えない。現象の客観性に到達するためには、主観が現われを その総体的な連鎖の方へ向かって超越するのでなければなら 緒論存在の探求 。主観が赤い印象を通じて、赤なるものをとらえるので なければならない。したがって、現われが「あらわれるもの の現われ」としてとらえられるためには、無限なものへ向か 現象という観念 って超えられなければならないことになる。プルーストの天 現象の背後に隠されている本体があるというような考え才は、その作品に還元されうるにしても、それにもかかわら は、現代ではもはや通用しない。たとえば、カはそのもろもずやはり、われわれがこの作品に対してとりうるあらゆる可 ろの効果の総体より以外のものではない。電流はその物理化 能な観点の無限性、いいかえれば《汲めどもっきぬもの》と 学的な作用の総体より以外の何ものでもない。われわれは等価である。 「背後世界の錯覚」からすでに脱却している。存在するもの Ⅱ存在現象と現象の存在 の存在とは、まさにそれが現われるところのものにほかなら ない。現象はそれがあるとおりに自らをあらわにする。現象 われわれは存在について一種の了解をもっている。存在 。絶対的な意味でそれ自身を指示する。。フルーストの天才は は、何らかの直接的な接近、たとえば倦怠とか嘔き気といっ その作品の総体でしかない。作品として現われない能力など たようなしかたで、われわれのまえにあらわにされる。これ というものは考えられない。また、現象と本質の二元論も成を一つの存在現象 un phénomene d'étre と呼ぶことにしょ 立しない。現象は本質を隠しているのではない。現象は本質う。こういう存在現象は、諸現象の存在 l'étre des phéno- をあらわにしているのである。本質はそれ自身が一つの現わ menes ハイデッガー流にいうならば、もろもろの存在者の存 れである。 在 l'étre des existants と同一であろうか ? ・人間存在は、 存在するものをそのもろもろの現われに還元することによ存在的ー存在論的なものである。 しいかえれば、人間存在は って、われわれは二元論を克服することができたであろうつねに現象をこえてその存在へ向かうことができるものであ か ? むしろわれわれは、有限なものと無限なものとの二元る。存在者を超えて存在現象へ向かうことは、存在者を超え 論に問題を転化させたことになる。存在するものは、現われて存在者の存在へ向かうことになるだろうか ? 冫。し力ない。といって、 の有限な一連鎖に還元されるわけこよ、 存在は対象の一つの性質ではない。対象は存在を指し示す もろもろの現われが全部同時に与えられるということもあり ものでもない。対象は存在を所有するのでもない。対象は存
「反射」への、たえざる指し示しでしかない。しかしなが人間存在という一つの独特な存在によって、存在にやって米 ら、この指し示しは、対自のふところに、無限運動を起させる。けれども、この独特な存在は、それがそれ自身の無の槹 はしない。それは、ただ一つの行為の統一のうちに与えられ原的な企てより以外の何ものでもないかぎりにおいて、自己・ を人間存在として構成する。人間存在とは、それがその存在 . る。無限運動は反省的なまなざしにのみ属するものであり、 において、またその存在にとって、存在のふところにおける この反省的なまなざしは、現象を全体としてとらえようと し、「反射ーから「反射するもの」へ、「反射するもの」から無の唯一の根拠であるかぎりにおいての、存在である。 「反射」へ、とどまることを知らずに指し向けられる。それ ゆえ、無は、かかる存在の穴であり、即自から自己への失墜 Ⅱ対自の事実性 であり、この失墜によって対自が構成される。けれども、こ の無は、それの借りものの存在が存在の無化的行為と相関的 であるかぎりにおいてしか、《存在され》えない。即自がた それにしても、対自は存在する。対自は、「それがあると えす自己現前へと転落するときのこの行為を、われわれは存ころのものであらず、それがあらぬところのものである存 在論的な行為と呼ぶであろう。無は、存在による存在の問題在ーとしてではあるにしても、やはり存在する、と言う人もあ 化であり、 しいかえれば、まさに意識もしくは対自である。 ろう。誠実を坐礁させる暗礁がいかなるものであるにせよ、 それは、存在によって存在にやって来る一つの絶対的な出来誠実の企てが少なくとも考えられうるかぎり、対自は存在す ルがあ 事であり、存在をもっことなしにたえず存在によって支えら る。「フィリツ。フ二世が存在した」「私の友人。ヒ工 れる一つの絶対的な出来事である。それ自体における存在る、存在する」と私が言いうるような意味で、対自は、出米 は、その全面的肯定性によって、その存在のうちに孤立させ事として存在する。対自がみずから選んだのではない条件の なかにあらわれるかぎりにおいて、たとえばピエールが一九 られているわけであるから、いかなる存在も存在を生むこと はできないし、また無より以外の何ものも、存在によって存四二年のフランスのブールジョアであり、シュミットが一八 在にいたることはできない。無は存在の固有の可能性であ七〇年のベルリンの労働者であったかぎりにおいて、対自は り、また存在の唯一の可能性である。さらに、この根原的な存在する。対自が一つの世界のなかに投げ出され、一つの 可能性は、それを実現する絶対的な行為のうちにしかあらわ《状況》のなかに放り出されているかぎりにおいて、対自は れない。無は、存在の無であるから、存在そのものによって存在する。対自がまったくの偶然であるかぎりにおいて、ま しか存在に来ることができない。い うまでもないが、無は、 た対自に関しても、世界の諸事物、たとえばこの壁、この樹 ( 訳注 )
あらわれる。欠如のうちには、 ( 一 ) 「欠如分」 ( 一 I) 「欠如ある。人間存在は、自分があるところのものであるならばそ 者」すなわち「現実存在者」 (lll) ( 両者の綜合によって復うあるであろうような「即自としての自己ーへ向かって、自 原される一つの全体ーすなわち「欠如を蒙むるもの」の三元己を超出する。人間存在は、それであらぬという形でこの全 性が前提されている。これを月にたとえるならば、弦月の欠体であるのであるが、この全体は、それがあるところのもの けている黒い部分が「欠如分ーであり、直観に与えられるこ である。人間存在は自己との一致へ向かってのたえざる超出 の弦月が「欠如者」すなわち「現実存在者」である。そして であるが、かかる一致は永久に与えられない。 「欠如を蒙むるもの」すなわち「全体ーは満月に相当する。 対自にたえすっきまとうこの不在な存在は、対自と即自と 所与としてのこの月が弦月としてとらえられるためには、人の不可能な綜合である。かかる全体は、本性上、与えられな 間が、いまだあらぬ満月の視表面へ向かって、この所与を超 いものである。かかる全体は、その存在が絶対的な不在であ 出するのでなければならない。 ついで、人間がこの所与を弦るのに、あとからはたらく冥想によって、世界のかなたに超 月として構成するために、ふたたびこの所与の方へ戻ってく越者として実体化されると、神という名を得る。神とは、そ るのでなければならない。弦月を弦月として規定するのは満れが完全に肯定性であるかぎりにおいて、「それがあるとこ 月である。「あるところのもの」を規定するのは「あらぬと ろのものであるような一存在」であると同時に、自己につい ころのものーである。この三元性を内的関係として自己のうての意識としてのかぎりで、「それがあるところのものであ ちにふくんでいるのが人間存在である。 らす、それがあらぬところのものであるような、一存在ーで 世界のうちに欠如をあらわれさせる人間存在は、それ自あるともいえよう。しかし、人間存在は、対自としての自己 身、一つの欠如である。人間存在が欠如であるということを失うことなしには、即自に到達することができない。 は、人間的事実としての欲望の存在からしても立証される。 対自の自己超出の目標となる「即自としての自己」は、意 欲望は存在欠如である。欲望は自分の存在の内奥において、 識の核心にありながら、意識の手のとどかないところにあ 自分が欲望している存在によって、つきまとわれている。人り、一つの不在として、実現不可能なものとして存在する。 間存在の意味をなすもの、 いいかえれば人間存在にとっての価値とは、このような意味での「自己」である。価値は、無 満月は、欠如を蒙むる「即自存在としての自己」である。し条件的に存在し、また存在しない、という一一重の性格を帯び かし 、かかる欠如を蒙むる即自を、事実性の即自と混同してている。価値は、価値としてのかぎりで存在をもつが、現実 はならない。欠如を蒙むる即自は、まったくの不在である。 としてのかぎりでは、存在をもたない。価値の存在は、価値 人間存在は、自分が欠いている全体へ向かっての自己超出で であることである。根原的に考えられた価値、すなわち最高
れにしても、このような無は、われわれが存在のふところでを根底としてしか自らを無化することができない。無が与え・ わな られうるのは、存在の以前にでもなければ、存在の以後にで 出会う非存在の小さな罠を、どうして根拠づけることができ ようか ? われわれの周囲には、存在のなかに非存在をふく もない。また一般に、存在の外においてではない。無が与え - んでいるような人間的現実が無数にある。たとえば距離とい られるのは、まさに存在のふところにおいてであり、存在の . ・ う概念をとりあげてみよう。線分 <<* を線分として考えるか核心においてであり、一びきの虫としてである。 しいかえれば、は ぎり、一一点は線分の否定である。 無の起原 線分がこの二点のかなたにまではのびていないということを 示している。しかし、二点に注意を向けるならば、線分 われわれは、ヘーゲルのようなしかたにせよ、ハイデッガ・ は、この二点をひき離す否定的なものとしてあらわれ ーのようなしかたにせよ、存在の外において「無」を考える。 る。否定は、この二点からのがれて、距離という資格で、こ ことはできない。われわれが否性と名づけた人間的現実をと・ の線分の長さそのもののうちに滲みこむ。一方の出現は他方らえるためには、無が存在の核心に与えられているのでなけ・ 、かかる内ー世界的な無は、これを即、 の分解であり、またその逆でもある。ハイデッガーは、人間ればならない。しかし 存在を「距離をとるもの」 ent-fernend として示した。人間 、よ、。完全な肯定性としての・ 自存在が生み出すわけこよ、 存在は、距離を生み出すものであると同時に距離を消失させ存在の概念は、その構造として無をふくむことはない。存在 るものである。 の概念は無とあい容れないなどと言うことすらできない。存 存在のうちにその内部構造として否定を宿している人間的在の概念は無と何の関係ももたない。もし無が存在の外にお いても考えられないし、存在から出発しても考えられないと 現実は、たんに距離ばかりではない、不在、変心、他在、嫌 悪、毎展、気ばらしというような。否性 négatitéをうちにすれば、また他方、無は非存在であるから「自らを無化す る」 se néantiser 力をもっことができないとすれば、無はい 睿ふくむ人間的現実の記述からも、無が外ー世界的なものでは のなく、むしろ「あまりに世界的な」いいかえれば「超世界的ったいどこから来るか ? われわれが無について語ることが、 な」 ultra ・ mondain なものであることが明らかになる。否定できるのは、無が存在的な一つの見かけをもっているがゆえ一 は存在のなかに散らばり、存在によって支えられ、現実の条でしかない。無は存在するのではない。無は存在される「 存 néant <est 6 ( 6 》のである。無は自らを無化するのではな 件をなしている。無は、もしそれが存在によって支えられて 、。無は無化される Le néant <est néantisé.> のである。 いるのでないならば、無としてのかぎりにおいては消え去 り、われわれはふたたび存在のうえに戻ってくる。無は存在してみると、そのほかに、無を無化するような一つの存在、
こえたかを明示しえたとき、弁証法的全体化のなかに統合さの始め〉といったようなものを発明したとか、人間に物神的 れるだろうといえば事足りる。 自由をあたえたとか、の非離をあびせる人があれば、それは 第三。それゆえ人間はその投企によって定義される。このその人がまちがっている。このような非難は結局、機械論的 物質的存在は自分に対してつくられた条件をたえすのりこえ哲学から生ずるにすぎない。 このような非難をわれわれに浴 る。それは労働、行動、或いは仕種によってその状況をのりびせる人たちは、実践、創造、発明をわれわれの生命の基本 こえることにより自己を客観化し、その状況を明るみに出し的与件を再生産することに還元してしまいたいとねがってい 決定づける。投企は、或る事情のもとでは意志的な形を身に るのであろうし、作品、行為、或いは態度をそれらを条件づ つけることがあるとはいえ、抽象的本質である意志と混同さける因子によって説明したいとねがっているのであろう。彼 れるべきではない。与えられた構成的な諸要素をこえて、自らの説明したいという切望は、複雑なものを単純なものに同 己以外の他者と無媒介的にむすぶこの関係、労働と実践とに 化させ、構造の特殊性を否定し、変化を同一性に還元したい よる自己自身のこの不断の創造、これこそわれわれ自身の構という意志をひそめているようだ。これはふたたび科学的決 造である。意志と同様にこれは欲求でも情念でもないが 、し定論におちこむことである。これに反して弁証法的方法は還 かもわれわれの欲求は、情念と同様に、或いは思惟のなかの 元を拒否する。それは逆の操作をおこなう。それは保有しな 最も抽象的なものと同様に、この構造を分有している。つま がらのりこえるのだ。しかしのりこえられた矛盾の各項はの り欲求とはつねに : : に向って自己の外部にある、というこ りこえ自体をもまたその後の綜合をも説明する力はない。逆 とである。これこそわれわれが実存と名づけるものであり、 にその後に来る綜合こそのりこえられた矛盾の各項を照明 この言葉によ 0 てわれわれは自己のうちに落ちついている堅し、それを理解することを可能にする。われわれにと「て基 固な実体を意味せず、たえざる不均衡、あらゆる物体の自己か礎的矛盾とは、可能性の分野を限定しその構造をなす因子の らの脱出を意味している。この客観化への躍動は個人によっ 一つにすぎない。逆に、もしも矛盾の各項を詳細にわたって て種々な形をとり、可能性の分野を通ってわれわれに投企を説明し、その独自性 ( すなわちこの場合には一般性がその形 行わせるものであるが、われわれは数ある可能性のうちのい のもとにあらわれる独自の様相 ) を明らかにし、それが如何 ( 訳注 ) くつかを他の可能性を拒否することに於いて実現するので、 にして体験されたかを理解したいとのそなならば、選択にこ われわれはこの躍動をまた選択、或いは自由と呼ぶのであそ問いかけるべきである。個人の作品や行為こそわれわれ る。けれどもこの場合、われわれに対して、われわれが不合 に、彼の条件づけの秘密を明らかにしてくれる。フローベー 理なものを導入し、世界とつながりのないいわば〈そもそも ルは、彼が書くことを選択したことによって、彼の幼少期の
( れ一 ) である。たとえば、御承知のように、ポトラッチ「一は、莫大えられる相手を呪縛する。贈与は、相手をして、私がもはや な量の物品の破壊をともなう。それらの破壊は、他人に対す必要としないこの私〔の片割れ〕、私がいましがた消減にいた る挑戦であり、他人を東縛する。この水準においては、対象るまで所有していたこの私〔の片割れ〕、ついに一つの面影し か残っていないこの私〔の片割れ〕を、ふたたび創作し、連続。 物が破壊されるか、それが他人に与えられるかは、どうでも しいことである。いずれにせよ、ポトラッチュは、破壊であ的な創作によって存在に維持するように、強制する。与える・ り、他人の東縛である。私は、対象物を消減させるときと同とは、屈従させることである。贈与のこの様相は、いまここ 様、それを与えることによって対象物を破壊する。私は、そでは、われわれにとって問題でない。なぜなら、それは特に、 他人との関係に関することだからである。われわれが指摘し の存在において深く対象物を構成していた「私のもの」とい たいと思っていたのは、「気前のよさ」が還元不可能なもの う性質を、対象物から抹殺する。私は、対象物を私の眠から しいかえれば、「与える」とは ) 取り除く。私は、それをーー私のテーブルに対し、私の部屋ではないということである。 に対してーー・不在なものとして構成する。過去の対象物の透破壊を利用して他人を自己に屈従させると同時に、この破壊、 によって「我がものにすること」である。それゆえ、「気前 明で幽霊的な存在を、それに保たせておくであろうのは、ひ とり私だけである。というのも、それらの対象物が、消減後のよさ」は、他者の存在によって構造づけられる一つの感情 の名誉的な存在を追求するのは、私によ 0 てであるからであであり、この感情は、破壊による我有化へ向かう好みを示、 る。それゆえ、「気前のよさ」は、何よりもまず、破壊的なす。したがって、「気前のよさーは、われわれを、即自の方 作用である。時として或る人々をおそう贈与熱は、何よりもへ向かわせるよりも、むしろ無の方へ向かわせる。 ( ここで 問題なのは、「即自の無」であるが、この即自は、それ自身・ まず、破壊熱である。それは、気ちがいじみた態度、対象物 あきらかに即自であって、しかも、無としてのかぎりにおい の破砕をともなう《愛》に、比せられる。けれども、「気前 のよさーの底にひそむこの破壊熱は、一つの所有熱より以外て、「自己自身の無である存在ーと符合しうるような即自で ( 訳注二 ) の何ものでもない。私が放棄するすべてのもの、私が与えるある ) 。それゆえ、もし実存的精神分析が或る被実験者り 「気前のよさ」の証拠に出会うならば、実存的精神分析は、 すべてのものを、私は、まさにそれを与えることによって、 いっそう遠く被実験者の根原的な企てを探り、彼が創作より 最高のしかたで、享受する。贈与は、激しくて短かい、ほと もむしろ破壊によって「我がものとすること」を選んだのは んど性的な、一つの享受である。与えるとは、自分の与える この問いに対す 対象物を、所有的に享受することであり、我有化的ー破壊的何ゆえであるかを自問しなければならない。 な一つの接触である。けれども、それと同時に、贈与は、与る答えは、当の人物を構成する「存在への根原的な関係」
るものであり、意味化はわれわれに人間と、それから社会構まやかしとは、それが出発点に於いて社会的経験の基本的構 よ ( 造を通しての人間相互の関係とを明らかにする。しかしこれ造の一つを否定することを決めてしま 0 ているのに、い、 らの意味はわれわれ自身が意味するものであるという限りに る先験性もなしに社会的経験と取り組むのであると主張する 於いてのみわれわれに対してあらわれるものである。他者を点にある。自然科学が、無生物に人間に固有の諸性質を貸し われわれが了解する仕方は決して静観的なものではない。そ与える擬人観から脱却したのは正しかった。しかし同じ筆法 れは、闘争或いは共謀にかかわるわれわれの実践、生き方、 で人間学のなかへ擬人観の蔑視をもちこむことは全く馬鹿げ われわれを他人にむすびつける具体的で人間的な関係に他なている。人間を研究する場合に人間に人間固有の性質をみと らない。 めることよりもっと正確でもっと厳密な何ができるというの これらの意味化のなかで、われわれの意識を或る生活的状か。人間社会を検討してみただけで、目的への関係が人間の・ 況、一つの行為、集団的事件へ向わせるものがある。これ企ての恒常的構造であり、現実の人間はこの関係の上にこ は、たとえば、映写幕の上でどんちゃんさわぎの一タの物語そ、行動、制度、また経済組織を評価するものであること、 をわれわれに描いてみせる役目をになったいくつかのこわれ が当然見出されたはずであった。するとそのとき、われわれ た酒盃の場合であろう。また別の意味化とはたとえば地下鉄の他者への理解は、必然的に目的を通してなされることが桷 の通路でみられる壁の上の矢印のように、単なる指示であ証されたはずである。はなれたところから、はたらいている , る。また他のものは〈集団的存在〉に関係している。他のも男をながめて、「わたしはあの人が何をしているのかわから のは象徴であり、意味される現実はそのなかに、丁度国旗の ない」という人も、目的とされている結果の予測によってそ なかに国民が現存するように現存している。他のものは用具の男の活動のはなればなれの諸契機を一体化できるようにな 性の表示である。対象物は、鋲を打「た横断歩道や安全地帯れば、忽然として解答は与えられるだろう。いやそれ以上で のように、わたしに対して、手段としてみずからを提示すある。たたかうため、敵に一杯くわせるためには、同時にい る。他のものは、 常にとはいえぬまでもーー特に現実のくつかの目的への体系を駆使しなければならない。自分最初 人間の眼にみえる実際の行動を通じて把握されるものである の目的性 ( 眉のあたりに左のストレートをくらわせること ) が、きわめて端的に目的そのものである。 が石破され拒まれた場合、 いつわりの打撃に真の目的性 ( た 今日のマルクス主義に滲透していて、以上のような重要な とえば、ボクサーは防禦姿勢をととのえざるをえない ) をあた 意味化を否定するように仕向けている自称〈実証主義〉なる えることになるだろう。また、他人が運用する一一重、三重の目 ものを断乎として排撃すべきである。実証主義の最もひどい 的体系が、われわれ自身の目的に劣らず厳密にわれわれの活
てを〈了解〉という特殊な術語に統一することは避けぎるをえな に開く窓か、引き窓か、或いはおそらくーーもしわれわれが かった。しかしこの論文につづく「弁証法的理性批判』の記述の 異国にいるのならーーわれわれがいまだ知らない種類の窓で 中では、大体一貫して〈了解〉の意味に用いられ、知的理解 あるだろう。いすれにしても、逐次に展開される仕種をこえ には intellection という言葉が特に用いられている。 て、そこに与えられている一体性をみとめるためには、わた し自身がそのうだるような暑気を涼気への欲求、外気を呼ぶ この場合われわれ一一人にとって間題はきわめてはっきりと 声として実感していなければならず、すなわち、わたしは自豊饒化の力をもったのりこえにかかわっているので、この友 分みずからその場の物質的状況の生きたのりこえであること人の行動は、まず物質的状況によって照明されるかわりに、 が必要である。部屋の内では、扉も窓も決してまったくの受わたしにその状況を明らかにする力をもつ。共同の仕事、た 動的実在であることはない。他人の労働がそれらのものにそとえば議論に熱中しながら、わたしは漠然としたいまだ名指 されていない居心地の悪さとして暑気を感じていたのであっ の意味を与え、それを ( 任意の ) 他人にとっての用具、可能 性としたのである。このことはわたしがすでにそれらのものた。友人の仕種のなかに、わたしは彼の実践の意図とともに を用具としてまた方向づけられた活動の生産物として了解しわたしの居心地の悪さの意味をもみとめる。了解の運動は同 ていることを意味している。しかしわたしの友人の運動はこ時に ( 目的とする結果に向って ) 前進的でもあれば ( わたし は始めの条件にさかの、ほるから ) 遡行的でもある。そのうえ れらの生産物のなかに結品している指定や指示を明白にす る。彼の行動は実践的分野を〈ホドロジック空間〉として明暑気をたえがたいものとして定義づけるのは行為自体であろ う。な。せなら、もしわれわれが指をもたげることもしないの らかにし、また逆に、器具のなかに含まれた指示は結品した 意味となり、わたしに友人の企てを了解することを可能にすであれば、それは気温が我慢できるということだから。この ようにして、企てのもっゆたかで複雑な一体性は、最も貧寒 る。彼の行動はその部屋を一体化し、また部屋は彼の行動を な条件からも生まれて、その条件のうえに立ちかえりそれを 定義する。 照明する。同時にまた、しかし別の次元に於いて、わたしの友 訳注〈了解〉 compréhension. ドイツ語の Verstehen. ディルタ 人はその行動によって自分の姿をも明らかにする。もしも彼 イが説いた認識方法。表現、記号を通して、その包蔵する内的精 が、仕事や議論を始めるに先立って、窓を半びらきにするた 神、そのいわゆる構造連関 Struktur ・ zusammenhang を、追体 めにわざわざ身を起したのであれば、この仕種ははるかに一 験的に認識する作用をいう。サルトレゞ ノカ本書に於いて用いる 般的ないくつかの目的 ( 自分が方法的な人間であることを一小 compréhension, comprendre は概ねこの意味である。しかしも ちろん、よりひろい「理解 , という意味にも用いられるのですべし秩序ある人間としての役割を演じたいという意志とか、或
7 存在と無 私が木の枝をけすって杖にする ( 私が木の枝で杖を《作る》 ) また、この絵画はそれ自体において存在するのでなければな らない。いいかえれば、この絵画は、たえすそれ自身でその のは、この杖を持っためである。《為す》 ^ 作る》は、持った 存在を更新するのでなければならない。したがって、私の作 めの一手段に還元される。それは最もありふれた例である。 品は、不断の創造ではあるが即自のうちに凝固した創造とし しかし、私の活動がそのままただちに還元可能とは見えない 場合もありうる。科学的研究やスポーツや芸術的創作の場合て、私にあらわれる。私の作品は、どこということなしに、 ししかえれば、私の作品 におけるように、私の活動が無償であるように見えることも私の《しるし》をになっている。 は、どこということなしに、《私の》思想である。あらゆる ある。それにもかかわらず、これら種々の場合に、《為す》 芸術作品は、一つの思想であり、一つの《理念》である。芸 《作る》は、やはり還元不可能ではない。私が一つの絵画、 一つのメロディーを創作するのは、或る具体術作品の性格は、この作品が一つの意味より以外の何もので 一つのドラマ、 もないかぎりにおいて、明らかに精神的である。けれども、 的な現実存在の起原において私が存在しようがためである。 しかもこの現実存在は、それと私とのあいだに私がうち立てその反面、この意味、この思想は、或る意味では、あたかも る創作のきずなが、この現実存在に関して、私に一つの特殊私がたえずそれを形成しているかのように、またあたかも一 な所有権を与えるかぎりにおいてしか、私にとって興味がな つの精神ーー私の精神という一つの精神ーーーがたゆみなくそ い。問題なのは、ただ単に、私の考えているこれこれの絵画れを考えているかのように、たえず現勢的であるにもかかわ が存在する、ということだけではない。やはり、この絵画らず、この思想は、自分だけで自己を存在させており、私がそ れを現に考えていないときにも、この思想は、現勢的である が、私によって存在するのでなければならない。明らかに、 或る意味では、私が一種の不断の創造によってこの絵画を存ことをやめない。それゆえ、私は、この思想に対して、それ 在させているということ、したがって、この絵画がたえす更を考える意識と、それに出会う意識との、二重の関係に立っ 新される一つの流出として私のものであるということが、理ている。「この思想は私のものである」と言うことによって 想であるであろう。けれども、別の或る意味では、この絵画私が言いあらわすのは、まさにこの二重の関係である。この ことがどういう意味であるかは、われわれが《持っ》という は、それが私のものであるのであって私であるのではない カテゴリー の意味を明らかにしたときに、わかるであろう。 ためには、根本的に私自身から区別されていなければならな この場合、デカルト的な実体論にみられるように、この私が私の作品を創作するのは、我有化という綜合においてこ の二重の関係をたもっためである。事実、私がめざしている 絵画の存在は、独立性と客観性を欠いているがゆえに、私の のは、また、その作品をしてまさに私の所有たらしめるとこ 存在に吸収される、という危険があるであろう。それゆえ、
156 る。「私が私のあるところのものである」ためには、他者が存在の単なる出現より以外に彼が私のうえに何ら影響を及ぼ 私にまなざしを向けているだけで十分である。もちろん、 さないにしても、私は一つの外部をもち、私は一つの個性を 「私が私のあるところのものである」のは、私自身にとってもっことになる。私の根原的な失墜とは、他人の存在であ ではない。私は、私が他者のまなざしのうちにとらえるこのる。羞恥はーー自負と同様ーー個性としての私自身の把握で 「腰かけている存在ーを、決して実感するにはいたらないである。もっとも、この個性そのものは、私から脱れ出るので あろう。私は依然としてつねに意識であるであろう。むしあり、かかるものとして認識されえないものではある。的確 ろ、「私が私のあるところのものである」のは、他人にとっ に言うならば、私は、私の自由を失って、自分が事物になる てのことである。そこで、またしても、対自の無化的脱出が のを感じるわけではなく、むしろ、私の自由は、かしこで、 凝固する。またしても、即自が対自のうえにあらためて形成体験される私の自由のそとで、「私が他人にとってそれであ される。けれども、またしても、このメタモルフォーズは、 るところのこの存在の、与えられた一つの属性ーとして、存 距離をおいておこなわれる。、、 ししかえれば、他人にとって在するのである。私は、他人のまなざしを、私の行為のさな は、私は、このインク壷がテーブルのうえに存在するよう かにおいて、私自身の諸可能性の固体化および他有化とし に、腰かけて存在する。他人にとっては、樹木が風のために て、とらえる。私がそれであるところのこれらの可能性は、 傾いて存在するように、私は鍵孔のうえにかがみこんで存在私の超越の条件であるわけであるが、私は、恐怖の際、不安 する。そのように、他人にとっては、私は私の超越を放棄してな期待または慎重な期待の際に、それらの可能性が他のとこ いる。というのも、事実、私の超越についての証人になってい ろで一人の他人に対して与えられ、今度は私の諸可能性がそ の他人自身の諸可能性によって超越される番になっているこ る者、すなわちこの超越であらぬものとして自己を規定して いる者にとっては、私の超越は、単に確認された超越となり、 とを、感じる。他人は、まなざしとしては、私の「超越され ししかえれば、私の超越は、他人る超越」 ma transcendance transcendée ということでしか 与えられた超越となる。、、 、うまでもなく、私は、それらの可能性 ( についての ) が、彼の範疇をとおして私の超越におしつける何らかの歪みないし 非措定的な意識というありかたで、依然としてつねに私の もしくは屈折によってではなく、彼の存在そのものによっ て、私の超越に一つの外部を付与するというただそれだけの可能性であるのであるが、しかしそれと同時に、まなざしは、 事実からして、一つの個性 nature を得てくる。一人の他人私からそれらの可能性を奪ってこれを他有化する。そのとき が存在するならば、彼が何者であろうと、彼がどこにいよう までは、私はそれらの可能性を、世界のうえに、また世界の と、彼と私との関係がいかなるものであろうと、また、彼のうちに、もろもろの道具の潜在性として、措定的にとらえて