」的な問題全体はー有・の・問一般を準備しつつー到らんと努力 「理論的主観」に制限し、それから次にその主観を「実践的するのであるが、そういう最も根源的な根底定礎的な実存論 側面に関して」附け足し的に添加された「倫理学」に於て補的真性は、関心の有・の・意味の開示性である。この意味を露 完するとすれば、主題とされる有るもの〈すなわち現有〉開するためには、関心の構造成分の全き全体を狭めることな く用意して置くことが必要である。 は、人工的に独断的に剪定されているのである。 ( 1 ) 第四五節二三二頁参照。 以上のことで、現有の或る根源的な分析論〈を可能にする ( 2 ) 第五節一五頁参照。 ところ〉の解釈学的状況のもっ実存論的意味を明らかにする ( 3 ) 第四三節二〇〇頁以下、参照。 ことには足りるであろう。先駆的覚悟性を明るみに取り出す ( 4 ) 二一二頁と一一七頁参照。 ことを以って、現有は彼の本来的全体性に関して先持の内へ ( 5 ) 第三二節一五二頁以下、参照。
第三巻 ( 一九二三年 ) 一頁ー三六頁所載のニコライ・ ハルトマン たのである。根源的時性のさきに分析された諸々の時熟可能 のそういう標題を附せられた論文参照。 性から、以前にはただ辛うじて「明示されたーに過ぎなかっ ( ) ヘーゲル「論理学」第二巻 ( ラッソン版、一九二三年 ) 第 た諸構造は、それらの「根拠づけ」を取得したのである。併 二部二二〇頁参照。 し、現有の有・の・体制を明るみに取り出すことは、それにも 信 ) 同書同頁。 拘らず、依然として一つの道程に過ぎないのである。目標は ( 貯 ) ヘーゲル「歴史に於ける理性。世界史の哲学への序論」 有・の・問一般を徹底的に仕上げることである。実存について ( ゲォルク・ラッソン版、一九一七年 ) 一三〇頁参照。 の主題的分析論もそれ自身の側に於て、予め明らかにされた ( ) 同書一三二頁。 ( 四 ) 同書同頁。 有・の・理念一般から出て来る光を先ず必要とする。このこと ( ) 同書同頁。 は、序論の中で語り出された次の命題が如何なる哲学的研究 ( 幻 ) 『精神現象学全集」第二巻六〇四頁参照。 にとってもその基準尺度として堅持される場合、その場合に ( ) 「歴史に於ける理性」前掲版、一三四頁参照。 は特に該当する、すなわちその命題とは、哲学は普遍的な現 ( ) 「エンチュクロペディー」第二五八節参照。 象学的有論であり、現有の解釈学から出発する、現有の解釈 ( ) 『精神現象学」前掲版、六〇五頁参照。 学は実存の分析論として一切の哲学的に問うことの手引の終 りを、次のところに、すなわちそこから哲学的に問うことが 第八三節現有の実存論的ⅱ時性的分析論と 発源するとともにそこへそれが脈搏ちつつ帰るところに、確 有の意味一般への基礎的有論の問 乎として繋ぎ留めているのである、という命題である。勿論 このテーゼも、ドグマとして見做されてはならず、なお「包 これまでになされて来た諸考察の課題は、事実的現有の根み隠されている」根本から決定的な間題の方式化として見做喞 源的全体を、本来的に実存することと非本来的に実存するこ されねばならない、すなわちその問題とは、有論は有論的に とという可能性に注目して実存論的有論的に、事実的現有根拠づけられ得るのか、それとも有論は、有論的に根拠づけ の根源的全体の根底〈すなわち根拠〉から解釈することであられ得ることのためにも、何等かの有的基礎を必要とするの った。この根拠として、従って関心の有・の・意味として、時 か、更にまた一体如何なる有るものがその基礎づけという機 性が顕わになった。それ故、現有の準備的な実存論的分析論能を引き受けねばならないのか、という問題である。 が時性の露開に先立って調えて置いた事柄は、今や現有の有・ 非現有的に有るものの有 ( 例えば、実在性 ) に対しての実 の・全体性の根源的構造の内へ、つまり時性の内へ回収され存する現有の有の〈示す〉区別というような一見して直ちに
うということから生じて来たものではなく、而もその基礎の 〈学の〉根底を定めることは次の如き意味に於て生産的な論 上に成り立っ概念的規定の全体は、神学的な問題の中心点に理学である、すなわちその意味とは、そういう根底を定める とってはそれに届かないのみならず、それを覆蔽し歪めてし ことは、或る一定の有・の・領域の内へいわば〈学より〉先に まう、という洞察である。 飛び込み、その領域をそれの有・の・体制に関して初めて開示 根本諸概念とは次の如き諸規定である、すなわち、或る一 し、〈かくして〉獲得されたその〈領域の有の〉諸構造を、 つの学の主題とされるすべての対象の根底に存する事象領域 問を導く諸々の透徹した指針として、実証的諸学に役立た が、〈実証的研究に〉先行するとともに而も一切の実証的研しめる、ということである。かくして、一例を挙げれば、晢 究を導く理解へと、それらの内で、齎されて来るところの 学的に第一次的なことは、歴史学のなしている概念形成に関 諸規定である。従って、これらの〈根本諸〉概念が、それら する理論でもなければ、歴史学的認識に関する理論でもな の真正な仕方での〈身分、出所の〉証示と「根拠づけーとを く、更にまた歴史学の客観としての歴史に関する理論でもな 得るということ、そのことはただ、その事象領域それ自身を くして、本来的な意味で歴史的に有るものをそれの歴史性に 〈上記の根本諸概念に〉相応した先行的な仕方で徹底的に探向って解釈することである。かくして、カントの純粋理性批 究すろ ) ことに於てのみ、なされるのである。然るに、これら 判の挙げた積極的収穫にしても、自然一般に何が属するか の各領域が孰れも、有るものそれ自身の圏域から得られてい を、明るみに取り出すという仕事に着手したということに、 る限り、そのような先行的にして而も根本諸概念を汲み取る存するのであって、認識の「理論」というようなことに、存 探究とは何を意味するかといえば、それは、この有るものをするのではない。彼のいう超越論的論理学は、自然という それの有の根本体制に向って解釈することに他ならない。そ有・の・領域に関するア。フリオリな事象論理学である。 のような探究は諸々の実証的な学に先き駆けねばならず、而 併し、そのような仕方〈すなわち、前の段落で述べられた もそれはそういう先駆をなし得る。。フラトンとアリストテレ ような仕方〉で問うことはー所謂諸々の存在論的流派とか傾 スとの仕事は、そのことを証拠立てている。そのような仕方向とかに依倚することなしに、最も広い意味に於て解せられ で諸学の根底を定めることは、或る一つの学の〈それが現在た有論であるがーそれはそれ自身もう一つの手引を必要とす 偶々このようになっているという〉偶然的状態をその学のる。有論的に問うことは、実証的諸学がなしている有的に 「方法」に向って〈すなわち、方法に着眼して〉研究する 問うことに較ぶれば、慥かに一層根源的である。併し、有論 「論理学」すなわち学の後から跛足を引き引き追躡する「論的に問うことは有るものの有に関する諸々の探究となるが、 理学」から、根本からきつばりと区別される。このようなその場合それらの探究が有の意味一般を究明されないままに
330 をせず、それのみならず、実にそのようなことを問題としてを負い得るのみならず、彼の有の根底に於て負目的に有り、 すら確定することをなし得ないでいるのは、一体何故であろそのような〈仕方で〉負目的に有ることが初めて、現有が事 うか。ひとは抑々曾って、無性〈すなわち、無いということ実的に実存しつつ負目的になり得ることの有論的制約を、与 の本質〉の有論的根源〈もしくは起源〉を問題にしたことが えているのである。この本質的な〈仕方で〉負目的に有るこ一 あるであろうか、或いはそれに先立って、次のような諸制約とが、〈事実的に諸々の負目を負うことを根源的に可能にす つまりそれらを根拠にしてその上で〈初めて〉無いというこ るのと〉等しく根源的に、「道徳的。な善と悪とを、すなわ ととそのことの〈本質たる〉無性とその無性の可能性とに関ち道徳性一般とその道徳性の事実的に可能な諸形成とを、可 する問題が立てられ得るところの諸制約、そういう諸制約だ 能にしている実存論的制約である。道徳性に依って、根源的・ けでも求めたことがあるであろうか。そしてそれらの諸制約な負目的に有ることは、規定され得ない、何故ならば、道徳一 は、有の意味一般を主題的に明らかにすることの内にでない 性はそれ自身のために既に、根源的な負目的に有ることを、 とすれば、その他の一体何処に見出され得るであろうか。 前提している、からである。 既に負目現象の有論的解釈のためにだけでも、欠如や欠陥 併し、一体如何なる経験が、現有のこの根源的な負目的に という〈不十分な諸概念にして〉更にその上に明透さに乏し有ることに味方して、語っているであろうか。併し乍ら、 い諸概念は、たとえそれらの諸概念が十分に形式的に捉えら〈ここに於て〉ひとは次の反問を忘れてはならない、すなわ れて広い範囲に及ぶ使用を許容するとしても、事足りない。 ち、負目はただ、負目の意識が目覚める場合にのみ、「現にー一 悪つまり善ノ欠如〈 privatio boni 〉としての悪〈 malum 〉と「有る」のか、それとも、負目が「睡っている」ことの内に いう理念にもとづいて〈研究の〉方向を定めることに依ってこそまさしく、根源的な負目的に有ることがそれ自身を告知 は、負目という実存論的現象に近づいてそれを会得することしているのではないかと。この根源的な負目的に有ることが は、最も不可能である。而もこのような聯関の内で総じて次差当って大抵開示されずに留まっており、現有の頽落的有に のことが見て取られねばならない、すなわちそのこととは、 依って閉じられたままに保たれているということ、このこと 善〈 bonum 〉も欠如〈 privatio 〉も、直前に有るものの有論 はただ、上述された無なること〈すなわち無的性格〉を露わ から出たという同じ有論的由来をもっており、そういう有論 にしているに他ならない。負目的に有ることは、そのことに 的由来は、そこから〈すなわち善から〉「抽出された」「価関する如何なる知よりも一層根源的に有る。そして、現有 値」という理念にも所属している、ということである。 が、彼の有の根底に於て負目的に有り、而も被投的に頽落しつ それの有が関心で有るところの有るものは、事実的な負目つある現有として、自己を彼自身に閉隠しているが故にのみ '
352 れ自身を理解するのである。従って、この理解はそれ自身をて、負目的に・有り・得ることを、本来的にして全体的に、す 現有の或る一つの根源的な可能性の内で保持している。このなわち根源的に理解するのである。 理解がそれ自身をこの根源的な可能性の内で本来的に保持す 良心の喚び声を理解することは、ひと〈という有り方〉の るのは、覚悟性が根源的に、それ〈すなわち覚悟性それ自内へ〈自己が〉喪失されていることを露わにする。覚悟性は 身〉がそれで有らんと志向的に動向するところのことで有る現有を、彼の最も自己的なる〈仕方で〉自己で・有り・得るこ 場合である。然るに、現有が彼の有り・得ることへ根源的に とへ向って取り返す。死への有を最も自己的なる可能性とし 有ることを、吾々は、死への有としてすなわち現有のさきに て理解しつつある死への有、そういう死への有に於て、自己 性格づけられた卓抜なる可能性への有として露わにした。先自身の有り・得ることは本来的にして全体的に徹見され得る 駆はこの可能性を可能性として開示する。それ故、覚悟性は ように成る。 先駆的覚悟性として初めて、現有の最も自己的なる有り・得 良心の喚び声は喚び掛けに於て、現有の一切の「世間的」 ることへ根源的に有ることに成る。覚悟性がそれ自身を死へ な声望や能力を踏み越える〈すなわち超越する〉。その喚び の有として「資格づける」時、その時初めて覚悟性は、負目的声は現有を容赦なく彼の負目的に有り・得ることへと孤立化 に・有り・得ることに属する「得る」ということを理解する。 し、その喚び声は現有に、本来的な仕方で彼の負目的に有 り・得ることで有ることを、否応なしに求めて来る。最も自 覚悟が決まった時、現有は、彼が彼の無なることの無なる 根拠で有ることを、彼の実存に於て本来的に引き受ける。死己的なる有り・得ることへの本質的孤立化の不壊の錏さを開 を吾々は、さきに性格づけられたる、実存の不可能性の可能示するのは、〈他者と〉没交渉な可能性としての死への先駆 性〈すなわち実存を不可能にする可能性〉として、すなわちである。先駆的覚悟性は、負目的に・有り・得ることを最も自 現有の端的なる無なることとして実存論的に把握した。死は己的にして没交渉なる有り・得ることとして全体的に、それ 自身の良心の内へどくどくと脈搏たしめる。 現有に彼の「終末」に際して継ぎ足されるのではなくして、 関心として現有は彼の死の被投的な ( すなわち無なる ) 根拠 良心を持せんとⅱ意志することは、最も自己的なる負目 で有る。現有の有を根源から徹底的に支配している無なるこ的に有ることへ向って喚び掛けられる〈ことを受け容れる〉 とは、死への本来的有に於て現有それ自身に露わになる。先心構えをしていることを意味しており、その最も自己的なる 駆は、負目的に有ることを、現有の有全体の根本から初めて負目的に有ることはその都度既に事実的現有を、如何なる事 顕わにする。〈かくして現有の有たる〉関心はそれ自身の内実上の負課よりも先に且っ如何なる事実上の負課の償却の後 に死と負目とを等根源的に蔵している。先駆的覚悟性が初め にも規定していた。この〈一切の事実上の負課よりも〉先行
り得るところの可能性、そういう可能性へ覚悟性が関わり合その可能性とは、不断に確実でありながらも、然も何時その うという仕方である。〈然るに〉現有は彼の死に於てそれ自可能性が不可能性に成るかという点に於ては、如何なる瞬間 身を端的に「撤回せ」ざるを得ない。そのこと〈すなわち、 に於てもどこまでも不定である可能性である。その可能性 彼の死に於てそれ自身を端的に「撤回」せざるを得ないこ は、〈現有という〉この有るものが、彼の「限界状況」の不 と〉を不断に確知しつつ、すなわち先駆しつつ、覚悟性はそ定性つまりそれへ向って覚悟を決めていることに於て現有が れ自身の本来的にして全体的な確知性を獲得する。 彼の本来的に全体的に・有り・得ることを獲得するところの 併し、現有は〈真性の内に有ると〉等根源的に非真性の内彼の「限界状況 , の不定性の内へ投げ入れられて有ること に有る。〈それ故、〉先駆的覚悟性は現有に同時に、彼の閉隠を、顕わにする。〈然るに〉死の不定性が根源的に開示され 性〈すなわち非真性〉を根源的に確知することを与える。ひるのは不安の内に於てである。そしてこの根源的不安を覚悟 と〈という有り方〉の不覚悟性の内への〈自己〉喪失性は現性は自己に負わさんとする。この根源的不安は、現有が彼自 有自身の有の根本から可能になる不断の〈自己〉喪失性であ身に委ねられていることから〈そのことを覆い隠している〉 るが、そういう〈自己〉喪失性へ向って、現有は先駆しつつ 如何なる覆蔽をも除去する。不安が直面せしめる無は、現有 覚悟を決めて、それ自身を開け放ちつつ保持する。〈すなわを彼の根底に於て、その根底それ自身は死の内への被投性と ち〉不覚悟性は現有の不断の可能性として〈覚悟性と〉共して有るのであるが、そういう彼の根底に於て規定している に確知されてある。自己自身を徹見せる覚悟性は、有り・得無性を、露わにする。 ることの不定性がその都度ただその都度の状況への覚悟せる 分析が〈今まで〉順次に露わにして来たのは、最も自己的 決意に於てのみ規定されることを、理解している。自己自身なる、〈他と〉没交渉なる、追い越し得ない、確実にして然 を徹見せる覚悟性は、実存する有るものを徹底的に支配しても不定なる可能性としての死、そういう死への本来的有から いる不定性を承知している。併し、〈不定性を承知するとい 生じて来る様態化の諸契機であり、覚悟性はそれ自身からか う〉この知は、それが本来的覚悟性に相応せんとするなら かる様態化へ向って行くのである。覚悟性がそれが有り得る ば、その知それ自身が、本来的に開示することから発源しな ところのことで本来的にして全体的に有るのはただ〈かかる ければならない。然るに、覚悟せる決意に於てその都度確実様態化に於て成立する〉先駆的覚悟性としてのみである。 になるとはいえ自己自身の有り・得ることの不定性は、死へ 併し逆にまた、覚悟性と先駆との間の「聯関」の解釈に依 の有に於て初めて全体的に顕わになる。〈かくして〉〈死へ って初めて、先駆それ自身の全き仕方での実存論的理解が達 の〉先駆は現有を次の如き可能性に直面せしめる、すなわち成されたのである。これまでは先駆についての実存論的理解
そのようにして先ず十分に明らかにされた関心という現象 て、尖鋭化された刺衝を研究に賦与するためである。 真正なる方法は、開示されるべき対象の、乃至は対象圏域に、吾々は次にその現象の有論的意味に向って間い掛ける。 の、根本体制への適切な予見に基づいている。それ故、真正この意味を規定することは、時性を露開することに成る。 性な方法的省察はーそれは〈研究〉技術に関する諸々の〈内〈時性を証示するという〉この証示は、現有の遠く離れたと の容〉空虚な論究からは 0 きりと区別されるべきであるがーそころにある特別な圏域の内へと導くのではなくして、この証 」れは同時に、主題とされる有るものの有り方について開明を示はただ、現有の実存論的根本体制を構成している現象的構 造成分全体を、現有自身の有論的理解可能性の究極的諸基礎 与えるのである。実存論的分析論の方法に関する諸可能性と 諸要求と諸限界とを総じて明らかにすることは、その分析論に関して概念的に把握するに他ならない。現象的に根源的に の根底を日露開する歩みのために、つまり関心の有・の・意時性が経験されるのは、現有の本来的に全体で・有ることに む味を露わにすることのために、必要なる透見性を初めて確保即してであり、つまり先駆的覚悟性という現象に即してであ 関 る。このことの内で〈すなわち先駆的覚悟性に於て〉時性が するのである。併し、関心の有論的意味の解釈は、現有のこ と れまでに明るみに取り出された実存論的体制を全き仕方でかそれ自身を根源的に現わすとすれば、先駆的覚悟性〈を構成 と っ不断に現象学的に歴々と現前に表わすことを根底としてそしているところ〉の時性は、時性それ自身の或る一つの卓抜 る 得 なる様態であると推定される。時性はさまざまな可能性とさ の上で遂行されねばならない。 有現有は、一切の直前に有るものと実在的なるものとから有まざまな仕方とに於て時熟し得る。実存の根本的諸可能性っ まり現有の本来性と非本来性とは、有論的には、時性の諸々 物論的に根本から決定的に異なっている。現有の「存立ーは、 全或る実体の実体性に基づいているのではなくして、それの有の可能なる時熟の仕方に基づいている。 頽落的な有・の・理解 ( 有日直前性〈すなわち新版では直 がさきに関心として概念的に把握されたところの実存する自 前に有ることとしての有〉 ) の優越のもとでは現有自身の有 本己の「自立性ーに基づいている。関心の内に一緒に含まれて の有論的性格が既に現有から遠く離れているとすれば、その 有いる自己という現象は、非本来的なひと〈という有り方〉 現 のⅡ自己を準備的に証示したことに対照して、或る一つの根場合にはこの有〈すなわち現有の有〉の根源的諸基礎は更に 一一一源的にして而も本来的な実存論的境界づけを必要とする。そ一層遠く離れている。それ故、一見したところ時性が、通俗 第 のことと提携して、自己が実体でもなければ主体でもないと的理解にとって「時間」として知られ得ているものに、対応 すれば、総じて「自己」へ向けられるべき諸々の可能なる有しないとしても、何等驚くには当らない。それ故に、通俗的 時間経験に属する時間概念とそういう時間経験から生い立っ 論的問の確定がなされるのである。 こ
軽視してきた、のではないか、すなわちそのこととは、現有 4 が、漫然と彼の日々を生きて行くことに於て彼の日々の継続 第五章時性と歴史性 の内で「時性的に」伸張しているということである。〈日常 性の性格たる〉一様さ、習慣、「昨日のように、そのように 今日も明日も」ということ、「大抵」ということ、それらは、 第七一一節歴史の問題の実存論的 = 有論的な 現有の「時性的」伸張へ立ち帰って行くことなしには、捉え 簡潔にして根本からの展開 られ得ない。 更に、実存する現有にはまた次の事実も〈本質的に〉属し 実存論的分析論に属する労苦に満ちた一切の仕事は唯一つ ているのではないか、すなわちそれは、現有は彼の時を過ご の目標、つまり有の意味一般への問に答えることの何等かの しつつ日々に「時間」に考慮を払って〈すなわち「時間を可能性を見出そうという目標に向けられている。この問を仕 広い意味での計算の内に入れて〉おり、而もその「計算」を上げることには、次の如き現象つまりその現象それ自身の内 天文学的暦法的に規正している、という事実である。〈そで有というようなことが通路づけられ得るようになるところ れ故〉吾々が、現有の日常的「経歴」とこの経歴の内で現有の現象たる有・の・理解を境界づけることが、要求される。然 に依って配慮されていることつまり「時間」を考慮しつつ計 るに、有・の・理解は現有の有・の・体制に属している。〈それ 算することとを、現有の時性の解釈の内へ取り入れる場合に 故〉〈現有という〉この有るものが前以って十分に根源的に 初めて、その〈解釈の〉方向づけは、日常性としての日常性解釈されている場合、その場合に初めて、この有るものの の有論的意味を問題になし得るに足る程、包括的に成るであ有・の・体制の内に包み込まれている有・の・理解それ自身が概 ろう。併し乍ら、日常性という呼称に依って謂われているこ 念的に把握され得るとともに、更にこの有・の・理解を根拠に とは根本に於て時性に他ならず、然も時性は現有の有を可能 して、有・の・理解に於て理解されている有とこの〈すなわ にしているが故に、日常性を十分に行き届いた仕方で概念的ち、有の〉理解〈を可能にしているところ〉の「諸前提」と に境界づけることは、有の意味一般と有の意味の可能なる諸への問が、立てられ得るのである。 転化態とを根本から決定的に究明することの枠内に於て初め 個々の点に於て現有の多くの諸構造がなお暗がりの内に包 て成し遂げられ得るであろう。 まれているとはいえ、それでも、関心を可能にしている根源 ( 1 ) 第九節四二頁以下、参照。 的制約として時性を闡明することを以って、〈基礎的有論を 仕上げるために〉必要とされていた現有の根源的解釈は達成
なわち、真性が直前に有るという有り方〉とこの有り方の差に属する真性を純粋な直観的思惟〈 ?v> にまで拡張すると 当って出会われる構造とが根源的であるか否か、という問 いう位置〈すなわち、立場〉に、入って来ることも決してな は、総じて生き生きとした問になり得ないのである。〈か かった。感覚〈 q03 ◇の「真性」と「諸々のイデアーを くして、〉現有のもっている有・の・理解而も差当って支配的観ることの「真性ーとが、根源的な〈仕方で〉発見すること であるとともに今日でもなお根本から決定的に表明的に克服である。そして直観的思惟合◇が第一次的に発見する が故に、悟性的〈比量的〉思惟〈 5 ミ〉としてのロゴス . されてはいない有・の・理解〈すなわち、有の意味一般ⅱ直前 に有ること、という有・の・理解〉が、それ自身真性の根源的〈。◇もまた、発見機能をもち得るのである。 現象を覆蔽しているのである。 真性の生来の「所在」は判断である、というテーゼがアリ 併し、それと同時に看過されてはならないことは、この差当ストテレスを拠処として引き合いに出すのは、不当であるの っての有・の・理解〈すなわち、有直前に有ること、というみならず、そのテーゼは、その内実に従っても、真性の構造 理解〉を、初めて学的に形成したとともに支配的地位に齎らの一つの誤認である。陳述が真性の第一次的「所在」である したギリシャ人達のもとでは、それと同時に、真性の、前有のではなくして、逆に、陳述は、被発見性を自己のものとす 論的とはいえ、根源的な理解が、生きており、而も〈真性のることの様態として而も世界の内に有ることの有り方と その根源的理解は〉彼等の有論の内に含まれている覆蔽に反して、現有が発見するということに、或いはむしろ現有が聞 対してー少なくともアリストテレスに於てはーそれ自身を主示されてあるということに、基づいているのである。〈それ 故、上記のテーゼとは逆に、〉最も根源的な「真性」こそ、陣 、い張していた、ということである。 関 述の「所在ーであり、而も陳述することが真或いは偽 ( 発見 の アリストテレスは、真性の根源的所在は判断である、とい しうテーゼを、決して主張しなかった。彼が言っていることは的或いは覆蔽的 ) で有り得るということを、可能にする有論 むしろ、ロゴス〈。◇は現有の有り方であり、つまり発的制約である。 真性は、最も根源的な意味に於て理解されるならば、現有 有見的に、然らずんば、覆蔽的に有り得る有り方である、とい うことである。この二重の可能性は、ロゴス〈 x67 。◇の真で有の根本体制に属している。〈真性という〉その標題は一つの 六ることに存する際立った特質であり、ロゴスは、覆蔽するこ実存疇を意味している。そうならば、そのことに依って、真 第 とをもなし得る〈現有の〉態度である。そしてアリストテレ性の有り方への問と「真性が〈与えられて〉ある」という 〈ことを〉前提〈せざるを得ないということ〉の必然性の意 スは、〈真性の根源的所在は判断であるという〉上記のテー ゼを決して主張しなかったが故に、彼はまた、ロゴス〈こ 7 。◇味への問とに応ずる答が、既に予めその輪郭が規定されてい
制 て来る問題全体とは、吟味されることなしに、或る一つの時 ( 第六三節 ) 、関心と自己性 ( 第六四節 ) 、関心の有論的意味と 間解釈の適切性の判別基準としての機能を発揮することは出しての時性 ( 第六五節 ) 、現有の時性と時性から発源して来 来ないのである。むしろ〈反対に〉研究は予め先行的に、時る実存論的分析の根源的反復に属する諸課題 ( 第六六節 ) 。 ( 1 ) 第五八節二八〇頁以下、参照。 性という根源的現象と親しくなりその現象に習熟していなけ ればならないのであり、それから〈時性という〉根源的現象 にもとづいて通俗的時間理解の必然性と起源の仕方とを、更 第六二節先駆的覚悟性としての現有の実存 に同様にして通俗的時間理解の支配の根拠をも、闡明するに 的に本来的な全体的に・有り・得る 至るのである。 こと 時性という根源的現象を確保することは次のことを確証す ることに依って遂行される、すなわちそのこととは、現有のこ 覚悟性は、それの最も固有な有・の・動向に呼応しつつ「終 れまでに明るみに取り出された一切の基礎的諸構造は、それりまで思惟される」ならば、一体如何なる点に於て、死への らの可能的な全体性と統一性と展開とに注目して見られるな本来的有に至るであろうか。良心を持せんとれ意志するこ らば、根本に於て「時性的」に有り、かくして時性の時熟の諸とと現有の実存論的に企投された本来的なる全体的に・有り・ 様態〈すなわち時熟の諸々の仕方〉として概念的に把握され得ることとの間の聯関は、一体如何に把握されるべきであろ るべきである、ということである。かくして、実存論的分析論うか。両者を鍛接することは或る新しい現象を結果として生 にとって、時性の露開にもとづいて次の課題が生じて来る、すずるであろうか。或いはそれとも事態は、覚悟性つまりそれ なわちその課題とは、既に遂行された現有の分析を、〈その分の実存的可能性に関して証されたる覚悟性のもとに終始して 析に依って明るみに取り出された現有の〉本質的諸構造をそおり〈すなわち覚悟性からその外へ出ることを要しないよう れらの時性に向って解釈するという意味に於て、反復すると になっており〉而もその覚悟性が死への有を通して或る一つ いう課題である。この課題に依って要求される諸分析の諸々 の実存的様態化〈すなわち実存的にその有り方を変えるこ の根本方向は、時性それ自身が予めそれらの輪郭を規定してと〉を受け得るという風になっているのであろうか。併し、 いる。従って本章は以下の如くに区分される、すなわち、先駆覚悟性という現象を実存論的に「終りまで思惟する」とは、 的覚悟性としての現有の実存的に本来的なる全体的に・有り・ 一体何を謂っているのであろうか。 得ること ( 第六二節 ) 、関心の有・の・意味の解釈のために獲 覚悟性は〈さきに〉、最も自己的なる負目的に有ることへ 得された解釈学的状況と実存論的分析論の方法的性格一般向ってそれ自身に不安をⅡ課しつつ沈黙してそれ自身を企