何が保証しているであろうか。而も、このことについては吾「過去ーが開示されてある時にのみ、可能である。過去を歴 史学的に現前化するための十分な資料が使用され得るように Ⅷ吾は如何なる決定をも差し控えて置くが、事実上行われてい る研究の遣り方が歴史学の根源的にして本来的な概念を代表なっているか否かは、なお全く度外視するとしても、それで しているとした場合ですら、それでもその概念は、歴史学のもやはり、過去の内へ歴史学的な仕方で帰って行くために 既に理解されている理念を手引にしてのみ、事実に即して は、総じて過去への道が開かれていなければならない。その 「発見」され得ることになるであろう。併し乍ら逆に、歴史ような道が開かれているということ、更にまたそのことが如 学の実存論的理念は、歴史学者が彼の事実上の〈研究の〉遣何にして可能になるのかということ、そういうことは決して り方がその理念と一致することを確証しても、そのことに依明るみに出ているのではない。 って一層高い正当さの内に置かれるのではない。更にまた、 然るに、現有の有が歴史的で有り、すなわち、脱自的地 歴史学の実存論的理念は、歴史学者がそのような一致に反論平的時性に基づいて彼の既有性に関して開かれて有る限り、 しても、そのことに依って「虚偽」になるのでもない。 実存の内で遂行され得る「過去」の主題化ということは、総 学としての歴史学の理念の内には、歴史学が、歴史的に有じて開かれた軌道をもっている。そして、現有が而も現有だ るものを開示することを、それ自身の課題としてみ取ったけが根源的に歴史的に有るが故に、歴史学的主題化が探究の ということが、含まれている。如何なる学も第一次的には、 可能的対象として予め呈示するものは、現に既に有った現有 主題化ということに依って構成される。〈主題化乃至はそれという有り方をもたざるを得ないのである。〈然るに〉世界 に依って構成される学の内に於ては、〉開示されつつ世界の の“内に有ることとしての事実的現有とともに、その都度 内に = 有ることとしての現有に於て前学間的な仕方で熟知さ また世界Ⅱ歴史が有る。前者〈すなわち事実的現有〉が最早 れている事柄が、その事柄の特有な有に向って企投される。 現に有るのではなくなるならば、その場合には、世界もま この企投を以って、有るものの領域が限界づけられる。その た、現に既に有ったという有り方になる。このことに次のこ 有るものへの諸々の通路は、それらの方法上の「導き」を受とは背反しない、すなわちそのこととは、以前に内世界的に け取り、その解釈の概念的規定全体の構造は、それの〈輪郭有った手許に有るものが、それにも拘らず〈すなわち、その を予め規定する〉予描を獲得する。「現代史」が可能である世界が最早現に有るのではないにも拘らず〉未だなお過ぎ去 か否かの間を差し控えて、吾々が歴史学に「過去ーを開示すらずして、現に既に有った世界に属する過ぎ去らぬものとし ることを課題として割り当てるとすれば、その場合には、歴て、現代にとって「歴史学的に」目前に見出され得るように なる、ということである。 史を歴史学的に主題化することはただ、総じてその都度既に
449 されて有る。可能的なるものを反復しつつ摂取同化すること意することと共こ、目、 冫けカれる状況である。〈要するに、〉歴史 の内には、それと同時に、現に既に有った実存つまりみ取ら的実存の本来的開示性 ( 「真性しから、歴史学的真性の可能 れた〈自己の〉可能性がそれに於て顕わになったところの実性と構造とが展開されるべきである。然るに、歴史学的な諸 存、そういう現に既に有った実存を尊崇しつつ保存すること 科学の根本諸概念は、それらがそれら諸科学の諸々の客観に の可能性が、予めその輪郭を規定されつつ含まれている。そ関するにせよ、それらの客観を扱う取り扱い方に関するにせ れ故に本来的歴史学は記念碑的歴史学として、〈同時に〉「尚よ、〈孰れも〉諸々の実存概念であるが故に、〈歴史学的な〉 古的」である。現有は、将来と既有性との統一に於て現在と精神諸科学を考察する理論は、現有の歴史性についての何等 して時熟する。この現在は、現今ということ〈つまり現代〉 かの主題的に実存論的な解釈を前提にしているのである。現 を開示し、而も瞬間として現今を本来的に開示する。然るに有の歴史性についてのそのような主題的解釈こそ、ウイルへ この現今が、或る一つの担み取られた実存可能性を将来的ルム・ディルタイの研究活動がそれに益々接近せんと努めて にⅱ反復しつつ理解することから解釈されている限り、本来 いた不断の目標であり、更にまたその目標は、ヨルク・フォ 的歴史学は現今を脱現在化することになり、すなわち、苦悩 ン・ワルテン・フルク伯爵の諸考想に依って一層鮮烈に照明さ しつつ現今の頽落的公開性から自己を解き離すことになる。 れている。 〈かくして〉記念碑的尚古的な歴史学は本来的歴史学とし ( 1 ) 歴史学的理解の構成については、エドウアルト・シュプラ ては、必然的に「現代ーの批判である。〈それ故〉本来的歴 ンガー「理解についての理論と精神科学的心理学とに寄せて」 史性が、歴史学の三つの有り方の可能的統一の基礎である。 「ヨハネス・フォルケルトのための記念論文集」 ( 一九一八年 ) 三 然して本来的歴史学の基礎〈がその内に据えられているとこ 五七頁以下、参照。 ろ〉の地盤は、関心の実存論的有・の・意味としての時性であ る。 第七七節歴史性の問題の先述の展開とウィ ルヘルム・ディルタイの諸探究及 歴史学の実存論的日歴史的起源を具体的に現示することは、 びヨルク伯の諸考想との聯関 〈歴史学という〉この学を構成している主題化を分析すると いう仕方で遂行される。歴史学的主題化はその主要部分を、 次の如き解釈学的状況を徹底的に形成することの内にもって 歴史の間題に関して以上に遂行された分析的解明は、ディ おり、すなわちその解釈学的状況とは、歴史的に実存する現有ルタイのなした仕事を摂取同化することから生じて来た。そ が現に既に有った現有を反復するという仕方で開示せんと決の分析解明は〈また〉、ヨルク伯の幾つかのテーゼ、それら
掲箇所 ) 第一二三節以下二五五頁以下参照。 つの言葉〈すなわち、国語〉が成長したり崩壊したりするこ とは、有論的には一体何を意味するのか。吾々は言語学とい 現の日常的有と現有の頽落 うものを所有している、が併し、その学が主題としている有 るもの〈すなわち、言葉〉の有は暗がりに留まっている、そ れのみならず、言葉の有への研究的な問のための地平すら包 世界のⅡ内にⅡ有ることの開示性の実存論的諸構造への帰 み隠されている。諸々の意義が差当って大抵は「世界的」な り行きに於て、解釈は或る仕方で現有の日常性を見失ってし 意義であり、つまり世界の指示性に依って予め描かれた意義まった。分析は、〈現有の日常性という〉この主題的に着手 であり、それのみならず実に屡々著しく「空間的」な意義で に於て設定された現象的地平を、再び取り返さなければなら さえあるということ、そのことは偶然であろうか、それと ない。今や次の如き問が起こってくる、すなわちそれは、世 も、この「事実ーは実存論的日有論的に必然的であろうか、 界の日内にⅡ有ることが日常的にそう有ることとして、ひと また〈もしそうであるとすれば、〉何故〈に必然的〉であろう という有り方の内にそれ自身を保持している限り、世界のⅡ か。〈一言葉に関する〉哲学的探究は、〈言葉という〉事象それ内にⅡ有ることの開示性の実存論的諸性格は、一体如何なる 自身を問うためには、「言語哲学」という如きものを断念し ものであるか、という問である。ひとには、或る特有な情態 なければならないであろう、かくしてその哲学的探究自身性、或る特別な理解や話や解釈が、固有のこととして具わっ を、或る概念的に明らかにされた問題全体の成り立っ立場の ているのであろうか。これらの問に答えることは、現有は差 と内へ、齎さねばならないであろう。 当って大抵ひとの内に没入しており、ひとに依って左右され の 言葉に関する当面の解釈はただ全く、現有の有・の・体制の ているということを、吾々が想い起こすならば、それだけ一 と内に於ける〈言葉という〉この現象の占めるべき有論的「所 層切要なことになる。現有は被投的に世界のⅱ内に日有るこ い在」を明示せんとするだけのものであり、而も就中次の如き ととして、まさしく差当っては、ひとという公開性の内に投 = 以下の分析を準備せんとするだけのものである、すなわちそ げ入れられて有るのではないか。而もこの公開性とは、ひと の分析とは、話の基礎的有り方を手引にして、その他の諸現 に特有な開示性以外の何ものを意味していようか。 章象との聯関の内に於て、現有の日常性を有論的に一層根源的 理解が第一次的には現有の有り・得ることとして把握され 麺に眼差しの内に齎すことを試みる分析である。 ねばならないならば、その場合、ひとに〈本質的に〉所属し ( 1 ) 意義論に関しては、エトムント・フッサ】ル『論理研究』 ている理解と解釈との分析から次のことが取り出され得るで 第二巻第一研究及び第四ー第六研究参照。更にその間題全体の一 層ラディカルに把捉された体裁については、「考想』第一巻 ( 上あろう、すなわちそれは、現有はひととして、彼の有の如何 こ
は、現前しつつⅡ将来的なる現有として、すなわち彼の時性 存する現有という仕方に於てのみある。 かくして、今なお保存されている諸々の古物の歴史的性格の時熟に於て、既有的に有るのか。 今なお直前に有るが併し何等かの仕方で「過ぎ去ってい は、それらの古物がそれの世界に所属していたところの現 る」、歴史に所属している道具、そういう道具のこのような 有、そういう現有の「過去性」に基づいている。そうである とすれば、ただ「過ぎ去った」現有のみが歴史的に有ること暫定的な分析から次のことが明瞭になる、すなわちそのこと とは、そのような有るものはただそれの世界所属性を根拠に になり、「現在の」現有は歴史的に有るのではないことにな る。併し乍ら、もし吾々が「過ぎ去った」ということを「今してのみ歴史的で有る、ということである。然るに、世界が は最早直前に乃至は手許に有るのではない」として規定する歴史的なるものという有り方をもつのは、世界が現有の有論 ならば、現有は総じて過ぎ去ってしまっていることが出来る的規定性の一つを成しているからである。更に〈以上の暫定 であろうか。明らかに現有は決して過ぎ去 0 てしまい得な的分析から〉示されることは、「過去性」という時間規定が、 一義的な意味を欠いているとともに、吾々が現有の時性の脱 それは、現有が移ろい行かぬもので有るからではなくし 自的統一の構成分として知るに至った既有性から、明白に区 て、現有が本質上決して直前に有り得すして、むしろ、彼が 有る場合には、実存するからである。そうならば、最早実存別されている、ということである。併し最後に、そのことに よますます鋭くなるばかりである、すな するのではない現有は、有論的に厳密なる意味に於ては、過依って以下の如き謎ー ぎ去ったのではなくして、現にⅡ有ったのである。今なお直わちその謎とは、既有性が現在と将来と等根源的に時熟する 前に有る諸々の古物が或る「過去性という」性格と歴史といにも拘らず、まさしく「過去性」もしくは一層適切に言えば う性格とをもつのは、或る現にⅱ有った現有の或る既有的世既有性が歴史的なるものを著しく優勢に規定しているのは一 界へそれらの古物が道具的に所属していることとそういう世体何故であるか、という謎である。 第一次的に歴史的にーと吾々は主張するー有るのは現有で 歴界から由来していることとに、基づいている。〈それ故〉現 に有った現有が第一次的に歴史的なるもので有る。併し、 ある。併し、第二次的に歴史的に有るのは、内世界的に出会 時現有は、彼が最早現に有るのではないということに依って初われるものであり、つまり、最も広い意味に於ける手許に有 章めて、歴史的に成るのであろうか。それとも、現有は、事実る道具であるのみならす、更にまた「歴史的地盤」としての 第的に実存する現有としてまさしく歴史的に有るのではない 廻りの世界の自然でもある。非現有的な有るもの、それはそ 1 か。〈言い換えれば〉現有は、現に“有った現有という意味の世界所属性を根拠にして歴史的で有るのであるが、そうい に於てのみ既有的現有で有るのか、或いはそれとも、現有う非現有的な有るものを、吾々は世界Ⅱ歴史的なるものと名
現有は、「生ーの何等かの仕方で直前に有る軌道や道程を、的体制という地平〈すなわち視圏〉の内で着手されねばなら 彼の刹那的諸現実の諸々の段階的局相を通ることに依って初ない。実存の動性は、直前に有るものの運動ではない。その めて充たして行くのではなくして、初めから現有自身の有が動性は現有の伸張から規定されるのである。伸張されてそれ 伸張として構成されて有るという仕方で、自己自身を伸張す自身を伸張するというその特有な動性を吾々は現有の経歴と るのである。〈言い換えれば〉現有の有の内に既に、誕生と死名づけることにする。現有の「聯関」への問は、彼の経歴に 関する有論的問題である。経歴の構造とその構造を実存論 とへの関聯をもった「間」が含まれている。それに反して、 現有が或る一つの時点に現実的に「有りー更にその外に彼の的日時性的に可能にしている諸制約とを露開することは、 誕生と彼の死という非現実的なるものに依って「取り巻かれ〈経歴を経歴たらしめている〉歴史性の有論的理解を獲得す て」いる、のでは決してない。実存論的に理解されるなら ることを意味する。 ば、誕生が、最早直前に有るのでないものという意味での過 現有の経歴に固有なこととして具わっている特有な動性と 去のものでは決してないことは、未だ直前に有るのではない 存続性との分析を以って、研究は、時性の露開の直ぐ前で触 が併しやがて到来する未済のものという有り方が死に〈適われられた問題へ立ち帰って来る、その問題とは、すなわち、 しい有り方として〉具わっているのではないのと、同様であ吾々が現有の誰としてさきに規定した自己、そういう自己の る。事実的現有は誕生的に実存するとともに、彼はまた、誕常立性への問である。自立性は現有の有り方の一つであり、 生的に死への有という意味に於て既に死する。現有が事実的その故に、時性の或る特有な時熟に基づいている。経歴の分 に実存する限り、〈誕生と死という〉両「端ーとそれらの析は、時熟を時熟として主題的に研究するという問題に直面 「間」とは有り、而も両「端ーとそれらの「間」とは、関心 せしめる。 性としての現有の有に基づいてのみ唯一的に可能で有るという 歴史性への問がこれらの「諸根源」の内へ遡源するなら 歴有り方に於て、有るのである。被投性と逃避的乃至は先駆的ば、その場合にはそのことに依って既に歴史の問題の所在に な死への有との統一の内で、誕生と死とは現有に適わしい仕ついて決定が下されている。その所在は、歴史についての科 時 方で「聯関している」。関心として現有はその「間」で有る。 学としての歴史学の内に求められてはならない。たとえ「歴 五然るに、関心の体制全体性は、その〈体制全体性の〉統一史ーの問題の科学論的な論究の仕方が、歴史学的把捉を「認 第 を可能にする根拠を時性の内にもっている。従って、「生の識論的ーに明らかにすること ( ジンメル ) や歴史学的叙述に 聯関」すなわち現有の特有な伸張と動性と存続性、それを有属する概念形成の論理学 ( リッカート ) を目指すにとどまら 論的に開明することは、〈現有という〉この有るものの時性ず、更にまたその「対象面」に従って方向を定めるとして
た有る。現有が彼の有に於て時性として時熟する限りでの現 特色づけている。彼のため“に実存しつつ、投げられて有る ものとしての彼自身へ委ね渡されて有ることに於て、現有は有の有に注目して見れば、現有は、時性の脱自的れ地平的体 : ・のもとに有ることとして、同時に現前しつつ有る。〈現前制を根拠として、本質上「或る一つの世界の内に」有る。世 界は、直前に有るのでもなければ、手許に有るのでもなくし することとしての〉現在の地平的図式は、する“ため〈とい て、時性に於て時熟する。世界は諸脱自態の脱Ⅱ自と共に う構造〉に依って規定されている。 将来と既有性と現在との諸地平的図式〈を一に統一すると「共処〈すなわち現〉」に「有る」。もし如何なる現有も実存し ていないとすれば、如何なる世界も「現に」有るのではない。 ころ〉の統一は、時性の脱自的統一に基づいている。〈その 手許に有るもののもとに事実的に配慮しつつ有ること、直 地平的諸図式の統一たる〉時性全体の地平は、事実的に実存 前に有るものを主題化すること、直前に有るものを客観化し する現有が本質上何処に向って開示されて有るかというその 何処に向ってということを規定している。事実的に現にⅱ有つつ発見すること、それらは、既に世界を前提している、す ることと共に夫々、将来の地平には何等かの有り・得ること なわち、世界のⅡ内に有ることの諸々の有り方としてのみ がその都度企投されて有り、既有性の地平には「既に有るこ可能である。脱自的時性の地平的統一に基づきつつ、世界は と」がその都度開示されて有り、現在の地平には配慮されて超越的に有る。内世界的に有るものが世界から出会われ得る いるものがその都度発見されて有る。〈かくして、以上の如 ためには、世界は既に脱自的に開示されて有らねばならな き三つの〉脱自態の〈三つの〉図式の地平的統一が、する = 。時性は、それの諸脱自態の諸々の地平の内に既に脱自的 ためⅱ諸関聯と〈究極的な〉の“ためにとの根源的聯関を可にそれ自身を保持しているとともに、時熟しつつ、現の内へ 能にしている。このことの内に次のことが存している、すな と出会われる有るものへ帰来する。〈それ故〉現有の事実的 性わちそのこととは、時性の脱自的統一の地平的体制を根拠に実存とともに、内世界的に有るものもまた既に出会われてい るのである。そのような有るもの〈すなわち内世界的に有る 旺して、その都度彼の現で有る有るもの〈すなわち現有〉に もの〉が実存の自己的な現とともに発見されて有るというこ は、開示された世界というようなものが属している、という 性 時ことである。 と、そのことは現有の意のままになることではない。ただ、 四現在〈すなわち、現前すること〉が時性の時熟という統一現有がその都度何を、如何なる方向に、如何なる程度まで、 第 に於て将来と既有性とから発源するように、それと同様に或 如何にして発見し開示するかということだけが、常に彼の被 る一つの現在の地平は将来の地平と既有性の地平とともに等投性の諸限界内に於てであるとはいえ、彼の自由に属する事 根源的に時熟する。現有が時熟する限り、何等かの世界もま柄である。
408 うことである。配慮を明るくしている見渡しは、その〈すな とは、現前することという実存論的意味をもっている。何故 わち、見渡しを可能にする〉「明るみ」を、現有の有り・得る ならば、〈現に眼前に有るのでないものを、有り有りと〉現 ことから、つまり、それを〈究極的な〉何のためとしつつ 前化することは、現前することの一つの様態に過ぎないから 〈それのために〉配慮が関心として実存しているところの現である。現前化することに於ても考量は、手許に無い必要な 有の有り・得ることから、受取っているのである。配慮に属ものを直接に見とめているのである。〈言い換えれば〉現前 化するという仕方での見廻しはそれ自身を、〈有るものそれ する「見渡し的ー見廻しは、〈道具を〉その都度の使用し操作 しつつある現有に、〈その見渡し的見廻しに依って〉見られ自身へではなくして〉何か「諸々の単なる表象ーというよう なものヘ関係づけているのではない。 たものを解釈するという仕方で、手許に有るものを一層近く に齎らし解り易くする。配慮されているものをこのように特 併し、見廻し的に現前することは、幾重にも基礎づけられ 有な、見廻しつつⅱ解釈するという仕方で近づけること、その た或る一つの現象である。差当って、見廻し的に現前するこ ことを吾々は考量〈すなわち、考え合せ勘考すること〉と名とはその都度、時性の脱自的統一の全相に所属している。 〈すなわち〉見廻し的に現前することは、現有が或る可能性 づける。考量に独特な図式は、「もも〈・ : である〉ならば = を予期しつつ配慮している道具聯関、そういう道具聯関を把 その場合には〈 : ・である〉」ということである、すなわち、 例えば、もし、このもの或いはあのものが製作されるべきで持することに基づいている。予期しつつ把持することに於て あり、使用されるべきであり、防止されるべきであるなら既に開かれているもの、そういうものを、考量しつつ現前す ば、その場合には、これこれ或いはしかじかの手段とか方途ること乃至は現前化することは、一層近くに齎らして解り易 くする。然るに、考量が「もし〈・ : である〉ならば”その場 とか事情とか機会とかが必要であると。見廻し的な考量は、 現有の配慮された廻りの世界の内での現有のその都度の事実合には」という図式の内に動き得るとするならば、そのため 的境位を明るくする。従って、そういう考量は単に、或る有には配慮が既に或る一つの帰趨聯関を「見渡し的ーに理解し ていなければならない。〈すなわち〉「もし〈・ : である〉なら るものが直前に有ることや乃至はその有るものの諸性質を、 「確認する」ことでは決してない。そういう考量は、その考ば」ということで称されていることは、然か然かのこととし 量の内で見廻し的に近寄せられるものそれ自身が手で掴まれて既に理解されていなければならない。〈併し〉この〈よう 得るところに手許に有ったり差当って眠の届く範囲内に現存に理解されているという〉ことのためには、道具理解が述語 していたりしない場合でも、遂行され得る。見廻し的考量とづけられるという仕方で言い現わされることは必要ではな 。「或るものを或るものとして〈理解する〉」という図式は いう仕方で廻りの世界を一層近くに齎らして解り易くするこ
420 間的なるものの占めているこの優位はその根拠を、空間のも 〈日常性という〉この言い現わしが、根本に於て而も有論的 に境界づけられるならば、一体何を意味しているか、それは っ何か或る特有な強力性の内にもっているのではなくして、 現有の有り方の内にもっている。〈すなわち〉時性は、本質闇の裡に留まっていた。〈実際に〉また研究の元初に於ては、 上に頽落的にあることに於て、現前することの内へ自己を喪日常性の実存論的有論的意味を問題にすることすらなすべ き道は、何一つ現われてはいなかった。ところで今や、現有 失し、而も配慮〈的に現前〉されている手許に有るものか ら自己を見廻し的に理解しているのみならず、現前することの有・の・意味は時性として闡明された。それでもなお、「日 が、配慮されている手許に有るものに於て現存しているとし常性」という呼称の実存論的日時性的意味に関して疑が存し て、不断に行き当るもの、つまり空間的諸関係、そういう空得るであろうか。それにも拘らず、吾々は〈日常性という〉 間的諸関係から時性は、理解に於て総じて理解されていると この現象を有論的に概念的に把握することからはなお遠く離 ともに解釈され得るものを、分節するための諸々の手引を、 れている。更にその上、時性のこれまでに遂行された解明 取り出して来るのである。 が、日常性の実存論的意味を境界づけるのに、果して足りる ( 1 ) 第一三節ー第二四節一〇一頁以下、参照。 か否かさえ依然として疑問である。 併し乍ら、日常性とは明らかに、現有がそれ自身を「毎日 毎日」その内に保持しているところのその実存する仕方を意 第七一節現有の日常性の時性的意味 味している。とはいえ〈ここで謂われている〉「毎日毎日」 ということは、現有に彼の「一生涯の時間」の内で与えられ 配慮の時性の分析は次のことを示した、すなわちそれは、 ている「日々」の総計を意味しているのではない。 この「毎 時性を明るみに取り出すことの以前にそのことへの導きとい 日毎日」ということは暦のように理解されてはならないとは う意図の内で解釈されたところの現有の有・の・体制の本質的 いえ、それでもやはりそのような時間規定性が「日常」とい 諸構造、そういう諸構造はそれら自身、実存論的に時性の内 う意義の内に〈その他の意義と〉一緒に鳴り響いている〈こ へと取り戻されねばならない、ということである。〈現有の とは争われない〉。併し乍ら、日常性という言い現わしは第 実存論的〉分析論は、最初の着手に於ては、現有の何か或る 一次的には、現有を「生涯の間」徹底的に支配している実存 一定の卓抜なる実存可能性を主題として選ぶことをせすし て、実存することの目立たない平均的な仕方にもとづいて方の或る一定の仕方を意味している。吾々は先述の諸分析の内 向を定めた。現有が差当って大抵それ自身をその内に保持しで「差当って大抵ーという言い現わしを屡々用いた。「差当 って」とは、たとえ現有が「根本に於て」日常性をまさしく ているところの有り方、それを吾々は日常性と名づけた。 370
つつ忘却しつつある。現前することに於ても現有は、たとえ時性それ自身に他ならない。 被投性、つまり現有がその内で自己を本来的に理解するた 彼が、本来的将来と本来的既有性とに第一次的に基づいてい る彼の最も自己的なる有り・得ることから疎外されて有るとめに、現有が慥かに本来的にそれに直面せしめられ得るとこ はいえ、なおそれ自身を理解している。併し、現前することろの被投性は、それにも拘らずその有的な何処から〈投げら が絶えず「新奇なるもの」を提供し続ける限りは、現前するれたのか〉と如何にして〈投げられたのか〉とに関しては、 ことは、現有をして自己へ帰来せしめないとともに〈自己へ現有にどこまでも閉隠されたままに留まっている。併し、こ 帰来しないことに由る安らぎの無さを〉立て続けに新たに気の閉隠性は、決して単に或る一つの事実的に存続している無 安める。併し、この気安めは更にまた、跳び出しへの傾向を知というだけではなくして、現有の事実性を構成しているの 激化する。〈要するに〉好奇心を「惹起する」のは、未だ見である。この閉隠性は、実存が実存自身の無なる根拠へ委ね られたことのない物事の際限無き見渡し不可能な広がりでは渡されているという脱自的性格を〈その他の諸規定と〉共に なくして、跳び出すという仕方で〈根源から離れ去りつつ〉規定している。 世界の内へ投げ入れられて有ることの投げは差当っては現 発源する現在の頽落的な時熟の仕方である。もしひとが一切 を見てしまったとしても、その場合にはまさしく好奇心が新有に依って本来的には受け止められない、その投げの内に含 まれている「動性」は、現有が今や「其処に〈つまり現に〉 寄なものを案出するのである。 現在の「跳び出し的発源」という〈根源から離れ出る〉時有る」ということに依 0 てはそれだけで既に、「停止」する 熟様態は時性の本質に基づいており、時性は有限的〈すなわのではない。〈従「て〉現有は被投性の内にあ 0 て〈その被 ち同時に終末的〉にある。〈すなわち詳言すれば〉死への有投性の動性に依って〉拉致されるのであり、すなわち、世界 の内へ投け入れられつつ現有は差当って大抵、この多かれ少の内へ投げ入れられたものとして現有は配慮されるべきもの かれ表明的に露わにされた被投性に面しつっそこから逃避すへ事実的に差し向けられて〈そのものから〉指図されている る。現在がその本来的将来とその本来的既有性とから〈それという仕方で「世界」へと自己を喪失しているのである。引 を離れ去るという仕方で〉跳出的に発源するのは、現在を超き拉われるということの実存論的意味を成している現在は、 えて行く〈この〉廻り道を通って初めて現有をして本米的実覚悟せる決意の内でその現在が、その〈自己〉喪失性から取 り返され、かくして〈覚悟性の内に保持されるという仕方 存へ来たらしめるためである。〈それ故〉現在が「跳出的に で〉自制された瞬間としてその都度の状況を開示し而もその 発源すること」の根源、すなわち自己喪失性の内への頽落の 根源は、死への被投的有を可能にしている根源的な本来的な状況と一に於て死への有という根源的な「限界状況」を開示
況は、〈その解釈のために〉必要とされる根源性を得た。現 世界の日内に有ることの最も基本的な諸構造を証示する 有は根源的に、すなわち彼の本来的な全体的に・有り・得るこ こと、つまり、世界概念を境界づけることや〈現有という〉 とに注目して、先持の内へ置き入れられた、主導的な先ー見つ この有るものが差当って平均的には誰であるかというその誰 まり実存という理念は、最も自己的な〈仕方で〉有り・得るをつまりひと〈という有り方で〉のⅱ自己を明らかにするこ 時ことを明らかにすることを通して、その確たる規定性を獲得とや「現」の解釈、そういう最も基本的な諸構造を証示する てした、現有の具体的に仕上げられた有・の・構造を以って、一 ことのみならず、就中、関心と死と良心と負目との諸分析 と 切の直前に有るものと対照された彼の有論的な独自の有り方は、他ならぬ現有それ自身の内に於て配慮的な悟性理解性 意が明瞭になり、そこから現有の実存性への先把握が、諸々の が、有り・得ることとそのことを開示することすなわち閉隠 論実存疇を概念的に仕上げて行く労作を確かに導くために足るすることとを、如何に甚しく簒奪してしまっているかを、示 している。 2 分節を、所有するに至った。 関 現有の分析論のこれまでに通過してきた道は、始めに投げ それ故、現有の有り方は、現象的証示の根源性をそれ自身 と 遣りに言われたテーゼ、すなわち吾々が各々自己自身それで の目標として定立してきた有論的解釈に次のことを要求す A 」 有るところの有るものは有論的には最も遠いもので有る、と る、すなわちそのこととは、その有論的解釈がそれ自身のた る 得 いうテ 1 ゼを具体的に証拠立てることになった。そのことの めに〈現有という〉この有るものの有を彼の固有なる覆蔽傾 有根拠は関心それ自身の内に存している。「世界ーの差当って向に反対して奪取する、ということである。従って、実存論 配慮されたものの傍に頽落しつつ有ることは、日常的な現有的分析は、日常的解釈の諸要求乃至はその自足性や気安めの 全解釈を導き、現有の本来的な有を有的に覆蔽し、かくして自明性にとっては、不断に或る強引な暴力性という性格をも 〈現有という〉この有るものに向けられた有論に適切な基盤つのである。〈暴力性という〉この性格は慥かに現有の有論 本を〈与えることを〉拒否するに至る。その故に、有論もまたを特別に際立たせているが、併しその性格は如何なる解釈に も固有のことである、何故ならば、解釈という仕方でそれ自 有差当って日常的な現有解釈の方向に従っている場合には、 現 〈現有という〉この有るものを根源的に現象的に〈現象学的 = 身を形成して行く理解は、企投することという構造をもって いるからである。併し、この企投するということのためには、 三有論的解釈の前に〉予め与えることは決して自明的ではな 。現有の根源的なる有を露開することはむしろ、頽落的なその都度或る独自な主導と規正とが与えられていないであろ 有的有論的な解釈傾向への反対方向に於て現有から闘い取うか。それでは一体何処から、諸々の有論的企投は、それら られねばならないのである。 の「諸々の所見」に現象的にびたりと当てはまるという適切 こ