る対象的な構造が目的の光に照らされるとき、動機の名に値一つの目的、自己が世界の反対側から投企する一つの目的に いするものとなる。それゆえ、対自は、この動機についてのよって、自己に告げ知らせる存在者。かくのごときが、われ 意識である。けれども、動機についてのこの定立的な意識われのいうところの「自由な実存ーである。 世間一般の考えかたからすれば、自由であるとは、ただた は、企てとしての非措定的な自己意識である。しかも、動因 んに自己を選ぶという意味ではない。選択が自由であるとい は非措定的な自己意識にほかならない。その意味で、動機に われるのは、その選択がそれ以外でもありえたであろうよう ついての定立的な意識は、動因である。動機、動因、目的は、 なばあいである。私は友だちといっしょにハイキングに出か 一つの自由な意識の分ちがたい三つの項である。この自由な 意識は、自己の諸可能へ向かって自己を投企し、それらの可けた。何時間も歩いたすえ、私の疲労は増し加わり、ついに はとても耐えがたいまでになる。はじめのうち、私は抵抗す 能性によって自己を規定させる。 るが、やがて、突然、私はぐったりする。私はくじける。私 自由は、対自の存在と一つのものでしかない。人間存在が はリュックを道ばたに投げ棄て、そのかたわらにへたばる。 まさに自己自身の無であるべきであるかぎりにおいて、人間 存在は、自由である。ます第一に、人間存在は、自己を時間「つぎの宿場まで、我慢することができたであろう」と言う 化することによ「て、この無であるべきである。つぎに、人人もあろう。「なるほど、私は別様におこなうことができた 間存在は、何ものかについての意識として、と同時に、自己であろう。しかし、いかなる代償をはらってか ? 」この門し は、こう言いかえることができる。「私は、私がそれである 自身 ( についての ) 意識として、あらわれることによって、 ところのもろもろの企ての組織的な全体をいちじるしく変様 この無であるべきである。最後に、人間存在は、超越である ことによって、この無であるべきである。人間存在は、まずさせないで、別様におこなうことができたか ? 」 疲労は、それだけでは、私の決定をひきおこすことができ はじめに存在して、しかるのちにこれこれの目的に対して関 ない。疲労は、私が私の身体を存在するときのしかたでしか 係をもつような何ものかであるのではなく、むしろ反対に、 根原的に投企であるような一つの存在、すなわち自己の目的ない。疲労はまずはじめには、定立的な意識の対象であるの によって自己を規定する一つの存在である。自己の未来の光でなく、むしろ私の意識の事実性そのものである。私は、疲 に照らして、自己の過去を、伝統という形で決定する存在労という形で、私の身体 ( についての ) 一つの非定立的な意 者。自己の過去がただ一方的に自己の現在を規定することを識をもっている。この非定立的な意識と相関的に、しかも対 許さない存在者。自己が何であるかを、自己自身より以外の象的に、行く手の道ははてしないものとしてあらわれ、傾斜は いっそう険しいものとして、太陽はいよいよ焼けつくような 他のものによって、すなわち、自己がそれであらぬところの べつよう
圧している者に彼らをおそろしい者に見せている魔術的相貌家が必要だからである。つまり最も血腥い革命もなお併合を の被いを剥奪しようとするのである。のみならず当然の動き 許すのだ。それは何よりもまず、被抑圧階級による抑圧階級 として彼は、彼らが初めに設定した諸価値を否定する。もし の吸収であり同化である。特権階級と同じ水準まで自分を高 彼らの「善」が本当に先天的 (a pr ぎもなものであるならば、 めようとする脱落者や虐待を受けている弱小民族とは反対 「革命」はその本質において毒せられていることとなろう。 に、革命者は特権の効力を否定することによって特権階級を つまり、抑圧階級に反抗することは「善」一般に反抗するこ 自分のところに引きおろそうとするのだ。そして自分が偶然 ととなるだろう。しかし革命者はこの「善」に代えるに他の的だということをいつも感ずることによって自己の存在を不 先天的 (a p ュ。も「善」をもってしようとは思わない。なぜ当な事実として認めようとするように、彼は神的権利をもっ なら彼は建設的位置にはいないからだ。つまり彼はただ、支た人々をも自分と同様の単なる事実と考える。したがって革 配階級が作りあげたいっさいの価値や行動の規則から自己を命者は権利を要求する人間ではなく、逆に、権利という概念 解放しようとするだけなのである。というのは、これらの価そのものを破壊する人間であり、彼はそれを習慣と権力との 値や規則は彼の行動にとっては東縛にほかならず現状 ( statu 産物として見るのである。彼のユマニスムは人間の尊厳にも quo) を維持することを本来目的とするものだからである。 とづくのではなく、逆に、人間に何ら特別の尊厳を認めない また彼は社会組織を変革しようとするのであるから、「神ー のであり、彼がいっさいの同族と彼とを一つにしようとする がその創設を司ったという観念をまず斥けなければならぬ。 一致は、人間の支配としての一致ではなく、人間という種と もしも彼がこれを事実と考えるにしても、それはただ、このしての一致なのである。あるのは正当化しえぬ偶然的なあら 事実をもっと彼に好都合な事実に置き換えることができるとわれである人間という一つの種である。その発展の諸事情が 期待しうるかぎりにおいてである。同時に、革命の思想はユ人間の内部に一種の不均衡をもたらしたのだ。革命者の努力 マニスムである。あらゆる革命の根底には、われわれも同じ は、人間をして再び、その現在の状態の向こうに、より理性 く人間だ、という主張がある。だから革命者は、彼を抑圧す的な均衡を見出さしめるにある。種が神的権利をもつ人々を る者たちも人間だということをよく知っているのである。確もその中に含み吸収したように、自然は人間をその中に含み かに彼は彼らに対して暴力を用い、彼らの桎梏を打ち破ろう吸収する。すなわち人間は一つの自然的事実であり、人類は と努めるだろう、しかし、たとい彼らの生命の幾つかを破壊他の生物と並んで一つの種である。このような仕方でのみ革 しなければならないとしても、彼はつねにこの破壊を最小限命者は特権階級のごまかしから逃がれることができると考え にとどめようと努めるだろう。なぜなら彼には技術家や専門 る。つまり、自分を自然的なものだと知っている人間は、
ジョアも自身その抑圧によって逆に抑圧を蒙るという意味的「真理」ではなく、人間の解放のために働く人々によって 意志され、創造され、支えられ、社会的闘争を通じて獲得さ で、この哲学があらゆる人間の哲学でありうるはずだ、とい うことは本当である。なぜなら、抑圧者が被抑圧階級をそのれる具体的真理である。 権威の下に維持してゆくためには、彼は自分の身を危険にさ おそらく人は、革命者の要求の以上の分析は抽象的であ らさねばならず、自分が作り出した権利と価値の枠で自分をる、な。せなら実際に存在する唯一の革命者は結局マルクス主 縛らなければならないからである。もしも革命者が唯物論的義者であり、彼らは唯物論を奉じているのだから、と言って 神話を保持するならば、ブルジョアの青年は社会的不正義と 私に反対するであろう。たしかに共産党は唯一の革命的政党 いう観点からでなければ革命に達することができず、それに である。そして唯物論がこの党の主義だということは本当で 達するのは個人的な義侠心によってであるが、これはつねに ある。しかし私はマルクス主義者が信じていることを述べよ 疑わしい。というのは義侠心の源は涸れうるものであり、彼 うとしたのではなく、彼らが行なっていることの内容を明ら の理性にあわず、彼自身の状況を説明しない唯物論を丸呑み かにしようとしたのであった。そして共産主義者たちとの接 にすることは、彼にとっていっそう大きな試練となるからで触そのものが私に、彼らのマルクス主義と言われているもの ある。しかし一度革命的哲学か明らかにせられるならば、自 ほど変化が多く抽象的で主観的なものはないことを教えたの 己の階級のイデオロギーを批判したブルジョア、自分の偶然だ。ガローディ氏の素朴で安易な科学万能主義とエルヴェ氏 性と自由とを認め、この自由は自由な他の人々からの承認に の哲学ほど異なるものがあろうか。この差異はそれそれの人 よって初めて保証されることを理解したブルジョアは、彼がの知性を反映しているのだ、と人は言うであろう。そしてそ ブルジョア階級のごまかしの道具立てを剥ぎとろうとすればれは本当である。しかしこの差異は何よりも特に、彼らのお するほど、そして自分を他の人々と同列の人間として認めよのおのがその根本の態度について抱いた意識の程度、また唯 うとすればするほど、この哲学こそ自分自身のことを自分に 物論的神話に対するそれそれの信仰の程度を示しているので 革語 0 ているのだということを見出すであろう。このとき革命ある。今日人がマルクス主義精神の危険を筆にし、しかもガ と的ュマニスムは、被抑圧階級の哲学としてではなく、今まで ローディのような人々を代弁者と見なすことに甘んじている これは共産主義者たちが唯物論的神話の 物真理を避けようとする人々によって踏みつけられ覆われ抑圧のは偶然ではない。 唯 せられていた真理そのものとしてあらわれるであろう。そし老朽と、新しいイデオロギーを採ることによって彼らの陣営 て真理こそ革命的なものであるということがすべての善意あに分裂あるいは少なくとも躊躇を導入することのおそれとの る人々にとって明らかになるであろう。これは観念論の抽象あいだに追いつめられているということである。優れた人々
467 解説 うとする努力より以外の何ものでもない。 この立場は決して の可能性をはらむ一つの中心である。時代は個人のなかに、 個人によって、表現されるとともに、個人は自己の時代のな人間を絶望のふちにひきずりこもうとするものではない。け かに、自己の時代をとおして、自己の立場を選ぶ。社会が人れども、すべて無信仰の態度をキリスト者流に絶望と呼ぶな 間をつくるとすれば、逆に、人間はまた社会をつくる。このらば、この立場はまさしく根原的な絶望から出発する。ま ような緊張の時点にわれわれは実存している。 た、実存主義は無神論であるからといって、神が存在しない 同じころ、サルトルはパリのクラブ・マントナンで『実存ことを証明しようとして、そのためにいたずらに精力を消耗 主義はヒュ するような無神論ではない。むしろ、実存主義に言わせれ ーマニズムか ? 』と題する通俗講演を行なった。 ば、こうだ。かりに神が存在するにしたところで、別にどう この講演は、その翌年「実存主義はヒューマニズムである』 ということはない。」 という表題でナジェルから刊行されたが、これがはからずも 無神論的実存主義のマニフェストともなった。サルトルはこ の講演の結びとして、つぎのように宣言した。「実存主義と 一九四六年、サルトルは「レ・タン・モデルヌーの七、八 は、首尾一貫した無神論の立場からあらゆる結果をひきだそ 月号に『唯物論と革命』を発表した。なるほど、すべての 革命思想の根底には、「われわれも同じ人間である。そし よて真 - つつ宀 マニズムが て、すべての人間は平等である」というヒュー 添添婚 ーマニズムといって ひそんでいる。しかし、同じくヒュ にき結 形付の も、従来のヒューマニズムは、「すべての人間は、その生 。の、が AJ 影ル女 まれながらの神的な権利のゆえに平等である」と考える。 , 一彼 ところが、サルトルの説く革命的な哲学からすれば、その はアろ。 。、にオこた ような「人間の生まれながらの尊厳」や「神的な権利 [ と 一つヴいっ 、お一こ一若あ マニズムま、、。 しすれも支配階級 いう観念にもとづくヒュ : 、、ÄJ ポまわ くずとのための思想でしかない。支配階級に属する人々は、神的 冖何、らトこ な権利を持って生まれてきたとみずから信じている人間で のなルた ルかサえ ある。彼らはそれそれ一個の人格を以てみずから任じてい 。考 ルるにる。要するに彼らは人間としての尊厳を持って生まれてい サ - っし . る。神聖な宗教がそのことを保証してくれる。人間はイマ -
7 存在と無 の方法は、いずれも適当ではありえないであろう。事実、或そっくりそのまま自己をあらわす。いいかえれば、何ものを る自由な行為のあらゆる予見不可能性のうちにあらわれると も顕示しないような、一つの好み、一つの癖、一つの人間的 ころのものを、ア・プリオリに、存在論的に、規定すること行為があるわけではない。 は、この場合、問題ではありえないであろう。それゆえ、わ 実存的精神分析の目標は、人間の経験的な諸行為を解読す れわれは、ここでは、そのような調査の可能性とその見とおることである。すなわち、経験的な諸行為のうちにふくまれ しを、きわめておおまかに指示するにとどめておこう。要する顕示を明白ならしめ、それを概念的に定着させることであ るに、われわれは、誰でも或る人間を、そのような調査の対る。 象たらしめることができる。このことは、人間存在一般に属 この精神分析の出発点は、経験である。また、その支柱 することである。あるいは言うならば、このことは、一つの は、人間が人間的人格についてもっている存在論以前的、根 存在論によってうち立てられうることである。けれども、こ本的な了解である。事実、大多数の人々は、一つのしぐさ、 の調査そのものと、その諸結果とは、原理的に、まったく存一つのことば、一つの身ぶりのうちにふくまれている指示 在論の可能性のそとにある。 を、無視するかもしれないし、それらがもたらす顕示を軽視 他方、ただ単なる経験的記述は、われわれに諸種の目録をするかもしれないが、それにもかかわらず、おのおのの人間 しか与えることができないし、われわれを「疑似ー還元不可的人格は、やはり、ア・。フリオリに、それらの表出の顕示的 能なもの」 ( 書く欲求、漕ぐ欲求、冒険好き、嫉妬、等々 ) 価値の意味を所有しており、少なくとも手引きを受けさえす の前に置くことしかできない。事実、もろもろの行為や傾向れば、彼はやはりそれらの表出を解読することができる。他 や性向などのリストを作ることだけが能ではない。さらにすの場合と同様、この場合にも、真理は偶然に出会われるので はない。あたかも人がナイル河もしくはナイジェリア河の水 すんで、それらを解読しなければならない。いいかえれば、 それらを詮索しなければならない。かかる調査は、或る特殊源を探索しに行く場合と同様、真理は、何らそれを予知する な方法の諸規則にしたがってのみ、遂行されうる。われわれことなしにそれを探求しなければならないような領域に属す が「実存的精神分析」 la psychanalyse existentielle と呼ぶるものではない。真理は、ア・。フリオリに、人間的な了解に のは、この方法のことである。 属しており、本質的な仕事は、一つの解釈学である。すなわ この実存的精神分析の原理は、「人間は一つの全体であっち、解読、定着、総括的把握である。 て、一つの集合ではない」ということである。したがって、 この精神分析の方法は、比較的方法である。事実、おの 人間は、その最も無意味な、最も皮相的な行為のうちにも、 おのの人間的行為は、明らかにされなければならない根本的
いろの野蛮がありうるし、いろいろの社会主義がありうる る。そしてこれはきわめて当然のことである、つまりもしも し、野蛮な社会主義というものさえありうるだろう。革命者それが正しい哲学でなければならないなら、当然それは普遍 が必要とするのは、人間が自分自身の法則をつくり出してゆ的であるだろう。唯物論の曖昧さは、それがときには階級の く可能性である。これがそのユマニスムと社会主義の基礎でイデオロギーであると言い、ときには絶対的真理の表現であ ある。彼は、追い剥ぎが棒をもって森の隅で待ち受けている ると言う点にある。これに反して革命者は、その革命の選択 ように、社会主義が歴史の片隅で自分を待っているとは、心そのものにおいて、特にすぐれた位置を占めている。すなわ にー・ーすくなくとも彼がごまかされていないかぎりーー思わち彼は、ブルジョア政党の闘士のごとく一階級の保存のため ない。彼は自分が社会主義を作ると考える。そして彼はすべ に戦うのではなく、各階級の根絶のために戦うのであり、社 ての権利を揺るがせ顛覆せしめるのであるから、彼は社会主会を神聖な権利をもつ人間と自然人ないし ^ 人間以下》とに 義に対して、革命的階級がそれを考え出し、意志し、建設す分けるのではなく、人種や階級の統一を、要するにすべての るという事実以外の存在資格を認めないのだ。そしてこの意人間の一致を主張するのである。彼は叡知的天界にア・。フリ オリに宿っている権利や義務によってごまかされることに甘 味で、社会主義のこの長い辛苦にみちた勝利は、歴史の中で の、また歴史を通しての、人間の自由の確認以外の何ものでんぜず、むしろそれに反抗する行為そのものの中に人間の全 もないのである。そして人間が自由であるというまさにその的な形而上学的自由をおくのである。彼は人間が自由にかっ 全的に自らの運命を引き受けることを欲する人間なのだ。か ことのゆえに、社会主義の勝利は少しも保証されてはいない くして彼の立場は本質的に人間の立場であり、彼の哲学は人 のである。それは道の一番向こうにたっている標柱のような 間に関して真理を述べるものでなければならない。しかし、 ものではなく、人間の投企そのものなのである。それを作る のは人間であり、このことは革命者が自分の行為を考える際と人は言うかもしれない、もしもそれが普遍的であるなら の真剣さにおいて著しいことである。彼は単に自分を、社会ば、すなわち万人にとって真理であるならば、それは党派や 階級の彼岸にあるものにほかならないではないか、われわれ 主義社会の達成一般に責任があると感ずるのみならず、さら は再び非政治的、非社会的な、根のない観念論を見出すことに にこの社会主義の特殊な性質に対しても責任があると感ずる のである。 なるのではないか、と。私は答える、この哲学はもともと革 かくして革命的哲学は、ブルジョアのものである観念論的命者にのみ、すなわち抑圧されている状況にある人々にのみ 思惟をも、一時は抑圧された大衆に適合しえた唯物論的神話明らかにされるのであり、この哲学が世に示されるためには をも共に超え、人間そのものの哲学であることを必要とすこの人たちが必要なのである、と。しかし抑圧者であるプル
360 はロをつぐんでいる。そして人々はこの沈黙を愚かな饒舌で 満たしているのだ。指導者たちはきっとこう考えているに違 しない、 ^ 要するに、イデオロギーはどうでもいいではない か。われわれの古い唯物論は今まで証明されてきたし、必ず やわれわれを勝利にまで導くにちがいない。われわれの闘争 は観念の上の争いではない。それは政治的社会的な闘争、人 間対人間の闘争なのだ》と。今のところ、近い将来のところ は、彼らは正しいにちがいない。しかし将来彼らはいかなる 人間を作るであろうか。彼らは誤謬の成功を教えて次の世代 を形成することによって罰を受けずにはいないであろう。も しも唯物論が革命的企図を圧し潰すならば、どうなるであろ 〈矢内原伊作〉 うか。 ( 「タン・モデルスー一九四六年 )
2 の退潮をこえて生きのびることができなかったことは当然で われるのであるから、これは歴史的現実であり、まったく つの観念には還元されえないものである。人間がそれから解あると思われるだろう。 事実、実存主義は一時姿をひそめたのである。ブルジョワ 放され、彼らの労働が自分自身の純粋な客観化となるために ジーの思惟は、マルクス主義に対していどむその一般的な闘 は「意識が自己を思惟する」ことでは足りず、物質的労働と 革命的実践が必要である。マルクスが「或る個人を、その個争に際して、カント以後の連中、カント自身およびデカルト 人が自分自身をどう考えているかによって判断できないようを頼りとしたのであって、キエルケゴールに援けをもとめる に、革命的変革の時代をその時代の自意識から判断すること気持はなかった。このデンマーク人は一一十世紀の初頭になっ ( 訳注二 ) はできない。」と書くとき、彼は、行動 ( 労働と社会的実践 ) て、人々がマルクス弁証法に、多元論、両義性、逆説を対抗 と知の異質性と同時に、行動の知に対する優先権をも示してさせることによってそれとたたかうことを思いついたとき、 いる。マルクスもまた、人間事象ま忍識冫、 。こ還元できないこすなわち、はじめてブルジョワジーの思想が防衛の立場に追 いこまれたとき、ふたたび姿をあらわす。二つの大戦の間の と、それは体験され、生産されねばならないことを主張して いる。ただ、彼は人間事象を清教徒的、神秘的。フチ・ブル階時期に於ける、ドイツの実存主義の出現はーーー少なくともャ ( 原注 ) 級の空虚な主観性と混同しようとはしなかった。彼はそれをスパ たしかに超越者を復活させようとする ースの場合は 哲学的総計の直接の主題とし、彼がその探究の中心にすえた陰険な意志に応ずるものであった。ジャン・ヴァールが指摘 のは、具体的人間、すなわち、同時に、その欲求、生活の物したことだが、すでにキエルケゴールにしてからが、その読 質的条件、その労働、つまり事物と人間に対抗しての闘争の者たちをただ単に神なき人間の不幸を見せつけるというだけ のために主観性の深淵のなかに引きすりこもうとしているの 性質、によって自己を決定するあの人間、である。 ではないか、という疑念を人に抱かせうるのである。このよ 訳注一マルクス著『経済学批判』の「序言』の中の有名な言葉。 訳注二同じく同書の『序言』。 うな罠はこの〈偉大なる孤独者〉の態度のうちに十分ひそん かくてマルクスはキエルケゴールに対しても〈ーゲルに対でいるだろう。彼は人間相互の意志疎通を否定しており、自 分の同類に影響をもたらすために、〈間接的行為〉以外の他 してもひとしく正しかった。なぜなら彼は前者とともに人間 実存の特殊性を確認するからであり、また後者とともに具体の方法をみとめなかったのである。 原注ハイデッガーの場合はあまりに複雑なのでここへもち出す 的人間をその客観的現実性のなかで把えるからである。この こン J2 はでゝない 0 ような条件のもとでは、観念論に対する観念論者の異議申立 である実存主義がすべての効用性をうしない、ヘ 1 ゲル哲学 ースその人は、大っぴらに勝負をする。彼は自分の ャス。ハ
つまり、人間は神聖な権利によって万物の帝王なのだという る革命的主題を一つにした空想的表象なのである。したがっ てわれわれは再び革命的態度の考察に帰り、それを詳しく検意味に解されなければならぬ。世界は彼らのために作られ、 討することによって、はたしてそれが神話的表象以外のもの彼らの存在は絶対的な、宇宙に意味を付与する精神にとって を何ら必要としないか、それとも反対に厳密な哲学の根拠づまったく中し分のない価値をもっているのである。客観に対 する主観の優位、並びに思惟の働きによる自然の構成を主張 けを要求するかを見なければならない。 原注これはマルクスが「フォイエルバッハ論」の中で「実践的するすべての哲学体系がもともと意味しているのはこのこと 唯物論」と呼んでいるものである。だが何故「唯物論」なのか。 なのだ。ここから当然、こういう次第だから人間は超自然的 よ存在だということになる。つまり、人が自然と呼んでいる 支配階級に属するすべての人は神聖な権利をもった人間でオ ある。上流の階級に生まれ、彼は子供のときから、自分が生のは、存在する権利なくして存在しているものの総体なので まれてきたのは命令するためであると確信する。そしてあるある。 意味で、これは本当である。というのは、命令者であるその これら神聖な人々にとっては、被抑圧階級は自然の一部で 親たちは、その後を継がせるために彼を生んだのだからであある。彼らは命令してはならぬ。他の社会にあっては、たと る。ある社会的役割が将来において彼を待っており、成長すえば奴隷が《お屋敷》に生まれたという事実は彼に神聖な性 れば彼はその中を歩んで行くだろう。将来に待っているこの格を付与するかもしれない。すなわちそれは奉仕するために 役割は、いわば彼という人間の形而上学的現実のようなもの生まれた者であり、神聖な権利をもつ人間に対して、神聖な なのだ。彼自身の眠からみても、彼は一個の人格、つまり事義務をもつ人間なのだ。しかしプロレタリアの場合はこう 実と権利との先天的 (a priori) な綜合である。同族の者から いうふうに一「ロうわけこよ 冫をいかないだろう。ごみごみした場末 期待され、必要なときに彼らの地位を高めるように定められ、 に生まれた労働者の子は支配階級のおえら方と何一つ直接に 彼は存在する権利があるゆえに存在する。ブルジョアのため関わるところがないのである。法律によって定められている のブルジョアというこの神聖な性格は知りあい (reconnais- ことの他には、彼は個人的には何一つ義務をもっていない。 sance) という儀式 ( お辞儀、名刺、挨拶状、訪問の交換等と いわゆる功績という神秘な恩寵を蒙るならば、ある事情ある いうような ) によってあらわされるのだが、彼らはこれを人制約の下で支配階級に成り上がるのを拒まれてさえもいない のだ。つまり、彼の息子あるいは孫が神的権利をもった人間 間の尊厳と呼んでいるのである。支配階級のイデオロギーは になることもあろう。したがって彼は単なる生きもの、最も 徹頭徹尾この尊厳という観念に貫かれている。人間は《被造 よくつくられている動物以外の何ものでもないのである。植 物の王》だと彼らが言う場合、この言葉は最も強い意味に、
-143 存在と無 な対象でないためには、彼の対象性が、私の手のとどかない ところにある根原的な一つの孤独を、指し示すのでなくて、 私が彼についてもっている認識冫 こよるのとは別のしかたで他 者があらわれるときの、根本的な一つの結びつきを、指し示 すのでなければならない。古典的な理論が正しく考察してい るように、およそ人体は、それが知覚されるときに、何もの かを指し示す。 renvoie 5 quelque chose 〔 auf etwas ver ・ こちらへやって来るのが見えるあの女、道をとおるあの weist 〕そして、この人体が指し示すところのものは、その 男、窓から歌声のきこえてくるあの乞食、それらは、私にと って、対象である。そのことは、疑うべくもない。それゆ人体の根拠であり保証である。けれども、古典的理論の誤謬 は、かかる指し示しが、一つの分離した存在、すなわち、カ え、私に対する他者の現前の、少なくとも一つの様相が、対 ントのいう感覚の背後に本体があるのと同様、知覚されうる 象性であるということは、たしかである。けれども、すでに 見たように、もしかかる対象性の関係が、他者と私自身とのその人体のもろもろのあらわれの背後にあるような一つの意 根本的な関係であるならば、他者の存在は、まったく単に臆識を、指示する、と考える点にある。このような意識が離れ 測的なものであるにとどまる。ところで、私の耳にはいって て存在するにせよしないにせよ、私の見ているこの顔が指し くるあの歌声が、人間の声であって、蓄音器の歌ではないと示すのは、、、 カカる背後の意識ではない。私の知覚する蓋然的 いうことは、ただ単に臆測的であるばかりでなく、蓋然的でな対象の真理をなすのは、かかる背後の意識ではない。他人 もある。また私の知覚している通行人が、一人の人間であっ が私にとって現前するのはいわば一つの双生児的出現におい て、人間そっくりのロポットではないということは、無限に てであるが、かかる双生児的出現への事実上の指し示し、要 蓋然的である。 いいかえれば、私が他者を対象としてとらえするに ^ 他人とー共なるー一対のー存在》 6 ( 希・ en ・ c 。 u e ・ るとき、その把握は、蓋然性の域を出ることなく、しかもか avecl'autre への事実上の指し示しは、本来の意味での認識 かる蓋然性そのもののゆえに、本質的に、他者の根本的な一 たといそれが、直観に類する名状しがたい曖昧な形態を つの把握を、指し示す。この根本的な把握においては、他者もっ認識であるにせよーーのそとにおいて、与えられる。 は私に対してもはや対象としてあらわれるのでなく、 ^ 身み いかえれば、「他者」の問題は、一般に、あたかも、他者が ずからの現前》 présence en personne としてあらわれるであらわれるときの最初の関係が、対象性であるかのごとく あろう。要するに、他者が蓋然的な対象であって、夢のよう に、すなわち、あたかも、他者がます最初にーー直接的にせ 対他存在